三つの詩章
@hasumiruka
第一詩章 湖
鼠色のくたびれた背広を着た中年の男、それが彼だった。
今、彼は、ぼけたような春の日差しの午後を、何という目的もなく歩いている。
仕事の合間の、ただの息抜きの散歩。
彼の渡っていた歩道橋は、相変わらず、ほこりっぽく、ゴミが散乱していたが、彼は、もちろん、今さらそんなことに気づきもしなかった。それどころか、彼は自分が歩道橋の上にいることさえ、ほとんど気づいていない。
しかし、彼が、今夜の約束を楽しみにしていようと、営業成績が伸びないことを気に病んでいようと、とにかく間違いなく、今、彼はそこにいた。
彼がふと手すりによりかかったのも、何か意味があってのことではない。ほとんど気づきさえしなかった。だから、そのよりかかった手すりがはずれ、彼のからだが宙に投げ出された時も、彼は、ただ茫然としていた。
ただ、明るく澄んだ青空が胸もとまではねあがるのが見えただけだ。そして……
そして、彼は、突然、湖を前にしていた。
湖は暗く、すみきっていて冷たかった。太陽はとうに沈んでいたが、残り日は、うす蒼い湖面に白く、ほのかなさざ波を見せていた。
立ちつくす彼は、八歳か九歳ぐらいの少年だ。
頬は透き通るように白い。
湖の底からわき上がってくるような、透明な風が、葦をかすかにざわめかせ、彼の体を切るような冷たさで貫いた。
冷たく透きとおった湖の水は、砂地に立つ彼の素足を静かに洗っていた。彼を誘うように揺れ動きながら。
魅入られたように湖を見つめている彼と、歩道橋の上の彼との間には、何の共通点もない。時間も場所も遠く離れている。
それでいて、どちらも、まぎれもない彼だった。
彼にとって、歩道橋を歩くことが当然だったように、今、湖を前にしていることも当然だった。感じられるものをすべて感じ、捉えられるものをすべて捉えるかぎり、そこには何の不自然さもない。
湖はいよいよ暗く、絹系のような波が、わき出ては、また消えた。湖は空の色を反映して、紅から紫へと微妙な色合いを見せている。湖の中ほどに、明るい緑色をした帯がまるで道のように、紫と赤を二つに分けて彼の前に横たわっていた。その道はまっすぐに向かいの大きな森のシルエットへと続いている。
彼は、その緑の道に足を踏み出した。何も考えていなかった。
彼の目は、ただこの結晶したような美しい世界を葦の葉の一本一本まで映し出し、彼の耳にはどんな小さな風のそよぎも聞こえていた。
彼の鼻は、葦の乾いたようなふくよかな香りを感じていたし、彼の体は湖水の凍るような冷たきを感じていた。
それだけのことだ。彼が歩き出したのは、彼にとってそれが当然だからというだけのことだった。熟れた林檎が、やがて、木から落ちるように。
まさしく、この一瞬、百億年の時が流れたのだった。
そして、突然、コンクリートの地面。
「おい。どうしたんだ。この人だかりは」
「人が落ちたんだとよ。あの歩道橋から」
「あの医者、首ふってるぜ、だめらしいや」
「まったく、ついてないやつだな」
「歩道橋の手すりが壊れたみたいだな」
「お、警官が来たぞ。明日の新聞にでるかな」
「でないよ、中年のおっさんがひとり死んだぐらいじゃ、ニュースにもなんないだろ」
時はいつもこんなふうに流れていく。やがて、タ闇があたりに舞い降りるころには、人だかりはなくなり、何が起きたかさえ、人々は忘れてしまう。
誰も知ることはない。もはや誰もいない蒼い冷たい湖と、その岸辺にころがった、小きな緑の靴を。
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