流星の魔法使い(改訂版)

種田和孝

第一章 宿命の輪

 闇夜に沈む石切り場。木魂が響き、手が痛む。私の頭上で輝き続ける真白の光球。その正体を一目で見抜ける者などもういない。

 それにしても、何と無機質な冷気だろう。深く削りこまれた石の山。広く平らげられた石の原。かの巨人もこのような景色の中で独り黙々と石臼を回し続けているのだろうか。

 それにしても、何と心休まる静寂だろう。戦場から遠く離れたこの谷間には私一人。感性の狂った者や感情を失った者は見当たらず、怨嗟の声も届かない。

 しばらくした頃、背後に気配を感じた。聞き覚えのある足音、馴染みのある声。振り返って一瞥すると、やはり仮面の額に刻まれた番号は七十三。その象嵌の一部は欠けていた。

「何もあなたがそのようなことまでしなくても」

 大隊長はそのように静かに声を掛けてきた。私は槌と鑿を脇に置き、おもむろに大隊長に向き直った。

 大隊長も全身を覆う戦闘服姿。手近な岩に腰を落ち着け、総面を外して素顔を見せた。山間の石切り場は冷え込んでいた。

「私は慙愧の念に堪えないのです。非正規隊員のあなたにあそこまでさせてしまって」

 私はその言葉に特に応えることなく水筒を手に取り、二つの杯に冷え切った緑茶を注いだ。大隊長は一つを受け取ると、大切そうに両手で包み込んだ。温熱魔法の微かな気配。大隊長の杯から湯気が立ち上った。

「戦況は」と私は尋ねた。

「全ての戦闘は終結しました。戦闘員にもその他にも死者は無し。負傷者は全員すでに完治。つまり当方の完勝です」

 その言葉に私は安堵した。

「あなたに尋ねたいことがあります」と大隊長は言った。「ちなみに、この件はあなたと私と大統領、三人だけの極秘事項です」

「大統領は来ないのですか。三人だけの極秘事項なら、三人揃った方が良いのでは」

「今や行政官たる大統領の方が忙しいので。男は抜きにして女同士の方が話しやすい事柄もあるでしょうし。それに」と大隊長は薄い笑みを浮かべた。「ここは辺鄙すぎます」

 大隊長は緑茶を一口飲んで白い息を吐くと、射貫くような視線で私を見詰めてきた。

「私は、私だけはあの現場を見てしまった。あれはどのような技術なのです」

 私は手にした杯に視線を落とし、フフンと鼻で笑った。

「あんな魔法は見たことも聞いたこともありません。実は今、あなたを前にして私も少々怖いのです」

 私の感性も今やかなり擦り切れ、ひずんでいる。私はふとそう感じて、鼻で笑うのは自重した。どう考えても、怖いはお世辞のたぐい。いざ戦場に立てば、大隊長も中々に冷徹な魔女と化すのだから。むしろ、そうでなければ大隊長など務まらない。

「私は嗜虐の徒ではありません」と私は断りを入れた。

「それは承知しています。そして申し訳ありませんでした。本来、私を始めとする正規隊員が行なうべきだったのです」

「良いのです。殺戮の凶魔とのそしりに頭を悩ませるのは私一人で十分です」

「いいえ」と大隊長は首を振った。「私たち常設警邏隊の誰一人として殺戮の凶魔ではありません。私たちは巻き込まれたのです。私たちが介入しなければ、かの地は荒廃し尽くしていました」

 私は目を細めて数回頷き、全面賛同の意を示した。

「それで、あの技術ですが……」

「光裂術。破魄術」

 私の簡潔な返答に、大隊長は怪訝そうな表情を浮かべて小首を傾げた。

「器を切り裂き、基礎精気の自己組織化を解く」

 大隊長がビクッと息を詰めた。私はおもむろに補足した。

「畑の麦を一気に刈り取る。そんな使い方も出来ますね」

 大隊長はふと気付いたように辺りを見回し、「まさか」と言った。

「この大量の岩もあなたが一人で切り出したのですか。こんなに硬い岩をこんなに綺麗に」

 私が薄い笑みを浮かべると、大隊長は白い息を大きく吐いた。

「光をもって物を切り裂く。そんな魔法が可能とは……。あなたはいわゆる……」

 私は黙って杯に口を付けた。

「あなたの力は強大すぎます。ですから、あなたがどのような人間なのかを把握する必要があるのです。あなたはこれまでどのような生を送って来たのです」

「生命学専攻に通報は。あの者たちは果てしなく煩わしい」

「まさか」と大隊長は軽く笑った。「あんな者たちに手出しや口出しなどさせません」

 先日聞いた話によれば、大隊長は四百歳を越えた所。現隊員の中では私に次ぐ年長者。人手不足の噂を耳にして私が臨時に入隊した際、大隊長は私の年齢に気を遣ったのか、私を自分専属の後方支援員に任命した。その結果、私の正体に一人気付いてしまった。

 嫌いな人物ではない。むしろ、どちらかと言えば気の合う方。

「良いでしょう。ただし聞くのなら、どれだけ時間が掛かろうとも最後まで聞くこと」

「はい」と大隊長は丁寧に頷いた。

「まず言っておきますが、私の力は強大ではありません。標準魔法も使い方次第で同等の威力を発揮します。それは大隊長も知っているはず。大隊長の灼熱の津波も中々のものではありませんか」

 大隊長は私の心中を窺うかのように私を見詰めていた。

「私はかつて……」

 その時、風が吹き抜け、狼の遠吠えが聞こえた。臆病な狼たち。こんな夜中に珍しくも石切り場に明かりが灯っているのを眺めているのだろうか。

 私は言葉を切ってしばらく考え、ふと思い付いた。

「いや。やめましょう」

 大隊長はエッと声を漏らし、拍子抜けしたような表情を浮かべた。

「ここでは到底語り尽くせません。もし一つ約束をしてくれるのなら、私の残りの人生を懸けて、ぼちぼち話してあげましょう」

「約束とは」

「私が死んだら、大隊長が私の肉体を骨も残さず焼き尽くしてください」

 大隊長は驚きをあらわにした。

「待ってください。死ぬつもりですか」

「いずれその時が来たらという話です。大隊長の方が若いのですからね」

 大隊長は安堵らしき溜め息をついて、「分かりました」と言った。

「今回の事態が鎮静化した暁に、ゆっくりと聞かせていただきます」

 私にこのように興味を示してくれる者が現れるのは本当に久し振りのこと。私の正体に勘付くと、多くの者は私をそれとなく避けるようになる。近しい者ほど忌避するようになる。残りの人生はこの大隊長を話し相手にのんびり過ごそう。この戦友なら私に手を貸してくれるだろう。

「大隊長にも年齢なりの見識があるのは間違いないのでしょうが、これから大統領と共にあちらとの交渉に臨むのでしょう。ですから、余計なお世話かも知れませんが、敢えて言います。歴史と社会が語られる時には、疑うことを忘れてはなりません。歴史と社会が力説される時には、考え違いや見落としや誤り、思惑や嘘が紛れ込んでいないかを考え抜かなければなりません」

「それなら、あなたも来てください。あなたはまだ私の後方支援員です」

 私は頷くこともなく、首を振ることもなく、薄い笑みを浮かべるにとどめた。

 私はようやく大隊長の本音を理解した。私の見るところ、大隊長は実直な人物。虚実の入り乱れた交渉が予想される中、少しでも補佐や助言を期待できないかを探りに来た。

 しかし、私は誇れることばかりをしてきた人間ではない。抜け駆け、逸脱、お人好し。挙句に私はそしられる。それは分かってはいたけれど、壊滅の危機だけは座視できなかった。でも、もうやめたい。終わりにしたい。重すぎる。

「大隊長」と私は噛んで含めた。「大統領は見掛けによらず権謀術数に長けています。そもそも、そういう人間でなければ大統領など務まりません。そこにあなたの実直さが加われば、交渉は必ず上手く行きます」

 大隊長は溜め息をつき、再び「それなら」と切り出した。

「合間を見て、また歌を聞かせてください。夜の野営地で聞かせてくれたあの歌。あなたの落ち着いた歌声に癒された隊員も多いのです」

 忘れ去られた歌。三方を山に囲まれた大平原。決して豊かではなかった。楽しいことばかりでもなかった。それでも懐かしい私の原風景。

「良いでしょう。ただし、あれは吟遊詩人の真似事にすぎませんよ」

 大隊長が晩秋の夜空を飛び去って行った。

 私の宿命。魂に染み付いた衝動。自分のことながら、その愚かさには呆れるばかり。私は再び槌と鑿を手に取り、自戒の警句を刻み始めた。いいかげんにしろよ。いいかげんにしろよ。いいかげんにしろよ。いいかげんにしろよ。

 

◇◇◇◇◇

 

 家事と勉強、時々読書。近隣の村の農耕組合で働かせてもらって小遣い稼ぎ。そんな単調で鬱々とした夏休みも終盤に差し掛かったある日のこと、出頭命令が降って湧いた。国の長たる大統領からの直々の呼び出し。その緊張を紛らわそうと、僕は独り朝の空を勝手気ままに飛び回っていた。

 大障壁を東から西へ越えると緑豊かな原生林。所々に野原と小川と池と獣。四方を見回すと、そんな高原をぐるりと囲む山また山。東の山の向こうにはエスタスラヴァ王国が、南の大山脈の向こうにはスルイソラ連合国がある。

 中等学院生になって初めての夏休み。同級生の皆は行ってみたはず。でも、僕にその機会は無かった。そして、最後になって大統領に呼び付けられる。気晴らし、憂さ晴らしと呼ぶには大きすぎる出来事。

 そんなことを考えながら、ふと下方を見ると一頭の白狼。僕を追い掛けるように草原を駆けていた。僕が地上に降り立つと、白狼は尻尾を振りながら駆け寄ってきた。僕にはこの白狼しか遊び相手がいなかった。

 白狼としばらくじゃれ合った後、僕は再び空に舞い上がった。飛翔魔法で森林を越え、大障壁を西から東へ越え、人の住む地の上空を首府の街まで。行先は大統領府の大統領執務室。本日正午前に出頭せよとの連絡を受けていた。

 大統領府の建屋は重厚な木造建築。足を踏み入れるのは初めてのことだった。受付の人によれば大統領執務室は三階。僕は歴史の重みを感じながら階段を上り、廊下を進んだ。手すりからも床からも明瞭に伝わる堅牢さ。国の中枢たる厳かな雰囲気。僕はわずかに委縮し、大いに感銘を受けた。

 部屋の扉を軽く叩き、「ケイ・サジスフォレです」と声を掛けると、「入れ」と簡潔な指示が聞こえてきた。

 室内中央には寝台としても使えそうなほどに巨大な執務机が鎮座し、その向こうに大統領はいた。大統領との面会はあの事件以来二年振り。僕は机を挟んで大統領の前に立った。

「ケイ・サジスフォレ。エスタスラヴァ王国との包括通商交渉に随行員として同行せよ」

 唐突な指示に、僕は呆気にとられた。

「包括通商交渉って、来週のやつのことですか。僕の父も加わることになっている」

 大統領の目付きが鋭くなった。大統領は無言で僕を睨み付けてきた。

 延々と沈黙が続いた。徐々に居心地が悪くなってきた。でも、目を逸らしてはいけないような気がした。この人は一体何を考えているのだろう。それにしても長い。どれだけ僕を睨み続ければ気が済むのだろう。

 僕はふと気付いた。お前は簡潔さに欠ける。単刀直入ではない。もしかしたら、そんな意味。僕は耐え切れなくなって口を開いた。

「僕が同行する理由は何でしょうか」

「子供が通商交渉の役に立つ訳があるまい」

 僕の余計な言葉に黙り込んだ割には、大統領も随分と回りくどい話し方をするではないか。そう思って僕は微かに眉をひそめた。

「僕は何をすれば良いのでしょう」

「いざとなったら、大声を上げて帰ってこい」

 僕は唖然とした。しかし、大統領は僕を冷徹に見詰めていた。僕が大声を上げる。本当にそんなことをしても良いのだろうか。そして、帰ってこいとは。

「ソルフラムさんは行かないのですか?」

 大統領は机の引き出しから何かを取り出した。受け取ってみると、見慣れない硬貨一枚。

「餞別代りだ。あちらに着いたら、それで何かを買うのだ」

「餞別とは」

「私はじきに大統領を退任する」

 好意による小遣いと言うよりも、必ず何かを買うべしとの命令。大統領の口振りから僕はそう判断した。

「現在、私は大統領である。それは理解しているな」

 当然の主張に呆気にとられ、僕はとにかく「はい」と相槌を打った。

「つまり退任するまでは、私の命令が最優先である」

 またしても持って回った話し振り。

「ケイ・サジスフォレ。見るべきものを探せ。以上のこと、他言無用、報告無用」

 大統領はそう言うと、一枚の紙を僕に差し出した。包括通商交渉の随行員に任ず。日付、大統領の署名。どうやら正式な命令書のようだった。僕は訳が分からないまま黙って頷き、命令書を手に大統領執務室を後にした。

 

◇◇◇◇◇

 

 国境の山々を抜けると広い空があった。振り返ってみると、緑の木々に覆われた山並み。そこに切れ目のように入った一筋の渓谷。僕たちは谷底を流れるフレクラント川を下ってきた。改めて前方に目をやると、筏の船団。それぞれの筏には大きな積み荷と船頭さんが一人ずつ。最後尾の筏には、僕と父とジランさんが同乗していた。

 フレクラント国を出発したのは今朝のこと。そして今は午後。船頭さんは、今日は水量が多いから流れが速いと言った。速さが嬉しい。速いほど操縦が楽しい。森林木工組合から臨時に駆り出された船頭さんの口振りはいかにも上機嫌だった。

 数日前、行きは筏と聞いた瞬間、僕は拍子抜けしてしまった。てっきり、大空を飛んで東の山々を越えるのだと思っていた。ところが父の説明。

 筏の材料は高級木材。フレクラント国は国内の森林を守るため、原則的に他国へは木材を輸出していない。しかし、今回は十年に一度の通商交渉。手土産の一つとして持参する。

 そんな事情では仕方が無い。それに確かに、川下りは川下りで貴重かつ爽快な経験だった。それにしても、まさかこんなに早く着いてしまうなんて。他国へ行くことがこんなに容易だったとは。

 そう思った時だった。ジランさんがのんびりとした口調で、初めての異国への旅、初めてのエスタスラヴァ王国の感想を尋ねてきた。

 不意のことに僕は驚いた。ジランさんとは初対面。今朝、筏の出立場で挨拶を交わして以降、僕とジランさんの間に特に会話は無かった。父よりもはるかに年長の、いかにも気の強そうな女性。やはり、ジランさんも僕のことを敬遠しているのだろうか。僕はここまでずっとそんな風に思い続けていた。

「フレクラント高原の外は初めてなんですけど、いきなり自然精気が薄くなりましたね」

「そうですね。その点は注意をするように」とジランさんは頷いた。

「それから、この景色には何となく見覚えがあるような気がします」

「既視感ですか。良くある話です」

「この先はずっと平野で、その向こうは海ですよね」

 その時、父が口を挟んできた。

「もうすぐヴェストビークだ。上陸の準備を始めろ」

 川幅が広がり、北側に入り江が見えてきた。その奥には街。ヴェストビークの船着き場が迫ってきた。船団の前方三分の二は流れに乗ってさらに下流の王都ブロージュスへ、後方三分の一は流れを外れて船着き場へ。船団が二手に分かれた。

「さあ、行こう」

 父はそう声を発すると、飛翔魔法を発動して筏から飛び上がった。次いでジランさん。僕も急いで背嚢を背負い、船着き場へ向かって宙を飛んだ。

 川岸には桟橋が並び、それに隣接する陸地はちょっとした広場になっていた。その隅には、荷物を受け取りに来たと思われる人たち。僕たちも広場の隅に着地し、荷揚げの作業を見守り続けた。

 船頭さんが筏に浮揚魔法を掛け、筏ごと広場に陸揚げする。次いで、筏と荷物に掛けられていた硬化魔法を解除する。そのようにして次々に筏が陸揚げされ、そこに街の人たちが整然と群がっていった。

 一見、装いにせよ言葉にせよ、街の人たちは僕たちフレクラント人と大差無いように思われた。しかしここまでの道中、父は僕に説明を続けていた。いわく、エスタスラヴァ人は僕たちフレクラント人とは物の考え方が違う。それは社会制度の違いに起因していると。

 そんなことを思い返していると、すぐそばから「もし」と男性の声が聞こえてきた。見ると、上等な身なりの男性。真夏だというのに少々暑苦しく見える服装。

「皆様はフレクラント国通商交渉団の方々でいらっしゃいますか」

 ジランさんが「いかにも」と答えると、男性は安堵したような表情を浮かべた。

「私はエスタスラヴァ王国、西の大公ヴェストビーク家で家令を務めておりますアルフ・トロンギャアンケと申します」

「私はリゼット・ジラン。フレクラント国副大統領、フレクラント国南地方中統領、通商交渉団の代表者」

 ジランさんの名乗りに、家令さんは背筋を伸ばした。

「ジラン閣下。お初にお目に掛かります。どうかお見知りおきを。そして……」

 家令さんの視線が父に向いた。

「私はクレール・エペトランシャ・サジスフォレ。フレクラント国西地方の副中統領、ルクファリエ村の統領です」

「サジスフォレ卿。お初にお目に掛かります。どうかお見知りおきを。そして、そちらのお嬢様は……」

 家令さんの視線が僕に向いた。僕は呆気にとられた。父とジランさんの顔にも困惑の表情が浮かんだ。

「ケイ・サジスフォレ。男です」

 僕の返答に、家令さんは慌てる気配を見せた。

「これは失礼しました。どうかお許しください」

 そんなやり取りをしている間にも荷物の受け渡し作業は順調に進み、早くも広場から人が去り始めていた。

「さて皆様方」と家令さんが声を掛けてきた。「お屋敷まで御案内いたします。すぐそこですので、このまま歩いて参りましょう」

 家令さんが丁寧な所作で方向を指し示すと、ジランさんは笑みを浮かべて鼻で笑った。予想に反して随分とあっさりした出迎え。僕は疑問を感じた。

 船着き場を抜けると商店街。僕は初めての光景に目を見張った。この街の建物には石や煉瓦が多用されているようだった。さらにそれ以上に目を引くのは人の数。ここまで華やかに賑わう商店街など見たことがなかった。

「ケイ」

 父の声にハッとした。少し離れた所で父が振り返っていた。慌てて父たちに追い付くと、家令さんが話し掛けてきた。

「ヴェストビークの街はどうです。ここまで大きな街を見るのは初めてですか」

「はい」と僕は率直に認めた。

「それならば良い機会です。ぜひとも街のあり方というものを学んでいってください。ところで、肉屋を覗いておられたようですが、ケイ殿は肉が好物ですか」

「はい」と僕は一応肯定した。

「ケイ殿はおいくつです」

「十二歳です。もうすぐ十三歳になります」

「育ち盛りですね。ヴェストビークには様々な燻製肉が揃っておりますし、どれもこれも美味しいですぞ。ぜひとも試してみてください」

「はい」と僕は愛想を返した。

 燻製肉は目新しくない。生肉の無い方が目新しい。学院で教えられた通り、確かにエスタスラヴァ人の魔法能力は低いのだろう。特に一般民は弱い自己治癒魔法程度しか使えないと言う。硬化魔法を使えれば、状態を固定して損傷や腐敗を防げるのに。

 良く見ると、ヴェストビークの街は規模こそ大きいものの、あちらこちらに牛車や馬車。その景色はどことなく泥臭い。僕たちなら大抵の物は浮揚魔法で飛ばしてしまうのに。

 その時、僕はふと思って、念のために尋ねた。

「家令って、どういう立場なんですか」

 家令さんはどことなく自慢げにフフンと鼻を鳴らした。

「大公家は主家の皆様と、使用人と、使用人の家族からなる大きな家です。その大きな家全体が日々滞りなく動くよう差配するのが家令です」

「つまり、大公様に任命された、大公家内の運営責任者」

「その通りです」と家令さんは力強く答えた。

 商店街を貫く大通りを歩き続けてしばらくすると、立派な塀と大きな門が迫ってきた。ようやく、大公家のお屋敷に到着したようだった。

 門を抜けると、綺麗に整えられた庭園、その先には母屋らしき建屋。その大きさに僕は正真正銘驚いた。石作りの三階建て。しかも、二階と三階の窓の位置から考えて、各階の天井は信じられないほどに高いに違いない。

 正面玄関から中に入ってさらに驚いた。これが噂に聞く大貴族のお屋敷。屋内の装飾はどれもこれも精緻、いかにも高級。下手に触れて壊してはならない。そんな風に慎重に階段を上り、廊下を歩き続けると、先頭を行く家令さんが二階のとある部屋の前で立ち止まった。家令さんが扉を軽く叩くと、中から女性の声が聞こえてきた。

 執務室らしき部屋の奥、立派な机の向こう側に女性はいた。艶やかな黒髪、整った顔立ち。いかにも上等そうで機能的な服装。おそらくこの女性が大公様。

 家令さんが部屋を後にすると、大公様は椅子から腰を上げて満面の笑みを浮かべた。

「リゼット様。お久し振りでございます」

 その声に惹きつけられるように、ジランさんが前に進み出た。

「アイナも元気そうで。当主の座を引き継いだと聞いていましたが、立派になりましたね」

 僕は唖然とした。これまでとは全く異なり、ジランさんの声は明るく弾んでいた。

「おかげさまでつつがなく過ごしております。それで、そちらの方々は」

 その瞬間だった。大公様の視線が僕に留まった。突然の凝視。僕はわずかに怯んだ。

「アイナ。どうしたのです」

 大公様は我に返ったようにジランさんに目を戻すと、「いえ。何でも」と答えた。

「今回は十年に一度の包括通商交渉。まずは正式に自己紹介をいたしましょう。私はエスタスラヴァ王国、西の大公ヴェストビーク家の当主、アイナ・ヴェストビークです」

 父とジランさんが会釈をした。それに倣って僕も頭を下げた。

「それでは私も」とジランさんが続いた。「私はリゼット・ジラン。フレクラント国の副大統領、フレクラント国南地方の中統領、今回の交渉団の代表者です」

 大公様の顔に笑みがこぼれた。次いで、大公様は「そちらは」と父に続きを促した。

「私はクレール・エペトランシャ・サジスフォレ。フレクラント国西地方の副中統領、ルクファリエ村の統領を務めております。そしてこれは私の息子、ケイです」

 僕が神妙に会釈をすると、大公様も笑顔で頷いた。

「あのう」と僕は切り出した。「飴ちゃん、舐めます?」

 大公様は一瞬、呆気にとられた表情をすると、「いえ」と首を振った。

「今は遠慮しておきます」

 大公様は父とジランさんに目を遣った。

「それでは皆様。早速、会議室の方へ。通商上の問題点の確認を始めましょう」

 そして、僕は独り一行から追い出された。奇妙な違和感。何かがおかしい。何かが間違っている。僕はそんな感覚にとらわれ続けていた。

 

◇◇◇◇◇

 

 使用人の女性は階段を一つ下り、二つ上り、僕を三階に案内した。やはり、三階の廊下にも控え目で落ち着いた装飾。しかし、建屋の構造は二階以下とは明らかに異なっていた。歩く先を見ても、振り返ってみても、廊下の先には頑丈そうな壁。多分、壁の向こうにも廊下が続き、そこには大公家の方々の居室などが並んでいる。

 連れていかれた先は客室だった。室内には様々な調度品。ゆったりとした寝台が二つ。と言うことは、ここは父と僕の男部屋。女性のジランさんには多分隣室辺り。使用人の姿が消えた瞬間、僕は靴を脱いで窓際の寝台に寝転がった。

 今日これまでに起きたことは、どれもこれも意外、ある意味では異様。僕にはそう思われて仕方が無かった。

 家令とは大公家の使用人。船着き場で僕たちを出迎えたのは大公家の使用人一人だった。十年に一度の包括通商交渉の出迎えが、なぜこの地の政庁の幹部ではないのだろう。まるで、こちら側が貢物を差し出して交渉していただいているかのような軽い扱い。話に聞いていたのとは全く違う。これが国対国の力関係の実態なのだろうか。

 王都へ向かった船団には、フレクラント国東地方の中統領と北地方の中統領、南地方の副中統領と中地方の副中統領が乗っている。あちらもそろそろ王都に到着する頃合い。もしかしたら、王宮へ向かっている所かも知れない。

 また、あちらにはフレクラント国内の各中等学院から一人ずつ、合計五人の六年生が随行している。王都では王家の方々と懇談し、その後、エスタスラヴァ王国の中央政庁や高等学院を見学する予定になっているとのことだった。

 一方、こちらには副大統領のジランさん、西地方の副中統領の父、中等学院一年生の僕。国対国の交渉なのに、なぜ交渉団中最上位のジランさんがこちらにいるのだろう。

 今回の日程は二泊三日。その間の僕の予定は空白。先ほどジランさんには「街を好きに見学せよ」と言われたが、大統領の指示はそんな一般的な事柄とは異質な気がする。大統領は僕に向かって、いざとなったら大声を上げろと言ったのだから。

 僕は寝台の上で寝返りを打ち、「意味不明」と呟いた。

 頼み込んででも、王都へ行けば良かった。あちらは男女混合の多人数。しかも様々な行事が予定されている。一方、こちらは父と一緒、父と相部屋。何という気詰まり。あの事件以降の二年間、僕と両親の間にまともな会話が成立したことなど一度もないのに。

 それにしても、サジスフォレ卿。まさか父が卿と呼ばれるなんて。さらにはジラン閣下。副大統領ともなれば、ここでは閣下と呼ばれる模様。フレクラント国とは異なり、エスタスラヴァ王国には厳然として階級が存在する。そのことを僕は初めて事実として認識した。

 僕はてっきり、ジランさんは寡黙な人なのだと思っていた。なのに、大公様と話すあの様子。饒舌さの片鱗を見たような気がした。エスタスラヴァ王国には時折足を運ぶものの、西の大公家を訪れるのは数十年振り。ジランさんは筏の上で父に対してそんなことを言っていた。しかし、あの様子から考えて、ジランさんと大公様は相当親しい間柄に違いない。

 僕は寝台から起き上がり、部屋履きをつっかけて窓に歩み寄った。

 北向きの窓。窓を開け放つと夏の生暖かい風。眼下の裏庭には使用人用と思われる多数の家屋。その先には敷地を囲う塀があり、その向こうには街の家々が立ち並び、さらに先には田園地帯が広がっていた。

 裏庭の人影は疎らだった。北の裏門から荷物を搬入する人。裏庭に点在する建屋を行き来する人。のんびりと歩いている者など一人もおらず。いや。良く見ると一人だけ。頭の天辺から肩までを花柄らしき大きな布で覆った小柄な姿。服装から考えて多分女の子。夏のさなかに、なぜあんな暑苦しい格好を。

 その時、強めの風が吹き抜けた。布が風をはらんで頭から外れた。その姿に僕は思わず目を凝らしてしまった。頭髪が無い。もしくは極端な短髪。そこに正体不明のまだら模様。しかし、女の子はすぐに布を被り直し、結局遠目に状況は良く分からなかった。

 これがエスタスラヴァ王国西部の最高位、西の大公家の日常。一種不穏な光景に、僕は首を傾げてしまった。

 大統領は「見るべきものを探せ。他言無用、報告無用」と言った。あそこまで強調する以上、探し尽くせという意味なのだろう。報告無用である以上、それは僕個人に有意義という意味なのだろう。

 ただし、いざとなったら大声を上げて帰ってこい。いざとなったらとは重大事に直面したらという意味。そこで敢えて上げる大声である以上、それは周囲への威嚇のたぐい。魔法以前の野生の力。ほとんどの人は持っていない。でも、僕は持っている。大統領も。その大統領が僕に向かって、破壊的に使えと言う。よほどのことなのは間違いない。

 それならとにかくと僕は思い立ち、お屋敷を出て街を回ってみることにした。

 

◇◇◇◇◇

 

 太陽が西の山に隠れようとする頃には戻ってくるようにと使用人は言った。案内人を付けるとの執拗なまでの申し出を僕は丁重に断り、商店街を歩き回ること約二時間。初めて他国に来たのだから何か記念の品をと思い立ち、ようやく二つの商品に目星を付けた。一つは合成石製の鉈。もう一つは手のひらに収まる大きさの方位磁石。

 やはり、魔法使いと言えばまずは鉈。自分の物はいずれ自分でと思っていた。また、方位磁石は格好が良い。見知らぬ空を飛ぶ際の必需品でもある。しかし、手持ちのお金ではどちらにも手が届かなかった。あとは大統領から貰った見慣れない硬貨の価値次第。

 刃物店に戻り、思い切って店主に声を掛けてみると、店主は訝しげに首を傾げて主張した。当店での支払いはエスタスラヴァ通貨のみ。フレクラント通貨は受け付けない。また、もう一つの硬貨は見たことがない。まずは信用組合へ向かうべし。

 あっさりと売買を拒否され落胆した。見慣れない硬貨はエスタスラヴァ王国のものではない模様。僕は気を取り直して、店主から聞いた信用組合へ向かうことにした。

 初めての道を何度か迷いながら信用組合にたどり着いてみると、各窓口には列が出来ていた。預け入れ、引き出し、融資、両替、その他の相談。僕は両替の列に並びながら、周囲の様子を窺い続けた。するとしばらくした頃、小声ながらも明瞭に聞こえてきた。

「勘弁してください。現在、引き出しは当座の資金のみ。御当主にそうお伝えください」

 見ると、客の方は西の大公家の家令さんに良く似た雰囲気の人。窓口の係員はちょっと立場が上のように見える人。「現在、当座の、のみ」という多重の限定が気に掛かり、僕は店内を注意深く観察した。どうやら、お金の引き出しが多い模様。次いで、手持ちの現金をフレクラント通貨に交換しようとする人。通商交渉と関係があるのだろうか。

 程なく僕の番が回ってきた。

「この硬貨をエスタスラヴァのお金に交換するといくらになりますか」

 係員は僕が差し出した硬貨を手に取ると、「んん?」と鼻を鳴らした。表と裏を何度か確認した後、背後に向かって「主任」と手を振った。

 窓口にやって来た主任も眉をひそめて首を傾げた。

「君はこれをどこで手に入れた」

「知り合いの人が、これで何かを買えと言って……」

「君はどこから来た。知り合いってどんな人」

 その瞬間、僕は気付いた。横柄な物言い。僕だけは身元の確認。僕は軽くあしらわれている。素性を疑われている。僕が「返してください」と手を差し出しても、主任は僕の様子を窺うばかりで中々返そうとしなかった。ここは厳然として階級が存在する国。舐められてはいけない。僕は強く出た。

「おかしいじゃないですか。なぜ、『これはいくらになるのか』への返事が『お前は誰だ』になるんです。言葉が通じないんですか」

 僕の強めの抗議に店内が静まり返った。主任は慌てたように周囲に目を遣った。僕は主任の手にある硬貨に浮揚魔法を掛けてもぎ取った。

 人込みを縫って店外へ出ると、主任が追い掛けてきた。

「君はフレクラントから来たのか」

「それが何か」と僕はぶっきらぼうに肯定した。

「いずれにしても、君が持ってきた硬貨はここでは扱えない。使えるお金に換えたかったら、古物商辺りに行くしかない」

 主任は「あそこなら信用できる」と言って、少し離れた所にある店を教えてくれた。古物商へとの推奨に訝しく思いながらも、僕は不快感を抑えて軽く礼の言葉を述べ、再び商店街を歩き始めた。

 ふと見ると、日はかなり傾いていた。西の山に隠れるというほどではないが、これからも一悶着、二悶着とあるようなら、時間切れは必至。僕は諦めて西の大公家へ戻ることにした。

 

◇◇◇◇◇

 

 客室には父の姿があった。今日の仕事は済んだ模様。父は寝台に腰を掛け、杯を手にお茶らしきものを飲んでいた。

「もうすぐ夕飯だ。歓迎の晩餐会を開いてくれるそうだ。綺麗な服に着替えろ」

「交渉の具合は」と僕は尋ねた。

「大丈夫だ。多分、予定通りに終わる」

 僕は安堵した。予定は二泊三日。父と二人きりの状況は長くは続かない。

「交渉相手はあの大公様?」

「違う」と父は苦笑した。「九人だ。大公様以外に西部政庁から八人」

「二対九?」

「違う」と父はさらに苦笑した。「一対九だ。ジランさんはほとんど口を開かない。全部、俺にやらせるつもりだ。と言っても、相手方最年長の執政にしても俺より若いから、特に手ごわくはないが」

「執政って……、執政が一番上の立場の人?」

「立場上は大公様が一番、執政は二番。フレクラントで言えば、大公様は中統領、執政は副中統領だ。ただしフレクラントと違って、実際に政庁を取り仕切っているのは執政の方」

「副大統領の格は。ジランさんは副大統領でもある訳でしょう」

「格で言えば、王都の中央政庁にいる宰相と同格。つまり、ジランさんは大公様よりも格上だ。それ以上のことは俺にも分からない」

 僕はフーンと鼻を鳴らし、根本的な疑問をぶつけてみた。

「国対国の力関係はどうなっているの? 十年ごとに土産物を持ってエスタスラヴァに出向くなんて、フレクラントの方が下?」

 父は怪訝そうに「ん?」と鼻を鳴らした。

「国力という意味では我々の方が上だ。場所は交互。十年おきに行ったり来たり」

「それなら、出迎えが大公家の使用人一人なんて扱いが軽くない? あれなら船着き場からここまで三人で飛んだ方が早かった」

「それはそうなのだろうが、政庁の幹部は最初から大公家に揃っていた。つまり王国西部としては、出迎えない訳にはいかないが、すぐに実務を始めたかったようだな」

「そもそも、なぜ西部で交渉をしているの? 国対国の交渉なら全部王都ですれば良いのに。それに、なぜ交渉団中最上位のジランさんがこちらにいるの?」

「我々から見れば、王国西部は東の玄関口だ。だから、王国西部とも色々と決めておかなければならないことがある。ジランさんがここにいる理由は良くは知らないが……」

 今回の通商交渉団には副の立場にある者が四人いる。ジランさんは副大統領、父は副中統領。王都に向かった中にも副中統領が二人。それぞれの正の立場にある者は近々退任する予定。その暁には順当に行けば、ジランさんは南地方の中統領を退任して大統領に、父はルクファリエ村の統領を退任して西地方の中統領になる。

 ジランさんは大統領に選ばれたら、中統領五人の中から二人を副大統領に任命するつもりらしい。その候補筆頭は王都へ向かった交渉団を指揮している中統領。二人目は未定。

「要するに」と父は言った。「ソルフラムさんは引退するので関与せず。ジランさんも王都へは行かず、次期幹部に任せてみるつもり。そういうことのようだな」

「それならなぜ、東地方の中統領がここにいないの?」

「東地方の中統領が副大統領の候補だ」

 父の強めの口調にハッとして僕が口を閉ざすと、父は溜め息をついた。

「もうすぐ晩餐会だ。すぐに準備しろ。急げ」

 父はすでに背嚢から新たな服を取り出し、身繕いを始めていた。

「やはり、お前は質問が多い」

 そうではない。交渉に専念しているせいで、父には整合性の欠如が分からないのかも知れない。特にジランさんの立ち位置。僕がそう指摘するよりも先に、父は命じてきた。

「晩餐会では、間違っても相手方を質問攻めにしてはいけない。詰問と感じる者も出てくるだろう。いいな?」

 僕は一応了承した。

 

◇◇◇◇◇

 

 食堂に足を踏み入れた瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。何という広さ。とことん長い長方形の食卓。それを覆う純白の布。これでは、わずかでも料理をこぼしたら、すぐに気付かれ白い目で見られてしまう。

 そんな懸念に緊張しながら待っていると、程なく人が揃い、大公様が上座に着いた。それに合わせて僕も椅子に座ろうとした瞬間だった。水の入った杯を倒してしまった。僕はアアと呻き、頭を掻きむしりそうになった。室内に控えていた家令さんが軽く咳払いをし、使用人の女性が僕に近寄ってきた。

 僕が謝罪の言葉を口にすると、大公様は「いいのですよ」と笑みをこぼした。

「まずは乾杯いたしましょう。その後、食事を摂りながら自己紹介を」

 食卓を囲んでいるのはフレクラント国側の三人と、現大公様夫妻、先代の大公様夫妻、先々代の大公様夫妻、現大公様の第二子で次女のイエシカ様、合計十人だった。

 大公家の人たちは皆、ジランさんを丁重に扱っていた。ジランさんは次の大統領の候補になるような人。見た目はとても若いが、とっくに三百歳を超えているのは間違いない。もしかしたら四百歳台。いずれにせよ、この場では突出した年長者。そのことに疑問の余地は無かった。

 自己紹介が続く中、大公家の人たちの視線はなぜか時折僕に向いていた。自己紹介が終わるのを待ち、僕はためらいがちに切り出した。

「今日、僕は女子に間違われたりしたのですが、それはどういう……」

 フフと軽く笑う声が聞こえた。僕の隣に座る次女様だった。

「それはね、妹のアンソフィーに良く似ているから」

「妹……。三女様ですか。そんなに似ているんですか」

「良く見ると違うんだけど、雰囲気が似ていて。歳もケイ殿と同じで、髪の色も銀だし」

 その言葉に、僕は室内を見回した。改めて確かめてみると、大公家の人たちは全員黒髪、フレクラント国側はもちろん全員銀髪。

「三女様は銀髪なんですか?」

「そう」と次女様は頷いた。

「三女様は一緒に食事を摂らないんですか?」

 僕の問いに、大公家の人たちの間から小さな溜め息が漏れた。

「あの子はちょっと人見知りがね……」

 場が白けかけているという気配を感じ、僕はすぐに話題を変えた。

「それなら、長女様は」

「カイサ姉様は実務を覚えるために婚約者様と二人で王都の中央政庁勤め。今頃は王宮にいるんじゃないかしら」

「さて、さて」と大公様が口を挟んできた。「食事を始めましょう。せっかくの料理が冷めてしまいます」

 僕は我に返った。やはり父の言う通り、僕は質問が多かった。

 どの料理もフレクラントとは異なる慣れない味付けだった。しかし、多種多様な調味料が揃い、専門の料理人が調理したのだろう。香りも味も食感もとても良かった。街中を歩きながら、燻製肉ばかりなどと侮ったのは大きな間違いだった。

 次女様は口も所作も賑やかな人。ひっきりなしに僕に話し掛けてきた。このような会食では社交性が必須とジランさんには釘を刺されていた。しかしこの賑やかさでは、黙々と食べることなど到底無理。僕はそう諦め、次女様の食事の作法を真似し続けた。

 次女様は十八歳。エスタスラヴァ王国高等学院の一年生。学院は現在夏休み中で、今日は珍しい客がやってくると聞き付けて王都から戻って来たとのことだった。その後、僕は次女様の話を聞き続け、貴族の仕事をおぼろげながらも理解した。

 貴族とは特権を与えられた大地主。土地や建物を貸して収入を得る。西の大公家はこの街の中心部と、周辺の集落のいくつかを所有している。もちろん一般民の中にも地主はいる。しかし、その所有地は街の中心から外れた場所に位置し、規模はどれも小さく、ほとんどの一般民にはそれを発展させる財力も無い。

 要するに、と次女様は言った。偉大なる御先祖様が先頭に立って一生懸命に原野を切り開いてくださったおかげ。そう言って、次女様は華やかに笑みをこぼした。さすが大貴族のお嬢様。屈託が無いとはこういう人のこと。僕はそんな感想を抱いた。

 食事もほぼ終わり、最後の暖かい飲み物に口を付けていた時だった。大公様が僕に声を掛けてきた。

「料理には満足していただけましたか」

「はい。とても美味しかったです」と僕は力強く肯定した。

「それは良かったです」と大公様は微笑んだ。

「あのう」と僕は切り出した。「皆さん。飴ちゃん、舐めます?」

「ケイ」と父の押えた声が飛んできた。「立派な料理を御馳走になったばかりだ」

 僕が口をつぐむと、大公様がいかにも取り成すかのように僕に声を掛けてきた。

「ところで、ケイ殿は学業成績がとても良いと伺ったのですが、羨ましい限りです」

 僕は呆気にとられた。その瞬間、ジランさんが大公様に向かって口を挟んだ。

「社交辞令は子供に向けるものではありません。ケイはまだ中等学院の一年生ですよ」

 大公様がばつが悪そうに首をすくめると、室内に控えていた家令さんが「それでは私から」と言った。

 これまで家令さんは使用人の立場を守り、特に会話に口を挟んでくるようなことはなかった。突然の発言に、皆の視線が家令さんに向いた。

「フレクラント国の英才はいかほどのものか、少々興味が湧いたものですから」

「僕は英才ではありません」

「いえ、いえ。御謙遜を。一つ謎々をどうです」

 興味が湧いた。「どんな」と僕は続きを促した。

「西の大公ヴェストビーク家は数ある貴族の中でも唯一の女系の家柄。フレクラント国の皆様との篤い友情の証しとして、御当主様は五代おきにフレクラント国から御夫君を迎えておられます。つまり、西の大公家の皆様はエスタスラヴァ王国の血とフレクラント国の血を受け継いでおられます。しかし、西の大公家はエスタスラヴァの名門。他国の血が濃くなりすぎる訳にもいきません。そこで、フレクラント国の血の濃さがある割合を上回らないように、ある割合を下回らないようにと決めておられます。さて。その割合はいかほどでしょう」

 これは謎々ではなく血縁に関する数学の問題。僕はそう思いながら首を傾げ、少し暗算をして慎重に答えた。

「フレクラントの血が三十二分の十七を上回らないように、三十二分の一を下回らないように」

「ああ」と家令さんは笑みを浮かべた。「惜しいですね」

「いいえ」と大公様が声を発した。「正解です。さすがです、ケイ殿」

「どこが惜しかったのでしょうか」と僕は家令さんに食い下がった。

「ケイ殿の解答では、フレクラント国の血の濃さは五代の平均で一割八分七厘五毛となるはずです。しかし実際には、ちょうど二割です」

 僕はハッとした。大公様が「アルフ。そこまでにしなさい」と家令さんをたしなめた。家令さんは会釈を返すと、口を閉ざした。

「ケイ殿」と大公様は言った。「突然尋ねられて、暗算ですぐにそこまでの答を導き出せるのは、とても立派なことです」

 僕としては悔しかった。確かに、二割という数字の方がいかにももっともらしい。その気持ちは隠して僕が頭を下げると、大公様は「今日はこれにてお開きとしましょう」と晩餐会の終了を宣言した。

 

◇◇◇◇◇

 

 母屋と湯殿は別の棟。渡り廊下で結ばれていた。さすが貴族のお屋敷。個人の住居に湯殿があるなんて何と豪華で贅沢な。そんな感慨に浸りながら、僕は湯殿へ向かった。

 ジランさんには社交辞令と釘を刺されたが、それでも僕は浮かれ気分を自覚し続けていた。さすがです、ケイ殿。何と素敵な響きだろう。そんな称賛の言葉を掛けられたのは初めての経験だった。

 離れの湯殿で入浴を済ませ、母屋の客室に戻ってみると、部屋中の燭台に灯りがともされていた。材質が良いのか違うのか、僕の家でほんの時折使っている蝋燭よりも明るいような気がした。

 程なく父も戻ってきた。それに続いてジランさん。ジランさんはそのまま部屋に入ってくると、平然と椅子に腰を下ろした。

「ケイ。先ほどの晩餐会で家令に食い下がったでしょう。主人たるヴェストビーク家は間違いなく私たちを厚遇してくれています。普通なら、街で一番の宿屋を手配してくれるのがせいぜいです。だから、あの程度のことは軽く受け流しなさい」

「僕は本当に、どこが惜しかったのだろうと思っただけです」

 ジランさんに「本当ですか」と念を押され、僕は大きく頷いた。

「あの後、計算し直してみました。正解は、フレクラントの血が三十一分の十六を上回らないように、三十一分の一を下回らないようにです」

 ジランさんはホウと声を漏らした。

「しかし」と父が口を挟んだ。「あの家令も中々でしょう。初対面の子供を相手に自慢してみたり腐してみたり、今日は最初からケイに絡んでばかりです。まさか、ケイがぞんざいな自己紹介をしたからでしょうか」

「クレール」とジランさんは父に向き直った。「交渉団に加わるにあたり、きちんと下調べをしてきましたね。復習を兼ねて、なぜヴェストビーク家では五代ごとにフレクラントから配偶者を迎えているのか、ケイに説明してあげなさい」

 父は一瞬虚を突かれる様子を見せたが、すぐに「はい」と了承した。

 貴族社会では、血統が地位や権力の保持を正当化する。そのため、貴族は血統の価値を失うことを嫌い、純血主義に走りやすくなる。とは言え、同族との婚姻を繰り返すと血が濁ってしまい、いずれ血統は途絶えてしまう。

 記録によればはるか昔、エスタスラヴァ王国北部にも大豪族を中心とする豪族団が存在していた。しかし、北部の豪族団は身分意識が極端に強く、一般民に対して圧政を敷くと同時に極端な純血主義に陥った。遂には大豪族の血筋が途絶え掛け、最後の当主は病的かつ悪辣、一般民の反乱によって殺されてしまった。

 その事件を契機に、エスタスラヴァ王国の貴族たちは我々フレクラント国と同様、血統を厳格に管理するようになった。特定の血が濃くなりすぎないように、薄くなりすぎないように。中でも、西の大公家は異色の婚姻戦略を採用した。

 血の健全性を保つのに最も効果的な手段は、広く一般民からも配偶者を迎えること。しかしそれでは、身分社会の秩序に混乱が生じる可能性がある。それならば、いっそ西隣のフレクラント国から。フレクラント人は魔法能力が高い。その血を受け入れれば、西の大公家の血も強化されるだろう。しかも、何らかの危急の際には、フレクラント国の支援を受けることも可能となるだろう。西の大公家はそう目論んだ。

「そんな所でしょうか」と父は話を締めくくった。

 ジランさんは大きく頷いた。

「それではクレール。各地方を支配する王家や大公家とその他の貴族との関係は」

 父は眉をひそめて首を捻った。かなり一般的で捉えどころの無い質問。父の様子に、ジランさんは宣言した。

「いいでしょう。私が説明します」

 王家や大公家はその血筋の者だけで成立している訳ではない。その他の貴族も家臣としてその一部を構成している。社会と経済が安定し、自身が粗雑に扱われることもなければ、その他の貴族も一般民も敢えてその体制や秩序を崩そうとは考えない。

 その中で、西の大公家には特殊な事情がある。それはフレクラント人。フレクラント人はエスタスラヴァ王国内の序列に属さない者であり、貴族社会の秩序を攪乱する要因になり得る。

 北の大豪族の滅亡ははるか昔の出来事。圧政や暴虐が禁止され、貴族の血の健全性が維持されている現在、かの伝説時代の事件を日常的に念頭に置いている者など存在しない。片や、体制や秩序の維持は永続的な眼前の課題。

 つまり家臣団にとっては、フレクラント人は盟友であると同時に少々目障りな存在でもある。ヴェストビーク家にとっては痛しかゆし。

「そういう事情で、フレクラント人に対する認識は貴族ごとにかなり異なるのです。ですから、不要な揉め事を起こしてはいけません。ただし時と場合によっては、逆にフレクラントの力と威厳を大いに示す必要もあるでしょう」

 父が「はい」と頷き、そこで会話は途切れた。

 父は納得したのかも知れない。でも僕には、話が迷走しているとしか思えなかった。筏の上のジランさんは寡黙だった。その後も僕に話し掛けてくることなどほとんどなかったのに、今は突然の熱弁。内容は王国西部の秩序の維持。謎々に一回食い下がっただけで、これほどの警告を受けることになるとは想像もしなかった。

 あまりにも不釣り合い。しかし、副大統領を務めるほどの人が物事の軽重に無頓着とは思えない。そして、ジランさんは通商交渉にほとんど関与していないと言う。もしかしたら、王国西部の秩序の維持こそがジランさんの最大の関心事。

 僕は二人の顔色を窺い、一つ気になっていたことをジランさんに尋ねた。

「ところで、ジランさんはヴェストビーク家の人たちと随分親しそうにしていましたけど」

「実は、ヴェストビーク家の現当主の先代の先代の先代の先代の夫は私の息子です。つまり、現在のヴェストビーク家は皆、私の子孫です」

 僕はウッと呻き、指折り数えた。一方、父は怪訝そうに「ん?」と鼻を鳴らした。

「交渉団中最上位のジランさんがこちらに来たのは、そういう理由からですか?」

「違います。別の理由があります。それは大統領も承知しています」

「私としては、ジランさんにももう少し交渉の前面に出てほしいのですが」

「私が前面に出たら、周囲の目には外から大公家に指図していると映るでしょう。ヴェストビーク家の威厳を保つためにも、それは避けたいのです。特に今は」

 ジランさんが「それはまさに私事ですが」と言うと、父は「分かりました」とあっさり引き下がった。

 ジランさんが腰を上げた。話を切り上げようという意思表示。

「そろそろ寝ましょう」

 僕も父も無言で頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 大貴族のお屋敷の夜。大公家の皆さんも就寝の準備をしているのか、すでに寝てしまったのか、人の気配はほとんど感じられなかった。ところが、僕は中々寝付けなかった。ジランさんは何かを隠している。そう思われて仕方が無かった。

 隣の寝台で横になっている父に、外で自然精気を取り込んでくるとそっと声を掛けると、分かったと簡潔な返事。父もまだ眠っていなかった。僕は独り客室から抜け出した。

 最小限の灯りが照らす薄暗い廊下を静かに歩き、一階の正面玄関まで行ってみると、なぜか扉には鍵が掛かっていた。結局、湯殿へ向かう途中に裏口があったのを思い出し、屋敷内をさらにこっそりと歩いて外へ出た。

 満月の光が差し込む敷地の裏手。整然と並ぶ使用人用の住居らしき建屋。わずかながらも生活音が聞こえてきていた。目を凝らしてみると、屋外にも少数ながら人の影。三々五々に湯殿へ向かう模様。さらには、何らかの作業も続いている様子だった。

 ふと裏庭の奥に目を向けてみると、向こうの方に小柄な人影が一つ。どうやら頭から布を被っている模様。おそらく、午後に見掛けたあの子だろう。独りゆっくりと夜の裏庭を歩いていた。夜に女の子を追い掛ける形になるのは誤解を招く。そう判断し、僕は母屋の脇を回って表の庭園へ向かうことにした。

 月明かりに照らされた庭園は別世界のようだった。フレクラント国では自然の本来あり方を大切にする。そのため、庭に花を植えるにしても、雑然と植えるだけ。一方、この庭園には手入れが行き届いていた。幾何学的な構成。色彩を意識した草木の配置。すっきりとしていて綺麗。僕はそんな爽快感を覚えた。そして良く見ると。

「ジランさんも眠れないんですか」

 ジランさんはハッとしたように僕の方を見た。

「ケイですか。座りなさい」

 庭園内の長椅子に僕とジランさん。僕は早速、午後と先ほど目にしたことを伝えた。

「頭から布を被った、髪の無い女の子ですか」とジランさんは首を傾げた。

「遠目に見ただけなので、正確なことは分からないんですけど」

「使用人の子供ですかね。大方、誤って髪に変なものを付けてしまって、いったん短く切ったのではありませんか」

「そうかも」と僕は半信半疑で頷いた。「先ほどの話ですけど、四代前の当主の旦那さんが息子さんということは、長女のカイサ様の婚約者もフレクラント人ですか」

「そう聞いています」

「五代おきにフレクラントから配偶者を迎え続けているなんて、フレクラント側が配偶者を推薦しているんですか」

「いいえ。その代になると、当主候補の女子は敢えて自国ではなくフレクラント国の高等学院に進学するのです」

「毎回、そんなに上手くいくんですか?」

 その瞬間、ジランさんの顔に微かな笑みが浮かんだ。

「カイサはフレクラントに留学した時、私の家に挨拶に来ました。こちらでは絶世の美女と噂されているようですよ。お世辞も入っているとは思いますがね」

「そんな人なら会ってみたいです」

「ケイはアイナやイエシカを見てどう思いました。あの二人もお化粧やお洒落だけではない本物の美人です」

「皆さん整った顔立ちだとは思いましたけど……」

 ジランさんは鼻で笑った。

「自分で言うのも何だけど、と言うよりも、自分たちで言うのも何だけれど、私たちフレクラント人は皆、顔立ちも体付きも整っています。ケイもそうです」

 僕が「そうですか?」と尋ね返すと、ジランさんは再び鼻で笑った。

「ケイは見慣れてしまっているのですね。学院で習ったでしょう。全ては自己治癒魔法のおかげです」

 フレクラント国では、誰もが毎晩就寝直前に全身に自己治癒魔法を掛けている。それによって、体の隅々の自覚できないような小さな傷や異常までもが修復され、常に健康な状態で若々しく長生きできるようになる。

 成長期の子供の場合、同時に顔立ちや体付きのゆがみも修正される。そこにはわずかながらも個人の潜在的な願望も影響を及ぼす。その結果、成長しきった頃には、皆それぞれに個性を持ちつつも、細部まで均整の取れた容姿になっている。

 エスタスラヴァ王国でも自己治癒魔法は使われている。中でもフレクラントの血も受け継いでいるヴェストビーク家の者たちは、フレクラント人ほどではないにせよ、かなりの自己治癒魔法を使える。

「家の伝統と教育の影響なのか」とジランさんは首を傾げた。「ヴェストビーク家の娘たちには純真な所があって……。いつか素敵な男が迎えに来てくれると夢見るような。それが潜在的な願望となって姿形に現れるのかも知れませんが……」

 歯切れの悪い言い方だった。「要するに」と僕は続きを促した。

「要するに、ケイはまだ女の色気を理解できないと」

 僕はウーンと呻いて舌打ちした。

「手練手管というやつですか? 僕は良く知らないんですけど」

 その瞬間、ジランさんは声を出して笑った。僕はすぐに補足した。

「エスタスラヴァやスルイソラにはそういうものがあると聞きました」

「あなたはさらっと失礼なことを言いますね。そうではありません」

「いや。今日は自己紹介ばかりで、美人とか何とか考えている暇なんて……」

「ケイ。交渉団の派遣は自己紹介のためにあるようなものなのです」

 僕はエッと呆気にとられた。

「話の大筋は派遣前にすでに決まっているのです。交渉団の派遣は顔見せと最後の詰めのため。氏名と立場を伝え合って顔を繋ぐ。後々、それが活きてくるのです」

 ジランさんはそう言うと、僕の顔を見詰めてきた。

「だから、自己紹介をする時には、もっと格好をつけなさい」

 僕がエーッと忌避の声を漏らすと、ジランさんは鼻で笑った。

「それから、少しは笑顔を見せなさい。私はまだ一度も見ていませんよ」

 僕は首を傾げて不同意を表わした。笑いの感覚など忘れてしまった。

「話を戻しますが、容姿には後天性があります。教育による潜在意識への刷り込みが魔法力を介して容姿に影響するのです。白狼の騎士とか蝗の将軍とか子供向けの物語は沢山ありますが、そういうものの記述や挿絵などが影響するのかも知れません。そう考えると、三女のアンソフィーは不思議です。まだ会ったことはありませんが」

 僕と同い年で、僕に良く似た三女様。僕は「どんな風に」と尋ねた。

「ヴェストビーク家の髪は黒。しかしアンソフィーは銀。そして私たちも銀。つまり?」

 僕は首を傾げた。

「学院で教わりませんでしたか。銀髪は自己治癒魔法の副作用です。特に害はないけれど、強い自己治癒魔法を使い続けるといずれ髪の色が無くなってしまいます。つまり、ヴェストビーク家の中でもアンソフィーだけは私たちに近い強度の魔法を使えるのです」

 僕はフムと納得した。

「それなのに、ケイに似ていると言う。つまり、女性的で魅惑的な容姿ではなく、中性的な容姿なのでしょう。ヴェストビーク家の中では風変わりな娘なのかも知れませんね」

 突然、ジランさんが腰を上げた。

「そろそろ部屋に戻りますよ」

 僕は急いでもう一つ気になっていたことを尋ねた。

「ジランさん。正面玄関の扉に鍵が掛かっていました。物々しすぎませんか」

 その瞬間、ジランさんは冷ややかな笑みを浮かべた。

「フレクラント人は魔法使い。フレクラント人に盗賊行為を働いたら、ただでは済みません。ですから、フレクラントにその種の犯罪はまずありません。エスタスラヴァも十分に安全ですが、フレクラントほどではありません。だから皆、日常的に用心しているのです」

 僕は唖然とした。

「場所が変われば物事も変わる。良い勉強になりましたね」

 ジランさんが母屋に向かって歩き出した。

「僕はもう少し自然精気を取り込みます」

 僕はジランさんの後ろ姿を眺めながら、やはり何かがおかしいと思った。

 ジランさんは寡黙ではない。むしろ極めて饒舌。僕が質問を繰り返さなくても、的確に話し続けてくれるような人。どうやら、父もジランさんの立ち位置については疑問を感じていた様子。しかし、父は特に追究することもなく話を切り上げてしまった。

 交渉団中最上位のジランさんがここにいるのは大統領も認める理由があってのこと。特に今は王国西部の秩序と大公家の威厳を保つ必要がある。さらには、蝗の将軍や白狼の騎士は乱世の英雄。そんな話が口を衝く。使用人は午後の外出に執拗に人を付けようとした。信用組合ではかなりの人がお金を引き出そうとしていた。

 もしかしたら、フレクラント国の支援が必要となるような事態。大昔の王国北部と同じなら一般民の反乱、大公家襲撃。僕たちを船着き場から屋敷まで歩かせたのは、フレクラントの魔法使いの来訪と滞在を一般民に知らしめるためだったのかも知れない。

 疑心暗鬼、脈絡に欠ける推論との自覚はある。反乱の予兆があるのなら、街中にも大公家にももっと緊迫感が漂っていてもおかしくない。特にイエシカ様の高等学院生とは思えない無邪気さは緊迫感には程遠い。そもそも、僕が家令さんに食い下がっていなければ、ジランさんは何も語らず、僕はここまでの推論になど到達し得なかった。

 でも、ソルフラムさんは言った。重大事に直面したら野生の力を破壊的に発揮せよと。ジランさんも言った。時と場合によっては力を大いに示す必要があると。大統領と副大統領。二人揃って同種の指示。それらと妙に符合するではないか。

 

◇◇◇◇◇

 

 神話伝説大系・逸話集・九 蝗の将軍

 

 原文

 天に高く。限りなく高く。何者も越えられぬほどに高く。蝗の将軍の御業なり。

 地に広く。限りなく広く。何者も見渡せぬほどに広く。蝗の将軍の御業なり。

 

 解釈

 昔々、ある所に偉大なる将軍殿がおられました。どのような敵も寄せては防がれ疲れ果て、将軍殿の築かれた壁を越えることは出来ませんでした。将軍殿の鬨の声。蝗のごとくに群れを成し、蝗のごとくに食い尽くせ。その声を耳にして生き残った敵は一人もおらず、民は長きにわたって平穏の中にあり続けたのでした。

 

 注釈

 解釈には多数の異説あり。

 

◇◇◇◇◇

 

 神話伝説大系・逸話集・四三九五 白狼の騎士

 

 原文

 昔々、ある所に慈悲深い領主様がいました。

 ある日、領主様は家来衆に命じました。お金が足りない商人や職人にはお金を貸し、種が足りない農民には種を貸せ。一年後に返すべきお金は三割増しとし、一年後に返すべき種は二倍とせよと。

 領主様から借りたお金は四割増しにして返し、領主様から借りた種は三倍にして返す。返せなかった者は返し終えるまで奴隷の身となる。それがそれまでの掟でした。民は領主様の慈悲に大いに喜び、大いに働き、民の半分が自由の身となりました。

 領主様と家来衆は金銀宝石を身にまとい、それは豪勢な暮らしをするようになりました。才ある民は自由の身として才を活かして稼ぐようになりました。才なき民は奴隷の身として領主様や家来衆を篤く慕うようになりました。領主様も家来衆も民も皆が豊かになりました。

 その噂を聞きつけて、他の領主たちが領主様の所にやって来ました。領主様は他の領主たちに命じました。慈悲を教えて欲しければ、私の家来になれと。他の領主たちは喜んで領主様の家来になりました。

 ところがある日、森の中から白狼に跨った騎士が現れました。騎士は天地に轟くような声で笑うと言いました。愚かなる者は哀れなり。それは慈悲にあらず。領主と家来は民の稼ぎを奪うのみと。

 騎士は聖なる鉈を大いに振るい、領主様と家来衆の首を刎ねました。騎士は領主様と家来衆の財を集めて学堂を建てました。全ての民が見る見る内に才ある者となり、田畑は肥え、街は整い、はやり病は消え、民はさらに豊かに健やかに暮らすようになりました。

 その噂を聞きつけて、他の領主たちが騎士の所にやって来ました。騎士は他の領主たちに命じました。慈悲を乞うのであれば、全ての民を自由の身とし、それぞれの領地に学堂を建てよ。ゆめゆめ、我が命に背くことなかれ、民を欺くことなかれと。そして、騎士は白狼に跨り、森の中に消えてゆきました。

 これが白狼の騎士、または白狼に跨った知恵と慈悲の神の物語。

 

◇◇◇◇◇

 

 翌朝、客室に運ばれてきた朝食を摂り、僕は独りでお屋敷を後にした。北の裏門から外へ出て、家々の間を抜けて郊外まで。

 雄大な田園風景だった。今は夏。それなのに、眼前の畑には麦らしきものが植えられていた。フレクラント高原では麦と言えば冬。夏には稲が育てられている。土地が変われば農耕のあり方も変わる。僕はそれを初めて実地に理解した。

 西のフレクラント高原と東のエスタスラヴァ平野。両者の北には無人の山岳地帯と大森林が続いているはずだった。しかし、ここでは北に目を向けても視界の中に山並みは存在しなかった。そして僕の知る限りでは、白狼の騎士は一般民の先頭に立ち、そんな王国北部を駆け回ったのだ。

 気の向くままに広い空を飛んでみたいと思った。同時に、余剰精気の浪費に不安を覚えた。初の異国の二日目の朝。やたらと精気のことが気に掛かる。やはり、それは不自然な状況に違いない。

 夏休みの直前、学院の先生たちは僕たち生徒に警告した。東のエスタスラヴァ平野でも南のスルイソラ大平原でも、大地の奥底から自然精気が湧き出し続けているのは間違いない。しかし、地表付近にほとんど滞留せず、そのまま大気中に拡散している。そのため、環境中の自然精気は非常に薄い。精気は魔法の源。環境中の自然精気を体に取り込み、余剰精気として体に蓄え、それを用いて魔法を発動する。エスタスラヴァやスルイソラに行った際には、いつもの調子で魔法を使ってはならないと。

 警告するだけのことは確かにある。ここでも大地から自然精気が湧き出しているのは体感で分かる。しかし明らかに、地表近くの滞留量は多くない。街中よりも郊外の方が少しはましかも。そう思って来てみたものの、ここでも自然精気は薄かった。

 それにしても、ここはなぜこんなにも穏やかなのだろう。全ての揉め事は人の事。揉め事があろうがなかろうが、この景色は変わらない。そんな想いに浸りながら僕は田園の真っただ中に立ち尽くし、両手を大きく広げて自然精気を取り込み続けた。

 その後、僕は街中に戻り、昨日教えられた古物商の店を探してみた。荷物を積んだ牛車や馬車。足早に通り過ぎていく人々。開店の準備を進める店。すでに営業を始めた店。反乱の予兆らしきものは特に見当たらなかった。

 古物商の店は大通りから離れた路地に面していた。まだ早い時刻のせいなのか、店内に客の姿は無く、店主と思われる男性が奥の受付に独りぽつんと着いていた。

「いらっしゃい」と店主は愛想よく声を掛けてきた。

「この硬貨を、使えるお金に換えたいんですけど」

 店主は僕から硬貨を受け取ると、オッと声を漏らした。

「それはどういう硬貨なんですか」

「今から二千年ぐらい前に南のスルイソラで使われていた物。額面は一番少額だが」

 僕は思わず皮肉っぽく首を振ってしまった。大統領がくれたのは、引き出しの中に放ってあった異国の大昔の一番安い小銭。そして僕は安堵した。この人には言葉が通じる。

「買ってくれますか」

「おう。ただし、その前に」

 店主はそう言うと、僕を上から下まで眺め回した。

「お前さんはどこから来たんだい? こんなに珍しい古銭をどこで手に入れたんだい?」

 言葉は通じるのに、やはり不審人物扱い。

「疑うのなら、いいです。返してください」

「いや」と店主は首を振った。「これは国の規則で決まっているんだ。こういう物には盗品や偽物が混ざり込む。だから、由来や流通の経緯を記録しないといけないんだ」

 僕は大きく息を吐いた。横柄ではなく、きちんとした説明。店主の言い分には理がある。

「僕はフレクラント国の通商交渉団と一緒に来ました。昨日から西の大公家に泊まっています。それはフレクラント国の知り合いから貰った物です」

「お前さんはフレクラント人か。ちょっと何かやってみせてくれないか」

 僕は店内を見回し、奥の棚に置かれた意匠を凝らした皿に浮揚魔法を掛けた。スッと宙に浮かぶ最も高価そうな皿。そのまま魔法で店内中央に引き出し、独楽のように高速回転させた。甲高い風切り音。店主は「あっ、あっ」と狼狽の様子を見せた。

「分かった。もう十分。それでは、ここに住所と名前を書いて」

 皿を大切そうに元の場所へ戻そうとする店主。それを脇目に、僕は渡された紙に住所と氏名を記入した。

「フレクラント国西地方ルクファリエ村のケイ・サジスフォレか……。確か、ルクファリエって一番西の奥地だよな。随分と遠い所から来たな……。知り合いというのは」

「大統領です」

「ソルフラム閣下か」

「知り合いなんですか?」と僕は意外感を覚えた。

「かなり前に何度か客としてお見えになったことがある」

 大統領は僕がこの店を訪れるよう仕向けた。いや。信用組合の主任は、この店なら信用できると言った。つまり、この街には他にも古物商がいるということ。僕が独自に他の店へ行っていた可能性もある。

「ところでお前さん、通商交渉の具合はどうなっているか、聞いているかい?」

「具体的な内容は知りませんけど、順調なようです」

「そうか……。交渉は順調。波乱は無しか……」

 波乱という言葉にハッとして店主の顔を見詰めると、店主もハッとしたように僕を見詰め返してきた。

「いや、いや。古物の値段は状況次第でかなり変わるんだ。だから情報集めは大切でな」

「古物商は皆さん、色々な情報を集めているんですか?」

「物を仕入れて売るのなら、基本中の基本だな」

 全ての古物商は世相に敏感、情報通。これは大統領からの謎解きなのだ。ただし報告は無用。つまり解けようが解けまいが、結果は問わないという意味。

「波乱の件ですけど、騒乱か反乱か何か起きたりは……」

 僕のその探りに、店主は眉をひそめた。

「お前さんも何か聞いたのか」

「僕は詳しいことは何も……」

「そうか……。まあいいや。お前さんも変なことに巻き込まれないよう気を付けな」

 僕は理解した。

 

◇◇◇◇◇

 

 方位磁石と鉈。ようやく望み通りの品が手に入った頃には、日は天頂を通り過ぎていた。賑わいを見せ始めた商店街の雑踏。僕は飛翔魔法を発動し、街の西側に迫る山並みへ向かって宙を飛んだ。

 一番手前の山並みの稜線上、少し開けた所に僕は着地した。その瞬間、環境中の自然精気が幾分濃くなったのを肌身で感じた。

 西に目を向けると、幾重にも連なるさらなる山並み、緑豊かな天然林。山々に視界を遮られ、その先に広がっているはずのフレクラント高原は目視できなかった。

 東に目を向けると、眼下にはヴェストビークの街。街をかすめるように東へ向かって流れるフレクラント川。その先にはどこまでも続く田園地帯。霞が掛かって、その限界は判別できなかった。

 僕は手近な岩に腰を下ろし、背嚢から取り出した飴を口に含み、エスタスラヴァ平野を眺望しながら考え込んだ。

 古物商の店主は騒乱か反乱の兆しがあるとほのめかした。しかし、あの口振りはいかにも他人事。商売に影響が出るかも知れないという程度。僕へも、他人事だから関わるなと勧めてきた。眼下の街で騒乱や反乱が起きるのなら、あんな呑気なことなど言っていられないはず。

 ソルフラム大統領は思わせ振りに、見るべきものを探せと言った。そして今回、僕が訪問し得る場所は二つ。眼下の街ではないのなら、王都しかないではないか。ただし店主は、まあいいやで済ませた。あの気楽さから考えて、おそらく事態は危急という段階ではない。

 西に山を越えればフレクラント国。東に川を下れば王都。ジランさんはその中間に腰を据えて全てを俯瞰しているのではないだろうか。ここを緊急時の拠点としようとしているのではないだろうか。

 そして、僕は大統領の意図をおぼろげながらも理解した。騒乱か反乱の発生が予想される王都。そのような場での人々のありようを目に焼き付けて、人間というものを理解せよ。多分、大統領はその種の示唆をしたのだ。

 二年前、僕は法の支配を越える不当な公開刑に処せられた。あれは三級屈辱刑。しかし、三級の認定は恣意的に捏造された冤罪だった。あの時、僕は初等学院の五年生。たとえそんな子供であったとしても、僕自身で異議を唱えて戦うべきだった。

 そんな物思いに耽っている内にも余剰精気は爽快に溜まっていき、街に戻ろうとした時だった。突然、上空から「どうしたの? 大丈夫?」という声が聞こえてきた。

 見上げると二つの人影。女性二人の作業着のような服装には見覚えがあった。フレクラント国唯一の戦闘部隊、唯一の常設治安維持組織、フレクラント国大統領府常設警邏隊。僕のそばに降り立つと、上司らしき方の女性がさっそく尋ねてきた。

「私たちは常設警邏隊です。あなたの居住地と氏名は」

「西地方ルクファリエ村のケイ・サジスフォレです」

「余剰精気が尽きたの?」

「いいえ。ちょっと休憩を」

「ここには道が通じていないでしょう。休憩なら避難小屋でしなさい」

「景色を楽しんでいたんです」

 二人の顔に笑みが浮かび、上司らしき女性は頷いた。二人の様子に不自然な点は無かった。しかし、こんな時にこんな場所に常設警邏隊。

「ここはちょうど国の境です。境を挟んで法や規則が変わります。そのことには十分に注意するように。それから、この斜面下方にはエスタスラヴァの伝信台があります」

「伝信台?」と僕は訊き返した。

「光を点滅させて遠方と連絡を取り合う施設です。邪魔をしないよう不用意に近付かないこと」

 そう言い残して、二人は飛び去ろうとした。僕は急いで呼び止めた。

「こんな場所に常設警邏隊って、何かあったんですか」

「特に何も。毎日の定期巡視です。こういう場所で昼寝をしている者を起こすためにね」

 僕が呆気にとられて見詰めると、「冗談です」と女性は微笑んだ。

 二人が去って行った。僕もその場を後にした。常設警邏隊はフレクラント高原を囲む山々を巡回している。確かにそんな話を聞いたことはあった。

 

◇◇◇◇◇

 

 西の大公家に帰り着いてみると、父とジランさん、大公様と西部政庁の人たちが食堂で菓子を摘まんでいた。どうやら午後の休憩の模様。僕もその席に加えてもらうと、大公様が気さくに話し掛けてきた。

「ケイ殿。街はどうでした」

「楽しかったです。方位磁石を買いました」

 皆からの興味の声に応えて、僕は早速背嚢から取り出した。これは立派。これは頑丈そう。そんな声が皆から漏れた。

「古物商で買ったんですけど、どこかの貴族の御隠居様が趣味で集めていた物らしいんです。そして御隠居様が亡くなって、遺族の人たちが古物商にまとめて持ち込んだ。形式的には中古品だが、実態は新品、磁針の磁力は十二分。古物商の人はそう言っていました」

 先々代の執政殿。そんな声が聞こえた。

「ケイ」と父が口を開いた。「これはかなりの実用品だろう。いくら古物とは言え、良くそんなお金を持っていたな」

「足りない分はちょっと働かせてもらった」

「ちょっと見えたんだが、背嚢の中の鉈はどうした」

 僕はハッとした。父も目ざとい。僕としては背嚢の中に隠していたつもりだった。

「正確に言うと、方位磁石は僕のお金とソルフラムさんからもらった小遣いで買った。鉈の方は刃物店。古物商の人に口を利いてもらって、残金と浮揚魔法で店の手伝い」

 父はフーンと鼻を鳴らした。

「あとでソルフラムさんに礼を言っておけ。鉈の方は国に帰るまで背嚢から出すな。それから今朝、信用組合からこちらに問い合わせがあったそうだ。昨日子供が来たが、あれはこちらに泊まっている子かと。余計な騒ぎを起こすな」

「違う」と僕は強く否定した。「ソルフラムさんから貰った古銭を見せたら、何の説明も無しに僕のことを疑い始めたんだ。あのまま黙っていたら、古銭を盗られていた」

「小遣いというのは古銭か」

 父の問いに、僕は頷いた。

「二千年前のスルイソラ硬貨」

 その瞬間、西部政庁の人たちがざわついた。二千年前のスルイソラ。何と意味深長な。そんな小声が聞こえ、先ほどから執政殿と呼ばれていた男性が口を開いた。

「まさか退任の置き土産……」

 その瞬間、ジランさんが執政殿を睨み付けた。執政殿は目を伏せ、口を閉ざした。やはりこの面々の中では、ジランさんは圧倒的に格上のようだった。

「それはどういう意味ですか」と僕は白々しく尋ねた。

「何でもありません」とジランさんが答えた。「買い物は分かりましたが、それ以外のことについてはどうです」

 ジランさんは何らかの事情を知っている様子なのに素知らぬ顔。僕も知らぬ振りをしてとぼけた。

「空の広い田園風景はとても気持ちが良かったです。あとは、刃物店も含めて色々な道具屋が面白かったです。フレクラントでは見たことがないような物も沢山ありましたし」

「どのような点が面白かったのです」

「道具の種類が多い。そして、それぞれ一つの役割に特化している。魔法を使えない分を色々な道具の組み合わせで補っている。そう思いました」

 西部政庁の人たちからホウと声が漏れた。

「さすがです、ケイ殿」と大公様が口を挟んできた。「ところで、昼食はどうしたのですか。今からでも用意させますよ」

「大丈夫です。刃物店の店主さんが軽いものを出してくれました」

 大公様は頷くと、話題を変えてきた。

「道具の件では私は常々思うのですが、フレクラントの方々は魔法を自在に操れるのですから、もっと生命力工学に注力すれば良いのに」

 僕は「ん?」と鼻を鳴らし、大公様の顔を見詰めた。

「生命力工学って初めて聞くんですけど、魔法工芸とは違うんですか?」

 大公様はフフンと笑みをこぼした。

「我が家の書室を覗いてみてはどうです。物質的生命学の本が何冊かあったはずです」

 午後の休憩は終了の模様。僕は力を込めて「はい」と答えた。

 

◇◇◇◇◇

 

 裏庭の一角、母屋から独立した平屋に書室はあった。広い書室だった。書棚、書棚、ずらりと並ぶ書棚。多分、本の日焼けを避けるためだろう。全ての書棚には引き戸が付いており、中からは虫除けの匂いが微かに漂ってきていた。

 使用人の女性は僕をここに案内した後、どこかへ行ってしまった。どの書棚にどのような書籍が収められているのか、一応の一覧表はあったが、大分類が記されているだけで詳細は分からなかった。

 適当に引き戸を開けてはまた閉める。そんなことを繰り返しながら書室を一周しかけた時だった。ふと、人の存在に気が付いた。

 部屋の隅、小さな窓の下、机に着いて読書を続ける小柄な猫背。花柄の大きな布を頭の上から被り、前は顔の上半分までを、後ろは首筋の下までを隠していた。例の遠目に見掛けた女の子。どう見ても着ている服はかなり上等。使用人の子供ではないのかも知れない。

 僕は思い切って、「あのう」と声を掛けた。

「本を探しているのですが……。生命力工学の本。どこにあるか知りませんか」

 女の子が微かに動いた。布の下から僕の方に目を向けたようだった。しかし、それ以上の反応は戻ってこなかった。僕はおもむろに女の子に近寄った。

「あのう。すみませんが……」

 そう声を掛け直して、僕は机の上の本に目を止めた。本は二冊。一冊は机の上に閉じたまま置かれていた。題名は「神話伝説大系逸話集その二」。女の子が手に取るもう一冊は、大きさや装丁から考えて、他の分冊に違いないと思われた。

 その時、僕の視線は女の子の右手に釘付けになった。本に添えられたその手には痛々しいまでの火傷の跡。右手全体を覆っているのは肌というよりも引き攣れた皮。僕は思わず腰をかがめてその手を凝視してしまった。

 女の子が右手を引っ込めた。僕は顔を覗き込んだ。愕然とした。顔全体に火傷の跡。右目は濁り、視力はおそらくほとんど無い。そして多分、これでは頭の上まで。

「どうしたの? 何があったの?」

 返事は無かった。左目が僕を見詰めていた。

「自己治癒魔法は? 上手く使えないの?」

 女の子は僕を見詰めるばかりだった。

「僕はフレクラントから来たケイ・サジスフォレ。僕が治してあげようか」

 女の子が言葉を発しようとした。しかし、その口から洩れてきたのは枯れ木をこすり合わせたような、荒れた乾いた音だった。

「喉もやられているの?」

 その時、女の子の猫背の理由に思い至った。

「胸も痛いの?」

 女の子が小さく頷いた。

「駄目だよ。喉と胸はさっさと治さないと。僕が治癒魔法を掛けてあげる」

 女の子は少しためらう様子を見せた後、小さく頷いた。

「下から順番に全部治すから。それじゃ、まずは胸から。悪いけど動かないで」

 僕は女の子の反応を確かめた後、衣類に手を掛け胸元を開いた。そして女の子の背後に回り、後ろから抱え込むような体勢をとり、服の中にそっと手を差し入れた。

 手のひらを胸に当て、魔法の力を注ぎ込む。手の位置を変えて、再び魔法の力を注ぎ込む。そんな風に胸全体に治癒魔法を掛け終わると、女の子はゆっくりと背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んだ。

 その時だった。「何をしている」と叫ぶ声が聞こえた。驚いて振り返ると、家令さんが僕を睨み付けていた。

 家令さんは速足で近付いて来ると、僕の手を掴んで女の子の胸元から引き抜いた。次の瞬間、僕は投げ飛ばされていた。

 背中を打った。すぐに立ち上がった。「待って」と怒鳴ると、「狼藉者」と罵声が飛んできた。

 家令が迫ってきた。僕は書室の建物から逃げ出した。敷地内に家令の声が響き渡った。

「狼藉者だ。誰かその子を捕まえろ」

 裏庭で作業をしていた人たちが行く手を遮った。裏庭の家々から使用人の関係者が飛び出してきた。僕は逃げ道を失った。ひとまず空を飛ぼう。そう思った時、大公様の声が聞こえてきた。

「何をしているのです。私が行きます。全員、そこで立ち止まりなさい」

 大公様は二階の窓からこちらを見下ろしていた。その背後には父とジランさん。二人は窓から直接飛び出し、宙を飛んで僕のそばにふわりと着地した。

「お前、何をしたんだ」と父は言った。

 僕は激しく首を横に振った。

「それでは分からない」

「女の子を治していたら、家令に投げ飛ばされた」

「要領を得ませんね。少し落ち着きなさい」とジランさんが宥めてきた。

 僕が深呼吸を繰り返していると、遅れて大公様と西部政庁の人たちが駆け付けてきた。早速、家令は大公様に訴え始めた。

「その子がアンソフィー様に狼藉を。お嬢様を押さえ付けて、む、む、胸元に手を入れて、む、胸をまさぐっていたのです」

 その言い分に、体中の血液が煮えたぎった。

「違う」と僕は叫んだ。「僕は治癒魔法であの子を治していただけだ。そうしたら、その家令にいきなり投げ飛ばされた」

「何を言う」と家令が叫んだ。「お嬢様は自己治癒魔法を使える。そんなことをする必要は無い。そもそもなぜ、周りの大人に相談しなかった」

「ちょっと待ちなさい」と大公様が声を荒げた。

 僕と家令が口を閉ざすのを見届けると、大公様は家令に向き直った。

「アンソフィーは今どこに」

「お嬢様のお部屋にお連れするよう侍女に命じました」

 その答を聞くと、大公様は僕に向き直った。

「ケイ殿はあの子の姿を見たのですね」

「はい」

「あの子を治そうとしていたのは間違いないのですね」

「三女様に訊いていただければ分かります」

「胸をまさぐろうという、いわゆる嫌らしい気持ちは」

「ありません。だって、三女様の首から上は滅茶苦茶じゃないですか。それに胸なんて、胸なんて……」

「ケイ」とジランさんが割り込んできた。「こういう時に口ごもっていてはいけません。はっきりと言いなさい」

「胸なんて真っ平らで、まさぐるも何も無いじゃないですか」

「無礼者」と家令が怒鳴った。「フレクラントでは、見ず知らずの娘の胸をまさぐるのが普通のことか。しかも、このたびは高貴な家柄のお嬢様。その上、エルランド殿下の妃候補の筆頭者。分と礼節を弁えよ」

 その怒声に、父がホウと低い声を漏らした。

「山から出てきた礼儀知らずの田舎者。それが汝の本音か」

「そこまでは申しません。しかし、お嬢様方は私にとっては命に代えてもお守りしたい大切な方々なのです。私は貴族の家に生まれました。しかし、長子ではないがゆえに家督を継ぐことは叶わず、自ら興した仕事も上手く行かず、路頭に迷いそうになりました。そんな私を拾ってくださったのが西の大公家なのです。その後、私にも家族ができ、子供たちも独り立ちし、私は家令を務めるまでに至りました。全ては大公家の皆様のおかげです。大公家の恩は私の骨の髄にまで染み込んでいるのです。なのに、なのに、大切なお嬢様があのような辱めを受けるとは、黙っていられる訳がないではありませんか」

 そこで家令の言葉は途切れた。ジランさんがおもむろに口を開いた。

「良いですか。一度しか言いません。家令殿の忠誠心は理解できます。ケイの善意も理解できます。とすれば、これは典型的な行き違い。両者ともに怒りを鎮め、家令殿の誤解とケイの独断を謝罪し合い、それで終わりとすべき所ではありませんか」

「それでは分と礼節が」と家令は食い下がった。「それならば、私ではなく王家が無礼を罰すべきとお命じになったら、いかがなされるおつもりか」

「私は一度しか言わないと言いました。分かりました。互いに引くべきである所を、汝はどうしても不調法者に仕置きをしたいと言う。それならば、ケイも分と引き時を弁えぬ頑迷なる者に仕置きをするが良い」

 僕はジランさんを見詰めた。何をせよというのだろう。

「ケイ。初等学院で猛獣退治の手順を教わりましたね」

「はい」

「やっておしまい」

 大公様が強張った表情で一歩前に踏み出し、「リゼット様」と声を上げた。ジランさんは牽制を無視し、家令に言い渡した。

「家令殿。武器を用意してください。剣なり槍なり何なりと」

「閣下。何もそこまでは。それに私とて貴族の出。多少なりとも魔法を使えます。さらには体術や剣術などの武芸の心得もございます。ですから、子供相手にそのようなことは」

 父がホウと低い声を漏らした。

「若造が無暗に粋がるものではない」

「若造とは、親子揃って何と無礼な。私はこれでも九十二」

「私は百五十二歳だ。そこまで自信があるのなら、やってみれば良い。何なら、私が相手をしようか」

「全くもって何たる野蛮。子供への仕置きとは命のやり取りではありませんでしょう」

「分と礼節を弁えなければ善意も台無し。それであれば理解できる。だが汝の言い分は、分と礼節を弁えなければ善意も罪。そのような傲慢な身分意識がかつて北の大豪族を滅ぼしたのだ。一度は手ひどく打ち負かされて、貴族こそがこの世の第一との考えを改めよ」

「分かりました。それでは訓練用の剣を二本用意させましょう。相手はケイ殿で。やはり躾には、時には仕置きも必要ですからな」

 剣の準備が整った。裏庭で僕と家令、剣を手に向かい合った。その他の人たちは僕たちを遠巻きに取り囲んでいた。

 僕としては極めて不愉快だった。善意が分からない糞貴族。二年前の事件と全く同じ。何が躾だ。原野の猛獣の方がよっぽどまし。僕は金属製の棒を握りしめ、その時を待った。

「始めなさい」

 ジランさんの声が飛んだ。瞬時に僕は家令の全身に硬化魔法を掛けた。家令の体が彫像のように固まり、そのまま地面に倒れ込んだ。周囲の人たちから様々な呻き声が聞こえてきた。僕は家令にゆっくりと歩み寄り、剣を構えた姿勢のままで転がっている家令を見下ろした。

「アイナ」とジランさんが声を掛けた。「六十五年前、私の家に居候していた時、あなたは初等学院でこの手順を教わりましたね。この後を覚えていますか」

「首の部分だけ硬化を解き、首を切ります。リゼット様。どうか、もうおやめください」

「ケイ」とジランさんが声を掛けてきた。「家令殿に投げ飛ばされたと言いましたね。ケイは手を出したのですか」

「いいえ、全く」

「家令殿の行為は死に値するのか、結論を出しなさい」

「この男は僕に濡れ衣を着せて、僕を躾けると言ったんです」

「行動で結論を示しなさい」

 僕は全力で家令の体に剣を振り下ろした。家令の体は無限の強度の硬い石。剣から甲高い音が響いた。手が痺れた。僕は剣を取り落とした。

 僕が硬化魔法を完全に解除すると、家令は驚いた様子でわずかにもがき、機敏に立ち上がって辺りを見回した。

「アルフ。もうやめなさい」と大公様が強く命じた。

「何が起きたのです。立っていたのに、なぜか突然倒れていて」

「フレクラントの硬化魔法です。硬化魔法を掛けられて、アルフだけが時を止められたような状態になっていたのです。フレクラントの方々を侮ってはなりません。私はアルフの忠誠を高く評価します。ですから、今回のことはこれで終わりにするのです」

 家令は大公様の語気の強さに気圧される様子を見せた。家令は大きく息を吐いて深々と頭を下げ、怪訝な様子で母屋の方へ去っていった。他の人たちもそれぞれの持ち場へ戻っていくと、父とジランさんと大公様が近付いてきた。

「アンソフィーがケイ殿に、治してほしいと言ったのですか?」

「いいえ。僕が申し出て、三女様が受け入れて」

「ケイ殿はあの子の姿を見ても、何とも思わなかったのですか。大抵の人は怖気づいてしまうのに」

「痛々しいとは思いましたけど、見たことがあるので。あれは火球魔法か炎爆魔法の暴発ではありませんか?」

 その瞬間、僕の問いを遮るように、父が口を挟んできた。

「実はケイも暴発の経験者なので、見過ごせなかったのでしょう。ちなみに、本来なら当人たるケイが言うべきことなのですが、治療費の請求はいたしません。話を聞いた限りでは、治療は完了していないようですから」

 大公様は「はい」と了承した。ジランさんが「大公殿」と堅苦しく声を掛けた。その低い声音に、大公様はビクッと体を震わせた。

「家令殿は王家の威を借りて我々を脅しました。それはいかにも過ぎたる真似。ケイへの仕置きはこちらで、家令殿への仕置きはそちらで。それで良いですね」

 大公様は「はい」と深々と頭を下げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 お前は本当にお人好し。夕食時まで謹慎せよ。父は呆れたようにそう言った。独りの客室。寝台に寝転がったり、窓の外を眺めてみたり。そんな時間を過ごしていると、日が沈もうとする頃になって、ようやく父とジランさんが戻ってきた。

 昨夜とは異なり、夕飯は客室で。小さな食卓がしつらえられ、料理が並んで使用人が退出し、三人での食事が始まろうとした時だった。突然、部屋の扉を軽く叩く音が聞こえた。父が怪訝そうに呼び掛けると、扉が静かに開き、女の子と女性が現れた。

 身なりと控えめな態度から考えて、女性はおそらく使用人。女の子の正体は不明。女の子は心許ない足取りで部屋に入ってくると、力なく頭を下げた。

「西の大公ヴェストビーク家の三女、アンソフィー・ヴェストビークと申します。本日は誠に申し訳ございませんでした」

 僕は驚いた。父とジランさんも驚きの声を漏らした。治癒魔法を施した模様。再生したばかりの銀の髪は極めて短いものの、肌は艶やか、濁っていた右目も声も澄んでいた。

「自分で治したのですか」とジランさんが尋ねた。

「はい……。あのあと、きつく叱られまして……」

 顔立ちは確かに僕に似ている。体格にもほとんど差は無い。

「ふらついているようですが、大丈夫ですか」

「一括集中の治癒で余剰精気を使い過ぎてしまって……」

「夕飯を食べて、ゆっくりと休みなさい」とジランさんは勧めた。

 三女様は、入浴後の就寝前に僕と少し話をしたいと言った。僕がすぐに了承すると、三女様は使用人と共に去って行った。

 扉が閉まり気配が消え、夕食が始まった。僕が野菜に手を付けると、父が「これだけは覚えておけ」と話し掛けてきた。

「フレクラント以外の地では、緊急時以外は安易に他人を治療してはいけない」

 エスタスラヴァ人の多くは弱い自己治癒魔法しか使えない。南のスルイソラ人の多くは自己治癒魔法を使えない。

 そのような土地柄で、赤の他人の病気や怪我を強い治癒魔法であっさりと治してしまったら、我も我もと患者が押し寄せる。しかし、全ての患者を公平に助けることなど到底できない。そして治さなければ、なぜだなぜだと患者は不公平を訴える。そんな事態に至ったら、もはやその地から逃げ出すしかなくなってしまう。

 そのような混乱を避けるためには、治療の大義名分を見付けるか、医術行為はその地の医術士の仕事と割り切るか、その地の相場と同等の治療費を請求しなければならない。

「どの国にも魔法医術士や一般医術士がいる。勝手に治して回ったら彼らとの紛争も不可避だ。善意は良いが、軽率なことはするな」

 僕が唖然として神妙に頷くと、ジランさんが「もう一つ」と念を押してきた。

「火傷や暴発の件は他言無用です。一般論として、他人の失敗の話を無暗に広めてはいけません。人に訊かれても黙っていなさい」

 僕は口の中に残っていた野菜を飲み込み、「はい」と答えた。

「家令の豹変振りからも分かる通り、貴族は殊更に体面を気にします。あの家令は特に秩序と規律を重視する人間のようです。それに、妙な噂が広まったら、他の貴族の西の大公家への接し方が変わってしまうかも知れませんし」

「どんな風に変わると」と僕は尋ねた。

 その瞬間、ジランさんは呆れ顔になった。

「誰しも暴発は怖いでしょう。経験者は違うのですか?」

「同じです」と僕は首を振った。「でも、三女様も昨日からふらふらと歩き回って……」

「どうやら、同い年の男子が来るとのことで興味津々だったようですね」

「それなら直接来てくれたら良かったのに。あれでは他言無用も何も……」

「火傷は噂になっていても、暴発は知られていないようです。やはり、魔法の暴発を一目で見抜けるような者はこの地にはそれほどいないのでしょう。アンソフィーには『治さないのなら大人しくしていろ』と命じていたそうです。交渉団が来ている今は特に」

「あの後、家令はどうしていました」

 僕がそのように話題を変えると、父が皮肉っぽく笑った。

「何事も無かったかのように澄ましていたな。あまりにも平然としているものだから、『大公家を安く見られたくなければ、今度から我々を迎える際には馬車と赤い絨毯を用意せよ』と囁いてやったら、『しかと承りました』だと」

「クレール。それは職業意識でしょう。政庁の幹部たちからもかなりの叱責を受けたようですし、追い打ちをかけるのはもうやめておきなさい」

「はい」と父は鼻で笑った。「それにしても、ジランさんも怖い。たった一言、やっておしまい」

「クレールも私ぐらいの歳になれば分かります。ああいう子供じみたことは、もう面倒臭くて仕方が無いのです」

「とは言え、家令の息子たちの件は意外でした」と父は話題を変えた。

「そうですね」とジランさんも頷いた。「トロンギャアンケ商会。スルイソラ連合国との交易で大儲けをしている。高額納税で王国への貢献が大きい。その内に一代限りの爵位を貰えるかも知れない。そんな噂がありますね。西の大公家の人脈も中々のものです」

 父とジランさんは家令の素性に興味津々な様子だった。その一方で、僕にとっての降って湧いた気掛かりは別のこと。僕は「あのう」と切り出した。

「家令が言っていましたけど、もし王家が僕を罰しろと言ってきたら」

「戦争です。王宮を吹き飛ばしておしまい」

「えっ」と僕は驚いた。「多分、僕では無理です」

「ケイ。あなたの頭は糠床ですか。冗談に決まっています」

 ジランさんが鼻で笑った。僕は舌打ちした。

「それから、家令がエルランド殿下と言っていましたけど」と僕は訊いた。

「あれも初耳でした。エルランド殿下は国王陛下の玄孫、四代下の長子、王位継承順位四位です。アンソフィーがその妃候補の第一位で、次女のイエシカが第二位だそうです」

 初めて聞く貴族のあり方に、僕は呆気にとられた。

「二人ともですか。順位には晩餐会で家令が言い出したような細かい計算が……」

「私の知る限りでは、その通りです」

 妃選定の開始が公告されたら、全ての貴族家は全ての娘を王家に届け出る。王家は一人一人、様々な要素を数値化して総合し、得点の上位二十名を妃候補として発表する。順位は得点の高さを表わしているだけ。必ずしも第一位が妃になる訳ではない。

 ヴェストビーク家にはフレクラント人の血も流れている。そのため、他の貴族よりも魔法能力が高く、寿命も幾分長い傾向にある。ヴェストビーク家が候補者の上位を占めているのは、それが高く評価された結果。

「妃決定まで候補者はずっと拘束されるんですか。例えば他の人とは結婚できない」

「当然、そうなりますね」とジランさんは頷いた。

 しかし、多くの者は途中で候補から外され、その時点で拘束は解除される。また、条件付きではあっても、候補者側からの辞退も可能となっている。拘束は最長で十五年間。最後まで拘束された挙句に正室になれなかった者も側室として王子の妻となる。

「側室」と僕は顔をしかめた。「次女様と三女様が二人とも妻になる可能性が……」

「貴族には家ごとに様々な仕来りがあるのです。王家も異色ですが、ヴェストビーク家も異色です。王家と東の大公家と南の大公家は男系、その他の貴族は男女に関係なく長子が継承。その中でヴェストビーク家だけは女系なのですから」

「なぜ、ヴェストビーク家だけは女系なんですか」

「良くは知りませんが大昔、ヴェストビーク家がフレクラントから定期的に配偶者を迎えると決めた時、フレクラント側がそういう条件を付けたと言われています。フレクラントが女系社会なので、それに合わせたのかも知れませんね」

 ジランさんはそこまで言うと、この話はこれで終わりと言わんばかりに料理を口に運び始めた。しばらく三人とも無言で食事を続けた後、父が口を開いた。

「ところで、ジランさんの息子さんは今どうしておられるのです。晩餐会での話だと、奥様はすでに亡くなっておられるようですが」

 ジランさんはわずかにためらう様子を見せ、おもむろに言った。

「息子はフレクラントに戻ってきています。フレクラントでは、若い内の死別は滅多にありませんが、離婚と再婚はそこそこにありますし、今は新しい妻と暮らしています」

「そうですか……」と父は呟いた。

「息子とあの子が出会ったのはフレクラントの高等学院でした。あの子は本当に綺麗で聡明で、大公家の当主が務まるのかと疑うほどに裏表がなくて優しくて。だから、息子も色々なことを覚悟の上であの子と結婚したのです……。それにしても、寿命の違いは残酷です。あの子は二百十歳で亡くなりました。エスタスラヴァでは極めて長寿でも、フレクラントでは半生にもならない年頃です。あの時、息子は相当落ち込んでいました……」

「そうなることも覚悟の上ですか。大変な決断だったのでしょうね」

 父のしみじみとした口調に、ジランさんもしみじみと答えた。

「人生哲学の問題でしょうね。目の前に魅力的な道があるのに、いずれそれも終わるのだからと躊躇する。そういう者もいますからね」

「息子さんは躊躇しなかったと……」

「息子はここにはもうほとんど顔を出していないようですね。子供も皆すでに亡くなっていますし、たまに孫の顔を見に来るぐらいで……」

「立ち入ったことを訊いてしまい、申し訳ありませんでした。良きえにし。後々の世にて再び巡り合わんことを」

 父が口にしたその言葉は、死別した既婚者に対する祈りの言葉だった。

 食事が終わろうとする頃、ジランさんが僕に話し掛けてきた。

「それでは明日の予定です」

 王国西部との交渉は無事に終了した。王都へ向かった交渉団も、順調に妥結していれば、明日の昼前には全員でこちらにやって来る。その後、全員で帰国する。

 王都の交渉が難航している場合には、午前中に中等学院の六年生五人が伝令としてこちらにやって来る。父とジランさんは王都へ向かい、六年生五人はそのまま帰国する。

「はい」と僕は頷いた。「それはすでに聞いていますけど……」

「仮に王都へ向かうことになったとしても、ケイは帰国しなさい」

 不意の指示に僕は確信した。

「いえ。仮に王都へ向かうことにならなかったとしても、僕は行きます」

「何を言っているのです。見学はもう十分でしょう」

「だって、六年生は王都とこちらの両方を訪問することになるのに、僕はこちらだけ……」

「五人は六年生で正式な随行員。あなたは一年生で社会見学が目的」

 僕は顔をしかめた。他言無用。大統領の命令が最優先。僕がそんなことを考えていると、父がフームと鼻を鳴らして口を開いた。

「こちらでの交渉は無事に終わったことですし、ちょっと訊きたいことがあるのですが……。二千年前のスルイソラとか、退任の置き土産とか、あれは何です」

「全ての交渉が終わったら話します」

「当時の大事件と言えばスルイソラ制圧ですが、まさかそれに類することが……」

「クレール」とジランさんの目付きが鋭くなった。「そのようなことが起こると本当に思うのですか」

「いや、それは……」と父は口ごもった。

「私は今、あなたの統治者としての資質を問うています。正確に答えなさい」

「私が思うに、白狼の騎士の時代でもあるまいし、二千年前のスルイソラでもあるまいし、フレクラントがエスタスラヴァを制圧する理由は全く見当たりません。特にスルイソラ制圧は白狼の騎士をはるかに超える壮絶な殲滅戦になったと聞きますし、今がそんな状況とは到底思えません。なのに、私には白狼の騎士の件を予習させる。ソルフラムさんとジランさんと西部政庁の間には何らかの了解事項がある様子。一体、何を隠しているんです」

「クレール」とジランさんの声がさらに低くなった。「もう一つ、尋ねます。子供の前でそこまでの話をするのは適切ですか」

 父は言葉に詰まる様子を見せ、無言で頭を下げた。ジランさんは僕に目を向けてきた。

「食事が済んだら、さっさと入浴に行きなさい。アンソフィーと話をするのでしょう?」

 他言無用。大統領の命令が最優先。そんなことを考えながら、僕も無言で頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 月明かりに照らされた庭園。今夜は三女様と。三女様はどんな子だろう。そんな期待と興味を覚えながら自然精気を取り込み続けていると、程なく侍女に付き添われて三女様がやって来た。

 僕と三女様は庭園の椅子に。侍女は立ったまま少し離れた所に。三女様は僕の隣に腰を下ろすと、「今日はありがとうございました」と言った。

 気だるそうな弱々しい声だった。夕食前、三女様は余剰精気を使い過ぎたと言っていた。体内の精気は魔法の源以前に生命の源。使い過ぎると虚脱感と倦怠感に襲われる。僕にもその経験はあった。

 僕はふと思い付いた。月明りに照らされているのはこの庭園だけではない。

「余剰精気を補充しに行きませんか」

 三女様と侍女が同時に呆気にとられたような顔をした。

「あの山並みの稜線の上まで」

 僕は街の西にそびえ立つ山々を指さした。

「あそこまで行くと、環境中の自然精気もかなり濃くなります。三女様は僕の手に掴まって浮揚魔法を発動する程度で構いません。あなたの方は僕が背負います」

 三女様が可否を問うように侍女に目を向けると、侍女はウーンと呻いて首を傾げた。

「良い眺めですよ。この辺りに危険な獣はいないのでしょう?」

 三女様が「行ってみたい」と侍女に告げると、侍女は気乗りしない様子ながらも頷いた。

 訊くと、意外なことに侍女も貴族の子弟、他の貴族家の出。弱いものではあっても魔法を使える。低空低速飛翔くらいであれば可能とのことだった。つまり、三女様も侍女殿も不意の墜落の恐れはない。結局、三女様は僕の背に、侍女殿は僕の片腕にしがみつき、僕は稜線を目指して一気に空を飛んだ。

 午後に訪れた見晴らし台のような場所に降り立った。僕は光球魔法を直ちに発動。頭のすぐ上に灯り代わりの光球が出現した。眼下には月明りに照らされたエスタスラヴァ平野。涼しい風が山上を吹き抜けた。

 三女様も侍女殿も立ったまま夜の景色を眺めていた。僕は岩に腰を下ろして声を掛けた。

「この場所は初めてですか」

「はい」と三女様は答えた。

「座りませんか。そして、落ち着いて自然精気の取り込みを」

 侍女殿は独自に光球を作って周囲を巡らせ、辺りの様子を窺い始めた。エスタスラヴァ平野はフレクラント高原に比べてはるかに開けた土地。そのため、夜の大自然に慣れていないのだろう。一方、三女様は手近な岩に腰を下ろすと、「あのう」と話し掛けてきた。

「お国のことをお聞かせください」

 その瞬間、僕の背筋を衝撃が駆け抜けた。まさに深窓の令嬢。ここまで丁寧な話し方をする女の子など見たことがなかった。

「例えば、どんなことを」

「大障壁、大森林、エベルスクラント……」

 僕は思わずアアと声を上げてしまった。

「僕の家はフレクラントの一番西のルクファリエという所にあるんですけど、大障壁はすぐそこです。エベルスクラントには、次の冬に学院の遠足で行くことになっています」

「冬に遠足ですか」

「その頃には危険な獣も冬眠に入っているので」

 そこから雑談が弾み始めた。三女様からは次々に質問。僕からは身振り手振りを交えながらの説明。

 年に一度の大障壁の手入れ。大障壁の上からの眺め。その向こうに広がる森林地帯。フレクラント高原を囲む山々。北の山をいくつも越えた所にあるエベルスクラントの遺跡。僕はまだ行ったことはないが、その太古の遺跡は森林に埋もれてしまっているらしい。

 そんな雑談が一段落ついた頃には、三女様の声は抑揚を取り戻し、僕の耳に心地良く響くようになっていた。三女様は余剰精気をかなり回復した様子だった。

「神話と伝説の地……。サジスフォレ殿はそういう所に住んでおられるのですね」

「いや。神話や伝説はどこにでもあるでしょう」

「例えば、『リエトとレダの悲劇』の舞台はフレクラント国の西地方と聞いていますが」

「その神話というか伝説、どこで聞きました?」

「神話伝説大系に載っていました。逸話集・六二三です」

 驚いた。番号まですらすらと。僕は神話伝説大系という書物の存在は知っていても、今日まで実物を目にしたことはなかった。

「凄いですね。暗記しているんですか。でも、その話はかなり歪曲されているそうです。僕たちの所では、その話は『エステルの二つの約束』と呼ばれています」

「エステル?」と三女様は首を傾げた。「逸話集・六四一ですか?」

 また番号。僕はさらに驚いた。三女様は相当な歴史愛好家、本の虫。

「本の内容は知りませんけど、エステルはレダの生まれ変わりと言われています」

「そうだったのですか……。私はてっきり、リエトやカイルという名前は決まり文句のように使われているだけだと思っていました。ただ……」

 三女様の言葉はそこで止まった。僕は「ただ?」と続きを促した。

「サジスフォレ殿も神話と伝説の区別はきちんとされた方が」

 僕は唖然とした。三女様は相当な愛好家なのに、少々抜けた所がある模様。

「僕は学院の授業で、一万年前までを神話時代、一万年前から五千年前までを伝説時代、それ以降を歴史時代と教わったんですけど、『エステルの二つの約束』は神話なのか伝説なのか微妙なんだそうです」

「そうだったのですか……。私はてっきり伝説だとばかり。どんな時代だったのでしょうね……。神話伝説大系は本当に面白いです。吟遊詩人が色々な所を巡って話を集めて、その後も多くの人が書き足し続けて……。それから、アデリナという名前に心当たりはありませんか」

「神話や伝説の登場人物ですか? 今でも使われている名前だと思いますけど」

「神話伝説大系には全く登場しないのですが、どこかで見聞きしたような覚えがあって……。アデリナは海を背にして独り大軍を迎え撃つ……」

 その時、侍女殿が「そろそろ」と声を掛けてきた。三女様は「もう少し」と粘った。

「前から気になっていたのですが、そもそも神話と伝説はどう違うのですか」

 僕は微かに緊張した。神の概念。それは僕の得意分野ではない。

「伝説は昔から伝えられてきた話。神話は神の時代の話です」

「それは同じ言葉の繰り返しです」

 確かに三女様は僕に似ている。質問が終わらない。父に言わせれば詰問まがい。でも、同い年同士でこんな会話を出来るなんて初めてのこと。何となく嬉しい。何となく楽しい。

「僕はあまり詳しくないんですけど、神とは知性を持った超越的な存在。現代とは異なり、神話時代には様々な種類の魔法使いがいたらしい。伝説時代になって、そういう人たちのことを神と呼ぶようになった。だから歴史時代に入って、神話時代のことを神話時代と呼ぶようになった」

 三女様はフームと鼻を鳴らした。相槌を打たれたことで、興が乗ってきた。

「例えばフレクラントの神統譜と人統譜。神統譜は最初からその名前で伝説時代に作られ始めたもの。神話時代からの全フレクラント人の一覧で、実在非実在を問わずに記載、逆に記載漏れも多数ある。そんな名前の記録が存在することからも、神が魔法使いを意味する言葉なのは明らか。要するに、神話も伝説も人の話、時代が違うだけです」

 三女様はウームと意味不明な呻きを漏らした。

「ただし、神という言葉には元々は別の意味があったらしいとのことです。僕が思うに本来、神は悪い意味を持つ言葉だったのではないかと」

「神統譜は分かりましたが、人統譜とはどのようなものなのでしょう」

「人統譜は歴史時代に入って作られ始めたもの。実在の人物のみを網羅した記録。神統譜も人統譜も基本的には血筋を明らかにするためのもので、伝記のたぐいではありません。そして、どちらも国の最重要文書なので、国は延々と硬化魔法を掛け直して保存してきた」

 三女様は「ん?」と訝しげに鼻を鳴らした。

「サジスフォレ殿は中等学院の一年生ですよね」

 僕が「はい」と頷くと、三女様は再びフームと鼻を鳴らした。

「逸話集などに時々出てくる『目覚める』という言葉の意味が良く分からないのですが」

 僕は拍子抜けした。話はあまり広がらなかった。深くならなかった。

「カイルの目覚めは普通の起床です。リエトとレダの目覚めは『前世の記憶を取り戻す』という意味です」

「そうですか……。サジスフォレ殿は詳しいのですね」

「いえ。人から聞いているだけで。歴史学や生命学の本格的な勉強は高等学院に行かないと。フレクラントの高等学院に」

「生命学ですか。転生は本当にあるのでしょうか」

「あるそうです。ただし、全ての人に前世がある訳ではなく、全ての人に来世がある訳でもない。それは数学的に証明されています」

「数学的に」と三女様は驚きの声を漏らした。

「証明は簡単です。中等学院一年生の僕でも出来ます」

 その時、侍女殿が再び「お嬢様。ケイ殿」と声を掛けてきた。三女様が腰を上げ、それに合わせて僕も立ち上がった。最後に三女様は西の山々に目を向けた。

「あの向こうにフレクラント国があるのですね……。行ってみたい……」

「旅行で来れば良いのに。エスタスラヴァの中等学院にも長期の休みはあるのでしょう」

 三女様は黙っていた。侍女殿に目を遣ると、侍女殿が代わりに答えた。

「大公家では家庭教師を雇っていますので、中等学院までの勉学は全てそちらで」

 驚いた。さすが上級貴族。妃候補の筆頭はやはり深窓の令嬢。同時に、僕は話をはぐらかされたことにも気が付いた。

「一年中、休み無しに勉強ですか」

 三女様からも侍女殿からも返事は無かった。

「王都にいる長女様はフレクラントの高等学院に留学して卒業。その婚約者様はフレクラント人。長女様や婚約者様に連れて行ってもらったら良いのに」

「大公家には大公家のいわれと仕来りがありますから」と侍女殿は答えた。

 妙な言い方に、僕は首を傾げた。妃候補の件と関係があるのだろうか。

「まさか、三女様はお屋敷に閉じ込められているとか」

 侍女殿は「いいえ。決して」と断言した。その語気の強さに、僕はわずかに怯んだ。今度揉め事を起こしたら即刻強制帰国。そう思って直ちに詫びを入れると、侍女殿は「いえ」と簡潔に応えた。

 僕は右手で三女様の手首を、左手で侍女殿の手首を掴み、稜線から少し上昇した後に山の斜面に沿って一気に降下を開始した。その瞬間、思わず声を上げそうになってこらえた。

 下手くそ。あまりにも。三女様の飛翔は。侍女殿の飛翔魔法は力強くはなくとも安定している。一方、三女様の飛翔魔法は力強いのに不安定。僕との相対的な位置関係がフラフラと揺らいでいる。僕と同い年の三女様。しかし、魔法の訓練は全くもって不十分。魔法力を制御しきれていない。これが暴発の原因と僕はすぐに理解した。

 程なく大公家のお屋敷に着地した。この侍女殿は貴族の子弟。あの家令も。それならと思い、母屋の正面玄関へ向かって歩き始めたところで侍女殿に尋ねた。

「大公家で働いている皆さんは、もしかして貴族の出ですか」

「そうですね。職人や下回り以外はほとんどが貴族の出です」

「貴族って難しいんですね。家を継ぐとか継がないとか」

「家を小分けにする訳にはいきませんから、継がない者はいずれ外へ出されます。その代わりに、後々も生きてゆけるよう、貴族の家では教育を重視しています。大方の貴族は高等学院まで進み、少なくとも前期課程までは修了しています」

 僕が「あなたも」と訊くと、侍女殿は「ええ」と頷いた。

「私は高等学院で教員の資格を取りましたので、近隣の学院に教員の空きが出たら、お嬢様の家庭教師を辞してそちらへ移ることになっています」

「もしかして、エスタスラヴァでは貴族と一般民の通う学院は別……」

「そうですね。よほどの田舎でなければ中等学院までは」

 僕には実感が湧かない話だった。僕たちのフレクラント国には貴族も一般民も無く、莫大な資産など持たずとも、皆が普通に働き、普通に暮らしている。なぜ、エスタスラヴァ王国では物事がこんなにも面倒なのだろう。

 正面玄関に着いた。ここで解散。そう思った時、三女様が「もう一つお詫びを」と言い出した。

「昨夜、姉のイエシカが失礼なことをしたようで申し訳ありませんでした」

 心当たりが無かった。何のことかと僕は問い返した。

「初対面の他家の方に向かって一人で話し続けて先祖自慢など……。ヴェストビーク家の者は決してそのような人間ではありませんので……」

「各貴族家では会話の作法もきちんと教えています。普段通りなら、イエシカ様もそのような品の無いことはなさらないのですが」と侍女殿が補足した。

 そう言えば昨夜、次女様は僕に会うために帰ってきたと言っていた。しかし晩餐会以降、全く姿を見掛けなかった。

「次女様は今日はどちらに。次女様ともまた会えると思っていたんですけど」

「ずっと西部政庁へ行っていたようです」と三女様は答えた。

「申し訳ございません」と侍女殿が詫びを入れてきた。「今回は多忙のようで。明日も朝一番に王都へ向けて発つとのことです」

 正面玄関から屋敷に入り、今度こそ本当に解散。その時、僕はふと思い出した。

「飴ちゃん、舐めます? 部屋から取って来ます」

「いえ」と侍女殿が断ってきた。「就寝前の菓子の習慣はございませんので。お気持ちだけ頂いておきます」

 僕は落胆した。飴はもうやめようと思った。客室へ向けて独り階段を上りながら、僕は考え込んでしまった。

 昨日、僕はジランさんの挙動と立ち位置に疑問を感じた。挙動と立ち位置。おかしな人がもう一人いた。高等学院生。王家の妃候補第二位。今回は多忙。今回は普段通りではない。そして一日中、西部政庁。僕と同様、誰かの指示で動いているのだろうか。もしかしたら、王都から何らかの情報を持ち帰ってきたのではないだろうか。

 

◇◇◇◇◇

 

 神話伝説大系・逸話集・六二三 リエトとレダの悲劇

 

 原文

 古のフレクラント。男が目覚める。我が名はリエト、我が許嫁はいずこにあると。女が目覚める。我が名はレダ、我はここにあると。邪な愛に男が狂う。我が名はカイル、レダは我がものと。リエトとレダは逃げ惑う。カイルはリエトを切り殺す。カイルはレダを焼き殺す。何と哀れなとわの恋人。良きえにし。後々の世にて再び巡り合わんことを。

 

 解釈

 昔々、フレクラントに男がいました。ある日、男は目を覚ますと言いました。「私はリエト。私の許嫁は今どこに」と。リエトは許嫁を探し回りました。しかし、いくら探しても見付かりません。リエトは許嫁が目を覚ますのを待つことにしました。

 しばらく経ったある日、女が目を覚ましました。女はリエトの元に駆け付けると言いました。「私はレダ。私はここにいる」と。そして、二人は西の果てで一緒に暮らし始めました。

 しかし、二人の幸せが長く続くことはありませんでした。レダの美しさにカイルという男が邪な心を抱いたのです。カイルはリエトの首を切り、レダに求婚しました。しかし、レダはリエトの亡骸に縋り付いて泣くばかり。カイルは嫉妬に狂い、レダを焼き殺してしまいました。

 何と哀れなリエトとレダ。良きえにし。後々の世にて再び巡り合わんことを。

 

◇◇◇◇◇

 

 神話伝説大系・逸話集・六四一 エステルの二つの約束

 

 原文

 即物派の地にて男が目覚める。我が名はカイル、我が許嫁は今いずこと。エステルは最果ての地にて花嫁の衣に身を包む。不貞のエステル。妄執のリエト。カイルは二人を誅し、自らも弑される。何と哀れな孤独な魂。良きえにし。後々の世にて巡り合わんことを。

 

 解釈

 昔々、ある所にカイルという男がいました。ある朝、カイルは目を覚ますと言いました。「私の許嫁は今どこに」と。カイルはあちらこちらを探し回り、最果ての地でようやくその姿を見付けました。

 エステルはカイルの許嫁。それなのに、エステルは花嫁衣裳に身を包み、リエトという男と結婚しようとしていました。カイルはエステルの不貞に怒り狂い、不埒な二人をその場で殺し、自らも周りの者たちに殺されてしまいました。

 何と哀れなカイル。良きえにし。後々の世にて巡り合わんことを。

 

◇◇◇◇◇

 

 朝一番、朝食を摂り終わろうとする頃、王都から中等学院の六年生五人が到着した。六年生たちがもたらしたのは、王都での交渉が行き詰まっているとの報だった。残る問題はただ一つ。両国通貨の交換率の改定。両者の主張に大差は無いが、互いに譲れなくなってしまっているとのことだった。

 事前の交渉ですでに大方の合意が出来ていたにもかかわらず、本交渉でそこまで揉めてしまうのは異例のことらしい。また、通貨の交換率は両国の全体にかかわる問題。そのため急遽、王国西部でも意見交換が行なわれることになった。

 西部政庁の幹部も呼んで西の大公家で再び協議。その直前、ジランさんは僕と六年生五人を集めて、僕たちの顔を見回した。用件は王都への伝令。意見の調整後、ジランさんと父も王都へ向かう。それまでは無理に交渉を進めないようにと。

 しかし、六年生たちは先ほどから帰国の算段を話し合っていた。六年生たちはそれぞれ個人でこの街を訪れたことがある模様。ここで解散して別々に帰国しようと言う者。フレクラント国までは行動を共にしようと言う者。意見は二つに割れていた。

 六年生たちはジランさんの要請に困惑の様子を見せた。その微かな躊躇を見逃さず、僕はすぐさま立候補した。ジランさんは六年生たちに全員揃っての帰国を命じると、仕方が無さそうに僕に出立を促した。

 僕は母屋の正面玄関を出た所で飛翔魔法を発動し、特に誰に見送られることもなく低空帯を低速で飛び始めた。まずは地上の道に沿って街中を船着き場まで。昨日よりもさらに早い時刻とあって商店街に客の姿はほとんど無かった。

 街中には、ぽつりぽつりと宙を飛ぶ人の姿があった。その数はフレクラント国とは比較にならないほどの少なさ。わずかな人影は皆、低空帯をゆっくりと飛んでいた。

 エスタスラヴァ王国の一般民は弱い魔法しか使えない。と言うことは、飛んでいるのはおそらく貴族。僕から見れば残念ながら、その飛翔はフレクラント国の初等学院生並み。中には自然強化魔術の水準にとどまっているものもあった。

 船着き場に到達し、フレクラント川の上に出た。どこまでも快晴、穏やかな向かい風。僕は中空帯まで上昇し、川に沿って中速飛翔を開始した。

 少し前に次女のイエシカ様も出発していた。今朝、大公家の使用人から聞いた話によれば、次女様は川に沿って低空低速飛翔を続けているはずだった。川の両岸には堤と並木、草原や畑。程なく低速飛翔をする颯爽とした身なりの人影が見えてきた。

 僕が低空帯まで降下して次女様の隣に並ぶと、次女様は驚いた表情で、堤に着地すると合図してきた。人気の無い堤の上の並木道。どこからともなく野鳥のさえずり。着地した瞬間、次女様は「何で」と尋ねてきた。

「王都への伝令を命じられて。一緒に行きましょう。僕が次女様を背負って高空高速飛翔します。次女様は浮揚だけで構いません」

 僕は頭全体と顔の下半分を覆う頭巾をかぶり、目には風除けと虫除けの眼鏡を掛ける。次女様は手拭いで顔と首筋を蔽い、帽子をかぶる。頭巾と眼鏡、手拭いと帽子に僕が硬化魔法を掛けて、首から上を完全防御。背嚢を背中から腹の側に移して次女様を背負う。予備の荷造り用の紐で次女様の体を僕に括り付け、紐に硬化魔法を掛ける。

 そして上昇を開始し、僕は次女様に率直に尋ねた。

「街で噂を聞いたんですけど。王都で騒乱か反乱が起きるかも知れないと」

 僕の背中で次女様がわずかに身を強張らせた。

「なぜ、私にそんな話をするの?」

 この人は何かを知っている。知らなければ、こんな反応にはならないはず。

「次女様だけ通商交渉とは無関係に忙しく動き回っているから」

「なぜ、通商交渉とは無関係だと思うの?」

「だって、交渉は大公家で行なわれているのに、次女様は西部政庁へ行っていた」

「ケイ殿こそ、通商交渉とは無関係にずっと単独行動している。何だか怪しい」

 その認識に僕は少し慌てた。

「僕は怪しい人間ではありません」

 僕の頭の後ろで次女様が大きく息を吐いた。

 北には平原と丘陵。地平線の先には山並み。西のすぐそこにはエスタスラヴァ王国とフレクラント国を隔てる国境の山々。南にはエスタスラヴァ王国とスルイソラ連合国を隔てる壮大な山脈。東には果てしない平野。はるか先には地平線。未だ高度が低いからなのか、その先にあるはずの東海はまだ見えなかった。

 しばらく上昇を続けた後、僕はもう一度尋ねた。

「何か知っているんでしょう?」

「私はただの伝令」

「騒乱か反乱が起きるんですか? ソルフラム大統領もジラン副大統領も中々口が堅くて」

「ケイ殿。止まって」

 僕が上昇を停止すると、次女様はフフンと鼻で笑った。

「呼び止めて、縛り上げて、担ぎ上げて、言葉攻め。ケイ殿も中々のやり手ね」

「そういうつもりでは。それに言葉攻めという単語、初めて聞くんですけど」

「問い詰めることでしょう? 高等学院で聞いたんだけど」

「もしかして、大貴族のお嬢様が口にして良い言葉ではないのでは」

 次女様が「そうなの?」と尋ねてきた。「そんな語感ですけど」と僕が答えると、ウーンと微かなうめき声が聞こえてきた。やはり、何だか無邪気で楽しい人。

「私は伝令役を任された時に厳命されたの。世の中には、はかりごとに長けた人がいる。陥れられないよう伝令は伝令役に徹し、余計なことに首を突っ込んではいけないと。ケイ殿もそうした方がいい」

「教えてくれないと、王都で訊いて回ることになります」

「ケイ殿は誰の命令で何をしているの? 私は答えた。ケイ殿も答えて」

 少し迷ったが、次女様の要求ももっともだと思った。

「大統領です。僕独りで呼び出されて命じられたんです。とことん見て回れと」

「そして、大公家の娘をさらってこいと。いいわよ。大統領閣下のお墨付き。このままフレクラントに駆け落ちしよう」

 僕がエッと驚くと、次女様は鼻で笑った。からかわれたのだと僕は気付いた。わずかに間が空いた後、次女様は「政変」と言った。

「ただし、動きがあるだけ。その種の事柄には適切な時機と良い切っ掛けが必要。今はまだ時機でもなく切っ掛けも無い。だから、ケイ殿も王宮では大人しくしていること」

 想定内の返事だった。そしてつまり、おそらく西の大公家の長女、中央政庁勤めのカイサ様が情報収集役で、次女様はそれを王国西部に伝えている。

 その時、次女様の妙な口振りに僕はふと気付いた。

「王国西部は政変に賛成の立場ですか?」

「西の大公と西の執政殿とフレクラントの大統領閣下が政変の後ろ盾。これは絶対に秘密」

 僕は絶句した。次女様が飛翔魔法を発動して自力で飛翔しようとした。僕は「浮揚程度でいいです」と声を掛けて上昇を再開した。

 いよいよ高空帯に到達した。ヴェストビークの街は、西から流れ出るフレクラント川が作った大きな扇状地の終端辺りに位置している。その事実をこの目で直に確認し、僕は背後の次女様に声を掛けた。

「いきますよ。高空高速飛翔」

 僕たち以外には誰もいない自由な空。丘を越え、川を越え、林を越え、畑を越えて集落を越え、その速さは普通の徒歩の約二十五倍。僕たちは王都へ向けて一直線に風を切り続けた。

 半時ほどが経った頃だった。前方に大きな街が見えてきた。次女様が「あそこ」と声を上げた。街の中心には遠方からでもそれと分かる大きな屋敷。多分、あれが王宮だろう。それを取り巻く街並み。やはり、ヴェストビークの街とは規模が違った。しかし、巨大というほどでもなく、僕は遠目に拍子抜けした。

 ところが王都が目前に迫った時、僕はその真の大きさに気が付いた。街を取り囲むように点在する集落。その数がヴェストビーク周辺とは桁違いに多かった。そんな郊外にいったん着地し、高空高速飛翔の装備を解除し、僕たちはそこで別れることにした。

「最後に一つだけ確認しておきたいんだけど、常設警邏隊に何か動きは。フレクラント国大統領府常設警邏隊」

「僕はそういうことは全く知りません」

「常設警邏隊は昔から殺戮の魔女とか呼ばれているんでしょう。介入してきたら怖い」

「常設警邏隊は女ばかりではありませんけど。それに、怖い人たちではないと思いますよ」

 僕の返事に、次女様は小さく首を傾げた。

「いずれにせよ、今の話は絶対に秘密。大人しくしていること。何かが起きたら、すぐに逃げ出すこと」

 晩餐会の時とは異なる真剣な口調で「いいわね」と念を押すと、次女様は低空帯をゆっくりと飛び去って行った。

 

◇◇◇◇◇

 

 交渉団の団長に伝言した。大人しく待っていろと命じられた。王宮の敷地内、宮殿の正面玄関前で僕は独りぽつんと立っていた。

 王宮内に殺伐とした空気は特に無く、警備の人たちがゆっくりと巡回しながら時折、僕に目を向けてくるのみ。おそらくこれが日常の光景なのだろうと思われた。僕は居場所を間違っているのだろうか。政変の舞台は王宮ではなく例えば中央政庁。

 ジラン副大統領は政変を警戒している。だから昨夜、僕に帰国を命じた。次女のイエシカ様も警戒を促してきた。ただし同時に、時機でもなく切っ掛けも無いとも言った。多分、その認識はジランさんも同じ。だから昨夜、いかにも当然のように、交渉終了をもって予定通りに帰国すると宣言した。さらには今朝、渋々ながらも僕を王都へ送り出した。

 まさか、大統領だけは政変が実際に起きることを知っているのだろうか。もしそうなら、大統領が背後にいる以上、フレクラント国側にとっての厄介事とならないよう政変勃発は交渉の終了後。僕がそこに立ち会うのであれば、政変勃発は交渉団が王都を出立する前。

 未だ午前。しかし陽は高くなり始め、夏の陽射しが眩しく熱くなってきた。断続的に衣類に冷却魔法を掛けてしばらく待ち続けていると、王宮の正門付近から職員と思しき人が駆けてきて、宮殿の脇を抜けて敷地の奥へ消えていった。次いで、敷地の奥から二頭立ての箱型馬車が現れて、正門で誰かを乗せて宮殿の正面玄関に到着した。

 何ということ。ジランさんと父の出迎えは立派な馬車。降車してきた二人の顔には満足げな納得の表情。僕も乗ってみたかった。そんなことを考えていると、ジランさんが「付いてきなさい」と命じてきた。

 僕たちは使用人に案内されて執務室に通された。目の前には、国王陛下と思われる威厳に満ちた、しかし少々老けた感じの男性。それに付き添う側近らしき人が数名。男性は椅子から腰を上げた。

「ジラン閣下。よくぞお越しになられた」

「十年振りでしょうか。元気そうで何よりです。国王陛下」

「閣下こそ、若々しくお元気そうで羨ましい限り」

「いえ、いえ」とジランさんは笑みをこぼした。

「今回の通商交渉、閣下は王都を素通りされるおつもりだったとか。何とつれないと残念に思っておりましたが、思わぬ展開。喜ばしい限りです」

「その言葉、光栄ではあっても一概に喜ぶ訳にもいきません。私としては嬉しいやら悲しいやら、笑いと涙が止まりません」

 ジランさんの受け答えに、陛下は豪快に笑った。

「して、そちらは」と陛下は父に目を向けた。

「お初にお目に掛かります。私はクレール・エペトランシャ・サジスフォレと申します。フレクラント国西地方の副中統領、ルクファリエの統領を務めております。どうかお見知りおきのほどを」

「うむ」と陛下は頷いた。「サジスフォレ卿。知恵と土と水の魔法使い。覚えておこう」

「光栄に存じます」と父は頭を下げた。

「して、そなたは」と陛下は僕に目を向けてきた。

 国王陛下への返答の仕方など、僕には見当も付かなかった。ジランさんから指示されていたのは二点。自己紹介では格好をつけるべし。公式な場では冗談や軽口などを口にしてはならない。僕は父の名乗りを真似ることにした。

「お初にお目に掛かります。クレール・エペトランシャの息子、ケイ・サジスフォレと申します。フレクラント国の西地方中等学院の一年生を務めて……、一年生です。どうかお見知りおきのほどを」

「うむ」と陛下は頷いた。「白狼の騎士の高名は昨日耳に届いたばかり」

 僕はウッと呻いた。陛下はこんな場でも冗談を言える人らしい。

 国王陛下との面会はそれで終わり、ジランさんと父は直ちに交渉の場へ向かって行った。別れ際、ジランさんは僕に休養するよう命じてきた。おそらく、交渉はすぐに妥結するだろう。今はまだ午前中、正午にも届かない時刻。妥結となれば予定通りに本日中に帰国する。交渉終了まで、僕は庭園で体を休めつつ余剰精気を補充せよと。慌ただしい一日になりそうな気配に、僕はジランさんの言い付けを素直に守ることにした。

 

◇◇◇◇◇

 

 青い空。穏やかな風。緑の木々。色とりどりの花々。多分、エスタスラヴァ様式とでも呼ぶべきものが存在するのだろう。西の大公家の庭園と同様、王宮の庭園も構造的だった。

 国王陛下の耳にはすでに様々な情報や噂話が届いている様子だった。父は中等学院の元教師、土木と利水の専門家。それを「知恵と土と水の魔法使い」などと洒落た呼び方をする。そして僕には白狼の騎士。

 陛下は二年前の事件のことも知っているに違いない。それでも、物事の暗い側面には一切触れずに、白狼の騎士などと冗談交じりに持ち上げる。ジランさんには「社交辞令に舞い上がるな」と釘を刺されてはいたが、陛下は鷹揚で粋な人。そんな風に僕は感じ入った。

 それと同時に、僕は疑念もしくは懸念を覚えた。ジランさんは、嬉しいやら悲しいやらと言った。嬉しいやらの理由は明白。ジランさんと陛下は親しい間柄の模様。悲しいやらは交渉の難航と政変関連。フレクラント国は現政権に批判的な立場。陛下はどこまで状況を把握しているのだろう。

 辺りに人影が無いことを確かめて東屋の細長い腰掛けに寝転んでいると、突然「いた、いた」という声が聞こえてきた。慌てて身を起こして周囲を見回すと、若い男性が近付いて来ていた。

「君かな。先ほど到着した交渉団の子は」

「はい」と僕は会釈した。

「私はエルランド・ブロージュス」

「僕はケイ・サジスフォレと言います」

 僕はそう名乗りながら、ふと気付いた。エルランドという名前。王都の名と同じ名字。爽やかな風貌だが、ちょっと偉そうな物言い。

「政務官たちが噂していたが、良く分からないな……」

 間違いない。小首を傾げて僕を眺めるこの人は王位継承順位四位の殿下。

「何が分からないのでしょうか」

「隣に座ってもいいかな?」

 僕が了承すると、殿下は腰を下ろしてフームと鼻を鳴らした。

「君は今朝まで西の大公家にいたのだろう。アンソフィーとイエシカとクリスタは元気にしていたか」

 殿下の第一の関心事は妻候補のこと。僕はジランさんの警告を思い出した。

「次女様と三女様は元気にしておられました。クリスタという人のことは知りません」

「そうか。アンソフィーの火傷も良くなったか。やはり暴発は怖いな」

 僕は呆気にとられた。殿下はすでに知っている模様。情報の秘匿に気を遣わなくても済みそうだった。

「そういう情報はどこから。中々、他人には知られたくない事柄だと思うのですが」

「妃候補のことが気に掛かるのは当然だろう。相手方だって私のことを色々と訊いて回っているに違いない。お互い様だ」

 そう言うと、殿下は笑みを浮かべた。その時、僕はふと思い付いた。

「あのう。飴ちゃん、舐めます?」

「おう。一つ貰おう」と殿下はあっさり肯定した。

 僕は喜び勇んで背嚢から飴を取り出し、飴に掛けておいた硬化魔法を解除した。飴は会話の潤滑油。飴ちゃんと敢えて砕けて呼ぶのが会話の呼び水。小耳に挟んだ真偽不明の豆知識がようやく役に立った。

「飴の材料は?」

「砂糖だけです。砂糖水を茶色くなるまで煮詰めて固めた物。僕が作ったんです」

 殿下は包み紙を取り除くと、気楽に口に含んだ。殿下の右の頬が膨らんだ。

「君は帰り道に西の大公家に立ち寄るのか?」

「予定では、こちらに直接来た交渉団が表敬訪問することになっていますので」

 殿下はフームと鼻を鳴らし、何かを考え込んでしまった。僕は先ほどから気になっていたことを尋ねた。

「殿下は通商交渉に加わらなくて良いのですか? まだ懸案が残っているようですけど」

 僕の問いに、殿下はアハハと笑った。

「リゼット様がすぐに話をまとめてしまうに決まっている」

 その瞬間、ふと疑問に思った。ジラン閣下ではなくリゼット様。西の大公様と同じ呼び方をする。

「今、リゼット様と呼ばれましたが、ジランさんとはどのような関係で……」

 殿下は「ん?」と首を傾げた。

「知らないのか? いや。他国の子供が知らないのは無理も無いか。私の父の父の父の父の父の妃はリゼット様の息子様の娘。つまり今の王家にとっては、リゼット様は未だ存命中の御先祖様のお一人。歳の順で言えば上から六番目。外戚の外戚ではあるが」

 僕はウッと呻き、指折り数えた。何とかの何とかの。皆、そういう言い方をする。

「数えなくてよろしい」と殿下は軽く笑った。「国王陛下はリゼット様の三代下、私はリゼット様の七代下だ」

「ジランさんが上から六番目というのは……」

「リゼット様の旦那様、リゼット様御夫妻の御両親。皆様、御健在なのだろう?」

 僕はアッと声を漏らしてしまった。まだ上がいた。

「僕はそこまでのことは知らないので……。それから聞き違いでなければ、イエシカ様やアンソフィー様は殿下の一世代上では……」

「君は耳が良いな。続き柄ではそうなるが、歳は私の方が上だ。西の大公家の方々は他よりも少しばかり人生を長く楽しまれると評判だからな」

「殿下とお二人は共通祖先の夫婦から六親等と五親等離れておられる訳ですね。と言うことは、血の重複は六十四分の一」

 殿下はフフンと鼻で笑った。

「重複については残念ながらわずかに違う。それにしても、フレクラントでは次から次に英才が生まれるという噂は、あながち嘘でもないのか」

 西の大公家でも英才という言葉を耳にした。重い言葉の軽い使用。フレクラント国とエスタスラヴァ王国とでは、語感にずれがあるのだろうか。

「僕は英才ではありません」

 殿下は訝しげに「ん?」と鼻を鳴らした。

「交渉団の随行員を務めるからには、君は国でもかなりの切れ者なのだろう?」

 そういう認識だったのかと僕はようやく理解した。

「本当の随行員は今朝までこちらにいた六年生たちです」

「いや。一年生で同行を命じられた君こそが本命だろう」

 僕は本命という言葉に違和感を覚えた。僕の理解では、本命とは候補の筆頭という意味。殿下は何の候補と言っているのだろう。それともやはり語感のずれ。

「いずれにせよ、フレクラントの人口はそれほど多くないので、エスタスラヴァの貴族の皆さんと同じく、血筋の計算をしないと結婚できないんです。例えば、結婚する時には必ずずっと昔の家系図まで調べますし」

「それは知っている。そういう所が我々貴族とフレクラント人の親和性の高さの理由なのだろうな」

「それに一昨日も、西の大公家でそんな話が出て……」

 殿下はフーンと鼻を鳴らし、「そういうことか」と独り納得した。

 殿下には人の言葉を最後まで聞かない癖がある様子。僕がふとそんなことを思っていると、殿下は僕を見詰めてきた。

「その数勘定の速さ。君は数学が得意なのか?」

「数学を使うのが好きです。将来は数学を使う何かをしたいと思っています」

「それなら一つ、質問と行こう。君の国の高等学院は数学研究で有名だ。十年近く前のその紀要に、『最も論理的であり最も厳密であるはずの数学の体系にも、必ずどこかに不完全な部分が存在する』という証明があった。困ると思わないか。厳密であるはずの数学がその有様では、我々は他の様々な物事に対していかにして確信を持てば良いのだ」

 殿下には話の内容が飛躍してしまう癖もある様子。それでも一応、僕は答えた。

「それは誤読です。全体をもって完全となっている論理の体系が存在し、そこから部分的な体系を抜き出したとする。その場合、その部分体系がいかに完全と思えたとしても、その完全性はその部分体系内では証明できない。そういう意味です」

「なるほど……。我が国の完全性は外からもたらされると……」

「いえ。そういうたとえ話では」

 殿下は「ん?」と首を傾げ、呆気にとられたような表情をした。

「君は中等学院の一年生なのだろう?」

「はい」と僕は頷いた。

「君の悩みは」

「はい?」と僕は呆気にとられた。

「そうか。まだ悩み事に悶々とのたうち回るような歳ではないか」

「えっと、それなら……。受けた命令の意味や理由が分からず、命令に逆らって、より良いと思われる行動をとった場合、それはそこまで批判されるべきものなのでしょうか」

「そこまでとはどこまで」

「例えば屈辱刑を受けるまで」

「君は三級屈辱刑を受けたそうだな」

 僕は言葉に詰まった。国王陛下だけでなく殿下も知っていた。と言うことは、おそらく王宮のかなりの人がすでに知っている。

「君の行ないは独善による独断と見なされた。そういうことだろう」

「でも、意味や理由の分からない命令であっても、それに黙々と従うことだけが善であるとするのなら、上に立つ者は全知全能であるべき」

「自分は大人たちよりも賢いと言いたいのか?」

「いえ。そういうつもりでは」と僕は慌てて否定した。

「それなら、君は暗に王制や貴族制を批判しているのか?」

「ですから、そういうつもりでは」と僕は重ねて否定した。

「分かっている。君の魂には素質があるのだ」

「はい?」と僕はさらに呆気にとられた。

 この人はどこかおかしい。思考の奔流。脈絡の欠落。

「皆がそれで良いと思っているのなら、それで良い。それが衆愚の理屈だ」

 あっ。話が戻った。何なのだろう、この人は。

「君は何のために存在しているのだ」

「えっ? 飯を食べるため」と僕は適当に答えた。

「冗談を言っているのか? 食事は存在するための手段だろう」

「それなら、光を掴んで人々を救うため」

「君は偉い」

「光を掴もうと思って、間違って光爆ではなく炎爆を放って自爆したことがあります」

「君は頭がおかしい」

「はい。西の大公家の食事は上手かったです」

「そうか。懺悔するが良い」

「頭が糠床で済みません」

「私の高等学院での専攻は生命学と生命力工学だった。君も生命学と生命力工学を学んでみれば良い」

 殿下の話は飛躍に次ぐ飛躍。しかし、それを指摘するのは控えた。

「はい。興味はあります。考えておきます」

 突然、殿下は重苦しい表情で溜め息をついた。今度はどのように飛躍するのかと僕は身構えた。

「王族や貴族に生まれた者は自分のあり方をそのように自由に語れない」

「殿下はそんなに不自由なんですか?」

「今は政治学と経済学を勉強中だ。我が国のこと。フレクラント国やスルイソラ連合国のこと。中々に難しい。それに比べれば、フレクラント人は本当に自由だ」

 これは愚痴。それとも弱音。まさか、王子の地位を捨てたいなどと言い出すのでは。

「自由であるがゆえに君は選択肢に曖昧に向き合い保留するのだ」

 殿下はふと我に返ったように穏やかな表情に戻り、僕の顔を見詰めてきた。

「いや。他国の子供に言うことではないな……。いや。やはり言っておこう」

 翻意に翻意。僕は「はい」と続きを促した。何か重要なことを言われそうな気がした。

「自由とは個であるということ。そして、多くの個は存在理由を見失う」

 その時だった。「殿下」と呼ぶ声が聞こえてきた。政務官なのか使用人なのか、男性が近付いて来ていた。

「殿下。交渉が妥結いたしました。最後の歓談の後、交渉団の方々はお発ちになります」

 殿下は「分かった」と答えると、「行こう」と僕に声を掛けてきた。

 庭園から宮殿へ向かう道すがら、殿下は歩を進めながら何かを考え込んでいた。殿下の頭の中では思考が駆け巡っている様子だった。一方、僕は両手を広げて最大限に自然精気を取り込みながら、殿下に無言で付いて行った。

 殿下の言葉の続きが気になった。ちょっと考えてみた限りでは、当たり前のような言説。しかし、その言い回しは思わせ振り。殿下は哲学的な話をしようとしたのだろうか。それとも社会学的。もしかしたら殿下の専門だという生命学。

 目の前を歩く殿下が突然「私の見解では」と言い出した。

「英才とは転生を繰り返した者だ。それぞれの前世で知恵と知識を魂に刻み込み、たとえ現世では目覚めなかったとしても、それが魂の深層から滲み出す」

 また飛躍。殿下の関心は英才の件に戻ってしまった。殿下は僕の方に振り返ろうともしない。丁寧に対応するのが面倒臭くなってきた。

「僕の聞いている所では、転生しなくても賢い者はいる。むしろ、そちらの方が一般的」

「知っている。私は専門家だ」

 殿下の少し強めの語気に、僕は「はい」と簡潔に応えた。

「肉体から解放された魂は個として存在する。個として存在する魂の多くはいずれ崩壊し、自然に還って自然精気の一部となる。崩壊を回避して転生するためには、曖昧なる保留とは正反対の態度、つまり信念、熱望、執念、妄執などを持たなければならない。君には先鋭化が足りない。君は生死を越えてもっと激烈であるべきだ」

 転生に関する一般論。殿下は生命学の話を続けていた。

「要するに、君の知識は聞きかじって得たものか」

 意味不明。何が要するに。

「そういうものも多いと思います。特に僕の一族には教師が多いので」

 殿下はフーンと鼻を鳴らした。今度は僕が訊き返した。

「殿下の存在理由は何ですか」

 殿下はフフンと鼻で笑った。

「種馬に決まっている。男子を産ませて産ませて産ませ尽くす。それが私の役目だ」

 あまりの言い方に、僕は「あのう……」とわずかに口ごもった。

「いずれ国王になる方としては、政庁の仕事も大切なのでは……」

「まつりごとは貴族の中から選ばれた宰相の領分だ。馬鹿が世襲で権力を握ったら目も当てられないことになる」

「とすると今、政治学や経済学を勉強しているのは……」

「政治や経済が分からなければ、宰相の行ないの良し悪しも分からないだろう」

 僕が「はい」と答えると、殿下は「それにしても」と話題を変えた。

「君にとっては、弟たちの相手は役不足だな」

 僕が「相手?」と訊き返すと、殿下はようやく足を止めて振り返った。

「知らないのか? 今回のような交渉に子供を帯同するのは、次世代の交流のためだ」

 知らなかった。「そうだったんですか……」と僕は呟いた。

「君は相当な型破りらしいな。何と、白狼に跨って国中に高笑いを轟かせながら空を飛び回ったそうではないか」

「それは大袈裟ですけど……」

「君は野生の獣のような魔法も使うと聞いたが」

「自然強化魔術です。いつの間にか覚えてしまって」

「君は頭がおかしい」

 何だかうんざりしてしまって、僕も言い返した。

「殿下も頭がおかしい」

「やはり本命か」

「本命ってどういう意味ですか」

 殿下はフーンと鼻を鳴らすと黙り込んでしまい、そのまま歩き始めた。

 殿下が再び口を開いたのは宮殿の入り口が目前に迫った時だった。

「西の大公家は……」と殿下は呟いた。「何としてでも魔法の訓練を仕上げなければ、後々大変なことになるだろうに……」

「アンソフィー様のことですか?」

「覚えておくと良い。人を試し、人を陥れ、しかも試し陥れたことを当人の前で平然と口にする。この世には、そんな鬼畜のごとき悪党も存在する」

「はい」

「君の名前は」

「ケイ・サジスフォレ」

「覚えておこう」

 そう言うと、殿下は宮殿に入っていった。

 

◇◇◇◇◇

 

 大広間にはフレクラント国の代表者たちとエスタスラヴァ王国側と思われる人たちが揃っていた。皆の手には杯。皆は立ったり座ったりしながら雑談を交わしていた。室内中央には数脚の長机。果物や菓子が用意されていた。しかし、時刻は朝食からまだ数時間とあって、多くの人は飲み物のみ。食べ物に手を出す人はほとんどいなかった。

 そこには父とジランさんの姿もあった。二人は笑みを浮かべてエスタスラヴァ側の人と言葉を交わしていた。一方、フレクラント側もエスタスラヴァ側も、それ以外の人たちの顔には疲労の色が滲んでいた。

 部屋の隅で果汁を飲みながらそんな様子を眺めていると、見知らぬ男性が近付いてきた。少し老けた感じのその男性はにこやかに「君が噂のサジスフォレ君か」と言った。

「お初にお目にかかります。それで、あなたは……」

「私は宰相を務めている」

 男性は名乗らずに役職のみを答えた。僕は問い質さずに会釈した。

「フレクラントの皆さんは相変わらず手ごわい」と宰相閣下は笑みをこぼした。

「交渉はそんなに揉めたのでしょうか」

「まあ、それなりに。ところで、君は中等学院の一年生か。王家の若君たちと同年配だな」

 交渉団に子供を帯同するのは国を越えた交友のため。僕はそれを思い出した。

「エルランド殿下にはお目に掛りましたが、それ以外の人たちとはまだ……」

「まあ、そのうちに。ところで、君の父上はかなりのやり手のようだが、父上はどんな方なのだろう」

「どんなと言われても……」と僕は困惑した。

「良い所。悪い所。人間なのだからどちらも色々あるだろう」

「それはそうでしょうけど……」

「私の見るところ、父上はしっかりと勉強される方のようだ」

 確かに、父はこの交渉に備えて色々と調べ物をしていた。父と宰相閣下は今回が初対面のはず。それにもかかわらず、宰相閣下は父のそんな所をきちんと見抜いた。

「父上はお幾つだろう」

「百五十二歳です」

 宰相閣下はフームと鼻を鳴らした。

「私や陛下よりも幾分下か……。それにしては経験も豊富なように見受けられる」

「いや、それほどでも」

 しつこいほどの誉めように、父に代わって僕が謙遜すると、宰相閣下は「んん?」と興味深そうに鼻を鳴らした。

「何かあるのかな? 父上は普段はどんな方なのだろう」

 あまりの執拗さに、僕は返答に困った。

「あまりにも賢く手強い方なので、普段の癖ぐらいは知っておきたいと思ってな」

「いや……」と僕は首を傾げた。

「良い所と悪い所をきちんと見分ける。それが人を見る目というものだろう」

「それなら……。父は時々、お人好しと言われているようですが……」

 僕の返答に、宰相閣下はフーンと鼻を鳴らすと、何かを考え込んでしまった。杯の果汁に口を付けながら次の言葉を待っていると、宰相閣下はおもむろに「駄目だな」と呟いた。その冷淡な響きに、僕は緊張した。

「父上は君を産み育ててくれた大恩のある方だろう。そういう方の悪口を言うとは、何たることだ。そういう行為を人の道にもとると言うのだ」

 突然の批判に、頭の中が真っ白になった。

「何があろうとも、大恩のある方のことは決して悪く言わない。それが人として守るべき道だ。君は若君たちの相手に相応しくない」

 宰相はそう言い残すと、その場を去り、独り大広間から出ていった。

 頭の中を様々な思いが駆け巡った。得体の知れない不快感が沸き上がってきた。しつこく尋ねてくるから、僕は仕方が無く答えたのだ。あの男は国王陛下に次ぐ王国第二位の重要人物。そんな人間に執拗に迫られたら、無碍にあしらう訳にもいかないではないか。

 僕は大広間の隅に座り込んで考え続けた。あの男は間違っている。何かが決定的に狂っている。あの男にやり返す。その根拠は。

 そんなことを考えていると、「ケイ。どうしました」と呼ぶ声が聞こえた。副中統領の女性だった。その瞬間、僕はエルランド殿下の言葉の意味に思い至った。僕は「何でもありません」と答えて腰を上げた。

 僕は副中統領を振り切って大広間を後にした。天井の高い広い廊下。使用人と思われる男性に宰相の居場所を尋ねると、男性は怪訝な顔をしながらも教えてくれた。

 僕の心は嫌悪と黒い怒りで満たされていた。過大に捏造された罪によって三級屈辱刑を受けたあの時、僕はあいつらを殺しそこなった。皆殺しにして自分も死ぬ。その程度のことさえ思い付かなかった。でも、今は違う。やられたらやり返す。

 昨日は西の大公家の家令。今日は宰相。家令との一件では確かに僕にも落ち度があった。一方、先ほどの宰相。僕に何の落ち度があると言うのか。そして僕の人格の否定。絶対に許せない。絶対に許してはならない。

 僕は宰相の控室の前に立った。背嚢から鉈と鞘を取り出して腰の後ろに帯びた。買ったばかりの僕の鉈。フレクラントで作られた合成石製の鉈。首を落とすのに十分な大きさと重さ、抜群の切れ味。戦闘になったらためらわずに使う。僕は鉈に硬化魔法を掛けた。

 僕が予告なしに扉を開けると、宰相は驚いた様子で「いきなり何だ」と凄んできた。

「お前は僕を陥れ、僕と僕の家族を貶め、僕に罪悪感を植え付けようとした。人を試し、人を陥れる。そんな曲がったことをしておきながら偉そうに人の道を説く。何という偽善。何という悪徳。鬼畜のごとき悪党!」

 僕はそう怒鳴り返し、魔法力を込めてウワーと絶叫した。宰相が両耳を抑えてしゃがみこんだ。窓硝子がビリビリと震えて砕け散った。室内の陶磁器が拡声魔術に共振して弾け飛んだ。遂に、宰相が白目をむいて床に引っ繰り返った。

 次の瞬間、僕は空を見上げていた。慌てて周囲を見回すと、王宮の庭園。僕は地面に横たわっていた。僕のそばには父の姿。僕は跳ね起きて父に尋ねた。

「硬化魔法を掛けたの?」

「お前、自分が何をしたのか分かっているのか」

「分かっている。明確に」

 僕が全ての経緯と僕の考えを説明すると、父は目付き鋭くフーンと鼻を鳴らした。

「分かった。俺も人の道とはもっと真っ直ぐなものだと思う」

「あの宰相はどうなった」

「手当てを受けている所だ。他にも鼓膜が破れた者が多数いる。今、交渉団の全員で治療に当たっている。皆すぐに治るだろう。エスタスラヴァ側はそのことで騒いでいるが、強い治癒魔法を使える我々から見れば、そんなことは大した問題ではない。問題は物の方だ。王宮の建屋に亀裂が入った。かなりの窓や備品が壊れた。お前はやり過ぎた」

「あの男は僕を陥れて、僕に濡れ衣を着せたんだ」

「分かった。俺もお前を通して宰相に貶められた。俺にもお前に似たような気持ちはある。しかし、やり過ぎはやり過ぎだ」

「でも、あの男はこの国で二番目の地位にあるんだよ。権力という意味では、実際は一番なんだよ。そういう男が地位を、つまり国の力を使って僕を陥れ、僕の人格を否定した。あの悪質さは死に値する。でも、いきなり殺したら戦争になるから、まずは出方を見た」

 エルランド殿下は生死を越えて激烈であるべきと言った。しかし父は違う。やはり父は当てにならない。そんな風に僕は失望しかけた。

「僕は皆の言い付け通りに大人しくしていた。そうしたら、あの男はそういう所に付け込んできた。もう大人しくするのはやめる。僕は戦う。とことん戦う」

「ケイ。その腰の鉈はすぐに外せ」

「なぜ」

「こんな所でお前が着けていて良い訳が無い。これ以上何かあるようなら、名誉に懸けて、俺がその鉈であの男の首を落とす」

 珍しい言葉だった。僕はフーンと鼻を鳴らした。

 父が僕の鉈を腰に帯びた時だった。「おーい」と呼ぶ声が聞こえた。見ると、エルランド殿下と見知らぬ男性がこちらに向かってきていた。

 エルランド殿下は僕の前に立つと、満面の笑みを浮かべて「君は頭がおかしい」と声を上げた。僕は無言で頭を下げた。

「サジスフォレ卿」と見知らぬ男性は言った。「少し外に出ていたので、挨拶が遅れました。私はフェリクス・ブロージュス。国王陛下の孫で、王位継承順位二位です」

 父と僕は第二位の殿下に会釈した。

「皆の治療は終わりました。先ほどから、宰相が国王陛下に色々と訴えています。それを聞いて、大方の事情は察しがついています。宰相がケイ殿に何をしたのかも想像がつきます。ただし念のため、ケイ殿からも事情を聞きたいのですが」

 父に促されて、僕は先ほどから続けていた話の内容を全て伝えた。僕の説明が終わると、第二位の殿下は「なるほど」と言った。

「想像していた通りです。今回の件、このまま終わりとせず、出来る限り大ごとにしていただきたい」

「どういう意味です」と父は不審そうに首を傾げた。

「今、フレクラントの他の方々にも急いで根回しを行なっています。ケイ殿を責める気は全くありません。ですから、どうか我々に力を貸していただきたい」

「何をするつもりです」

「中央政庁から宰相の一派を一掃します」

 僕はその場にしゃがみこんで頭を掻きむしった。

 

◇◇◇◇◇

 

 大広間よりもかなり広く、国王陛下の執務室よりもはるかに広い謁見室。上座には立派な椅子に腰を下ろす国王陛下。そのかたわらには直立不動の宰相。僕も含めてフレクラント国通商交渉団は下座に横一列に並び、謁見室の壁際は多くの人で埋め尽くされていた。

 通商交渉団には、副大統領のジランさんを含めて三人の中統領がいる。おそらく、三人は事態の急変も想定し、背嚢に入れて密かに持ち歩いていたのだろう。いつの間にか、三人も鉈を納めた鞘を腰の後ろに帯びていた。つまり、いざとなったら血を見ることもやむなし。その覚悟を無言で表明していた。

 国王陛下が「ケイ・サジスフォレ」と声を発して、いよいよ審問が始まった。

「何ということをしてくれたのだ。なにゆえに、かようなことを仕出かしたのだ」

「その前に」と父が割り込んだ。「そこにいる宰相閣下の説明をお聞きしたい」

 国王陛下は「良かろう」と答えると、脇に控える宰相に説明を促した。

 経緯に関する宰相の説明には特に嘘も脚色も無かった。宰相の言葉が進むたびに、周囲からオオと感嘆や同意の声が漏れた。しかし、宰相自身や僕の行ないに対する解釈には同意の声ばかりでなく、「んん?」と懐疑の声も微かに漏れた。

 最後に宰相は一呼吸おいて僕を睨んだ。

「私は年長者として若輩者に人の道というものを教えただけだ。なのに、それを逆恨みするとは何たる腐った根性か。ケイ・サジスフォレ。ただで済むと思うことなかれ」

 宰相の言葉はそこで終わった。国王陛下は僕に説明を促してきた。

 僕にとっては三度目の説明だった。父や第二位のフェリクス殿下、第四位のエルランド殿下にしたのと同じ話を繰り返した。

 僕の説明が終わると、沈黙が場を支配した。国王陛下は俯き加減で目頭を押さえていた。その他の多くの者も首を傾げたり、微妙な表情で僕を見詰めたりしていた。

 沈黙を破ったのは父だった。父は「宰相よ」と呼び捨てにした。

「汝は我が息子に対して氏名を名乗らず、宰相とだけ伝えた。その上で、人の道を説くと称して無理やりに息子から恥を引き出し、私と息子を貶めた。つまり、国を挙げて我ら親子を愚弄したのだ。この屈辱、ただで済むと思うことなかれ」

「いや。サジスフォレ卿。先ほども言った通り、私は人倫を説いたのみ。教訓を厳しく授けただけ。私は、父上を大切にせよと述べたのだ」

「たかが一国の宰相が何様のつもりだ。汝はこの世の全てを支配しているつもりか。つまらぬ詭弁はやめよ。汝は息子を陥れ、人倫を説く理由を敢えて無理やりに作り出したのだ。このゆがんだ言説。許す訳にはいかぬ。息子でさえも王宮の壁を引き裂いて見せた。それならば、私は汝を中心に王宮を根こそぎ吹き飛ばして見せよう」

「そこまで言うのなら、私も言わせてもらおう。公開屈辱刑を受けた者を王家の若君たちに引き合わせようとは、一体いかなる魂胆か。私は国を代表してその企みを阻んだのだ」

 その瞬間、殺意が蘇った。しかし、僕が行動を起こすよりも先に、謁見室の隅から「宰相殿」と大声が響いた。見ると、第四位のエルランド殿下が一歩前に踏み出していた。

「それはいかにも出過ぎた真似。なぜ、宰相殿が我らの交友関係を定めるのだ。他家の宰相殿が王家のあり方までも差配し支配するつもりか」

 僕は我に返り、殺意をこらえた。これは政変。殿下たちには筋書きがあるのだ。

 上座から「もう良い」と国王陛下の声が響いた。室内の視線が陛下に集中した。

「これは大変な行き違いである。私はこの宰相と共に長年にわたって国を取り仕切ってきた。この宰相には少々人の悪い所があるのだ。それを国王たるこの儂が詫びる。サジスフォレ卿。ケイ・サジスフォレ殿。それで矛を収めてもらえまいか」

「陛下」と第二位の殿下が声を上げた。「それでは事は収まりませんでしょう。宰相殿は説明を尽くしておられぬように見受けられます」

「フェリクス。それはお前が決めることではない。フレクラントの方々が判断することだ」

 国王陛下はそのように指摘して溜め息をつき、ジランさんに目を向けた。僕も横に目をやると、ジランさんは渋い表情でフンと鼻を鳴らした。

「宰相の最後の言葉には笑いも涙も出ませんね。宰相は私たちフレクラント国通商交渉団全体を侮辱しました。やはり、ケイ・サジスフォレやクレール・エペトランシャの言う通りです。私たちに向かって何を言う。思い上がりも甚だしい」

 国王陛下は目を見開くと、頭に手を当てて項垂れた。

「陛下」と第二位の殿下が声を掛けた。「これは一国に対する非礼、欠礼。ただでは済みません。宰相殿。いかに釈明されるおつもりか」

 宰相が口を開いた。しかし、その口からは中々言葉が出てこなかった。すると、室内から「お待ちください」と声が上がった。「刑務長。何か」と第二位の殿下が答えた。

「本来、他国で刑罰を受けた者を王宮に入れるかどうかを判断するのは私の役目。しかし、今回は他国からの特別な代表団。私の代わりに宰相閣下がその役を果たされただけ。王宮には立ち入らせるが若君たちには近付けない。その判断は至極もっともと存じます」

「それと外交非礼に何の関係がある。外交使節を敢えて侮辱する必要がどこにある」

 第二位の殿下がそのように指摘すると、刑務長は口ごもった。「もう良い」と国王陛下の声が再び聞こえた。

「フェリクス。お前は落としどころをどこに見ている。ジラン閣下。あなたは我々に何を求めておられる」

 第二位の殿下がジランさんに目をやった。ジランさんが口を開いた。

「宰相の退任を」

「何と」と国王陛下が声を上げた。

 謁見室がざわめいた。そこまでのことか。言い過ぎだろう。それこそ出過ぎた真似。そんな声がそこかしこから上がった。

「何ゆえにそこまで言われるのか」と宰相が尋ねた。「言い分次第では、ジラン閣下とて許す訳にはいきませんぞ」

「白狼の騎士が命じたことを忘れたのですか。虚言をもって他者を弄する者は人の上に立ってはなりません。魂胆。企み。それらは全て宰相自身の習い性。『人の悪い所がある』で済む問題ではないのです」

「いや」と宰相は首を横に振った。「私はこれでも誠心誠意、仕事に精力を傾けてきたつもりです。そのような批判を受けるいわれはありません」

 すると、エルランド殿下が謁見室の中央に小さな机を持ち出してきた。次いで、紙の束を机の上に置いた。「何をしている」と国王陛下が問い掛けた。しかし、殿下は問いを無視して壁際に退き、代わって第二位の殿下が謁見室の中央に進み出た。

「少々お待ちください。陛下には全てを見届けていただきます」

 第二位の殿下は「部屋の扉を全て閉じよ」と命じ、謁見室をぐるりと睥睨した。全ての扉が閉じられると、次いで殿下は「法務長。衛士長」と叫んだ。人込みを掻き分けて、それらしき二人の男性が第二位の殿下に歩み寄った。

「口を開くことなく、この資料に目を通してもらいたい」

 二人は怪訝そうにしながらも、紙の束をめくり始めた。徐々にめくる勢いが増していった。全てに目を通し終えると、一人が「殿下」と声を上げた。

「これは間違いないのですか」

「法務長。全て真実です」

 その時、衛士長と思われる人が資料から顔を上げ、謁見室内の一角に目を向けた。

「刑務長。お前もか!」

 刑務長はわずかに後ずさると、足早に謁見室の出入り口に向かい始めた。

「刑務長を捕まえろ!」

 次の瞬間、刑務長は彫像のように固まり、そのまま床に転がった。「一体何事か」と国王陛下の声が響き渡った。第二位の殿下は国王陛下に向き直り、姿勢を正した。

「現在、中央政庁には不正がはびこっております。この資料はそれらを詳述したものです」

 室内の人込みが動いた。いくつもの人影が部屋の扉に向かおうとした。

「フレクラントの皆様!」と第二位の殿下が叫んだ。

 騒ぎが収まった頃には、十人を越える者たちが床に転がっていた。全ては硬化魔法によるもの。周囲から僕たちに向けられる視線には畏怖が混ざり込んでいた。

 国王陛下が「何たることだ」と溜め息をついた。

「お待ちください」と宰相が口を挟んだ。「フェリクス殿下。何の権限があって、殿下がかような命を下すのです」

 第二位の殿下はその言葉を無視して法務長に尋ねた。

「その資料をもってすれば身柄の拘束は可能だと思うが、いかに」

「はい。有罪無罪の判定には未だ不十分かとは思いますが、一時的に拘束して取り調べを行なうには十分かと」

「宰相殿」と第二位の殿下は前を向いた。「見ての通り、権限を持つ法務長が判断を下し、権限を持つ衛士長が拘束を命じた。手順としては曖昧ではあったものの、それは事実です」

「国王陛下。宰相閣下」と法務長が割り込んだ。「この後はいかがいたせば」

 その瞬間、人込みの中から「貴様は馬鹿か!」とエルランド殿下の罵声が飛んだ。

「貴様には権限があるのだろう。一々、人の顔色を窺うな!」

 法務長は大きく息を吐くと、衛士長に声を掛けた。

「行こう。残る全員を直ちに拘束する」

 法務長と衛士長が資料を手に慌ただしくその場を去り、転がる者たちがどこかへ運ばれていくと、第二位の殿下は国王陛下に向き直った。

「陛下。次に為すべきは……」

「待て」と国王陛下は遮った。「状況を説明せよ。まず、何人を拘束するつもりだ」

「今、私の口から述べるのは差し控えたいと思います。ただし、それは時を置かずに明らかになるでしょう」

「ここには中央政庁の者たちが多数残っておるが、これらの者たちに問題は無いのだな?」

「ここにいる者たちに不正の痕跡は見付かりませんでした。ただし、悪評のある者が複数名いると明言いたします。陛下。中央政庁の者たちには、これからしばらくの間は王都から離れることを禁じられた方が良いかと。もし離れたら、逃亡と見なすと」

「分かった。許可なく王都から離れることを禁ずる。政庁にもそのように伝達を」

 その言葉に従って、政務官の一人が謁見室から走り去った。

「私からも質問を」と宰相が発言した。「先ほど、フェリクス殿下はフレクラントの方々に協力を仰がれたが、まさか他国の勢力と結んで権力を奪取しようなどと」

 その瞬間、アハハとジランさんの笑い声が響いた。

「その冗談には笑いと涙が止まりません。誰が好き好んでそんな面倒臭いことを。ただし、これだけは言っておきましょう。エスタスラヴァ王国中央政庁の悪評は遠くフレクラント国にまで届いています。それを知らぬは王都の者ばかり。何と片腹の痛いこと」

 ジランさんの嘲笑が再び響き渡った。それが収まるのと同時に、国王陛下が第二位の殿下に問い掛けた。

「フェリクス。なぜこのような仕儀に至ったのか、知る限りのことを説明せよ」

「はい」と第二位の殿下は胸を張った。「私は今年で九十七。高等学院を修了してからの七十年以上を王家と中央政庁の外回りの仕事に費やしてまいりました」

 最初は何も分からぬままに仕事に励むばかりだった。ところが、ある時から疑問を持つようになった。道にせよ橋にせよ水路にせよ、徐々に悪くなっていくばかり。より良くなることがないのはなぜだろうと。

 調べてみても、王国や中央地域の財政収入に問題は無い。公共の事業も滞りなく行なわれている。しかしよくよく調べてみると、収入、支出、資産に齟齬がある。事業の質と量が財政の規模に微妙に見合わない。つまり、資金の一部がどこかへと消えている。

 さらに調べて遂にたどり着いたのは、中央政庁幹部による不正の疑惑。特にこの十年は巧妙な不正が蔓延している模様。それに気付いて密かに証拠集めを始めると、どこからともなく邪魔が入る。資料や証拠が消失する。手の者が配置転換の命を受けたり、僻地へ飛ばされたりする。

 最近ようやくそれなりに証拠が揃ったものの、下手に争えばこちらが陥れられる。そのため、追及の機会を待つことにした。

「今回は十年に一度の通商交渉、フレクラント国の代表団がお見えになる。しかも、代表団には白狼の騎士が帯同されるとのこと。それを頼りに、意を決して事に及んだ次第です」

 その言葉に、僕は思わずエッと微かに声を漏らしてしまった。

「フェリクスよ」と国王陛下が疲れた声を出した。「そこまでのことをしていたのなら、なぜ儂に打ち明けなかった」

「陛下は宰相殿を信用しきっておられる。しかし私の見るところ、少なくともこの十年の不正の元凶はその宰相」

「殿下。いや。フェリクス・ブロージュス」と宰相が声を荒げた。「私とて貴族の端くれ。そのような濡れ衣を着せるとあらば、王家の者とて容赦はせんぞ」

「何も、汝が不正を働いた、汝が不正をそそのかしたなどと述べている訳ではない。汝は周囲の者をどのように見ているのだ。ゆがんだ言説をもって他者を言い伏す。最高の権力を握る者がそのような振る舞いを繰り返せば、善き者は去り、残るは悪しき者ばかりとなるのは必定。汝の周りには、汝を手本として他者に悪辣に当たる者か、汝を恐れて汝に追従する者しかいないではないか。そして、汝の前では良い顔をしながら、裏では汝の威を借りて巧妙に不正を働く。容赦せんとは我のせりふぞ」

 宰相はウーンと苦しそうに唸った。

「先ほどのジラン閣下の言は正しい。いや。白狼の騎士の命は正しい。虚言をもって他者を弄する者は人の上に立ってはならんのだ」

 国王陛下からも苦しそうな呻きが微かに聞こえてきた。

「知っている者もいるだろう。白狼の騎士の伝説は子供向けに色付けされている。真実は違う。真実はより過激であり凄惨である。わずかに残された記録によれば、かつて北に存在した豪族たちは、圧政に慈悲と称するものを加えて暴虐の域に高めた。果てしなく驕り高ぶり、遂には北を訪れたフレクラント人をも暴虐の対象に加えようとした。激怒したフレクラント人は白狼の騎士を先頭に北に攻め入り、豪族たちを即座に皆殺しにした。切り落とした首を街道に点々と並べ、白狼の騎士の軍勢はこの王都にまでも攻め入った。そして、白狼の騎士は我らが祖先に命じた。国が改まるまでエスタスラヴァを名乗るが良いと。かつて、この地はエスタコリンと呼ばれていた。いつになったら、我々は神話の時より続くエスタコリンの名を取り戻せるのだ。いつになったら、栄えあるエスタコリンを名乗れるようになるのだ」

 謁見室は静まり返っていた。皆が真剣な表情で第二位の殿下の言葉に聞き入っていた。

「あれからすでに五千年。遂に再び白狼の騎士が現れた。これは戯言ではない。そもそも伝説の白狼の騎士とて謎の人。歳も風貌も男女の別も定かではない。そして再び現れた白狼の騎士は、我が国の中枢に潜む悪が何によってもたらされたのかを見抜き、王宮を切り裂いて告発した。これは事実だ」

 第二位の殿下が僕の方に振り返った。

「ケイ・サジスフォレ殿。この審問の最初に戻ろう。言いたいことがあれば遠慮なく言うが良い」

 これが大人の戦い。それを実感しながら、僕は一歩前へ踏み出した。

「宰相に陥れられたと気付いた瞬間、僕の頭の中は真っ白になりました。そして、すぐに黒い怒りと嫌悪で満たされました。そんなことが長年にわたって繰り返されてきたのだとしたら、中央政庁が腐るのは当然です。たとえ不正を働いていなかったとしても、宰相は政庁の頂点に立つ者として、政庁を腐らせた責任を取るべきです」

「至極もっともな言い分」と第二位の殿下は賛同した。

「それから、皆さんの国の名前は皆さんが好きに決めれば良いのではないでしょうか」

 第二位の殿下は呆気にとられたような顔をした。「さて」とジランさんの声が聞こえた。

「そろそろ決着を付けませんか。国王陛下。決断を」

 国王陛下は腕組みをしながら俯き加減で考え込んだ。室内の視線が陛下に集中した。

 ふと強い視線を感じて一瞥すると、人垣の中に見覚えのある顔が一つ。昨日の常設警邏隊員の一人が普通の服装、何食わぬ顔で紛れ込んでいた。もしやと思って見回してみると、西の大公家の次女様。次女様は人垣の肩越しに国王陛下を見詰めていた。

 少し間をおいて、ジランさんは「アルヴィン」と穏やかに呼び掛けた。

「あなたの本当の姿を知る者は、もはやそれほど多くありません。でも、私は覚えていますよ。あなたはとても利発でとても気の好い子供でした。お菓子にせよ、おもちゃにせよ、身分を問わずに喜んで分け与えてしまう。あなたはそんな子供でした。そういうことを知っているがゆえに、私はこのような場には立ち会いたくなかった。あなたはこれまで王として良く頑張って来ました。しかしおそらく、あなたの良さはここでは活きません。正義の守護者。それが王家に課された責務。次の世代が立派に育っています。決断をなさい」

 皆が無言で待ち続けると、陛下はゆっくりと腕組みを解き、顔を上げた。

「この場で宰相を解任する。王位継承順位二位を暫定的に宰相に任命する。私はこの場で王位から退く。王位継承順位一位を王の座に付ける。国の名をエスタコリンに改める」

 

◇◇◇◇◇

 

 僕は王国西部ヴェストビークの街へ向けて高い空を飛び続けていた。周りにはフレクラント国の首脳陣。王都を飛び立つ直前、皆さんは僕に声を掛けてくれた。

 僕にとっては初めての長時間にわたる高空高速飛翔。その上、勇ましくも拡声魔術を放ったばかり。疲労を感じたら、遠慮なく直ちに地上に降りること。何なら、体と体を綱で結んで、我々が引いてやろうかと。

 初等学院生でもあるまいし、さすがにそれは恥ずかしい。不意の墜落なんて僕も御免。疲れを感じたら必ずすぐに合図する。僕は皆さんにそう約束した。

 王都を出発したのは、審問の終了から一時間ほどが経った頃だった。通商交渉は無事に終了しており、国王陛下の裁断によって政変の向かう先も見えた以上、騒然とする王宮や王都にいつまでも居残る理由は無かった。

 下方に目をやると、低空帯を低速で飛翔する人影、街道を駆け抜ける馬、走り続ける人。おそらく、国内各地に政変の報をもたらそうとする伝令たち。エスタスラヴァ王国が動き出そうとしていた。

 東からの風に乗ったのか、行きよりも帰りの方が速かった。明らかにまだ半時も経っていない頃、前方にヴェストビークの街が見えてきた。あの街を発ってから何日も何週も過ぎたような気がするのに、未だ同じ一日、日暮れには程遠い頃合いだった。

 西の大公家は僕たちのために軽食を用意してくれた。会議室には大公様と西部政庁の幹部が数人、フレクラント国の首脳陣六人と僕。それぞれ面識のある人も多いらしく、会話はそれなりに弾んでいた。

 政変の報に接しても、大公様たちは慌てる気配を見せなかった。伝信台を通してすでに速報が届いていたらしい。さらにはジランさんたちの予測。大勢は決した。混乱が騒乱に発展する可能性は低い。仮に騒乱となっても、中央の衛士長以下が殿下たちに付いている以上、直ちに鎮圧されてしまうだろう。ただし今後、綱紀粛正の動きは国内各地に広がるだろう。そんな言葉が大公様たちを安堵させたようだった。

 西部の人たちとしても、中央の政変に巻き込まれないよう事前に態勢を整えてはいたらしい。フレクラント国大統領の忠告に従い、西部政庁ではすでに不正の有無等の査察を終えている。さらには、中央の貴族が割れる事態となっても、西部の貴族は割れることなく一団となって動く。そんな取り決めを済ませてあるとのことだった。

 また、西の大公家の長女様を始めとする西部の貴族の子弟が二十名程度、中央政庁の中級職や下級職に就いている。それらが不正に関与していないことや余計な派閥に加わっていないことも確認済み。西部の貴族は中央でも一団となって動く。大公様たちは自信を見せてそう言い切った。

 いずれにせよ、現状では王都からの続報を待つしかない。詳報が届くのは早くても明朝になるだろう。助力のために西部の衛士隊の一部を王都へ差し向ける必要があるかも知れないが、西部にとってはすでに後始末の段階。大公様たちはそのように達観している様子だった。

 同じ国内とは思えないほどに悠然とした雰囲気の中で、僕はゆっくりと軽食を摂りながら独り物思いに耽り続けた。

 ジランさんを始めとする中統領以上の通商交渉団参加者は政変の情報を事前に入手していた。そして多分、基本方針はあくまでも直接の関与はせずに後ろ盾のみ。フェリクス殿下はしきりに話をフレクラントに結び付けようとしていたが、客観的にはやはりエスタスラヴァ内部の問題。フレクラント側が口を挟むようなことではなかったに違いない。

 王都での通商交渉が長引いたのは、殿下たちからの催促だったのかも知れない。ジランさんにも王都に来てほしいと。事実、ジランさんが王都に到着すると、交渉はすぐに妥結した。朝一番の時点では、ジランさんもあれを催促とは思っていなかったのだろう。その思惑に気付いていれば、ジランさんは僕を帰国させようとしていたに違いない。

 エルランド殿下は庭園で僕に警戒を促した。そしてその頃、政変の首謀者フェリクス殿下は王宮の外に出ていた。つまり、殿下たちとしてもあの時点で直ちに事を起こすつもりは無かったのだろう。交渉の終了を待ち、密かに交渉団に接触して相談する。そんな段取りを考えていたのだろう。

 それを僕が引っ繰り返してしまった。父からは簡潔に釘を刺された。白狼の騎士の再来は虚構。わずかな類似性があるに過ぎない。フェリクス殿下が虚構をでっちあげてくれたおかげで僕は守られたのだと。経験を積んだ大人は凄いと僕は率直に認めざるを得なかった。

 程なく歓談も終わり、皆が席を立とうとした時だった。ジランさんが声を上げた。

「私はここにもう一泊させてもらおうと思います。ちょっと私用で」

 皆の視線がジランさんに向いた。そう言えば、ジランさんは先ほどから大公様と二人でひそひそと言葉を交わしていた。

「分かりました。私たちは予定通りに」と中統領の女性が了承した。

「それからケイも残りなさい。もちろんクレールも。やはり私としては、子供の墜落など目にしたくないのです」

「僕は大丈夫です」と僕は断言した。

「初めての長距離飛翔でしょう。念には念を入れなさい」

 そこに副中統領の男性が口を挟んできた。

「我々が担ぎながら飛ぶことは普通に可能ですが、何か事故の報でも入ったのですか」

「いいえ。特に事故の報が届いている訳ではありません。あくまでも念を入れるため」

 僕が父の顔色を窺うと、父は首を傾げた後に小さく頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 母屋の正面玄関前で交渉団の出立を見送り、西部政庁の人たちが屋敷を後にするのを見届けると、大公様は執務室へ向かうと告げてきた。大公様の声音は重苦しく、顔から笑みは消えていた。

 執務室には、大公様、ジランさん、父、そして僕。全員が椅子に腰を下ろすと、大公様は溜め息をついた。ジランさんはすでに何らかの事情を聞いている様子。大公様に尋ねた。

「アンソフィーは今どこに」

「自室で待機するよう申し付けています。何たる軽挙と言い聞かせて」

 僕は脱力し、椅子からずり落ちそうになった。今日という日はまだ続く。ここでも何かが起きていたのだ。

「尋常ではない話のように聞こえますが、一体何が」と父が口を挟んだ。

「突然、家出の準備を始めたのです。フレクラントへ行くと」

「それは出奔。いや。やはり家出か……」と父は首を傾げた。

「昨日、ケイ殿の話を聞いて決めたのだと思います」と大公様は溜め息をついた。

 三人の視線が僕に集中した。僕は慌てて首を振った。

「僕は唆したりはしていません」

「そうは言っていません」と大公様は否定した。「昨日の午後と昨日の夜。アンソフィーとどのような話をしたのか、詳しく聞かせてもらえませんか」

「三女様が『フレクラントへ行ってみたい』と言うので、『たまの休みに旅行でもしたらどうか』とは言いました。それだけです」

「常識的な受け答えだと思います。それ以外にはどんな話を。例えば転……」

 その瞬間、ジランさんが「アイナ」と鋭く声を掛けた。

「ケイからはそれを聞ければ十分。ケイが殊更に誘った訳ではないのなら、アンソフィーは以前から家出の気分を貯め込んでいた」

「いえ。ケイ殿に残っていただいたのは……」

「あとは当人に尋ねるべき。アンソフィーをここに呼びなさい」

 険しい口調。ジランさんは苛立っている。王都であんな過激な争いに立ち会ったばかりなのだから無理もない。僕はそう感じて、さらに疲れた。

 三女様が執務室に現れ、僕のすぐ隣の椅子に腰を下ろした。

「アンソフィー。説明しなさい」とジランさんが命じた。

「ケイ殿の魔法を見て思いました。フレクラントへ行かなければ上達しないと」

「分かりました。行きなさい」

 大公様の表情が変わった。

「ち、ちょっとお待ちを」

「アンソフィーの訓練はどうするつもりだったのです。私としては、その話もしなければと思っていたのです。私は外の者ですから、ここまで口出しは控えていましたが」

「御配慮には感謝いたしますが……」

「アンソフィーは現在十二歳、近々十三歳。その年齢で暴発させてしまうようでは、訓練が上手く行っているとはとても言えません。このまま成長期を過ごしてしまったら手遅れになります。将来、夢の中で魔法を使い、眠りながら大爆発ということもあり得ます」

「その場合」と三女様が口を開いた。「そうなる前に私は死ぬしかないのでしょうか」

「あなたは暴発の瞬間、何を考えたのです」

「あ、あの……」と三女様はわずかに口ごもった。「光は掴めるのだろうかと……」

 僕はウッと呻いた。皆は呆れたような表情をした。

「子供にありがちな夢想です。光は掴めるのだろうか。掴めるのであれば、光の剣の一つでも作れるのではないだろうか」

 ジランさんはそう言うと、魔法発動の気配を見せた。ジランさんの目の前に小さな光球が浮かんだ。ジランさんはそれを手で払った。しかし、光球は消えず、光球の位置は変わらず、手をすり抜けただけだった。

「光はただ存在し、ただ照らすだけ。試してみる子供はいますが、あなたは明らかに制御不全です。ただし、死ぬ必要はありません。自然精気が薄い地へ行けば良いのです。そういう場所であれば、無暗に余剰精気を貯め込んでしまうこともありませんから。魔法の素質のある者が適切な訓練を受けなかった場合、そういう場所で一生を送ることになります。具体的には南のスルイソラ連合国」

 ジランさんはそのように言い切ると、大公様に向き直った。

「アイナ。ちょっと、訓練の状況を説明しなさい」

 そう促されて、大公様は深刻そうに話し始めた。

 エスタスラヴァ王国の魔法訓練は、この地の自然精気の濃度とこの地の人々の平均的な素質に合わせたもの。ヴェストビーク家の子弟の指導者はこの地の中等学院を定年退職した元教員。長女様と次女様の訓練には何の支障も無かった。しかし三女様の場合、成長に伴って素質の違いは明らかとなり、現在は良い指導者を探している所。

「リゼット様。フレクラント国からどなたかを派遣していただけないでしょうか」

 大公様の願いを聞き、ジランさんは父に目を向けた。

「クレールは以前、中等学院の教師をしていましたね。そして、妻のマノンは今も初等学院の教師」

「我が家の娘、ケイの姉も現在中等学院で教師をしています。しかし、派遣は難しいでしょう。魔法指導の技能を現役で有する生命学系の者は皆、教職に就いています。数年間の家庭教師のために今の職を捨てる者がいるとは思えません」

「それに見合う報酬は用意いたします」と大公様は言った。

「教師の職は順番ですから、一度離れたら簡単には戻れません。それ以前に、大公家の歴史の中で過去に似たような事例は無かったのですか?」

「かなり昔、フレクラント国に送って訓練を施していただいたと記録に残っています。しかし、今回はただの訓練不足ではありません。今フレクラントに送ったら、余計な詮索を受けて暴発の件が知れ渡ってしまうかも知れません」

「訓練にはそれに適した地というものがあるのです。ふんだんに自然精気を使えればこそ、強い魔法の訓練は進むのです。現実的にはフレクラントに行くしかないと思います」

 ジランさんは腕組みをしてフームと鼻を鳴らした。

「そうですか。教職の経験者がそう言うのなら、やはり仕方が無い」

 ジランさんはすぐに腕組みを解いた。

「アイナ。アンソフィーをフレクラントへ送りなさい。出来る限り密かに」

「待ってください」と大公様は慌てた。

「あなたは決断が遅いですね」

 違うと僕は思った。ジランさんが速いのだ。僕に一言、やっておしまいと言った時と同じような割り切り方。

 大公様は苦しそうに首を振った。

「私たちの立場も御理解ください。アンソフィーは妃候補の筆頭です。ですから、内密に事を運ばなければ……」

 ジランさんが呆れ顔になった。僕は「ん?」と首を傾げた。

「仕方が無いでしょう。きちんと訓練をすれば問題は解決。むしろ、優れた魔法使いになって帰ってくれば評価は上がるというもの」

「いえ。いくら優秀になっても、他の者にとっては暴発の過去の方が脅威に。二度と暴発しないとは証明できませんから」

 僕は「あのう……」と口を挟もうとした。

「それなら、ケイはどうなるのです。少ないとは言え、子供の暴発は稀ではありません」

「やはりそれは黙っていた方が。エスタスラヴァでは稀ですから。皆、魔法力が弱いので」

 僕は「あのう……」と口を挟もうとした。

「実際上、答が一つしかないのなら、そうするしかないでしょう」

「よほど気が合わないのならともかく、そうではないのなら、殿下との結婚はとても良い話です。何とか上手く行かせたいのです」

「頭が固いですね。上に立つ者には、熟慮だけでなく即断即決も必要なのです」

 これは一種の家族喧嘩。父は黙って見守るつもりの様子。僕も諦めて待つことにした。

「誰であろうと結局は有りのままに実力を示し続けるしかないのです。上手く行かせたいのなら、上手く行かせる手立てを考えなさい」

「それなら……、しばらくの間、アンソフィーとケイ殿を入れ替えるとか……」

 ジランさんが鼻で笑った。僕もエッと懐疑の声を漏らした。

「アイナ。冗談も錯乱も墓あなを掘ってからにしなさい」

「いえ。ちょっと思い付いただけで……。まだ死にたくはありません」

「墓穴を掘るという言い回しを知らないのですか?」

 ジランさんは苛立ちを通り越して不機嫌になってきている。僕はそう感じた。

「そういう抜けた所は昔のままですね。そもそもこの件、あなたにアンソフィーを叱りつける資格があるのですか?」

 突然、「リゼット様」と声が響いた。珍しいことに三女様が声を上げていた。

「その話、ぜひともお聞かせください」

「どうしましょう……。アイナ。自分から話しますか?」

 大公様は呆然とし、頭を抱えて項垂れた。

「良いでしょう。私が話します」とジランさんは言い渡した。「六十六年前、息子の妻が亡くなりました。その喪が明けた時、息子はしばらく独りになりたいと言ってフレクラントに戻ってきました。その時にこの娘は何をしたと思います。息子と妻にべったりだったこの娘は、息子に泣いて縋ってかじりつき、一緒にフレクラントにやって来たのです。もちろん大騒ぎになりました。なのに、この娘ときたら、持ってきた背嚢を覗いてみたら、入っていたのはお気に入りの縫い包みと小さな財布だけ。何とお馬鹿でお気楽な」

 大公や母親の威厳など雲散霧消。大公様は未だ頭を抱えて項垂れていた。

「お母様……」と三女様がこぼした。

 僕は思わず吹き出しそうになった。

「結局、アイナは初等学院の五、六年生の二年間を我が家で過ごすことになりました。大公家の者は全く知らないと思いますが、アイナは息子にねだって二人で色々な所に出掛けていました。休日ともなればスルイソラ連合国などは当たり前。行き付けの店が出来てしまう始末。さらには、スルイソラのさらに南の大廃墟。そんな家出娘が家出のことで家出娘に説教など、笑いと涙が止まりません」

「お母様。あんまりでございます」と三女様が不満を漏らした。

「アンソフィー。あなたも同類」とジランさんは決め付けた。

 出奔、遁走、家出娘。大公様と三女様は似た者同士。その上、次女様までもが駆け落ちなどと言う。久しく忘れていた感覚。多分二年振り。喜劇か悲劇か良く分からないやり取りに、僕は笑ってしまった。

「ケイ」とジランさんが僕を一瞥した。「そんなに楽しいのですか?」

 僕は笑うことをやめた。

「リゼット様。もう御勘弁を。西の大公家は私だけの物ではなく、ヴェストビーク家だけの物でもありません。大公家の名誉にかかわることは私の一存では決められないのです」

「いずれにせよ、訓練するしかありません。そして、フレクラントへ送るのが一番とのこと」

 家族喧嘩は一段落したようだった。僕は改めて「あのう」と口を挟んだ。「何か」とようやくジランさんが気付いてくれた。

「エルランド殿下は暴発の件を知っていましたけど」

 大公様がへッと間の抜けた声を漏らした。「説明しなさい」とジランさんが命じてきた。僕は殿下との会話の概要を再現してみせた。皆は興味津々な様子で聞き続けていた。

 僕の話が終わると、父はフームと鼻を鳴らした。

「知ってはいるが、候補からは外さない。それが王家の意向か」

「そのようですね」とジランさんも同意した。「殿下はケイがここに立ち寄ると聞き、ケイを試した上で、ケイにそれとなく伝言を託したのでしょう」

「僕を試していたのは確かですけど、あの話し振りはちょっと異様です」

「そうですか? わざとでしょう」とジランさんは鼻で笑った。

「殿下も悪党」と僕は舌打ちした。「でもあれでは、僕が伝言するとは限りませんけど」

「それでも構わないということなのでしょう。妃候補は他にも大勢いる訳ですし」

 大公様が首を振りながら大きく息を吐いた。父が念を入れるように尋ねてきた。

「殿下は『何としてでも訓練を』とおっしゃったのだな?」

「間違いなく」と僕は頷いた。

「話は決まりだ」と父が宣言した。

 

◇◇◇◇◇

 

 薄い明かりの無音の中、僕は独りぼんやりと立ち尽くしていた。白い荒野に白い霧。おもむろに一歩を踏み出すと、ジャリッという音、ザクッという感覚。起伏に乏しい無人の大地は小石交じりの砂で埋め尽くされていた。

 不意に視界の先に門が現れた。石造りの巨大な門。扉も無く、連なる塀も無く、ただひたすらにそびえ立つ孤高の門。僕は門を潜り抜けて未知の異界を先に進んだ。

 しばらく歩き続けると、遠くの方からゴリゴリ、ゴリゴリと重低音が聞こえてきた。当てどのない彷徨の中、僕は行き先を見付けて嬉しくなり、足早に音の源へ向かってみた。

 腰蓑一つの巨人の姿。巨人の前には巨大な石臼。巨人は地面に腰を下ろして胡坐をかき、退屈そうに石臼で何かを挽いていた。ゴリゴリ、ゴリゴリ。そのたびに上臼と下臼の隙間から白い粉が零れ落ちた。

「巨人さん、巨人さん」

 ゴリゴリ、ゴリゴリ。僕の呼び声は重低音に掻き消されてしまった。僕がその場で飛び跳ねながら両手を振ると、巨人はようやく気付いたらしく、手を止めてじろりと僕を見下ろした。

「巨人さん、巨人さん。何を挽いているのですか」

「精の種」

 ぶっきらぼうな返事だった。僕を見下ろす視線には何の感情も込められていなかった。

「精の種とは何ですか」

「精の種は精の種」

 辺りには臼で挽かれた白い粉が積もっていた。目を凝らしてみると、それはこれまで踏みしめてきたものと全く同じ白い砂。

「巨人さん、巨人さん。なぜ、精の種を挽いているのですか」

「毒気を抜くため。小僧も挽いてやろうか」

「いいえ。結構です」と僕は深々と頭を下げた。

「好意の分からぬ愚か者」

「巨人さん、巨人さん。ずっと挽き続けるのは退屈でしょう。僕が挽いてみましょうか」

 無表情だった巨人の顔に薄い笑みが浮かんだ。

「やれるものならやってみろ」

 僕が魔法を掛けると、上臼が勝手に回り始めた。巨人は手を叩いて笑い声を上げた。

「これは便利だ。この礼に早速小僧も挽いてやろう」

「いいえ。結構です」

 僕は深々と頭を下げ、その場を後にした。霧に遮られて巨人の姿が見えなくなり、ほどなく笑い声も聞こえなくなった。

 霧の中、白い荒野をしばらく進むと、ふと老婆が現れた。僕よりもかなり小柄なその老婆は何の驚きも見せずに僕に尋ねてきた。

「今日も巨人は精の種を挽いていたかい」

「はい」と僕は頷いた。「あまりにも退屈そうに挽いているので、石臼に魔法を掛けてあげました。今は石臼が勝手に精の種を挽いています。巨人さんは大喜びでした」

「おや、おや」と老婆は笑みを浮かべた。

「あのう」と僕は切り出した。「飴ちゃん、舐めます?」

「おや、おや。何と贅沢な」

 老婆は僕が差し出した飴を受け取ると、小躍りするように大笑いした。

「何という大きさ。まるで小振りの饅頭」

「僕独りで作ったんです。砂糖水を一生懸命に煮詰めて。人の家に泊めてもらうのだから、僕もお土産を用意しなければと思って。一人しか貰ってくれませんでしたけど」

「おや、おや。真心の空回りは寂しいね」

「ところで、お婆さん。精の種の毒気とは何ですか」

 僕の疑問に、老婆は首を傾げた。

「お前さんも知っているはずだよ。精の種の毒気。精の毒気。精の気。精気」

「精気は毒なんですか」

「どうだろうね。巨人には魔法の解き方を教えてあげたのかい」

「いいえ」と僕は首を振った。

「おや、おや。何といううっかり者」と老婆は小さく笑った。「それでは、地の底から精気が湧き出し続けることになってしまうだろう」

「それは良かった」と僕も笑った。

「良かった、良かった」と老婆も笑顔で頷いた。

 程なくして笑いも治まり、老婆は僕を残して霧の中へ去って行った。そして声。

「お前さんの夢は光を掴んで人々を救うことなのかい」

「いいえ。それは寝ている間に見た夢です。僕には夢なんてありません」

「それなら、逃げなさい。どこか遠くへ。ずっと遠くへ」

 僕はその場に横たわり、そのまま眠りについた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏の朝日に照らされて緑に輝く木々と山。眼下にはフレクラント国とエスタスラヴァ王国を隔てる山岳地帯が広がっていた。

 目を凝らすと、峰筋や谷筋を縫うように走る一本の道。人と馬らしき隊列がフレクラント国へ向けて歩を進めていた。学院で教えられた通りなら、あれはおそらくエスタスラヴァ王国の商人たち、積み荷は塩。国境の山並みを徒歩で越えると二泊三日の行程となるらしい。あの人たちは所々に設置された避難小屋に寝泊まりしながら先を目指すのだろう。

 一方、高空帯を飛翔できる僕たちフレクラント人は滅多にあの道を使わない。一つ目の稜線から西はフレクラント国。山中のわずかに開けた場所には職人の工房が点在しているとのこと。と言っても、日常的にそこで暮らしている訳ではなく、西のフレクラント高原から通っているらしい。それは空を飛べればこその生活のあり方だった。

 前方の空に目を向けるとジランさんの姿。その背中には三女様が括りつけられていた。

 昨夜の夕食は初日の晩餐会ほどの豪華さではなかったが、ヴェストビーク家の皆さんと御一緒に。大公様が全員に事情を説明し、フレクラント国の秋学期に間に合うよう、三女様は僕たちと一緒にフレクラント国へ向かうことになった。

 一つ揉めたのは受け入れ先。大公様は三女様に侍女を付けて東地方中等学院へ送ることを提案した。エスタスラヴァ王国にも、低空低速ではあっても飛翔できる者はそれなりにいる。エスタスラヴァ王国西部に隣接するフレクラント国東地方であれば、丸一日を掛ければ往復できるし安心だと。

 その案はジランさんが一蹴した。フレクラント国の生活は強い魔法の使用を前提としている。侍女がいても暮らしはほとんど成り立たない。そもそも、エスタスラヴァ王国から頻繁に見知らぬ人の往来があったら無用な注目を浴びてしまうのは必至だろうと。

 父は中地方中等学院への留学を勧めた。そこには国内で唯一寄宿舎がある。しかし、ヴェストビーク家の人たちは三女様の人見知りと孤立を懸念した。

 ジランさんは自宅への受け入れを断った。波乱が無ければ近々、大統領に就任することになる。そうなれば、子供の面倒を見る余裕など皆無となる。ジランさんのその説明は至極当然と皆が認めた。

 ジランさんの息子さんも受け入れ先の有力な候補と僕には思われた。しかし、そのことを口にする人はいなかった。現在、息子さんには新しい家庭がある。ヴェストビーク家の人たちはフレクラント人とエスタスラヴァ人の平均寿命の差を理解しつつも、息子さんに対して複雑な感情を抱いている様子だった。

 結局、昨日午後の話し合いで「話は決まり」と宣言した父に矛先が向いた。

 両親と僕。それが今の一家の構成だった。家の母屋には、以前に姉が使っていた部屋や、以前から物置として使われている部屋がある。さらには、母屋とは別に物置小屋。それらを整理すれば、三女様の受け入れは十分に可能。最終的に話はそのようにまとまった。

 留学期間は最低でも一年、おそらく数年。父はそのように宣告した。フレクラント国と同様、エスタスラヴァ王国でも初等学院入学の年齢から魔法の訓練が始まる。しかし、その訓練は三女様にとっては不十分だった。三女様には素質と力がある。それなのに、技量はフレクラント国の初等学院中学年辺りの水準。その遅れを完全に取り戻さなければならない。父のそんな説明に皆さんは納得せざるを得なかった。

 後方の空を一瞥すると父の姿。前を向けと父は手で合図を送ってきた。

 昨夜、父は頭を悩ませていた。母にどのように説明すれば良いのだろうと。エスタスラヴァのお土産はお嬢様。母は善くも悪しくも初等学院の教師。本質的には子供好きということになっている。僕がそのように雑に答えると、父は無言でそっと溜め息をついた。

 そして今朝、久し振りに就寝中に奇妙な夢を見たような覚えがあって、僕の寝覚めは悪かった。二年前の魔法医術士による診断では、それは心に澱を溜め込みすぎた結果とのこと。家に帰ったら、ひとまず自室に籠って布団を被ろう。僕はそんな気分に浸っていた。

 気流の乱れを警戒しながら高空帯を中速で飛び続け、ヴェストビークの街を発って半時間が経った頃だった。一つ目の山並みを越え、二つ目の山並みを越え、最後の山並みが迫ってきた。

 当初の予定通り、ジランさんは峠に着地すると合図してきた。そこで三女様を父の背中に括りつけ直し、そこから先は、ジランさんは中地方にある大統領府に立ち寄った後に自宅のある南地方へ、僕たちは大統領府には寄らずに直接西地方へ向かうことになっていた。

 峠に降り立った。三女様は眼下に目を遣り呆然と立ち尽くしていた。僕にとってもここからの眺望は初めてのもの。深緑の森林、薄緑の田園、煌めく細流、雄渾な川。水と緑のフレクラント高原が広がっていた。


ーーーーーーーー


次章予告。アンソフィーを迎えた生活が始まる。ケイは仲間たちと共に冒険に出る。そして、世界の秘密の一端に触れてしまう。

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