第三章 人の姿と世界の姿

 春の公園、穏やかな日差し。僕は休憩用の長椅子に腰を下ろして、これはまずいと項垂れた。

 三週間前にナギエスキーヌに引っ越して、今日は休日、春第一週第五日。そろそろ出費の具合も安定し、改めて計算してみると、前期課程の三年間だけならともかく後期課程も含めた六年間となると僕の財布はとても持たないと判明。原野に分け入っての狩猟採集生活はさすがにつらい。もっと稼がなければと僕は決意を新たにした。

 街中に時を知らせる鐘の音が鳴り響いた。いざ出陣。僕は長椅子から腰を上げ、鍋を片手に公園を後にした。ナギエスカーラの街には空を飛ぶ者などほとんどいない。僕が見掛けた限りでは一週間に数人程度、全てがフレクラント国からの行商人。見掛けなかった者を含めても、おそらく全体で数十人程度と極めて少数だろう。そのため、余計な注目を浴びぬよう、僕は市街地の空を飛ぶのは控えていた。

 南都ナギエスカーラは古都とも呼ばれる歴史のある街。それだけに、街の作りはとても整然としていた。車道と歩道は分離され、車道には整然と列をなす馬車や牛車、歩道にはお洒落な装いの老若男女。大半の人は黒髪だが、茶髪や赤髪、金髪や銀髪もそれなりに。全ては生まれつきのものらしく、そんな中なら僕の銀髪もそれほど目立ちはしなかった。

 程なく高等学院に到着した。正門をくぐって敷地内を進み、僕が目指すは学院の食堂。そこでなら格安で空腹を満たすことが可能であり、休日でも昼食時だけは営業していた。

 食堂内にはそれなりに人の姿があった。聞いた所では、休日にここで食事を摂る者の大半は、休日にも登院して研究に励む教員や研究生たちらしい。僕もその列に加わり、お盆の上に料理の皿を並べてお金を払い、食堂隅の長机に着いた。

 スルイソラ連合国でもフレクラント国と同様、中等学院で学業を終えるのが一般的らしい。さらに学業を続ける者は少数。その進学先は前期と後期を合わせて合計六年間の高等学院、もしくはフレクラント国には存在しない全課程三年間の職能学校や師範学校など。

 スルイソラ連合国には、貧富の格差が厳然と存在している。ただし、地縁や血縁を重視する人が多いらしく、高等学院には裕福な家の子弟ばかりでなく、能力を認められて同郷の篤志家に費用を出してもらっている学生もいる。

 学生の男女比は二対一。その多くは学院付属の寄宿舎で暮らしている。そんな中で、僕のような学生は極めて例外的。僕は自力で生活費を稼ぎながら、学院外の民家を借りて独り暮らしを始めていた。

 僕は食事を摂らずに、鍋と料理を席に置いたまま二巡目に向かった。お盆の上に料理を乗せてお金を払い、再び元の席に着く。これで本日の決戦は勝利で終了。昼食と夕食を確保した。

 持参した鍋の蓋を開ける。皿を手に取る。料理のみに硬化魔法を掛け、鍋にカランと落とす。その瞬間、近くの席のあちらこちらから、オオと感嘆の声が聞こえてきた。この作業を一食分だけ繰り返し、いよいよ昼食開始。近くの席のあちらこちらから、フフンと鼻で笑う音が聞こえてきた。

 先週の休日には、行儀よく昼食を食べ終わった後に二巡目に向かって惨敗した。その頃には、夕飯にしようと目星を付けていた料理は売り切れてしまっていた。

 どうせ僕は山から出てきた田舎者。でも、僕は自分の稼ぎだけで精一杯に生きている。鼻で笑われようが構うものか。文句があるなら掛かってこい。そんな風に開き直って僕は食事を続けた。

 半分を食べ終えた頃、誰かが僕の向かいにお盆を置いて席に着いた。顔を上げて確かめてみると、噂の美人、謎の令嬢。僕は驚き、顔を見詰めてしまった。

 顔立ちも体付きも抜群に均整がとれ、着こなしも雰囲気も蝶のように軽やかに、花のように清楚で可憐に。多分、どこかの良家のお嬢様。入学以来一身に注目を集めている一年生女子だった。

「なぜ、寄宿舎に入らないの?」とお嬢様は言った。

 唐突に馴れ馴れしく質問されて、僕は呆気にとられた。

「人には言えない重大な理由があって」と僕は話をはぐらかした。

「でも、免除生なんでしょう?」

「一応」と僕は控えめに返答した。

「寄宿舎に入った方が安くつくんじゃない?」

 僕は食事の手を止め、お嬢様から目を反らして考え込んだ。

 篤志家の世話になっているような学生や、僕のように自分の稼ぎで暮らしている学生は、学院に納める費用が半額もしくは全額免除となる。

 こうやって売ると、お客さんに大受けするんですよ。入学審査の際、そう言って西地方通商組合の鉢巻きを締めて実演してみせたら、審査員の人たちにも大受け。その場に持ち込んだフレクラントの特殊工芸品、高強度硝子製の筆記具は完売。学院内での行商は禁止と言い渡された上で、僕は六年間の全額免除を勝ち取った。

 早くもその話が広まっているのだろうか。

「お母様もお父様もお金に困っている訳ではないんでしょう? フレクラントの方々は見掛けと違って意外に裕福だし」

 つまり見掛けは貧乏人。その不埒な言葉に僕はムッとした。何なのだろう。お嬢様然とした容姿に似つかわしくない、この不躾な詮索は。もしかしたら、本物のお嬢様ではなく成金のお嬢様風道楽娘のたぐい。

「もう子供ではないのだから、自立は当然。僕は自分の稼ぎで生活している。なぜ、僕がフレクラントから来たのを知っているの?」

「フレクラントからの留学生は稀だから凄い噂になっているよ。フレクラントの魔法男子が来たって」

「魔法男子って……。知っている? 芝居に出てくる魔法使いは皆ヒラヒラの衣装を着ているけど、本当は着ぐるみなんだよ。それも何と動物の着ぐるみ。特に、尻尾がピンと立っているのがお洒落とされている」

 僕がそのようにいい加減に答えて食事を再開すると、成金娘はフーンと鼻を鳴らした。今度は僕が成金娘に尋ねた。

「君は寄宿生? 寄宿生は寄宿舎で食事を摂ると聞いたけど」

「寄宿舎の食堂では、休日は朝に軽食が出るだけ。昼と夜は自炊か外食。休日は外に出る学生が多くて、食事の数が一定しないから」

 僕はフーンと鼻を鳴らした。

 その後、僕たちは無言で食事を続けた。その間、僕としては極めて居心地が悪かった。

 入学早々から多くの者に取り巻かれるような女子。専攻が異なるため、学院内で見掛けることはあっても、接点はこれまで全く無かった。そんな女子に興味を持たれた意外感と緊張感。唐突に問いを投げ掛けられたことに対する驚きと疑念。

 成金娘は僕の治癒魔法に期待しているのだろうか。すでに「この傷跡を消してくれ」などと安直に依頼してきた者たちもいる。僕は丁寧に理由を説明してそれを保留し、結局彼らとの友人関係が成立することはなかった。

 黙々と食事を終えて僕が席を立とうとすると、成金娘は「待って」と言った。まだ話があるのだろうか。そう思って再度椅子に腰を下ろすと、成金娘は「分からないの?」と言った。僕は困惑した。何か意味不明なことを言い出すのではないだろうかと僕は警戒した。

 成金娘の食事風景になど全く興味が無いまま待ち続けた後、僕は食器を返却して食堂の建屋を出た。ふと気付くと、なぜか僕の背後には成金娘。付いてくるなよ、面倒臭い。そう思って、僕は適当に別れを告げてその場を離れようとした。すると突然、背後から成金娘が僕の首に腕を回し、抱き着いてきた。衣擦れの音。良い匂い。胸の断固たる存在感。これが噂に聞く三大痴女の一つ、行動系痴女かと僕は身構えた。

「ねえ。これから大廃墟に行ってみようよ」

 成金娘は僕の耳元でそう言うと、僕の後頭部に頭突きをしてきた。

 僕はアッと声を上げた。遠慮なくへばり付いて頭突き。腕から伝わるこの基礎精気の気配。僕は両手で持っていた鍋を宙に浮かせ、成金娘の腕を振りほどいて振り返った。

「アン!」

 アンの顔には嬉しげな恥ずかしげな笑みが広がっていた。

「何で分からなかったの?」

「だって、全然……」

 僕の記憶に残る容姿ではなかった。

 この四年半、アンとは一度も顔を合わせたことがなかった。噂を耳にすることさえなかった。周囲の者たちに僕とアンを引き離そうとする意図があったのは明白だった。

 次いで僕は思い出した。成長期の自己治癒魔法は容姿を変える。西の大公家の娘たちは男の目を惹きつけるような容姿に成長する。でもまさか、こんなに見違えるなんて。

 僕はアンの頭を両手で掴み、上下左右に動かして顔を確かめた。

「ねえ、やめてよ……。ねえ、やめてよ……」

 僕は唖然とした。間近で見ても気付かなかった。基礎精気の気配でしか判別できなかった。僕たちは中性的な良く似た顔立ちと言われていた。そこに女性の要素が前面に出てきたらこんな風に変わるのか。声音も違う。大人の声。以前よりも幾分低くなった。

 アンの羞恥が僕にも移ってしまった。嬉し恥ずかし。気恥ずかしさに身悶えが止まらなかった。

「そうか。化粧か」と僕は気付いた。「いつ、そんなお絵描きを覚えたんだよ」

 僕の苦し紛れの揶揄に、アンも僕の頭を両手で掴んでぐりぐりと動かし始めた。

「ケイだって背が高くなって、ほら、鼻の穴がこんなに大きく見える」

「やめろよ。身長なんて大して変わらないのに、鼻の穴が見える訳がないじゃないか」

「やだ。痴話喧嘩?」と嬉しそうな声。

「やだ。あの子って例のお嬢様?」と興奮気味の声。

「やだ。何で鍋が浮いているの? あの子が魔法男子?」と驚きの声。

 突然そんな声が聞こえてきて、僕たちはすぐに手を離した。明らかに年上と分かる見知らぬ女子学生が三人。少し離れた所から「やだ、やだ」と僕たちの再会を祝福していた。

「アン。ちょっと話し合おうじゃないか」と僕は敢えて高圧的に出た。

「やだ。お嬢様の浮気?」

「ケイの部屋を見せて」とアンは平然と要求してきた。

「やだ。浮気は魔法男子?」

「分かった。歩いて二十分」と僕は冷徹に伝えた。

「やだ。男子の部屋? 独りで? ねえ、独りで? 純潔は? 純潔は?」

「やだ。あの子たちはもう付き合っているんでしょう? 純潔なんてとっくに」

「やだ。何で一年生がもう付き合っているの? 順番が違うんじゃない?」

 僕は三人組を睨み付けて笑顔を作り、渾身のお世辞を放った。

「御安心ください。お姉様方の純潔は永遠に不滅です」

 僕はアンに声を掛け、人目を気にせず鍋を掴んで宙に飛び上がった。アンもそれに続くと、「やだ。あの子も魔法使いだったの?」という声が聞こえてきた。

 歩いて二十分。中空中速飛翔ならわずか数分。僕たちは街外れの小さな木造一軒家の庭先に降り立った。

 アンは家を凝視したまま固まっていた。僕は急いで取り繕った。

「大家さんもぼろ家と言うぐらいだから、それは確かで家賃も格安なんだけど、中は凄いんだぜ」

 僕は玄関を開けて、アンを招き入れた。

 玄関から入った所は広い土間。そして土間の隣は一段高くなった板張りの居間。この構造はフレクラント国の民家と同じ。馴染み深いものを感じて、ぼろ家と噂されても僕はすぐにここに決めてしまった。

「居間の奥にも部屋があるの?」とアンは訊いてきた。

「そこは押入れ。この家は土間とこの居間だけ。でも、独り暮らしにはこれで十分」

 土間には大きな甕が三つと特大の桶が一つ。僕は「ほら」と指さした。

「甕の一つは飲み水。二つは普通の上水。特大の桶は風呂代わり。水を張って温熱魔法で沸かして入る。フレクラントからも色々持ってきた。掃除器とか洗濯器とか」

「洗濯器?」とアンが声を上げた。

 その瞬間、口が滑ったと僕は気付いた。洗濯器は神話時代の思念法を使えてこその道具。家事が面倒で、僕なりに工夫して作り上げたもの。再び禁忌の魔法の開発が始まってしまうかも知れないからとの理由で、思念法については語ることが禁じられていた。

「アンはちゃんと硬化魔法を使えるようになった?」

 アンは頷いた。

「以前、僕がやったような硬化と強制の二段階発動は?」

 アンは首を振った。

「洗濯器には二段階発動が関係するの?」

「いや。ちょっと訊いてみただけ」

 僕はアンの問いをごまかして居間に上がり、庭に面した側の雨風除けの引き戸を開けた。

「ねえ。空きが出たら、寄宿舎に入ったら? 専用の食堂もあるし浴場もあるし、お金を払えば洗濯や掃除もしてくれるよ」

「いや。重要なのはここから。寄宿舎の灯りは基本的には蝋燭か油の灯火じゃない?」

 僕は土間に降りて床下を覗き込み、両手一杯にフレクラント製の吸収石を取り出した。

「スルイソラでも自然精気は普通に湧出しているから、これで夜の灯りは万全」

「へえ」とアンは声を漏らした。「寄宿舎でも照明器は貸し出されているけど、スルイソラ製は性能が低くて、あまり使っていない」

「だろう? でも、これを寄宿舎に持ち込んだら、すぐに無くなりそう」

「盗みの話は聞かないけど、間違いなくたかられる。いくつあるの?」

 僕が「八個」と答えると、「二個ちょうだい」とアンは早速たかってきた。

「もう一つ極めて重要なのは……、いや。そんなに凄くはないんだけど、通商組合の人に教えてもらったんだ。街外れのこの一角、正確にはここはナギエスカーラの隣村のナギエスキーヌなんだけど、環境中の自然精気の滞留密度が幾分高い」

 アンは何かに思い当たったかのようにアッと声を漏らした。

 僕はナギエスキーヌ特産の茶を淹れて、居間の座卓を挟んでアンと向かい合った。アンはお茶を一口含むと、僕が気になっていたことと全く同じ疑問を口にした。

「ケイはなぜナギエスカーラに来たの?」

「南のスルイソラの一番南だから」と僕は率直に答えた。「フレクラントでもエスタコリンでも色々あったから、一番遠い場所で独り暮らしをしてみようと思って」

「マノン様やクレール様は何も言わなかったの?」

 僕は言葉に詰まった。

「ケイ。どうしたの?」

 僕は慌てて取り繕った。

「いや。懐かしい顔を見たら、色々と思い出してしまって」

「私がいると迷惑?」

「いや。全く」と僕は強く否定した。「父親は『好きにしろ』って。『どうせ日帰りできる距離だから』って。それにどうせ、僕はいずれサジスフォレ家から出ていく身だから」

 アンはフーンと鼻を鳴らした。

「ルクファリエからナギエスカーラまで、時間はどれぐらい掛かった?」

 僕は小首を傾げた。アンは僕の事情を知らない模様。僕はルクファリエ村からではなく、首府メトローナからここに来た。

「途中の休憩も入れて、高空高速飛翔で片道四時間弱。ヴェストビークからは?」

「休憩も入れて四時間ちょっとかな」

「低空低速飛翔だとどれぐらい掛かる? つまり、エスタコリンの貴族の人たちにとってはどれぐらいの距離になる?」

「私はエスタコリン側から南の大山脈を直接越えたけど、低空低速飛翔だと東海沿いを南下することになるから四泊五日か五泊六日」

 僕はフーンと鼻を鳴らした。

「やっぱりここは遠いな。西の大公家の人たちにとっては」

 西の大公家は良くもこんな遠い所にまでアンを送り出したもの。上級貴族の花嫁修業はどうなったのだろう。さらには妃候補の件の現状は。もしかして、アンは候補から外されたのだろうか。

「アンはなぜナギエスカーラに来たの?」

「南のスルイソラの一番南だから。アルさんたちが定期的に北の大森林の調査を続けているでしょう。それなら、私は南の果てで歴史学や考古学をやってみようかなって」

「意味不明」

 僕の簡潔な感想に、アンは首を傾げて笑みをこぼした。

「私もケイと同じく、見知らぬ土地で暮らしてみたかった」

 僕は鼻で笑った。その説明の方が納得しやすかった。

「アンはやっぱり、専攻は歴史学考古学にしたんだ」

「そう」とアンは頷いた。「社会学系歴史学考古学専攻。ケイは」

「生命学。それにしても本当に驚いた。アンもいたなんて。姉さんも何も言わなかったし」

「留学はエメリーヌ様の家を引き払った後に決まったから」

「家の人たちは良く許してくれたな」

「ちょっとあったけど、アルさんが口添えしてくれて。色々できる内にやらせてやってほしいって」

 僕はおぼろげながら理解した。アルさんは隠居したとは言え、今でも間違いなく王家を代表する一人。そんな人がそんな話、そんな言い方をしたということは、アンは今も妃候補。我が家に嫁いだら色々なことは出来なくなるのだからという意味。

「それでも、そこまで大切な娘を良くも独りで……」

「違うよ」とアンは首を振った。

 ナギエスカーラには、エスタコリン王国中央政庁の出張所がある。西の大公家の家令の息子さんたちは貿易業を営んでおり、彼らのトロンギャアンケ商会も出先事務所を構えている。さらには、高等学院の上の学年にエスタコリン王国西部からの留学生がいる。

「だからここには、繋がりのある人が意外にいるの。そして皆さん、お母様から手紙を受け取ったみたいで揃いも揃って、困ったことがあったら相談をとか、遠慮なく『定期的に』遊びに来なさいとか言う」

 僕はフーンと鼻を鳴らして、「そうなんだ……」と呟いた。

 エスタコリン王国は他国のこんな離れた場所にまで組織的に入り込んでいるのだ。そして皆さん、揃いも揃ってアンのお目付け役。一方、フレクラント国はと言えば、行商人がフレクラント人御用達の旅館にたむろしている程度。

 アンが「そろそろ」と言って腰を上げた。僕もアンに付いて玄関口に出た。

「吸収石、持って行かなくていいの?」

 アンは振り返ると「そうそう」と言った。

「今度、寄宿舎主催で新入生歓迎の武闘会があるんだけど、ケイも来ない? 寄宿生でなくても良いらしいし」

 ナギエスカーラ高等学院でもやっていたとは知らなかった。僕はヘエと声を漏らして考え込んでしまった。

「どうする?」とアンが尋ねてきた。

「新入生歓迎でわざわざそんなことをするからには、賞品か何か出るの?」

「そういう物は無いみたいだけど……」

 ここではどのように武闘会を行なうのだろう。魔法の使用が禁止なら多分、僕は平凡。一方、魔法を使ったら僕の圧勝に決まっている。

「考えておく」

 アンは首を傾げながら、フーンと鼻を鳴らした。

「また、ここに来てもいい?」

「いいよ。今度、大廃墟に行ってみよう」

「ねえ。私の化粧、似合ってないかな……」

 僕はアッと小さな声を漏らしてしまった。アンは気にしていた。

「悪くはないんだけど……、アンの顔はとても良いから、化粧の必要は全く無い」

 アンは呆気にとられる様子を見せ、次いで微かにはにかんだ。その瞬間、僕は自分の舌足らずに気が付いた。日常的に強い自己治癒魔法を使っていれば、顔の状態は細部に至るまで最良の状態に保たれているはずだから。僕はそう言いたかっただけだった。しかし、敢えて訂正はしなかった。

 アンは笑みをこぼして宙に浮かび、空を飛んで去って行った。その姿を眺めながら、僕はある種の寂寥感に浸り続けた。

 精神治療施設の事件の直後、僕は首府メトローナにある中地方中等学院に転院させられ、その寄宿舎に入れられた。

 その当初、村を出るべきは僕ではないと、僕は鬱々と怒りを貯め込んだ。しかし、独りの日常は予想外に気楽で快適。今から思えば、三年ほどが経った頃には怒りも治まり気も鎮まっていた。結局のところ、殺意に悶々としていることをほのめかした以上、ルクファリエ村から離されるのは当然だろうし、僕としてもそうしてもらって清々した。

 中地方中等学院の寄宿舎では、特別な事情のある生徒には衣食住やその他の必需品が無償で提供される。不当な屈辱刑で受けた精神的苦痛に対する国からの補償として、僕もその扱いを受けた。

 多くの寄宿生は通例通り、お金が欲しければ近隣の農耕組合で一時的に働いて稼いでいた。一方、僕は行商を続けて蓄えを増やしてきた。そして高等学院は自ら選んでスルイソラ。この四年半、僕はルクファリエの実家に全く帰らず、家族、特に母とはかなり疎遠になっていた。

 そして中等学院卒業の翌日、僕は大統領府に呼び出された。人間に関する考察は。ジラン大統領のその問いに僕は平然と答えた。賢さや愚かさは相対的なもの。それゆえ愚かさ自体に善悪は無い。考察は以上と僕が言い切ると、ジランさんは鼻で笑った。

 いずれにせよ、スルイソラ連合国の自然精気はとても薄い。余剰精気の蓄積に手間暇が掛かり、魔法の使用が実質的に制限される。そのため、異端を蘇らせてしまった僕を住まわせるのに最適。そう思われていることだけは間違いなかった。

 これからも独り。そう覚悟を決めて、僕は中等学院長の推薦状一通を頼りにここにやって来た。そんな所にいきなりアン。やはり嬉しかった。気付いた瞬間は嬉しさを越えて歓喜した。しかしもはや、アンは昔のアンではなかった。

 かつて、アンは家出をしようとした。僕と一緒にいなければいけないような気がしたから。今回も同じなのかと期待したら、アルさんの後押しを受けてとのこと。おそらく、アンは妃候補の筆頭という現状を受け入れたのだろう。

 エルランド殿下の側室クリスタさんは僕に執拗にアンとの結婚を勧めてきた。あれ以降、漠然とではあっても時折意識するようにはなっていた。しかし、僕にとっては遠い話。僕には現実感も覚悟も何も無かった。

 一方、アンにとっては眼前の問題。やはり立場が違うのだ。しかも、アンにも西の大公家にも候補辞退の意思は無い模様。僕とアンは良きえにしという訳にはいかないのだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 フレクラント国の人口を一とすれば、エスタコリン王国は約十七、スルイソラ連合国は約六十七。ただし、スルイソラ連合国のその種の統計は完全ではないと言われている。

 高等学院の数はフレクラント国では一、エスタコリン王国でも一、スルイソラ連合国では二。そのため、首都にあるノヴィエミスト高等学院にせよ、南都にあるナギエスカーラ高等学院にせよ、その規模は桁違いに大きい。

 春第二週、僕は大きな講義室で少数の学生と共に、生命学系の専門科目・環境生命学の二回目の講義を受けていた。

「さて。今回は環境中に滞留する自然精気の濃度を測定する方法」

 講義冒頭のその言葉に、僕は唖然とした。精気の科学的観測は不可能だったはず。

「鍵となるのは吸収石と発光石と時計だ」

 測定したい場所に空の吸収石を置き、自然精気を一定時間吸収させる。その後、吸収石に発光石を装着して精気を吸い出し、発光石が光り続ける時間を計測する。

「これが環境中の自然精気濃度を測定する方法の概要」

 僕は呆気にとられて問い質した。

「先生。それはかなり間接的な静的測定で時間も掛りますし、何よりも精度に問題があると思うのですが」

「魔法男子か」と先生は笑みをこぼした。「君から見ればそうなのかも知れないが、精度は改善が可能。長年にわたって使われてきた客観的で信頼の置ける方法だ」

「その方法では、生命学の基礎方程式である生命力方程式の真偽を判別できないのではないでしょうか」

「待ちたまえ。その話は先に進み過ぎている」

 先生はそのように僕を制すると、他の学生に簡単に説明を始めた。

 生命力方程式は生命学の基礎方程式。複数の偏微分方程式からなる連立方程式であり、純然たる論理的考察によって導き出されたもの。吸収石の設計などで使われており、現状では生命力方程式と矛盾する現象は発見されていない。

「つまり」と先生は僕の方を見た。「君の論理は向きが逆だ。環境中濃度の測定は生命力方程式の範疇で行なわれるものであり、環境中濃度の測定では生命力方程式の誤りを指摘することは原理的に不可能だ」

 僕はアアと納得して頷いた。

「濃度測定に話を戻す。確かに、直接的な動的測定を行なえれば一番なのだが、未だにその方法は見付かっていない。もし見付けたら、年金付きの勲章ものだな」

「スルイソラ製の吸収石と発光石には性能に少々難が。その問題は」

「難があっても、性能が一定であれば良いのだ。逆にいくら性能が良くても、フレクラント製を使ったのでは、測定値の一貫性が失われてしまう」

 先生は首を振ると、頭をかいた。

「でもなあ……。吸収石も変換石も大昔に連合国で発明されたと言われているのに、フレクラント製の方が高性能とは……」

 先生が「おい、行商人男子」と呼び掛けてきた。

「こちらではフレクラント製は中々出回らないが、どうにかならないか」

「全部、職人さんが手作りしているので、大量生産は難しいんです。供給と国内の需要が大体一致しているので、国が国内販売価格を統制していますし、他国での販売は余剰分のみと決まっているんです」

「そうか……」と先生は溜め息をついた。

「先生がフレクラントへ行って、店頭に並んでいるのを直接買うのは構わないんですよ。よほど大量に買うのではない限り。僕がそのお手伝いを……」

「まあ、いい。講義に戻る」

 先生はスルイソラ連合国内各地の自然精気の濃度分布を解説し始めた。やはり土地ごとに濃淡があるらしく、この近辺では僕の住むナギエスキーヌ村が幾分濃いらしい。

 そこまで話が進んだ時、先生は講義室の後ろの方に向けて「君たち」と呼び掛けた。

「私語はやめたまえ。そんなに武闘会が楽しみか。大方、『格好の良い男子や可愛い女子はいないか』とか『良家の子息や令嬢はいないか』とか『どんな衣装で行こうか』などと話しているのだろう。分かっている。毎年のことだからな」

 講義室の後ろの方で散発的に続いていた私語がやんだ。

「おそらく君たちも、魔法男子ほどではないにせよ、微力ながらも治癒魔法を使えるのだろう。そして、それを活かして魔法医術士になろうと思ったのだろう。だから、生命学関連のこの講義に出てきたのだろう」

 先生は芝居めかして両掌を肩の高さに上げ、鷹揚に首を振った。

「分かっている。学生の半分ぐらいは男女共に箔を付けるためにこの学院に入ってきている。しかし、医術士の資格も単なる箔付けか。いい加減な勉強しかしなかった医術士に診てもらおうとは私は思わんな」

 講義室が静まり返った。先生が「返事は」と尋ねた。後ろの方から謝罪の声が聞こえてきた。僕は小刻みに頷きながら、そんなやり取りを聞き続けていた。

 この高等学院に入学して早々、僕は魔法医術専攻の研究室を訪れて主任に尋ねてみた。強い治癒魔法を使えてもなお魔法医術という技術は必要なのかと。ある意味では無礼な問いに、主任は丁寧に答えてくれた。

 強い治癒魔法があれば、大抵の場合はそれで事足りる。しかし、中には適切な治療手順を要する重大事態も存在する。例えば、頭、胸、腹の同時損傷。それら全てを一気に治せない場合、どの順番で治せば良いのか。例えば体内の奥深くに入った異物。それをどのように除去すれば良いのか。そしてそもそも、そのような重大事態をどのように診断すれば良いのか。

 主任はひとしきりそんな話を聞かせてくれた後、僕に尋ねてきた。魔法医術士の資格を取りたいのかと。僕は意気消沈して辞退した。魔法医術は予想外に複雑かつ煩雑。二足の草鞋の片手間でやるようなことではなく、そもそも僕に向いているとも思えなかった。

 それにしても武闘会。そんなに楽しみなのだろうか。確かに、入学後初の専攻や学系を問わない学生交流の場ではある。しかし、僕にとっては少々意味不明な催しでもあった。

 フレクラント国の各中等学院でも年に一回、武闘会を行なっている。獣退治の技量比べで、自分は逃げ回りつつ相手に硬化魔法を掛けて転がせば勝ち。魔法技能が完成した五年生以上の競技で、学院別武闘会を勝ち抜けば全国武闘会に出場できることになっていた。

 魔法能力者がほとんどいないナギエスカーラで武闘会をやったら、追い掛けっこのようになるのだろうか。走って追い掛けて相手の背中に触れば勝ちとか、大人数で同時に行なって何人を負かしたかを競うとか。

 北限の街ロスクヴァーナでは、春には大行進を、秋には仮装行列を行なっている。衣装を選ぶ武闘会。衣装とは仮装のことだろうか。そんな姿で武闘を模した追い掛けっこ。その後、ロスクヴァーナ並みの仮装行列。新入生歓迎の行事であるからには、そんなお祭りみたいなものなのかも知れない。

 

◇◇◇◇◇

 

 スルイソラ連合国の春第二週、第五日の休日昼過ぎ。僕はスルイソラの空を南へ向かって飛んでいた。

 昨日は学院の講義終了後、いったんナギエスキーヌの家に戻って準備を整え、フレクラント国を目指して夜の空を飛び続けた。そして今朝、宿屋を発って高強度硝子製の文房具を仕入れ、今はスルイソラの首都ノヴィエミストの上空に差し掛かった所だった。

 入学審査の場で売りつけた筆記具は大好評だった。その際、行商の禁止を言い渡されてはいたが、要するに学院内で露店を開いたり、僕の方から売りつけて回ったりするなという意味だったらしい。その後、注文が入り続け、これでかなりの儲けが確定した。

 伝手を探してノヴィエミスト高等学院でも売ってみようか。そんなことを考えている内に首都ノヴィエミストを通り過ぎた。そこから一時間、南都ナギエスカーラが見えてきた。

 隣村ナギエスキーヌの家に帰り着き、僕は巨大な背嚢の中身を整理し始めた。文房具や注文を受けたお菓子等。それらをいったん押し入れにしまい込み、代わりに取り出したのは着ぐるみ。北限の街ロスクヴァーナの仮装行列に参加した際に買った物だった。

 こんな生活を続けている僕には、知り合いはいても友達はいない。今日の午後には学院で武闘会が開かれる。もうすぐ開会の頃合い。顔のおもてを残して頭の天辺から手首足首までを覆うこの着ぐるみを着て仮装行列に参加したら、さぞかし受けることだろう。これで少しは友達も。そんな風にほくそえみながら、僕は着ぐるみを着込んで家を出た。

 それでも、さすがにこの格好で独り街中の道を歩くのは恥ずかしかった。そのため、学院までの全行程を飛翔し、僕は学院の正門前に降り立った。

 正門を入った所には仰々しく受付が設けられていた。その前には学生たちの列。順次、氏名と所属を名乗り、籤らしきものを引いてゆく。ただし、彼らの服装はいたって普通。僕は強烈な違和感を覚えた。そして僕の順番がやって来た。

「生命学系生命学専攻の一年生、ケイ・サジスフォレです」

 受付の上級生らしき学生は僕の姿を上から下まで眺めまわした。

「君、その恰好は何? 通達には『平服も可』とは書いたけど……」

「通達?」

「君、掲示板を見なかったの?」

 僕は首を振った。常に見ているが、そんな通達は見掛けなかった。

「そうか。君はまだ知らないのか……。掲示板は二つあるんだ。学院からの連絡用と学生組織からの連絡用。武闘会の通達は学生組織から。友達も誰も教えてくれなかったの?」

 僕は首を振った。友達はいなかった。

「今日の武闘会は普段着でも可。遠くから来た寄宿生には、あまり荷物を持ってきていない者も多いから。でも、いくら何でもそれでは……」

「あのう……」と僕は恐る恐る尋ねた。「仮装行列とかは無いんですか?」

「まさか」と上級性は軽く笑った。「今日はきちんとした社交舞踊だけ。遊びの踊りは一切無し」

 僕は一礼して踵を返した。同音異語。あまりにも馬鹿げた聞き違い。言葉は知っていても、一度も見たことのない謎の会合、舞踏会。着ぐるみはフレクラントでは勝負服であり戦闘服。フレクラントの常識とスルイソラの常識は違うのだ。

「君。それを脱げば良いだけだから」

 そんな声が聞こえてきたが、今は着ぐるみの下は下着のみ。着ぐるみ姿が駄目で下着姿が良いとは到底思えず、僕は振り向かなかった。

 中等学院生の時、僕は学院別武闘会に参加させてもらえなかった。追い掛けっこや仮装行列。それなら僕も一緒に楽しめると思ったのに。いつでもどこでも空回り、やれやれ、ぐだぐだ、くそったれ。僕は猿の着ぐるみの中でそんな悪態をつきながら、家に向かって独りとぼとぼと歩き続けた。

 未だ市街地を抜けていない頃だった。すれ違い掛けた家族連れの中から、男性が突然声を掛けてきた。

「それはロスクヴァーナの仮装かい?」

 僕は立ち止まって、その中年の男性に「はい」と答えた。

「懐かしいなあ」と男性は感慨深げに言った。「でも、季節が違うだろう。春は大行進だ」

「おじさんはロスクヴァーナのことを知っているんですか?」

「俺はロスクヴァーナの出身だ」

 その瞬間、男性の顔に笑みがこぼれ、男性は踊りの姿勢を取った。

「うっほほい、なっほほい、やっほー、わっほー」

 僕もそれに合わせて踊ってみた。

「うっほほい、なっほほい、やっほー、わっほー」

 僕の掛け声に、男性は嬉しそうに大声を上げて笑った。次いで、家族の子供たちにも参加を呼び掛けた。

 僕と男性と子供たち。僕たちはしばらくの間、手近な広場で列をなして踊り続けた。かたわらには、僕たちの様子を眺め続ける、男性の奥さんと思われる女性。気付くと、女性は警察隊の制服を着た男二人と話し込んでいた。僕たちは踊りをやめてそこに向かった。

「通報があったのだが」と隊員は言った。「公園で猿が踊っていると。君たちは何をしているんだ」

「ロスクヴァーナの春の大行進の真似です」と僕は答えた。

「ロスクヴァーナ?」

「スルイソラ連合国の北限の街。春の大行進は一種のお祭り」と僕は補足した。

「ここは南都ナギエスカーラだぞ。何で北の祭りを」

 その瞬間、僕は思い出した。スルイソラでは地域意識が強い。場を取り繕わなければと思い、僕は切り出した。

「それなら、ナギエスカーラではどうやるんですか。それもやってみます」

「君はこの辺りの者ではないのか」

 僕が「はい」と頷くと、隊員は「こうやるんだ」と言った。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 僕はすぐにそれを真似し、ロスクヴァーナ流と併せて踊った。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん。うっほほい、なっほほい、やっほー、わっほー」

 僕が「ほら。子供たちにも教えてあげて」と声を掛けると、隊員たちも軽く踊り始めた。

 程なくして、隊員たちは列を離れ、僕に声を掛けてきた。

「公園の外に出ないこと。日が暮れる前には解散すること」

 その頃には、見知らぬ子供たちが列に加わっていた。おそらく近所に住む初等学院の生徒たちだろう。周囲には親と思われる大人たちの姿もあった。

「おい」と新しいおじさんが近寄ってきた。「俺の所ではこうやるんだ。これもやれ」

 そうやって掛け声と人数が増えてゆき、とうとう掛け声の数は五つに、列はそこそこの行列になってしまった。僕は先頭に立って公園内をぐるぐる回りながら、そうなのだと確信した。何が舞踏会だ。こうでなければいけないのだ。スルイソラは祭りの国。皆陽気で祭りが大好き。

 小一時間が経った頃、十人前後の警察隊員が現れ、解散を呼び掛けた。日暮れには遠い頃合いだったが、僕もさすがに疲れて公園の椅子に座り込んだ。

 ほとんどの人が立ち去ると、隊員は僕に近付いてきた。

「君。ちょっと詰め所まで来てくれるか」

 詰め所という言葉に出張所程度のものを想像していると、そこは警察隊の本部だった。僕はそのまま隊長室に連れていかれた。

 目の前には制服を厳格に着こなして姿勢正しく椅子に座るナギエスカーラ警察隊隊長。一方の僕は猿の着ぐるみのまま立ちっ放し。なぜ休日にわざわざ隊長が。僕はそんな風に訝しく思いながら、辺りをわずかに漂う自然精気を吸い続けた。

「君は高等学院の新入生、フレクラント国のケイ・サジスフォレ君だね?」

 僕が「はい」と肯定すると、隊長はフームと鼻を鳴らした。

「エスタスラヴァで政変を引き起こした白狼の騎士か?」

 僕は呆気にとられた。「どうなのかね」と隊長が訊いてきた。

「その通りです。でも、引き起こしたのではなく、巻き込まれただけです。そういう情報は秘密でお願いします。それから、今はエスタスラヴァではなくエスタコリンです」

「君は監視対象になっている。それを覚えておいてもらいたい」

「犯罪者扱いですか?」と僕は語気を強めた。

「重要人物扱いと考えてもらいたい」

「公園で踊ったことが問題なのでしょうか」

「そうではない。許可無く街中の道を練り歩いたら犯罪になるがね。あくまでも会ってみたかっただけだ。これまでその機会が無かったが、君は評議会でも話題になっている」

 そう言うと、隊長は事情を説明してくれた。

 スルイソラ連合国では、国や各方域、各団体を統括する組織は評議会と呼ばれている。南都ナギエスカーラはスルイソラ連合国南方域の中核都市。南方域評議会はナギエスカーラ評議会の拡大会合であり、実質的にナギエスカーラ評議会が南方域評議会となっている。

 ナギエスカーラの街の規模はスルイソラ連合国内第二位。ナギエスカーラ評議会は首都のノヴィエミスト評議会に次ぐ力を持っている。ナギエスカーラ評議会は連合国内だけでなく他国の情報も収集している。その中には僕に関する事項も含まれており、評議会議員は皆僕に興味を持っている。

「そして、警察隊長も評議会議員であり、私も君に興味を持ったという次第だ。君を犯罪者と認識していたら、こんな話はしない。そこを良く理解してもらいたい」

 そういうことであればと思い、僕は猿の着ぐるみのまま直立不動の姿勢を取った。

「状況は分かりました。今後とも、よろしくお付き合いのほどを」

「うむ。こちらこそ」と隊長は頷いた。「ただし、破壊性のある魔法の使用や政変などは勘弁してもらいたい」

「エスタコリン王国の前国王アルヴィン・ブロージュス様とは懇意にしていただいておりますが、陛下はおっしゃいました。敵を増やすな、友を作れと。僕もそのつもりです」

「なるほど」と隊長は小首を傾げた。「君には人脈や経験があると……。その言葉、確かにその通りだな。私も心掛けよう」

 そう言うと、隊長は失笑した。

「それにしても、なぜ猿の着ぐるみなんだ」

 僕が事情を説明すると、隊長はさらに笑った。

「学院の舞踏会か。あれは粋がった学生たちが上品ぶってやっているだけだ。しかも結局、女は格好の良い男に群がり、男は可愛い女に群がって終わる。そんなもんだ」

 つまり今頃、アンには身動きできないほどの人だかり。アンはエスタコリン王国では王家に次ぐ家の御令嬢。アンも精一杯に着飾っているのだろうか。

「隊長さんは高等学院の卒業生ですか」

「ああ」と隊長は肯定した。「ナギエスカーラ評議会の議員の半分以上はそうだ」

「隊長さんは舞踏会ではどうでした」

「会堂の隅で男だけで無駄話をして終わりだ。どの男も一応一度は誰かと踊らせてもらえるが、良い思いをした記憶は特に無い。今日は職能学校と師範学校でも学生交流会が開かれているが、そちらの方がよっぽど楽しそうだな」

 隊長が笑い、それに釣られて僕も笑った所で、初の会見は終了となった。

「最後に一つ、お願いがあるのですが」と僕は切り出した。「今回は、会ってみたいから挨拶しに来いといきなり呼び付けた、という形になっています。そうですよね?」

「あっ、ああ」と隊長はためらいがちに肯定した。

「別に責める気は無いんですけど、さすがにそれはちょっと違うと思うんです。その代わりに行商の注文を下さい」

「あっ、ああ……。やはり、フレクラントの行商人は抜け目が無い。それなら、ロスクヴァーナの果物を注文しよう。遠すぎて、北の新鮮な果物は手に入らないから」

「ありがとうございます。これからも御贔屓に」

 僕は颯爽と会釈をして隊長室を後にした。

 警察隊長はそれなりに話の通じる人。でも、重要人物扱いなら馬車でも出してくれれば良いだろうに。そう思いながら本部を後にすると、日が暮れようとしていた。ここは街中、繁華街もある。そして、そこかしこに学生の姿。中には既に酔っている者もいる様子。

 そこで僕は気が付いた。なぜ、休日なのに隊長まで出勤しているのか。毎年この夜には、ある者は歓喜に舞い上がり、ある者は悲嘆にくれる。そして多分、大量の学生が酔っ払って街中を無意味に徘徊するのだ。だから、あちらこちらに警察隊員の姿。絡まれない内にさっさと帰ろう。僕は人目を気にせず中空帯まで上昇した。

 警告の光球を先行させて飛び続け、程なく家に帰り着いて驚いた。庭先にアンがぽつんと立っていた。

「何やってんの?」と僕は声を掛けた。

「ケイこそ、その恰好は何?」

「とにかく入れよ」

 僕はそう言いながら、玄関の鍵を開けた。

 土間と居間の灯りを付けて部屋着に着替えていると、アンは勝手に二人分のお茶を淹れて座卓に並べた。

「今日はどうだった?」と僕は訊いた。「お洒落をして行ったんだろう? 男たちに囲まれただろう」

「お洒落はしてない。普段着で行った。荷物になるから、舞踏会用の服はこっちには持ってきていない」

「男たちは?」

 アンは疲労をあらわにフフンと鼻で笑った。

「囲まれた。揉みくちゃ。疲れた。ケイも来れば良かったのに。今日は何をしていたの?」

 僕が顛末を話すと、アンは大笑いした。

「戦いの方の武闘会なんてフレクラントでしかやっていないんじゃない?」

「そんなの、全然知らなかった」と僕は苦笑した。「アンは中等学院生の時、戦いの方の武闘会はどうだった?」

「五年生の時は学院内で負け。六年生の時は全国大会に出たけど、準決勝で負けた」

 僕はヘエと感嘆した。僕と同居していた頃のアンの魔法能力は平均をかなり下回っていたのに、そのアンが最後には全国の最上位四人の中にいたとは。

「ケイは? ケイなら全国は当たり前と思っていたら、全然見掛けなかったけど」

 僕はフフンと鼻で笑った。

「武闘会は全部不参加。アンが全国に出ていたのも全然知らなかった」

「何で不参加?」

 僕が無言で首を傾げると、アンは何かを察したのか話題を変えてきた。

「ところで、夕飯がまだなんだけど、私の分もある?」

「あるよ」と僕は答え、失笑しながら首を振った。

 取り置き分の硬化魔法を解いて二人分の食事を用意し、僕たちは食卓を囲んで夕食を摂り始めた。その間の話題はアンの現状。

 現在、学院内でアンの素性を知っているのは学院上層部とエスタコリン王国西部出身者のみ。その他に対しては、出身地不明のアン・エペトランシャで通してきた。僕と出会って魔法使いであることが知られてしまい、それ以降はフレクラント国出身で僕の従兄妹を名乗っている。

「そうしたら、ケイを紹介してほしいって、女子たちに頼まれるようになって」

「さすがです、ケイ殿。いくらでも紹介して」

「いくらでも……。分かった。物を売りつけられるだけだから、紹介は無しで」

 アンの専攻は歴史学考古学。講義の内容は目新しいものが多くて楽しいのだが、問題が一つ。カイルの黙示録の発見からすでに五年以上が経つというのに、その話は未だこちらには伝わってきていない模様。そのため、講義の内容の一部がどうしても知っていることと食い違ってしまう。

「どうしたらいいんだろう。私が勝手に明かす訳にはいかないし」

「フレクラント国高等学院に問い合わせるしかないよ。歴史学のフレスコル博士辺りに」

「やはり、そうするしかないかな」

 そんな雑談を続けながら食事を終え、僕は後片付けをしながらアンに尋ねた。

「寄宿舎の門限は?」

「まだ、もう少し余裕があるけど……」

「片付けは僕がするよ」

「今夜はここに泊めてくれない?」

 僕はエッと声を漏らし、アンを見詰めた。

「外泊届けも出してきたし。親戚の家に泊まるって」

 胸の鼓動が一気に速くなった。いくら何でもそれはまずいだろう。アンは妃候補の筆頭。妃に選ばれなかったとしても、どこかの上級貴族のお嫁さんになる身。

「こっちに来てから……、スルイソラに来てから、ずっと苦しいの」

 これは愛の告白だろうか。

「でも分かっている。息が苦しいのではなくて、自然精気が薄いんだって」

 僕はアッと気付いた。

「でもここだと、ほんのわずかでも自然精気が濃いから、少しだけほっとする」

「慢性的な倦怠感? 脱力感? 焦燥感?」

「うん」とアンは頷いた。「いつも気だるくて、夜も良く眠れない」

「スルイソラでも自然精気が湧出しているのは間違いないんだ。でも、地表付近にあまり滞留していないから、強引に吸い込むぐらいでないと駄目なんだ」

「ケイは大丈夫なの?」

「もう慣れた。五年以上、行商で何度もスルイソラに来ているから」

「今夜の寄宿舎は騒がしくなりそうだし、何だか帰りたくない……」

「分かった。泊まっていったらいいよ。布団もあるし」

 アンは弱々しく頷いた。

 まずは僕、次いでアン。その順番で風呂に入り、寝支度が整った。アンは僕の部屋着を着て、居間に敷いた布団の上に座っていた。化粧を落としても、やはりアンは綺麗だった。僕はその背後に回った。

「ちょっと魔法を掛けるから、背中を出して。その前に、アンが自己治癒魔法を掛けて」

 程なくアンが「終わった」と言った。「背中を出して」と再び声を掛けると、アンはいきなり上を脱ぎ始めた。そこまでする必要は無い。そう声を掛ける間もなく、アンは上半身裸になってしまった。その一瞬、アンの豊かになった胸が視界に入った。

「今からとても軽く魔法を掛ける。拒否して打ち消すなよ」

 僕は背中の真ん中に手を当てた。湯上りのしっとりとした綺麗な肌。僕はアンの胸の中央深部に向かって魔法を放った。「終わり」と声を掛けると、アンは深呼吸をした。

「何だか楽になった。何の魔法?」

「自然精気を強制的に吸入し続ける魔法。名前は多分、強制吸入術で合っているはず。一時間程度で自然に消えるから、そのままにしておいて。思念法だから他言は無用」

 アンは服を着ながら「うん」と答えた。

「何でケイは平然としているのだろうと思っていたら、こういうことか……」

「いや。やはり、強く吸い込むのが基本。思念法はその次」

「私にも教えて」

 その言葉に、僕は考え込んでしまった。

 僕は思念法の秘匿を強く命じられている。しかし、アンは僕が思念法を使っていることをすでに知っている。だから、命令を無視して強制吸入を施した。でも、施すのと教えるのとでは次元が違う。

 思念法全般についてはともかく、強制吸入術を秘匿するとしたら、その理由は何だろう。考えられるとしたら、魔法使用の制限。自然精気の薄い地では余剰精気を貯め込みづらくなる。アンにその制限が必要なのだろうか。

「分かった。これからしばらくの間、休日の夕方前にここに来て。昼間は行商があるから」

 アンは真剣な表情で頷いた。

「そろそろ寝よう。明日から、またいつも通りの講義だし」

 アンが「うん」と頷くのを確認し、僕は照明器の灯りを消した。

 

◇◇◇◇◇

 

 一般教養科目・性と家庭の社会学。その題名に興味をそそられて取った講義だった。そんな講義で愕然とすることになるとは思ってもみなかった。

 何々をしなければならない。何々をしてはならない。そのような単純な命令の形式で教え込まれた徳目は数多くある。しかし、その根拠や背景を事細かに教えられたことは多くない。それをまさか他国に来て知ることになろうとは。

 春学期も半ばに差し掛かろうとする今日この頃。これまではスルイソラ連合国内の七方域に関する講義が続いていた。まず先生が概要を解説し、次にその方域出身の学生が他地域出身の学生の質問に答えるという形式。そして遂に、今日の題目はフレクラント国。先ほどから、先生はフレクラント国の解説を行なっていた。

 フレクラント人はほぼ全員が強力な魔法を使用できる。フレクラント人の知性や教育水準に男女差は無く、女の肉体的強度の劣勢は魔法能力によって補完されている。さらには、自己治癒魔法を用いれば妊娠を回避できる。つまり、子作りの選択権は完全に女側にある。

 生物の定義は以下の二つの要件からなる。自己を守り、生きながらえようとするもの。子孫を作り、自己の資質を残そうとするもの。つまり生物として、フレクラント人の女は男に対して圧倒的に優位な立場にある。この生物学的優位がフレクラント社会の至る所に影響を及ぼしている。

 例えば、フレクラント国は女優位社会。国の長たる大統領は歴史上、女の比率が高く、実際に現大統領も女である。

 例えば、フレクラント国は母系社会。個々人の氏名は基本的に固有名と母親の家名の二要素からなる。さらに、男は結婚をすると、その氏名は固有名、母親の家名、妻の家名の三要素に変わる。

 先生の解説がそこまで進んだ時、指摘の声が上がった。

「先生。それでは息子ばかりの家は途絶えてしまうので、家名の総数は減る一方です。フレクラントは特に人口が少ないので、いずれ全員同じ家名になってしまうのでは……」

 先生は僕に目を向けてきた。

「フレクラント人のケイ・サジスフォレ君。君が説明したまえ」

「はい」と僕は答えた。「逆に、複数の娘がいる家もあります。そのような家では、家を継ぐ娘は家名も継ぎますが、それ以外の娘は結婚時に他の家名を名乗ることも可能となっています。例えば、夫の家名、過去に断絶した家名、全く新しい家名などです。そのため歴史上、家名の種類は変わっても、総数はそれほど変わっていないと言われています」

 先生は僕の答に満足げに頷いた。

「それでは次。例えば婚約の儀式」と先生は笑みをこぼした。「父系社会の連合国では婚約の際、男が女の実家に出向き、女の父親に対して『娘さんを下さい』と申し入れるのが習わしとなっている。一方、フレクラント国ではどうなのだろう。サジスフォレ君」

 講義室内の視線が再び僕に集中した。

「女が男の実家に出向き、男の母親に対して『息子さんを下さい』と申し入れることになっています」

 その瞬間、笑い声やエーッという懐疑の声で講義室が満たされた。

「静粛に」と先生が呼び掛けた。「かくのごとく、連合国とフレクラント国では男女の社会的役割が逆転しているのだ。それに付随して、連合国では想像し得ないような権利や義務がフレクラント国には存在する」

 生物学的な優劣を社会にそのまま反映させたのでは、フレクラント人の男がフレクラント人の女を忌避するだけとなり、結果として社会が成立しなくなる。そのためフレクラント国では、女に様々な責務を課すことによって男の生物学的劣勢を社会的に補完し、社会的平等を実現している。

 例えば、夫が望む場合、かつ特段の事情が無い限り、妻は夫の子供を最低限二人は産まなければならない。ただし、妊娠の制御は完全に妻の権利とされている。通常、フレクラント人は男女共に百歳前後で結婚し、その後の数十年間に二人以上の子供を作っている。

 例えば、女の不貞行為は男側の子孫を残す権利を侵害するものとして、禁忌とされている。妻が不倫をした場合、夫には義務と権利が発生する。相手の男を死罪に処す義務と権利。妻を死罪に処す権利、もしくは妻と離婚する権利、もしくは妻による妊娠の制御を禁じて際限なく子供を産ませる権利。

 一方、夫が不倫をした場合、妻には義務と権利が発生する。相手の女を死罪に処す義務と権利。夫を死罪に処す権利、もしくは夫と離婚する権利。

 ただし、不倫の当事者が二人とも既婚者であった場合は死罪を優先する。

 このように、男と女の権利には明白な非対称性が存在する。これが生物学的に圧倒的に優位な立場にある女に課された社会的責務の一例である。

「それでは女ばかりが責任を負わされて不公平です」と女子学生が声を上げた。

「他国のことだから余計な論評はしないが、それは逆だ。今述べた通り、そうすることによって男の生物学的劣勢を補い、社会的公平を実現しているのだ。逆に連合国では肉体の強度上、男の方が生物学的に圧倒的に優位な立場にある。そのため、家族を守る責務、社会を守る責務、戦いに赴く責務などは男が率先して果たすことになっている」

「でも、フレクラント国は女に厳しすぎませんか」

「それなら、連合国は男に厳しすぎることになるだろう。君も魔法使いという言葉を知っているはずだ。それ以外には魔女という言葉もある。しかし、魔男という言い回しは聞かない。つまり、魔法使いの中でも特に女こそが畏怖すべき対象であるとの意味なのだ」

 先生は僕に目を向けてきた。

「サジスフォレ君。続きは君が解説したまえ」

「あのう……」と僕はためらいがちに切り出した。「家庭のことに関しては、男にも様々な義務があるんです。妊娠中の妻を世話する義務とか、子育てに公平に加わる義務とか」

 その瞬間、女子学生が声を上げた。

「公平に加わる義務って、回りくどい言い方のように聞こえるんですけど。簡潔に『子育ての義務』ではないんですか?」

「役割分担はそれぞれの夫婦で決める。そういう意味です」

「でも、際限なく産ませるって、苛烈と言うか下劣ではありませんか? まるで家畜扱いじゃないですか」

 僕は首を傾げた。その種の言い回しを聞くのはこれで二度目。一度目はエスタコリン王国のエルランド殿下からだった。殿下はエスタコリン王国高等学院でこの種の講義を取ったのだろうか。いずれにせよ、フレクラントでそんな言い回しを聞いたことはなかった。

「家畜扱いなどする訳がありません。また、様々な強力な魔法があるので、実は子供を際限なく産むこと自体には身体上、何の問題も無いんです。ただし、子育ての義務がありますから、その面で現実的には不可能です。不倫における真の苛烈さはそこではないんです」

「それなら、どこなんですか?」

 僕は返答をためらった。他国の者が圧倒的多数を占めるこの講義室内で話して良い事柄なのだろうか。「サジスフォレ君」と先生が続きを促してきた。場が紛糾したら先生が何とかするのだろう。僕はそう腹を括った。

「和姦事件と強姦事件に共通する話なんですが……。と言っても、フレクラント人は魔法を使えますから、よほどのことをしない限り、強姦なんて出来ないとは思いますけど……」

 フレクラント国では男女を問わず、被害者やその家族親族には加害者を殺す義務がある。加害者が他国の者の場合、他国に乗り込んででも殺さなければならない。他国の者がそれを阻止しようとした場合、他国の法や規則にとらわれずにそれらの者も排除し、死刑を完遂しなければならない。また、殺人事件や姦通事件など、生物の根源的定義に直結する権利の侵害には時効が無い。

 僕の説明がそこまで進んだ時、講義室内にざわめきが広がり、声が上がった。

「何で他国にまで。それは越権行為だろう。フレクラントの横暴だ」

 講義室内がまさに紛糾の様相を呈し始めた。

「もし、他国が国を挙げて死刑を阻止したらどうなる」

「国同士の戦争になります」と僕は公式見解を直言した。「ただし言っておきますが、フレクラント人が関係する姦通事件は滅多に起きません。僕もかなり昔の記録を読んで知っているだけです」

「滅多に無くても、一々戦争なんて」

「戦争は最悪の場合です。普通は戦争になどなりません」

「最悪なのは他国にとってだ」

「それならば、誰に対してであっても、邪な下心など抱かねば良い」と僕は怒鳴った。

 その瞬間、「諸君。静粛に」と先生が声を張り上げた。

「講義の内容からは外れてしまうが、私が解説しよう。諸君も『いいかげんにしろよ』の石碑を見たことがあるだろう。歴史上、連合国でもエスタコリン王国でも紛争や内乱が繰り返されてきた。そのたびに、それを鎮める役目を担ったのは大抵フレクラント国だった。つまり、フレクラント国が人々の平穏を支えてきた。残念なことではあるが、これは歴史上の事実なのだ。その代償として、フレクラント国の規則や掟の一部は他国でもそのまま認められている」

 講義室内のざわめきがかなり治まった。

「ちなみに、神話伝説大系という書物の中に『エステルの二つの約束』という逸話がある。その中で、カイルという人物の採った行動がまさにサジスフォレ君が説明したものだ。また、『月になった太陽』や『白狼の騎士』の逸話もそれに該当する。特に『白狼の騎士』では、その種の事件が発端となって、エスタコリン王国はフレクラント国に完膚なきまでに負かされてしまったのだ。興味のある者は神話伝説大系とそれに付随する文献を読んでみると良い。フレクラント人の伝統的な精神性が分かるだろう」

 先生の言葉はそこで途切れた。先生は講義室内を眺め回し、学生たちの反応を確かめている様子だった。

 先生の言葉通り、このナギエスカーラの街にも「いいかげんにしろよ」の碑がある。確か、街の中心に近い公園の隅に設置されていたはず。かつて、その碑はスルイソラ連合国内の各地に設置されていた。しかし土地によっては、街外れに移転されたり、撤去されたりしている。お金儲けの秘訣その二十二。石碑と街の中心との距離を確かめれば、その地の民度やフレクラント国への感情が分かる。僕は通商組合の人たちにそう教えられた。

 僕はさらにふと思った。カイルの黙示録におけるエステルの存在感の希薄さ。エステルは結局、リエトの元に駆け付けるだけ。カイルにやり込められるだけ。その理由は、不義によって極端なまでに立場が転落してしまったことにあるのだろう。小規模な社会。それゆえに極端なまでに転落してしまう社会。それが大昔から続くフレクラント国なのだろう。

 その後も質疑応答が続き、講義が終盤に差し掛かろうとした頃だった。突然、先生が話題を変えた。

「今日の講義はここまでとするが、一つだけ諸君に言っておく。ちなみにこの話は今、他の講義でも一斉に行なわれているはずだ」

 先生は溜め息をついて大きく首を振ると、「あのなあ」と気だるい口調になった。

「学院には毎年、いわゆる人気者が入ってくる。人気者には異性の人だかり。人気者のいる所はいつも満員。学院としても人気者としても、それでは困るのだ。見たところ、現在の人気者は全学年男女を合わせて七、八人だろう」

 すぐに分かった。具体例はあまりにも明白。アンも有力な人気者。他専攻の僕はいつも遠くからその姿を見掛けるのみ。

「交友を規制する訳にはいかないから学院としては黙認してきたが、ここのところ、度を越している。そのため学院評議会は、付きまとい行為の禁止令を出すかどうかを議論している。学業第一。交友はあくまでも節度をもって。それを忘れないでほしい」

 講義室内が静まり返った。

「君たちの焦りは良く分かる。連合国ではどの地域でも、中等学院の前期課程を修了した辺りから婚約する者が出始めて、中等学院の後期課程を修了したら男女共にどんどん結婚してしまうのだから。この高等学院が大半の学生を寄宿舎に入れているのは、男女を隔離して性的な行動を抑制するためだ」

 再び、ざわめきが講義室内に広がった。僕も呻いてしまった。これまでの講義でその種の事情は学んでいたが、寄宿舎の主目的が男女の隔離だったとは。

「君たちも聞いていると思うが、例年、寄宿舎外から登院している新入生女子の四分の一程度は一年生の間に学院を辞めてしまう。理由は結婚、妊娠、出産だ」

 僕は唖然とした。スルイソラ連合国で一世代と言えば二十年。僕は初等学院でそのように教わった。そして、これがその実態。

「例えば前期課程の三年間。それぐらいは待ったらどうだ。君たちがきちんと勉強してきちんと社会を作り上げれば、連合国が他国に軽くあしらわれることもなくなるのだ。全ては君たちの努力にかかっている。そのことを自覚したまえ」

 僕は悶々とし始めた。アンに群がる男たちが求めているのは、速やかなる結婚、妊娠、出産。ここまで生々しく話されてしまっては、否が応にも意識せざるを得なかった。

 同時に僕は後悔した。お姉様方の純潔は永遠に不滅です。そんなことは言わなければ良かった。フレクラント国での結婚は百歳前後。つまり、結婚なんてはるか先。そんな感覚で軽口を叩いてしまった。

「今日の講義でも分かったと思うが、この種の問題に対する考え方は国や地域によって大きく異なる。ただし、自国他国を問わず常識的な人付き合いをすれば問題になることはない。以上だ」

 やはりアンのことだと僕は思った。

 午後の講義の終了後、いったん家に帰って洗濯を済ませ、僕は学院の食堂で夕食を摂っていた。席はいつもの食堂隅。教職員や上級生を押し退けて、いつの間にか僕の指定席となってしまった感があった。あそこは行商人の席、商談の場。そんな認識が広まっていた。

 最近、注文の件数が減っていた。どうやら、高強度硝子製文房具の需要が一巡しかけている模様だった。やはり、耐久性のある物品は売り手にとっては一過性のもの。文房具は来年の新入生を待つしかないと、僕は食事を続けながら溜め息をついた。

 鼻歌交じりの孤食も中盤に差し掛かった頃、向かいの席に上級生らしき男子学生が腰を下ろした。

「僕も筆記具を欲しいんだけど」と上級性は言った。

 やった、と僕は心の内で快哉を叫んだ。

「どの種類ですか」

 そう尋ねて、脇に置いておいた背嚢から商品の一覧表を取り出した。

 上級生はかなり裕福な家庭の子弟なのだろう。意匠を凝らした高級筆記具を選んだ。正式に契約を交わすと、上級生は身を乗り出して声を潜めた。

「僕はエスタコリン西部の出身で貴族家の出。お嬢様のことで少し話があるんだけど」

 僕は上級生を見詰めた。アンのお目付け役はこんな風にそこらに潜んでいるのだ。

「最近、お嬢様は休日の夜になると外泊しておられるようなんだけど、行き先に心当たりは無いかと思って」

 迂闊なことは言えないと僕は判断した。

「アン自身はどう言っています?」

「アン?」と上級生は首を傾げた。「随分、馴れ馴れしいけど……。お嬢様と君に面識があるのは知っている。お嬢様がフレクラントに留学していたことも知っている。でも、そんなに親しい付き合いなの?」

 最近、アンは自分自身のことを、フレクラント国出身で僕の従兄妹と名乗っている。ただし、アンは積極的に名乗って回っている訳ではなく、おそらく執拗に尋ねてくる者のみに告げているのだろう。この人はそんな現状を把握していない模様。エスタコリン王国の貴族は格の上下にうるさい。馴れ馴れしいなどと口を出されるのは面倒臭い。

「アンがフレクラントに留学した際、アンの身元引受人になったのはフレクラント国副大統領たる僕の父ですから」

「あっ」と上級生は何かを感じ取った様子だった。「これは失礼した。サジスフォレ殿」

「ここはスルイソラですし、君付けでお願いします。それから、あなたはこの学院内でアンを何と呼んでいるんですか」

「エペトランシャ君と」

「エペトランシャは僕の父方の家名です」

「あっ」と上級生は再び何かを思った様子だった。

「話を戻しますけど、アン自身はどう言っているんですか?」

「いや、それが」と上級生は気を取り直したように話し始めた。「病気ではないのだけれど、親戚の家に泊まって治療をと。お嬢様は立派に治癒魔法を使えるのだから、治療というのが良く分からない。しかも、親戚なんて話は聞いたことがない……。しかし、エペトランシャか……。まさか、君の所に泊まっているの?」

 隠し通すのは到底無理。どこまで明かすべきだろう。エスタコリンの貴族には馬鹿正直な受け答えをして嵌められたことがある。この人はどうなのだろう。

「答えてほしい。僕も大公家から世話役を頼まれて、いい加減なことは出来ないんだ」

 エスタコリン王国の前国王、アルさんの口癖は落としどころ。

「僕が話したことは大公家に伝わるんですよね? いや。答えなくていいです。アンは自然精気の濃いフレクラントで育ちました。そしていきなりスルイソラ。その落差が大きすぎて、自然精気の呼吸困難と言うか、余剰精気の飢餓と言うか、そんな状態に陥っているんです。それで、僕の所で自然精気を強く吸い込む練習をしているんです。『はい、吸ってーえ。はい、吸ってーえ』って」

「そうだったのか……。僕もやったな……」

「ですから、余計な心配はしないでください。僕にも自制心はありますから」

「自制心ね……」と上級生は溜め息をついた。「君は随分、淡泊なんだな」

 僕は呻いた。淡泊ではないからこその自制心。アンの方こそ羞恥心が奇妙に欠落している。着替えや入浴の際、たまたま僕に全裸を晒してしまっても涼しい顔。使用人に裸を見られたぐらいで、一々恥ずかしがるものではありません。多分、アンはそんな教育を受けてきたのだろう。

「ヴェストビーク家の女性方は皆様、本当にお美しいだろう。しばらく前までは『かの長女様』と言われて、長女様の噂で持ち切りだった。フレクラントには綺麗な人が多い。それでも、カイサ様はフレクラントの高等学院で一番お美しかったらしいと。そして、今度はアンソフィー様。カイサ様の華やかさには目のやり場が無い。アンソフィー様の可憐さには目が釘付けになる。血筋って何なんだろうな……」

 それはアンの内実を知らないだけ。それに、次女のイエシカ様の存在感は今いずこ。

「いずれにせよ、僕はアンの立場を十二分に理解していますから。フレクラントでは、その種の事柄で下手なことをすると、誇張抜きで最悪死刑になるんです」

 僕がそのように念を押すと、上級生はなぜか呆れたように鼻で笑った。

「もう、妃選びなんかやめればいいのに……。もうすぐ四人目だろう」

 僕は「ん?」と鼻を鳴らした。

「君は知らないのか。エルランド殿下には、すでにお子様が三人おられる。そして、クリスタ殿はまたしても妊娠中。殿下とクリスタ殿がそこまで好き合っているのなら……」

 クリスタさんが側室になって五年半。僕は殿下の驚異の有言実行に唖然とした。

 

◇◇◇◇◇

 

 神話伝説大系・逸話集・二四 月になった太陽

 

 原文

 太陽の楽園にさらなる太陽。太陽は弾け飛び、太陽の楽園は月になった。

 

 解釈

 昔々、楽園は男によって統べられていました。ところがある日、女も力を持つようになり、楽園は女によって統べられるようになりました。男は大層喜びました。これからは楽園を照らし続けなくても良いのだと。それ以降、女は太陽のように常に楽園を照らし、男は月のように時折楽園を照らすようになりました。

 

 注釈

 原文中二つ目の「太陽の楽園」は「楽園の太陽」の誤りか。

 

◇◇◇◇◇

 

 今度、大廃墟に行ってみよう。そんな約束をしてから何週間も経ってしまっていた。最近になってようやく行商の具合もアンの様子も落ち着いて、春の休日の昼過ぎ、僕たちは南都ナギエスカーラを飛び立った。

 一路南へ。徒歩での日帰りは強行軍となりそうな距離だが、中空中速飛翔なら片道一時間弱。意外にも、眼下にはごく普通の田園風景が広がっていた。その先にちょっとした森林。初めて目にした大廃墟はそんな場所だった。

 田園と森林の境界辺りに降り立つと、アンは感慨深げに周囲を見回した。そんなアンに僕は声を掛けた。

「お母さんのアイナ様も昔、ここに来たんだよな。話は聞いているの?」

「うん」とアンは頷いた。「お母様もナギエスカーラに宿をとって、ジランのお爺様と一緒にこうやって飛んで来たらしい。遺跡はあの森の中らしいよ。行ってみよう」

 自分の専門に直結する場所への訪問だからだろう。今日のアンは饒舌だった。そんなアンに先導されるままに、僕は小道に沿って森に分け入った。

 上空から見下ろした時には、それほど大きな森林とは思えなかった。しかし、いざ自分の脚で進んでみると、行き着く先が分からないほどに森は深かった。周囲からは緑の香り、鳥のさえずり。ふと見ると、様々な虫、小枝にはバッタ。時折、風が吹き抜け、草木がざわめく。しかし、人里に近い場所のため、危険な獣はいないはず。そして、これだけ自然が豊かであるにもかかわらず、ここでも自然精気の滞留密度は低かった。

 木々の間には、所々にわずかに切り開かれた空間があった。アンに促されて注意深く確かめてみると、そこには石造りの建屋の痕跡。間違いなく、ここにはかつて集落、もしくは村、もしくは街があったのだ。僕は改めて周囲を見回し、頭の中で木々の姿を消して街の様子を再現してみた。

 アンによれば、歴史学考古学の分野では、ここに人が住んでいた時期は大まかに一万五千年前までとされているらしい。また、カイルの黙示録によれば、一万二千五百年前にはここはとっくに滅んでおり、すでに人々は古都ナギエスカーラ辺りに移り住んでいた。

 この大地は南北に細長い。そして現在のスルイソラ連合国の領域。その北限は大山脈。その北にはフレクラント国やエスタコリン王国がある。東限は東海の海岸線。南限はこの大廃墟の辺り。西限は大地の東西方向の中央辺り。一方、太古の居住域は、北限と南限は現在と同じだが、東西には東海の海岸線に沿った地帯に偏っていたらしい。つまり、現在の区分で言えば、北東、東、南の東海沿岸三方域に人は集中していた。

 太古、北のエベルスクラントと南の大廃墟周辺の間には、それなりに人の往来があったと推測されている。徒歩によるその経路。北のエベルスクラントから山岳地帯を南下、フレクラント高原の東側に至る。その東の山を越えてエスタコリン平野に至る。エスタコリン平野を東進、海岸線まで出る。海岸沿いを南下して大山脈を迂回、スルイソラ大平原に至る。さらに海岸沿いをずっと南下、わずかに西の内陸に入って大廃墟周辺に至る。その長い経路沿いには、延々と集落が点在していたと考えられている。

 学界の定説では、人は元々大廃墟周辺に住んでおり、そこから北上して居住域を広げたとされている。一方、カイルの黙示録によれば向きは逆。ただし現状では、たった一つの古文書で学界の定説が覆るとは思えない。

 森の小道をゆっくりと歩きながら話がそこまで進んだ時、僕はアンに尋ねた。

「アルさんたちの調査はどうなっているの? 数年を掛けて北の大森林の地形図を作ったとは聞いているけど、フレクラント国高等学院の紀要には何も出ていないし」

「まだ駄目みたい」とアンは首を振った。「もし何かを見付けても、小さな集落の跡程度では北上説を否定できない。大きな街の跡を見付ける必要があるって。でも……」

 僕は「でも?」とアンの顔色を窺った。

「もし石造ではなく木造の文化だったら、痕跡は見付からないかも知れないらしい」

 僕は思わず足を止めて脱力し、「それでは……」と呟いた。

「でも、ケイも覚えているでしょう。エベルスクラントでは地下にも街が広がっていた。アルさんが言うには、エベルスクラントに地下街という発想があった以上、他にも似たような地下街があったはずだって」

 僕たちは背嚢から水筒を取り出して口と喉を潤し、再び歩き始めた。しばらく経った頃、アンが「あっ、これだ」と声を上げた。そこには小振りな石碑が立っていた。

「大昔、ここから先は湖だった。そしてここが岸」

 僕はヘエと声を上げた。僕も事前に調べてはいたが、僕の目にはこれまでと全く同じ森林が続いているようにしか見えず、石碑の存在は全く知らなかった。

 数千年前の記録によれば、当時ここから先は湿地帯だったらしい。その頃に残っていた言い伝えによれば、さらに昔は湖だったとのこと。

「そして問題は……」

 僕がそう言うと、アンは頷いた。

「問題はその形。ほぼ真円形」

「なぜ、真円形だったと分かるの?」と僕は尋ねた。

「この先の一帯、真円形の区画にだけ、遺跡も遺物も全く見付からないから。そして、周辺の地形から考えて、真円形の湖なんて自然に出来たとは考えられない」

「カイルは、人がスルイスラの街を廃墟にしてしまったと書いているけど」

「学説では原因は不明。でも形から考えて、何らかの爆発が起きたのだろうとは言われている。一説には巨大な流星の衝突が原因と言われているけど、私は魔法が関係しているような気がする」

 アンの説に、僕は首を振った。

「そこは学説通りだと思う。魔法の力を使えば、例えば学院の建屋を吹き飛ばすことは出来る。でも、同じように大地を吹き飛ばすのは無理」

「何で?」とアンは小首を傾げた。

「大地には土や石や岩がぎっしりと詰まっている。つまり、吹き飛ばすべき物量が桁違いに多い。地中に向けて空爆を撃っても重いだけ」

「重いだけって、まるでやったことがあるみたいな言い方」とアンは笑みをこぼした。

「あるよ。どれだけ撃っても、微かな地揺れと地響きが起きるだけ」

 アンはエッと声を上げた。

「ケイは何でもやっちゃうんだ……」

「人聞きの悪いことを言うなよ」と僕は失笑した。

「何でそんなことをしたの?」

「憂さ晴らし」と僕は鼻で笑った。「ところで、一つ疑問があるんだけど」

「何?」とアンは笑みを浮かべて小首を傾げた。

「森の入口からここまで、建屋の跡とかこの石碑とか、良く綺麗に残っているものだと思って。遺跡って普通は植物に侵食されたり、土埃を被っていずれは土に埋もれてしまうものなんだろう?」

 その瞬間、アンは笑い声を漏らした。

「ここは大昔から観光の名所だったから、今通って来た道沿いは定期的に手入れされているらしいよ。森を出た所に集落があったでしょう。ここはナギエスカーラから微妙に離れているから、あの集落には間貸屋をしている家がいくつかあるらしい。森で採れた山菜の料理が美味しいという噂」

 僕がヘエと声を上げると、アンが「行こう」と声を掛けてきた。

 そのまま小道を進み、二十分程度が経ったと思われた頃、再び石碑に出くわした。

「きっと、ここが元々の湖の中心点」とアンは言った。

 石碑の前で立ち止まり、持参した果物を二人で分け合って食べていると、「ねえ」とアンが言った。

「私、ずっと前から気になっていたんだけど、カイルの黙示録には続きがあるのかな」

「さあ、どうだろう」と僕は首を捻った。「それは要するに、カイルはあの後も転生と覚醒を繰り返しているという意味だろう。そしてカイルの言を信じれば、もしそうならリエトとエステルも転生と覚醒を繰り返している」

「もし転生が二千五百年おきだったとしたら、ちょうど今頃だよね」

「ん?」と僕はアンの顔を見詰めた。「何を言いたいんだよ」

「歴史の生き証人がいることになる」

「やめろよ」と僕は忌避の声を上げた。「リエトは頭のおかしな廃人。エステルはふらふらしているだけの女。カイルは殺人を厭わない超魔法使い。カイルは即物派だったかも知れないけど、それでも昔の思念法は現代魔法なんか足元にも及ばないぐらいに強力だった」

「でも、頭のおかしな廃人はいるんでしょう? フレクラントの精神治療施設に」

「いや。生命学博士は真偽不明と言っていただろう」

「カイルは理由もなく人を殺した訳ではないし、とても理知的で天才」

「アンさん。アン殿。怖い話はやめて。カイルの執念と大量殺人の経験はやっぱり怖い」

「もし、黙示録の続きがありそうな場所を思い付いたら、一緒に行ってくれない?」

 アンはそう言うと、笑みをこぼして品を作った。いかにも作為的な熱い眼差し。その瞬間、胸が高鳴り、ぎゅっと締め付けられたような気がした。アンはずるい。アンは時折、僕に向かって意図的にそんなことをする。

 果物を食べ終え、今日はこれで帰路に就くことになった。僕たちは手を繋いで中空帯まで一気に上昇した。最後の一瞥。そう思って、僕は湖があった場所を見下ろした。

 おそらくかつて、ここには集落、もしくは村、もしくは街の中心があったのだろう。僕は頭の中で木々の姿を消して街の様子を再現してみた。その瞬間だった。巨大な閃光の映像が脳裏に浮かんだ。次いで煌めく鉈。

 僕は墜落しかけた。アンが腕を抱え込んできた。全身に浮揚魔法を掛けられたのを感じた。僕は拒否せずに受け入れ、気を鎮めて飛翔を再開した。

「ごめん。大丈夫だから」

「本当に?」とアンは心配そうに言った。

「余計なことを考えて、力が一瞬抜けただけ。これは本当に本当。ありがとう」

 帰り道、僕はあの映像について考え続けた。鉈は僕に向かって振り下ろされたのだろうか。それとも、僕が振り下ろしたのだろうか。それとも、僕ではない誰かが僕ではない誰かに向かって。でも、あの映像は一瞬のもの。結局、意味は分からなかった。

 

◇◇◇◇◇

 

 春も半ばを過ぎた頃、突然、高等学院から帰省勧告が出た。対象はスルイソラ連合国内の遠隔地出身で寄宿舎に入っている学生。学院も街も騒然としていた。原因は四十二年振りの蝗害。蝗の大群が迫っているとのことだった。

 しばらく前から、僕も慌ただしい雰囲気には気付いていた。先日、学院から全ての教職員と学生に対し、最近バッタを見た者は申し出るようにとの通達が出た。僕も大廃墟での目撃を申し出ると、図鑑を見せられた。僕が見たのはおそらくこの種類。そのように申告すると、「それは違う」との返事。一体何なのだろうと僕は訝しく思っていた。

 学院に残った学生は寄宿生とそれ以外に分けられ、それぞれに説明会が始まった。大きな講義室には学年や専攻を問わず、院外から登院している学生たち。教壇には学院の評議会議員を兼任している先生。先生は先ほどからバッタの解説を続けていた。

 この大地の基本的植生は森林。人が手を加えなければ、大方の土地はいずれ森林になってしまう。ところが、連合国の南西方向、西海に近い一帯は現在草原となっている。

 記録によれば約千年前、その一帯で大火災が発生し、かなりの森林が焼け野原になってしまった。かの地は昔も今も無人。出火の原因は自然によるものとのこと。

 通常であれば、野原は数百年もすれば何らかの立派な森林と化す。しかし、その一帯では気候や動植物の生態が変化してしまったらしく、未だに多くは草原、森林は蘇っていない。そこに蝗が住み着き、それ以降その一帯は蝗の平原と呼ばれている。

 蝗は草原の虫。とにかく草を食べまくり、湿った地中に卵を産み付ける。年によっては、草原の草を食い尽くすほどに大量発生し、新たな草を求めて蝗の平原を飛び立つ。

 連合国が初めて蝗の大群に襲われたのは大火災の数十年後。その時は穀物を食い尽くされ、大飢饉が発生した。スルイソラ大平原に無数の卵を産み付けられ、数年間にわたって蝗との戦いが続いた。それ以降、連合国はフレクラント国に助力を仰ぎ、毎年春に蝗の平原の調査を行なってきた。

「そして遂に」と先生は言った。「遂に来るそうです」

「先生」と学生の間から声が上がった。「助力を仰ぎって、フレクラントにとっては他人事ですか? フレクラントは魔法があるから問題ないということですか?」

「いいえ。蝗は暖かい風に乗ってやって来るのですが、風向きと低い気温のせいで大山脈を越えられないのです」

 講義室がざわめいた。「何だか不公平……」との声が聞こえてきた。

「そういう言い方はやめなさい。蝗害が発生するたびに、フレクラント国やエスタコリン王国が食料を支援してくれているのですから」

 講義室内に溜め息が漏れ、ざわめきが治まった。

「次に対処法です。網があれば、それで捕獲する。板状の物で叩き殺す。穴を掘り、その中で焼いて埋める。地中に産み付けられた卵を潰して回る。捕獲前の蝗を直接焼くのは火災の恐れがあるので十分に注意してください。重要なのは人手の数です。皆、自宅の近所の人たちと協力して各自の地区で取り掛かってください」

 そこかしこから呻き声が漏れた。先生が大袈裟に首を振った。

「蝗は脅威です。作物ばかりでなく紙や衣類などまで食べてしまいます。ですから、家の中に入れてはなりません」

 あちらこちらからエーッと溜め息交じりの声が漏れた。

「先生」と声が上がった。「この千年間、全然対処しなかったんですか?」

「対処していればこそ、四十二年振りなのです。対処していなかったら、もっと頻繁に襲われていたでしょう」

「いえ。訊きたいのは抜本的な対策の話なのですが」

「抜本的には、森林を復活させて蝗の餌となる植物を減らし、蝗を捕食する動物に戻ってきてもらうしかありません。しかし、今はそんなことを議論している場合ではありません」

「先生」と別の声が上がった。「殺虫剤は効きますか?」

「効きますが、多分君の想像する量では全く足りません。そもそも原料となる薬草がそれほど栽培されていませんから、これから入手しようとしても十分な量にはなりません」

 先生の話が途切れた。質問の声も上がらなかった。その様子を確かめ、僕は質問した。

「先生。魔法による対処法は」

 先生は僕に目を向けると、「君は……」と問い掛けてきた。

「フレクラントのケイ・サジスフォレです。魔法で何か出来るのであれば、僕がやります」

 講義室内からオオと感嘆の声が漏れた。

「私は魔法を使えないのであまり詳しくないのですが」と先生は前置きした。「空を飛ぶ群れを空爆で吹き飛ばすのが最も安全で効果的なようです。ただし、爆発の中心点付近の蝗を殺せるだけで、下手に空爆を使うと群れが拡散してしまうそうです」

「炎爆で焼き殺すのは」

「炎爆も爆発なので、拡散は一緒です。さらには記録によれば、燃えながら落ちた蝗によって火災が発生したことがあるようです。それ以降、炎爆は使われていません」

「そもそも、空飛ぶ蝗の群れの大きさは。つまり、空間的な広がりは」

「私が四十二年前に見た群れはちょっとした雲ぐらいの大きさでした。それをフレクラントの方々が周辺部から徐々に削るように空爆で吹き飛ばしていました」

「今回もフレクラントから人が来ているんですか?」

「現在、二十人程度の方々が蝗の平原で駆除に当たっていますが、到底駆除しきれないとの報が届いているそうです」

 その時、学生の間から声が上がった。

「何で二十人なんですか。もっと来てもらえばいいのに」

「それには理由があって……、色々と難しい理由が……」と先生は言葉を濁した。

 いかにもいわくありげなその様子に、僕も含め全員が口を閉ざした。これをもって説明会は終了となり、これから臨時の長期休暇、僕たちは帰宅することになった。

 途中、帰る前にバッタのことを調べてみようと思い立ち、僕は学院の図書館に向かった。

 ちょっとした雲。大人が二十人もいて、なぜその程度のものを吹き飛ばしきれないのだろう。考えられるとしたら、自然精気の密度の低さ、余剰精気の枯渇。スルイソラ大平原ばかりでなく、その南西方向でも自然精気は薄いのかも知れない。そうであれば、高空帯を飛び回りながら空爆を撃ち続けるのは確かに難しくなる。

 図書館に着いてみると、教職員と寄宿生が大人数で本などを運び入れていた。訊いてみると、蝗の大群に食べられるのを避けるため、研究室などに分散する書物や書類を図書館に退避させている所らしい。司書の人に書籍の貸し出しを依頼すると、図書館封鎖の作業で忙しいと、にべもなく断られてしまった。事情を説明して何とか入手できたのは先日見せられた図鑑一冊だった。

 家への帰り道、僕は思った。あそこではアンや、アンのお目付け役の上級生などが甲斐甲斐しく動き回っていた。それどころか、他の学生たちに指示まで出していた。アンの意外な側面。あれが上級貴族の矜持、上級貴族の責務なのだろうか。家に着いたら早速、僕もそこら辺でバッタを探してみよう。

 

◇◇◇◇◇

 

 翌週、遂にその日がやって来た。僕とアンの体を留め具で繋ぎ、アンに背後から抱えられながら僕は高空帯を飛翔していた。ただし、飛翔魔法を発動しているのはアン一人。僕は余剰精気を温存していた。

 一昨日、忙しそうに駆け回るアンを捕まえ、今日のことを依頼した。仮にもフレクラント人を名乗るのなら。僕のその冗談めかした言葉に、アンは苦笑しながら了承してくれた。

 南都ナギエスカーラから南西へ。人の居住域を過ぎた頃、前方に黒い霞のようなもの、宙を漂う黒い点の集合体が見えてきた。霞の左右では時折空爆。そのたびに、何かがばらばらと落下していた。

 人影を見付けて近付いてみると、驚いたことに父だった。父は副大統領。そのため討伐団の団長を任されたらしい。現在、蝗の群れを左右から挟み込んで撃ち落としている所。ようやく四割程度を削ったとのことだった。

 疲れた。もう駄目だ。あとはスルイソラに任せる。父はそう言った。それなら残りは僕がやる。僕は群れの前に回り込む。僕の方に群れを追い込んでほしい。僕と群れの間には絶対に入り込まないように。僕がそう頼むと、父は疲労をあらわに了承してくれた。

 蝗の群れが迫ってきた。遠方で合図の光球が輝いた。僕は魔法を発動した。事前に試してみたものよりも少し強めの出力。余剰精気を浪費しないよう強すぎない出力。そして最低限の強制属性。

 天空に温熱魔法の感知不能な大障壁。蝗の群れが突っ込んだ。滝のように流れ落ちた。後続の蝗も討伐団に追い立てられてどんどん突っ込んだ。丘のように積み上がった。立ち上る湯気。蝗の蒸し焼き祭り。僕は快哉を叫んだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 今回の蝗の討伐団は一団二十名。団長は副大統領が務め、現場の指揮を執るのは大統領府常設警邏隊の中隊長。二十名中、十名は常設警邏隊の隊員、残りは大統領府や各地方政庁から掻き集められた職員とのことだった。

 蝗の第一波を撃退し、父たちの仕事はそれで終了。入れ替わりにもう一人の副大統領に率いられた第二団がやって来て、僕も加勢して第二波も撃退。今回の蝗害はほとんど被害を出さずに終息しようとしていた。その間、わずか三週間。学院の業務再開が公告され、来週から講義が始まることになっていた。

 午後、僕は未だ明るい内から独りナギエスキーヌの自宅で酒を嘗めていた。

 先ほどまで、フレクラント国高等学院の生命学博士を名乗る魔女がこの家にいた。訊いてみると、最近博士の学位を取ったとのこと。あの嫌味な老年生命学博士の部下だった。

 遠路はるばる何をしに来たのかと思えば、質問に次ぐ質問。

 魔女いわく、初等学院や中等学院で教えている魔法は全て、対象物そのものに掛けるもの、もしくは空間の一点で発動させるもの。魔法力を何も無い空間に広く展開する手法などどこで覚えたのか。

 僕の答。自分で工夫した。例えば、僕は子供の頃から掃除器の掛け方が変だと言われている。それは僕が密かに掃除器の中で魔法を領域展開しているから。

 魔女いわく、目撃証言から考えて、蝗退治に使ったのは自己組織化系魔法ではないか。

 僕の答。いかにもその通り。温熱魔法を領域展開し、そこに強制属性を加えた。

 魔女は、もう禁忌の技術には触れないでもらいたいと言った。僕は反論した。あれは人助けであり、禁忌の行ないとは到底思えない。それならば、再び蝗が襲ってきたらどうすれば良いのか。僕のその問いに、魔女は何も答えなかった。僕はそこで家から魔女を追い出した。

 僕はこれまで、いい加減に扱われてきた、利用され続けてきた、辛辣に当たられ続けてきた。もう、子供の頃のようなお人好しで能天気であってはいけないのだ。

 僕はふと思い立ち、フレクラント国大統領のジランさんに陳情書を書き始めた。

 

 僕は忘れていません。事の始まりは三級屈辱刑。十歳の僕が百五十人の大人に取り囲まれて罵声と嘲笑と水を浴びせられました。もし僕が魔法を暴発させていなければ、もし先代の大統領が来てくださっていなければ、僕に刑を科した者たちは未だにのうのうと暮らしていたことでしょう。

 そして今日、フレクラント国の一機関たるフレクラント国高等学院生命学専攻から調査員が来ました。調査員は僕の社会貢献を全く評価せず、僕を詰問し、僕が蝗退治に太古の思念法を使ったことを批判しました。つまり、魔法技術の調査を越えて、思想や言動を調査し管理しに来たのです。

 他者の尊厳を踏みにじろうとする者。他者を高圧的に服従させようとする者。そういう者たちが跋扈し、そういう者たちと一々闘わなければならない国。それがフレクラント国なのです。そこで一つ、国の長たる大統領に要求があります。

 フレクラント国高等学院生命学専攻を解体してください。あの者たちの頭には魔法の管理しかありません。社会的意義など眼中にありません。いつも何の説明も無しに、まずは従わせようとする。魔法の元締との自負心が強すぎて、あそこはもはや侮辱的な存在に成り果てています。あの者たちは社会の益になりません。社会に害をなすかも知れません。あの者たちから余計な権限を剥奪してください。全員を首にして、専攻を組織し直してください。あの者たちは果てしなく煩わしい。もはや我慢がなりません。

 ご検討をよろしくお願いいたします。

 

 どうせやるなら徹底的にと思い、次いで僕はスルイソラ連合国評議会の議長宛てに請求書を書いた。

 

 私はスルイソラ連合国南方域ナギエスキーヌ村在住、ナギエスカーラ高等学院学生、フレクラント国出身のケイ・サジスフォレと申します。現在、私は行商によって生計を立てながら学院に通っています。ちなみに、今回の蝗害において蝗を全滅させたのは私です。

 先日、これを機に貴国南西方域の皆様とも誼みを結び、商い上のお付き合いをお願いしようと思い立ちました。ところが、現地で私に返って来たのは罵詈雑言でした。

 蝗の死骸が異臭を放っている。蝗の死骸に動物が群がっている。全てはお前があんな所で蝗を殺したせい。お前が退治しなくても、我々で対処できた。実際に蝗が来てみなければ、我々に被害が出たかどうかなど分かるはずがない。

 彼らは私に向かってそのように言い放ちました。さらには現地で、連合国評議会が派遣した査察官に出くわしました。その場で私に向けられたのは謝意ではなく嫌味でした。

 何たる中途半端。どうせなら、死骸も全て片付けてくれれば良いものを。勝手なことをするからこんなことになる。我々の仕事が増えてしまった。全ては連合国中央の指示を仰がなかったせいだ。

 私が今回の蝗退治に加わったのは私の独断によるものです。ですから、無視までなら理解できます。しかし罵詈雑言。あまりの恩知らずに私の怒りは収まりようがありません。

 記録によれば、四十二年前の蝗害において、貴国は連合国年間予算の十分の一に相当する被害を受けています。それを根拠に、今回の蝗退治の報奨金として私に連合国年間予算の十分の一をお支払いください。このこと、ぜひともご検討ください。

 

 僕は自己治癒魔法で酔いを醒まし、陳情書と請求書を封筒に入れた。やはり、行商人の知恵は実践的。金儲けの秘訣その二。事前にきちんと契約を交わせ。それを守るべきだった。そんなことを思いながら、郵便処に向かおうと玄関を出て驚いた。

「そんな所で何をしているんです」

 生命学博士の魔女が敷地の入口辺りに立っていた。

「まだ、重要な話が残っています。それを伝えるために、少々時間を置いたのです」

「もう二時間は経っていますよ」

「ですから、重要な話なのです」

 意外に生真面目。この魔女に対する僕の人物評価は偏っていたのだろうか。

「ずっとそこに立っていたんですか?」

「いいえ。しばらく街の方にいましたが」

 僕が馬鹿だった。この魔女はやはり図太い。しおらしくも何ともない。

 いいかげんにしろよ、と僕は心の内で自分に言い聞かせた。もう、お人好しで能天気はやめるのだ。僕は立ち話で済ませることにして、話の続きを促した。

「領域展開による魔法の予備発動の件ですが」と魔女は言った。

 初等学院や中等学院では扱わないものの、高等学院では特殊魔法実技という科目で教えている。ただし、その科目は必修ではなく、日常生活で使う魔法の訓練を行なう訳でもなく、合格率も低い。そのため、その科目を取る者は非常に少ない。

 その科目の合格実績から、フレクラント人の五十人に一人は領域展開による予備発動を行なう能力を潜在的に有していると推測されている。つまり、領域展開による予備発動は少数とは言え稀ではない。

「それならそれでいいじゃないですか」と僕は口を挟んだ。

「あなたは領域展開による予備発動の危険性を認識していますか。例えば硬化魔法」

「認識しているに決まっている。誤って人が領域に入り、心臓だけが硬化したら、心臓が止まるのと同じことになる。同時に頭も硬化したら、自力で硬化を解除することも出来なくなり、そのまますぐに死んでしまう。だから、僕はそんなことはしない。どこまで僕を馬鹿にしたら気が済むんだ」

「普通の人はそこまで深く考えていないのです。だから、魔法の管理者たるフレクラント国高等学院生命学専攻は、こういうことがあるたびに人を派遣しているのです」

「要するに、生命学専攻は賢く、その他の者は馬鹿であると。物凄い自負心ですね」

「そうではありません。私たちの使命感を理解できませんか」

「それなら、物の言い方に気を付けたらどうです。どう見ても、使命感ではなく優越感」

 魔女は大きく息を吐いた。

「ケイ・サジスフォレ。あなたの能力は突出しているのです」

「要は頭の使い方。蝗退治にしても、僕は事前に調べて事前に試した。蝗は網で捕まえろと言うから、前例にとらわれずにその種の手段を使ったまで。頭はそういう風に使うもの。これだけ言われても、初対面の相手に敬称を付けることさえ思い付かないあなたは馬鹿だ」

 魔女はいったん言葉を切り、僕を見詰めてきた。

「ケイ・サジスフォレさん。あなたは転生者ではありませんか?」

 僕は呆気にとられた。

「あなたは中等学院一年生の時、転生者の扱いについて説明を受けたはずです。転生者も普通の人として社会に受け入れられている。決して悪い扱いを受ける訳ではない。ですから、もしそうなら、そのことは一般には秘匿して私たちに申し出てください」

「なぜ、そんなことを言うんです」

「あなたが突出しているからです。例えば、あなたが興味津々のカイルの黙示録ですが、あなたはとっくにカイルを越えているではありませんか。もし、カイルがあなたと同じ力を使えていたら、古のルクファリエの戦いは黙示録のようにはならなかったはずです」

 僕は顔をしかめた。

「嫌な話をしないでください。カイルは天才です。カイルに憧れる所もあります。でも、カイルは力を人殺しに使いました。僕は人助けのためです。僕が転生者かどうかは知りません。でも少なくとも、覚醒などはしていないと明言します」

「そうですか。そこまで言うのなら、一応信用しましょう」

 その返事に僕は首を傾げ、最後にもう一度問い質した。

「今回の蝗退治の件ですが、あなたから見て肯定的に評価する部分は本当に何も無いんですか?」

「ありません」と魔女は断言した。「あなたが禁忌の技術を使わなくても、スルイソラ連合国は問題に対処できたはずです。個人による圧倒的な魔法の行使はフレクラント人の間に好奇心を、スルイソラ人の間に恐怖心と警戒心を呼び起こします。全てはあなたの独断、独善、自己満足。三級屈辱刑の際にも同種の指摘を受けませんでしたか?」

 何と狡猾な魔女だろう。侮辱に当たらないような微妙な言い方。しかし、本当に侮辱する気が無いのなら、屈辱刑の件自体を避けるものだろうに。

「もっと分かりやすい話をしましょう。中等学院の武闘会は標準魔法の技能を競い合う場です。なのに、あなたは平然と参加しようとしていました。こっそりと思念法を使うつもりだったのですか。平然と抜け駆けなんて恥ずかしくないのですか」

 まるで虫けらでも見るような侮蔑の目付き。僕は言葉を突き刺すように反論した。

「生命学専攻は虚言癖の巣窟か。武闘会は破壊性の無い標準魔法を競う場であり、無意識にでも未知の魔法を使われたら困るから。それが僕に参加を辞退させた時の生命学専攻の説明だった。ところが、かなり後になってたまたま調べてみたら真っ赤な嘘。破壊性の無い魔法のみを使用。それが武闘会の規定だ。つまり、標準魔法限定なんて大嘘だ。規定を曲げるな。規定を勝手に作るな。あなた方はまずは自分たち自身の嘘と独断と傲慢を批判すべきだ」

 僕は魔女を残して飛翔を開始した。

 

◇◇◇◇◇

 

 春の学期、学院の業務が再開されて二週目の週末となっていた。夕方の食堂、いつもの席に向かってみると、アンが向かいの席に着いていた。アンの目の前には、学院の食堂で使われている物とは異なるお盆やお皿。僕が席に着くと、アンは料理に掛けられていた硬化魔法を解除し始めた。

「寄宿舎の食堂はやっぱり量が多いな」と僕は声を掛けた。

「寄宿舎の方は量と万遍ない栄養。その代わりに料理を選べない」

「料理からお皿からお盆にまで硬化魔法を掛けて持ち出して、何か言われない?」

「人に取り巻かれずにゆっくりと食事を摂りたいからと申し出たら認めてくれた」

 僕は吹き出しそうになった。

「きっと、アンも素を出したら取り巻かれなくなると思うよ」

 その瞬間、向かいの席から僕の脚が軽く蹴られた。アンは素知らぬ顔で、温熱魔法で料理を温め直すと、早速夕食を摂り始めた。

「報奨金の件、どうなった?」とアンは言った。

「黙殺。梨のつぶて。音沙汰皆無。あんな請求書を書いた所でどうにもならないとは僕も思っていたんだけど」

「書き方が悪かったんじゃない? 国の予算の十分の一とか」

「あれを法螺話と分からないなんてあり得ない」と僕は鼻で笑った。「僕の主張はただ一つ。国を危機から救ったら山ほど文句を言われた。落胆を通り越してもはや許せない。初めは無償奉仕のつもりだったけど、こうなったら何らかの報奨金を払ってもらう。それだけだよ。アンも南西方域に行った時のことを覚えているだろう。南西には偏屈な田舎者が多いとは聞いていたけど、あれは無いよ」

「知っている? スルイソラの古聞大全という本に魔女の話が沢山あるんだけど、いくつかの類型があるの。その一つ。魔女が人々を助ける。人々が魔女を蔑ろにする。魔女が人々を懲らしめる」

「至極ごもっともなお話」と僕は相槌を打った。

「別の類型では、魔女が人々を助ける。人々が魔女を蔑ろにする。魔女が人々を懲らしめようとする。人々が魔女を懲らしめる」

「その心は」と僕は続きを促した。

「前者は恩義の重要性を説く話。後者は強欲を戒める話」

「強欲って、人々の?」

「魔女の」

「何で?」と僕は驚いた。「人々が魔女を蔑ろにしたんだろう? 後者から得られる教訓は、恩知らずなど助けるな。それ以外に無いよ」

「後者には、魔女は本質的には悪であるという認識があるから、客観的には蔑ろでも主観的には蔑ろではないの」

「ふざけた話」

 僕はそう答えて、ふと首を傾げてしまった。

 意外に、ふざけた話ではないのかも知れない。先日、僕の家に押し掛けてきた魔女。重要な忠告をなどと言いながら、暗に僕を侮辱してみたり、あからさまに僕に濡れ衣を着せようとしてみたり、僕を騙そうとしてみたり。本質的に悪の魔女は確かに存在する。

「この学院にも南西方域出身の人がいるよね」とアンは言った。

「かの地が住みづらいと思ったからナギエスカーラに出てきた。きっとそう」

「また蝗が来たら、ケイはどうする?」

 その問いには、僕は答えなかった。こういう所が育ちの違い。価値観の違い。多分、アンは無償奉仕を厭わない。

「今回のことで、連合国の連合国たるゆえんが良く分かった。地域によって人の気質が全く違う。北限のロスクヴァーナの人たちは本当に馴染みやすい」

「大山脈を挟んでフレクラントのお隣さんみたいなものだから」

 アンは料理を一口頬張ると、話題を変えてきた。

「ケイは夏休みどうする? やっぱり行商?」

 僕は微かに首を傾げた後に頷いた。

「稼げる時に稼いでおかないと……。最近は連合国の北と南を行き来して、それぞれの果物を売っているんだ。ここの警察隊の人たちがお得意様になってくれて助かっている」

「着ぐるみを着た甲斐があったと」

「着ぐるみは勝負服だから」と僕は笑った。「アンはどうするの?」

「蝗のせいで夏休みが短くなってしまったけど、私はアルさんたちを手伝うつもり。今年はいよいよ本格的に北の大森林を調べるらしい」

 僕はヘエと声を上げた。

「確か、砦を作ったんだったよな。大障壁みたいな岩の壁で周りをぐるっと囲って」

「うん」とアンは頷いた。「砦も見てみたいし、北の大森林や、その北にある風霜の大地や氷結の地も見てみたいし」

「寒そう」と僕は笑った。「でも、いよいよか……。アルさんはまだまだ元気なんだな」

「ますます元気という噂」

 アンはそう言って含み笑いをすると、「それでね」とわずかに首を傾げて品を作った。

「その目付きはやめて。縋り付かれても駄目なものは駄目。お人好しで能天気はやめることにしたんだ」

 アンがエーッと縋るような声を漏らした。西の大公家の花嫁修業には媚の売り方という項目もあるのだろうか。そう思いながら、「分かったよ」と僕は渋々話の続きを促した。

「黙示録の続きがあるとしたら、北のエベルスクラントの遺跡だと思う」

 僕は「ん?」と懐疑の声を漏らして、周囲の様子を窺った。夕方の食堂の隅に目を向けてくる人はいなかった。

「エベルスクラントなんて、大昔から現代に至るまで何度も調査されているんじゃない?」

「私は、実は全然調査されていないんだと思う」

 黙示録を元に考えれば、一万二千五百年前から一万年前の間に、エベルスクラントの人々はフレクラント国高等学院の谷間に移り住んだ。当時の人々には、エベルスクラントはかつての住処との認識があり、当然学術調査の対象になどなり得なかった。

 紙に記された情報は時の経過とともに失われてゆく。経年劣化や虫や黴。そのたびに、重要な情報は写本として複製され、その他の情報は取捨選択されて要点だけが後世に伝えられる。石板に刻んだり、硝子に封印して日の光を避けたりすれば、万の年を越えても情報を残せる。ただし、それは少量のみ。いずれにせよ、多くの情報は失われる運命にある。

 現在、フレクラント国高等学院はエベルスクラントの遺跡を管理しており、その全体図なども現存している。しかし、学院とエベルスクラントの元々の関係性は一般には知られておらず、おそらく時の経過と共に忘れ去られてしまったのだろう。

「ここが重要」とアンは意気込んだ。「大昔の人にとっては、エベルスクラントは既知の存在だった。だから、少量だけど情報が残っている。現代の人たちは情報が残っていることを元に、過去にエベルスクラント全体の調査が行なわれたことがあると思っている」

「その推論にはかなりの穴が……」と僕は首を傾げた。

「何も、調査が無かったと言っている訳ではないの。全体の調査が無かったと言っているだけ。ケイも覚えているでしょう。中等学院の遠足で行った時のこと。地下街の入り口付近の住居跡を見学しただけで、奥の方へは立ち入り禁止だった。墓などもあるからって」

 僕はウーンと首を傾げた。

「いずれにしても、歴史学考古学研究が始まったのは歴史時代に入ってから。そんなに昔の話ではないの。歴史が分からなくなってしまったから調べるようになった。それが実態」

 そこまで力説するのなら、と僕は思った。

 神聖視と禁忌。僕は墓に対してそんな感覚を持っている。いつ、どこで、誰から。それは忘れてしまったが、正確に言えば、幽霊との接触は禁忌と僕は教えられた。

 一方、アンは僕などよりもはるかに即物的な様子。フレクラント高原西端の石窟に潜り込んだ際も、アンは物怖じの気配を全く見せなかった。多分、生粋のフレクラント育ちではないアンは僕とは異なる教育を受けたのだろう。

 ただしあの後、僕も良く考えてみたら、確かにあれは単なる穴。墓ではない。墓の移転に際しては何らかの儀式なども行なわれ、神聖も禁忌も新しい墓地に一緒に移ったに違いない。そう認識し直したら、薄気味悪さも無くなった。

 エベルスクラントも同様に違いない。人々がエベルスクラントからフレクラントへ移住した際には、遺灰や遺骨なども一緒に移されたに違いない。

「分かった。アンが北の大森林から帰ってきた後に行ってみよう」

 これにて話は決まり。僕たちは夕飯を済ませ、それぞれの帰路に就いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みに入って二週間目の朝、僕は南都ナギエスカーラから首都ノヴィエミストに向けて高空高速飛翔を続けていた。

 僕にとっては一時間程度の慣れた道のり。一方、地上を行き交う人の多くは徒歩での移動。僕のように一直線に進む訳にもいかず、片道だけで二泊三日以上の道のりになるとのこと。この距離感がスルイソラ連合国を分断する主要な原因となっていた。

 毎年この時期、ノヴィエミストでは連合国評議会の定例会合が開かれているらしい。幹部会合は国内七方域の代表者と二つの高等学院の代表各一名、合計九名で構成されている。また、一般会合の構成は方域別議員、産業別議員、二つの高等学院の代表者たち。数週間にわたって幹部会合と一般会合が断続的に繰り返されるとのことだった。

 そして、夏休みに入る前日、春学期終業日のこと。僕の元に通知が届いた。蝗退治に対する報奨金を支払う。ついては、指定の日時に連合国評議会本部に出頭せよと。通知が来たこと自体も驚きだったが、出頭先が連合国評議会。一体何が始まるのだろうと、僕は期待と不安を覚え続けていた。

 連合国評議会本部の建屋は三つの事務棟と一つの会堂からなる。その大きさは高空帯から見下ろしても明瞭に分かるほど。いざその前に立ってみると、巨大な石造建築は圧迫感を覚えるほどの威容を誇っていた。

 受付で名乗り出ると、僕は直ちに奥に通された。訊くと、行き先は連合国評議会幹部会。長い廊下をぐるぐると歩き回った後、僕は大きな扉の前に立たされた。

 入室してみると、部屋の奥には巨大な長机、出入り口に向き合う席には三人が着いていた。さらには部屋の左右にも巨大な長机、やはり三人ずつが着いていた。当然、正面真ん中の男性が連合国評議会議長だろう。そう思って、僕は男性に向かって自己紹介をした。

「ケイ・サジスフォレと申します。通知をいただき、出頭いたしました」

 議長は「うむ」と頷くと、僕に椅子に座るよう促してきた。僕は勧められるままに腰を下ろし、改めて議長と向かい合った。

「君の手紙を読ませてもらった。連合国予算の十分の一とは随分と大きく出たものだな。あれが最初の言い値か」

「いいえ。言い値ではありません。法螺を吹いただけです」

 議長はフフンと鼻で笑った。

「それで、付け値はいかほどでしょうか」と僕は尋ねた。

「まあ、待ちたまえ。その前に少し話をしようではないか」

 まるで面接。結果次第で報奨金の額が変わるのだろうか。そう思いながら、僕は神妙に頷いた。

「君はなぜ、フレクラント国高等学院ではなく、こちらの学院に進学したのかね」

 この質問は経験済み。ナギエスカーラ高等学院の入学者選抜面接と全く同じ。

「最も離れている場所だからです。新しい物事を経験してみたかったんです」

「こちらでの暮らしはどうかね。楽しいか?」

「はい。総体としては圧倒的に楽しいです」

「フレクラントでは随分とつらい目にあったようだな」

 僕は返答に迷った。ナギエスカーラ評議会は僕に関する情報を持っていた。当然、連合国評議会もそれなりに知っているのだろう。

「君はもう、過去のことは過去のことと割り切ったのだろうか」

 僕は困ってしまった。議長は中々答えづらいことばかりを聞いてくる。

「割り切るということを覚えなければ、こちらでの暮らしもいずれつらくなるだろうな」

「どういうことでしょうか」

「君の訴えが事実かどうかを調べた。事実どころか、どうやら手紙以上のことがあったようだな。君の口からも少し聞かせてくれないか」

 僕は「はい」と答えて説明を始めた。

 蝗退治を機に南西方域でも商いをと思い立ち、同行を希望した女子学生と二人で南西方域の村々を回ってみた。ところが、最初のいくつかの村で手紙に記したようなことが起こり、僕はそこでの商いを諦めた。そして、次に向かった村で事件は起きた。

 商いを始めてしばらく経った頃、柄の悪い男三人が場所代と称して金銭を要求してきた。断ると、男たちは刃物のような金属製品をちらつかせた。僕は直ちに三人に硬化魔法を掛けて転がした。近くにいた人に警察隊の詰め所の位置を尋ねると、この村には無いと言う。

 事の始末に迷っていると、今度は六人の男がやって来た。態度の大きな男一人と、それに付き従う男五人。男たちは先ほどの三人の仲間らしく、僕たちに凄んできた。魔法使いは僕一人と男たちは判断したらしく、同行してきた女子を人質に取ろうとした。ところが女子も魔法使い。二人で硬化魔法を用いて六人を直ちに転がした。

 事の始末に迷っていると、さらに十二人の男がやって来た。態度の大きな男一人と、それに付き従う男十一人。一番偉そうな男は村長と名乗った。村長は、転がる男たちを非難する訳でも無く、僕たちに詫びる訳でも無く、「商品を全て買い取るから、二度と来ないでくれ」と言った。

「村長も含めてあの男たちは『蝗を退治したぐらいで大きな顔をするな』という趣旨のことを言いました。普通に行商をしていただけなのに、なぜそんなことを言われなければならないのか、僕にはさっぱり分かりません」

「君は硬化魔法で転がした男たちを放置して帰ったそうだな」

「村長が『直ちに立ち去れ』と言ったからです。魔法は夜までには自然に解けたはずです。あれ以降、南西方域には全く足を踏み入れていません。田舎の等比数列はもう御免です」

 僕の話が終わると、議長は左の長机に着く男性に「だそうだ」と声を掛けた。

「南西方域にはもう立ち入らないでくれ」と男性は僕に言った。

「南西方域の代表の方ですか?」

 僕の問いに、男性は頷いた。

「それなら一つお聞きしますが、スルイソラ連合国と、フレクラント国の各通商組合との間には協定があります。通商組合の組合員は個人で商いをする限りにおいては、税などを徴収されることなく、どこでも自由に活動できると。僕は西地方通商組合の第二種組合員です。あなたの方域は協定違反に近いことを行なっています。どうお考えですか」

「協定があろうとなかろうと、相手がいなければ売買は成立しない。違うかね?」

「そこまでフレクラントに対する反感が強いのですか?」

 代表は渋い表情で口を閉ざしてしまった。代わりに議長が口を開いた。

「そうではない。連合国中央の者が行っても、似たような扱いを受けるのだ。南西方域に限らずどの方域でも、田舎へ行けば行くほど村長や長老や顔役が大きな顔をしたがる。そんな所に君のような名を馳せた魔法使いが颯爽と現れたら癇に障る。要するにそういうことなのだ。君には、井の中の蛙の田舎者と割り切ってもらいたい。いつまでも根に持たれたら怖いからな。なあ。偉大なる蝗退治の魔法使い」

 僕は頭に手を当ててウームと呻いた。鷹揚さ。寛容さ。そういう事柄には相手次第という側面もあるのではないだろうか。今度は僕の方から尋ねた。

「連合国中央の査察官の件はどうでしたか」

「誰もそのようなことは言っていないとの報告を受けている」

 僕はエッと声を上げた。

「それは嘘です。同行した女子が証人です」

「査察官たちも単独で行動していた訳ではないし、証人がいると主張するだろうな」

「つまり水掛け論だと」

「そうならざるを得ない」

 報奨金を払うと言うから来てみたものの、雀の涙ほどになりそうな気配。それなら、もういいや。連合国評議会を見られただけでもう十分。僕はそんな投げやりな気分になった。

「質問があるんですけど、フレクラント人二十人で蝗を半減できるのなら、なぜ四十人を派遣してもらわないんですか」

「千年前ならいざ知らず、今の我々ならある程度までの蝗であれば対処可能だからだ」

「でも前回、連合国予算の十分の一の被害が……」

「予算の十分の一は経済学系の者たちが勝手に金銭に換算して言っているだけだ。蝗は金を食わない。蝗によって金が増えたり減ったりする訳ではない。国民全員が無償で蝗対策に乗り出せば、その分の人件費は掛からない。四十二年前も飢饉には至っていない」

「あらかじめ群れを全滅させてしまえば、余計な苦労も気苦労も……」

「フレクラント側がそこまでしか派遣してくれないのだ」

 僕は唖然とした。

「多くの者は知らないが、特に秘密になっている訳ではない。約八百年前の大統領と議長のやり取りの記録が公開されている。あとは自分で調べてみてはどうだろう」

 話が打ち切られそうな気配。

「ちょっと待ってください。つまり……」

 そう言って、僕は時間を稼いだ。

「蝗の平原はどの国の領域でもない。つまり、蝗は皆の問題。ただし、蝗が襲うのはスルイソラのみ。だから、スルイソラが対策を主導せよ。当然、そういう話にはなりますよね」

「確かに八百年前の記録にはそんな話も載っている訳だ」

「『も』ですか。つまり、当然ではない話もあると……。少し前から気になっていたんですけど、スルイソラの人たちは自国のことを『スルイソラ』ではなく『連合国』、自国の人のことを『スルイソラ人』ではなく『連合国人』と呼びますよね」

「そうだな。それが一般的だ」

「国全体を呼ぶ際に敢えて連合を強調するのは、地域意識の強さの裏返しですか?」

「そうだろうな。スルイソラは元々、南方を中心とする地名だったから」

「フレクラントの歴代大統領が懸念しているのは、連合国の分裂と対立。蝗は適度に残しておくから、連合国全体で協力し合えという意味ですか?」

 室内の至る所から、皮肉っぽく鼻で笑う音が聞こえてきた。

「そうなんですか? 本当にそれで国全体が団結できるんですか?」

「全体に対する脅威の存在は全体を団結させる。政治学の初歩だ。それにしても、君の思考は独特だな。話が繋がっているのか飛躍しているのか良く分からない」

「そんなことで団結なんて、短絡的と言うか、荒療治と言うか、無茶と言うか……」

「そうか。君は無茶だと思うか。君は話が分かるようだ。しかしだな。なぜ、フレクラントはいつもそんなに高圧的なのだろう」

「歳を食って偉くなりすぎると、皆そうなるんです」

 僕の即答に、複数の軽い笑い声が漏れた。

「あと、蝗の件で僕が気になっていたのは、なぜ抜本的な対策を講じないんですか?」

「抜本的には蝗の平原に入植し、土地を整備して人の居住域とし、人手をもって蝗を抑制するしかない。しかし、誰も行きたがらない。遠いし、大変な作業になるのは分かり切っているから」

 僕は首を傾げた。

「抜本対策は森林の復興ではないんですか?」

「森林の復興など金と労力が掛かるばかりで実入りが無い。それこそ誰もしたがらない」

 僕は「はあ」と曖昧に賛同した。

「いずれにせよ、我々とて対策を練っていない訳ではない。現状の対策も十分に有効。抜本対策は困難、現実的には不可能。原理や原則の問題ではなく政治の問題なのだ」

 僕は「なるほど」と消極的に賛同した。

「話はここまでとしよう」と議長は宣言した。

 僕が「それでは」と腰を上げようとすると、議長は「待て」と言った。

「君は『後期課程まで在学するつもり。出来れば、その後もしばらく研究を』と高等学院に申告したそうだな。それならば、十年分の生活費相当額を報奨金として支払おう。これからは勉学に専念したまえ」

 予想外の大金に僕は驚いた。

「君の貢献に対する評価はその程度が妥当だろうと思う。そもそも君の手紙を受け取る前から、我々としても無償で済ませる訳にはいかないだろうとは考えていたのだ」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は後悔した。僕はこの人たちを安く見ていた。この人たちは僕をきちんと見ていてくれたのに。

「失礼な手紙を書いて、済みませんでした」

「成果にはそれに見合う報酬を。そうでなければ、有能な者ほど腐ったり逃げ出したりしてしまう。言っては悪いが、そういう面ではフレクラントは連合国の田舎にも劣る。賞罰の概念は存在しても、実態としては罰しか存在しない。だから、君のような学業成績最優秀が国の外へ出てしまうのだ」

 僕は息をのんだ。僕はこの人たちを軽く見すぎていた。

「もし、フレクラントの大統領府の前で、ジラン大統領の馬鹿野郎と叫んだらどうなるのだろうな」

「根拠なしに罵倒したら、職員が飛び出してきて説明と謝罪を求めてくると思います」

「不自由なものだな。連合国では決してそんなことにはならない」

「そうなんですか?」と僕は驚いた。「連合国はそこまで自由なんですか?」

「もちろんだ。帰る時、試しに連合国評議会の正面玄関の前で叫んでみたまえ」

「はい」

「ジラン大統領の馬鹿野郎と」

 僕は呆気にとられ、全身に力を込めて笑いをこらえた。

「報奨金はナギエスカーラ信用組合の口座に振り込んでおく。口座を持っていないのなら、直ちに作るように。君を補助した女子学生にも少額だが同様に。無駄遣いをするなよ」

 僕は勢い良く椅子から立ち上がり、「ありがとうございます」と頭を下げた。

 

◇◇◇◇◇

 

「職能学校や師範学校と高等学院の違いは分かるか」

 環境生命学の博士はそう言いながら意味不明な笑みを浮かべた。

「職能学校や師範学校は技能を身に着ける場。高等学院は研究を通して学業を修める場。ところが、私が言うのも何だが、環境生命学は学問としてはほとんど進歩していない。だから、君のような留学生がわざわざ来るような所ではない」

 僕はハアと曖昧に答えた。

 秋学期から一年生も研究室に所属する。夏休みの間、一年生は適時、各研究室を回って所属先を検討する。夏休みの序盤、僕が真っ先に門を叩いたのは環境生命学研究室だった。ところが来てみると、研究室には学生も修士もおらず、研究室に所属するのは博士の先生ただ一人。研究棟の隅の隅、物置みたいな一室に先生は籠っていた。

「先生。この研究室出身の人たちは今、どうしておられるんですか」

「私は教員になって以降二人の学生を指導したが、一人は中等学院の教員、もう一人は出身地に帰って農作物の品種改良や農地の土壌改良の指導や研究をしている」

「そうですか……」

 僕はそう相槌を打ちながら訝しく思った。先生の年齢は五十代半ばとの噂。良くは分からないが、これまでの教員人生で担当した学生が二人だけとは、平均よりもかなり少ないのではないだろうか。

「先生。生命学関連が学問として進歩していないのは、なぜですか」

「それはな。ひとえに精気の性質のせいだ」

 例えば空気。誰でも存在を感知できるし、ある程度までの性質は実験的に知られており、理論的にも予想されている。ところが、空気は目に見えず、その正体はほとんど解明されていない。

 精気も空気と似たようなもの。ただし、さらに難しい状況にある。全ての人間が精気を感知できる訳ではなく、魔法使いの魔法使用を魔法使い自身が主観的に評価したものが実験に相当する作業となる。

 だから大昔から、生命学は学問ではなく技能だった。現状では、生命力工学も魔法工芸に毛が生えた程度のものに過ぎない。それらを基盤とする環境生命学は推して知るべし。

「私が環境中の自然精気の濃度を測定しているのは、少しでも濃度を上げたいと考えているからだ。しかし中々、手掛かりが見付からない。その結果、私の研究分野は実質的に地質鉱物学と植物学になってしまっている」

 僕はウーンと呻いて首を傾げた。

 カイルの黙示録には精気分光器という記述があった。あれが真実なら、少なくともカイルは技能や工芸を越えた学問の域に到達していたはず。しかし明かせなかった。明かしたとしても、信じてもらえるとは思えなかった。

「先生。魔法工芸から生命力工学が生まれたのは約五百年前のこと。生命力方程式が導き出されたのが切っ掛けとのことですが……」

「その通り。七百年ぐらい前から数学が進歩し始めて、それを応用した結果だ。環境生命学が始まったのはさらにその後。生命力方程式は今では吸収石の設計などに利用されている。ところが、連合国の職人の技術では中々設計通りの石を作れない。フレクラントの職人は魔法を併用して作るからなのか、合成石関連の出来栄えはあちらの方が良い」

「先生。生命力方程式は間違っているのではないでしょうか」

 その瞬間、「何?」と先生は訝しげな声を上げた。

「どうしても、僕の実感と計算結果が合わないんです」

「計算が間違っているのではないか? 生命力方程式を解くには基本関数や特殊関数を用いる必要があるし、実際の数値を求めるには数表と睨めっこする必要があるから」

「先生。もし精気を直接目で見られるようになったら……」

「革命だ」と先生は笑みをこぼした。「生命学とその周辺分野に革命が起きる」

「例えば精気の色を見分ける精気分光器とか、あとは例えば空気の流れと同じように検知するのなら……」

 僕が敢えて内容だけを口にしてみると、先生は「ん?」と鼻を鳴らした。

「何と言えばいいんでしょう……」と僕は迷った。

「差し詰め、精気流束測定器といった所だろうか」

「はい」と僕は頷いた。

 先生は感心したようにフーンと鼻を鳴らし、首を振った。

「君の構想は大きいな……。それならまあ、私の研究室に来て好きなことをすれば良い。他の研究室はやめた方が良いだろうな」

「どういう意味でしょうか」

「他の研究室では、まずは教員や上級生に付いて見習いだ。好き勝手はさせてもらえない」

 僕はアアと納得した。

「ただし言っておくが、私の研究室に来て、物にならなかったとしても、文句は言わないでくれよ。逆に言えば、堅実に丁稚奉公をすれば何らかの物になるのは間違いない。それを良く考えて決めるように」

「分かりました」と僕は頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みの中盤。夏真っ盛りの炎天下。南都ナギエスカーラの夏祭りが催されていた。

 今日ばかりは街の中心、目抜き通りに馬車や牛車などの姿は無く、そこら中に露店、大道芸や弾き流し、大勢の人たちが通りを行き交っていた。そんな中、僕たちの露店には人だかりが出来ていた。僕、高等学院の女子学生三人、男子学生三人、合計七人。僕たちは氷菓を売りまくっていた。

 事の発端は、性と家庭の社会学だった。お姉様方の純潔は永遠に不滅です。その言葉は痛烈すぎたとあの時に気付き、僕はあの上級生女子三人を探して詫びを入れた。それ以降、あの三人は時折注文を出してくれるお客様となっていた。

 夏休み、あの三人も僕と同様に帰省していなかった。たまたま出くわし、なぜ寄宿舎に残っているのかと尋ねたところ、帰省したら結婚を迫られるからと三人は言った。

 三人は現在三年生、前期課程の最終学年。本年度を最後に学院から去ることになっている。その後は間違いなく、親が探してきた相手と結婚させられる。問題はその相手。親が連れてくるのは学業を中等学院で終えた地元近辺の売れ残りとなるだろう。自分たちとしては、自分たちと同様に高等学院を修了した者が良い。相手を探して最後の足掻き。そのために寄宿舎に残っている。

 そこで僕は思い付いた。共通の危機は団結を生む。夏祭りで露店を出してみようと。僕たちと同じく学院に残っていた行商のお客様の男子学生たちに声を掛けてみると、上級生三人が参加を名乗り出た。

 知り合いのフレクラントの行商人に頼んで届けてもらった大量の果物。それを露店のその場で一口大に切り分け、一つ一つに爪楊枝を刺す。そこからが僕たちの独壇場。僕が片っ端から冷却魔法で凍らせる。氷室も無く、冷却魔法を使える者もいないナギエスカーラでは、こんな魅惑の商品を売っている露店や商店など皆無。お年寄りから子供に至るまでが小銭を落としていってくれた。

「やだ。これじゃ、午前中に全部売り切れちゃう。ねえ、ケイ君。呼び込みはもうやめた方がいいよ」

 僕の背後で必死に果物を加工している男女四人の中からそんな声が上がった。

「フレクラントのあの行商人たちがそこら辺で祭りを見物しているはずですから、探してください。今から果物を追加で仕入れてきてもらいましょう」

「分かった」

 そう言って駆け出そうとするお姉様を僕は呼び止めた。

「誰か男子に付いて行ってもらってください」

 お姉様は真剣な表情で頷いた。僕は露店の前で氷菓を売りまくっている男女二人に声を掛けた。

「呼び込みはもう十分です。ここからはお客様への対応に集中を」

「了解」と二人は声を上げた。

 程なく商品が売り切れ、僕たちは「午後から再開」の張り紙をして休憩に入った。

 太陽が天頂を通り抜け、最も暑くなった頃からナギエスカーラの大行進。それに備えて汗を拭い、冷たい水で喉を潤し弁当を食べ、僕はお姉様方に個別に囁いて回った。

 男子三人は当初、露店の手伝いを渋っていた。ところが、お姉様方も参加すると言った途端に態度が一変。いかにも迷う振りを演じつつ、参加を了承してくれた。気になる人だけでなく、気にしてくれる人にも目を向けてみては。

 天使の囁きに、お姉様方の態度も一変した。何とか強気を演じつつ、そこはかとなくいそいそとし始めた。そんな暑苦しくもほのぼのとした空気になり始めた頃だった。露店の前に人が立った。

 僕は目を見張った。こんなに綺麗な人だっただろうか。噂に聞く姉とも違う、いつも目にしている妹とも違う、理知的な容姿、颯爽とした風貌。

「何でこんな所に」

「休暇で旅行。そうしたら、たまたま見掛けて」

 周囲の空気が変わっていることにふと気付き、上級生たちに目を遣って僕は頭を抱えそうになった。男子たちの目が西の大公家の次女、イエシカ様に釘付けになっていた。僕は慌ててイエシカ様をその場から引き離し、宿の名前を尋ね、今夜か明日にでも伺うからとつれなく追い払った。

 露店に戻ると、お姉様の一人がさりげなく近付いてきた。

「あの人は誰?」

「親戚のお姉さんです」

 お姉様はフーンと冷ややかに鼻を鳴らした。

「男子たちの様子、見た?」

「仕方が無いですよ。どうしようもない奥手で、女性に全く免疫が無いんですから。それにお姉様方も、自分自身もどうしようもない奥手だという自覚を持ってください」

 お姉様は呆気にとられ、脱力する気配を見せた。僕は露店に戻り、皆に声を掛けた。

「あの人は親戚のお姉さんで、僕たちよりもはるかに年上で、結婚の話も出ているんです」

 五分の三は真実の説明に、お姉様方は陽気にヘエと声を上げ、男子たちは落胆をあらわにフーンと鼻を鳴らした。ちょうどその時、行商人たちが見るからに大量の果物と共に天から舞い降りてきた。

「さて。さっさと昼食を終わりにして、果物を洗いますよ。大行進までに売り切ります」

 僕の掛け声に、お姉様方は頷き、男子三人は「よし」と腰を上げた。

 午後、全ての氷菓を売り終え、露店の後片付けを始めた頃だった。遠くから、掛け声が聞こえ始めた。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 上級生六人にとっては経験済みの祭りでも、僕にとっては初体験。行列を見に行っても良いかと尋ねると、六人はすぐに了承してくれた。僕は後片付けを六人に任せ、目抜き通りに向かった。

 歩道には大量の見物人。皆の手には水を蓄えた桶などの容器と柄杓。一方、車道はがら空き。男たちの野太い声が近付いてきた。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 見物人の後方で軽く浮き上がって確かめてみると、上半身は裸、下半身を過剰に飾り立てた男たちが列をなし、体を奇妙にくねらせながら、ゆっくりとこちらに向かってきていた。沿道からは水。見物人が男たちに水を浴びせ掛けていた。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 男たちに続いて女たち。皆、胸と腰を覆うのみの解放的な衣装、顔の上半分を隠すのみの煌びやかな仮面。女たちにも容赦なく水が浴びせ掛けられていた。

 北限の街ロスクヴァーナの大行進と同じなら、これは鬨の声、戦いに臨もうとする男女たちのはず。過去に一体どんな戦いが繰り広げられていたのだろう。

「どっつん、ばっすん、がってん、まっけん」

 恍惚として踊りまくる怒涛の男女。隊列の踊りに合わせて沿道からも怒号のような掛け声。まさに熱狂。皆が熱く狂っていた。

 行列が通り過ぎ、皆の所に戻ってみると、すでに後片付けは終わっていた。全員で学院へ向かい、空いている講義室に入り込んで稼ぎを山分け。まずは、僕の資金で支払っていた果物の購入代金を僕が受け取る。次いで、残りを完全に七等分。

 上級生六人は再度街に繰り出して飲み食いをする算段を立て始めた。そうなると、どう考えても僕は邪魔。丁重に誘いを断り、そのまま帰路に就いた。

 僕にはあの六人の姿は眩しすぎた。もちろん、フレクラント国にも男女の付き合いはある。しかし、それは性別とは無関係な人としてのもの。フレクラント人は血の重複を避けなければならない。だから、恋愛なんて夢想の一形態。結婚相手を好き勝手に選ぶなんてあり得ない。特に初婚の場合は、家長である母親の見解が重視される。

 家に帰り着いて直ちに井戸で水汲み。温めの湯に浸かって汗と汚れを洗い流し、僕は猿の着ぐるみに着替えてのんびりと家を出た。向かう先はイエシカ様が泊まっている旅館。そこはフレクラントの行商人の定宿でもある。そろそろイエシカ様も戻っている頃合いのはず。そう思いながら、僕は中空帯をゆっくりと飛び続けた。

 春の初めの舞踏会。あのしばらく後から、街の一部の人たちが僕のことを噂するようになっていた。ナギエスカーラに在住するフレクラントの魔法使い。鉢巻を締めた行商人。鍋を持って高等学院に通う学生。猿の着ぐるみで踊った男。「あっ。猿のお兄ちゃんが飛んでいる」などと子供の声が聞こえてくることもあった。

 そして蝗退治。あれ以降、僕の噂は街全体に広がっていた。蝗を全滅させた魔法使い。高等学院の一年生。名前はケイ・サジスフォレ。その正体は猿の着ぐるみ。

 事ここに及んで、僕は開き直っていた。僕個人の気ままな時間、着ぐるみ姿で街に出ることにも気恥ずかしさを覚えなくなっていた。何が正体もしくは実体であり、何が属性であるのか、訂正する気も失せていた。

 旅館の正面玄関を平然と通り抜けて受付の前に立つと、係員の顔には困惑、次いで笑みが浮かんだ。訊くと、イエシカ様は旅館に併設されている食堂にいるとのこと。食堂は料理店として宿泊客以外にも開放されており、僕の立ち入りに問題は無いとのことだった。

 店内には規則正しく並べられた小振りの食卓。イエシカ様は庭に面した窓際の席に独りで着いていた。その前には皿に盛られた果物。僕が向かいの席に腰を下ろすと、イエシカ様は目を見開き、口を半開きにしたまま固まった。

「お久し振りです」と僕は声を掛けた。

「その恰好はどうしたの?」

「猿です。最近は大抵これです」と僕は平然と答えた。

「何で? ケイ殿は奇人変人だったの? それとも奇人変人になったの?」

「『殿』はやめてください。ケイ君で」

 イエシカ様は「ん? うん」と軽く頷いた。

「僕にとっては死活問題なんです。フレクラントは高原の国なので、スルイソラより幾分涼しいんです。だから逆に、スルイソラの夏の暑さはちょっと耐え難くて……。この猛暑に何の対処もしなかったら、誇張抜きで僕は干からびて死にます」

「着ぐるみでは、もっと暑いでしょう」

「中で冷却魔法を使っているので」

「あ、ああ……」とイエシカ様は納得の表情を浮かべた。

 強制冷却術を体と着ぐるみの隙間に領域展開し、予備発動ではなく実発動させる。暑さが本格化するにつれて体力と気力が削がれていくのを実感し、急いで開発して習得した技術だった。ただし、これは現代魔法を越える太古の思念法の範疇。内容は秘密としていた。

「この前、北限の街ロスクヴァーナで兎と狸と牛の着ぐるみも買ったんですよ。フレクラント製よりも安くて、ちょっと手間は掛かるんですけど普通に洗濯も出来るんです」

「さすが……、エルランド殿下が、頭がおかしいと言うだけのことはある」

「いや、いや」と僕は首を振った。「これは死活問題なんです。見た目に拘っている場合ではないんです」

「午後もちょっと見ていたんだけど、ケイ君はふんだんに魔法を使っているでしょう。余剰精気は持つの? 私でもここの自然精気は薄いと感じるのに」

 僕は返答に迷った。僕は今日、自分自身に強制吸入術を断続的に掛け続けていた。しかし、これも太古の思念法の範疇。

「普段の息苦しさは、強く吸い込むことを覚えたら、あとは慣れの問題だと思います」

「あの子は大丈夫なの? アンソフィーは」

 僕はハッとした。

「やっぱり、聞いています?」

「もちろん」とイエシカ様は頷いた。

 アンも強制吸入術をようやく覚えた所。当然、その件も秘密。

「アンはもう大丈夫です。僕の所にも、もう泊まったりは……」

「それはどっちでもいい。どうせ、ケイ君は駆け落ち一つできない紳士だから」

 僕はウーンと呻いた。駆け落ち。確か、六年前の政変の直前に聞いた言葉だった。

「あの子は今どうしているか知っている? 寄宿舎に行ってみたら、とっくに帰省していると言われて……」

 僕は首を傾げた。アンは北の大森林へ向かう途中に西の大公家と僕の姉エメリーヌの家に寄ると言っていた。

「聞いていませんか。アンは考古学調査で北の大森林へ行っています」

「聞いてない。あの子を当てにしていたんだけど……。帰りもどうしたらいいのか……。エスタコリンまで行ってくれる行商人を探さないと……」

 颯爽とした風貌が台無しになりかけていた。

「ここまでどうやって来たんですか」

「フレクラントの行商人に頼んで連れてきてもらった」

「休暇中という話でしたけど、イエシカさんは今どういう立場にあるんですか」

 現況を尋ねてみると、イエシカ様は先の春にエスタコリン王国高等学院の後期課程を修了。現在は、長女のカイサ様に代わって王都の中央政庁に勤務。学院で専攻した経営学の知識を生かせる部署で働いているとのことだった。

「独り旅気分のつもりでいたら、本当に独り旅になりそう」

 そう言うと、イエシカ様は僕をジッと見詰めてきた。

「聞いたわよ。ケイ君はこの前、連合国評議会から物凄い報奨金を貰ったんでしょう?」

 何という早耳。中央政庁、西の大公家、トロンギャアンケ商会。どこで聞いたのだろう。

「物凄くはありませんけど」

「と言うことは、もう行商はしていないんでしょう?」

「いえ。まだ契約が残っていて、それはきちんと片付けないと」

「何とかしてほしいんだけど」

「何とかはしますけど」

「ここの案内もしてくれる?」

「時間の許す限りは」

「私を養ってくれる?」

 僕はうっかり「はい」と了承しかけて、「はい?」と問い返した。

「私、仕事を辞めたい。まだ結婚もしたくない。色々な所に行ってみたい。もっともっと遊びたい」

 颯爽とした端麗なお姉さんが大きなお荷物に見え始めた。予防線を張らなければ。

「ねえ。あまりにも不公平だと思わない?」

「思いません」

「この前、カイサ姉様が言ったの。『あら。そう言えば、イエシカだけはフレクラントにもスルイソラにも行ったことがなかったのね』って。訊いてみたら、お母様まで子供の頃、フレクラントに住んでスルイソラに遊びに行っていたって」

「まさしく深窓の令嬢、箱詰めイエシカ」

「アンソフィーには、北の大森林や、風霜の大地や、氷結の地の話もあるんでしょう?」

「客観的に考えて困難です」

「しかも、あの子の知り合いには偉い人が一杯」

「アンは気配を消す魔法を使うので、無意味だと思います」

「何よ、それ」

「アンは余計な火の粉を被らないよう、偉い人の前では存在感を消すんです」

「ねえ。私がエスタコリンの外に出るのはこれが初めてなんだけど」

「おめでとうございます」

 イエシカ様は几帳面に果物の皿を脇にのけると、突然身を乗り出して食卓越しに僕の胸倉を掴んできた。

「箱詰めイエシカって何?」

「箱入り娘のもっと凄いやつ」

「ねえ。良い知恵は無い?」

 僕はウーンと困惑の声を漏らした。

「例の結婚の件はどうするんです」

「ああ。あれね……。ちょっと雲行きが……」とイエシカ様は声を潜めた。

 先日、クリスタさんが四人目の子を産んだ。これで男児が三人、女児が一人。

 エスタコリン王国にも治癒魔法程度なら使い手が多数いる。緊急時には王国在住のフレクラント人を頼っても良い。そのため特に王家では、即死でもしない限り不慮の死を遂げることは稀。世継ぎ候補は三人もいれば十分。

 ここに正室を迎え、さらに男児が生まれたら、いさかいが発生する可能性は十二分にある。少なくとも、正室とクリスタさんの間に葛藤が生じるのは必至。しかも、クリスタさんは極めて有能と評判の側近兼側室。他の聡明な妃候補は皆、戦々恐々としている。

 クリスタさんの実家、フルドフォーク家の格は高くはないが低くもなく、王家の世継ぎがフルドフォーク家の血筋にあたっていても違和感は無い。さらには、西の大公家はクリスタさんが側室になるにあたり、クリスタさんの後見人になっている。

「だから、当家としてはもう終わりにしたい。それが本音」

「先に生まれた側室の子と、あとから生まれた正室の子。どちらが上なんですか」

「私にも良く分からない」

「『聡明な妃候補は』ということは、その状況でもまだ正室になりたい人がいるんですか」

「愚鈍な人ほど自信過剰。お母様たちはそう言っている」

「家令さんはどう言っているんです。とてつもない意気込みでしたけど」

「あの人は『それなら、他家に嫁ぐ準備を』とか言っているけど……」

「他家って、どの家です」

「西部以外の執政級の家」

「なぜ執政級なんです。大公家ではないんですか?」

「大公家は皆親戚。今のところ、血の重複の度合いが高くて候補にならない」

「とにかく、まずは例の候補を辞退しないと」

 イエシカ様はようやく着ぐるみから手を離すと、大きな溜め息をついた。

「王家との大昔からの契約で、西の大公家だけは辞退を申し込めないの」

 その情報は初耳だった。西の大公家のみの特殊な契約。僕も大きく息を吐いて脱力した。

 エルランド殿下の扇情的な言葉が今でも時折脳裏に浮かぶ。あのアンが殿下の子供を産み尽くす。このイエシカ様が殿下の子供を産み尽くす。どうせなら、僕の子供を産み尽くせば良いのに。ふとそんな邪念が浮かび、僕はすぐに打ち消した。

「ねえ、ケイ君。今日のお祭りはスルイソラの三大奇祭の一つなんでしょう?」

「そうなんですか? 良く知らないんですけど」

「せっかくだからと思って前もって調べてみたら、ナギエスカーラの大行進の起源にはいくつかの説があるらしい。その中にとっても興味深い話があって」

 神話時代、この近隣に存在した大きな街が大災害に見舞われ、この地域で多数の死者が出た。それを切っ掛けに、多産と子孫繁栄を願う祭りが始まった。

「それでね……。あの大行進には夫婦か婚約者同士でしか参加できないんだって」

 イエシカ様の顔が微かに上気していた。その瞬間、僕は理解した。家々では今、こんな時間帯から一斉に夫婦の夜の営みが繰り広げられているのだろうか。まさか、夫婦揃って鬨の声を上げながら。

「ケイ君。目が泳いでいる。口が開いている」

 僕が我に返ると、イエシカ様は大笑いした。

「ケイ君にはこういう話は早かったかな。何しろ、ケイ君は奥手だから」

 これが噂に聞く三大痴女の一つ、妄想系痴女。僕は初めてお目に掛かった。

「自分だって顔を赤くして、そういう経験無いんでしょう?」と僕は言い返した。

「とにかく、そんな凄い祭りを見たからには、残りの二つも見てみたい」

「ちなみに残りの二つとは」

「西方域の姫転がしと彦跨ぎ。あとは東方域の……」

 そのどことなく淫靡な響きに、僕はイエシカ様の言葉を遮った。

「言わなくていいです。飲み物を頼んでいいですか」

 程なく、果汁で満たされた杯が二つ運ばれてきた。僕はさりげなく二つの杯を握って冷却魔法を掛けた。イエシカ様は果汁を口に含むと、ハッとしたように僕を見詰めてきた。僕は黙っているよう、小さく首を振って合図した。

「候補の件はともかく、異国体験については案があります。この街には中央政庁の出張所がありますよね。スルイソラの首都ノヴィエミストやフレクラントの首府メトローナにもあるのではありませんか。大公家には無断で、転属命令を出してもらったらどうです。最低でも出張命令を。あとは他国を巡回する調査官になるとか」

「あっ。なるほど」とイエシカ様は声を上げた。

「今日の晩御飯、奢ってください」

「いいわよ」とイエシカ様は満面の笑みを浮かべた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みだというのに慌ただしい八日間だった。でも、それなりに賑やかで楽しかった。そんな感慨に浸りながら今日の午前、僕はイエシカさんを見送った。フレクラント国の女性行商人の背に括り付けられたイエシカさんも高空帯に上昇し切るまでの間、地上の僕に向かって何度も手を振っていた。

 この八日間、僕にも予定があり、イエシカさんの全行程に付き合えた訳ではなかった。それでも色々な所を回った。大廃墟。蝗の撃退地点。少し離れた所にある東の海。その他の景勝地。イエシカさんも低空低速飛翔なら慣れたもの。そうであればこその観光だった。

 中でも最も感慨深いのは肖像画。街中の一番大きな公園を散策していた時のことだった。池の際に絵描きが陣取っているのを見掛け、イエシカさんの肖像画を依頼した。きちんと背景も描いてもらい、きちんと水彩を施してもらい、料金を払って僕はふと思い付いた。

 僕はイエシカさんを連れて高等学院の寄宿舎へ向かい、例のお姉様の一人を呼び出した。その場で紹介状を書いてもらい、直ちに向かったのは少し離れた街にあるお姉様の実家。硝子製品の工房を営んでいると聞いていた。

 肖像画に硬化魔法を強く掛け、高強度硝子への封入を依頼すると、すでに引退していた元職人の御老人が「三日で仕上げる」と引き受けてくれた。

 三日後、特製肖像画は完成した。丁寧な仕事、見事な出来栄え。角も端も表面も滑らかに整えられた濁りの無い硝子板。陽に当てなければ、中の絵画も一万年は持つはず。そこにはナギエスカーラの景色、澄まし顔で兎の着ぐるみを着たイエシカさんの姿があった。

 ナギエスカーラを発つ直前、イエシカさんはしきりに肖像画の具合を気にしていた。僕はイエシカさんの背嚢から肖像画を取り出し、硝子板を爪で弾いて見せた。これが硝子板に掛けた硬化魔法の音。数日後には音が変わるはず。それが硬化魔法の消えた印。僕のそんな説明にイエシカさんは神妙に頷いた。

 順調にいけば、五時間ぐらい後にはエスタコリン王国、西の大公家に帰り着くはず。イエシカさんはさぞかし自慢することだろう。確かに自慢に値する一品。僕にもそんな満足感があった。

 夕方、自宅で独り何となく物寂しく夕飯を食べていると、玄関を叩く音が聞こえた。次いで「ケイ。いる?」という声。突如アンが現れた。

 アンは居間に座り込むなり、僕が差し出した冷えた水を一気に飲み干した。

「どうしたの、急に」と僕は尋ねた。

「あった。見付けた。遺跡と地下街」

「やったか」と僕は声を上げた。「遂に見付けたのか」

「でも……、でも……」

 僕は首を傾げ、「何?」と続きを促した。

「幽霊がいる」

 ギョッとした。アンによれば、今回の調査隊は二十二人。半数が異様な気配を感じ、数人は微かな声を確かに聞いた。怯えたり腰が引けたりする者多数。現在、調査隊は砦に引き上げ、閉じ籠ってしまっている。

「アンも声を聞いたの?」

 アンは身震いをするように首を振った。

「私は気配だけ。幽霊は超自然の不可思議ではなく、自己組織化が解け切っていない魂だということは皆も理解している。でも、声が聞こえるような強い魂にどう対処したら良いのか分からなくて」

「フレクラント国高等学院には連絡した?」

「していない。連絡したら、きっとあの生命学博士たちが乗り込んでくる。そうなったら、調査がどうなるか分からない。だから、まずはケイに来てもらおうということになった」

「何で僕」

「皆には言っていないけど、ケイは太古の思念法を使っている。だから、様子を確かめることぐらいなら出来るのではないか。私とアルさんでそういう話になった」

 僕は呆気にとられて考え込んだ。

「ねえ。来てよ」

「行商の契約も一段落ついて、ちょっと顔を出してみようかとは思っていたんだけど……」

「明日の朝、出られる?」

「幽霊とか禁忌とか、そういうのはちょっと苦手……」

 アンはエーッと声を上げ、「ねえ」と上目遣いで縋り付いてきた。「ねえ」は西の大公家の特技なのだろうか。しかし、さすがに気乗りしなかった。

「ねえ。幽霊なんて私も初めてなんだから」

 そう言いながら、アンは僕の腕を掴んで揺さぶった。

「ねえ。白狼の騎士。ねえ。太古の魔法使い」

 僕はアンの両の二の腕を掴んで押さえた。

「ここから砦までは片道何時間?」

「休憩を入れて片道十時間」

「アンは夕飯、食べたの?」

 アンはエッと唖然とすると、おもむろに首を振った。僕はアンの夕食を準備しながら、仕方が無いと腹を括った。

 

◇◇◇◇◇

 

 アンが家に現れたのは一昨日の夕方。北の大森林の砦に到着したのは昨日の夕方。調査隊員の表情は暗く、かなりの者が精神的に参ってしまっている様子だった。

 訊いてみると、アンが僕の所へ向かうのと同時に、数人がフレクラント国高等学院へ向かったとのことだった。ただし、それは生命学専攻に助力を求めるためではなく、類似の出来事に関する資料が無いかを調べるため。あくまでも調査続行。それが基本方針とのことだった。

 久し振りに会ったアルさんは意外に溌剌としていた。どうやら、不穏な気配も感じず、不気味な声も聞かなかったらしい。儂は鈍いのか、昔からこういうことには縁が無い。アルさんはそう言って苦笑した。

 そして今朝、僕は朝食を済ませて砦を出た。同行するのは案内役のアン一人。もし何らかの魔法を使う状況に至ったら、周囲に人は少ない方が良い。僕はそのように判断した。

 上空から見渡しても先が分からないほどに果てしない森林。しばらく中空中速飛翔を続けると、わずかに切り開かれた一角が見えてきた。あれが地下街の入り口。アンは手振りでそう伝えてきた。

 山では崩れ落ちた土砂に埋まってしまう。平地では溢れた水に沈んでしまう。太古の人たちにもそのような判断が働いたらしく、地下街の遺跡は堅固な岩盤に支えられた丘陵地帯に隠れていた。

 アンは入り口の前に降り立つと、背嚢から地下街の地図を取り出した。フレクラント国の北にあるエベルスクラントの遺跡を参考に推測すると、地図に記されているのは多分全体の十分の一以下。通気や緊急時への備えのために出入り口は複数存在するはずなのに、まだ一つしか見付かっていない。アンはそう言って気落ちをあらわにした。

 僕とアン。それぞれが光球魔法を発動し、アンを先頭に僕たちは地下街に足を踏み入れた。上下左右は岩の壁。階段を下った先は平坦な通路。中等学院一年生の冬休みに遠足で訪れたエベルスクラントの作りに酷似していた。

 複雑で緻密な上下水道の設備。通路の左右には綺麗にくりぬかれた部屋。その出入り口には、木枠をはめ込んで設置された木製の扉の残滓や、茅の筵を吊るしたと思われる痕跡。

 おそらく、入り口付近の複数の部屋は管理者用だろう。不審者や野獣などが入り込まないよう、警備の人が詰めていたに違いない。もしエベルスクラントと同じなら、それに続いて並ぶ部屋は商業区画。通路はその先で三方向に分岐し、居住区画や公共区画などがあるはずだった。

 真夏にもかかわらず涼しい地下街。パタパタと僕たちの足音だけが響いていた。壁に目を凝らし、手で触れてみると、非常に硬い岩。それにもかかわらず表面は平ら。極めて優れた掘削技術が使用されたことは素人の目にも明らかだった。

 遂に通路が三方に枝分かれした。その時だった。突然『ああ』と聞こえ、僕はギョッとして身を強張らせた。

「何だよ。驚かせるなよ……」と僕はアンに声を掛けた。

「私、何もしてないよ」

 僕は力んでウーンと呻き、周囲を見回した。

「ケイ。どうしたの?」

「声が聞こえた」

 アンもエッと声を上げて周囲を見回した。

「私はまだこの前みたいな気配は感じないけど……。この前はもっと先だった」

 空耳だったのだろうか。僕は力を抜いて、大きく息を吐いた。

「ケイは私以上に怖がりだよね」

「アンはそんなに怖がっていないように見えるんだけど、何で?」

「だって、正体は分かっているんだから。追い払う方法が分からないだけで」

 やはり、アンは僕よりも即物的。恐怖の質が違うのだ。野獣のたぐいとの遭遇。それがアンの認識。禁忌に抵触。それが僕の認識。

「ケイには幽霊の声が聞こえるみたいだから、逃げる時にはケイが合図して」

 アンに先に進むよう促すと、アンは地図を片手に右に曲がった。その先にも部屋、部屋、そして部屋。時折、細い通路が枝分かれ。どの部屋にも特に目立った遺物は無く、ここの住民は南へ移住する際、ほぼ全ての物品を持ち出した様子だった。

 遂に、地図には未記載の領域に到達した。ここから先は、まずは考古学調査を目的に進むべき。そう判断し、僕たちは先ほどの分岐点に引き返した。次は分岐を直進。やはり何も起こらなかった。最後に分岐を左折。何事も無し。三たび分岐点に戻り、僕は呆気にとられて拍子抜けした。

「幽霊、どこかに行っちゃったみたいだよ」

 僕がそんな軽口を叩いた瞬間、『ああ』と聞こえた。背筋が凍り付いた。「誰」と声を上げると、いきなり腕を掴まれた。ギョッとして振り返ると、アンが僕の腕に縋り付こうとしていた。

『ああ。この出会い。聞こえるのだろうか……。聞こえるのだろうか……』

 幽霊。どこにいるのだろう。

『我は人。何と嬉しいことか……。何と嬉しいことか……』

 耳ではない。心の中で聞こえている。

『魂が繋がった。離さないでおくれ……。離さないでおくれ……』

 離すも何も、僕は何もしていない、何も出来ない。

『しばし語り合いたい。付き合っておくれ』

 はっきりと聞こえるようになった。

『分かる。聞こえる。魂が繋がった』

 まさか、体を乗っ取られたりはしないだろうか。

『案ずることなかれ。汝の器は我には小さすぎる』

「ケイ。どうしたの?」

 僕はアンを手で制した。

 幽霊は情念や怨念で動くもの。そんな先入観があったのに、この霊魂には理知的な感がある。少し話をしてみよう。僕はそう思った。

『怨念。なぜ我が汝を恨むのか』

 笑っているのだろうか。そんな感覚。

『おお。分かるのか。楽しや。楽しや』

 僕は壁に寄り掛かろうとした。

『動かないでおくれ』

 楽な姿勢を取りたい。

『動くのならゆっくりと。離さないでおくれ。離さないでおくれ』

 僕はゆっくりと壁に背を付けて床に座り込み、集中するために光球を消して目を閉じた。

『汝の名は』

 ケイ・サジスフォレ。フレクラントはルクファリエの魔法使い。

『おお。何と懐かしい。我の名は……』

 何だか混濁して、良く聞き取れなかった。

『我の名は難しい。我はかつてフレクラントの超越派でもあった』

 驚いた。超越派。肉体の超越。寿命の超越。どうやって。

『魂は器の中で形作られた精気。器の外でも形を保つよう強制する』

 あなたは魂に強制の魔法を繰り返して掛けているのか。

『いかにも。いかにも……。おお。たどり着いたのか。汝も強制吸入にたどり着いたのか。我ら超越派の末裔よ。超越まではあと一息。いや。二息、三息。四息、五息』

 僕はまだ超越は考えていないので。

『ただし、ただし、留意せよ。強制吸入は最後の手順。魂を器から解き放つ。強制維魄を会得せよ』

 どういう意味だろう。不用意に自然精気を吸い込み過ぎるなという警告だろうか。

『現世を見たい。世界を見たい。景色を思い浮かべておくれ』

 求められるままに、僕はこれまで目にしてきた景色を雑然と思い返し続けた。

『おお。これがフレクラント……。エスタコリン……。スルイソラ……。おお。ここはカプタフラーラ。花の都。ここは南都カプタフラーラ。今はいつなのだろう』

 この街の名前はカプタフラーラ。でも待ってほしい。超越派の時代には、この街はすでに放棄されていたはず。廃墟になっていたはず。

『我は転生を繰り返した。最後に肉体を捨て、魂は解き放たれた。今はいつなのだろう』

 待ってほしい。南都ということは、北都や東都や西都もあったのだろうか。

『人は神に示されて海を越えて来た。あとは推して知るが良い。今はいつなのだろう』

 言われるままに、僕は知っている限りの歴史の概要を思い浮かべた。

『おお。白狼の義士から五千年』

 待ってほしい。なぜ白狼の騎士を知っているのか。

『推して知るが良い。我が思念を交わした相手は汝だけなのか』

 僕にも古のカプタフラーラの景色を見せてほしい。

『良かろう。良かろう』

 地上には花が咲き誇る街並み、そして広い田園。地下には夜を知らない街。男も女も働き者。種を蒔いては収穫する。男も女も陽気者。酔いに任せて歌い踊る。

 蝗の到来。天に築いた魔法の壁に追い込んで収穫する。家禽にとっては大の好物。磨り潰して粉にすれば家畜の餌、堆肥に混ぜ込み寝かせれば、いずれは大地の糧ともなる。

『蝗は草の子、大地の子。蝗こそは黄金の大地の礎なり。フレクラントの醜く卑小な岩の壁。大障壁とは片腹痛い。天を覆う温熱の壁こそが大障壁。蝗の将軍は偉大なり』

 蝗の将軍は軍勢を率いた人ではないのか。

『山並みをも超える温熱の魔法を操る者こそが蝗の将軍……。おお。見える。見える。汝も蝗の将軍か。将軍の技は今の世にも受け継がれているのか』

 なぜ、カプタフラーラは打ち捨てられたのだろう。

『蝗が来なくなった。蝗場から消えてしまった。小山ほども積み上がった蝗が失われてしまった』

 大地が冷えた結果だろうか。

『汝も大いなる魔法使い。似ている。似ている』

 何のことだろう。何に似ていると言うのだろう。

『汝の魂。似ているが違う。違うが似ている。もう一度名前を聞かせておくれ』

 ケイ・サジスフォレ。

『もう一つの血の名は』

 エペトランシャ。

『おお。覚えがある。覚えがある。まさにカプタフラーラの血脈。そういうことか。そういうことか。唯一無二のレダ。魂の庇護者たるレダ。レダ・エペトランジュ』

 レダって、エステルのこと? あの神話のレダ?

『ああ。離さないでおくれ……。離さないでおくれ……』

 ちょっと待って。僕ももっと話したい。

『ああ。離れてしまう……。離れてしまう……』

 声も気配も完全に消えた。僕は目を開き、周囲を見回そうとした。しかし暗闇。アンの光球も消えていた。しかも僕はいつの間にか、隣に座っていたアンを抱きかかえ、アンの胸をまさぐっていた。僕が手を離した瞬間、僕の下半身も解放された。アンも僕にしがみつき、僕の股間に手を当てていた。幽霊との接触は禁忌。その理由が十二分に理解できた。

 暗闇の中で身繕いを済ませ、「光球を出すよ」と僕が声を掛けると、「うん」とアンは答えた。

「アンも話を聞いていたの?」

「ううん」とアンは小さく首を振った。「物凄い気配を感じただけ。そのまま何だか酔ってしまって……。それから、街の景色が見えた。花で一杯の街。それだけ」

「それはこの廃墟のかつての景色らしい。この街の名前はカプタフラーラ」

 アンはアアと大きく息を吐いた。

「皆の所に戻ろう。皆に霊魂のことを説明する」

 アンは「うん」と頷いた。

 地下街の外に出てみると、予想外に時間が経ってしまっていた。ここに着いたのは、まだ昼も遠い午前中。空を見上げると、太陽は天頂を越え、すでにかなり傾き始めていた。

 二人で手を繋いで飛び続け、砦に帰り着いてみると、フレクラント国高等学院に戻って調べ物をしていた人たちも揃っていた。その人たちに目ぼしい収穫は無し。僕が「霊魂と話をした」と告げると、皆は僕たちを取り囲んだ。

 広場に並べられた丸太の椅子に皆が腰を下ろし、僕は説明を始めた。順を追ってなるべく正確に。ただし、思念法に関する事柄は僕一人の秘密。僕たちが知らぬ間に行なっていた行為も、アンと口裏を合わせて秘匿。皆は一言も聞き逃すまいと真剣に耳を傾けていた。

 話が終わると、エスタコリン王国高等学院の考古学博士が口を開いた。

「長年の疑問がいくつか解けた。神話伝説大系の断片集に『華のカプタフラーラ』との語句がある。あれは地名だったのか……」

「海を越えてきたということは」とアルさんが応えた。「海の向こうにも大地があり、人が住んでいるということか。行ってみたいものだ。見てみたいものだ」

「いや、アルさん。迂闊なことは出来ません。太古の人たちも将軍という言葉を使っていた。つまり、大規模な集団戦闘を経験したということ。海の向こうが平穏とは限らない。それに、その前にやることがあります。海を越えてきたのなら、海に近い場所にも遺跡があるはず。東都か西都かは分からないけれど」

 僕は「ちょっと待ってください」と口を挟んだ。

「霊魂との会話は言葉というよりも概念のやり取りみたいなものでした。おそらく言葉としてもほぼ正しいとは思うんですけど、正確かどうかは確信を持てません」

「いや」と考古学博士は言った。「相手の名前は上手く聞き取れなかったが、君の名前は伝わった。つまり、概念のやり取りであると同時に言葉のやり取りでもあったということになる。相手の名前は特殊な固有名詞だったのではないか?」

 僕はアアと思い当たって納得した。フレクラント国高等学院の歴史学博士が口を開いた。

「それなら、蝗の将軍という言葉にもそれなりに信憑性がある訳だ。しかし、神話伝説大系に残る解釈とは随分違う。大系の後半はどうなるのだろう。『地に広く』という部分は」

「思い当たることがあります」と僕は答えた。「田畑は使い続けると病むことがあります。エスタコリンやスルイソラでは休耕田にしているようですが、フレクラントでは土に温熱魔法を掛けて、地中に蔓延った害虫や作物の病の元を殺します。蝗の将軍の技術があれば、その作業は今よりもずっと容易だったはずです」

「なるほど」と歴史学博士は頷いた。「しかし、蝗がいなくなったからこの地を捨てたと言うのは、やはり言い過ぎではないだろうか」

「はい。やはり、気候が変わって作物が上手く育たなくなったのだと思います。例えば、フレクラントではスルイソラから持ち込んだ作物も育てています。しかし、育つには育ちますけど、品種改良をしないと収穫量を確保できません。だから、蝗と作物の不作、両方があったのではないでしょうか」

「そうだな。私もそう思う。それにしても、超越派の末路が霊魂とは」

「末路と言っていいのか……。あの人は自分自身のことを『人』と呼んでいました。あれはあれで人の在り方の一つなのかも知れません」

「何とも味気ない」と歴史学博士は軽く笑った。「私はずっと不思議に思っていた。フレクラント高原の西半分には墓地が少なすぎると。黙示録によれば、西半分に残った異端の超越派の血筋は絶えてしまった。しかし居住域の分離程度で、絶大な力を持つ者たちが易々と絶滅するのだろうか。どこかへ移住したのではないだろうか。私はずっとそう思っていた」

 その時、フレクラント国高等学院歴史学専攻の助手の女性が「出来たって」と声を上げた。先ほどから、アンは霊魂から得た心象風景を絵に描き起こしていた。アンが描いていたのは地上の街並み。確かに、僕が見たものと良く似た景色が再現されていた。

 皆それぞれに覗き込み、再び丸太の席に腰を落ち着けると、エスタコリン王国中央衛士隊の隊員が「私としては」と言った。

「霊魂への対処法が気になります。やはり、それが直近の問題。サジスフォレ君は、体の乗っ取りを懸念したら否定されたと言ったが、そこを詳しく聞きたい」

「はい。あの接触からいくつかのことが推測できます」

 僕よりも強い魂にとっては、僕の器は小さすぎる。僕と同程度の強さの魂にとっては、僕の器はちょうど良い。しかしその場合、器と強く結びついている僕の魂を追い出せない。僕よりも弱い魂は当然論外。

「あの人は僕を警戒させないために、正直にそういう事情を明かしたのだと思います。次に霊魂の移動についてです」

 自然精気は大地から湧出している。土地によっては地表近くに滞留している。つまり、自然精気は空気のように流れている。風のように吹いている。霊魂は自力で移動できる模様。しかし、自然精気の風に当たったら流されてしまうのではないだろうか。

 あの人は後世の知識を有していた。これまでにも人との接触があった証拠。つまり、あの人が霊魂になった場所は無人のこの近辺ではなく、多分フレクラント。とすれば、あの人は長期間人里近辺を漂った後、ここまで流されてしまったのだろう。

「霊魂には五感が無いようです。そのため、自由自在な移動が出来ないのだと思います。だから気配を感じたら、とにかくその場から離れる。それで済むと思います。ただし、これだけは注意してください。やはり、霊魂は情念や怨念の塊なんです」

「あの霊魂は、怨念は無いと言ったのだろう?」とアルさんが尋ねてきた。

「はい。それでも、やはり情念の塊です。出来る限り永らえて、世界を見たい、未来を見たい。そんな情念。それから、肉体を取り戻したいという強烈な欲求」

「肉体?」とアルさんは首を傾げた。「自ら魂のみの存在になったのに」

「やはり、肉体が無いのは相当味気ないんだと思います。他の魂との接触が無ければ、世界が存在しないのと同じなんですから。自己組織化を弱めて魂を小さくすれば、いつか転生することもあり得るんでしょうけど……」

「それでは今の自己が失われてしまうと……」

「はい。多分、あの魂は普段は寝たような状態にあるのだと思います。そして、他の魂との接触が唯一の楽しみ」

「確かに味気ない」とアルさんは何度も小さく頷いた。

「それでですね……」と僕はわずかにためらった。「剥き出しの情念や怨念に当てられたら酔います。接触が長かったので、僕は陶酔に近い状態になりました。生物の根源は肉体を永らえさせて自身の子孫を残すこと。そういうことを強烈に認識しました。これがもし破壊的な衝動に酔っていたらと思うと怖い。つまり、怨念に凝り固まった悪霊はまずい」

 皆の間からアアと声が上がった。「確かにまずいな」という声が漏れた。

「確信を持っては言えませんけど、でも多分、さっさとその場から離れれば大丈夫です。先ほど説明した通り」

「しかし、相手が魔法を使って来たら」と衛士隊員から質問が出た。

「僕は幽霊が明確な魔法や思念法を使ったという話は聞いたことがないんですけど……。あったとしても、闇雲に撃つ形になるのではないでしょうか。だから、相手にこちらの存在を明確に認識される前にその場から離れる」

「あの霊魂にもう一度接触するのは」

「よほどのことがない限り、僕はもういいです。僕以外に霊魂の言葉を認識できた人はいないんですよね。多分、適性や相性があるんです。皆さんは接触など考えない方が良いと思います。おそらく、何も分からないまま情念に当てられるだけです」

 皆、口を閉ざし、考え込んでしまった。アンは俯き加減で絵を描き続けていた。

 しばらくの後、フレクラントの歴史学博士が口を開いた。

「サジスフォレ君。地図の範囲内に悪霊の気配は」

「気配はあの霊魂だけです。悪霊の気配は全くありませんでした」

「状況は理解した。これで冷静に対処することも可能だろう。ここまでは三人一組で調査を行なってきたが、四人一組でどうだろう。そうすれば、どの組にも気配を感じた者が二人は入る。その二人が監視役」

「私もそれで良いと思います」とエスタコリンの考古学博士が賛同した。「サジスフォレ君もこのまま残ってくれるのだろう?」

 僕が「はい」と頷くと、博士たちは皆の顔色を窺った。異論は出なかった。

 対策会議が終了し、夕飯や入浴の準備が始まった。その間、僕は小屋に籠って独り文書の作成。細部を忘れない内に記録するようにと博士たちに指示された。そして、僕は気取られた様子が無いことに安堵していた。

 良く思い返してみればあの時、身を寄せてくるアンを僕は当然のように抱き留めた。アンと手を繋ぐ。アンを背負う。アンに背負われる。そんな一般的な接触など日常茶飯のことだった。

 ナギエスカーラでの再会以降、僕は性的な接触への誘惑にも駆られるようになっていた。しかし、アンは妃候補の筆頭。当然、実行など思い付きもしなかった。それなのに、僕たちは情念に当てられて、いつの間にか無意識の手すさびのように互いの性器をまさぐり合っていた。僕に性交渉の経験は無く、それはアンも同じはず。しかし、抑制が完全に失われ、二人共に全く同じ本能と欲望を抱え込んでいることが剥き出しになってしまった。

 僕たちがそこまで酔い痴れてしまった理由は、僕には何となく想像が付いていた。しかし確証が無く、アンにもまだ話していなかった。脳裏に浮かんだ歌い踊る男女たち。ナギエスカーラの夏祭りと同様の熱気を僕は感じた。多分、人が少ない時代の願いは同じ。多産と子孫繁栄。あの霊魂は僕の求めに応じて、そんな根源的な人の姿と世界の姿を敢えて見せてくれたのだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 ナギエスカーラ高等学院の秋学期が始まった。初日、午前中はいつも通りに講義に出席し、午後は所属研究室での顔合わせ。僕はためらうことなく環境生命学研究室に向かった。

「ああ……。来たのか……」と先生は言った。

「よろしくお願いします」と僕は挨拶した。

 予定の時刻になった。結局、研究室に現れたのは僕一人。先生は僕に向かって「それでは始めるか」と言った。

「まずは自己紹介から。私はエリク・ヴェドレゼリナ。生命学博士、生命学専攻の副主任、環境生命学研究室の責任者だ」

 先生の名乗りに僕は会釈し、自己紹介を返した。

「ケイ・サジスフォレです。フレクラント国西地方のルクファリエ村の出身です。よろしくお願いします」

 先生も僕の名乗りに頷いた。

「ところで、先生の家名は随分複雑ですけど、何か由緒のある……」

 その瞬間、先生の顔に笑みが浮かんだ。

「由緒はあるらしいのだが、良くは知らない。フレクラント人と違って、連合国人は血筋にそれほどこだわりが無いからな。言いにくかったら、名前で呼んでもらって構わない」

「分かりました。エリク先生」

 僕の呼び掛けに、先生は笑顔で頷いた。

「まずは、サジスフォレ君の春学期の履修状況を確認したい」

「はい。登録できる限りの講義を受けて、一科目以外は合格しました」

「えっ」と先生は意外そうな声を漏らした。「何を落としたの?」

「一般教養科目の文学芸能史を……」

「何でそんなものを……。あれは不合格になるような講義ではないだろう」

 僕はウーンと呻いてしまった。

 文学や演劇の主題の一つは色恋沙汰。色恋の気分は僕でも分かる。しかし、フレクラント国に沙汰は無い。いや。大昔にはあった。現代でもあるにはあるのだろう。ただし極めて少数、しかも社会的には陰で処理されているに違いなく、僕は実例を知らなかった。

「連合国とフレクラント国とでは世情が違い過ぎて、期末考査で失敗してしまって……」

 先生はハアと溜め息をついた。

「と言うことは、一般科目は一つ取り直しか」

 気まずかった。僕は神妙に頷いた。

「分かった……。君との対面講義の日程はそれに合わせて調整する」

「お手数をお掛けします」と僕は頭を下げた。

「それから、私は毎年夏休み中の四週間、各方域の自然精気の環境中濃度を測定している。君も出られるだろうか。今年はナギエスカーラを中心とする南方域を回った。来年は西方域、再来年は南西方域。そうやって、年ごとに南方三方域を巡回する」

 僕が気乗りしないままに了承すると、先生は「ん?」と鼻を鳴らした。

「別に義務という訳ではないのだが、行商か? 連合国評議会から報奨金を貰って、生活費の蓄えは十分なのだろう?」

「一応、それは大丈夫なんですけど……」

 南西方域に行商に出掛けた際の事件の顛末を明かすと、先生は皮肉っぽく笑った。

「そういう輩には対等などあり得ない。とことん下手に出るか、とことん上手に出るか、二つに一つだ。『お前たち。きちんと自然精気を調べておかないと、魔法医術士の先生方が来てくれなくなるぞ』と脅せば、相手も文句は言えまい」

 僕はハアと曖昧に頷いた。

「それで、君の方からは何かあるかな?」

「先生。やはり、生命力方程式は間違っていると思います」

 先生に「具体的には」と促されて、僕は説明した。

 日常的な言葉で言えば気配。他者の存在を感覚的に察知してしまうことがある。その際、他者の魂そのものと触れ合っている訳ではない。つまり精気には、それに付随し、それを取り巻く何かが存在している。しかし、生命力方程式にはそれに対応する要素が無い。

 僕が簡潔に説明を終えると、先生はフームと鼻を鳴らした。

「それは間違いではなく、適用限界の問題だ。そもそも、生命力方程式は吸収石などの中で起きている現象を説明するためのもの。それを越える現象は記述していない」

「そこで、僕が考えた式なんですが……」

 僕は研究室の壁に掛けられた黒板に偏微分方程式群を書き記し、一つ一つ説明していった。先生は初めの内は悠然と、最後には食い入るように黒板を見詰めていた。

「もちろん」と僕は話を締めくくった。「精気の密度が低い場合には、これらの方程式群は既存の生命力方程式と一致します」

「なるほど」と先生は溜め息をついた。「精気という実体があり、そこに気配という場が付随していると……」

 先生はフームと鼻を鳴らしてしばらく考え込むと、おもむろに口を開いた。

「それなら、君の最初の課題は吸収石の制作にしよう。設計から材料選びから加工に至るまで、全て君自身の手で行なう。身に着けておいて損は無い技術でもあるし」

「分かりました」

「材料選びに関しては私の専門分野の一部でもある。それ以外の技術的な課題に関しては、私から生命力工学専攻に指導を頼んでおく」

「よろしくお願いします」

 僕は十分に納得して了承した。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋学期が始まって二週目第一日の朝、いつも通りに登院すると、僕は学院評議会議長の執務室に連れていかれた。執務室には、議長と副議長、事務長、そしてフレクラント国の中地方通商組合の行商人が二人。

「議長。先日のノヴィエミストでは、どうもありがとうございました」

 僕がそんな風に挨拶をすると、議長は軽く頷き、僕に隅の椅子に座るよう促してきた。

 議長は「いつものことですが」と言いながら、二人の行商人それぞれに紙を手渡した。そっと覗いてみると「委嘱状」の文字。これから仕事の依頼が始まるようだった。

 現在、当学院の連合国人学生は全て最遠でも徒歩で四泊五日圏内の出身。学院に通えない者の多くは寄宿舎に入っている。その中で、秋学期が始まって一週間が経つというのに、何の連絡も無く未だに戻ってきていない者がいる。

 議長は「その調査をお願いしたい」と言うと、学生の一覧表らしき物を行商人の二人に差し出した。一瞥したところ十数名。僕の視線に気付くと、二人はさりげなく隠した。

 連合国内には学院と提携している宿屋が点在している。実家と学院の行き来の途中、学生はそこに宿泊することになっている。行商人の二人は宿屋と各学生の実家の位置を地図で確認しながら経路を決め、直ちに議長執務室を後にした。

 そのまま部屋に残された僕は議長に尋ねた。

「学院では、いつもこういうことをやっているんですか?」

「そうですよ」と議長はあっさりと肯定した。

「それで、僕がここに呼ばれたのは」

「アン・エペトランシャ君も戻ってきていません。何か心当たりはありませんか」

 大有りだった。

 高等学院の夏休み終了の一週間前、遺跡の調査がいったん終了となった。皆がフレクラント国やエスタコリン王国に撤収する一方で、アンは妃候補辞退の手段を探すと僕に言い残して、西の大公家へ向かった。妃選定の規則。王家と西の大公家の間で交わされている契約の詳細。それらを調べ上げるとアンは意気込んでいた。

 あの性的な件に関しては、僕もアンも全く口にしなかった。それどころか、あれは事故、無かったことにする。そんな素振りをアンは見せていた。アンが妃候補から外れたい理由はあまりにも明白。僕との関係以前に、とにかく今の暮らしと生き方を続けたいから。もはや、アンは王宮に納まって満足するような人間ではなくなっていた。

 僕はアンに同行しなかった。現状で僕に出来るのは、待つことと見守ることだけだった。

「サジスフォレ君?」と議長が声を掛けてきた。

「心当たりはあります。実家に戻って調べ物をしているはずです。僕も、随分時間が掛かっているとは思っていたんですけど、もう少し待とうかと……」

「君はエペトランシャ君の素性を知っていますね。例えば王家との関係」

「はい。妃候補」

「日当も支給しますので、君が様子を見てきてくれませんか。話を聞いて、手順は分かったと思いますが」

 僕は「ん?」と鼻を鳴らし、議長を見詰めた。

「行くことに異存は無いんですけど、代理人としての契約を交わした者ではなく、学生の僕が行く根拠は何ですか。つまり僕が言いたいのは、家の人に『何をしに来た。帰れ』と言われたらそれで終わりです」

「エペトランシャ君は君を緊急連絡先として登録しています。それに基づいて我々は君に正式に問い合わせ、君にはそれを根拠に会いに行ってもらいたいのです」

 全く知らなかった。南都ナギエスカーラにはエスタコリン王国中央政庁の出張所もあるのに僕を登録していたなんて。

「いや。我々も分かっています。学生は学業に専念すべきであり、このような雑務を押し付けるのは本筋から外れていると……」

 この種の広範囲な外回りの仕事は、高空高速飛翔が可能なフレクラントの行商人の独壇場。ナギエスカーラ高等学院は結構な日当を支払って請け負ってもらっている。ただし本来、この種の仕事を請け負えるのは通商組合の第一種組合員のみ。情報伝達業なども行なえる第一種とは異なり、第二種は物品流通業や人員輸送業しか認められていない。そして、僕は第二種組合員であり学生。

「しかし、今回は特殊で……」

 ヴェストビーク家はエスタコリン王国内では王家に次ぐ高位の家柄。しかも、アンソフィー・ヴェストビークは妃候補の筆頭。そのため、身の危険や学業への支障などを懸念して、偽名の使用を認めるなど要人に準ずる扱いをしている。今のところ、その扱いを変更する予定は無く、安易に外部に情報を漏らせない。

「それに、君はエスタコリン王国の貴族に顔が利くのでしょう? 君が行ってくれれば話は極めて早い。もちろん、君の学業にも配慮します。君には秋学期終了後に補習を受けてもらいます。成績評価にも不利が生じないようにします」

 僕は「あ、ああ、あああ……」と呻いてしまった。嬉しいような悲しいような知らせ。

「分かりました。行ってきます。ただし、僕にも委嘱状を書いてください。貴族はとにかく格や形式にうるさいんです」

「用意してあります。帰ってきたら、事務長に報告するように」

 話はまとまった。僕は委嘱状を手に議長執務室を後にした。

 

◇◇◇◇◇

 

 やはり秋。僕は高空帯を北上しながらそう思った。明らかに真夏に比べて虫の数が減っていた。そして僕の背嚢は満杯。そこにはアンを妃候補から降ろす秘策が詰まっていた。

 南都ナギエスカーラから西の大公家の街ヴェストビークまでは約四時間。途中に休憩を挟みながら飛び続け、大山脈を越えてすぐの所にフレクラント川とヴェストビークの街。時刻は昼過ぎ。僕は大公家の屋敷の玄関前に降り立った。

 使用人は直ちに大公様の執務室に通してくれた。そこには大公様と家令。あれから六年が過ぎたが、家の様子も二人の様子も全く変わっていなかった。

「大公様。家令殿。お久し振りです」と僕は挨拶した。

「ケイ殿も立派になりましたね」と大公様は言った。

「はい。おかげさまで」

「先日はイエシカが随分とお世話になったようで、私からもお礼を申し上げます」

「はい。楽しんでいただけて良かったです。ところで、今日はスルイソラ連合国ナギエスカーラ高等学院評議会議長の委嘱を受けて家庭訪問にやってまいりました。要するに、不登院状態となっているアンソフィー殿の様子を内密に確かめに来たということです」

 僕が委嘱状を示すと、二人は押し黙ってしまった。

「アンソフィー殿に会わせていただきたいのですが。必ず学生当人に面会することと決まっていますので」

 わずかに間が空いた後、大公様はおもむろに「それが……」と言った。

「アンソフィーは王宮にいます。どうやら、エルランド殿下の正室に選ばれたようで……」

 僕は唖然とした。まさか、こんな中途半端な時期に。

「先日、イエシカと二人で王宮に呼び出され、アンソフィーだけが残されて」

「『ようで』とは随分曖昧な言い方ですが」

「王家からはまだ何の通知も届いていないのです。王位継承権を持つ者の正室決定には王家一族による会議を経なければならないので」

 僕は決断した。とにかく、今はアンを解放する。

「分かりました。お邪魔いたしました。これより王宮へ向かいます」

 その瞬間、家令が「ちょっとお待ちを」と呼び止めてきた。

「ケイ殿は何をされるつもりです」

「とにかく、アンソフィー殿に会って来ます。それが今回の僕の仕事なので」

「正室の件には差し障りが無いようお願いしたい」

 僕はエッと呆気にとられ、家令の顔を見詰めた。

「実は先日、イエシカ殿からこの件に関する大公家の本音を聞いたのですが」

「正室に選ばれるのなら、それはそれでお目出度い話です。クリスタ殿はアンソフィー様のかつての家庭教師。知らぬ仲でもありませんし」

「あのう……」と僕は少しためらった。「率直に言って、アンに王妃は務まりません」

「ケイ殿」と家令の語気が強まった。「その言は踏み込みすぎというもの」

「以前、クリスタ殿からも話を聞きました。アンは野に解き放つべし」

 家令はウッと言葉に詰まった。代わって大公様が口を開いた。

「私たちも理解しています。アンソフィーの精気と魔法能力があそこまで成長するとは想像もしていませんでした。しかしそうなった以上、アンソフィーには貴族の利害の外にあって大公家を見守り続けてもらうのが最適です。また、そういう立場にあればこそ、王国全体に尽くすことも可能となるでしょう」

「あのう……」と僕はためらいがちに切り出した。「正室から降ろす手立てが一つあるんですけど」

「やめてもらいたい」と家令が声を上げた。

「いえ。せっかくですから聞きましょう」と大公様は制した。

「踊るんです」と僕は断言した。

 大公様と家令が同時に「は?」と声を漏らした。

「気が触れたと思われるぐらいに、着ぐるみを着て王宮や王都を踊って回るんです。アンのために着ぐるみを持ってきました。もちろん、アン独りにはさせません。僕もやります」

「やめてもらいたい」と家令が声を上げた。「ケイ殿が謎の歌を熱唱しながら着ぐるみ姿で街中をうろついているのは知っている。しかし、これは子供の遊びではないのだ」

「僕は真剣に言っているんです。奇矯な振る舞いをする者と見なされれば、妃候補から外されるのは間違いない。そう見なされるまで、奇矯な振る舞いを繰り返せば良い」

「そんなことをしたら妃候補から外されるどころか、社会的に死んでしまう。ケイ殿はすでに死んでいるから達観しているのかも知れないが」

「失礼な」と僕は憮然とした。「僕は少なくとも後ろ指は指されていない。蝗を全滅させた猿の着ぐるみ。そう言われているだけ。熱唱はイエシカ殿の冗談。ただの鼻歌」

「イエシカ様にも兎の着ぐるみを着せて、あれはケイ殿の趣味なのか?」

「違います。暑さ対策の話、聞いていませんか?」

「丁寧に扱えば一万年以上は持つという絵画。その題名が『なんとナギエスカーラ・兎のイエシカ』とは何たることか」

「あの絵、良い表情だと思いませんか」

「イエシカ様はこちらに戻ってきてからも時折、ケイ殿に貰ったという着ぐるみを着ておられる。イエシカ様にも『踊れ』と吹き込んだのか?」

「『踊れ』とまでは言っていない。イエシカ殿は踊ったんですか?」

「踊ってはいないが、『フレクラントの勝負服』などとうそぶいて、王都の街中を歩き回ったそうだ。『それは担がれただけ』とすぐに周りの者たちがたしなめたそうだが」

「そうですか。それは良かった。ナギエスカーラで散々予行演習をしましたからね」

 その瞬間、大公様がトントンと机を指で叩いた。

「もうやめなさい。あの絵を見て一番笑っていたのはアルフ、あなたではありませんか」

 大公様は僕に目を向けてきた。

「全てはアンソフィーに任せます。ケイ殿も無理強いはしないでください」

「分かりました。それでは」

 僕はそう言い残して席を立った。

 

◇◇◇◇◇

 

 埒が明かなかった。六年前の滞在時間はわずか数時間。そしてそれ以降、特に関心を持つこともなく、僕は王宮の仕事を全く理解していなかった。王家も貴族。王都やその周辺の村々の大地主。そのためフレクラント国に例えれば、王宮は実質的に王都の村政庁。王宮正門の受付には長い列が出来ていた。

 それでも、多くの人はしばらくすると事務処理を行なう建屋に順次通されていった。一方、僕の用件は家庭訪問、王族およびアンとの面会。「王家の方々は忙しい」の一点張りで、僕は中に入れてもらえなかった。

 ナギエスカーラ高等学院評議会議長の委嘱状には何の威力も無く、係員は僕を軽くあしらうばかりだった。多分、大公様も家令もこうなることを予想していたのだろう。だから、話はあっさりと済み、「とにかく、好きにやってごらんなさい」と言わんばかりの軽い乗りで僕を送り出したのだ。

 係員に尋ねてみると、中央政庁はフレクラント国に例えれば中地方政庁と大統領府を兼ねたものらしい。と言うことは、そちらにはイエシカさんがいるとは言え、出向いてみても無駄足になるだけだろう。

 さらに尋ねてみると、現在王宮内にいる王族は決裁の仕事で忙しく、その作業は受付終了後まで続くとのこと。他の王族は外回り。いつ戻ってくるか分からない。結局、誰がどこにいるのか、そんな具体的な事柄は一切教えてもらえなかった。

 結局、僕はいったん引き下がることにした。街中の料理屋に入って遅い昼食を摂りながら対策を練ることに決めた。

 なぜだろう。食が進む。エスタコリンの料理はやはり美味しい。秘密の香辛料でもあるのだろうか。そんな風に感じながら、僕は考え続けた。

 王家のご隠居、前国王のアルさんに会わせてもらおうか。アルさんなら多忙というほどではないだろう。しかし、どことなく後ろめたかった。

 アンはエルランド殿下の妃候補の筆頭。思い返してみれば、常にそれがアルさんの第一の認識だった。まずはアンを取り戻す。そして正室の件は無かったことにする。それはアルさんの意に反しているのではないだろうか。

 アルさんは事あるたびに僕の後ろ盾になってくれている。そして、アルさんの望みは王国と王家の繁栄。将来、他国の僕が協力者や助力者になることを期待している。アルさんは僕が行なおうとしていることを裏切りと捉えるのではないだろうか。

 その一方で、西の大公家の考えにも一理ある。それはアルさんの望みとも矛盾しない。つまり、エスタコリン人のアンこそが王家や大公家の外にあって、王国と王家と大公家の繁栄を支える役割を果たせば良い。規則や契約や立場上、大公家はその種の話を切り出せない。僕が伝えれば、事態は変わるだろうか。

 いずれにせよ、アンには自身への評価を下げるという手段が残されている。とすれば、やはり気掛かりなのはクリスタさんとお子さんたち。

 クリスタさんは自由でありたいと願っていた。そんな人が側室に選ばれてあっという間に四人の子持ち。もちろん強姦された訳ではないだろう。つまり、クリスタさんは覚悟を決めたに違いない。そんな人が蔑ろにされて良いとは僕には到底思えない。

 また現在、クリスタさんは形式的には側室でも実態は正妻。それが実態としても側室となったら、お子さんたちは何を思うだろう。種類と状況が違うとは言え、無機質な家族関係の汝の果ての実例はここにある。つまり僕。

 僕は料理店を後にし、手近な公園で時間を潰し始めた。猿の着ぐるみに着替え、木製の長椅子に寝転がって待ち続け、約一時間が過ぎた頃だった。鐘の音が街に響き渡った。これで王宮の受付終了から一時間。余剰精気の蓄積は十二分。僕は飛翔を開始した。

 王宮正門の上空で僕は静止した。受付の行列はすでに消え、辺りは閑散としていた。僕は敷地奥の宮殿に向かって拡声魔術を発動した。

「頼もう。私はフレクラント国のケイ・サジスフォレ。スルイソラ連合国ナギエスカーラ高等学院評議会議長の代理として参上した。王家の方への取次ぎをお願いしたい」

 三度叫んだ時、宮殿から人々が飛び出してきた。政務官と思われる人が僕の元に駆け付けてきた。僕はゆっくりとその前に降り立った。

「サジスフォレ殿。どうか、おやめください。特に拡声魔術は」

 政務官の表情はこわばり、声音には哀願の気配が漂っていた。

「すでに受付は済ませてあります。受付終了からしばらくは仕事が続くとのことでしたので、時を見計らって出直してきました」

「フェリクス殿下がお会いになられます。しかし……」

 そう言いながら、政務官は僕の姿を眺めまわした。

「その恰好は一体何です」

「これは僕の本気を示すものとお考え下さい。つまり、面会無しに帰るつもりは無いという意味です。これが評議会議長の委嘱状です」

 政務官は委嘱状に目を通すと、「どうぞ、こちらへ」と言った。

 王宮内の宮殿に続く道。宮殿内の廊下。あちらこちらから抑えた笑い声が聞こえてきた。そして時折、「猿?」という嘲笑交じりの密かな声。そのたびに、政務官は僕に向かって密かに詫びた。尋ねてみると、王宮内の下級職員の多くはこの六年で入れ替わり、もはや六年前の出来事を具体的に知る者は少数とのことだった。

 案内された先は執務室ではなく謁見室だった。上座には、今や王位継承順位一位、あの政変を主導したフェリクス殿下の姿があった。そのかたわらには王家の使用人と思われる人が数名。使用人たちは僕の姿を目にすると、顔を伏せてあからさまに笑いをかみ殺した。

「ケイ・サジスフォレ殿。久し振りだな」と殿下は顔を強張らせた。

「お久し振りです。殿下」

「あの時は世話になった。再度礼を言う」

「いえ。こちらこそ色々とご迷惑をお掛けしました。今日伺ったのは……」

「その前に、なぜ着ぐるみなのだ」

「受付で門前払いを食らいましたので、本気を示すために敢えてこの姿で来ました。ただし、鉈は持ってきていません。今回はその種の事情で来た訳ではありませんから」

 殿下は緊張気味に小さく頷いた。

「現在ナギエスカーラ高等学院では、秋学期が始まったにもかかわらず姿を現さない学生たちの調査を行なっています。今日伺ったのはその一環。安否や状況の確認が目的です。妃候補の件はすでに知っていますが、一度アンソフィー殿にも会わせてください」

 殿下は「良かろう」と言うと、使用人に指示を出した。

 アンを待つ間、僕と殿下は雑談を交わし続けた。特に話題となったのは、アルさんも参加している考古学調査。どうやら、大発見があったとの噂はすでに広まっているらしい。ただし、正式発表までは内容は秘匿されているはずだった。

「サジスフォレ殿も調査に参加したと聞いている。一体、どんな発見があったのだ。少し教えてくれないか」

 殿下がそう言った時だった。謁見室の扉が開いた。

 僕は息をのんだ。清楚な貴婦人。これが気品。高貴で豪華な装いはアンをここまで美しく見せるのか。しかも、このような姿をしているからには、正室になることはすでに決定しているのかも知れない。そう気付いて、胸が締め付けられた。

 アンは数名の侍女を連れていた。侍女たちは僕の姿に気付くと、いきなり笑い声を上げた。それに釣られたのか、殿下のそばに控えていた者たちも笑い始めた。

「皆さん。何を笑っているのです」とアンが冷めた声を発した。

 使用人全員が笑いをこらえようとした。

「ケイ・サジスフォレ殿を侮ってはいけません。ケイ殿は偉大なる魔法使いに認められた蝗の将軍です」

 嘲笑の気配は一向に消えなかった。「猿の将軍?」と笑い声が漏れた。

「フレクラントの方々を見た目で判断してはいけません。着ぐるみは勝負服であり戦闘服です。ケイ殿は真剣なのです」

 数人が小さく首を振って否定した。

「着ぐるみに硬化魔法を掛ければ無敵の鎧。ケイ殿は直ちに無敵の戦士と化すのです。侮辱が過ぎると、ケイ殿に宮殿ごと吹き飛ばされますよ」

 皆が固まった。一瞬で場が冷えた。

「殿下」と僕は呼び掛けた。「いったん、アンソフィー殿と二人で話をしたいのですが」

「あ、ああ……」と殿下は了承した。

 僕は謁見室の隅にアンを連れて行き、改めてその姿を眺めて溜め息をついた。機能性を度外視して美と品位を追求した装い。それは女の色や艶までも演出していた。

「来てくれたんだ……」とアンは呟いた。

「もう、正式に決まったの?」

「まだ。これから一族での話し合いがあるらしい」

「それなら、今ここで何をしているの?」

「王家の仕来りや仕事の説明を受けている」

「それでは……」と僕は大きく息を吐いた。「もう決まったようなものじゃないか……。アンはそれでいいの?」

「いいも何も……」とアンの声は微かに震えた。「家の、大公家の立場が……」

 僕が秘策を伝えると、アンはエッと声を漏らした。

「その前に、僕が正攻法を試してみる」

 僕は再び殿下の前に立つと、「申し上げたいことが三つあります」と切り出した。殿下は真剣な表情で「聞こう」と答えた。

「一つ目。ナギエスカーラ高等学院がこのような調査を行なう理由の一つに結婚問題があります。長期休暇の際、帰省先で女子学生が結婚を強いられることがあります。その場合、学院は学生当人の意思を確認した上で、結婚を保留して学業を継続するよう仲裁に入っています。アンソフィー殿は継続を希望しています。王家はいかがお考えでしょうか」

「ああ」と殿下は溜め息をついた。「その件は検討中だ。アルヴィン陛下は『今は婚約にとどめ、結婚は高等学院の前期課程修了を待って』とおっしゃっている。一方、エルランドは『できる限り早く』と主張している。『何なら、エスタコリン王国高等学院に転院すれば良い』と。いずれにせよ、学業の打ち切りは考えていない」

「二つ目。西の大公家の考えをお伝えします。アンソフィー殿は今やフレクラント人と同等の精気と魔法能力を持ち、その寿命もフレクラント人と同等になるものと予想されています。また、この世界の北から南までを行き来しており、王宮に納まるような人間ではなくなっています。そのため、西の大公家はこの結婚に反対しています」

「アイナ殿がそう言ったのか。当主たるアイナ・ヴェストビーク殿が」

「はい」と僕は頷いた。「ただし、王家に嫁がないとなれば、通常であれば他の貴族家に嫁ぐ所。しかし、アイナ様はそれにも反対しておられます。アンソフィー殿はそのようなものの外から王国や王家や大公家を支える役割を果たすべき。そう言っておられます。つまり、言葉の内容から考えて、アイナ様は私心からそのように言っておられるのではありません。どうか、その点だけは勘違いなさらぬようお願いいたします」

 殿下はウーンと唸ると、視線を足元に落として考え込んでしまった。

 あの政変の時、アイナ様は殿下の後ろ盾となった。だから、殿下はアイナ様の意向を無碍には出来ないはず。そう思いながらしばらく待っていると、殿下の視線がさまよい始めた。黙々と考え続ける殿下に僕は声を掛けた。

「二つ目についてはいかがでしょうか。僕は一理ある考えだと思います」

「アイナ殿の考えも分からなくはないが、王家にとっては、そういう有能な者が一族に加わるのは歓迎すべきこととも言える。いずれにせよ、決めるのは当人たるエルランドだ。妃候補に問題が無い限り、我々王族とて無暗に反対は出来ないのだ」

「三つ目ですが」と僕は話題を変えた。「フェリクス殿下にも側室がおられるのですか?」

「いや。いない」

「これは僕の疑問なのですが、クリスタ殿と四人のお子さんはどうなるのですか?」

 その時だった。謁見室の脇の出入り口の方から「久し振りだな。ケイ」という声が聞こえた。見ると、半分だけ開いた扉の所にエルランド殿下が立っていた。

「エルランド」とフェリクス殿下が声を上げた。「いつからそこにいたのだ」

「ケイとアンソフィーがひそひそと言葉を交わしていた辺りから。その後の話は全て聞きました。あとは私とケイの二人で話し合います」

 エルランド殿下が「付いてこい」と促してきた。僕はアンに背嚢を手渡し、エルランド殿下の後を追った。

 

◇◇◇◇◇

 

 エルランド殿下は僕の着ぐるみ姿を見ても、笑み一つ浮かべなかった。以前は、いきなり喜びを表わしたり、いきなり気難しくなったりしていたのに、目の前にいる殿下にそんな起伏は一切見られなかった。以前と同じなのは、僕が付いてきていると確信しているかのように、振り返りもせずに無言で歩き続けていることだけだった。

 着いた先は殿下の執務室のようだった。殿下は扉を開けて部屋に入ると、執務机の向こう側に腰を下ろした。僕も入室して扉を閉じると、殿下は「そこに座れ」と扉付近の椅子を顎で指し示した。

「高等学院評議会議長の代理人。ヴェストビーク家の代弁者。君も偉くなったものだな」

「恐縮です」と僕は軽く頭を下げた。

「そして、私の婚姻を壊そうとする」

「決して殿下に恨みがある訳ではありません。やはり、僕の最大の疑問はクリスタ殿の件です。クリスタ殿は僕の実家に滞在したことがあって、お姉さんのように親しくしていただいたもので」

「君は蝗を全滅させたそうだな。どうやったのだ」

 僕は呆気にとられた。やはり殿下は殿下。いきなり話題が変わった。

「温熱魔法を広く展開して一網打尽に」

「ただの温熱魔法ではあるまい」

「少し工夫をしました」

「自然精気の薄いスルイソラで、良くもそんな巨大な魔法を使えたものだな」

「自然精気を強く吸い込む訓練を散々しましたので」

 殿下は僕をジッと見詰めながらフーンと鼻を鳴らした。その視線の強さに気圧されて、僕は目をそらした。ふと見ると、執務机の上には片手大の筒状の物。玩具だろうか。小さな望遠鏡、それとも万華鏡。殿下にそんな趣味があるとは知らなかった。

「これ見よがしに着ぐるみか」

「気合を入れるために着てきました」

 殿下はフフンと鼻で笑った。

「なぜ猿なのだ。さすがに白狼は畏れ多いか」

 僕は殿下を見詰めた。視線と視線が衝突した。フレクラントの着ぐるみの意味。どうやら、エルランド殿下もフェリクス殿下と同様、とっくに知っていた模様。白狼の騎士の正体は白狼の着ぐるみを着たフレクラント人。殿下はそんな連想をしたのだろうか。

「君は嘘つきだ」

 僕はエッと声を漏らした。

「いいえ。嘘は全くついていません」

「なるほど。確かに嘘と秘匿は違う。要するに、君は詭弁を弄するようになったと」

「いいえ。常に真正面から。それが僕の信条です」

「君は嘘つきだ」

 僕は首を振った。

「君はヴェストビーク家の娘を欲しいのか? それなら、イエシカをくれてやる」

 僕はウッと呻き、「くれてやるって……」と言い返した。

「イエシカも私の妃候補だ。今ここで候補から外し、君をヴェストビーク家に強く推薦してやると言っているのだ」

 ぎりぎりと締め付けられていくような気がした。

「イエシカは良い女だろう。しかも、君のことをとても気に入っている。先日の面接でも君の話ばかりだ」

 それは多分、妃候補から逃れたい一心。

「当然、君も『エステルの二つの約束』の逸話を知っているな。今の君の立場はどちらなのだ。カイルか、リエトか」

 僕は悟った。殿下は見抜いている。僕の言動の根底には私心もあると。しかし、アンにそこまでの気は無い以上、アンはエステルではなく、僕はリエトになり得ない。

「アンソフィーには妃選定開始以前から誰かとの結婚の約束があるのか?」

「無いと思います」

 殿下はフフンと盛大に鼻で笑った。

「それならば、何の問題も無く私が最優先だ。私はアンソフィーを選ぶ。アンソフィーは私の子を産んで産んで産み尽くす。アンソフィーは私の子供たちに囲まれて生涯を送る。これは私の地位に伴う私の正当な権利なのだ」

 体中が熱くなった。あのアンがこの人のものになる。あのアンがこの人の子供を産み尽くす。しかし、王国の制度まで持ち出されては反論のしようが無かった。

「君の頭は錆びたな。もし君が『自分は嘘つきです』と言っていたら、論理的に極めて興味深いことになっていたのだ。もう、帰るが良い」

 僕は椅子から腰を上げた。

 錆びてなどいるものか。僕はイエシカさんに言った。全てはあなた次第。僕の立場では、あなたの結婚話にこれ以上の関与は出来ないと。そして、僕はイエシカさんに兎の着ぐるみを渡した。

 アンに渡した背嚢には狸の着ぐるみが入っている。ここから先はアン次第。でも、アンが踊り狂うのなら僕も付き合う。改めてそのように覚悟を決め、僕は扉の取っ手を握った。

 その時だった。背後でガタッと音がした。振り返ってみると、殿下が脱力したように椅子の背凭れに身を預け、ゆっくりと天井を見上げようとしていた。机の上に目を遣ると、玩具の位置が変わっていた。殿下は僕が背を向けている間に玩具を手に取った様子だった。

 何事だろうと思って見詰めていても、殿下は僕を追い出そうとはしなかった。そのまま立ち尽くして様子を窺い続けていると、しばらくした頃、殿下はようやく口を開いた。

「間違っていた……」

 殿下は未だに天井を見上げ、何かを考え込んでいた。僕は静かに机に歩み寄り、玩具をそっと手に取り覗き込んだ。その瞬間、息が止まった。目を疑った。

「君にはそれが何か分かるのか」

 殿下が身を起こした。まさかこの人が。僕は机の上に丁寧に戻した。

「どうなんだ。分かるのか」

 この人はまずい。この人は危険。

「万華鏡でしょうか」

「君は嘘つきだ」

 体全体から嫌な汗が滲み出るのを感じた。

「僕は嘘つきです」

「それは知っている」

 僕はウッと呻いた。クソと心の中で罵った。

「精気分光器でしょうか」

「ほう」と殿下は低い声を漏らした。「君はその名称をどこで知った」

 黙示録。しかし、そんなことは到底言えなかった。

「僕は環境生命学を専攻しているんですが、必要に迫られて生命力工学も勉強しています。まだ着想に過ぎないんですけど、その関係で精気流束測定器を作ってみようかと考えているんです。そういうことをしているので、自然に精気分光器という名が……」

「口数が多いな」

 殿下の言う通りだ。僕は詭弁を弄している。

「君の名は」

「ケイ・サジスフォレ」

「違う。君の真の名は」

 僕は似たようなやり取りを思い出し、試しに敢えて口にしてみた。

「ケイ・エペトランジュ」

 殿下は僕を値踏みするようにフーンと鼻を鳴らした。

「君はエベルスクラントに行ったことはあるか」

「中等学院の遠足で一度だけ」

「君はフレクラント高原の西側へ行ったことはあるか」

「頻繁に」

「イエシカが自慢していたぞ。特製の肖像画を作ってやったそうだな。初めての異国で一人きり。そこに颯爽と現れた男となれば、好意を抱かぬ訳が無い」

 話題が変わった。少しホッとした。

「イエシカ殿には喜んでいただけて幸いでした」

「硝子板への封入という着想はどこから得た」

 僕は呻きそうになってこらえた。

「世界の各地で、たまにその種の遺物が見付かるのだそうです。それを思い出して……」

 殿下はフーンと鼻を鳴らすと、再び背もたれに身を預けて天井を見上げた。

 僕がそのまま待ち続けていると、殿下は突然身を起こし、精気分光器を手に立ち上がり、窓を開けてどこかへ向かって飛び去った。驚いて窓に駆け寄ると、西の空には夕焼け。殿下の姿はすでに視界から消えていた。

 急いで誰かにこの件を伝えなければ。僕はそう思い立ち、次の瞬間、ふと考え直した。

 殿下もしくはカイルが破壊的な行動を取ることはあり得るだろうか。現状では、攻撃対象になるとしたらリエト役の僕だろう。しかし、殿下もしくはカイルは僕を攻撃するどころか口止めさえもしなかった。きっと、それよりも優先順位の高い事項があるに違いない。それならば、こちらとしても慌てる必要は無い。

 殿下もしくはカイルは「間違っていた」と言い、「君の真の名は」と訊いてきた。つまり、あの精気分光器を通して眺めた僕の魂の色は、殿下もしくはカイルの目にはあり得ないものと映ったに違いない。

 多分、殿下もしくはカイルはアンにエステルを見ていたのだ。そして、何らかの間違いに気が付いた。魂の色に関する記憶違いだろうか。それとも精気分光器の制作の失敗。いずれにせよ、正確な記憶を取り戻さなければと考えたに違いない。

 明らかに、殿下もしくはカイルは黙示録のことを気にしていた。最初に尋ねてきたのは、エベルスクラント訪問の有無だった。おそらく、アンの推理は正しかったのだ。黙示録には続きがあり、カイルは北のエベルスクラントの遺跡に隠したのだ。

 カイルは三度目の生にあった時、フレクラント高原西端の黙示録を見付けられなかったに違いない。だから、三度目の生では隠し場所を変えたのだろう。と言うことは、エベルスクラントへ向かったのだろうか。

 その時、部屋の扉を軽く叩く音が聞こえ、返事をする間も無く扉が開いた。

「ケイ。来ていると聞いたのでな」

 前国王のアルさんはそう言うと、不審そうに「ん?」と鼻を鳴らした。

「エルランドはどうした」

 アルさんは黙示録の存在を知っている。アルさんには明かすべき。僕はそう判断した。

「カイルがいます。あの黙示録のカイルです」

「何と」とアルさんが驚きをあらわにした。

「エルランド殿下です。殿下がカイルです」

「何と……」とアルさんは言葉に詰まった。「その証拠は」

「殿下の筒状の玩具みたいなもの。あれは精気分光器です。殿下はいつからあれを持っていたんです」

「先の春辺り……。他に証拠は」

「殿下自身は明確には言いませんでしたが、明らかに黙示録のことを気にしていました」

「何と……」

「そしてつい先ほど、どこかへ飛んで行ってしまったんです。この窓から」

「どういうことだ。もうすぐ夜であろう」

「良く分かりませんが、黙示録を探しに行ったのではないかと。殿下は『間違っていた』と言いました。アンのことをエステルだと思っていたようです。ところが、確信を持てなくなってしまった。殿下の人柄が変わったとか、何か兆候は無かったんですか」

「その前に、その話は俄かには信じられぬ。まさか、エルランドとアンソフィーの件を壊すためにそのようなことを言っているのではあるまいな」

「違う。違います」と僕は断言した。

「いずれにせよ、そのような告発をする以上、確実な証拠を提示せよ。ケイよ。エルランドを探せ。そして、まずは儂の所に出向くよう伝えるのだ」

 告発という言葉で僕は気付いた。アルさんの目には転生は悪と映っている。そして、僕がエルランド殿下に濡れ衣を着せようとしていると映っている。

 フレクラント国には、極めて少数ではあっても覚醒した転生者がいるらしい。そして、そういう人たちも社会に受け入れられている。つまり、転生自体は善でもなく悪でもなく中立的な現実。アルさんの認識はその水準に達していないのだ。

「分かりました。少し休憩を取ってから出ます。気が変わって、程なく帰ってくるかも知れませんし」

「良かろう。もうすぐ夕飯時だ。簡単に食えるものを用意させよう。その時までにエルランドが帰ってこなければ、そなたも出立せよ」

 僕は黙って頷き了承した。

 

◇◇◇◇◇

 

 三日月の夜。仄暗い光を浴びながら、僕は猿の姿のまま高空帯を独り飛び続けていた。僕の背中には背嚢。使用人が返してきた時、そこに狸の着ぐるみは残っていなかった。

 結局、殿下もしくはカイルは戻ってこなかった。その間、軽食を摂りながら僕が考え続けていたのはその行き先だった。

 第一の候補は隠れ家。おそらく王宮のすぐ近くに秘密の工房があり、殿下もしくはカイルはそこで精気分光器を作ったのだろう。そこに籠って善後策を検討中。もしかしたら、そこで準備を整え、すでにどこかへ向かったのかも知れない。

 第二の候補は北のエベルスクラントの遺跡。やはり、第二の黙示録の隠し場所はそこに違いない。それをこの機会に回収しに行った。

 現在の殿下もしくはカイルの魔法力はどの程度のものだろう。その能力をもってエベルスクラントに到達するには、どれぐらいの時間が掛かるのだろう。エスタコリン人として生まれ育った以上、フレクラント人と同等の基礎的能力を持っているとは思えない。ただし、すでに忘れ去られた多彩な技術を駆使できる可能性は十分にある。

 そんなことを考え続けて僕が出した結論はフレクラント国高等学院。殿下もしくはカイルはいずれそこにたどり着く。なぜなら、フレクラント国内やその周辺で発見された歴史的遺物は全てそこに運び込まれているのだから。

 事実、第一の黙示録はすでに高等学院にある。僕の推測が正しければ、第二の黙示録もすでに誰かに発見され、高等学院に運び込まれているはず。殿下もしくはカイルも遠からずそのことに思い至るに違いない。

 それにしても、カイルはともかく、殿下はクリスタさんのことをどう思っているのだろう。六年振りに会ったクリスタさんは妻と母の顔になっていた。殿下もしくはカイルの言葉をそのまま使えば、まさにクリスタさんこそ良い女。僕は心の内で殿下を罵らずにはいられなかった。

 三日月の光にほんのりと照らされた大地。地形を確認しながら飛び続け、一時間近くが経った頃だった。フレクラント国高等学院が見えてきた。僕は一直線に高度を落とし、歴史学専攻が入っている建屋の前に降り立った。

 夜は夜。ただし遅いとは言えない頃合い。誰か残っているだろうか。そう思いながら暗い廊下を研究室に向かってみると、独り歴史学博士が北の大森林から持ち帰った史料の整理を続けていた。

「急にどうしたのだ」と博士は驚きをあらわにした。

「お伝えしたいことがあって」

 博士は「まあ、待て」と言いながら、発酵乳を出してくれた。僕は半分ほど飲んで大きく息を吐いた。

「緊急か? わざわざ着ぐるみを着込んで、超高空でも飛んできたのか?」

「伝説のカイルに会いました。黙示録を求めていずれここにやって来ます」

「本当か」

「はい」と僕は大きく頷いた。「そうなると、ちょっとまずいことになるかも」

「それで、誰がカイルだったのだ」

 僕は意外感に包まれた。

「驚かないんですか? 他の人は信じてくれなかったのに」

「いまさら」と博士は苦笑した。「超越派に遭ってしまった今となっては全然」

 僕はアアと納得した。

「誰がカイルだったのか、それはちょっと明かせません。素性の怪しい人ではありませんが、それだけに安易に明かしてしまうと問題になりそうで……」

 博士はフームと鼻を鳴らした。

「それなら、それはまあいい……。黙示録に記された通りのカイルであったら、黙示録を返さなかったら力尽くでも取り戻そうとするだろうと言う訳か。確かにあり得るな」

「黙示録は今も生命学専攻が管理しているのでしょうか。それからもしかしたら、あの黙示録には続きがあって、それも生命学専攻が管理しているのではないでしょうか」

 博士は「ん?」と鼻を鳴らした。

「黙示録に続きがあるという話は初耳だ。カイルがそう言ったのか」

「それを匂わせるようなことを。どうやら、エベルスクラントに隠していたようです」

 博士はウーンと唸り、「生命学専攻に行こう」と席を立った。僕も慌てて発酵乳を飲み干し、あとに続いた。

 高等学院の在り方はどこも似たようなものらしい。所々から人の声、照明器の光。ナギエスカーラ高等学院と同様、夜も人の残っている研究室がある様子。例の生命学専攻の博士も居残っていた。

 生命学博士は僕の顔を見るなり険しい表情を浮かべた。

「何をしに来た。しかも何だ、その物々しい格好は。こんな所に着ぐるみで来るな」

 歴史学博士はそれを遮り、僕の代わりに事情を説明し始めた。生命学博士の視線は徐々に僕から歴史学博士に向かうようになり、最後には歴史学博士に釘付けになっていた。

「それで、どうなんです。黙示録の続きがあるのですか?」

 歴史学博士にそう迫られて、生命学博士はとうとう「ある」と認めた。

「どこに」と歴史学博士は迫った。

「地下の保管庫に。今から四千年近く前の生命学専攻の責任者がそこに収めたらしい」

「見せてもらいたい」

「開示するかどうか、ここでは決められない」

「カイルがやって来たら、そんなことは言えなくなる。今すぐに見せてもらいたい」

「カイルであろうと一緒だ。カイルとて現世の法や規則に従うべきだ」

「待ってください」と僕は口を挟んだ。「あの人の頭の切れは半端ではありません。黙示録通りなら、カイルは大量殺人も厭わない。口実を見付けたら何をするか分からない。その前に、少なくとも状態などは確認しておくべき」

「ケイ・サジスフォレ。君が指図するようなことではない」と生命学博士は言い切った。

「あなたはサジスフォレ君の言葉にもっと耳を傾けるべきだ」と歴史学博士が反論した。

 生命学博士は僕を睨んで溜め息をつくと、「良いだろう」と言った。

 生命学博士は研究室を後にすると、建屋の地下へ向かった。三人それぞれが光球で辺りを照らしながら進むと、そこも地上と同じ構造の石造り。廊下があり部屋が並んでいた。生命学博士は一番奥まで進んで扉を開け、さらに階段を下りていった。その先はエベルスクラントやカプタフラーラの地下街と同様の作りになっていた。

 岩盤を綺麗にくり抜いた通路。扉の無い部屋、また部屋。生命学博士はかなり奥の一室の前に立つと、「ここだ」と言った。中を覗き込んでみると、確かに見覚えのある石製の文箱。そしてもう一つ、それよりも幾分大きい石製の箱。僕たちは部屋に入り、大きい方の蓋を開けた。

 現代語訳が記されていると思われる古びた紙が十数枚。僕がそれらを手に取ると、その下には硝子板。僕は紙を確かめ、歴史学博士は硝子板を覗き込んだ。

 三度目の生における黙示録。僕がその文言を目にした時だった。背後で「ほう」と低い声が聞こえた。博士たちが振り返った。僕は声ですぐに悟り、手に取った十数枚の紙を首の所から着ぐるみの中に押し込んだ。

「君は誰だ。ここで何をしている」と生命学博士が尋ねた。

 僕も振り返ってみると、全身黒ずくめの着衣に行商人用の特大背嚢を背負ったあの人が自然体で立っていた。

「私の名はカイル。私の持ち物がここに保管されていると考え、受け取りにやって来た。そこにあるのは確かに私の物だ。長年にわたり大切に保管してくれてどうもありがとう」

「なぜここが分かった。我々の後を付けてきたのか」

「私は転生を繰り返し、すでに総計で二千年近くをこの現世で過ごしてきた。当然、この建屋の存在も知っている。この建屋辺りかと思ってやって来たら、たまたま汝ら三人を見掛けたという次第だ。長年にわたり大切に保管してくれてどうもありがとう」

「その話を進める前に、いくつか確認したいことがある。まず、君がカイルであるとどうやって証明する」

「それならば私も訊こう。汝がここの責任と権限を持つ者とどうやって証明する」

「それは皆が証言してくれる」

 生命学博士の返答に、カイルは鼻で笑った。

「それならば、私の身元についてはそこのケイ・サジスフォレが証言するだろう。汝は不満か。考え違いをするな。汝の学はあまりにも浅い。本質的には、存在の同一性や固有性はそのような手段では証明し得ない。それにもかかわらず、汝がその論法を採ったのだ」

 生命学博士が力んだ。むきになってもカイルには勝てない。下手をしたらカイルを怒らせるだけ。まさか、生命学博士は魔法発動の機会を窺っているのだろうか。

「仮に君がカイルだったとしよう」と生命学博士は食い下がった。「それでも問題がある。長期にわたって放置されていた物品は国の所有物となる。ここにある古文書も同様だ。国の委託を受けて高等学院が保管しているのだ。これはフレクラント国の法によって決まっている。君も現世にあるのなら、現世の法に従うべきだ」

「それならば言おう。私は放置などしていない。人目に触れぬよう意図的に大切に隠したのだ。そもそも、私が一つ目の黙示録を作成したのは今から約九千七百年前のこと。二つ目の黙示録を作成し始めたのは約七千百年前のこと。今、汝が挙げた法はいつ出来たのだ」

 生命学博士は言葉に詰まり、微かに首を傾げた。

「汝は知らないのか。やはり汝の学は浅い。その法が出来たのは今から約四千年前のこと。つまり、汝はあとから勝手に作った法を過去に遡って勝手に適用しているのだ。そんな無法は許されない」

 生命学博士が低く唸り始めた。はた目にも怒りの蓄積は明らかだった。

「無法ではない。根本を定めた法だけでなく、手続きを定めた規則などもある。それら全てが一つの体系をなし、私の主張を裏打ちしている」

「それならば、その全ては悪法だ」

「悪法とて法なり。まずは順守から始めよ」

「悪法は法にあらず。速やかなる訂正の無きことを咎めるべし。汝の言はまさしく悪逆圧政の論法なり」

「そもそも、君が第二の黙示録を隠したエベルスクラントは高等学院の管理下にある。そんな場所に勝手に隠した君に問題があるのだ」

「汝は詭弁を越えて嘘までつくか。当時はエベルスクラントの管理を行なう者などいなかった。エベルスクラントこそ長きにわたって放置されてきたのだ。これを言うのも三度まで。長年にわたり大切に保管してくれてどうもありがとう」

 まずい、と僕は焦った。この種の言い回し。ジラン大統領の口からも聞いたことがある。あの時、ジランさんは僕に向かって「やっておしまい」と言った。僕ごときの思念法を見抜けなかった生命学博士が魔法でカイルに敵うはずがない。

「博士」と僕は口を挟んだ。「この人の言葉の意味を良く考えるべき」

 生命学博士は僕を一瞥すると、「君は黙っていろ」と言った。魔法の撃ち合いになる。僕はそう判断して着ぐるみに硬化魔法を掛ける時機を見計らった。

「カイルとやら。君があのカイルであるとの証明も無く、しかも法や規則の定めもある。学院の管理する貴重な史料を渡す訳にはいかない」

 その瞬間、「この盗賊が」とカイルが怒鳴った。同時に魔法発動の気配。場を照らしていた光球が一つ消えた。生命学博士が硬直し、ゴトッとその場に転がった。カイルの早撃ち。とことん速かった。

「盗人猛々しいとはまさにこのこと」

 カイルはそう吐き捨てると、歴史学博士に目を向けた。

「汝はどのような立場にあり、どのように考えるのか」

「私はジスラン・フレスコル、歴史学の博士、歴史学専攻の主任だ。私は仕事の都合上、遺跡に立ち入ることが多い。特に墓所に立ち入る際には、いつも最初に御霊に向かって非礼を詫びている。だから、あなたの主張は理解できる」

「なるほど。汝は墓荒らしとは違うようだ」

「硝子板は持って行けば良い。ただし、長きにわたる保管の対価を払ってほしい」

「ほう」とカイルは低い声を漏らした。

「歴史学研究に協力してほしい。転生者ともなれば、居場所を見付けることが難しくなる場合もあるだろう。表舞台に立たずに暮らせるような居場所を我々が用意しよう」

 カイルはフームと鼻を鳴らした。

「それが汝の落としどころか。良かろう。たまには汝の元を訪れて、話し相手になってやろう。居場所の件は感謝するが、返答は保留させてもらいたい」

 歴史学博士が頷くと、カイルは背嚢を下ろし、魔法を発動する気配を見せた。

 僕たちの足元にあった箱の蓋が閉じられた。次いで、二つの箱が宙に浮かんで停止し、それぞれに硬化魔法が掛けられた。そして、カイルは背嚢の口を開くと、その中に箱を入れた。それらは全て浮揚魔法による作業。しかもその間、カイルの周囲にはカイルの作った光球が二つ。僕はその異常な光景に戦慄した。カイルは一体いくつの魔法を同時に発動したのだろう。

「その盗賊は汝らに預ける」

 カイルはそう言い残して立ち去ろうとした。僕は慌てて「待った」と声を掛けた。

「今日、あなたは僕に一方的に質問を繰り返した。今度は僕が質問したい」

 カイルは足を止めて振り返ると、「良かろう」と言った。

「忘れる前に一つだけ伝えておく。あなたの肉体の四代前に当たる人があなたに会いたがっている。引退したあの人が」

「ほう。私の素性を明かしたのか」

「明かした。でも、あの人は事の重大性を理解している。『まずは私の所へ来るようにと伝えよ』と僕に言った。だから当然、秘密にしているはず」

 カイルはフフンと鼻を鳴らした。

「あなたは黙示録のありかを探っていた。なぜ、ここにあると分かったのか。僕はてっきり、あなたはエベルスクラントに向かったと思っていたのに」

「ケイ」とカイルは薄い笑みを浮かべた。「精気分光器を通して夜空を眺めたら何が見えると思う。今夜は月の光が特に弱い。宮殿の屋根から眺めた君の姿は実に輝いていたぞ」

 僕は驚いた。僕は嵌められた。僕は良いように使われた。

「あなたは屋根の上でずっと僕を待っていたのか」

「君が核心の場所に直行するであろうことは容易に予想がついた。それなのに、中々出立しないものだから、私は待ちくたびれた」

 僕は呆れた。カイルの方が何枚も上手。僕は小さく舌打ちした。

「君は英才だが、愛すべきお人好しでもある。だから昔、私は言ったのだ。君は何のために存在しているのだと」

「あなたは今日、間違っていたと言った。何が間違っていたのか」

 その問いに、カイルはしばらく考え込み、おもむろに口を開いた。

「存在の同一性や固有性の問題だ。魂の色でさえ識別子にはなり得ないのかも知れない」

「つまり、あの精気分光器の分解能では判別できないほどに、僕の魂に良く似た別の魂を知っているということか」

「あとは自分で考えろ」

 カイルが立ち去ろうとする気配を見せた。僕は急いで最後の問いをぶつけた。

「これが最後の質問。あなたは第一の候補をどうするつもりか」

 カイルは険しい目付きで僕を睨んできた。

「あなたにはもういるじゃないか。あの人を大切にしてほしい。どうか、お願いだから」

 カイルは僕をジッと見詰めると、ゆがんだ笑みを浮かべた。

「君は頭がおかしい」

 カイルはそう言い残して去っていった。

 

◇◇◇◇◇

 

 三度目の生における黙示録

 

 私には、これが三度目の生であるとの認識がある。つまり、私は二度転生し、そして二度とも覚醒している。その前にも生があったのか、それは分からない。しかし、私の魂にとってはそんなことはさしたる意味を持たない。

 転生するたびに、記憶の核心は保たれても、記憶の末梢は曖昧になっていく。二度目の生、つまり前世においてそれを痛感し、私は記録を残した。しかし三度目の生、つまり現世において覚醒した時、その記録はすでに失われていた。

 記録の秘匿場所として選んだのはフレクラントの西の果て、ルクファリエの外れに位置する洞窟の中だった。ところが現在、フレクラントは岩の壁によって分断され、その西には誰も住んでいない。ルクファリエは森林に飲み込まれ、洞窟は崩壊して跡形も無い。

 ルクファリエを名乗る集落は現在も存在する。その集落がかつてのルクファリエを継承しているのか、同じ名称を使用しているだけなのか、それは分からない。その程度のことが分からなくなるほどに、すでに時は過ぎている。そして、その集落の住人が私の記録を見付けて保持している気配は無い。

 

 私が一度目の生に在った時、私にはエステルという名の許嫁がいた。ところが、婚姻の儀式を間近に控えたある日、エステルは失踪した。

 数日が経った頃、エステルはルクファリエにいるとの報が届いた。エステルと共にいるのはリエトを名乗る男。リエトの噂は私も数年前から知っていた。

 数年前、ある男が自分は転生者であると主張し始め、リエトと名乗り始めた。自分には前世でとわの愛を誓い合ったレダなる許嫁がいる。リエトを名乗る男はフレクラントやエスタコリン中にそのように触れ回っているとのことだった。

 ルクファリエに着いてみると、エステルとリエトが婚姻の儀式を執り行なおうとしていた。私がエステルを連れて逃げ出すと、無数の火球が行く手を遮った。振り向くと、リエトが迫ってきていた。さらに、その後ろにはルクファリエの者たち。

 火球は殺害も辞さずとの意思表示。殺される前に殺すしかない。私はそのように覚悟を決めてリエトに立ち向かい、光裂術を用いてリエトの首を切り落とした。

 次の瞬間、私の全身は炎に包まれた。術を放つ集落の者たちの姿が見えた。リエトの亡骸に縋り付くエステルの姿が見えた。私はエステルの不貞を改めて認識し、余剰精気の全てを尽くして炎爆術を放った。

 

 私が二度目の生に在った時、私はやはりリエトの噂を耳にした。その数年後、私も覚醒して噂の意味を理解し、リエトの元に駆け付けた。その時には、リエトは廃人と化していた。その魂は妄執に濁り、不快に瞬いていた。いずれエステルも覚醒し、リエトの元に駆け付ける。私はそう確信し、リエトの動向を容易に知り得る場所で暮らし始めた。

 数年後、遂にエステルが現れた。私とエステルの約束はリエトとレダの約束に優先する。直ちに私との約束を履行すべし。私のその主張にエステルは答えた。私は現世ですでに結婚している。それは覚醒前のこと。その契約が優先すると。

 体中の穴という穴から血が噴き出さんばかりに悔しかった。しかし、炎爆術を放って全てを消し去る根拠が見当たらなかった。私の主張が正当であることをエステルに認めさせ、この生の全てを今の夫に捧げることをエステルに誓わせ、それをもって私はエステルとの現世での婚姻を諦めた。

 その後、私はエステルの動向を容易に知り得る場所で暮らし続けた。同時に、精気と思念法の研究に精力を傾けた。来世では、エステルの覚醒を待つのではなく、私がエステルを見付け出す。そのためには魂そのものを識別しなければならない。そして遂に、私は精気分光器を開発した。

 

 この三度目の生、私は覚醒と同時に精気分光器の作成を開始した。作成の完了と同時に探索の旅に出た。私は未だ覚醒していない子供のエステルを見付け、その動向を容易に知り得る場所で暮らし始めた。

 私とエステルとリエトが現世に同時に存在するのは必然である。リエト、私、エステルの順に転生する。リエト、私、エステルの順に覚醒する。それらは全て魂の結び付きによって説明できる。

 エステルは覚醒しないまま婚姻が可能な年齢に達した。私は直ちに婚姻を申し入れた。しかし、エステルは未だ婚姻を受け入れるほどには成長していなかった。婚姻はおろか婚約にすら至らず歳を重ねることとなった。

 ある日、エステルは失踪した。私はエステルの覚醒を確信し、リエトの元に向かった。リエトの魂は病み過ぎており、前世と同様、自身の存在を触れ回った後に廃人と化していた。

 なぜ、エステルはそこまでリエトにこだわるのか。なぜ、何の非も無い私が蔑ろにされなければならないのか。私の疑問にエステルは何も答えず、リエトの前からも私の前からも姿を消した。

 魂はそれに適した器にしか納まらない。だから必ず、私もエステルもリエトも、フレクラント人もしくはエスタコリン人に転生してきた。

 スルイソラ人の器はもはや小さすぎる。エスタコリンの隷属民の器も小さくなり続けている。おそらく、次の転生先はフレクラント人かエスタコリンの豪家の者となるだろう。

 魂はそれに適した器にしか納まらない。だから必ず、私は男に、エステルは女に、リエトは男に転生してきた。

 大きさや性別への適性がある以上、他にも何らかの条件があるに違いない。自身の魂に手を加えれば、確実にとは言えないまでも、望みに沿った転生が可能となるのではないだろうか。超越派が自身の魂に手を加えて超越を実現したように。

 今や、この三度目の生も終わりに近付いている。結局、生涯を懸けてもエステルを探し出すことは叶わなかった。私に出来たのは魂に関する考察を進めることだけだった。

 この世の在り方を考察し、エステルに約束の履行を強制しなければならない。そのことを私は痛感した。しかし、もはや残された時間は多くない。

 

 四度目の生における黙示録

 

 この四度目の生、私はエスタスラヴァを支配した。

 私の見るところ、この世には時代や場所を問わずに受容される普遍的な正義の概念が存在する。その概念を堅守するための社会制度であれば、長きにわたって維持され続け、変容や崩壊を免れる。その社会制度、ひいては正義の概念を守護する者たちを選定し、多大な義務を課す代償として特権を付与すれば、その者たちの血筋も永続する。

 私は手始めに、悪法を根拠に悪逆の限りを尽くすエスタスラヴァ北部の豪家の者どもを殲滅した。その威勢をもって、他地方の豪家の者どもをエスタスラヴァの中央、ブロージュスの集落に召し出した。豪家の者どもに法と秩序を示して強制し、正義の守護者となるべく倫理と道徳を叩き込んだ。その対価として、豪家の者どもには特権を与え、貴族を名乗らせた。正義を理解しない者。正義を実践しない者。それらはことごとく成敗した。その結果、正義は国の隅々にまで行き渡り、エスタスラヴァは繁栄への道を歩み始めた。

 私の魂と最も相性の良い血筋にはブロージュスを与え、長らく育てて引き立てた後、貴族の長たる王家を名乗らせた。エステルの魂と相性の良い三つの血筋にはそれぞれ東西南の中心を与え、長らく育てて引き立てた後に大公家を名乗らせた。

 特に、エステルと最も相性の良い血筋は西に置き、女たちが王家に供され続けるよう、西の大公家は女系とした。魂の器の大きさが維持されるよう、西の大公家はフレクラントから定期的に婿を迎えることとした。

 男の夢を具現したような魅惑の女たち。貴族たちはこぞって求め、その血は婚姻を通して秩序正しく貴族全体に浸透し、その器の大きさをも維持してくれることだろう。年ごとにフレクラントに生まれる子供の数は多くない。これでエステルがエスタスラヴァの貴族に転生する可能性も高まることだろう。

 この四度目の生の間、リエトを名乗る者は現れなかった。しかし、この私が存在する以上、リエトもどこかに存在しているのは間違いない。おそらく、リエトは自身の存在を触れ回る以前に、覚醒と同時に廃人と化してしまったのだろう。

 また、私の覚醒からかなりの時が経った頃、私が下級に分類した貴族家の当主の妻にエステルを見付けた。そして二度目の生と同様、私はエステルを諦めざるを得なかった。

 それでも今、私は誇りと希望に満ち溢れている。私はエスタスラヴァの繁栄の礎となった。その中で、エステルに約束を履行させる手筈も整えた。

 私は自身の魂にわずかに手を加えた。これで来世は王家に生まれることになるだろう。あとは、エステルがエスタスラヴァで生を受けるだけ。私は全ての貴族の女の中からエステルを探し出し、王家の権威をもって妻となるよう命じれば良い。

 来世こそ、私はエステルに子供を産ませて産ませて産ませ尽くす。そして、エステルは多くの子供に囲まれながら幸せの中で覚醒するのだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 カイル襲来。その後始末はジラン大統領が直々に内密に行なった。

 生命学博士には強力な硬化魔法が掛けられていた。無理に解こうとしたらその途中、例えば内臓だけが硬化したままとなりかねない。そのため、魔法が自然に消えるのを待つことになった。おそらく、その時期は約百年後となるだろう。それが診断の結果だった。ジランさんが生命学博士の家族や親族にどのような説明を行なったのかは秘匿され、僕などでは知りようが無かった。

 よほどの特殊な例でもない限り、法や規則は制定以前に遡って適用されない。そんな初歩的かつ根源的な原則を生命学博士は頑なに否定した。カイルはそれを窃盗犯の強弁と見なし、生命学博士に硬化魔法を掛けた。つまり、傷一つ付けることなく拘束した。その行為には一定の正当性があるとジランさんも認定せざるを得なかった。

 ジランさんは僕の手紙を黙殺したことをしきりに悔やんでいた。フレクラント国高等学院生命学専攻の体質。過大な自負心がそんな傲慢な行為につながった。強権を発動してでも介入しておくべきだった。ジランさんは僕に向かってそんな懺悔めいたことを口にした。

 僕は生命学博士の現状に何の哀れみも覚えなかった。強弁や詰まらない嘘はあの人の習い性。今回はカイルに対して嘘をつき、カイルの怒りを買ってしまった。殺された訳ではない。一時的に時を止められただけ。ただし、その状態では失職はやむを得ない。地位を笠に着た果ての自業自得。僕にはそうとしか思えなかった。

 あの事件の丸一日後、殿下もしくはカイルは王宮に戻ったらしい。秘書官クリスタ・フルドフォークを正室とし、それをもって妃の選定を終了する。そのように宣言し、殿下もしくはカイルは姿を消したとのことだった。

 現在、エルランド殿下がカイルであると知っているのは、僕と歴史学博士、ジランさんとアルさんの四人のみ。僕は伝令役として飛び回り、意見の調整を図った。その結果、殿下が殿下として振る舞い続けるのであれば、黙認してそれに同調すると決まった。

 現在、第二の黙示録の内容を知っているのは、僕と歴史学博士の二人のみ。おそらく生命学博士も知っているのだろうが、現状では確かめるすべが無かった。事件の後始末の際、生命学専攻の中に第二の黙示録に関することを口にした者はいなかった。第二の黙示録が高等学院の地下に秘匿されたのは約四千年前。かなり古い時代のことでもあり、僕たち以外にその存在や内容を知る者がいる可能性は低いと思われた。

 第二の黙示録の内容は衝撃的かつ異様だった。特に白狼の騎士の件。

 どのような基準をもって法を悪法と見なすのか、その問題は極めて難しい。しかし長年にわたる歴史研究によれば、白狼の騎士がエスタスラヴァに持ち込んだ知恵や倫理はフレクラントに由来するもの。当時もエスタスラヴァとフレクラントは隔絶していた訳ではなく、当然エスタスラヴァでも以前からある程度は知られていた。それを豪家の者たちが私利私欲のために抑圧していたのは紛れもない事実。その抑圧を取り除き、国全体を繁栄に導いたのが白狼の騎士。

 白狼の騎士にも私心があったのだとしても、実際上その私心が害となった例は見当たらず、やはり総体としては稀代の英雄、正義の騎士。それが歴史学博士の見解であり、僕もそれに賛同した。

 第二の黙示録には四回目の生までしか記されていなかった。もし約二千五百年おきに転生と覚醒を繰り返しているのなら、五回目もあり、現在は六回目ということになる。つまり、第三の黙示録も存在しているのかも知れない。しかし到底、探そうという気にはなれなかった。

 ただし、五回目の内容は容易に想像がついた。それは六回目が続いていることからも明らか。上手く行かなかったのだ。例えば、カイルは王家に転生できなかったのかも知れない。例えば、エステルは貴族家に転生しなかったのかも知れない。例えば、婚姻が許されないほどに血の重複度が高かったのかも知れない。

 僕はカイルの妄執を理解した。カイルとエステルと大勢の子供たち。大きな家族と共に過ごす平穏な日々。神話時代の有り触れた願い。それが妄執の核なのだ。しかしかつて、エベルスクラントの大老はカイルに言った。何と哀れな孤独な魂。良きえにし。後々の世にて巡り合わんことを。カイルの目は節穴なのだろうか。まさに今、クリスタさんと子供たちが待っているではないか。

 二つの黙示録を比較してみれば、度重なる転生の影響はあまりにも明白。まだら模様に記憶が欠落し、それを想像で補った結果なのだろう、内容が変わってしまっている。

 例えば、第二の黙示録によれば、第一の黙示録の秘匿場所は旧ルクファリエ。しかし、実際の発見場所はその隣村だった。第一の黙示録によれば、リエトの首を切り落としたのは鉈。一方、第二の黙示録によれば、光裂という現代では未知の魔法となっている。

 また、時代が下るにつれて、エステルへの妄執が濃くなっている。黙示録によれば、リエトに至っては魂の劣化障害が進行し、もはや悪霊の域に達している。理性を保っている内に悟らなければ、カイルもいずれ悪霊に堕ちてしまうに違いない。

 それにしても、エステルの存在感と責任感の薄さには驚くばかり。肉体に連続性が無くとも、魂の連続性から同一人物と見なされる以上、現世にある限り、カイルとの契約からは逃れられない。とわの愛を誓ったがゆえに、とわの罪に問われることになってしまったエステル。カイルの妄執に応える気が無いのなら、せめてそれに代わる何らかの償いをすれば良いものを。


ーーーーーーーー


次章予告。ケイは子供たちに祈られる存在となり、流星の魔法使いと呼ばれるようになる。連合国に壊滅の危機が迫っていることを、まだ誰も知らない。

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