第四章 流星の魔法使い

 神話伝説大系・逸話集・三五 歌姫の鎮魂歌

 

 原文

 天を仰ぎ、星に願いを。魂の戻り来たらんことを。地に伏して、守の唄を。魂の鎮まらんことを。

 

 注釈

 死別の悲哀と鎮魂を描写したものとされる。題名中の「歌姫」は吟遊詩人の一つ。

 

◇◇◇◇◇

 

 冬休みに入る直前、珍しいことに母から手紙が届いた。今度の年末には必ず実家に戻るように。そんな指示が極めて強い表現でしたためられていた。考えてみれば、実家に帰らなくなってすでに五年半。仕方が無く、今回はきちんと帰省することにした。

 年末年始、フレクラント国では通常、子は親に、親はその親に、その親はさらにその親にと順番に挨拶に出向く。僕も両親や姉と共に、父方祖父母と母方祖父母の家に出向いて挨拶。ただし、それは僕にとっては八年振りのことだった。

 僕が屈辱刑を受けたのは八年前。あの年の挨拶は気まずすぎた。フレクラントは小さな国。あの事件は国中の噂となり、当然親族の耳にも届いていた。そしていざ顔を合わせてみると、互いに話題に気を遣うばかり。僕はいたたまれなくなり、両親に事情を説明した上でそれ以降、挨拶には出向かなくなっていた。

 年末年始の帰省が終わり、昨日夕方ナギエスキーヌの家に戻ってみると、一通の手紙が届いていた。差出人はノヴィエミスト師範学校付属初等中等学院。

 スルイソラ連合国の首都から。しかも師範学校から。そんな手紙を訝しく思いながら、僕は読み始めて驚いた。流星の魔法使い。手紙の中で僕はそう呼ばれていた。

 ノヴィエミスト師範学校の初等中等学院には寄宿舎がある。寄宿舎の窓から夜空を見上げていると時折、大空を光球が通り過ぎる。寄宿舎の子供たちがしきりに不思議がるので調べてみると、フレクラントの行商人によれば「あれはケイ・サジスフォレ」とのこと。ぜひとも一度、子供たちに会ってやってもらえないだろうか。手紙にはそのようにしたためられていた。

 確かに、専業の行商人は急用でもない限り夜空を飛ばない。一方、僕の行商は学業の合間を縫ってのもの。警告用の光球と共にスルイソラの夜空を飛んでいるのは大抵、僕。そして僕はいつもノヴィエミストを素通りする。まさか、そんな姿を地上から眺めている人たちがいたなんて。

 その時、時刻を告げるナギエスキーヌ村の半鐘の音が聞こえてきた。僕は物思いを打ち切り、支度を整えて家を出た。

 短い冬休みも今日を残すばかりとなっていた。高等学院の寄宿舎では、冬休み中の食事の提供は事前に予約のあった学生のみとなっているらしい。今夜の夕飯は街で一緒に食べようとアンに誘われていた。

 待ち合わせ場所は繁華街の一角。しばらく待っていると僕と同様、軽装のアンが現れた。

「待った?」とアンは言った。

「いや。特に」

「暖かいよね。どう考えても、暖かいよね」

 突然の楽しげな指摘に、僕は鼻で笑いながら頷いた。

「フレクラントに比べれば、これぐらい。アンも随分鍛えられたんだ」

「それなりに」とアンは笑みを浮かべた。「予約の時刻にはまだ少しあるから、街を歩いてみない?」

 僕はすぐに了承した。

 街の人々も明日辺りから本格的に仕事が始まるのだろう。街中には、休暇の華やいだ雰囲気と仕事始めの慌ただしい空気が混在していた。立ち並ぶ店々を覗きながら繁華街の道を進んでいくと、ふとアンが足を止めた。見ると、そこは宝飾品店。ちょっとした小物類から高価そうな装飾品までが揃っていた。

 女性店員に付き添われてアンが店内を回り始めた。僕も独り商品を確かめていると、店主らしき男性が近寄ってきた。

「何かお探しですか、学生さん」と店主は囁いてきた。

 なぜ囁くのか。そう思って店主に目を遣ると、店主は訳知り顔で頷いた。

「あちらのお嬢様は学生さんのお連れ様でしょう? 髪飾りはこちらですよ」

 いや。そういうつもりでは。思わずそんな風に否定しかけて口をつぐみ、僕は店主に付いて店内奥の一角に向かった。そこには重厚な陳列棚。棚には鍵付きの硝子の引き戸。多分、この硝子は高強度。僕はそう推測した。

「こちらなどはどうです」

 店主が示したのは、棚の中段で華やかに煌めく髪飾り。しかし、僕の目には上品さが足りないように映った。僕が別の商品を指さすと、店主はオオと声を上げた。

「さすが、お目が高い。こちらは最高級品です」

「い、いや」と僕は慌てた。「ちょっと見せてもらおうと思っただけで……」

「いいんです。いいんですよ」

 店主はそう言いながら最高級品を取り出した。

「あなた様のお名前は?」

「ケイ」

「それなら今のところ、『愛と真心を。ケイより』と彫り込んでおけば良いのです」

 僕は首を傾げた。言葉の真意が分からなかった。

「学生さん。あんなに綺麗なお嬢様を逃してはいけません。まずは挑戦。とにかく挑戦。挑戦しなければ事は始まりません」

「あのう……。『今のところ、良いのです』とはどういう意味ですか」

 その瞬間、店主がニヤッとした。

「使い回しが効くんです。相手の名前を入れなければ」

 僕はエッと声を上げ、次いで吹き出してしまった。

「いつもそうやって学生に売りつけているんですか?」

「いえ。いえ」と店主は悠然と首を振った。「学生さんの方から、そうしてほしいと言ってくるのです」

「ふざけた連中」と僕は笑った。

「いえ。いえ。当たって砕けろの精神でしょう。何と逞しい」

「店主さんも相当、商魂逞しいですね。僕も見習わないと」

 その瞬間、店主は「ん?」と鼻を鳴らして首を傾げ、僕の顔を見詰めてきた。

「商魂……、ケイ……。もしかして高等学院の行商人? 蝗退治の」

 僕は「はい」と頷いて、店主の手の中にある髪飾りを魔法でちょっと浮かせてみせた。その瞬間、店主はオオと驚きの声を漏らした。僕が笑いをこらえると、店主は「分かった」と新たに華美な髪飾りと簡素な髪飾りの二つを取り出した。

「どちらもこの店の最高の品。あんたになら信用で売る。代金は後払いで構わない。うちに儲けが出ない所まで値引くから、ぜひ」

 僕はエッと呆気にとられた。

「さっきも言った通り、これは将来、絶対に役に立つ。だからぜひ」

 店主の押しの強さに、僕は頭を掻きむしった。

「あんたの名前を使わせてほしい。かの有名な蝗退治の魔法使いもこの店で買ったと」

 商品を手に取って確かめてみると、間違いなく良い品、紛れもなく最高級品。僕は値札に目を遣った。二つ合わせて高いと言えば高いが、痛手になるような出費ではなかった。

「分かりました。その二つを買います。代金の支払いは商品の受け渡しの際に」

「それでよろしゅうございます。これにてめでたく商談成立」と店主は力強く頷いた。

 程なくして店を出ると、アンは手ぶら。早速、アンが尋ねてきた。

「店主さんと何の話をしていたの?」

「閃いたんだ。宝飾品は行商の目玉商品になると」

 アンはフーンと鼻を鳴らした。

「ケイはずっと行商を続けるの?」

「一応そのつもり。アンはあの半年間の後、行商は全くしなかったの?」

「全然していない」

「もうしないの?」

「ケイと一緒なら、またやってみてもいいかな……。でも、もうフレクラントの通商組合には登録できないから……」

 その時だった。夕方の雑踏の中、向こうの方から三年生のお姉様方三人組がやって来た。そのかたわらには夏祭りで一緒に働いた三年生の男子三人組。あちらも目ざとく僕たちを見付け、すぐに近付いてきた。

 挨拶を交わしながらふと見ると、お姉様方の頭の後ろ側には艶やかな髪飾り。僕がにやけながら大袈裟にヘエと声を上げると、お姉様方は三人揃って顔を赤く染めた。

「ケイ君。一緒に夕飯を食べない?」

「僕たち、料理店に予約を入れているんです」

「どの店?」

 フレクラントの行商人御用達の旅館に併設されている料理店。そう答えると、上級生六人も「付いて行く」と言い出した。アンに目を遣ると、アンは仕方なさそうに肩をすくめて頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 年末年始の休みが終わってすでに二週目。春学期や秋学期とは異なり、冬学期は短い。そのため、前期課程の全学生は短期集中型の共通講義を受け続けていた。

 白狼の騎士の逸話には次のような節がある。学堂を建て……、田畑は肥え、街は整い、はやり病は消え……。それに倣ったらしく、専攻に関係なく一年生には基礎衛生学と基礎利水学の二科目が割り当てられていた。

 現在、大講義室では基礎利水学の講義が進行中。これまで言葉を交わしたことのない学生や見たこともない学生で室内は埋め尽くされていた。はるか前方の席にはアンの後ろ姿。アンは男子学生たちにそこはかとなく取り囲まれていた。

 講義室の後方から教壇の方を眺めると、否が応にも目に入る。それは吉祥の髪飾り。スルイソラ連合国の女は婚約や結婚をすると、吉祥の髪飾りと呼ばれる髪留めを頭の後ろ側に着ける。婚約中は華美な物。既婚者は簡素だがより目立つ物。ナギエスカーラ高等学院に進学して一年弱。今や、一年生女子の半数程度が華美な方を着けるようになっていた。

 一方、フレクラント国では髪型が変わる。未婚の女の髪は長く、既婚の女の髪は短く。アンもその慣習に従っているのか、フレクラント風の長い銀髪。ただし髪飾りは無し。

 当たって砕けろを実践できない男たちよ。アンを取り巻き、ひたすら幸運を待ち続ける男たちよ。それは徒労に終わるだろう。アンは女系の上級貴族のお嬢様。結婚を決めるのは家長たる母親なのだから。

「君たち。この講義は必修なのだけれども、分かっているのかな?」

 教壇からそんな声が飛んできた。確かに、学生の約半数は気を抜いている様子。先ほどから、微かな私語が室内のあちらこちらで続いていた。

 この講義は全学生向けの必修科目。そのため、厳しく成績評価を行なうと前期課程を修了できない学生が続出する。だから試験は簡単。いくつかの項目を丸暗記しておけば合格は確実。事前にそんな噂が流れていた。

 しかし、いくつかの項目とは何なのか。僕にはそれが分からず、三年生のお姉様方三人組に尋ねてみると、お姉様方は笑いをこらえながら教えてくれた。講義中の先生からの質問に注意。それがそのまま試験問題になると。

「さて。それでは君たちに答えてもらおうかな」

 来た、と僕は筆記具を握りしめた。

「雨が降ると地面に水溜まりが出来る。その水は飲めるのか、飲めないのか。飲めないとしたら、その理由は何か」

 先生は名簿を片手に学生を選んでいった。当てられているのは、どうやら私語をしていた学生ばかりの模様。それはそうなるだろう。そんな風に高を括っていると突然、僕の名前が呼ばれた。僕は首を傾げて呻きながら立ち上がった。

「講義中の私語もいけないけれど、物思いに耽るのもいけないんじゃないかな」

 僕もか、と僕は唖然とした。講義に集中していないとの指摘に、僕は「済みません」と頭を下げて腰を下ろした。すかさず、「まだ。質問への答は」と先生が尋ねてきた。

「飲めません。細菌や微細菌、鉱物などの微細な夾雑物が混ざっているからです」

 先生はホウと感心したような声を漏らした。

「それなら、なぜ野生の動物は人間が飲まないような水を飲んで生きているのだろう」

 僕は言葉に詰まった。

「まあ、いいや。座って」

 先生は室内を見回した。

「実は、この質問には『飲めない』と答えてもらって、その理由を私が説明するつもりだったんだよね」

 先生はそのように前置きをすると解説を始めた。

 その後、僕は頭の中を空っぽにして講義に集中し、筆記具を走らせ続けた。思い付きを口にするばかりでは、春学期に不合格になってしまった文学芸能史の二の舞。それはまずいと僕は焦りを感じた。

 午前の講義が終わり、昼食も済ませた午後。僕は学院の工房に籠っていた。

 ここのところ、僕は吸収石の作成を繰り返していた。秋学期の大半を設計と材料選びの勉強に費やし、三週間近くを掛けて作り上げた一個目は自然精気をほとんど吸わずに失敗。作業に慣れて二週間で作り上げた二個目は吸うには吸ったが、フレクラント製品はおろかスルイソラ製品にも及ばず失敗。そして冬学期。一昨日に完成した三個目は何とか物になり、測定用吸収石としての較正の手順を教えてもらう所まで僕はようやく漕ぎ着けた。

 そんな僕に対して環境生命学のエリク先生が掛けてきた言葉は、初心者はそんなもの。そんな慰めの言葉に、僕は発奮して決意した。次の長期休暇にはフレクラント国に戻り、そちらの職人さんの技を習得して先生を驚かせてやろうと。

 そんな実習を繰り返す中で、僕は理解し始めた。正しい生命力方程式を理解していれば、精気分光器の設計は可能。分光の原理自体は難解というほどではない。ただし、作成は技術的に極めて難しい。どうしても、魔法を併用した精密加工技術が必要になる。

 そこまでの確信を持てるようになったのは、ひとえにあの時、エルランド殿下もしくはカイルが精気分光器の実物を見せてくれたおかげだった。分光器全体の大きさや形、分光を行なう素子の大きさ。それらの外形に関する情報が貴重な手掛かりとなった。そして同時に痛感した。あんな物を一から作り出したカイルはやはり天才だと。

 学院の工房でそんなことを考えながら、参考用として綺麗に二つに割られたフレクラント製吸収石の内部構造を確かめていると、見知らぬ男性が声を掛けてきた。男性は歴史学考古学専攻の助手と名乗り、専攻の方まで来てほしいと言った。

 社会学系の建屋、小講義室には歴史学考古学専攻の教員から学生までが勢揃いしていた。その中には冴えない表情を浮かべたアンの姿。助手の指示通りに僕が教壇に立つと、一番年配の博士が口を開いた。

「昨日、フレクラント国高等学院から紀要が届いたのだが、君は読んだか」

「いいえ。まだです」

 そう答えながらも、用件は何となく想像がついた。北の大森林に眠るカプタフラーラの件で訊きたいことがある。そんな話が始まるのだろう。

 博士に促されるままに、教卓に置かれていた紀要を手に取って確かめてみると、カプタフラーラに関する論文が冊子の冒頭に掲載されていた。

 論文冒頭の調査隊員一覧には、フレクラント国高等学院の人たち、エスタコリン王国高等学院の人たち、アルさんとエスタコリン王国中央衛士隊の人たちの名前が並んでいた。また論文末尾の謝辞には、僕やルクファリエ村共同浴場の場長さんなどの名前、そしてアンの本名が記されていた。

「謝辞にあるケイ・サジスフォレとは君のことだろう?」

「はい」と僕は肯定した。

「君もカプタフラーラに行ったのか」

「行きました」

 その後、延々と質疑応答が続いた。カプタフラーラの位置と周辺の地形。地下街の様子。その大きさは北のエベルスクラントの七倍強。地下街の中心には石碑があり、カプタフラーラの永遠性を謳う詩歌や北の大森林の簡易な地図が刻まれていた。南都カプタフラーラ、西都ブシェロエスト、そして北都。驚いたことに、北都の名はフレクラント国の首府メトローナの旧名と同じソロメトローナだった。さらには、それ以外にも小さな村々が点在していたらしく、エベルスクラントはそんな村々の一つだった。

 室内の一人が夕暮れに気付き、それを契機に質疑応答は終了した。最後に一番年配の博士がおもむろに口を開いた。

「過去に気温の高い時期があり、その後に気温が下がった。それは調査によってすでに判明している事実だ。大廃墟もナギエスカーラも東海の沿岸から幾分内陸に入った所に位置している。君はその理由を知っているか」

「いいえ。知りません」と僕は首を振った。

「気温が高い頃、大廃墟は東海に面していたのだ。その後、気温が下がって海が後退した。だから、今は内陸にある。連合国の七方域には南東が無い。それも海の後退に伴って南方域が徐々に東側へ拡大していった結果だ」

「大廃墟の周辺で港の遺跡でも見付かっているんですか?」

「海産物の残滓だ。貝殻をまとめて捨てた跡など。つまり、大廃墟の場所にあった街は気温が高い時代から存在していた。気温が下がったから人々が南下したという説は誤りだ」

 僕は頭に手を当てて首を傾げた。そんなことを僕に向かって断言されても。

「博士」と僕は反論した。「この論文の主張は、同時代にスルイスラが存在していたという説と矛盾しません。カプタフラーラやエベルスクラントの存在から考えて、北の人々が南下したのも事実なのではありませんか?」

 その瞬間、「んん?」と訝しげに鼻を鳴らす音が複数聞こえた。

「君。スルイスラとは何だ」と博士は顔をしかめた。

「大廃墟にあった街の名前です」

「そうではない」と博士は舌打ちした。「スルイスラはスルイソラが訛ったもの。南西方域の方言だ。どこでそんな話を聞いたのかは知らないが、素人が適当なことを言うものではない。地名は歴史の一部だ。正確に扱いたまえ」

 僕は溜め息をついた。それならば、素人の僕から話を聞こうなどと思わなければ良い。

「今日はこれで終わりにしよう」

 博士はそう宣言した。突然人を呼び付けておきながら、謝辞の一つも無かった。

 

◇◇◇◇◇

 

 冬学期も中盤に差し掛かった休日の昼過ぎ、僕は北限の街ロスクヴァーナを発ち、首都ノヴィエミストに向かって大空を飛んでいた。

 今日は四週に一度の行商の日。いつもなら北限の街ロスクヴァーナと南都ナギエスカーラを往復するだけの所だった。しかし、今回はかなりの大回り。僕のことを流星の魔法使いと呼んでくれる子供たちを喜ばしてやろうと僕は考えていた。

 昨夜はフレクラント国の首府メトローナの宿屋に宿泊。今朝一番に近隣の農耕組合で果物を購入。その半分をロスクヴァーナで売却。穴埋めにロスクヴァーナ産の果物を購入。これで準備は整った。商品の一部は子供たちへの土産物。残りは明日の夕方、ナギエスカーラ警察隊本部で隊員の皆さんに販売。今回も皆に喜んでもらえる行商が出来そうだった。

 程なく、遠くの眼下に首都ノヴィエミストの街が見えてきた。ノヴィエミスト師範学校と付属の初等中等学院は街の西外れにあるとのこと。上空からは運動場が目印になるだろうと僕は教えられていた。

 環境生命学のエリク先生によれば、連合国人の中で明瞭な魔法能力を有する者の割合は約二厘、つまり五百人に一人。その魔法力はフレクラント人には遠く及ばず、エスタコリン王国の貴族よりも弱い。とは言え、実用性は十分にあり、多くは魔法医術士か教員の職に就いている。

 スルイソラ連合国の七方域には師範学校が一校ずつある。子供への魔法訓練を行なっているのは主に師範学校付属の初等中等学院。方域によっては、その他の主要な初等学院と中等学院にもそのための教員を配置している。しかし、魔法訓練の制度や組織が整備されていない方域も多く、南西方域などはその典型。逆に、最も整備されているのはノヴィエミスト師範学校付属の初等中等学院。そこにはエスタコリン王国から派遣された教員もいるとのことだった。

 また、その教員と事前に手紙のやり取りをしたところでは、現在寄宿舎で生活している生徒は全学年を合わせて合計十名。全員が魔法能力を有する者。今日はその十名、寄宿舎の管理人を務める夫婦二人、魔法実技担当のエスタコリン人の男の先生、合計十三名が僕を待っているはずだった。

 上空から見下ろすと、運動場が二つ見えた。おそらく、一つは師範学校本校のもの。もう一方が付属学院のもの。幾分狭い方を確かめてみると、隅に十数人。僕はその前に降り立った。

 真冬のさなか、生徒たちは運動着姿で僕を待っていた。僕が「こんにちは」と威勢よく声を掛けると、生徒たちも声を揃えて挨拶を返してきた。教育が行き届いている様子だった。僕は商品輸送用の特大背嚢を下ろして防寒具を脱ぎ、土産の果物を管理人夫妻に渡して生徒たちに呼び掛けた。

「今日はまず魔法を見てほしいということなので、早速いつもの練習を見せてください」

 生徒たちが横一列に並び、先生の号令に合わせて練習が始まった。

「はい、吸ってーえ。はい、吸ってーえ」

 号令はどの国でも共通のようだった。

「はい、集中ーう。はい、集中ーう」

 いきなり光球魔法の練習が始まった。「はい、吐いて」は無かった。

 生徒たちの光球はあまりにも弱々しく、しかも宙の一点に静止しきれていなかった。多分、フレクラント国では素質無しと判定されてしまう水準。僕は練習に割って入った。

「おそらく、君たちは自然精気を十分に吸えていません。今から僕が君たち一人一人の体に精気を押し込みます」

 生徒たちが不安げに顔を見合わせた。

「大丈夫だから」と僕は笑った。「はい。最初は誰かな」

 最年長と思われる男子生徒が僕の前に立った。背丈は僕と同じぐらい。おそらく中等学院の高学年。僕は運動着の下に手を突っ込み、手のひらを背中に直に押し当てた。多すぎず少なすぎず。速すぎず遅すぎず。僕がズズンと精気を押し込むと、生徒はアッと驚きの声を漏らした。

「分かった? これが精気を体内に取り込む感覚」

 全ての生徒に感覚を教えると、先生までもが僕の前に立って背中を出した。先生は精気を押し込まれた瞬間、「おっ。おお」と驚きと歓喜の笑い声を上げた。

「ただし、いいですか」と僕は声を上げた。「今、僕がやってみせたことは絶対に真似してはいけません。間違って他人の体の中で魔法を発動させてしまうと、大変なことになります。余剰精気の受け渡しと魔法の発動は全く別なんです」

 生徒全員が真剣な表情で頷いた。

「それでは」と僕は声を上げた。「今の感覚を自力で再現してみよう。はい、吸ってーえ」

 次は光球魔法の模範実技。僕は光球を作り、宙の一点でぴたりと制止させた。

「いいですか。まずは魔法の出力を安定させる」

 生徒たちのものとは比べ物にならない輝きに、生徒たちがどよめいた。

「先生……」と最年少らしき女子生徒がためらいがちに呼び掛けてきた。

「僕のことは『ケイ君』とか『ケイちゃん』でいいから」

「ケイちゃん。いつも、それで空を飛んでいるの?」

「そう。これが流星の正体」

「ケイちゃん凄い。先生より凄い」

 幼い子供の無邪気な言葉が飛んできた。僕はすぐにたしなめた。

「違うよ。先生の光球だってピタッと止まるだろう? 力比べをしたら僕の方が力持ちかも知れないけど、技比べをしたら先生だって凄いんだよ。だから、皆も技を磨くこと」

 わずかに間が空き、上級生たちから「はい」と返事が戻ってきた。見ると、先生は静かに苦笑していた。

「あのう」と最年長男子が口を開いた。「魔法の出力を一定にしたまま光球を小さくしていくと、光が強くなっていきますよね。どこまでも小さくしたら何が起きるんですか?」

「君はやったことある?」

「とてもそこまでの制御は出来ません」と男子は首を振った。

「それなら、やってみせようか。ちょっと危険だけど、死ぬようなことはないから」

「待った」と先生が口を挟んできた。「危険って、フレクラントの学院ではいつもそんな荒っぽい訓練をしているの?」

「はい。先生たちなんか、いつも平然と『はい、治すーう』って」

 先生は鼻で笑いながら舌打ちし、首を小さく振った。

「皆、自己治癒魔法の訓練もしているのでしょう? 問題は目だけです。かなり眩しくなるので、目に気を付けてください。治しきれなかったら、僕が治します」

 先生から消極的な許可が下りた。

「眩しくなってきたら、目を伏せて」と僕は注意した。

 宙に光球が出現。徐々に大きさを絞っていく。魔法の出力は一定。しかし、出現範囲が絞られていくために、輝度が増していく。僕は目を細めた。

「そろそろ目を伏せて」と僕は警告した。

 光球の辺りから微かにキーンと金属的な高音が聞こえてきた。光が強くなり、高音が大きくなってきた。そして、僕の目にも光球が点になったと映った瞬間、甲高い金属的な破裂音が響き、光が弾け飛んだ。

 そう。これなのだ。僕がいつも不思議に思うのは。光球でも火球でも、凝集させていくと必ず奇妙な音が聞こえ始め、最後には制御を外れて弾け飛ぶ。これは光爆や炎爆とは似て非なるもの。光爆や炎爆の初期状態は無音の点。それがそのまま大きく弾けるだけ。

 厳密に言えば、魔法力は余剰精気を転換したものであり、魔法力は精気ではない。それでも似たようなことが起きるのではないだろうか。つまり、精気を過度に凝集させると、従来の生命力方程式では説明できない現象が発生するのではないだろうか。

 そんなことを考えていてふと気付くと、数人の生徒の周りに先生や他の生徒たちが集まっていた。僕も急いで近寄り、念のため全員の目に治癒魔法を施した。

 治療が終わると、最年少女子が「ケイちゃん」と声を掛けてきた。

「雲の上って、どんな所?」

「雲の上は青空。ただし、陽の光が雲に反射して、照り返しがとても眩しい」

「雲の中は?」

「雲は湯気みたいなものだから、下手に中を飛ぶと濡れる」

「わたしも空を飛べるようになるかな」

 上級生たちの表情が曇った。先生も気落ちしたような表情を浮かべた。

「それなら」と僕は敢えて笑顔を作った。「空を飛ぶよりももっと凄いことを教えてあげる。普通は全然練習しないと思うんだけど、今から自然強化魔術をやってみせる」

 僕は運動場の反対側へ駆け出した。飛べ。浮かべ。そう念じながら歩を進める。端に到達して折り返し、皆の所へ走る。飛べ。浮かべ。歩幅は遂に身長の五倍近くにまで伸びた。

 生徒たちも先生も唖然としていた。僕は息を整えて説明した。

「今のは滑走魔術。『飛べ。浮かべ』と念じながら走るんだ。飛翔は魔法力だけ。滑走は魔法力と体力の両方。だから見ての通り、特にこういう場所でなら、わずかな魔法力を使うだけで空を飛ぶのと同じぐらいに速く走れる。そして何よりも、墜落の危険が全く無い」

 全生徒が頷いた。

「ただし、転んだり、足を挫いたり、何かにぶつかったりしないよう気を付けること。何度も練習すれば、普通に走るのと同じように滑走できるようになる。そして、成長して魔法力が強くなれば、わずかな距離かも知れないけど、宙を飛べるようになる」

 先生が繰り返し小さく頷いた。

 その時、寄宿舎管理人の奥さんが運動場に現れた。皆でお土産の果物を頂きましょう。その声に、特に下級生たちが歓声を上げた。多分、練習開始からまだ一時間も経っていない頃合い。しかし、先生は練習の終了を宣言した。

 寄宿舎の食堂には大きな鍋。そこには果物の盛り合わせが用意されていた。僕が持参したのはメトローナ産とロスクヴァーナ産、二種類の柑橘。メトローナ産は実が小さい代わりに糖度が高い。ロスクヴァーナ産は実が大きく、水分が多く、酸味が強い。

 僕の指示通り、二種類とも全ての果実が外皮を剥かれ内皮も除かれ、果肉と果汁だけが取り出されていた。鍋の中にはそれらを混合したもの。鮮烈な甘味と酸味を同時に楽しめる逸品となっているはずだった。さらには、外皮は砂糖と共に煮詰めれば保存がきく。管理人の旦那さんはその作業に取り掛かっているとのことだった。

 全員が食卓に着いた。一人一人の前には皿に装われた果実。管理人の奥さんの合図と共に生徒たちが食べ始めた。「美味い」という上級生たちの声。「ちょっと酸っぱい」という下級生たちの声。食堂に笑い声が広がった。

 しばらく雑談を続けた後、僕はお暇することにした。寄宿舎の玄関先で生徒たちに見送られながら、南都ナギエスカーラへの飛翔を始めようとした時だった。先生が僕を呼び止めた。僕は促されるまま、先生と二人で付属学院の正門に向かって歩き始めた。

「ケイ・サジスフォレ殿」と先生は言った。

「やはり、先生は貴族の方でしたか。ここはスルイソラですから、『殿』はやめてください。口調も先ほどまでと同様にぞんざいで構いません」

 先生は頷いた。

「先生は単身で赴任してこられたんですか」

「いや。妻と二人で。妻は中央政庁の出張所で働いている。子供たちはエスタコリンに」

 それならと思い立ち、僕は背嚢を下ろして二種類の柑橘を一個ずつ取り出した。それぞれの硬化魔法を解除して「奥さんに」と差し出すと、先生は首を振った。

「いや。それでは売り物が減ってしまう」

「見ての通り、大々的に浮揚魔法を掛けなければ運べないぐらいに商品はありますから」

 僕が軽く笑いながら特大背嚢に手を置くと、「それなら」と先生は柑橘を手に取った。

「サジスフォレ君。今日はありがとう。子供たちもあんなに喜んで……。あの子たちは本当に可哀想な子供たちでな……」

「どういうことですか」

 僕がそう尋ねると、先生は事情を説明し始めた。

 魔法能力の高さに基づいて序列を付けると、高い順にフレクラント人、エスタコリン貴族、少数のエスタコリン一般民、少数のスルイソラ人、大多数のエスタコリン一般民、大多数のスルイソラ人となる。

 大多数のスルイソラ人が使っているのは自然強化魔術とも呼べない程度の微弱な自己治癒魔法のみ。それも無意識に発動させているに過ぎない。そのため一般的には、スルイソラ人には魔法能力が無いとされている。

 そんな中、弱いけれどもはっきりとした魔法を使える子供が稀に現れる。例えば深夜、家具が勝手に動く。小物が宙を飛ぶ。どこからともなくパンと破裂音が聞こえてくる。魔法を理解している者であれば、魔法力のおねしょ、眠りながら微弱な浮揚魔法や空爆魔法を発動させているだけとすぐに気付く。

 ところがスルイソラ連合国では、田舎に行けば行くほど魔法への理解が浅くなっていく。当然、訓練無しに魔法を発動させてしまう子供の扱い方など全く知られていない。そして、魔法能力が発現し始めた子供たちを「悪霊が憑いた」などと恐れ慄き忌み嫌う。

 各方域に一校ずつ設置されている師範学校は教員養成機関。それぞれ独自に初等学院と中等学院を持っている。師範学校は常に魔法の素質のある子供を探し求め、必要とあれば学校付属の寄宿舎に収容して保護し、学校付属の初等学院や中等学院で教育と訓練を受けさせている。

「あの生徒たちはまさに全員、親にも誰にも理解されずに、ひどい虐待を受けていた。だから全員、心のどこかが鬱屈している、魔法への躊躇がある。だから一度で良いから、君のような有名な魔法使いに会わせてあげたかった」

 その瞬間、僕の目に微かに涙が滲んだ。まさか、あの子たちがそんな境遇にあったなんて。かつての記憶が脳裏をよぎった。僕は大きく息を吐いた。首を振った。

「流星の魔法使い。今日は本当にありがとう」

 先生はそのように謝辞を述べると、僕に向かって深々と頭を下げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 冬も終盤に差し掛かった頃、冬学期が終了した。高等学院の日程は後期課程の三年生と前期課程の三年生の修了式を残すのみ。一年生の僕は春休みに入っていた。

 前期課程の学生には年度の変わり目で専攻を変えることが認められている。午後、環境生命学研究室でエリク先生と議論をしている間にも、入れ代わり立ち代わり数人の学生がやって来た。僕と先生が二人きりで差し向い。そんな光景にどの学生もあからさまに怖気づき、先生の説明をちょっと聞いては消えてゆく。そんなことが繰り返されること四度。遂にアンが現れた。

 最近、アンは歴史学考古学専攻を辞めようかと迷っていた。アンをそこまで追い込んだ原因は歴史学考古学専攻の体質にあった。

 フレクラント国高等学院から届いた紀要。人間は北の大森林から南へ広がったとの記述。それがナギエスカーラ高等学院歴史学考古学専攻の者たちを憤慨させた。スルイソラ連合国は歴史上、長きにわたってフレクラント国よりも下と見なされてきた。そんなスルイソラ人の自負心と郷土愛を支えてきた唯一の要素は、人間の原点は南のスルイソラにありとの学説。それを否定しかねない新説に彼らは感情的に反発し、自称フレクラント人のアンを前にしても、論文に対する皮肉や嫌味を口にし続けていた。

「アン・エペトランシャです。今日は環境生命学のことをお聞きしようと思って……」

 そんな風にアンが挨拶すると、先生は「そこに座りなさい」と椅子を指さした。

「話はサジスフォレ君から聞いている。皮肉や嫌味で学生の勉学意欲を削ぐのは間違っている。とは言え、この研究室は専攻どころか学系が違う。まずは歴史学考古学専攻の一つ上、社会学系の主任に相談してみてはどうだろう」

「相談してみたのですが、手応えが無くて……。私から見れば、皮肉や嫌味もあそこまで行くと、もはや耐え難い見苦しさなのですが……」

「かつて、北の大森林は人の居住域だった。その後、大地全体の気温が下がった。現在、北の大森林は無人となっている。それなら、人々は南に移住したと考えるのが自然だと私も思う。地下街を作るほどの者たちが無策のまま絶滅したとは私にはとても思えない」

 アンは「はい」と頷いた。先生は溜め息をつき、舌打ちした。

「自尊心が高すぎて、どうしても自説を曲げない、曲げられない。そういう者は多い。特に人文系には……。我々のような基礎自然系やお隣のような応用自然系なら、実験や観測をすればすぐに真偽が分かるのだが……。要するに、彼らの学問は科学ではないのだ。文句を言う前に、まずは自らもカプタフラーラに乗り込むべきなのだ」

 先生はそこで黙り込み、アンも何かを考え込んでしまった。

「先生」と僕は口を開いた。「あの論文は何も、元々人が住んでいたのは大廃墟の辺りだったという学説を否定している訳ではないんです」

 例えば大昔、人は大廃墟の辺りに居を構えていた。しかし、気温が高すぎたために多くの人は北へ向かい、北の大森林に広く定住した。

「そんな風に考えることも可能です。何しろ、大廃墟にあった街は吹き飛んでしまっていますから、それがどこまで古いのか全く分からない訳ですし」

「それを歴史学考古学専攻の者たちに説明してみてはどうだろう」

 僕はウーンと呻いて首を傾げた。

「素人が適当なことを言うなと一喝されて、そういう話は全く出来ませんでした」

 僕が目配せをすると、アンはハッとしたように話し始めた。

「環境生命学の最終目標は、自然精気に満ちた環境を復興して維持することと聞いています。そうすれば、人々はもっと健康的に長生きできるようになるだろうと。そのためには、なぜ環境がここまで荒れてしまったのかを歴史的に解明することも重要だと思います」

 先生はフームと鼻を鳴らした。

「確かに、過去にはその種の研究も行なわれていた。しかし、中々成果が上がらないので、今は廃れてしまっている」

「私にやらせてもらえないでしょうか」

「サジスフォレ君にも言ったのだが、成果が上がらなければ君の将来に悪影響が出る。もちろん、そういう場合でも研究課題を変えれば研究者を続けることは可能だ。その時に問題になるのは、やはり自尊心だ。もしそうなったら、君は自分の志望を曲げられるか?」

「はい」とアンは力強く肯定した。

「分かった。事務局で所属変更の手続きをしてきなさい」

 アンは椅子から腰を上げると、丁寧に一礼して部屋から出ていった。僕は先生に促されて精気分光器の設計図の説明を再開した。

 夕方、学院の食堂の隅で料理に手を付けずに待ち続けていると、約束通りにアンが現れた。アンの手には寄宿舎の食堂の夕飯。やはり、量と栄養を重視した大雑把で大胆な料理だった。

「歴史学考古学専攻の方はどうだった? 辞めると伝えた時の様子は」と僕は尋ねた。

「そうか、で終わり」とアンは顔をしかめながら鼻で笑った。

「そういう人って、どこにでもいるんだな……。でも、エリク先生も言っていたけど、あちらで勉強したことは無駄にはならない」

 アンも食事を始めながら頷いた。

「ところで、ケイは『人々はスルイスラから北の大森林へ向かった』と言ったけど……」

「うん」と僕は頷いた。「フレクラントの歴史学博士とも議論したんだけど、北の大森林の西都ブシェロエストがこの大地で最も古い街とは限らない」

 神話時代よりもさらに前、人の居住域は北の大森林の西側に偏在していた。それを根拠に、人は西海を越えてきたのだと推測されている。

 ただし超越派の霊魂は、人は海を越えてきたと言っただけ。最初の入植地が西都ブシェロエストだったとは限らない。さらには、この大地に到達したのは一団ではなく、複数の集団だった可能性もある。もしそうなら、初期の入植地も一か所だったとは限らない。

「だから例えば、スルイスラの南西方向、西海に面した蝗の平原辺りに上陸した人たちがいて、そこからスルイスラに入植した可能性だってある」

「私の記憶違いでなければ、黙示録には、人は北から南へ一方向に移動したと書いてあったはずだけど」

 僕は気付いた。アンは黙示録の続きを読んでいない。だから、カイルが転生のたびに記憶違いをしていることを知らない。

「良く思い出して。あの記述は伝聞。『かなり昔のことをそんな風に教えられた』と書いてあった。もちろんあの記述にも真実は含まれているんだろうけど、あれ以外のことがなかったとは言えない」

「そうか……。それなら、蝗の平原辺りも調べないと駄目?」

「西都ブシェロエストが最初の街であると証明したいのなら、少なくとも西海沿い、ブシェロエストから蝗の平原辺りまでを全部」

 アンが情けない表情でウーンと呻いた。

「最初の街であると証明することがそんなに重要なの?」と僕は笑った。

「『が』ではなく『も』。ところで、ずっと先延ばしになっていたけど、北のエベルスクラントにはいつ行く?」

 今度は僕が呻いてしまった。

 どのように説明すれば良いのだろう。華のカプタフラーラはカイルの黙示録以上の発見。てっきり、エベルスクラントの件はうやむやのままに終わったものと思っていた。

「あのう……」と僕は考えを巡らせながら口を開いた。「アンの予想通り、エベルスクラントは歴史的にずっと放置されていたらしい。そして僕の予想通り、その後調査されたらしい。だから、もし例の物があったのだとしても、すでにどこかに回収されていると思う」

 アンは呆気にとられたようにエッと声を漏らした。

「誰から聞いたの?」

「フレクラント国高等学院で聞いた。本当に」

「そうなんだ……」とアンは気落ちしたように呟いた。

 諦めてくれた様子に、僕は安堵した。

 エスタコリン王国の貴族制度は上手く機能している。容易に崩壊するとは思えない。それでも、第二の黙示録の内容が世に知れ渡ったら混乱は免れない。いくら王家と三つの大公家に正義の守護者としての実績があったとしても、カイルやエステルとの相性が家格の根拠になり得るはずがない。西の大公家のアンが知って良い内容とは到底思えない。

 第二の黙示録は約四千年前にフレクラント国高等学院に回収された。当然、当時は緘口令が敷かれていたに違いない。そしていつしか忘れ去られた。それでもその後、たまたま目にしてしまった者がいたのだろう。転生に興味を示す娘は野に解き放つべし。そのように西の大公家に伝えた人物とか。百年の眠りにつかされたあの老年生命学博士とか。

 西の大公家の記録に残された特記事項。それは約二千年前のものだと言う。書き加えたのは誰なのだろう。相当な高位の者に違いない。いずれにせよ歴史上、背徳のエステルに同情する者もそれなりにいた模様。

 その後しばらく、僕たちは無言で食事を続けた。その間、アンはずっと何かを考え込んでいた。僕が食事を終えると、程なくアンも食べ終えてお茶を飲み始めた。

「ねえ、ケイ……。年末に帰省した時に変な噂を聞いたんだけど……。フレクラント国高等学院のあの生命学博士が失踪したって。その失踪にはケイと歴史学のフレスコル先生が関わっているって」

 僕はウーンと唸った。アンは僕の返答を待つ様子を見せていた。

 あの夜は、歴史学博士が現場に残って監視を続ける一方、僕は深夜の空を飛び回ってジラン大統領を探した。自宅ですでに就寝していたジランさんを無理やり連れ出して現場に戻り、事件の後始末を行なった。

 生命学博士が今も高等学院の地下街の最奥で眠っていることは、急遽ジランさんに呼ばれて診察に当たった魔法医術士も知っている。ただし、あの魔法医術士は事件の内容を全く知らない。そして、全員がジランさんから厳重に口止めされていた。

 噂になっているのだとすれば、あの夜、珍しくも僕と歴史学博士と生命学博士が一緒にいる所を誰かに見られたのかも知れない。

「生命学博士は失踪していない。今は仕事の都合で高等学院を離れているだけ。その件はジラン大統領も知っている。僕もフレスコル博士も悪事などには関わっていない」

「何が起きているの? なぜ、ケイが知っているの?」

「仕事の都合。それ以上は言えない。言ったら、ジランさんに何をされるか分からない」

「その直後に生命学専攻の組織再編があったと聞いたけど」

「うん」と僕は頷いた。「あそこの生命学専攻には、教育機関や研究機関だけでなく行政機関の側面もあるから、専攻を監督する運営委員会が作られた。僕の母も運営委員に選ばれたらしい」

「マノン様が……。もしかして、あの生命学博士の代わりに高等学院の教員になったとか」

「いや。今も初等学院の教員。初等学院と中等学院の教員からなる教員組合の代表として委員になったらしい。母も博士だから、それなりに発言できるだろうしって」

 アンはフーンと鼻を鳴らした。

「あとは……、ケイが王宮に来た時、エルランド殿下に何があったの?」

「僕の目の前から突然いなくなり、次の日の夜に王宮に戻ってきた。妃選定の終了を宣言すると、またどこかへ行ってしまった。僕が知っているのはそれだけ」

「生命学博士の失踪と何か関係があるの? ちょうど同じ頃らしいけど」

「関係ない」と僕は嘘をついた。

「ケイは変なことに巻き込まれていないよね?」

 アンは極めて真剣な様子。疑念ではなく気遣いらしき視線を僕に向けていた。

「ない、ない」と僕は笑みをこぼした。「巻き込まれていたら、こんな所でのんびり学生なんかやってない。アンは殿下が今どこで何をしているのか聞いている?」

「噂だけは」とアンは頷いた。

 エルランド殿下に王家の仕事は務まらない。殿下は学究の道に進むべき。前国王のアルさんがそのように強硬に主張し、殿下もそれを要望した。その結果、殿下は王家の仕事から外れることになった。将来、殿下に王位が回って来た際には、殿下は直ちに御長男に王位を譲ることと決まった。

 殿下はフレクラント国とエスタコリン王国を隔てる山並みの谷間に別荘を構えたらしい。毎週、第四日の平日夜から第五日の休日午後に掛けて王宮に滞在し、それ以外は別荘で独り暮らしをしている。時折、フレクラント国高等学院にも姿を現しているとのこと。

「微妙と言うか絶妙と言うか……」と僕は感想を呟き、考え込んだ。

 正室のクリスタさんを始めとする家族を捨てた訳ではない。フレクラント国高等学院の歴史学博士との約束も守っている模様。その点は律儀と言えば律儀なのかも知れない。さらには、リエトを名乗る人物が収容されている精神治療施設にも行きやすい。

「あの人の頭の中はどうなっているんだろう」と僕は疑問を口にした。

「殿下は天才肌だから、何を考えているのか良く分からない。皆、そう言っているね」

 僕の疑問は、一つの体に二つの人格がいかに共存しているのかということだった。

「それから、殿下の魔法力には皆が驚いている。私は見たことがないけど、今はそれなりに高空高速飛翔もしているらしい。もしかしたら、別荘でずっと魔法の特訓をしているのかも。あの辺りまで行けば自然精気も濃いから」

「山籠もりをして特訓か。怖い、怖い」と僕は適当に同意した。

「怖い、怖いって」とアンは笑みを浮かべた。

 カイルの早撃ちと捨て台詞。あれには痺れた。

「あの人は話が通じるから、別に何でもいいんだけど」と僕は答えた。

 アンはお茶を飲み干すと、「ところで」とさらに話題を変えてきた。僕も「何?」と聞き返してお茶を口に含んだ。

「年末に帰省した時にお母様に命じられたんだけど、私は明日からまた帰省するから」

 僕は「うん」と頷いた。その話は二度目だった。アンは所属変更の手続きを済ませて研究室に戻ってくると、「所属早々申し訳ないことで」と極まりが悪そうにエリク先生に申し出ていた。

「でも、何だか嫌な予感がする」とアンはこぼした。

「何だかって、どんな」と僕は失笑した。

「ちょうど学年末でしょう」

「アンの身分や立場に変更があるかもという意味?」

「うん」とアンは頷いた。「イエシカ姉様から聞いたんだけど、あの選定が終わってから、結婚の申し込みが殺到しているらしい」

 僕はアアと納得の声を漏らし、次いでふと思い出して首を傾げた。アンは貴族社会の外にあるべし。西の大公様のそんな意向は未だあまり知られていないのだろうか。

「アンに関しては、嫌なら嫌と言えば、お母さんが断ってくれるよ」

「ケイにはそういう話、無いの?」

 僕は脱力して鼻で笑った。

「無いよ。ある訳ない。フレクラントでもエスタコリンでも色々あったし、スルイソラ人とは寿命が違い過ぎるし」

「それなら、私がしてあげようか」

 その言葉に一瞬ドキッとした後、軽口であると認識して僕は笑ってしまった。

「何で笑うの?」

「イエシカさんにも似たようなことを言われたから。イエシカさんには胸倉を掴まれた」

「あのお姉様が?」

「そう。いきなり胸倉を掴んできた。あの人、意外に粗暴だよな」

「そうではなくて、あのお姉様がそういう話をしたの?」

「そう。もちろん互いに軽口であることは暗黙の了解」

 軽口や冗談を真に受けたら、僕が恥をかく。そもそも、結婚は僕とアンの意思だけでは決まらない。今の僕が大公様のお眼鏡に適うとは思えない。平凡すなわち大過なきこと。僕はそんなあり方に縁が無く、僕の人間関係はかなり劣悪。

 僕が自嘲気味に再び笑うと、アンはフーンと鼻を鳴らした。

「イエシカさんもアンも、今はもっと自由を謳歌したい。そのことは僕もちゃんと承知している」

 アンは再びフーンと鼻を鳴らした。

 

◇◇◇◇◇

 

 冬学期終了後の休みも一週と少しを残すのみとなっていた。そんなある日、フレクラント国の首府メトローナの街に正午を告げる鐘の音が響き渡った。しまった。遅刻。そう焦りながら、僕は歩を速めた。

 フレクラントは小さな国。そのため、首府とは言ってもメトローナの人口は少ない。ただし、それでもやはり一国の首府。物流の中心の一つであり、街中には様々な商店が立ち並び、国内各地から人がやって来る。そんな雑踏をすり抜けて、僕はようやく国内最高級とされている料理店にたどり着いた。

 係員に案内された先は奥まった場所にある個室だった。部屋に足を踏み入れた瞬間、僕は予想外の光景に立ちすくんだ。

 室内四方の内の一方には立派な扉が付いた出入り口。残り三方の壁に窓は無く、その代わりに立派な風景画が掛けられていた。天井からは無数の照明器が吊り下げられ、そこは密室の様相を呈していた。

 室内中央には長方形の大きな食卓が設置され、その一方にはすでに僕の両親が着席していた。さらに、父の向かいの席にはアン、母の向かいの席には西の大公様。僕は係員に促されて母の隣、大公様の旦那様の向かいに腰を下ろした。

 係員が退室すると、母が「ケイ」と鋭い声を発した。

「何をしていたのです。遅刻ですよ。まずは非礼をお詫びしたらどうです」

 僕は思わず顔をしかめそうになってこらえた。事情は分からないが、今日は家族だけの会食ではない模様。不貞腐れるのはやめて大人しくしようと僕は決めた。

「皆さん。遅れて済みませんでした」と僕は頭を下げた。「それで、これはどういう組み合わせ? 今日は一家三人だけだと思っていたのに」

「ケイ。それよりも先に、遅刻の理由を説明しなさい」

「マノン」と父が口を挟んだ。「そんな無粋なことは、あとにしたらどうだろう」

「それは違います」と母は決め付けた。「今日ばかりは、この種の事柄はきちんとしておかなければなりません」

 何なのだろう。この厳格さは。僕はそう思いながらも事情の説明を始めた。

 昨夜は東地方の宿屋に宿泊。今朝は東地方とエスタコリン王国西部で宝飾品の流通状況を調査。その後、西地方政庁へ向かい昨年分の税金を納め、政庁内の西地方通商組合で本年分の組合費を払い、ここへ向かった。

「その話のどこに遅刻の要素があるのです」と母が尋ねてきた。

「どの街や村でも振り子時計と日時計を併用して時刻を調べ、鐘や半鐘を鳴らして時を知らせている。僕の体感では、西地方政庁か、ここメトローナの中地方政庁の振り子時計が狂っている」

 父がエエッと呆れ声を上げた。

「たまにある話だが……、あとで伝えておく」

「ということです」と僕は母に向かって話を締め括った。

 その時、部屋の扉が軽く叩かれ、料理が運ばれてきた。

 六年半前、西の大公家の晩餐会で出された料理は目を見張らんばかりの立派なものだった。一方、この料理もそれに引けを取らないほどのもの。さすがフレクラント国の最高級店と唸らざるを得なかった。エスタコリン流の晩餐会は、一品食べ終わると皿が下げられ、次の料理が運ばれてくるという形式だった。一方ここでは、各自の目の前に二十以上の皿や小鉢が一気に整列。見た目には、フレクラント流の方が華やかだった。

 会食中、母と大公様は饒舌に言葉を交わしていた。そして時折、アンが相槌を打ったり口を挟んだり。フレクラント国は母系社会、ヴェストビーク家は女系一族。やはり、このような場では男の存在感は極めて薄い。そのことを僕はしみじみと実感した。

 どうやら今回、大公様たちはフレクラント国内で挨拶回りをしているようだった。その合間に観光など。アンが二人の手を引きながら空を飛び回っているとのことだった。

 話の内容から察すると、ここのところ、長女のカイサ様とその旦那さんも時折フレクラントを訪れているようだった。ヴェストビーク家を挙げて、フレクラントで何かを行なっている模様。一体何事だろうと訝しく思いながら、僕は独り黙々と食事を続けた。

 会食も終盤に差し掛かった頃だった。大公様が僕に話し掛けてきた。

「ケイ殿は最近、宝飾品も扱っているのですか。どんな具合です」

「経緯も含めて正確に話しなさい」と母が口を挟んできた。

 一体何事。今日に限って、母はなぜか異様に口やかましい。そう思いながら母を一瞥し、僕は説明を始めた。

 事の始まりは今年の年始。南都ナギエスカーラの宝飾品店で宝飾品を目にし、行商の商品に出来ないかと考えた。調べてみると、首府メトローナではすでにスルイソラ製の宝飾品が販売されている。競合を避けるためには、中地方に次いで人口の多い東地方でと思い立ち、それならついでに王国西部でもと考えた。しかし王国内の各地では、すでにトロンギャアンケ商会が取り扱っているとのことだった。

「宝飾品の新規参入は中々に難しい。特にまさか、家令殿の息子さんたちが競争相手になるとは思ってもみませんでした。僕としては信用と速さで勝負するしかないと考えている所です」

「宝飾品って、どういうやつだ」

 父にそう尋ねられ、僕は出入り口の脇に置いておいた背嚢から二つの髪飾りを取り出した。皆は髪飾りを手に取ると、一斉に感嘆の声を上げた。

「これは見事な……」と大公様。

「手が込んでいるな」と大公様の旦那様。

「その二つはナギエスカーラ製の最高級品です」

「吉祥の髪飾りですか……」と母。

「お前、大丈夫なのか?」と父。

「大丈夫って何が」

「こういう物には盗品や偽物が紛れ込んだりするだろう」

「ナギエスカーラ警察隊で色々教えてもらって、宝飾品取り扱いの免許を取った。そして全部調べた。製作から店頭に並ぶまでの全過程を」

「ケイ殿は立派ですね」と大公様が話し掛けてきた。「異国へ行っても、着々と人脈を広げて商いを拡大していっているのですから」

「いや、それほどでも」と僕は謙遜した。

「それに比べてアンソフィーときたら……」

 ふと見ると、まるで自分の物と言わんばかりに、アンは髪飾りを納める入れ物二つを目の前にきちんと並べて置いていた。

 いや、いや。そういう話ではないから。それらは僕が携帯する見本品。そんな風にアンに釘を刺しておこうとした瞬間、「ケイ」と母の鋭い声が飛んできた。

「こういう物には相手の名前も彫り込むものではないのですか」

「そうではないんだ。スルイソラにはスルイソラの流儀があって」

「どんな流儀です」

 今日の母は執拗だった。僕は面倒になって適当に答えた。

「スルイソラ連合国は男系社会。男には男の流儀があって、女には明かせない」

 母は疑わしそうな目付きでフーンと鼻を鳴らした。

 程なく食事が終了し、食器が全て下げられ、食卓が整え直された。

「さて。いよいよ本題に入りましょうか」

 母のその声に、皆は着席したまま姿勢を正した。本題とは何だろうと、僕は皆の様子を窺った。

「では、フレクラント国の流儀に則って」と大公様が言葉を続けた。「今回こちらに伺いましたのは、お願いの儀があってのこと。それでは当人より申し述べさせます」

 母は鷹揚に頷き、アンに目を向けた。

「マノン様。ケイ殿を下さい」

「良いでしょう。認めます」

 僕は呆気にとられた。今、何が決まったのだろう。そう思って見回すと、皆の視線が僕に集中していた。その瞬間、僕は理解した。

「ケイ」と母が呼び掛けてきた。「何という顔をしているのです」

 僕は半開きになっていた口を閉じた。

「ケイ。きちんと受け答えをしなさい」

 僕はエッと声を漏らした。

「アンがケイと添い遂げると言ってくれているのです。ケイと生涯を共にし、ケイの子を産むと言ってくれているのです。こんな有り難い話に何か不満でも?」

 見ると、アンは顔を真っ赤に染めて俯き加減になっていた。

「い、いや。急なことで実感が……。結婚なんてずっと先の話だと……」

「はっきりと答えなさい」

「不満はありません」

「それなら返事は?」

 なぜ先の年末年始だけは強く帰省を促されたのかを理解した。つまり、あれは親族への結婚前の挨拶回りだったのだ。次いで、いつからこの話が進んでいたのかも理解した。つまり、この話は昨年の秋から始まり、年末頃には大方決まっていたのだ。

「不届き者ですが、よろしくお願いします」と僕は頭を下げた。

「不届き者か……」と父の呟きが聞こえてきた。

「不束者ですが、よろしくお願いします」と僕は頭を下げ直した。

「こちらこそよろしくお願いいたします」と大公様が応えた。

「全てが整いました」と母は宣言した。「カイサ殿に何度か足を運んでいただき、すでに確認済みとなっている事柄ではありますが、念のために最終確認を行ないます」

 僕は椅子の背凭れに身を預け、呆然と天井を見上げた。不満は無い。異存も無い。むしろ僕の密かな願望通り。しかしいきなり。しかも強制。人生五百年。これからずっとアンと一緒。これが人生。もう好き勝手は許されない。でも、これからずっとアンと一緒。

 良く見ると、天井にはうっすらと小さな染みが浮かんでいた。国内最高級の料理店とは言え、建屋は古く、さすがにわずかばかりでも染みは残ってしまうのだろう。僕は天井の染みを数えながら、全てが終わるのを呆然と待ち続けた。

 母たちは大統領府が発行した書類を元に血の重複に関する確認を始めた。

 フレクラント国は人口が少ない。そのため、血筋は厳重に管理されている。婚姻に際しては、なるべく血縁の薄い者が相手に選ばれる。その結果、それぞれの血は社会に満遍なく拡散し、ほぼ全ての国民の間にわずかながらも血縁がある。大統領府の発表によれば現在、その最短距離は最長で三十一親等。

 アンとジラン大統領の息子さんの距離は五親等。一方、僕と息子さんの距離は最短で二十親等。つまり、僕とアンの距離は最短で二十五親等。世代で言えば、僕はアンの三世代上。僕とアンの間にそれ以上に近しい血縁が無いことは確認済み。親等に基づく分析は簡便な手法に過ぎないが、血の重複が十分に回避されていることは間違いない。

 次に家名問題。フレクラント国の慣習に従えば、僕はサジスフォレ家を出て、妻の家名を名乗ることになる。一方、西の大公家の慣習では、ヴェストビークの名は本家のみのもの。家を出る者は他の家名を名乗らなければならない。そのため今回は、アンが新しい家名を名乗ることとする。その候補一覧もすでに準備済み。あとは選ぶだけとなっている。

 そして家計問題。僕とアンが高等学院の後期課程を修了するまでは従来通りとする。つまり、僕は連合国評議会からの報奨金と行商の収益で生計を立てる。アンはヴェストビーク家から仕送りを受け続ける。

 最後に国籍問題。アンはこれを機にエスタコリン王国から離脱し、フレクラント国に帰属することとする。アンはフレクラント国東地方中等学院の魔法教育課程に合格しており、フレクラント人たる資質に問題は無い。現在、僕とアンはスルイソラ連合国に居住しているため、僕たちのフレクラント国内の登録地は差し当たりルクファリエ村の実家とする。

「これでよろしいですね」と母は言った。

「よろしゅうございます」と大公様が答えた。

 天井から皆に視線を移すと、アンは顔を赤く染めたまま書類を覗き込んでいた。片や、父は腕組みをしながら手近な風景画を眺め、旦那様はあらぬ方向を呆然と見詰めていた。

 突然引き合わされて淡々と始まる家族関係。おそらく、かつて父親二人の結婚もこんな風に決まったのだろう。いや。決められてしまったのだろう。そう言えば、首府メトローナの旧名はソロメトローナ。かなりの古語らしく、その意味は「太陽と月」。「月になった太陽」の逸話にもある通り、しょせん男なんてこんなもの。僕はそう悟って脱力した。

「私はホッとしました」と母は大きく息を吐いた。「ケイにはもう結婚相手など見付からないと思っていましたから」

「いえ、いえ」と大公様が応えた。「それはアンソフィーも同じです。私も結婚が決まってホッとしました」

「それはどういう意味でしょうか」とアンが尋ねた。

「何を呑気な。妃の選定が終わって以降、イエシカには結婚の申し込みが殺到しているのに、あなたには問い合わせの一つも無いのですよ」

 僕は吹き出しそうになった。アンの完全なる誤解と自信過剰。先日、アンは自分にも申し込みが殺到しているとほのめかしていた。

「それはお母様が、私を貴族社会の外に置くと宣言されたためではないでしょうか」

「それは違います。貴族から一般民に転じるのは良くある話です。貴族家の当主かその配偶者にならなければ、大抵はそうなるのですから」

 僕は黙って数回頷いた。

「ケイ殿」と大公様が噛んで含めるように話し掛けてきた。「笑い事ではありませんよ。責任の一端はケイ殿にもあるのです。ケイ殿はアンソフィーに着ぐるみを着せましたね。それは良いのです。私も認めましたから。ところが何と狸の着ぐるみ」

「いや。何となくアンは狸かなと……。アンは全然答えないんですけど、結局アンは踊ったんですか?」

「王宮内をひたすら歩き回ったそうです」

「私は、ケイがやれと言うのなら何でもやります」とアンが反論した。

「問題はやり方です。踊ったのであれば変わり者と思われただけで済んだはず。ところが、あなたは『着ぐるみに硬化魔法を掛ければ無敵の戦士』と宣言した上で王宮内を黙々と歩き回り、その姿に思わず笑ってしまった者たちを片端から睨み付けて黙らせた。つまりあなたは、逆らう者を敢えて炙り出して威圧する人間と思われてしまったのです」

 さすがにそれは歪曲と誤解だろう。ここはアンの弁護をしなければと思った。

「大公様。それはどう考えても真実には程遠い。アンはいかにも恥ずかしそうに歩き回ったに違いありません。睨み付けたのは、ささやかな抵抗ですよ」

「私もそうは思うのですが、噂ではそうなっているのです」

 その時、珍しくも旦那様が口を開いた。

「いや。私は『良くぞやってのけた』と思っているよ。貴族社会の外にあって貴族や王国に睨みを利かせるのであれば、多少怖がられるぐらいがちょうど良い。あの政変の時のジラン閣下のように。私はアンソフィーの将来が楽しみだ」

「お父様……」とアンが感極まったように呟いた。

 責任は重大だと僕は改めて認識した。

 アンは活発、積極的。時には暴走までもしてしまう。清楚で優美な御令嬢は表の顔。格上の人たちの前では一応借りてきた猫のようになるが、それでも僕がけしかければ何らかのことはしてしまう。御両親はさすがにその程度のことはお見通し。

「このたびの御縁は陛下のおかげでもあります」と大公様は言った。「ケイ殿もアンソフィーもそのことは忘れないように」

「陛下というのは……」と僕は尋ねた。

「前国王のアルヴィン陛下が『ケイとアンソフィーを夫婦とするが良い』と勧めてくださったのです」

 僕は微かに眉をひそめた。なぜアルさんが。エルランド殿下とアンの件が破談になったからと言って、その後すぐに僕とアンの婚姻を勧めるなんて。カイルとアンを引き離す。そこまでであれば理解できるが。

「さて」と母が割り込んできた。「あとは家名を決めて、書類に署名をして終わりです」

「エペトランジュにする。これは由緒正しい家名」と僕は即答した。

「マノン様」とアンが声を発した。「私もそれで良いと思います。エペトランジュは華のカプタフラーラにあった家名で、現代のエペトランシャに繋がっているようです」

 その瞬間、父がホウと声を漏らした。

「そうですか……」と母は呟いた。「分かりました。それでは今日から、アンはアンソフィー・エペトランジュ、ケイはケイ・サジスフォレ・エペトランジュです」

「今日から?」と僕は訊き返した。

「そうです。今日から」

「これは婚約ではないの?」

「何を言っているのです。これは結婚です」

「僕が言いたいのは普通、婚約と結婚は別の段階ではないのかということ」

「どこの普通です。フレクラントでは普通、婚約即結婚です。『エステルの二つの約束』の教訓がありますから。さっさと署名しなさい。済んだら、すぐに大統領府に行って神統譜と人統譜に登録してもらいますよ」

 僕は納得半分で頷き、懐疑半分で首を傾げた。

「でも、年末までには話が決まっていたのなら、その時に教えてくれれば良かったのに」

 母はアアと納得したような声を漏らした。

「今回は特殊でした。順序としては、両家間の基本合意の成立、次に国籍変更の手続き。その手続きに時間が掛かってしまいました。そして先日、大統領府から国籍変更の内諾が届き、本日この場で最終合意に至りました」

「でも、せめて基本合意の段階で教えてくれれば、僕もアンも色々できたのに」

「『でも』が多いですね。他国の遠方で二人きり。しかも、あなたは実質を重視して形式を無視しがち。基本合意をもって結婚と認識して色々先走られたら困ります。これは名誉の問題。サジスフォレ側からは想像もつかないほどに、ヴェストビークの名は重いのです」

 婚前の不名誉。僕は愕然と妄想して固まった。

「ケイ。スルイソラは楽しいですか」

 突然の話題の転換に、僕は幾分呆気にとられて「ん? うん」と頷き、率直かつ微かに皮肉を込めて答えた。

「今までの人生の中で一番楽しい」

「それは良かった。人生で最も楽しい時を独りで過ごしてしまったら、あなたはその後もずっと独りでしょうね。最も楽しい時であればこそ、アンと二人で過ごしなさい」

 僕は神妙に頭を下げた。今日の母の言葉の中で最も腑に落ちた助言だった。そして同時に理解した。生物学的にはともかく、社会学的には親子の関係はこれにて終了したのだ。

 

◇◇◇◇◇

 

 昨日フレクラント国から戻り、今朝七日振りに登院してみると、高等学院の雰囲気は一変していた。至る所に見覚えのない学生の姿。ぎこちなくおどおどしながら院内を散策もしくは徘徊する新入生たち。いよいよ冬も残すところ一週間となり、新年度が迫っていた。

 僕が一番に向かったのは学院事務局。結婚の報告をすると、事務員はいかにも慣れた口調で一言「おめでとう」と祝辞を述べ、淡々と事務処理を始めた。訊くと、学年の変わり目に結婚する学生は珍しくなく、ここ数日同様の届け出が相次いでいるとのことだった。

 ただし、僕の場合は氏名変更届だけでは済まず、事務長と差し向かいで面接を行なうことになった。用件は学費の免除。例えば、妻の実家からの援助によって僕の収入が増えるようなら免除は取り消される。事務長はそう言いながらも、僕が提示した婚姻の条件を記した書類を一瞥すると、あっさりと免除の継続を認めてくれた。

 次いで事務長が持ち出してきたのは高級文房具販売の件。学院の購買部と提携してはどうだろうかとの提案。僕の儲けは幾分減るが、僕自身が雑多な個別対応をしなくても済むようになる。残念ながら、僕はその提案を断った。

 先の春から現在までの一年間で、僕は行商の都合でフレクラント国に六回出向いた。内一回は悪天候のせいでフレクラント国とスルイソラ連合国を隔てる大山脈を越えられず、東海沿いを北上し、エスタコリン王国を経由する羽目になった。

 先日までは、次の春からも頻度を抑えて同様の行商を続けるつもりでいた。しかし、妻帯者となった現状では、そんな行程不定な行商を強行する訳にもいかない。可能なのはスルイソラ連合国内を行き来する行商程度。文房具の仕入れは専業の行商人に頼るしかない。

 そんな事情を説明した後、購買部に知り合いの行商人を紹介する約束をして、事務長との面談は終了した。

 事務局での用件を済ませて環境生命学研究室に向かってみると、すでに部屋の奥、窓を背にする机にエリク先生が、部屋の出入り口に近い側、壁際の机にアンが着いていた。二人は僕の入室と同時に各々の作業を中断し、室内中央の長机の席に移動した。

「サジスフォレ君。エペトランジュ君から聞いたのだが……」と先生は言った。

 アンと顔を合わせるのはあの日、フレクラント国の大統領府で別れて以来のこと。見ると、アンは以前よりも短めにした銀髪に吉祥の髪飾りを付け、初々しくはにかんでいた。

「はい」と僕は答えた。「このたび、アンと結婚いたしまして……」

「フレクラントの結婚は凄いな。いきなり有無を言わさずか」

「はい。僕も驚きました」

「結婚おめでとう。良きえにし。巡り合えたることを言祝がん」

 フレクラント流の祝辞に、僕はハッとして「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。そのまま長机の席に着くと、先生はフームと鼻を鳴らした。

「早速水を差すようで悪いが、こういう話は指導教員がすることになっているので」

 先生はそう前置きすると、僕とアンに交互に目を向けながら話し始めた。

 人生は長いと思っていても実は短い。だから、一度始めた学業は中断することなく一気に終えてしまうべきである。学生同士で結婚しても、経済的な理由から寄宿舎にとどまる者は多い。寄宿舎を出て、街に住居を探して同居する者は少数である。

 学生夫婦の最大の問題は妊娠と出産であり、その結果としての女子学生の学業打ち切りである。寄宿舎は男女別なので、寄宿舎にとどまる者にその問題が生じることは少ない。

「エペトランジュ君は寄宿舎を出て、サジスフォレ君の所に引っ越すのだろう? フレクラント人は妊娠を制御できるから意図せぬ妊娠は無いのだろうが、意図しての妊娠も避けた方が良いだろうな。極めて差し出がましい忠告だとは思うのだが、規則で一応言っておくことになっているのでな」

「はい。今のところ、その意志はありません」と僕は神妙に同意した。

「それで、引っ越しはいつ終わる? 終わったら、季節末恒例の研究室内発表会を行なう」

「引っ越しは今日これからと思っています。今日一日で終わると思います」

「分かった」と先生は頷いた。「それでは、さっさと片付けてきたまえ」

 僕たちは先生に促され、ただちに研究室を後にした。

 街中の家具屋に向かい、昨日アンが購入したという衣類用の家具を受け取る。硬化魔法と浮揚魔法を掛けて女子の寄宿舎に運び入れ、アンは荷物の整理、僕は寄宿舎の玄関で待機する。僕の行商人用の特大背嚢、アンの背嚢、家具。程なくそれらと共にアンが現れ、二人で僕の家に持ち運ぶ。そんな作業を続ける間、僕は断続的に物思いに耽っていた。

 あの時大統領府で、僕たちは二人だけでまるで儀式のような説法を受けさせられた。

 いわく、人生は思う以上に長い。添い遂げるためには、互いを慰め慈しみ、会話と交合に励み続けることが肝要である。フレクラント国では、血の制約のために結婚相手を選ぶ余地が非常に少なく、多くの夫婦は何の情も無いまま夫婦生活を始めることになる。そのため、特に結婚当初はそのようにして情を育まなければならない。それは僕たちも同様であり、学生生活と夫婦生活の両立に負担を覚えるようなら、夫婦生活を優先せよ。

 つまり、エリク先生の忠告とは正反対だった。こればかりはやってみなければ分からない。僕はそんな風に感じながらも、さらに別のことが気に掛かっていた。

 説法の終了後、僕とアンはそれぞれ別個に複数の冊子を渡された。家族に関する法や手続き。家庭生活の知識と知恵。夫婦生活の技術。理想の家族計画。そこには出産に関する項目もあった。

 いわく、親は乳児に、出産専門の魔法医術士による検診と必要であれば治療を受けさせなければならない。両親と乳児は、出産専門の魔法医術士による親子関係の判定を受けなければならない。なお、フレクラント国籍を持たない者がフレクラント国籍を得ようする場合、事前に血筋に関する調査を行なわなければならない。

 いわく、胎児の肉体は妊娠後期から自然精気を取り込み始める。自然精気は器たる肉体に合わせて自己組織化を開始し、徐々に魂となっていく。乳児の肉体は両親の肉体の特徴を受け継いでいる。その結果として必然的に、肉体に合わせて形成された魂も両親の魂の特徴を受け継ぐことになる。そのため、親子三人の魂の気配を分析すれば、親子関係を判定できる。

 それぞれの項目はそんな小難しい書き方をされていたが、内容と主張は明瞭だった。つまり、国民全体の肉体的な健全性を維持するため、血筋は明確に特定され厳格に管理されなければならない。健全性を脅かしかねない者は受け入れない。さらには、不義は容易に露見すると暗に警告していることも明らかだった。

 国の規則や勧告に逆らうつもりは特に無く、冊子を何度も読み返す必要性は感じなかった。その中で唯一僕を悩ませていたのは、魂には父親由来と母親由来の特徴があり、それらは別個に識別できるとの内容だった。

 エルランド殿下はアンをエステルの生まれ変わりと認識し、後にそれを撤回した。魂は一体のものとしてしか識別できない。そう考えていた僕は殿下のそんな変節を見て、アンは転生者ではなかったのだと解釈した。しかし、事はそこまで単純ではなかったらしい。

 以前、フレクラント国高等学院の生命学専攻で聞いた話によれば、転生者であるかどうかは覚醒しなければ分からない。つまり、出産専門の魔法医術士でも魂の奥底で眠る別の魂の気配までは感知できないのだろう。

 一方、殿下は魂の識別に精気分光器を使っていた。つまり、精気分光器を用いれば、父親由来、母親由来、奥底で眠る別の魂などを別個に識別できるのだろう。と言うことは、いずれにしてもアンは転生者なのだろうか。

 僕は精気分光器を作ろうとしている。それは禁忌の魔具なのではないだろうか。世の中には知らない方が良いこともあるに違いない。仮に転生者であったとしても、生涯を通して覚醒することがなければ、転生者ではなかったのと同じことになる。その考えを尊重すべきなのではないだろうか。

 

◇◇◇◇◇

 

 環境生命学研究室。室内中央には長机。そこに並んで僕とアン。僕たちの向かいの席にはエリク先生。季節末恒例の研究室内発表会が続いていた。

「禁止だ。禁止」と先生が突然声を上げた。「それは環境汚染だ。研究室では一々思わせ振りな反応をするな」

 僕は思わず顔を伏せてしまった。だって、仕方が無いじゃありませんか。夫婦として過ごした初めての夜。様々な意味で余韻が残っているんですから。そんな余計な反論はせずに、「気を付けます」と僕は小声で詫びを入れた。

「サジスフォレ君。話を続けたまえ」

 顔を上げて姿勢を正し、アンを一瞥してみると、やはりアンは伏し目がち。その頬は微かに上気していた。

「いや。その前に」と先生は舌打ちした。「二人とも、もう少し椅子を離したまえ。いくら新婚だからと言って、何もそこまでくっ付くことはないだろう」

 僕は思わず首を振りそうになった。だって、仕方が無いじゃありませんか。ふと気付くと、アンが僕にくっ付いている。僕はそれを追い払えるような鬼畜ではないんですから。そう思いながらも、僕は椅子を引きずってアンから離れた。

「それでは話を続けます。以上のような理由で、やはり精気分光器の開発は時期尚早であると判断し、計画を変更します」

「そうか……」と先生は残念そうに呟いた。「精密加工はそんなに難しいのか……」

「はい」と僕は肯定した。「先日帰省した際、フレクラントの職人さんに教えてもらうにはもらったんですけど、実用水準で実践するのは中々……。やはり、それが職人芸の職人芸たるゆえんかと」

「なるほど」と先生は溜め息をついた。

「そこで、精気分光器よりも構造が簡単な精気視認器を作ってみようと思います」

「視認器?」と先生とアンが同時に声を発した。

「視認器は僕の勝手な命名なんですけど、精気の気配を単色の光で見る道具です。例えば、人を眺めたら人型の白い像が見え、何も無い所を眺めたら何も見えないような道具」

 僕はそのように前置きして、長机の上に広げた紙に構造の概略図を描き始めた。その内容を理解できる先生はフンフンと頷きながら、内容に関係する基礎知識を持たないアンは首を傾げながら、僕の話を聞き続けていた。僕の話が終わると、先生は「なるほど」と小刻みに頷いた。

「気配の場を感知して単純に発光するだけの素子か。確かに構造はかなり簡略化できるな」

「はい。これなら何度か試行錯誤をすれば作れるのではないかと思います」

「分かった。その方向で進めてみたまえ」

 僕は大きく頷いた。

「さて」と先生はアンに目を向けた。「エペトランジュ君は研究課題を考えてみたかね?」

「いえ。色々と忙しくて、まだ……」とアンは申し訳なさそうに首をすくめた。

「それなら、君にはこういう調査をしてもらおうか」

 環境中の自然精気が薄い地ほど、住民が魔法に触れる機会も少なくなる。また、魔法に触れた経験の少ない者ほど、魔法に対して恐怖や嫌悪、反感などの悪感情を抱きやすくなる。これらは先行する研究によってすでに明らかになっている事実である。

 連合国内各地に伝わる伝説、民話、説話などには、魔法に関する記述が多数含まれている。伝説、民話、説話を時代と地域ごとに分析し、魔法に対する悪感情を判定すれば、時代と地域ごとの自然精気の濃度を推定できるのではないだろうか。

「実は、この研究課題は目新しいものではない。しかし、未だかつて目ぼしい成果が上がった試しは無い」

「あのう……。それはなぜでしょうか」とアンは尋ねた。

「全ては私が生まれる前のことだが、伝説、民話、説話の収集に手間が掛り、分析に進む前に研究がうやむやになってしまったのだ。気付いてみたら、環境生命学の研究者がいつの間にか人文系の研究者になってしまっていたとか」

「それはそれで面白いかも……」とアンは興味を示した。

「最初からそのつもりでは困る」と先生は釘を刺した。

「過去に上手く行かなかった研究なら、同じことになりませんか」と僕は指摘した。

「時代が変わったのだ」と先生はニヤッとした。「フレクラントには大昔から神話伝説大系があるだろう。今から約四十年前、ついに連合国にも出来たのだ。古聞大全が。見ての通り、環境生命学は人が少ない。そのため、古聞大全に手を付けた者はまだいない」

 僕はアアと感嘆した。

「それでだな」と先生は意気込んだ。「悪感情の強さを文章表現から数値化できないだろうか。例えば、『嫌い』なら一点、『大嫌い』なら二点とか」

「『寄るな。触るな。虫唾が走る』なら表現と語数から五点とか」と僕は追随した。

「そんな感じだ」と先生は笑った。「古聞大全は最新の資料集だけあって、民話や説話の時代や地域もきちんと特定されている。そうやって数値化すれば、時代ごとに地図上に悪感情の等高線を描けるのではないだろうか」

 僕はオオと声を上げた。

「自然精気の濃度の等高線図と比較できますね」

「その通り」と先生は頷いた。

「分かりました。やってみます」とアンは答えた。

「まずは数値化の方法の整備からだな。それからエペトランジュ君は、春学期からは一年生向けの生命学系の講義も取るように」

「はい」とアンは頷いた。

 アンの案件が終わり、最後は先生の発表の番となった。とは言っても、僕は新米、アンに至っては完全な初学者。前回同様、研究発表ではなく解説が始まった。

「これは環境生命学の講義でも教わることなのだが」と先生はアンに向けて前置きした。

 地中からは自然精気が湧き上がっている。妨げる物が無ければ、自然精気はそのまま空中に拡散してしまう。拡散を妨げ、地表付近の自然精気濃度を高めているのは、おそらく植物、特に樹木である。しかし、どのように妨げているのかは判明していない。フレクラント国と連合国では気候が異なり、植生にもそれなりに違いがある。どの樹木がフレクラント国の自然精気濃度を高めているのかも不明である。

 地中からは自然精気が湧き上がっている。つまり、精気には物質を透過する性質がある。しかし、人間の体と魂の関係からも明らかなように、精気は自由自在に物質を透過する訳ではない。精気と物質は相互に作用し合い、透過しやすさは物質によってかなり異なる。

「そこで、私は自然精気の流れを妨げる遮蔽材を開発した。小屋を建て、窓以外の天井と壁を遮蔽材で覆い、内部の自然精気濃度を人為的に高め、その中で植物を育てている」

「そんな物があるんですか」とアンは呆気にとられる様子を見せた。

「ほら」と僕は笑いをこらえた。「学院の南東隅の小屋」

 その瞬間、先生が舌打ちした。

「何をにやけているんだ。サジスフォレ君」

「この前、学生たちが幽霊小屋とか盗賊の密会場所とか噂していましたよ」

「そんなのはずっと前からだ。小屋の中で変な草を育てていかさま媚薬を作って私は結婚したとか、本当に怪しからん」

「それは本当に失礼です」とアンは共感を示した。「先生の結婚は高等学院の前期課程の修了と同時と聞きました。それなら話の順序が逆ですし、すぐにでたらめと分かりそうなものですけど」

「いや」と僕は口を挟んだ。「この話の落ちは、先生は学生時代に本物の媚薬を作って学院有数の美人と結婚したという……。その先にはさらに落ちがあって、実は香水を……」

「話を本筋に戻すが」と先生は咳払いした。

 遮蔽材とは言っても、完全に遮蔽できている訳ではない。それでも、小屋内部の自然精気濃度が外部よりも高くなっているのは検証済み。ところが、フレクラント国から様々な植物の種を取り寄せて、小屋の内部で芽吹かせて、ある程度まで育てて、小屋の周囲に植え替えても、小屋の周囲の自然精気濃度は一向に上がらない。

「何が問題なんだろうな……」と先生は溜め息をついた。

「先生」とアンが声を発した。「連合国の方々は長年にわたって自然精気の低い環境で暮らし続けて、精気に関する能力を徐々に失っていったと言われています」

 先生はウムと頷いた。

「遮蔽材があるのなら、それを全ての家屋に取り付ければ……」

「人を何世代にもわたって観察し続けなければ、効果があるかどうかは分からない。そしてそもそも、効果があるかどうか分からない大規模実験などさせてもらえない。だから、まずは植物という世代交代の速いもので試している訳だ」

「なるほど……。難しいんですね……」とアンは呟いた。

「さらに言えば、遮蔽材は大量生産できない。やはり、地道に環境全体を変えていくしかないと私は思う」

 アンが「はい」と頷くと、先生は研究室内発表会の終了を宣言した。

 

◇◇◇◇◇

 

 ほら、見たことか。そう思いながら、僕は首都ノヴィエミストの上空で寝そべっていた。

 昨日のことだった。エリク先生が突然、吾輩は犬であると言い出した。意味が分からず尋ねてみると、先生は鼻で笑ってこう言った。夫婦喧嘩は犬も素通りと。僕もアンも先生一流の揶揄と皮肉に恐縮せざるを得なかった。

 確かにここ数日、僕は苛立っていた。僕が独りでいると、見知らぬ男子学生が入れ代わり立ち代わりやって来る。そして、彼らは揃いも揃って僕に問う。

「エペトランシャさんは結婚したの?」

 その質問は本人にすべき。僕に探りを入れるのなら、「は」ではなく「と」と表現を改めるべき。内心ではそう憤慨しながらも、僕は敢えて誠実に正確に答える。

「エペトランジュさんは結婚したよ」

 すると、男子学生たちは皆一様に肩を落として無言で去ってゆく。そんな問答を繰り返していたら、いつの間にか「鬼畜のケイ」とあちらこちらで囁かれるようになっていた。

 さらには一昨日、僕が遠距離の行商をやめたとの噂がアンの耳に入った。事情を説明すると、アンは憤慨した。僕にとっては、行商は生活の糧を得るための主要な手段。それを奪う訳には到底いかないと。

 大山脈を越える行商では、行程の変更などはごく普通のこと。天候によっては、予定の日に帰れなくなることもある。そしてその間、アンはナギエスキーヌの家で独りきり。そんな光景など想像したくない。僕がそう伝えると、アンは事もなげに言った。最初から自分も行商に付いて行くつもりだったと。

 僕も善意。アンも善意。それは互いに理解していた。しかし、もはや意地の張り合い。僕が思わず「アンの飛翔では僕に付いてこられない」と口を滑らせ、南都ナギエスカーラから北限の街ロスクヴァーナまで高空高速飛翔の競争をすることになってしまった。

 今日は冬最後の休日、明日からはいよいよ春。しかし、高空帯は未だに凍てついていた。僕は猿の着ぐるみ、アンは狸の着ぐるみ。何か想定外のことでもあったのだろうかと不安になり始めた頃だった。空中で仰向けになったまま南の方角を眺めていると、ようやく空飛ぶ狸が見えてきた。

 アンは僕の近くで静止すると、僕に向かって大声を上げた。

「やっぱり鬼畜」

「下に降りて休憩」と僕は怒鳴り返した。

 ノヴィエミストの街外れに公園を見付けて降り立ち、僕が行商人用の特大背嚢を降ろして長椅子に腰掛けると、アンは再び罵ってきた。

「独りであんなに先に行っちゃうなんて、やっぱりケイは鬼畜だよね」

 僕は軽く鼻で笑ってしまった。

 大統領府で貰った冊子の一つ、夫婦生活の技術。夫用と妻用では内容が異なっていたが、項目名は同一だった。いわく、夫婦関係に倦怠感を覚えた際に行なう遊び。奥様と下僕ごっこ、旦那様と女中ごっこ、獣ごっこ、鬼畜ごっこ。それらの記述にアンの目は釘付けとなり、特に鬼畜という言葉にアンは魅了されてしまっていた。

「こういうことはこの一回だけ。とにかく、現状を正確に認識してもらいたかった」

「まるで短距離走のような飛び方。何であれがずっと続くの?」

 アンが隣に腰を下ろすのを待って、僕は説明を始めた。

 この特大背嚢は極めて頑丈な特注品。商品が背中に直接当たらないよう、内部には軽くて丈夫な仕切り板が入っている。さらには強力な留め具が付いており、袋と仕切り板が肩から腰に掛けて密着するようになっている。

「実は、飛んでいるのは背嚢の方。僕はそこにぶら下がっているだけ」

 アンはエッと驚きとも疑念ともつかない声を上げた。

「正確に言えば、背嚢に強制浮揚術を掛けて自動的に浮かせて、僕はそれにぶら下がっているんだ。僕がしているのは方向を決めて前進することだけ。つまり、僕と背嚢で浮揚と前進の役割を分担している」

「思念法か……」とアンは溜め息をついた。「さっきは背嚢の上で寝転がっていたの?」

「そう。この方法の利点は、前進に集中できることと自由が利くこと。宙に浮いたまま休憩できるし、他の作業も可能になる。例えば、自己治癒とか自然精気の取り込みとか」

「欠点は?」

「普通の飛翔よりも手間を掛けている分だけ、結果的に余剰精気の消費量が多くなる。他にも、急な方向転換が難しくなるとか色々あるけど……。でもやはり、魔法の自己組織化、思念法の強制属性は偉大だ。勝手に効果が続いてくれるんだから」

「今、背嚢は空でしょう。袋の布を浮揚させているの?」

 アンはかなりの興味を持った様子だった。僕も説明に興が乗ってきた。

「背嚢の中の仕切り板。ある程度の大きさと強度が無いと駄目なんだ。もちろん、中が空でなければ背嚢全体に強制浮揚術を掛ける」

 僕は「例えば」と足元の小石を指さした。

「その石を背嚢に入れて、石のみに強制浮揚術を掛けたとする。その場合、同時に僕の体も持ち上げるためには、その小さな石一つにかなりの魔法力をそそぎ込まなければならなくなる。しかし、小さな物に過剰に魔法力をそそぎ込むと……」

 僕がいったんそこで言葉を切ると、アンは訝しげに「ん?」と首を傾げた。

「キーンと金属的な高音が鳴り始めて、その内に石が砕け散る」

「へえ」とアンは声を漏らした。「知らなかった。そんな現象があるんだ……。直接、自分の体に強制浮揚術を掛けるのは?」

「同時に他の魔法を使うと、強制浮揚が解けてしまうことがある。だから役割分担」

「以前、アルさんとマノン様が空飛ぶ船の話をしていたけど……」

「ああ」と僕は思い出した。「大船を飛ばすのは大変。小舟は飛ばしても邪魔になるだけ。結局、背嚢と仕切り板で必要かつ十分、最も効率が良い。それが僕の結論」

 アンはフーンと鼻を鳴らすと、自身の背嚢から水筒を取り出し、お茶を飲み始めた。僕も自分の水筒に口を付けながら次の言葉を待っていると、アンが「ねえ」と言った。

「ケイはいつからそんな飛び方をしているの?」

「去年の秋の半ばから。カプタフラーラの片道十時間にはさすがに参った」

 そしてあの夜、僕よりも力の弱かったはずのカイルがそれほど遅れずに付いてきたから。あの時、なぜかカイルも行商人用の特大背嚢を背負っていた。きっと、カイルもこの飛び方をしていたに違いない。

「私に強制浮揚術を教えて」

「本当にずっと行商に付いてくるの? 別に嫌だと言っている訳ではないんだけど」

 アンはしばらく何かを考え込むと、真剣な表情でおもむろに言った。

「海を越えられる」

 意外すぎる話の飛躍に、僕は呆気にとられた。

「二人の体を綱で繋いで、二人の背嚢に強制浮揚術を掛けて、交代で休憩や睡眠を取って、強制浮揚が消えそうになったらすぐに掛け直せば、どこまでも飛んでいける」

 アンは天才なのだろうか。それとも、ただの夢想家だろうか。未知の土地への冒険の旅。実際に出るかどうかはともかく、習得しておいて損は無い技術ではある。それは普通の野営にも、もちろん日常生活の役にも立つ。

 昨年の秋、フレクラント国高等学院の地下でカイルが見せた魔法の多重発動。光球や物品がそこら中に浮いていた。あの時は戦慄したが、あとになって考えてみれば、仕組みは単純。多分、あの光球は強制光球、何もせずとも勝手に光っていただけ。多分、物品に掛けられていたのは強制浮揚術、何もせずとも勝手に浮いていただけ。つまり、全ては強制属性のなせる業。カイルは驚異の多重発動など行なっていなかったのだ。

 思念法使いにとっては当然の技術に違いない。太古の人々はあの水準の技術を日常的に駆使していたのだろう。あそこまで実用性の高い技術となれば、秘匿の約束を守っているアンに敢えて隠す理由は思い付かない。

 そんなことを考え始めた時だった。離れた所から「猿と狸」という声が聞こえてきた。見ると、公園内の向こう側に親子連れの姿。子供が僕たちを指さしていた。

「そろそろ行こう」と僕はアンに声を掛けた。「朝市が終わる前にロスクヴァーナに着かないと、果物を仕入れられなくなる」

 アンは「うん」と頷き、腰を上げた。今のところ、海を越える話にこだわるつもりは無い様子だった。

 

◇◇◇◇◇

 

 いよいよ春。ナギエスカーラ高等学院の新年度が始まった。そして、新年度最初の行事と言えば舞踏会。今年こそはと意気込んで、僕はアンと共に学院の会堂に乗り込んだ。

 会堂の入口には予定表が貼り出されていた。主催者による模範演技、参加者全員で簡単な練習。主催者指定の相手との舞踏。自由に選んだ相手との舞踏。アンによれば、段取りは昨年と同じとのことだった。

 会堂内は学生たちで混み合っていた。一見したところ、男女比は二対一。人数から考えて、参加者の多くは新入生。学年に関係なく参加可能となってはいたが、やはり社交舞踊は敷居が高いのだろう。ほとんどの上級生には敬遠されてしまっていた。

 僕と同様、新入生の大半にとっても社交舞踊は初めての様子だった。僕も新入生に混ざって上級生から基本の足運びを教わり、案山子のような状態から何とか脱した所でちょうど練習は終了。参加者全員が壁際に退き、いよいよ舞踏会の開始となった。

 まずは、籤引きで決まった相手との舞踏。女子は二回、男子は一回ずつ踊ることになっていた。主催者が次々に番号を読み上げ、該当者が会堂の中央に歩み出る。音楽愛好家の学生と学院外の専業演奏者からなる楽団が優雅な曲を演奏し始める。すると、会堂中央のあちらこちらで男女の組がばたばた、よろよろ。壁際からは、歓声、冷やかし、笑い声。そんなことが何度か繰り返された後、いよいよ僕の番号が読み上げられた。

 僕の相手は四年生、後期課程に在学中の女子だった。あまりの気恥ずかしさに、顔の火照りが治まらなかった。結局、何をどうしたのかもほとんど記憶に残らないまま、僕の出番は終了した。

 一時間以上が経った頃、全員が少なくとも一回は踊り終え、そこから後は自由時間となった。ところが、アンと踊ろうと思ってみても、アンの周りには人だかり。僕が全く近付けないままに曲が始まり、アンは見知らぬ男子学生と踊り始めてしまった。

 さすが、エスタコリン王国第二位の貴族家の令嬢。相当な経験を積んでいるに違いなく、アンの舞踏は全参加者の中でもひときわ優美で軽快。辺りを見回してみると、壁際に控える学生たちの多くもアンに目を向けていた。

 参加者たちは徐々に、壁際で雑談に耽る者と、積極的に相手を変えて踊り続ける者に分かれていった。アンは踊り続ける側。僕は独り壁際に立ち続ける側。僕は密かに苛立ちと焦り、微かな嫉妬を覚え始めた。

 アンの容姿と華麗な舞。アンに群がる男たち。断ることを知らないアン。近寄り切れない僕を無視し続けるアン。育ちと素養の違いを見せ付けられて、何だか嫌になってきた。

 何だよ。一回ぐらいは男たちの申し込みを断って、僕の所に来てもいいじゃないか。そんな風に拗ねているのを自覚しながら、僕は会堂を後にして食堂へ向かった。

 食堂の中、柑橘系飲料を手に、ゆっくりと独りになれる場所を求めてさまよっていると、突然僕を呼ぶ声が聞こえてきた。僕は呆気にとられて、その向かいに腰を下ろした。

「何でこんな所にいるんですか」

「学院の関係者でなくても、食堂を使えるんでしょう?」

「使えますよ。でも、そういう意味ではなくて」

「ケイ君の言う通りに、この春からノヴィエミストの出張所に配置転換してもらった。そして今は、ノヴィエミストからナギエスカーラに出張中」

「結婚の申し込みが殺到しているんでしょう。それを全部断って?」

「それを全部保留して」

 そう言って、西の大公家の次女イエシカさんは鼻で笑った。

「大公様や家令殿は反対したでしょう」

「全然」とイエシカさんはあっさり否定した。「王家のアルヴィン陛下が、ぜひ行かせてやってほしいと口添えしてくださったし」

 僕は意外に思った。またもや、寛大なる前国王のアルさん。

「今日は休日ですけど、学院に用ですか?」

「ううん」とイエシカさんは首を振った。「街で、今日は学院と学校で一斉にお祭りみたいなことをしていると聞いて。でも来てみたら、新入生歓迎の舞踏会でしょう。仕方が無いから、ちょっとだけ食べて宿に帰ろうかと思っていた所」

 イエシカさんはそこまで言うと、周囲を見回した。

「あの子はどうしたの? アンソフィーは」

「踊り続けていますよ、僕には見向きもせずに。舞踏会ってそういうものなのかも知れませんけど、僕には踊る相手も話し相手もいないし、嫌になってしまって」

「あら、あら」

「こういうのを社交界と言うんでしょう? 僕が居るような場所ではありませんね」

 イエシカさんは首を傾げて笑みをこぼした。

「それなら、私と踊ろうか。私が紛れ込んでも大丈夫でしょう?」

 思わぬ提案に、僕は絶句しかけた。

「大丈夫だとは思いますけど……」

「あの子は大して踊れもしないくせに、旦那様を放り出して何をいい気になっているのか……。私があの子の鼻を折ってあげる」

 イエシカさんはそう宣言すると、急いで料理の残りを頬張り始めた。

 会堂に戻ってみると、やはり僕と同様、居たたまれなくなってしまった者もいる様子。人が減り始めていた。それでも、会堂中央には踊り続ける男女たち。そこにはアンの姿もあった。

 アンを取り巻く男たちはアンの頭で輝く吉祥の髪飾りをどう見ているのだろう。しかも、それは既婚者用。自分たちにはもはや可能性が無いというのに。いや。それは僕の考え過ぎだろうか。単に上級者に踊りの手解きをしてもらいたいだけだろうか。

 程なく曲が終了し、踊り続けていた男女が会釈とともに解散した。

「いよいよ、次が最後です。後悔しないよう、踊りたい人は迷わず前に出て」

 主催者たちからそんな呼び掛けが飛んだ。次の瞬間、ぐいっと腕を引っ張られた。イエシカさんは素知らぬ顔で会堂中央に向かおうとしていた。「えっ。何で」とアンの声が聞こえたような気がした。

 最後の演奏が始まった。まさに会堂の中心点。イエシカさんが動き始めた。控え目でもなく、ためらいがちでもなく、躍動感に溢れる雄大な踊り。それに引っ張られて、僕の歩幅も広くなった。目が回りそうな勢いで、ぶんぶん、ぐるぐる。衝突回避のためだろう。僕たちの周囲から人がいなくなった。これぞまさしく武闘会。舞踏は武闘の一種だった。

 演奏が終わり、僕とイエシカさんが最後の挨拶を交わすと、あちらこちらで溜め息が漏れ、拍手が沸いた。ふと見ると、アンが怖い表情で僕たちに近付いてきていた。これぞまさしく武闘会。姉妹の対面は武闘の一種だった。

「あら、あら。奥様はどちらにいらしたのかしら」とイエシカさんが声を掛けた。

「なぜ、お姉様がここにいるのです」

「皆様に見苦しい所をお見せしないよう、場所を変えましょう」

 そう言いながら、イエシカさんは僕の腕を取った。

 今日は休日。それでも今日に限っては学院内のそこかしこに人の影。僕たちはそのまま運動場の隅へ向かった。周囲に人気が無くなった所で、イエシカさんは歩みを止めた。

「お姉様。ケイから離れてもらえませんか」

 イエシカさんはこれ見よがしに僕の腕を取り続けていた。

「アンソフィー。ケイ君をほったらかして何をしていたの?」

「ここでは社交舞踊の経験を持つ者は少ないのです。しかも、皆恥ずかしがって前に出てこようとしません。ですから、経験者が率先して踊り続ける段取りとなっていたのです」

 僕は唖然とした。僕にとっては初の参加。そんな段取りがあったとは全く知らなかった。一方、イエシカさんは首を振って溜め息をついた。

「それならなぜ、ケイ君を放っておいたの。どう見ても、ケイ君も初心者でしょう」

「それは……」とアンは言い淀んだ。

「ケイ君には踊る相手がいなかった。だから私が踊った。何か問題でも?」

「いいえ」とアンは渋々認めた。

「ケイ君。フレクラントにも『釣った魚に餌は要らない』という言い回しはある?」

「ええ」と僕は軽く肯定した。「揶揄と戒めの言葉として。特に、家を継ぐ立場にある女がそういう態度を取りがちと言われています」

「アンソフィー。私はお母様に命じられたの。スルイソラに行ったら、アンソフィーの様子を見てきなさいと。ヴェストビーク家の中には家格のゆえにそういう態度を取ってしまう者もいるのだと。そうしたら案の定」

「でも……」とアンは反論しかけた。

「あなたが生真面目なのは知っている」

 アンが口を閉ざした。

「ねえ、ケイ君。こんな気の利かない子とは離婚して、私と結婚しない?」

「お姉様。ケイから離れて」

 これ以上はまずい。僕はそう思い、組んでいた腕をさりげなく外した。

「冗談よ」とイエシカさんは笑った。「アンソフィー。あなたにケイ君をあげます」

 アンは僕に近寄って来ると、僕の腕を取って引っ張った。

「あげますも何も、ケイはお姉様のものではありませんから」

「あら、あら。あなたはケイ君のことを何も知らないくせに。例えば、ケイ君はノヴィエミストで何と呼ばれているか、ちゃんと知っている?」

「知っています。蝗退治の魔法使い。連合国から表彰された魔法使い……」

「違います。流星の魔法使いです」

 アンはエッと声を漏らすと、「そうなの?」と僕に尋ねてきた。

「イエシカさん」と僕は呼び掛けた。「気遣いには感謝します。もう十分ですから、終わりにしませんか」

「ケイ君がそう言うのなら」とイエシカさんは頷いた。

 せっかくここまで来たのだから、今夜は一緒に夕飯でも。本来ならそう声を掛けるべき所なのだろうが、イエシカさんは先ほど食事を摂ったばかりだった。その上、今は雰囲気が悪く、明日の夕飯を申し出て、そこで解散となった。

 後片付けに加わるために僕とアンの二人で会堂に戻ってみると、すでに掃除は終わり、椅子の並べ直しが始まっていた。その作業に加わりながら、僕は大統領府で貰った冊子の内容を思い返した。

 いわく、人は魂と器からなる。夫婦の魂の繋がりは主に対話によってもたらされ、夫婦の器の繋がりは殊に交合によってもたらされる。いわく、特に支障の無い限り、夫婦は常に触り合うべし。それらは挨拶代わりの軽いものを良しとする。いわく、特に支障の無い限り、夫婦は毎朝接吻を、毎晩交合を行なうべし。それらは挨拶代わりの軽いものでも可とする。

 夫婦の絆の確立と維持を最優先とせよ。それが冊子に記載されている事細かな勧告の主旨だった。理想論と現実論、道徳と倫理、対話による思想の同一化、夫婦間の性解放と性技、その他もろもろ。多分、夫婦の絆は本来脆弱なものだからこそ、様々な側面から多岐にわたって詳述しているのだろう。しかし今の僕にとっては、抽象的な論考も含めて全ては本質を外した単なる方法論としか思えない。

 三級屈辱刑の時、僕の両親はひたすら傍観。普段はしつこいほどに僕に関わっておきながら、いざとなったら傍観者。最も近しい血の繋がりがあったとしても、結局はその程度の関係に過ぎない。

 僕は何を浮かれていたのだろう。僕とアンは血を分け合った訳でもなく、魂を分け合った訳でもない。あらゆる意味でアンは僕を最優先、僕はアンを最優先。そんな関係など本来的に成立し得るはずがなかったのだ。その時々がそれなりに楽しければそれで良い。それが望みうる最大限なのかも知れない。

 

◇◇◇◇◇

 

 一週は五日。週の第五日は休日。僕たちは規則正しい生活を続けようと一応は決めていた。最初の休日は掃除洗濯。次の休日は行商。さらに次の休日は掃除洗濯。さらにさらに次の休日はのんびりまったり。今日はのんびりまったりの日のはずだった。朝、布団の中でアンが寝返りを打ち、蹴りと肘打ちが僕を安眠から呼び覚ました。

 二人揃って身繕い。顔を洗って口を漱いで挨拶代わりの接吻。その体勢のまま、「今日もまたかな」とアンは言った。

「分からないけど、規則性から導き出される結論は、十分に可能性あり」

 僕の勿体ぶった口振りに、アンは拗ねたようにウーンと鼻を鳴らした。

「絶対にのんびりまったりの日を狙っているよね」

「異郷にあって故郷を異常に恋しがるのは懐郷病という心の病。無碍にあしらう訳にもいかないよ」

「ケイは本当にお姉様に甘いよね」

 その時、玄関の扉を叩く音が聞こえた。結局、のんびりまったりの日がのんびりまったりしたことは未だ一度もなかった。

「ほら、何をしているの」とイエシカさんは威勢よく言った。「宿でお弁当を三人分作ってもらったから、今日は蝗の平原まで遠出してみよう」

 僕は苦笑した。「してみよう」ではなく「連れて行って」の間違いなのは明白だった。

「お姉様」とアンの口調が険しくなった。「いつもの通りに、昨晩からナギエスカーラの宿屋に御宿泊でいらっしゃいますか」

「そう。昨日の昼前にノヴィエミストを発って、夕方ナギエスカーラに着いて。やっぱり、ここは遠いわね。ずっと飛びっぱなしで昨日は疲れた」

「そして、今回も一週間の御予定で御滞在なされるお心づもりでいらっしゃる」

「そう。その御予定であらせられます」

「そのようにお遊び回っておられますと、御失職のお憂き目にお遭いになられますよ」

「あら、あら。これが私のお仕事なのだけれど」

 二人にとっては挨拶代わりのいつもの儀式。僕は深刻そうな表情を作って割り込んだ。

「アンもそんなにむきになるなよ。イエシカさんもアンをからかうのはやめて」

 イエシカさんは軽く笑い声を漏らした。

「違うでしょう。ここは懇願しなさいよ。『ねえ、やめてよ。お願いだから、僕のことで喧嘩するのはやめてよ』って」

 僕は思わず吹き出してしまった。

「アンソフィー。私は敢えてあなたに危機感を持たせているんです」

「お姉様。だからと言って、しつこすぎます」

 その瞬間、イエシカさんは真顔になった。

「私が定期的にナギエスカーラに来ているのは正式な出張なの。今回は中央政庁の命により、今年の蝗害発生の可能性を探っています。少額だけど報酬も出すから手伝って」

 僕は猿の着ぐるみ、アンは狸、イエシカさんは家にあった予備の牛。さらに、僕の背中には行商人用の特大背嚢、アンの背中には板。板には数か所に穴があけられ、そこを通した平たく細長い帯で、板はアンの両肩と腹と両太腿に固定されていた。

 高空高速飛翔で強制浮揚術を併用するためには、術を受け切れるだけの大きさと強度を持つ物が必要になる。ただし、材質は何でも良く、形状も空気抵抗が増えなければそれで良い。そう思って手作りしておいた、名付けて亀の翼だった。

 さらには僕とイエシカさん、アンとイエシカさんを綱で繋ぎ、出発の準備が整った。蝗の平原の方角は知っていた。距離は通常の高空高速飛翔ならば休憩抜きで正味三時間強と聞いていた。家の戸締りを確認し、玄関口で僕は二人に声を掛けた。

「それでは出発」

 二人が頷くのを確認し、僕はイエシカさんに気付かれぬよう、さりげなく特大背嚢と亀の翼に強制浮揚術を掛けた。

「イエシカさんは浮揚に集中。僕たちが引っ張ります」

 僕とアンは手を繋ぎ、二人で飛翔を開始した。

 南西方域を一気に通り抜けると、そこから先は木の生い茂る山岳地帯。ただし、それほど高い山並みではなく、蝗でさえ山あいを抜けてしまう程度のもの。途中一回、山頂に降りて景色を眺めながら休憩。そして、ナギエスキーヌを発って約三時間が経った頃、眼下に平原が広がった。

 未だかつて目にしたことのない景色だった。フレクラント高原よりも広い平原に北東南の三方向から大河が流れ込む。それぞれ曲がりくねって、あちらこちらに三日月湖。西の海岸線付近で合流し、その近辺には巨大な三角州が形成されていた。

 着陸場所を求めて三角州に差し掛かった時だった。突然、僕たちの横方向で光爆が起きた。付近に誰かいる模様。多分、僕たちの存在に気付いて合図を送って来たのだろう。そう思って高度を下げると、さらに異様な光景が目に飛び込んできた。

 まるで透明な巨人が足跡を残していくかのように、草原が円形にずん、ずんと押し潰されていた。呆気にとられて上空から眺めていると、人影が一つ近付いてきた。確かめてみると、見覚えのある男性。昨年の蝗退治で一緒になった常設警邏隊の中隊長だった。

 光爆による合図。足跡作りが止まった。中隊長を追ってわずかに木の生い茂る一角に降り立つと、そこは野営地、小さな天幕が五つ。遅れて周囲から男女二人ずつ四人の隊員が集まってきた。

「よう」と中隊長は改めて声を掛けてきた。「君たちは結婚したんだって? 良きえにし。巡り合えたることを言祝がん」

「ありがとうございます」と僕とアンは揃って頭を下げた。

「それで、そっちは……」と中隊長はイエシカさんに目を向けた。

「私はエスタコリン王国中央政庁総合調査官、イエシカ・ヴェストビークです」

「ヴェストビーク……。あなたが西の大公家の次女殿か」

「はい」とイエシカさんは頷いた。

「お初にお目に掛かる。私はブレソル・ビエラディエル。フレクラント国大統領府常設警邏隊で中隊長を務めている。お見知りおきを」と中隊長は会釈した。

「中隊長殿。こちらこそお見知りおきを」とイエシカさんも会釈を返した。

 互いにこの出会いを予期していたのか、イエシカさんと中隊長たちは早速情報を交換し始めた。僕は周辺の景色を眺めながら、その会話に耳を傾けた。

 毎年この時期、常設警邏隊は少人数の遠征隊を組み、蝗の調査がてら野営と魔法の訓練を行なっている。今年の蝗の調査結果は黒。蝗の大量発生は一度起きると数年にわたって繰り返されることがある。現在、蝗の成体数は推定で昨年の第一波直前の約六割。しばらくすると、もっと増えるだろう。その結果、昨年ほどではないが、今年も群れが飛び立つ可能性が高い。先ほど行なっていたのは大規模魔法の発動訓練。本格的に蝗を駆除していた訳ではなく、今回はその予定も無い。

「去年はぽっと出てきた若いのにあっさり片付けられてしまったからな。今年は我々ももう少し頭を使ってみる予定だ」

 そう言って、中隊長は苦笑した。

「この野営地に蝗は来ないんですか」とイエシカさんは尋ねた。

「来る。だが、他の所よりはましだ。やはり、蝗は基本的には野原の虫なのだろうな」

「なぜ、大昔の生態系は全然復活しないんでしょうね」

「いや」と中隊長は首を振った。「森林化は周辺部から徐々に進んでいる。つまり、千年では復活しないほどに、元々の焼け野原は広くてひどい状態だったということだな」

「そうだったんですか」とイエシカさんは意外感をあらわにした。

「鳥や小動物がもっと戻って来れば、蝗も餌になって減るのだろうし、森林化も速くなるのだろうが……、私は生態系の専門家ではないので、詳しいことは分からないが」

 その時だった。会話を遮って、隊員から「昼飯にしましょう」という声が上がった。

 遠征隊は野性味に溢れる生活を送っている様子だった。今回の訓練は七日間。野草を摘み、魚を釣り、獣を捕まえ、食料とする。足りなければ持参した食材を追加。簡易浄水器を作って飲料水を確保。入浴等は川で済ませる。鍋や食器も現地調達。到着直後に道具と魔法を使って木器と素焼きの土器を作ったとのことだった。

 僕たち三人はナギエスカーラから持参した弁当。遠征隊の面々は得体の知れない焼き物と煮物。何となく申し訳ない気分で食事を始めると、中隊長が僕に尋ねてきた。

「去年は訊く暇が無かったが、君は温熱魔法を領域展開して予備発動したんだろう?」

 僕はハッとした。確か、その種の能力を潜在的に有するフレクラント人は五十人に一人。この人たちはきちんと理解していたのだ。

「我々も今回試してみたんだが、中々上手く行かなくてな。どうしても、君ほどの広域展開は出来ない」

「先ほど、草原を潰していましたよね。あれはどうやったんですか」

「下向きの浮揚魔法を領域展開して実発動したんだ」

「一気に押し潰すんですから、相当強烈な魔法ですよね。温熱の方は威力を弱めれば、その分だけ広く展開できるはずですけど」

「いや」と中隊長は首を傾げた。「蝗をようやく殺せる程度にまで威力を抑えても、あそこまで広くは展開できない」

 僕は思い当たってアアと声を上げてしまった。

「僕は蝗を殺してはいないんです。大部分を動けなくなる程度に熱して落として積み上げて、そこに籠った熱で蒸し焼きにしただけです」

「あっ。なるほど」と皆は声を上げた。

「だから、なるべく積み上がるように落とすのがこつなんです。ただし、それほど積み上がらなかったとしても、墜落するような熱を受ければその内に死ぬとは思いますけど」

「そうか……」と中隊長は呟いた。「直接、殺す必要は無かったか……。それからもう一つ。君は何度も繰り返して魔法を発動していたようだが、良く余剰精気が持つな」

 僕は返答に困った。温熱魔法に強制属性を加えて勝手に予備発動させておき、その間に強制吸入術で余剰精気を補充する。この口振りでは多分、この人たちはその種の技術までは知らないのだろう。

 明かしてはならないと散々警告されたのだから。そう思って、僕はごまかした。

「とにかく、あらかじめ目一杯に精気を吸っておく。それ以外に手はありませんよ」

 中隊長は「そうか」と小刻みに頷くと、首を傾げた。

「それにしても、あれほど出来る君にどうして武闘会では気付かなかったんだろう」

「武闘会を見に来ていたんですか?」と僕は意外に思った。

「もちろんだ」と中隊長は鼻で笑った。「常設警邏隊は学院別武闘会と全国武闘会の運営に協力している。ちなみに常設警邏隊員は全員、全国武闘会の優勝経験者」

「中隊長さんも」と僕は思わず聞き返してしまった。

「私は三百年ぐらい前に」

「他の皆さんも全員ですか」と僕はしつこく聞き返してしまった。

「優勝者は毎年一人ずつ出る訳だから、少ないとは言え珍しくはない」

 太古の魔法使い。思念法の使い手。僕は一部に対してそんな風にうそぶいていたが、やはり有能な使い手はそれなりにいるのだと再認識した。

「常設警邏隊には全国優勝しないと入れないんですか?」

「必須の条件ではないが、参考にはしている」

 そう言うと、中隊長はアンに目を遣った。

「確か、君は一昨年の全国三位だったな」

 僕は改めて認識した。武闘会の優勝には実質がある。単なる名誉ではない。フレクラント国高等学院の生命学専攻は僕から名誉と実質を奪った。

 そこでいったん会話が途切れ、食事を再開してしばらくした頃だった。アンがためらいがちに「あのう」と口を開いた。

「私は歴史学と考古学をやっているのですが……」

「おう」と中隊長は嬉しそうに応えた。「聞いている。華のカプタフラーラの発見は話題になっているからな。君も調査隊に入っていたらしいな」

「はい」とアンは小さく頷いた。

「北の大森林に砦を作ったんだろう? そこに宿屋を開いたら儲かるぞ。フレクラントから見物客が押し寄せて。我々も今年の秋の訓練はあちらまで行ってみようと思っている」

「そのカプタフラーラに関連するのですが、この蝗の平原に遺跡は無いのでしょうか」

 中隊長は「さあ」と首を傾げた。他の隊員たちも「聞いたことがない」と言った。

「スルイソラ連合国とこことの間には山脈がありますが、徒歩で十分に通り抜けられる地形です。ここもかなり広い平野ですから、過去に人が入植していたとしてもおかしくないと思うのですが」

「それはカプタフラーラと同時代の話?」と中隊長は尋ねた。

「はい」とアンはゆっくりと頷いた。

「どうだろう。人がここまで到達した可能性は当然ある。現にこうやって我々もいるのだから。しかし、ここには暴れ川が集中している。よほどの治水技術が無い限り、大規模な定住は難しいのではないだろうか」

 アンはそこであっさりと引き下がってしまった。元々、ここにも遺跡があるかも知れないと言い出したのは僕。アンは遺跡など無いという立場だった。代わって僕が質問した。

「ここよりもさらに南はどうなんですか」

 その瞬間、数名の隊員がウッと呻いた。

「南は駄目だ」と中隊長は吐き捨てた。「動植物の生態が全く違う。徐々に密林が増えていき、降り立てる場所が見付からなくなる。見付けても、降り立ってふと足元を見ると、無数の蛇が日向ぼっこ。びっくり仰天、慌てて逃げ出すのが関の山。南はそんな所だ」

 僕とアンとイエシカさんが同時にウーンと呻いた。

 昼食を終え、しばらく周囲を散策し、ナギエスカーラへの帰り支度を始めようとした時だった。中隊長が真剣な表情で僕に近寄ってきた。

「今回も蝗が群れで飛び立つようなら、我々が新しい方法で対処してみるが、手に負えないようなら、また手伝ってくれ」

 僕が返答をためらうと、中隊長は怪訝そうに首を傾げた。

「去年、君はスルイソラ連合国からかなりの報奨金を貰っただろう。それはそういう奉仕活動も込みの額だと思うぞ。少なくとも十年分の」

 僕はアンとイエシカさんから離れ、中隊長と二人きりになった。

「連合国評議会で聞いたんですけど……、フレクラント国は敢えて蝗の群れを殲滅しない方針なのだと。敢えて残して、スルイソラにも対処させているのだと」

 中隊長はアアと何かに思い当たった様子だった。

「君がやってしまったものだから、大統領が方針を変えたんだ。連合国評議会に『我々の有難味を忘れたら、また半分残すぞ』と伝えて、これからは退治に掛かる経費と報酬を払うよう要求したんだ。次も参加したら、君にもその分け前はあるはずだ」

 僕は鼻で笑った。

「多分、評議会の議長さんが愚痴っていますよ。何でそんなに高圧的なんだと」

「誰かが高圧的に押さえ付けないと、スルイソラは分裂してしまうのだそうだ。あの者たちは決して純真無垢な子供ではない。そのことは良く理解した方が良い」

 その時、生暖かい風が草原を吹き抜けた。徐々に崩れていきそうな空模様。僕は中隊長に別れを告げ、アンとイエシカさんの所に戻った。

 

◇◇◇◇◇

 

 僕に背を向けて立つ全裸のアン。僕も裸のままアンを背後から抱き締める。アンが両腕を前に伸ばす。僕も両腕を伸ばしてアンの両手首を掴む。夫婦だからこそ出来ること。

「行くよ。全身で感じて」

 僕の囁きにアンは無言で頷く。僕も集中。そしてアンの中に注ぎ込む。

 僕の強制浮揚術がアンの全上半身を経由して、床に置かれていたアンの下着に掛かった。フワッと宙に浮かぶアンの乳押え。僕はアンから離れて、強制浮揚術を解除した。

「はい。感覚を忘れない内に」

 僕の声に続いて、アンが強制浮揚術を発動させた。ふらふらと宙を漂うアンの下穿き。

「はい。今度はアンが解除。そしてもう一回、強制浮揚」

 下穿きが床に落ちた次の瞬間、アンの髪がブワッと逆立った。次いで両の乳房がグイッと持ち上がり、最後に下穿き。僕が「残念」と宣言すると、アンは大きく息を吐いた。

 最近の起床直後の日課と言えば強制浮揚術の練習。しかし、中々上手く行かなかった。強制浮揚の感覚が完全に残っていれば、アンも発動できる。しかし途中、強制浮揚の解除など他の魔法を使用すると、それによって強制浮揚の感覚が損なわれ、次は誤発動となってしまう。今回は単なる浮揚術が頭から胸を通り抜けて下穿きに到達しただけだった。

 今朝も凄いものを見てしまったと密かに感嘆しながら、僕は「大丈夫」と断言した。

「事実として、アンには強制浮揚術を発動させる能力があるし、硬化魔法や強制吸入術を身に着けた時よりも進歩が速い」

 僕の激励に、アンはウームと何となく頷き、浮揚魔法で下着を引き寄せた。僕も衣類を身に着け、その後しばらくアンは強制浮揚術の練習、僕は家事を開始した。

 強制浮揚術の練習台は軽くて柔らかい物でなければならない。初めての時、アンは僕の下着を選んだ。宙を飛んで壁を突き抜けようともがく僕の下穿き。僕は慌てて掴み取り、それ以降の練習台は全てアンの衣類となっていた。

 普段、魔法使いは浮揚魔法と飛翔魔法を無意識に切り替えながら発動している。そのため、浮揚と飛翔という語の使い分けも曖昧。しかし本来、両者は似て非なるもの。浮揚は浮くこと。飛翔は浮くことと移動すること。強制浮揚術では移動を厳格に排除しなければならない。さもなければ、目を離した隙に漂ってどこかへ行ってしまう。

 そんな水準の厳格さを身に着けていた太古の思念法使いはやはり素晴らしい。僕のその感想をアンも最近実感し始めている様子だった。

 今日は休日、掃除洗濯の日。僕にとっての楽しい時間はこれで終わり、アンの時間が始まった。アンの指示の下、僕はひたすら水汲みと洗濯、アンは掃除。アンは四年半、姉のエメリーヌの家に居候していた。その間にかなり鍛えられたのだろう。掃除器の扱いも手際良く、あっという間に作業を終えてしまった。その後は、僕が洗い終えた衣類をアンが温熱魔法で乾かしていく。二週間分の洗濯物も小一時間で全て片付き、いつも通りに掃除と洗濯は終了した。

 そしていよいよ、ここ最近の頭痛の種。朝食の時間がやって来た。

 ナギエスキーヌのこの家で独り暮らしをしていた昨年、僕は学院の食堂に鍋を持ち込み、そこで休日の食事を調達していた。しかしアンは、それを続けるのは体裁が悪いと言う。自分もここにやって来ては、散々それを食べたくせに。僕はそう反論したが、今後のこともあるのだから自炊も覚えなければと、結局はアンに押し切られてしまった。

 そこで直面した問題は、僕たちには調理の腕が無いこと。僕は中等学院二年生の途中から寮に入り、ほとんど調理をしなくなってしまった。アンは僕の姉エメリーヌから一応調理を教わったらしい。とは言っても、味付け等はエメリーヌが担当していたらしく、アンが身に着けたのは煮る、焼く、炒める等のまさに根本的かつ原始的な作業だけだった。

 結局、座卓の上には、白米、街の市場で買った小魚の振り掛け、漬物、お茶。休日朝の軽食だからと一応は納得したものの、夜はこれでは涙目不可避。そう思った瞬間、「ねえ」とアンは言った。

「突き詰めれば味付けの問題だよね」

「うん。味が良ければ、調理の形式や見栄えや食感なんて二の次」

「常設警邏隊の人たちには、野性味が足りないと叱られそうだけど」

 アンのその冗談に、僕は含み笑いをしてしまった。

「何でもかんでも火を通せば食べられるなんて無理。そんなのは到底続かない。あの人たちだって、調味料とか色々持ち込んでいたし」

「それなら」とアンは真剣な眼差しで僕を見詰めてきた。「これからモレポゾールに行ってみない? あそこの食事は感動的なぐらいに美味しかったんでしょう?」

 僕はそこはかとなく嫉妬の気配を感じて「はい」と神妙に頷いた。

 東へ向かって中空中速飛翔を続けて半時間弱が経った頃、眼下に港町が見えてきた。その向こうには果てしなく続く東海。漁の最中と思われる船が点在し、はるかかなたの水平線は霞んで茫漠としていた。

 昨年の夏、イエシカさんと来た際に聞いた所では、モレポゾールの街は漁業の拠点の一つであり、朝には出漁、午後には帰投、そんな光景が一年を通して見られるらしい。さらには、海岸線に沿った地区では海藻や貝が収穫されている。モレポゾールからナギエスカーラまでは徒歩で約四時間の距離。日干しにされたり塩漬けにされたりした海産物が連日、ナギエスカーラなどへ向けて出荷されているとのことだった。

 アンは内陸育ち、僕は純然たる山育ち。僕たちにとって海は珍しく、僕たちは船着き場に立ち尽くして海を眺め続けた。磯の香り、波の音。間近な海面に目を遣ると、高い日差しが水面に反射してきらきらと輝き、その下を小魚がちょろちょろと泳ぎ回っていた。

「東地方中等学院でも水泳の授業はあったんだろう? どれぐらい泳げるようになった?」

 アンはフフンと鼻で笑った。

「犬掻きと平泳ぎと背泳ぎぐらいなら。エスタコリンでその話をすると、皆驚く。エスタコリンでは普通、水泳なんて習わないから」

「でも」と僕は海の波を見詰めた。「フレクラントでは、そこらの小川を掘って川幅を広げて水泳場にしているだろう。そこで身に着けた泳ぎ程度では、海は無理だよな」

「先生たちは『とにかく、慌てて溺れたりしなければそれで良い』と言っていたけど。落ち着いて浮揚魔法を使えば良いのだからって。そして、はい、泳ぐーう。はい、泳ぐーう」

 僕は「そう、そう」と笑い、やはり大海を越えるのは並大抵のことではないと思った。ここは入り江の奥、波打ち際の桟橋。自然精気の環境中濃度は極めて低かった。

 遠く小さくなっていく船団。その姿を見送りながら簒奪の魔女は時を待つ。そんな情景がふと脳裏に浮かんだ。本で読んだ物語だろうか。それとも誰かから聞いた話。

 飽きることなく海を眺め続けた後、僕たちは船着き場近くの食堂へ向かった。街の住人の多くは漁師や海産物加工業者、ナギエスカーラを始めとする南方域の各地に商品を出荷する商人。いわゆる勤め人らしい勤め人は多くなく、決まった時間帯に皆が一斉に食事を摂る訳ではないらしい。そのため、昼食時にもかかわらず、食堂の客入りは程々だった。

 僕とアン。古ぼけた木造の食堂の隅で差し向い。食事中、アンの顔には笑みが浮かび続けていた。海の幸を中心とする料理を美味そうに頬張るアン。その姿を僕はほのぼのとした気分で眺めながら食事を続けた。

 エスタコリン王国の料理にも共通する、フレクラント国には無い味わい。何が違うのだろうと思って、調理場で料理を続ける親父さんに声を掛けると、親父さんは「ひしを」と言った。

「俺が前に聞いた話では、草びしをや穀びしをはどの国にもあるが、フレクラントにだけは魚びしをが無い。特に魚醤油。穀びしをの醤油とはこくが違う。あとは魚や海藻からとった煮出し汁かな」

「あのう」と僕は恐る恐る尋ねた。「ひしをって何ですか」

「しようがねえなあ」と親父さんは鼻で笑った。「塩漬けにして発酵させたもの」

 僕たちの食事が終ろうとする頃だった。手がすいたらしく、親父さんと奥さんが僕たちのそばにやって来た。

「よう。蝗の。また来てくれたのか」と親父さんは言った。

「覚えていてくれたんですか。いきなり『フレクラントにだけは』とか言うから、もしかしたらとは思っていたんですけど」

「忘れるもんか」と親父さんは豪快に笑った。「去年の夏、兄ちゃんは着ぐるみを着ていただろう。『蝗退治の魔法使いの正体は猿の着ぐるみ』なんて、そんな訳の分からん話があるかと思っていたら、本当だったんだから」

「いや。いや」と僕は苦笑した。

「で、そちらのお嬢さんは」と親父さんはアンに目を向けた。「吉祥の……。兄ちゃんは結婚したのか」

 僕が「はい」と答えると、親父さんはヘエと首を振った。

「前世でどんな徳を積めば、こんな美人さんと……」

「ケイの妻のアンです。どうぞよろしく」とアンは神妙に挨拶した。「昨年はケイと一緒に私の姉もこちらに伺ったようで……」

「お、おう」と親父さんは言葉に詰まる様子を見せた。「あの兎は姉さんだったのか……。姉妹でも随分違うんだな。姉さんの方は賑やかできりっとした美人さん。妹の方は大人しくて色っぽい美人さん……」

「あんた」と奥さんが親父さんを牽制した。

「親父さんも前世で随分、徳を積んだようですね」と僕はとにかく取り成した。

 親父さんは溜め息をつくと、「よう。蝗の」と声を掛けてきた。

「取っ替え引っ替えかと思ったぞ。くれぐれも変な気を起こすなよ」

「いや、いや。何を言っているんですか」と僕は慌てた。「今日こちらに来たのは、実はお願いがあって。料理の作り方のこつを教えてほしいんです」

 その瞬間、親父さんは笑みを浮かべながら軽く舌打ちした。

「面倒臭いな。こっちも仕事でやっている訳だし、そこまで暇じゃないんだ」

「そう言わずに話だけでも聞いてください。親父さんの料理、忘れられないぐらいに美味しかったから、わざわざまた来たんです」

 僕が目配せすると、アンも慌てたように「あ、あの」と声を発した。

「御主人。奥様。どうか話を聞くだけでも」

「御主人か」と親父さんは相好を崩した。「そんな風に頼まれたら、しようがねえなあ」

 食事を終えて、僕たちは親父さんたちの手伝いを始めた。僕は厨房に入って、出来上がった料理をアンに渡す。アンはお客さんの所に料理を運ぶ。しばらくすると、僕たちがいるとの噂が広がったらしく、店が混み始めた。男たちの目当ては明らかに給仕役のアン。まだ日が高いのに、酒を注文する客も出始めた。

 遂に満席になった。あまりの注文の多さに面倒になり、僕たちは料理や空いた食器を浮揚魔法で飛ばし始めた。僕とアンが合図代わりに適当な呪文を唱える。皆が固唾を呑んで注目する。皿が宙を漂い、オオと歓声が上がる。食堂は見世物小屋の様相を呈してきた。

 定時を過ぎて午後の一時閉店時間に入った。親父さんたちは今から休憩を取りながら遅めの昼食。夕方の開店に備えて追加の仕込み。それが日常の段取りとのことだった。

「今日は客の入りがすげえな。看板娘と看板蝗の威力か」と親父さんは感嘆した。

 アンがお茶を吹き出しそうになった。

「親父さん。その言い方は……」と僕は苦笑した。「親父さんたちには息子さんや娘さんはいないんですか?」

「いるにはいるが、看板にはならねえな」

 親父さんと奥さんによれば、息子さんは現在漁師。いずれは陸に上がって店を継ぐと言っているらしい。娘さんは商家に嫁ぎ、そちらの商売を手伝っているとのことだった。

「娘がもう一人いるんだが、そっちは今ナギエスカーラ師範学校の学生だ。初等学院か中等学院の先生になりたいんだと」

 そんな雑談を続けている内にも、親父さんはさっさと食事を終えてしまい、「さて」と言いながら厨房に入っていった。

「今から下ごしらえをしながら教えてやる」

 親父さんのその声に、僕たちも腰を上げた。

 結局、僕たちが店を後にしたのは、日没からかなり経った頃だった。別れ際、親父さんは未使用の魚醤油を一瓶くれた。それを背嚢に大切にしまい込み、二人で手を繋いで高空高速飛翔を続けること十分強。あっという間にナギエスキーヌの自宅に着いてしまった。

 土間の食糧置き場に瓶を並べ、次いで風呂の準備をしていると、アンが「ねえ」と声を掛けてきた。

「モレポゾールの街って意外に近いんだね。あれなら、また行ってもいいかも」

「うん」と僕は同意した。「親父さんたちの店だけでなく、普通に海産物を買いに行ってもいいな」

 その時、僕はふと思い出して含み笑いをしてしまった。アンが「何?」と訊いてきた。

「アンのこと、色っぽい美人さんだって」

 アンは絶句する様子を見せて頬を赤らめた。

 

◇◇◇◇◇

 

 春学期も後半に入っていた。そして僕とは違い、アンの研究は着実に進んでいる様子だった。午後の環境生命学研究室。部屋の真ん中の長机にはアンの成果が広げられていた。

「中々、面白そうな結果だな」

 エリク先生のそんな声に応えて、アンはまずスルイソラ連合国の歴史を説明し始めた。

 スルイソラ連合国ではエスタコリン王国と同様、約五千年前を境に、それ以前を先史時代、それ以降を歴史時代と呼んでいる。本来、先史時代とは文字記録が残っていない時代を指す用語だが、歴史時代のスルイソラの文献には先史時代の文献からの引用が散見される。つまり、先史時代にも何らかの文書は作成されていたものと推測されている。また、隣国フレクラントには先史時代のスルイソラを記述した文書がわずかに残っている。

 先史時代、スルイソラ人の居住域は現在の区分で言えば、北東、東、南、南西の四方域に限られていた。それらの地域は古くから大きく切り開かれ、当時から自然精気の環境中濃度は低かったと言われている。そして、スルイソラ人とエスタコリン人は東海沿いの経路を行き来していた。

 現在は無人となっている北西地域、および現在も有人の西方域は当時、少数のフレクラント人の居住域となっていた。それらの地域には森林が広がり、小集落が点在し、自然精気の環境中濃度は高かったと言われている。フレクラント人はフレクラント高原から大山脈を越えて南下し、北西地域と西方域を経由して南都ナギエスカーラに至っていた。

 先史時代後期、人口の増加に伴ってスルイソラ人の居住域は西側へ拡大していった。まず開拓されたのは現在の区分で言う中方域、次いで北方域。そして約六千年前、水や木材などの資源を巡って方域間に衝突が起き、西側への拡大と資源の奪い合いが加速した。

 当時のスルイソラ人はすでに魔法力や精気を感知する能力を失っていた。そのため、内陸の森林を無頓着に切り開いてしまい、自然精気の濃度も一気に低下してしまった。北西地域と西方域に住んでいたフレクラント人は居住域へのスルイソラ人の接近に懸念を抱き、最終的には当時未開拓の地が残っていたフレクラント国南地方へ移住した。

 スルイソラでは、約六千年前から約二千年前までを列国時代と呼び、それ以降を連合国時代と呼んでいる。列国時代のスルイソラでは、小国の乱立と衝突、統一政体の成立と崩壊が繰り返されていた。その後、スルイソラ全土を荒廃させた内戦の末に成立した統一政体、連合国が約二千年にわたって安定を保っている。

「ここまでのことはよろしいでしょうか。もちろん、先生は良くご存じだと思いますが」

 そう言って、アンは先生と僕の様子を窺った。

「連合国では中等学院で教わる内容だな」と余裕の先生。

「僕には」と僕は首を傾げた。「一つ初耳のことがありました。今は無人の北西地域にも少数のフレクラント人が住んでいたのは知っていましたが、そこにナギエスカーラへの経路があったなんて……。当時のナギエスカーラの人たちにとっては、『森の奥から魔法使いが現れた』という感じだったんですかね……」

「ところが」とアンは語気を強めた。「その定説には誤りがあると私は思います」

 僕と先生がほぼ同時に「ええ?」と声を上げた。

「分析はまだとても荒い段階なのですが」とアンは本題に戻った。「まずは連合国時代における、魔法への悪感情の強さの等高線図です。一部の例外を除いて、自然精気の濃度の等高線図と良く一致しています。つまり、両者に逆相関があるのは明らかです」

 先生はアンの作成した等高線図を覗き込んでフームと鼻を鳴らした。

「例外は、南都ナギエスカーラ、首都ノヴィエミスト、北方域の大山脈に近い辺り。その三カ所では悪感情が弱いのか……」

「はい」とアンは頷いた。

 連合国時代に入った頃、南都と首都に高等学院が設立され、魔法医術士の養成が組織的に行なわれるようになった。連合国では、魔法能力を持つ者の割合は極めて小さい。とは言え、集まればそれなりの人数になる。さらには、南都と首都にフレクラントの行商人が頻繁に来訪するようになった。

「その結果、南都や首都では魔法に馴染む機会が多くなったのではないかと……」

「そうだな」と先生は頷いた。

「北方域の山沿いの地域については、フレクラント人との友好的な交流が長いから」

「同意する」と先生は答えた。

「そして、それらを除いた資料を基に最小二乗法を用いて、魔法に対する悪感情と自然精気の濃度の変換式を導き出すことが出来ました」

「そうか。出来たか。そこなんだ、重要なのは」と先生は声を上げた。

 先生はアンが差し出した図表と数式を手に取ると、前のめりになって確かめ始めた。

「次は列国時代を飛ばしてそれ以前の先史時代ですが、資料のほぼ全てがフレクラント経由の伝承で、しかも数が少ないので、等高線図までは描けませんでした。ただし……」

 アンはそこで言い淀んだ。先生が「ん?」と続きを促した。

「その変換式を用いると、当時の居住域である北東方域と東方域の自然精気濃度は現在とほぼ同じと推定できるのですが……、南方域と南西方域では、自然精気濃度は零どころか負の値になってしまうんです」

 先生は再び「ええ?」と首を傾げた。

「つまり」と僕は口を挟んだ。「魔法に対する罵詈雑言だらけということ?」

「露骨な罵詈雑言ではないけど、否定的な表現が執拗に出てくる。それから魔法の魔。その言い方は先史時代の南部のスルイソラ人が始めたもの。凄く古い記録にそれらしいことが書いてあった。魔とは本来、災いの元とか人を惑わすものという意味。つまり、当時のスルイソラ南部では、魔法は災いをもたらす忌まわしい未知の技術と認識されていた」

「未知?」と僕は意外感を覚えた。

「当時のスルイソラ南部にも魔法を見聞きしたことのある人はいたんだろうけど、一般にはその実態は良く分からなくなっていたのだと思う。だから、魔と呼ぶようになった」

「分からなくなっていた?」と僕はさらに訊き返した。

「つまり先史時代、フレクラントとスルイソラ南部の間に人の往来は無かった。はるかな太古にはあったのだけれど、何らかの悪い理由で長期に渡ってほぼ途絶えていた」

 先生はフームと鼻を鳴らした。

「それならそれ以前には、魔法は何と呼ばれていたんだ」

「思念法です。フレクラントやエスタコリンの一部の者しか知らないことなんですが」

 アンの返答に、先生は再びフームと鼻を鳴らした。

「私は歴史学の専門家ではないが、君の推論はいかにも弱い」

「先生」と僕は口を挟んだ。「学術的な推論としてはともかく、気持ちは分かります。僕も『南西方域にはもう来るな』と言われて以降、かの地には行っていません。やはり、そこまで嫌われたら行きませんよ」

「途絶えていたのが事実なら、フレクラント側に記録が残っていることをどう説明する」

「あくまでも頻度の問題です」とアンは補足した。「完全にではなく、ほぼです。例えば、統治者間には時折接触があったが、それ以外には無かったとか。現に今でも南西方域はそんな状態です」

「頻度か……」と先生は呟いた。

「先生」とアンは意気込んだ。「先史時代の南方域と南西方域で何があったのかを調べる必要があります。環境生命学の研究と言うよりは、歴史学考古学の研究になってしまうかも知れませんけど」

 先生は腕組みをして考え込んでしまった。

「それを調べておかないと、今後環境が整備されて自然精気の濃度が上がったとしても、また下がってしまうかも知れません。もしかしたら、人々の意識や認識の問題で、そもそも濃度を上げられないかも」

 先生は大きく息を吐いた。

「話が大きくなってきたな……。確かに、魔法工芸の中心地も時代によって異なると言われている。列国時代には北方域と北東方域で細々と続いていたにすぎないと……。分かった。この調査と並行して、そちらもやってみたまえ」

 その時、僕はふとした思い付きに考え込んでしまった。

 人は海を渡ってこの大地にやって来た。北の大森林。南のスルイスラ。二手に分かれて入植したのだとしたら。現代のフレクラント人は大森林の人々の子孫。そして魔法使い。一方、現代のスルイソラ人はスルイスラの人々の子孫。そして先史時代、自然精気の推定値が負となってしまうほどに魔法への忌避感が強かった。

「サジスフォレ君」と先生が呼び掛けてきた。「君の研究の具合は?」

「先生……。魔法は自然強化魔術を発展させたものと言われています。それなら、人はいつどこでその能力を身に着けたんでしょう……」

 先生が「んん?」と怪訝そうな声を漏らした。僕はハッとした。

「いえ。ちょっとした思い付きです。僕の研究の件ですが、工房に吸収石と変換石の原材料が中々入荷しないので、精気視認器の制作が進まなくて」

「そこまでひどい状況か」と先生は呆気にとられた。「どうなっているんだろうな……」

「ですから今は、生命力方程式を色々な条件で解いてみたり、精密加工の練習をしたりしています」

「そうか」と先生は頷いた。「加工の練習をしているのなら、あとは原材料次第か。それでは今日はここまでにして、あとは各自の作業」

 先生の宣言に、僕とアンは「はい」と頷いた。

 僕は独り研究室を後にした。現在、吸収石や変換石の原材料を待っているのは生命力工学の学生数名と環境生命学の僕。一応、割り当ての取り決めは交わしていた。今日は入荷しているだろうか。そんな期待を抱きながら、学院内の小道を散策気分で工房へ向かった。

 午後の院内、そこかしこに学生の姿があった。ただし、すでに春学期も後半となり、一年生も学院の空気に馴染んでしまったのだろう。一目で新入生と分かる初々しい姿は見られなくなっていた。

 研究棟の間を縫う小道を進んでいくと、行く手には生命力工学専攻の主任と女子学生。二人は言葉を交わしながらこちらに向かってきていた。特に珍しくもない光景。一度はそう思った次の瞬間、僕は目を見開いて足を止めた。あれは女子学生ではなくイエシカさん。あの人は一体何をしているのだろう。この景色に馴染み過ぎ。そんな風に呆れながら、僕は近付いてくるイエシカさんを眺め続けた。

 制度上、エスタコリン王国には二種類の調査官がいるらしい。総合調査官は政庁からの指示に基づき、分野を問わずに情報を集めて回る。専門調査官は政庁からの指示が無くとも、特定分野の情報を収集し続ける。そして、イエシカさんは中央政庁の総合調査官。

 別にこそ泥のような真似をしている訳ではない。情報収集は政庁の調査官ばかりでなく民間の商人なども行なっている基本的な作業。それこそ、フレクラントの行商人の中にはそれを生業としている者もいる。そんな仕事だと僕はイエシカさんから聞いていた。

 イエシカさんも僕に気付いたらしく、主任に別れを告げて僕の所にやって来た。

「ちょうど良かった。二人きりで話せる所に行こう」

「いえ。これから工房に……」

 僕がそんな風に断ろうとすると、イエシカさんは僕を真っ直ぐに見詰めてニヤッとした。

「今日も入荷待ちの人たちで大盛況らしいわよ」

 楽しそうな人。僕は苦笑しながら舌打ちし、イエシカさんに付いて行った。

 肩を並べて歩きながらイエシカさんの口から最初に出てきたのは新婚生活の件。アンと上手くやっているかと尋ねられ、僕は「はい」と答えた。

「四週間に一度の家庭訪問ですけど、前回は来ませんでしたね」

「空騒ぎが空しくなってしまった」とイエシカさんは口元に笑みを浮かべた。

「エスタコリンに帰りたいとか言い出さないでしょうね。まだ季節一つ過ぎていませんよ」

「それなら、何か面白い話をして」

 僕はウーンと唸って考え込み、港町モレポゾールでの出来事を思い出した。あの時、食堂にやって来た若い漁師はアンに向かって恥ずかしそうに自己紹介をした。あれにはその場にいた皆が大笑い。あの漁師の声は上擦っていたが、僕は敢えて低い声で恰好を付けた。

「奥様。魚屋です」

 イエシカさんは半笑いで「何、それ」と言った。

「面白いでしょう。あとは自分で妄想を膨らませてください」

「私としては、純真無垢な美少年が徐々に汚れていくのを妄想する方が楽しいかも。私がケイ君の汚点になってあげられなかったのが本当に残念」

 さすが三大痴女の一つ、妄想系痴女。

「汚点に夢を見すぎ」と僕も笑った。

 次にイエシカさんが持ち出してきたのは蝗退治の話題。当然、イエシカさんはその顛末を知っていた。

 今回から、フレクラント国とスルイソラ連合国で分担するのではなく、フレクラント国がほぼ全面的に対処する。その代わりにスルイソラ連合国からは報奨金。それを討伐団の参加者だけで山分けする。その決定にフレクラント国大統領府常設警邏隊は発奮し、蝗の平原とスルイソラ大平原の間の山岳地帯で全ての蝗を退治してしまった。

 僕の出番は無かったのかと尋ねられて、山分けには参加できなかったと答えると、イエシカさんは「あら。残念」と笑った。

 次いでイエシカさんが尋ねてきたのは常設警邏隊員の実力。例えば、僕と彼らが武闘会で闘ったらどうなるか。まずは目潰し。光爆魔法の撃ち合いになるだろう。そして、僕はあの巨人の足跡の魔法で抑え込まれ、次から次に硬化魔法を浴びせ掛けられ、結局はおそらくそのまま僕の負け。見るからに彼らの実力は尋常ではない。僕がそう答えると、イエシカさんは「あら。謙遜」と首を傾げた。

 しばらく歩き続けた後にイエシカさんは足を止めた。学院の敷地の隅も隅。そこから先は雑草だらけ。そして学院の敷地を囲う塀。人影は皆無にもかかわらず、イエシカさんは声を潜めた。

「今、私が調べているのは吸収石と変換石の原材料の件なんだけど」

「何か変なことが起きているんですか?」

「ノヴィエミスト高等学院の生命力工学専攻が買い集めている」

 僕はエエッと驚いた。

「あそこは一体何をしているんです」

「私も行って直接訊いてみたんだけど、大量に買っていることは認めても、何をしているのかまでは教えてくれなかった。研究内容は正式発表まで明かせないって」

 言われてみれば、それはそう。正式発表の前に下手に明かすと、業績を横取りされてしまう場合がある。

「それでこちらに来て、主任の見解を聞いていた訳ですか。主任は何と言っていました?」

「主任は『分からない。魔法工芸の職人を大量に養成しているのだろうか』って」

 僕は溜め息をついた。

 あり得ない話ではなかった。魔法工芸の発祥地はスルイソラ連合国。しかし現状、実用水準にあるのはフレクラント製のみ。スルイソラ製の吸収石や発光石は性能が低くて手間が掛り、それほど普及していない。エスタコリン製に至っては商品にもならない水準。

「何なんだろう。どっちにしても、はた迷惑な話ですよ」

 イエシカさんは同意するように小刻みに何度か頷くと、「それでね」と言った。

「これまでは、いつもアンソフィーがいて中々話せなかったんだけど、私の仕事の、秘密の現地協力者になってくれない?」

 思わぬ要請に、僕は「ん?」とイエシカさんの顔を見詰めた。

「現地協力者はいいんですけど、秘密のって何ですか」

「実は、私は二つの所から指令を受けているの。一つは中央政庁、それが本来の仕事。もう一つは前国王のアルヴィン陛下、そちらが秘密の仕事」

「要するに、イエシカさんはアルさんの手の者で、そちらの仕事に手を貸せと」

「そう」とイエシカさんは頷いた。「この前、陛下からお手紙が届いて、ケイ君にそう伝えるようにって。ケイ君なら意味が分かるはずだって」

 その種の話に意外感は無かった。例えば、フレクラント国大統領が第一種行商人の一部をそのように使っているのは公然の秘密。また例えば、七年前のエスタスラヴァ王国の政変の際、フェリクス殿下は手の者の存在を公言していた。とは言え、妙な話だった。アルさんはとっくに政治の表舞台から遠ざかっているはずなのに。

「アンは抜きで?」

「そう。陛下がおっしゃるには、どう見てもあの子はそういう柄ではないから」

「これまで、アルさんはどんな指示を送って来たんですか」

「吸収石と変換石の原材料の件。需給関係が大きく崩れてエスタコリンやフレクラントにまで影響が出ているから、原因を調べろと。もう一つはフレクラント国常設警邏隊の件。現在の実力はいかほどのものだろうと」

 それを聞いて、察しがついた。アルさんがそんな事柄に興味を持つはずがない。

「ああ。それから」とイエシカさんは言った。「自身の存在理由を見出したかとケイ君に問うようにと。ただし答を聞く必要は無いと」

 やはりあの人。エルランド殿下つまりカイルが背後にいるのだ。ただし、アルさんが無条件でカイルの指示通りに動くとは思えない。アルさんなら必要とあれば尋ねるだろうし問い質すだろう。つまり、二人の間には意思疎通と了解があるに違いない。

 イエシカさんにスルイソラ連合国への転属命令が出た際、イエシカさんを送り出すよう西の大公家に勧めたのはアルさんだった。また、西の大公家に僕とアンの結婚を勧めたのもアルさん。多分、それらは全てカイルの指示。

「イエシカさんは、その手紙の『意味』とやらを理解しているんですか?」

 イエシカさんはウーンと首を傾げた。

「良くは分からないけど……、陛下は変なお方ではないし、あらかじめ『陰謀のたぐいや危険な仕事はお引き受け致しかねます』と伝えてあるし、私としては一応信頼している」

 カイルとしては、さらにはアルさんとしても、事情を知る僕を自身の側に繋ぎ止めておきたいのだろう。カイルは時折フレクラント国高等学院の歴史学専攻に顔を出している模様。つまりおそらく、歴史学のフレスコル博士もすでに一味。大統領のジランさんはどうなのだろう。

 その時、僕はふと思った。フレクラント国大統領の仲裁によってスルイソラ連合国が成立したのは今から約二千年前。その際、当時の大統領は連合国内各地に「いいかげんにしろよ」の石碑を建てさせた。

 諧謔では済まないその趣味の悪さはエルランド殿下やカイルを連想させる。四度目の生でエスタスラヴァ王国を建て、もし五度目の生でスルイソラ連合国を建てたのだとしたら、六度目の生の今回は。

 いや。さすがにその推測は強引すぎる。カイルの転生が二千五百年おきなら、五度目の生は約二千五百年前のはず。時期が微妙にずれている。いや。やはり、何らかの影響は与えたのかも知れない。

 いずれにせよ、カイルは意思の疎通が可能な人。思わぬ大きな恩を売られてしまったようでもある。今ここで齟齬が生じるのは僕としても望む所ではない。

「分かりました。イエシカさんと同じ条件で」と僕は了承した。

 

◇◇◇◇◇

 

 春学期の期末考査が終了した翌週、平日の午後。生命学系の小講義室は教員と学生で満席となっていた。生命学専攻、生命力工学専攻、魔法医術専攻。三専攻の見覚えのある顔も多い中、エリク先生が教壇に立った。

「本日はお忙しい中、先生方や学生諸君に集まっていただいたのは、すでに連絡してある通り、環境生命学研究室で画期的な発明がなされたからです」

「ヴェドレゼリナ君」と生命力工学専攻の主任が声を上げた。「前置きはいい。早速、現物を見せてほしい」

 僕はエリク先生に促されて教壇に立ち、胸を張って高らかに宣言した。

「皆さん。これが精気視認器です」

 片手で持ち運べる大きさの円筒を僕が掲げると、室内にオオと感嘆の声が上がった。

「こちらの端から望遠鏡のように覗くと、向けた先の精気の濃度に応じて白い像が見えるはずです。それでは回しますので、順番に試してみてください」

 最前列の席に着いていた生命力工学専攻の主任が手を伸ばしてきた。主任は精気視認器を目に当てると、ウームと力んだ。

「これが精気か。サジスフォレ君が真っ白に輝いている……」

 主任は席から立ち上がって教壇に背を向けると、精気視認器を通して教員や学生を眺め回した。

「そうか……。やはりそうなのか……」と主任は大きな溜め息をついた。「サジスフォレ君とエペトランジュ君はそれなりに人の形に映るのに、連合国人はかなりぼやけて……」

 主任はそのように感想を漏らすと、「ん?」と訝しげな声を漏らした。

「サジスフォレ君。部屋の一番後ろにいる者たちが映らないのだが」

 エッと驚きの声が上がり、皆が部屋の後方に目を遣った。僕はアアと声を上げた。

「心配しないでください。人間の問題ではなく、精気視認器の問題です。まだ感度が低いので、部屋の後ろの方までは感知できないんです」

 室内に安堵の溜め息が漏れた。

「それから、皆さんの姿がぼやけているのは、まだ解像度が低いからです。もう少し調整を続ければ、設計通りの性能を発揮できるようになると思います」

 精気視認器が教員と学生の間を回り始めた。皆、順番に受け取っては覗き込み、溜め息をついたり感嘆の声を漏らしたり。そんな中、僕は教壇に立って解説を始めた。僕が考案した拡張生命力方程式とその解。精気視認器の構造。休憩や皆からの質問を挟みながら、解説は約二時間にわたって続いた。

 僕の解説が終わると、生命学専攻の主任がおもむろに口を開いた。

「私もしばらく前からサジスフォレ君の拡張生命力方程式を解いているのだが……、サジスフォレ君は良くそこまで解いたものだな。定常解、線形振動解、非線形振動解、指数関数的発散解、超関数的発散解……」

「はい」と僕は肯定した。「条件次第では他にも解が出てくるはずです」

「そうなると、やはり拡張生命力方程式には問題があると言わざるを得ない」

 生命学専攻の主任の第一声はお褒めの言葉ではなく問題点の指摘。僕の成果は大して評価されていないのだろうか。僕はかすかに落胆してこっそりと溜め息をついた。

「問題は発散だ。従来の生命力方程式に発散する解は無い。一方、拡張生命力方程式には発散してしまう解がある」

 発散とは無限大である。しかし、無限大は現実世界には存在しない。例えば無限に重い物。例えば無限に大きい物。そんな物は現実世界には存在しない、存在し得ない。つまり、発散する解は現実を表現しておらず、拡張生命力方程式の有効性には限界がある。

「その限界はどこなのか。それを明らかにする必要がある」

 生命学専攻の主任に応えるように、生命力工学専攻の主任も「そうなのだ」と頷いた。その言葉に僕はさらに落胆した。せっかく開発した精気視認器。玩具程度にしか認識されていないのだろうか。

「我々の方でも解いてみたのだが」と生命力工学専攻の主任は話を続けた。「拡張生命力方程式には精気の密度に関して特異性がある。先ほどの解説にはその説明が無かったが、サジスフォレ君はどう考えているのだろう」

 僕が一年以上を掛けて続けてきた研究。エリク先生はともかく、他の専門家には評価してもらえないのだろうか。そう思いながら僕は口を開いた。

「すでに知られていることではありますが、精気の塊には低密度と高密度の二つの状態があります」

 吸収石に蓄えられた精気しかり、人間の魂しかり、自然界に存在する精気の塊は全て低密度状態にある。一方、高密度状態は理論的に存在が予想されているだけのものであり、おそらく人為的にしか実現し得ない。

 高密度状態では精気の自律凝集が発生すると予想されている。つまり、高密度状態の精気の塊は自ら周囲の精気を引き寄せて取り込み、さらに高密度になっていく。

 従来の生命力方程式によれば、自律凝集はいずれ停止して飽和状態に至る。一方、拡張生命力方程式によれば、自律凝集は加速度的に進行し、最終的に密度は無限大となる。

「いずれにせよ、我々が今対象としているのは低密度状態です。また低密度状態では、拡張生命力方程式は従来の生命力方程式を完全に包含しています。ですから、今回の僕の研究においては、加速度的無限凝集は何の問題にもなりません」

 生命力工学専攻の主任が「なるほど」と頷いた。しかし、生命学専攻の主任は首を横に振った。

「生命力工学は応用科学だから今の説明で満足なのかも知れないが、生命学は基礎科学だ。もう少し高密度状態に関する説明が欲しい」

「要するに」と僕は執拗な追及に首を傾げた。「精気の高密度状態は観測されたことがない訳ですから、結局は分からない事柄だと思うんですけど」

「まあ、それはそうなのだが……」と生命学専攻の主任は言葉を濁した。

「僕としては、飽和して停止ではなく、加速度的無限凝集の方が発生すると思います。ただし現実問題として、精気が集まるには器が必要です。そして器の耐久性には限度があります。精気が器にどんどん貯め込まれていったら、いずれ限度を超えて器が壊れてしまう。だから無限大の密度は実現しない。僕はそう思います」

 生命学専攻の主任は腕組みをしてウーンと呻いた。

「それなら、やってみますか?」

 僕の提案に、生命学専攻の主任は「ん?」と訝しげに鼻を鳴らした。

「僕が高密度状態を作ってみせます」

「そんなことが出来るのか?」と生命学専攻の主任は驚きの声を上げた。

「厳密には精気ではなく魔法力の高密度状態なんですけど、とにかく高密度状態は常識外れの意外さですよ」

 エリク先生が慌てたように口を挟んできた。

「サジスフォレ君。論点がずれ始めている。先生方も話を元に戻してください」

「いや。せっかくだから」と生命学専攻の主任は食い下がった。

「それはのちほど」

 エリク先生の強い制止に、生命学専攻の主任はばつが悪そうに首をすくめた。わずかに間が空いた後、再び生命力工学専攻の主任が口を開いた。

「それから精気視認器についてだが……」

 精気視認器では、まず気配の場を感知し、その信号を増幅し、それを映像として表示している。その過程に問題がある。増幅と表示には原動力が必要となる。精気視認器では内蔵吸収石に僕自身の余剰精気を蓄え、それを原動力として利用している。

「つまり、サジスフォレ君の精気視認器は道具としては独立しておらず、フレクラントの魔法使いがいなければ使えない」

 またもや問題点の指摘。僕は独り教壇に立ったまま項垂れて頭に手を当てた。

「精気視認器のような道具を作ろうとした者はこれまでにも大勢いる。しかし、それらの試みはことごとく失敗した。そもそも、いかにして精気を感知すれば良いのかが分からなかった。さらには、道具は道具として完結したものであるべきとの考えがあった」

 何だか話の雲行きが変わってきた。僕はそう感じて視線を上げた。

「拡張生命力方程式を基礎として実際に精気視認器が動作している以上、適用限界を越えなければ拡張生命力方程式が有効であるのは間違いない」

「はい」と僕は小声で相槌を打った。

「また、道具は道具として完結したものであるべきとの考えは固定観念に過ぎなかったのかも知れない。完結していなくても良いから、まずは動くものを作ってしまおう。サジスフォレ君はそのように割り切った訳だな」

「はい」と僕は答えた。

 生命力工学専攻の主任は左右を見回すと、「諸君」と呼び掛けた。

「サジスフォレ君の成果は速報に値すると思う」

 速報。その言葉で僕は今頃になって理解した。今日のこの会合は単なる説明会ではなく審査会だったのだ。

 通常、研究論文は年に一度刊行される紀要に収録されて公開される。速報が出されるのは異例のこと。大きな成果が出た場合のみ。数年に一回程度の出来事で、眼前に居並ぶ先生方も速報などほとんど出したことがないはず。

 皆の様子を窺うと、生命学専攻の主任も、副主任のエリク先生も、生命力工学専攻と魔法医術専攻の先生方も頷いた。

「サジスフォレ君」と生命学専攻の主任が声を掛けてきた。「今挙げた問題点を踏まえた上で、直ちに論文にまとめたまえ」

「はい」と僕は背筋を伸ばした。

「皆」と生命力工学専攻の主任が呼び掛けた。「手の空いている者は精気視認器の改良に取り掛かれ。速報が出たら、我々もそれに続くぞ」

 室内のあちらこちらから「はい」と声が上がった。次いで僕も意気揚々と声を上げた。

「今日はありがとうございました。それでは今から運動場へ。魔法の実演。魔法力の高密度状態をお見せします」

 皆一斉に「よし」と腰を上げた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏休みの前半も終わりに近付き、研究室の恒例行事も終盤に差し掛かっていた。それはつまり、自然精気の環境中濃度の測定。本年度、エリク先生は西方域の各地を回っていた。

 その間、僕は高等学院に残って論文の執筆。さすがにアンと先生の男女二人組で何週間も方域内を回る訳にもいかず、アンも学院で自身の研究を続行。アンは適時、僕は行商の無い休日のみ、日帰りで先生の元に馳せ参じていた。

 スルイソラ連合国の医療は一般医術士と魔法医術士によって支えられている。一般医術士の常駐する診療所は各地に万遍なく点在しているのに対し、魔法医術士の診療所は自然精気の環境中濃度が相対的に高い場所のみ。濃度測定は、まず魔法医術士の診療所近辺、次いでその他の地区と二段階に分けて行なわれていた。

 調査第一週前半は、西方域の中心都市クスヴィシュトロームにある西方域評議会本部での準備作業。西方域評議会所有の測定機の性能試験と職員に対する研修。

 調査第一週後半と調査第二週は、西方域評議会職員が各地に出向き、エリク先生もクスヴィシュトロームとその周辺を巡回して測定。

 調査第三週と調査第四週前半は、いったん測定結果を持ち寄って検討。その後、各地で再測定や追加測定。

 そして、今日は調査第四週の第四日、西方域評議会本部にて最終検討会。僕とアンは朝一番に着ぐるみ姿で自宅を出て、西方域に向けて真夏の高空帯を飛んでいた。

 南都ナギエスカーラから一路北西方向へ。眼下には田畑、放牧地、細切れの林、集落や村。そんな田園地帯がどこまでも続いていた。連合国時代に入った直後までは、連合国内の各地に城や砦が点在していたらしい。地上には今もそれらの痕跡が残っているとのことだが、高空帯からではその様子を窺い知ることは出来なかった。

 また、フレクラント国とは異なり、スルイソラ連合国では焼畑農法が広く採用されている。つまり、地力の衰えた田畑は休耕田とし、木の苗を植えて雑木林にまで育てる。地力が回復したら、切り開いて木材を収穫し、焼き払って田畑として再利用する。そのせいで植生に連続性が無く、自然精気の環境中濃度の回復など望むべくもなかった。

 それにしても、スルイソラ大平原には風車が多い。特にこの近辺。そんなことを思いながら北の方角に目を向けて、ふと僕は思い出した。スルイソラの列国時代を終わらせた決戦の地。

 先日読んだ記録によれば、当時の常設警邏隊の大隊長は灼熱の津波と呼ばれる魔法の使い手だったらしい。多分、強力な温熱魔法を領域展開して敵軍に浴びせ掛けたのだろう。そして敵軍の殲滅。しかし、僕は首を傾げざるを得ない。

 巨人の足跡が常設警邏隊の実力。人を殺せる強度の温熱魔法ともなれば、それほど広くは展開できないはず。灼熱の津波に加えて何か別の魔法も使われたに違いない。

 空爆ではない。空爆は中心点付近を殺せるだけ。殲滅戦には向かない。炎爆なら吹き飛ばして焼き尽くせるのだろうが、野火や山火事が発生する。同系統の灼熱の津波を使う意味が無くなってしまう。使われたのは多分、破壊力をもっと純粋に凝縮したもの。

 カイルの黙示録には光裂という未知の思念法の名があった。文字通りに解釈すれば、光をもって裂く。太古には裂と呼ばれる系統の思念法もあったのかも知れない。しかし、試してみたが、皆目見当も付かなかった。

 いずれにせよ、そんな激戦が繰り広げられたのは、南方域と西方域と中方域の接する辺り、おそらくあの一帯。今は眼下と同様の田園地帯となっていた。

 南都ナギエスカーラを離れてしまえば、空を飛ぶ者の姿を見掛けることはほとんどなく、スルイソラ大平原の上には自由な空が広がっていた。そして、高空高速飛翔を続けること約一時間半、西方域の中心都市クスヴィシュトロームが見えてきた。

 スルイソラ連合国の人口はフレクラント国の約六十七倍。その中でも比較的人口の少ない西方域だけでもフレクラント国の約七倍。エスタコリン王国の王都や、スルイソラ連合国の首都や南都ほどではないにせよ、クスヴィシュトロームを核とする西方域中心圏はフレクラント国の首府メトローナなど足元にも及ばないほどに広く大きかった。

 西方域評議会本部の会議室ではすでに最終検討会が始まっていた。僕たちは急いで着ぐるみを脱いで静かに入室し、一番後ろの席に着いた。部屋の前方にはエリク先生と西方域評議会の幹部。それに向き合う一般の席には、現地調査を担当した職員約二十名。僕は改めてエリク先生の隣に目を遣り驚いた。そこには、腕組みをしながら話を聞き続ける連合国評議会議長の姿があった。

 室内前方の壁には大きな地図が貼られ、最新の測定値と等高線図が手書きで加えられていた。そして西方域各所の状況。現地に赴いた職員たちが順次口頭で説明を続けていた。聞いた限りでは、三年前の測定結果と大差ない模様。ただし、いくつかの地点で自然精気の環境中濃度が幾分下がってしまっていた。職員全員の報告が終わると、エリク先生は環境の保全を訴え始めた。

 西方域には十分な食糧生産力があり、食糧備蓄の体制も整っている。したがって、農地をこれ以上増やす必要は無く、自然精気の濃度が高い地点を中心に自然な植生の回復に努めるべきである。

 そのように先生は力説したが、西方域の幹部や職員の反応は鈍かった。議論が途切れた所で、僕は「よろしいでしょうか」と席から立ち上がった。

「久し振りだな。サジスフォレ君」と議長は言った。

「はい。あの時はどうも」

 そう言って僕が頭を下げると、議長も黙って頷き返してきた。

「連合国評議会の夏の会合は……」と僕は曖昧に尋ねた。

「もう終わった。最終検討会に間に合うよう、急いで帰ってきた」

「連合国評議会の議長が西方域代表の方だったとは知りませんでした。でも、それならそれで、せっかくですから聞いていただきたいと……」

「いや」と議長は笑みをこぼした。「今は西方域評議会の議長だけだ。連合国の議長は持ち回り制なので、今は違う」

 僕がアッと呆気にとられると、議長は「それで?」と続きを促してきた。

「話を聞いていて思ったのですが、皆さんは環境の改善に消極的なのですか? 環境が良くなれば、いずれ西方域の人たちも自己治癒魔法を使えるようになるはずですけど」

「我々も治癒魔法の重要性は重々承知している。だから、ヴェドレゼリナ先生の勧めに従って、魔法医術士の住居や魔法医術の診療所に遮蔽材を取り付けて、屋内の自然精気濃度を高めたりもしている。しかしだな……」

 議長はそう言うと腕を組んで首を傾げ、ウームと唸った。僕は指摘を続けた。

「これ以上濃度が下がったら、魔法能力者は完全にいなくなってしまいます。そうなったら、西方域の魔法医術は崩壊してしまいますよ」

 僕の指摘に、議長は溜め息をついた。

「この問題は政治的に極めて微妙でな……」

 話が長くなりそうな気配を感じて僕が腰を下ろすと、議長はおもむろに語り始めた。

 方域評議会の幹部議員や方域評議会本部の幹部職員になれるのは高等学院か師範学校を卒業した者のみ。この統治者規定は連合国の建国時に当時のフレクラント国大統領が強要したものであり、現在も連合国全体で順守されている。

 列国時代のスルイソラに方域という地理的区分は存在しなかった。例えば、当時の西方域にはクスヴィシュトロームという国があり、その周辺には小勢力が点在していた。そして、クスヴィシュトロームにせよ小勢力にせよ、統治者は実質的に血筋もしくは声や態度の大きさで決められていた。

 例えば、人が生きていくためには食糧および薪や炭などの燃料が必要になる。一人当たりの食糧と木材の消費量は調べれば分かる。土地当たりの食糧と木材の収穫量も調べれば分かる。すると、人口に見合った農地面積と焼畑農法の規模も推定できる。しかし、多くの者はその程度の知恵すら回らず、資源の浪費や最悪の場合には奪い合いを始めてしまう。

 知性の欠乏。見識を持たぬ者による統治。それが長きにわたるスルイソラの内乱の主因。そのような認識に基づき、フレクラント国大統領は連合国の教育制度を整備し、統治者規定を導入し、さらには連合国評議会に高等学院の代表者を加えるよう強制した。

 方域評議会の幹部議員や方域評議会本部の幹部職員は高等学院か師範学校の卒業者。そのため、魔法を使えなくとも、その概要は知っている。魔法能力を持つ子供たちが真っ先に発現させるのは自己治癒魔法や浮揚魔法、そして空爆魔法。

「つまり」

 議長はそう言うと、僕に目を向けてきた。僕は議長の言わんとすることを理解した。

「つまり」と僕は言葉を続けた。「下手に人々の魔法能力を高めたら、そこら中の人が空爆魔法を使うようになる。そうなったら、声と態度と空爆によって人の上に立とうとする者が出てきてしまう」

「その通り」と議長は頷いた。「声と態度ぐらいならともかく、空爆まで使われたら、もう手に負えない。知性に基づく統治は崩壊し、破壊的な力が支配する世界となってしまう」

「でも」と僕は反論した。「教育をもっと充実させれば良いのではないでしょうか。現に今でも、対象者はごく少数とは言え、連合国の魔法教育は上手く行っているのですから」

 議長は軽く鼻で笑った。

「さすが師匠と弟子だな。ヴェドレゼリナ先生と同じことを言う」

 その時、珍しいことにアンが「はい」と手を上げ、すっと席から立ち上がった。

「私は自然精気の濃度と、人々の魔法に対する認識の相関を調べているのですが……」

「先生から話は聞いている」

「連合国の人々の多くは魔法に対して恐怖心や嫌悪感を持っています。もし皆が魔法を使えるようになったら、破壊的な側面を持つ魔法を忌避するような規範が自然に発生するのではないでしょうか。実際フレクラント国では、そういう魔法は滅多に使われません」

「規範か……」と議長は呟いた。「君は昨年、サジスフォレ君と一緒に南西方域を回ったそうだな。君に絡んできた男たちは魔法を恐れていたかね?」

 アンは返答に窮する様子を見せた。

「魔法使いも無敵ではないだろう。例えば、不意を突かれて背後から襲われたら、いくら魔法使いでも一溜まりもあるまい。なあ。エペトランジュ君」

 アンは曖昧に頷いて同意した。

「ああいう輩は魔法の実態は知らなくとも、そういう事情は理解している。つまり皆が皆、魔法使いに恐怖を抱いている訳ではない。しかも、自分も魔法を使えるようになりたいという羨望もしくは嫉妬もある。本格的な空爆の威力は絶大だ。空爆による破壊は完全に予防しなければならない。しかし、そこまでの厳格な規範が定着するとは私には思えない」

 そこまで言い切られたら、アンも腰を下ろすだろう。そう思って一瞥すると、またもや珍しくもアンは食い下がった。

「自然精気や魔法の話になると、連合国の方々は常にフレクラント国を比較の対象とされますが、エスタコリン王国のことを考えてはいかがでしょうか。エスタコリンでも、貴族も一般民も自覚的に魔法を使用しています。しかし、魔法能力は全般的にかなり低いので、魔法による破壊は一般的な事故や犯罪の一部として扱われています」

「そのような議論もあるにはあるのだが」と議長は首を振った。「君に言うのも何だが、エスタコリンは純然たる階級社会だ。エスタコリンの社会秩序は参考にしづらい」

「はあ……」とアンは曖昧な返答をした。

 僕は議長の言葉の端で気付いた。議長はアンの真の素性を知っている模様。同時に、僕はアンの積極的な発言の理由も何となく理解した。議長は話しやすい人。なあ、何々君。そんな風に声を掛けられると、なぜか親近感が湧いてくる。

「我々も願ってはいるのだ。健やかに長生きしたいと。重労働から解放されたいと。大人にはもっと自由な時間を、子供にはもっと良い教育をと。だから、我々も自然精気の濃度を少しでも上げようと努力はしている。同時に、我々は魔法だけでなく一般医術や一般工学にも期待を寄せている」

 アンが腰を下ろし、この話はここで終わった。

 その後しばらくの間、評議会幹部と本部職員の間で議論が続き、それをもって本年度の調査活動は全て終了した。弛緩した空気が広がり、皆が席を立とうとした。その時、議長が声を上げた。

「諸君。せっかく、フレクラントの魔法使いが二人も来てくれたのだ。少し話を聞こうではないか」

 皆が再び腰を下ろした。

「サジスフォレ君。忌憚の無い所を聞きたい。フレクラントの行商人は中々クスヴィシュトロームまで来てくれないのだが、なぜなのだろう」

「忌憚の無い所ですか……」と僕は探りを入れた。

「そうだ。遠慮なく言ってほしい」

 僕は少しためらった後におもむろに口を開いた。

「フレクラントから一直線に南下して、北限の街ロスクヴァーナ、首都ノヴィエミスト、南都ナギエスカーラ。それが行商の主要経路です。例えば、その東には海があって海産物が手に入ります。一方、西には平原、丘陵、さらに先には山。産物が、つまり商品がフレクラントに似ているんです。農耕畜産にせよ工芸にせよ、もっと珍しい物があれば……」

「西方域には特徴的な産物が無いと……。我々にもその認識はある」

「クスヴィシュトロームの人たちから見れば、フレクラントは商売相手としては小さすぎるのかも知れませんが」

「一般的な通商の観点からはそうなのだが、我々としてはそれ以外の仕事も提供できる。例えば、高等学院はフレクラントの行商人に様々な仕事を委嘱しているだろう」

「それは第一種行商人向きの仕事ですよね。行商人は第二種の方が多いんです」

「昨日ノヴィエミストからこちらに帰ってくる時、フレクラントの行商人に運んでもらったのだが、やはり君と同じことを言う。どの行商人に訊いても、答はいつも一緒だ。忌憚の無い所を聞かせてほしい」

 僕は迷って隣のアンに目を遣った。アンは首を小さく横に振った。前方のエリク先生に目を遣ると、先生は小さく頷いた。僕は現地人である先生の考えを採用することにした。

「議長はもちろん、おそらく他の皆さんもご存じのこととは思いますが、先ほど挙げた主要経路以外の地域には偏屈な人が多いという印象があるんです」

 その瞬間、室内が微かに騒めいた。

「僕は一年以上にわたって連合国に住んでいますが、やはりそれは真実だと思います。ただし、単純な意味での偏屈とは違うと僕は最近考えるようになりました」

「ほう」と議長は声を上げた。「ぜひ、その話を聞きたい」

「例えば、ロスクヴァーナやノヴィエミストやナギエスカーラでは標準語が普通に使われています。しかし、他の地域にはそれぞれに方言があり、標準語の使用を頑なに拒む人も多い」

「連合国人は排他的であると言いたい訳か」

「歴史的な経緯のせいでしょうが、かなりの連合国人には他者を二元論で認識する傾向があります。つまり敵か味方か。そして多くの場合、まずは見知らぬ者は敵かもと疑う。しかし、現代の平穏な社会は明らかに、少数の敵、多数の中立、少数の味方の三元論で成り立っています」

「つまり、連合国人の認識は古すぎると」

 僕が「はい」と頷くと、議長はフームと深刻そうに鼻を鳴らした。

「言いたいことは分かる。連合国には人が多い。にもかかわらず、高等学院は二院しかない。連合国中から優秀な若者を集めて交流させるべしとの趣旨なのだ。西方域からはノヴィエミストとナギエスカーラの両院に学生を送り出している。ちなみに、私はノヴィエミストの卒業生だ。今サジスフォレ君が指摘した点は、確かに私も高等学院に入って初めて実感した。にしても、他国から見ると、近付きたくないと思うほどにひどいのか……」

「現に南西方域評議会の議長には『もう来るな』ときつく言われてしまいましたし……。でも僕としては、全般的に連合国の人たちは好きです」

 室内の数か所から「ん?」と鼻音が聞こえ、議長が「どういうことかね」と尋ねてきた。

「実際に住み続けて分かったのですが、一度親しくなってしまえば、皆さん陽気で気さくで楽しくて、義理や人情に篤くて……」

「そうか。君はそう言ってくれるか」と議長は感じ入ったように言った。

「多分、それは二元論的認識の別の側面だと思うんですけど」

「そうかも知れないな」

「それに比べて、フレクラント人は何だか陰鬱で……」

「それは安易に口にしない方が良かろう。なあ。流星の魔法使い」

 その時、僕はふと思い付いた。

「それならまずは、祭りで見物客を呼ぶのはどうでしょう。西方域には姫転がしと彦跨ぎという奇祭があるそうですが」

 議長は言葉に詰まる様子を見せ、ハハと虚ろな笑いを漏らし、ウーンと首を傾げた。そこで会話は途切れ、わずかに間が空いた。するとアンが「あのう……」と声を発した。

「ケイは……、サジスフォレ君は流星の魔法使いと呼ばれているのですか?」

「ああ」と議長は肯定した。「サジスフォレ君の光球の色は他の魔法使いとは微妙に異なっているそうだな。他の魔法使いは黄味がかった白、サジスフォレ君は真っ白だと。消えることなく夜空を突き切る、真っ白に輝く流星。正体を知らずに、サジスフォレ君の光球に願い事をしていた子供たちもいるそうだ」

 突然、会議室の扉が開き、外から「議長。そろそろ次の仕事に」という声が聞こえてきた。議長は「もう少し」と押しとどめた。

「ところで、サジスフォレ君は速報を出すそうだな」

「はい」と僕は答えた。「今、原稿が発行所に回っています。近々発送されるはずです」

「君は精気を目で見ることが出来る道具を開発したんだって?」

 その言葉に室内がどよめき、皆が僕の方に振り返った。

「はい。まだ原型器の段階ですが、今持ってきています。見てみます?」

「おう」と議長は声を上げた。

 背嚢から精気視認器を取り出して室内前方の議長の席に持って行くと、職員たちも席を立って集まってきた。議長を呼びに来た職員までもが加わり、そこからは、驚き、興奮、感嘆。先日の審査会と同様の光景が繰り広げられた。

 精気視認器が皆の間を一巡すると、議長が僕とエリク先生に声を掛けてきた。

「我々西方域評議会も開発を支援する。だから、実用品が完成したら優先的にこちらにも回してほしい」

 僕とエリク先生は同時に「はい」と頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 高等学院二度目の夏休みも残り二週間。相変わらずの研究生活が続いていた。

 エリク先生は僕の精気視認器をほぼ独占し、学院南東隅の遮蔽材を張り付けた小屋周辺を観察三昧。アンはひたすら古聞大全を分析し続け、僕はエリク先生の助手を務めたり、生命力工学専攻に出向いたり。僕は大きな仕事を終えたばかりだった。少しは休みたいとの気持ちもあり、ここの所は幾分弛緩した生活を送っていた。

 せっかくの長期休暇、しかも新婚。少し休んで遊んでくれば良い。先生はそう勧めてくれたが、それでは生真面目なアンの気が治まらなかった。北の大森林では今年も遺跡調査が行なわれている。しかし、あちらははるか遠方。気軽に覗きに行けるような場所ではない。しかも、自分は今や既婚者。独りで勝手な行動を取る訳にもいかない。それなら、こちらで自身の研究を続けた方がまし。それがアンの結論もしくは諦念だった。

 その上、アンには未だにイエシカさんを警戒している節があった。僕を放置したら、イエシカさんが僕を夏祭り巡りに連れ出してしまうのではないか。アンはそんな懸念を抱いている様子だった。それならばと僕がナギエスカーラの大行進への参加を持ち掛けてみると、アンはあの全裸に近い開放的な女性用衣装を恥ずかしがった。

 結局この夏休み、休日以外に取った休みはたったの二日。夏祭りの日とその翌日。二人で大行進を見物して熱気に当てられ、超越派の霊魂に酔わされた感覚を思い出し、すぐに自宅に戻って翌々日の朝まで昼夜を問わずに互いを貪り合って終わってしまった。

 来週は夏休みの最終週。そろそろ準備を始めようかと思いながら学院の工房から研究室に戻ってみると、研究室に一人残って作業を続けていたアンが学院事務局からの連絡を伝えてきた。僕宛ての訪問客が来ているらしいと。

 フレクラント国の生命力工学研究者で名前はカイ・ブロージュ。僕の速報を読んで教えを請いにきたらしい。アン自身はその言葉に何の疑問も感じていない様子だった。しかし、僕はすぐに気が付いた。フレクラント国高等学院に生命力工学専攻は存在しない。その上、いかにも雑で嘘っぽい名前。あの人が来た。真っ先に来たのはあの人だったと。

 カイルは事務棟の玄関脇に独りたたずんでいた。学院の若々しい雰囲気に全くそぐわない黒々とした存在感。僕は緊張気味に近寄った。

「久し振りだな。ケイ」

「お久し振りです。空いている講義室にでも行きましょう」

 そう声を掛けて、僕は先に立ってその場を離れた。

 夏休みの高等学院。いくつかの特別講義が行なわれているのみの閑散とした講義棟。僕たちは人影の全く無い講義室で向かい合った。カイルは学生用の座席。僕は教壇に立ち、その配置に居心地の悪さを覚えながらも、求めに応じて解説を始めた。

 拡張生命力方程式の構造、解法と解。精気視認器の設計図と構造。カイルは鋭く真摯な視線を僕に向けながら手帳に記録を取り続けていた。

 約二時間が経ち、僕の説明が終了すると、カイルは大きく息を吐いた。

「たったの一年か、これほどの成果を上げるのに……。そう言えば、君は際立って数学に優れていたな」

「申し訳ありませんでした。あなたの成果も重要な手掛かりとなったのは事実なんですけど、謝辞にどのように書けば良いのか分からなくて……」

「構わない。方法論の提案こそが貴重なのだ。それは君の手柄だ」

「あなたは魔法工芸の水準で、どうやって分光器を開発したんですか。現代数学も生命力工学も演繹的設計も無かった時代でしょう」

「試行錯誤だ。延々と、延々と、二百年以上」

 気の長い話に、僕は虚脱感と倦怠感を覚えた。やはり、この人は執念の塊。

「拡張生命力方程式、演繹的設計、代数的連結と縮約……。私の分光器にも改良の余地がありそうだ……。だが、君のその設計と製造法では感度も解像度も上がるまい」

「教えてくれるんですか」と僕は驚いた。

「何も、一方的に収奪するつもりは無い」

 意外にもカイルは親切だった。その後しばらくの間、いくつかの問題点を指摘し、その改善法を提案してくれた。さらには、自身の手帳から数枚の紙を破り取って僕に差し出し、筆記具までも貸してくれた。律儀と言うよりも公平公正。僕が差し出せば、それに応じて返してくれる。この人はそんな人なのだと僕は感じた。

 指摘が終わると、カイルは座席の背凭れに身を預けて姿勢を崩した。

「これで君も博士だな」

「どういう意味ですか」と僕は呆気にとられた。

「知らないのか?」とカイルは呆れ顔になった。「速報だぞ。制度上、君にはいずれ時機を見計らって博士号が授与されるはずだ。例えば前期課程修了時辺りに」

「全然知りませんでした。あなたは良くそういうことまで知っていますね」

「私もかつて博士だった。政治学と芸能文化学の」

「芸能?」と僕は意外感を覚えた。

「はるかな昔、吟遊詩人を生業としていたことがある。見たこと、聞いたこと。後々の世で素知らぬ顔をして書き記したら、喜んで学位をくれた」

「吟遊詩人」と僕は驚いた。「楽器を演奏しながら歌って、娯楽や情報を提供して回る仕事ですよね」

「歌唱と弾き語りは違う。私は竪琴の弾き語りだった。売りは物語の内容と脚色だ」

 はるかな昔にそうやって各地を巡ってエステルを探し出したのかと僕は気付いた。

「君の行商人としての種別は?」とカイルが尋ねてきた。

「第二種です」

「フレクラントの第一種行商人は吟遊詩人が転じたものだ。君も吟遊詩人の末裔にならなれる」

 カイルの用件は全て片付いた様子だった。僕は完全に話題を変えた。

「ところで、どうしてもいくつか訊きたいことがあるんです。まず、あなたをどのように認識すれば良いのか。カイルか殿下か、僕の中ではどうしても認識が定まらないんです」

「現世の名で呼んでもらいたい」

「それなら殿下。覚醒ってどういうものなんですか」

 エルランド殿下の顔に薄い笑みが広がった。

「君は子供の頃のことを覚えているか。例えば初等学院に入る前のこと」

「いいえ。事実関係の概略は知っています。でも、当時の記憶はほとんど残っていません」

「さぞかし無邪気で陽気な子供だったのだろうな。今の辛気臭い君とは全くの別人」

「そうかも知れませんね」と僕は鼻で笑った。

「別に腐している訳ではない。ある意味では褒めているのだ。にやけ顔が染み付いた男ほど無様なものはないからな」

「確かに」と僕は同意した。

「もし、今ここで当時の記憶が完全に蘇ったら、君は昔の君に戻るのか?」

 僕は理解し、言葉に詰まった。

「ああ、そうだった。私はかつて何々だった。覚醒するたびに、私はそう思った」

「個人差があるんでしょうね」

「そうだろうな。覚醒の前後に人格の統合が弱まってしまう者が多い。そのまま崩壊してしまう者もいる」

 そう言えば七年前の殿下。あの収拾のつかない異様な言動は覚醒の前兆だったのだろうか。あの頃、他の人たちも、殿下は何を考えているのか良く分からないとこぼしていた。

「アンは……、アンソフィーはエステルではないんですね?」

「アンソフィーは転生者ではない」

「ええ?」と僕は驚いた。「一体何が……。去年のあの時、僕に何を見たんです」

「自分で調べろ」

 殿下は僕の要求に無制限に応えてくれる訳ではない様子だった。

「イエシカさんの背後にはアルさんがいて、アルさんの背後にはあなたがいるんですね?」

「その通り」

「殿下の手の者になるのは構わないんですけど、無理難題や無茶なことは嫌ですよ」

「能ある者は敵に回すものではなく、味方に付けるもの。単にそれだけだ」

「それならイエシカさんにはどんな能が。決して馬鹿にして訊く訳ではないんですけど」

「イエシカは慎重かつ大胆であり機転が利く。そういう者にしか任せられない事柄もある」

 僕は何となく納得して、次の問いに移った。

「クリスタさんとは仲良くしていますか」

「それは立ち入り過ぎた問いだろうな」

「去年王宮で会った時も、クリスタさんは王宮を発とうとする僕に食べ物を持たせてくれたり、色々と良くしてくれたんです。それに、お子さんたちにも会いました。殿下の願いの本質は、大勢の家族に囲まれて楽しく平穏な日々を送ることなのでしょう?」

「それは君の主観だろう。君は自分の願望を他人に投影している」

 僕は言葉に詰まり、講義室の天井を見上げた。

「君は黙示録をどこまで読んだ」

 僕は殿下に視線を戻した。

「読んだからといって責めたりはしない。自分の手から離せば他人に読まれることもあり得るだろうとは最初から覚悟していた。ただし、内容を公言されるのは不快だ」

「一度目の生から四度目の生まで読みました」

「君は例えば、幸せそうな者や楽しそうにしている者を見ると、無性にその頬を叩きたくなることはないか」

 僕は「んん?」と強く鼻を鳴らして疑義を呈した。

「もし十年前に戻ってやり直せるとしたら、君はどちらを選ぶ。白狼を追い払ってあの事件を引き起こさない。君を陥れた者たちやあざ笑った者たちを皆殺しにする」

 僕は即答できなかった。

「私は自分自身の狂気を理解している。だから理知的であろうとしている」

 僕は殿下を見詰めた。

「心配するな。クリスタは私の宝物だ。それに、しばらくしたら五人目が生まれる。今度は娘のようだ」

 その臆面の無さに呆気にとられながらも、僕は「おめでとうございます」と頭を下げた。

「忘れる前にもう一つ。殿下がアルさんを通して僕とアンの結婚を後押ししてくださったんでしょう? その件でお礼を言っておかなければと思っていたんです」

 殿下は顔をしかめて舌打ちした。

「なぜ私が。アロイス・ソルフラムだ。アロイス・ソルフラムが発案し、リゼット・ジランがアルヴィン陛下に働き掛けた。私が妃選定の終了を宣言したらすぐにだ。何と手回しの良いこと」

 僕は驚いた。三級屈辱刑の真相を調べてくれたソルフラム前大統領、そしてジラン現大統領が裏で動いていたとは。

「何でソルフラムさんが……」

「ソルフラムぐらいしかいるまい。君の首に鈴を付けられるのは」

 強面で藪睨み。僕と同じく自然強化魔術まで駆使する魔法使い。確かに、僕はあの人の前では直立不動、大言壮語など出来そうにない。

「僕は鈴を付けられたんですか……」

「アンソフィーは良い女か?」

「そう思いますが」と僕は肯定した。

「それなら言ってやれ。君は僕の宝物だと」

「そんな……」と僕は躊躇した。「そんな恥ずかしい台詞は中々言えませんよ」

「何を言っている。フレクラントでもエスタコリンでも夫婦は皆、普通にそう言い合っている」

 僕が「そうなんですか?」と訊き返すと、殿下はアアと平然と頷いた。

「そして、君の方こそアンソフィーに産ませて産ませて産ませ尽くすが良い」

 お馴染みの悪趣味な言い回し。そして、僕は何か引っ掛かるものを感じて、そのまま考え込んでしまった。

 声と足音。どうやら、どこかの特別講義が終了した模様。講義室の外の廊下を学生たちが通り過ぎていった。それに釣られたのだろう。殿下が口を開いた。

「フレクラントは秋に入ったが、ここももうすぐか」

「はい。再来週から秋学期です。でもその前に、研究室全員でフレクラントへ行くことになっているんです。精気視認器でフレクラントの環境調査を行なうことになって」

「ほう」と殿下は声を漏らした。

「それから、先史時代のスルイソラの状況に関する手掛かりも探すことになっていて……。殿下は何か知りませんか。特にスルイスラの街が廃墟になった頃のことを」

「知らない」と殿下は即答した。

「実は、フレクラント国高等学院の精神治療施設にも行くことになっているんです。知っていますか。あそこには今、リエトらしき人物が収容されています。たとえ気が触れていたとしても、訊けば何らかの情報を得られるのではないかと……」

「あれはリエトではない」

 僕はエッと驚いた。

「あれは自分をリエトと思い込んでいる別の転生者だ」

 僕は絶句した。

「まあ、行って聞き取り調査でもしてみれば良い。何か得る所があるかも知れない」

 その瞬間、長年にわたってもやもやと渦巻いていた疑問が解けたような気がした。

「殿下は、今でもリエトとカイルとエステルはほぼ同時に転生していると思いますか」

「私はそう思っているが」

「もしかしたら、三人の繋がりはすでに切れてしまっているのではありませんか」

「何?」と殿下は低い声音を出した。

「僕はずっと思っていたんです。なぜ黙示録の中のエステルはこんなにも影が薄いのだろうと。筆者の心情に関する記述はあっても、生の回数が進むにつれて、エステル当人に関する記述はどんどん減っていく。全ては筆者の主観だったんだ」

「確かに、そういうものを妄執と呼ぶのだろうな……。それで何を言いたい」

「妄執を妄執と認識している。それはもはや妄執たり得ないのではないだろうか」

「それなら、筆者が転生を繰り返している理由は何だ」

「気になってこの前、少し調べてみたんですが……」

 スルイソラ連合国を建てたのはフレクラント国大統領。その大統領が生まれたのは今から約二千四百八十年前。スルイソラ連合国が成立したのは約二千三十年前。その時、大統領は約四百五十歳。

 スルイソラ制圧を実行したのはフレクラント国大統領府常設警邏隊。当時の常設警邏隊の規模は現在と同じく二十名強、予備役を入れても約四十名。そんな小規模な部隊を相手に、スルイソラの各軍勢は全く歯が立たず、徹底的に抗戦した者は殲滅されてしまった。

「筆者は四度目の生でエスタスラヴァ王国を建てた。もしかして、五度目の生ではスルイソラ連合国を建てたとか。もしそうなら、生の目的はもはや……」

 殿下は黙って聞き続けていた。

「筆者が現在、常設警邏隊の様子を探っているのは、常設警邏隊が当時の実力を保っているかを知りたいから」

 殿下は僕を睨みながら机の上に手を置き、人差し指でとんとんと机を小さく叩き始めた。

「別に、筆者に対して含む所があってこんなことを言っている訳ではないんです」

 突然、殿下は高笑いした。

「君は頭がおかしい」

「褒め言葉と受け取っておきます」

「違う。妄想も程々にしておけ。君は魂に染み付いた衝動を理解していない。大統領は単なる雑用係だ。仮にフレクラントに転生していたとしても、私はそんなものにはならない」

 僕は呆気にとられた。そんな僕を無視し、殿下はさっさと荷物をまとめてしまった。

「君は自身の存在理由を見出したか」

「存在理由は見出すものではなく作り出すもの。僕はその時々でやりたいことをやるだけ」

「なぜ、そう考えるようになった」

「存在理由の考察と運命論には密接な関係がある。良く考えてみたら、僕は元から運命論など信じていなかった」

「私をからかっているのか? 君の言は戯言の域を脱していない」

「どういう意味ですか?」と僕は平然と訊き返した。

「存在理由は優れて個人的なもの。他者の言説との関係性によって決まるものではない」

 殿下は鼻で笑いながら席を立ち、そのまま講義室から出て行った。その後ろ姿を眺めながら僕は思った。やはり殿下はさすがだと。何度も訊くからこちらから試してやろうと思ったら、運命と運命論の違いを殿下はきちんと聞き分けた。

 

◇◇◇◇◇

 

 夏最終週の第一日、僕はフレクラント国の首府メトローナに向けて高空帯を飛び続けていた。僕の隣にはアン。僕たちのわずかに後方には、僕たちに綱で繋がれたエリク先生。僕とアンは行商人用の特大背嚢を、エリク先生は亀の翼と背嚢を背負い、僕とアンがそれらにこっそりと強制浮揚術を掛けていた。

 途中、休憩がてら北限の街ロスクヴァーナで精気視認器を用いて人々や木々を観察。やはり南都ナギエスカーラと大差無かった。さらに途中、フレクラント国とスルイソラ連合国を隔てる大山脈の稜線上でも観察してみたが、さすがにそこは森林限界の上。わずかな草と灌木があるのみで、やはり環境は南都ナギエスカーラと大差無かった。稜線の下方、渓谷には木々が生い茂っていたが、降り立てる場所が見当たらず、僕たちは観察を諦めてフレクラント国を目指すことにした。

 訊くと、エリク先生はこれまで二度ほどフレクラント国を訪れたことがあるらしい。そして、しきりに感心していた。今日の飛翔は非常に速いと。そのたびに僕たちは笑ってごまかした。今日からは、僕はもちろんアンも自力で強制浮揚術を掛けていた。

 午後、首府メトローナに到着した。さっそく宿屋に二部屋二泊を申し込み、僕たちは余計な荷物を置いて街外れの公園へ徒歩で向かった。

 勝手知ったるメトローナ。僕は四年半にわたってこの街に住んでいた。あの頃はいつも独りきり。平日は中等学院で黙々と勉強、洗濯等は夜に済ませて休日は行商。途中、大山脈の稜線に降り立ち、儲けを確かめてみたり、思念法の練習をしてみたり。強制吸入術などはそんな中で身に着けた技術だった。

 雲が出ている際は超高空帯付近にまで上昇し、重りをぶら下げて上下を確認、方位磁石で方向を確認、温熱魔法で雲に穴を開けて突き進む。気流が乱れすぎている場合や稲妻が走りそうな場合は迂回して、エスタコリン王国を抜けてスルイソラ連合国へ。ただし、そんな遠回りは二度でやめた。二度とも結局一日では往復できず、途中の街でやむなく一泊。授業を欠席して中等学院の先生たちに叱られた。

 そんなことを思い出しながら中心街を抜けると、そこから先はルクファリエ村と同様の別荘地のような住宅地。その境に公園はあった。小さな池。それを囲む小道。そして東屋。エリク先生は僕から精気視認器を受け取ると、手近な木を観察し始めた。その瞬間、先生はウッと呻いた。

「どうしました?」と僕は尋ねた。

「サジスフォレ君。木の上の方も見たい。私に魔法を掛けて、ゆっくりと持ち上げてくれ」

 その求めに応じて、僕は先生の体を持ち上げ、再び地上に下ろした。

 先生が無言で僕に精気視認器を差し出した。僕もそれを手に木を上から下まで観察。やはり言葉を失い、そのままアンに精気視認器を手渡した。

 アンが地上に降りてくると、それを見計らったように先生はウームと首を傾げて呟いた。

「既存の学説は全て誤り……」

「先生。池の周りを一周してみましょう」と僕は提案した。

 その後、半時ほど観察を続け、僕たちは東屋の長椅子に腰を下ろして議論を始めた。

 環境生命学の全学説は三つの仮説を前提としている。

 その一。精気循環仮説。少なくともこの大地では、自然精気は上昇している。上昇して大気中に拡散した自然精気は世界のどこかで下降に転じ、再び大地の奥底に戻っていく。

 その二。精気無限生成仮説。大地の奥底では自然精気が新たに生成されて続けている。それらの新たな精気も逐次、自然精気の循環に加わっている。

 その三。植物遮蔽仮説。植物が葉を茂らせれば、不完全ながらもそれが遮蔽材の役割を果たす。だから、樹木が枝を広げて頭上を覆えば、その下では自然精気の濃度が高くなる。

「実際にこの目で確かめてみると」と先生は水筒を片手に首を傾げた。「精気循環仮説の一部と植物遮蔽仮説の全てが誤りなのは明白だ」

「はい」と僕は同意した。「どう見ても、ここの木は精気を四方八方に放射しています。多分、地中から湧出している自然精気をいったん取り込んでいるんです」

「自然精気は上昇一辺倒ではなく、地表近くでも普通に水平方向にも流れ得る。木による取り込みと放射が水平方向の流れを生み、地表近くでの滞留時間を延ばし、地表近くの濃度を上げる。つまり、受動的な遮蔽ではなく能動的な方向転換」

「はい」と僕は相槌を打った。「連合国には常緑樹が多い。だから、木はいつも葉を付けて地表を隠しているような状態にある。そういう景色を見慣れているから、遮蔽と思い込んでしまった。そういうことでしょうか」

「そうだな。そうなんだろうな」と先生は大きく息を吐いた。

「フレクラントでは落葉樹が優勢で、葉を落としてしまう期間もあるのに、なぜか自然精気の濃度は下がらない。逆にそれも長年の謎だった訳ですが……」

「謎は解けた。木の幹や枝が精気を放射していたのだ」

 先生が「頼む」と言いながら、僕に水筒を突き出した。僕は温熱魔法で中のお茶を温め直し、落胆の溜め息をついた。

「概要は分かりましたけど、これ以上の詳細はこの精気視認器では無理ですね」

「そうだな」と先生も残念そうに応えた。「解像度をもっと上げて、像を拡大する機能を付けないと……。それはあとで生命力工学の者たちと一緒に考えよう。ところで小屋の件だが。例のいかさま媚薬の製造小屋」

 先生の冗談に、アンが軽く笑った。

「壁を取り払って東屋に改造しよう。壁の遮蔽材は屋根に付け替えて、上方向の遮蔽を強化して、水平方向の流れを作り出す」

「周囲の草木にその流れを当て続ける訳ですね」とアンは応えた。

「そうだ。やはり、君たちの主張が正しいのかも知れない。人間にせよ草木にせよ、いくら精気に関係する素質を持っていても、体が成長し切るまで自然精気を浴び続けなければ、精気に関係する能力は成長しないのかも知れない、もしくは発現しないのかも知れない」

「はい。私がそうでしたから」

「ところで、君たちはどう思う。私には実感が無くて良く分からないのだが、観察していてふと思ったのだ。フレクラントの魔法使いであれば、誰かが体感でこの種の精気の流れに気付いていてもおかしくないのではないかと」

「いえ」と僕は否定した。「自然精気の濃い薄いは体感で分かります。大地から湧き出してそのまま上昇しているのも何となく分かります。でも、自然精気は魂よりも密度が低いので、感じられるのはその程度です。だから、これほどの詳細は誰も知らないと思います」

「私もそう思います。私の感覚でも同じです」とアンも同意した。

「そうか」と先生は小刻みに数回頷いた。

 先生が水筒の温かいお茶を口に含んだ。それに合わせて、アンも温かいお茶、僕は自分の水筒に冷却魔法を掛けて冷たいお茶で喉を潤した。

「先生」とアンが口を開いた。「上昇した精気は世界のどこかで下降に転じている。そうでなければ、精気の一つである魂は世界を循環せず、転生という現象も起きないことになる。と言うことは、世界のどこかに精気を循環させる何かがあることになりますが」

「そうだな」と先生は頷いた。「精気には気配の場が付随している。つまり、世界全体に精気があるのなら、世界全体に気配の場もあるということになる。その気配の場に世界規模の何らかの構造があるのだろう。これはサジスフォレ君の次の研究課題だな」

 とてつもなく大きな課題に、僕は「はい」と苦笑した。

「今回の発見は三人の連名で発表しよう」

「速報になるんですか?」と僕は尋ねた。

「いや。生命学系で特集を出そうという話が出ている」

 特集発行の件は初耳だった。

 一般の論文は年に一回刊行される学院全体の紀要に収録される。特定の分野で研究が大きく進んだ際には随時、複数の論文をまとめて特集として刊行する。そして、特に大きな成果が上がった場合は単発の速報。

「これから忙しくなるが、楽しみだな」

 先生の言葉に、僕とアンは大きく頷いた。

 僕たちはいったんそこで解散した。夕方に宿屋で落ち合うことを約束して、先生は精気視認器を手に観察を続行。僕は今回の会計係として両替所でスルイソラ通貨をフレクラント通貨に交換。アンはどこかへ向かって飛び去って行った。

 陽が沈み、夕飯時となった頃だった。アンが宿屋に戻ってきた。その背後には僕の両親。僕は目を剥いた。すぐさまこっそりとアンに事情を訊いてみると、アンが事前に手紙のやり取りをしていたとのことだった。

 早速、宿屋の正面玄関を入った所で自己紹介が始まった。一家を代表するのは女の役目。その自覚があるのか、アンが場を取り仕切り始めた。

「先生。こちらはケイの母、マノン・サジスフォレ生命学博士です。現在、初等学院の教員、教員組合生命学部会の副幹事、フレクラント国高等学院生命学専攻の運営委員を務めています」

 次いでアンは父を指し示した。

「こちらはケイの父、クレール・エペトランシャ・サジスフォレ一般工学博士です。現在、フレクラント国の副大統領、フレクラント国西地方の中統領を務めています」

 それらの紹介に、エリク先生は背筋を伸ばした。その顔には驚きの表情。

「エリク・ヴェドレゼリナと申します。ナギエスカーラ高等学院の生命学系生命学専攻の副主任、環境生命学研究室の責任者を務めております」

「博士」と母は笑みをこぼした。「堅苦しいことは抜きにしましょう。かの有名なヴェドレゼリナ博士がお越しになるとのことで、とても楽しみにしておりました」

「いや。有名というほどでは……」と先生は謙遜した。

「スルイソラ連合国は物質的生命学の本場。ナギエスカーラ高等学院はその中枢。博士の開発された精気遮蔽材はフレクラントでも大いに活用されていますよ」

「ほう」と先生は嬉しそうな声を漏らした。

「例えば、魔法力を漏らしてしまう児童の隔離施設。例えば、精神治療施設の入院病棟。他にもいくつかの種類の施設で。それぞれ室内の自然精気を下げるために」

「下げるために……」と先生は微かに不審げに相槌を打った。

「それでは行きましょう。今夜は私たちに持て成させてください」

 母はそう言うと、宿屋の玄関を出ていった。

 行き先はどうやら僕とアンの結婚が決まった高級料理店の模様。そこまでの道中、「いつもアンとケイがお世話になっておりまして」などと在り来りな会話が続いていた。そんな言葉を耳にするたびに、親とは何なのだろうと僕は抽象的な疑問を感じた。

 料理店に着いて通されたのは、表通りに面した二階の個室。窓の外には日が暮れたばかりの街並みが広がっていた。円形の大きな食卓には結婚の際のものと同水準の料理、ただし種類は幾分違うもの。食前酒を口にしたためか、皆はいつになく饒舌になっていた。

「ところで博士」と母は言った。「アンとケイの様子はどうでしょう。何か粗相などはしていませんか」

「研究室の環境汚染が深く静かに進行中です」と先生は冗談で応えた。

「環境汚染?」と父が半ば笑いながら怪訝そうに尋ね返した。

「仲が良すぎて、全くもって目の毒です」

 アンが「先生……」と抗議の声を漏らすと、エリク先生はアンに笑みを向けた。

「半分は冗談だ。夫婦仲については心配する必要は無いと言いたいだけだ。君のケイ君への溺愛はあまりにも明白だからな」

 アンが絶句して俯くと、「あまりにも明白、ですか……」と母が呟いた。

「アン。その種の事柄については、時と場所を良く弁えるように」

 アンは顔を伏せたまま、無言で頷いた。次いで、母は僕に声を掛けてきた。

「先ほどから何を他人事のように黙っているのです。あなたはどう思っているのですか」

 その問いは予想外という訳ではなかったが、僕は特に答を用意しておらず、首を傾げた。

「ケイ。どうしたのです」

「連合国の皆さんは言葉の端々で冗談を言う」と僕は適当に答えた。

「そういう話ではなく」

「上手い冗談は連合国の教養の一つ」

「あなたはアンのことをどう思っているのです」

「アンは僕の宝物」

 その瞬間、皆の呆気にとられたような視線が僕に集中した。

 そんなことだろうと思った。エルランド殿下は僕を軽く嵌めるつもりで、あんなことを言ったに違いない。幸せそうな者を見ると頬を叩きたくなるとか、殿下はかなり不穏なことを言っていた。恥ずかしい台詞。今回は敢えて嵌められてみただけ。アンが喜ぶのなら、多少揶揄されるぐらいは構わない。

「良く言った」と父が声を発した。

「環境汚染だ」と先生は笑った。

「ケイ……」とアンは顔をさらに赤らめた。

「吟遊詩人ですか?」と母が尋ねてきた。

「えっ」と僕は意外感を覚えた。

「大昔の吟遊詩人の歌集に良くそういう言い回しが出てくるでしょう。ケイはそういう物も読むようになったのですか?」

「いや。まあ……。文学芸能史の講義も取ったし」と僕はごまかした。

「ケイの場合は当然本心なのでしょうが、人前で気軽に口にしてはいけませんよ。歌集の中では、その種の台詞は移り気を暗示する常套句です。知っている人が聞いたら勘違いしますからね」

 知らなかった。僕は神妙に頷いた。講義は取ったが不合格。やはり、殿下の方が一枚上手。予想を超えて巧妙に遊ばれてしまった。

 その後も他愛のない雑談と共に食事は続いた。僕の両親はフレクラント人としては未だ若年の範疇。ところが、スルイソラ人の視点からは信じられないほどの高齢者。エリク先生は両親を前にして恐縮し続けていた。

 僕にとっては意外なことに、両親には南都ナギエスカーラにかなりの土地勘がある様子だった。父は土木と利水の施政者として、母は生命学教育の実務者として、それぞれナギエスカーラ評議会とナギエスカーラ師範学校を訪問したことがあるとのこと。そして話題になったのは、フレクラント人とスルイソラ人の違い。

 僕の言葉に触発されたのか、皆は気質や物の考え方の差異を語り合っていた。一方、僕は独り黙々と別のことを考えていた。するとしばらくした頃、父が僕の見解を尋ねてきた。

「顔立ちが少し違う」

 僕がそう指摘すると、父は怪訝そうに「ん?」と鼻を鳴らした。

「髪の色か? それとも肌か? 確かにスルイソラ人の方が日焼けをしているが、それ以外は俺には大差無いように見える」

「耳の形。連合国人は耳の下側、耳たぶが少し大きい。逆に、フレクラント人は耳の上半分が少し大きい。それから、耳の凸凹具合も連合国人の方が少し複雑。エスタコリン人はその中間。どの違いもほんのわずかで、もちろん個人差もあるけど」

 皆がヘエと声を漏らした。

「だからもしかしたら、音の聞こえ方も少し違っているのかも知れない」

「お前、良く見ているな」と父は感心する様子を見せた。

「そう言えば……」と母は呟いた。「吟遊詩人の歌集に、魔法使いは森の中で兎のように耳を澄ますとかありましたね……」

 料理が尽きて会食もほぼ終了となった頃だった。母が「ところでケイ」と言った。

「速報を読みましたよ。立派な仕事です」

 珍しい誉め言葉に、僕は黙って頭を下げた。

「今回の調査では精気視認器を使っているのですか?」

 手荷物の中から精気視認器を取り出して手渡すと、母も父も興奮気味に確かめ始めた。

「ケイ。一度、フレクラント国高等学院の生命学専攻で講演をしてもらえませんか。あの速報は難解で、まだ誰も完全には理解できていないのです。そもそも名前は同じ生命学でも、フレクラントの生命学は魔法的生命学ですから」

 その瞬間、僕は不愉快になり、俯いて首を傾げた。

「ケイ君」とエリク先生は言った。「良い機会だ。ぜひ行ってきたまえ」

 僕はウーンと呻いた。

「講演をしても、どうせ返ってくるのは皮肉や嫌味や批判に決まっています」

「ケイ」と母は言った。「今はそんなことはありません」

「運営委員会の管理下に置いたとは言え、専攻内部の顔触れは変わっていない」

「話が良く分からないのだが」と先生が尋ねてきた。

「去年の蝗退治の直後、あの連中はわざわざ僕を糾弾しに来たんです。お前のあの蝗退治に肯定できる点など何一つ無い。お前のしたことは独善であり自己満足だと」

「なぜ」と先生は呆気にとられた。「当の連合国が功労者と認めているのに」

「蝗を殲滅するに当たって、連中の定めた魔法の使用法から逸脱する必要があったからです。権威主義的な管理者的発想。一国の災難よりも規則の順守。僕は連合国評議会議長に言われました。フレクラントは連合国の田舎にも劣ると」

 僕はふと不審に思い、母に尋ねた。

「講演の件、お母さんが思い付いたの?」

「いいえ。あちらから話があって」

「お母さんは知らないんだろうけど、こんなこともあった。あの屈辱刑は冤罪だった。なのに、それが悪評として国中に広まって、一部には根付いてしまった。だから、僕は武闘会に出て少しでも払拭したかった。でも、あの連中は僕を騙して参加を辞退させた」

「騙した?」と母は驚きの声を上げた。

「僕には並の硬化魔法など効かない。だから、僕の全国優勝は間違いなかった。もし、あの連中が僕の所に二年分の全国優勝の盾を持ってきて、あの二年間の最優秀魔法使いは僕だったと国中に告知するのなら、講演の件を考えてもいい」

「それは無理でしょう。話は専攻内部だけでは済まなくなります」

「分かっている。あの連中には絶対に使われたくないと言っているだけ」

「騙したという話は初めて聞きました。運営委員会で調査します」

「調査は不要。水掛け論になるのは分かっている」

 母は少しの間、何かを考え込むと、「それなら」と言った。

「フレクラント国高等学院でも毎年、武闘会を開いています。希望者のみの小規模な大会ですが、それに参加してみたらどうです」

 知らなかった。意外な提案だった。しかし気乗りしなかった。

「国の全員が参加しなければ意味が無い。それに結果は分かっている。並の魔法使いでは僕に勝てない」

「お前。凄い自信だな」と父が口を挟んできた。

「現代の硬化魔法と思念法の強制硬化術は、結果は同じでも過程が違う。僕と良い勝負になるのは多分、常設警邏隊員ぐらい」

 父は怪訝そうに、かつ感心したようにフーンと鼻を鳴らした。

「いずれにしても」と父は言った。「精気視認器の発明は国中で大変な話題になっている。あの冤罪に関わった者たちとお前とでは、頭の出来が根本から違ったのだと大きな噂になっている。名誉のことを言うのなら、これ以上を追い求める必要は全く無い。かつて、アルヴィン陛下はお前に言った。輝く時が来るのを待てと。お前は成し遂げたんだ」

 そこで言葉は途切れ、ややあって父が席から立ち上がる気配を見せた。

「明日もあることだし、そろそろお開きにするか」

 

◇◇◇◇◇

 

 調査旅行二日目。今日は朝から大障壁の西側、無人の森林地帯で草木の観察。やはり、結果は昨日と同様だった。さらには昼前、いったん首府メトローナに戻って大統領府の環境保全担当者に聞き取り調査を行ない、僕たちは問題の全貌をおぼろげながらも理解した。

 同種の木であっても、精気に関する能力には個体差がある。そして原因は不明だが、能力が高ければ高いほど、成長には年数が掛かる模様。この点が焼畑農法や植林事業にそぐわない。スルイソラ人は無自覚に能力の低い個体を選好して高い個体を排除し、その結果として自然精気の環境中濃度が下がってしまった。

 この新しい知見に、先生は独り黙々と考え込んでいた。メトローナの料理店で昼食を摂っている最中も、フレクラント国高等学院へ向けて飛翔を続けている今も。

 昼食時、僕を悩ませていた疑問を打ち明けると、先生はあっさりと解答を提示してくれた。自然精気の濃い環境が精気能力の高い木々を育てる。精気能力の高い木々が自然精気の濃い環境を作る。それなら、何も無い所からどうやってそんな状況が実現したのだろう。先生いわく、大きく異なる複数の要素が互いに影響を及ぼしながら同時に徐々に進展、発展、変化する。自然界には良くある話。

 そんなことを思い出していると、程なく眼下に高等学院が見えてきた。

 精神治療施設の玄関にはすでに歴史学専攻の主任、ジスラン・フレスコル博士の姿があった。今回のリエトらしき人物への聞き取り調査はエリク先生の名前で施設に申し入れたもの。その際、アンが歴史学博士に口添えを依頼していた。

 早速、僕たちは挨拶を交わして施設に乗り込んだ。すると通された先は見覚えのある会議室。そこにはやはり見覚えのある顔。施設長が待っていた。

 施設長はエリク先生と如才なく自己紹介を済ませると、「ところで」と僕に冷めた目を向けてきた。

「そこにいるサジスフォレ君ですが……」

「ケイ・サジスフォレ・エペトランジュです。どうぞよろしく」と僕は白々しく名乗った。

「彼も先生の学生ということでしょうか」

「その通りです」と先生は力強く答えた。

「彼は暴れ回ったりしていませんか。そういう者は困るのですが」

「私は、彼が蝗を相手に暴れ回ったことしか知りませんが」

「分かりました……。それでは事前の約束通り、患者の準備が整うまで建屋の視察をお願いできますか」

 案内された空き病室では、床板と壁板の一部が取り外されていた。先生は僕の光球の灯りを頼りに床下に潜り込んだり、壁を覗き込んだりを繰り返した。さらには建屋の設計図と照合。小一時間ほどそんな作業を続け、先生は施設長に遮蔽材設置に関するいくつかの改善点を指摘した。

 いよいよ、患者の準備が整ったとの連絡が入った。施設長は患者の個人情報の秘匿を強く求めた後、僕たちを施設の中庭に連れ出した。

 小さな木立の向こう側、屋外の長椅子には背を丸めて座る男の姿があった。顔も体全体もやつれ、胸元には吸収石の首飾り。まるで操り手のいない操り人形。かたわらに立つ介護職員に促されて、聞き取り役のアンが男の前に静かに立った。

 この男は転生者だがリエトではない。エルランド殿下は僕にそう言った。しかし余計な詮索を避けるため、皆には明かしていなかった。いずれにせよ、大昔の話を聞ければそれで良いのだから。僕はそう割り切って、筆記具と手帳を手にその様子をわずかに離れた場所から静観した。

 アンが会釈をすると、男はアンに目を向けた。男がアンに手を差し出し、アンがその手を取った。

「レダ? レダ?」

 生気の無い、か細い声だった。アンは穏やかに話し掛けた。

「今日はお話を伺おうと思って、やって来ました」

 男は手を放して俯いた。アンが声を掛けても、男は何の反応も示さなくなってしまった。

「この患者はいつもこんな感じなのです」

 施設長のそんな囁きが聞こえてきた。エリク先生が顔をしかめて首を傾げると、アンが途方に暮れた様子でやって来た。先生とアンが小声で善後策を話し合うのを脇目に、僕は筆記具と手帳を歴史学博士に手渡し、ゆっくりと男の前に立って会釈をした。

「リエト。お久し振りです」

 僕の呼び掛けに、男が顔を上げた。生ける屍としか言いようのない弛緩した表情だった。

「レダ? レダ?」

「リエト。お元気ですか?」

 男が僕に手を差し出してきた。僕は男の手を取り、男の隣に腰を下ろした。

「レダ? レダ?」

「見ての通り、私は元気です。リエトも元気を出してください」

 男が手を離し、ゆっくりと両手を伸ばしてきた。何だろうと思っていると突然、男は僕の首を絞め始めた。ギョッとして思わず手を振り払おうとした次の瞬間、僕は男の腕の細さに気付いた。皆に目配せして押しとどめ、そっと男の両腕に手を添えた。

「リエト。ごめんなさい」

 僕がとにかく適当に謝罪をすると、男は手を離した。

「リエト。昔の話を聞かせてください」

 男は「ん? ん?」と弱々しく鼻を鳴らした。

「忘れてしまったのです。私はほとんど覚えていないのです」

 男が再び両手を伸ばしてきた。僕は首を掴まれないよう、深々と頭を下げて「ごめんなさい」と謝った。

 男は手を引っ込めて俯いた。そして、アンの時と同様の沈黙。僕も失敗したのだろうかと諦めかけた時、男は意外にしっかりとした声で「わたった」と言った。

「海を渡った……。狩猟の野人。遊牧の蛮人。果てしない戦……。疲れた。逃げた。海を渡った。スルイスラは太陽の楽園を見付けた」

 僕は愕然とした。これは予想外の内容。神話を越える太古の話。

「リエト。人は大地の北の方にも逃げたのではありませんか」

 男は勢い良く両手を伸ばし、僕の首を強く締め始めた。僕は男の手を引き離し、咳き込みながら「ごめんなさい」と謝った。

「兎のごとき腰抜けども。フレクスラントは森の奥に隠れた。スルイスラは海を見た。スルイスラは迎え撃つ……。蛮族は追ってこなかった」

 僕は無言で頷いた。

「スルイスラは太陽を作った。夜を照らす太陽。闇を打ち消す太陽。太陽は弾け飛んだ」

 僕はふと気付いた。神話伝説大系に収録されている「月になった太陽」に酷似した言い回し。僕は深く頭を下げて「ごめんなさい」と謝った後に尋ねた。

「スルイスラは月になったのですか?」

「フレクスラントが太陽になった」

 男はしっかりと顔を上げ、背筋を伸ばした。体格自体は僕よりも幾分大柄だった。

「お前のせいだ」

「えっ」と僕は呆気にとられた。

「お前が太陽を砕いた」

 男はそう言うと、僕の首に手を掛けて伸し掛かってきた。あらかじめ施設長に釘を刺されていたため安易に応戦する訳にもいかず、僕は男と共にそのまま長椅子から地面に転げ落ちた。急いで近寄って来る皆の気配。介護職員が男を羽交い絞めにすると、男はすぐに気力を失い脱力してしまった。

 聞き取り調査は終了となった。介護職員に付き添われて去っていく男に僕は声を掛けた。

「リエト。お元気で」

 男からは何の反応も戻ってこなかった。

「君は一体何なんだ」

 その声に振り返ると、施設長が僕を睨み付けていた。

「何だと言われても」

「君はいつから女になった」

「変なことを言わないでください」

「初めて見た。あの患者があんな話し方をするのを。あの患者とは意思の疎通は困難。最近は特にそういう状態だったのに」

 どうやら、施設長は僕を批判している訳ではない様子だった。僕は首に自己治癒魔法を掛けながら施設長に尋ねた。

「あの患者はいつもああやって人の首を絞めるんですか」

「いや」と施設長は否定した。「あの患者に際立った暴力性があるとの報告は無い」

 そこに歴史学博士が慌てたように「ちょっと黙ってくれ」と口を挟んできた。歴史学博士は手帳を手にせわしなく筆記具を動かしていた。

「雑談はやめてほしい。雑談をしたら忘れてしまう。速記をしたのだが、細かい所までは書き切れなかった。言葉尻も含めて完全な記録を残したい」

 しばらくの間、僕たちはその場で記録の作成を続けた。それが済むと、施設長は僕たちに強く注意を促した。転生者の実在を世に知らしめることの弊害。中等学院一年生の時に聞いたものと全く同じ内容だった。そして、施設長は僕に目を向けてきた。

「最後に一つだけ、この施設の責任者として訊いておきたいことがある」

「昔のことを蒸し返すつもりですか」と僕は牽制した。

「そのつもりは無い。君はどうやって全身への硬化魔法を回避しているんだ」

「やはり蒸し返すんですね」

「そうではない。この施設での硬化魔法の重要性は知っているだろう。全身への硬化魔法の回避は標準の技術のみで可能なのか?」

「可能です」

 施設長は目を見開いた。

「それは技量の問題か? それとも技術の使用法の問題か?」

「技量です」

 施設長は「そうか……」と呟くと、エリク先生と歴史学博士に別れを告げ、何かを考え込みながら建屋の方へ去っていった。

 僕たちは歴史学博士に誘われて、博士の研究室へ徒歩で向かった。山間の小さな盆地を貫く田舎道。歩き始めてすぐに、エリク先生は極まりが悪そうに切り出した。

「畑違いで良く分からなかったのですが……。フレスコル主任。あの患者はどういう話をしていたのでしょうか」

「私が説明します」とアンが申し出た。

 僕と歴史学博士が肩を並べて歩き、その後ろに少し離れてアンとエリク先生。僕は歴史学博士に話し掛けた。

「先ほどの内容ですけど、二つの時代の話が混ざっていますよね」

「確かに」と歴史学博士は肯定した。「スルイスラの壊滅は今から約一万五千年前のこと。海を渡ったのが事実なら、それは壊滅よりもさらに数千年以上は昔のこと」

「人々は海を渡ってこの大地にやって来た。その話は信憑性不足で、一般にはまだ公表していないんですよね。とすれば、あの患者が考古学調査の内容を知り得るはずはなく、あの患者は確かに転生者。それも、信じられないぐらいの転生を繰り返してきた者」

「その可能性はある。確かに先ほどの話には『海を渡った』以上の未知の情報が含まれていた。話を聞いていて思ったのだが、渡ったのは西海ではなく東海なのだろうか」

「はい」と僕は同調した。「多分、フレクスラントはフレクラントの旧名ですよね。そして国ではなく民族や部族の名前」

「フレクスラントという名称は初耳だが、そうかも知れないな」

「フレクスラント族は東海沿いの北の陸地に到達し、追っ手を恐れて森の奥へと分け入った。スルイスラ族は南の陸地に到達し、海沿いに街を作って追っ手を迎え撃つ準備をした」

「しかし結局、追っ手は現れなかった。私の知る限りでも歴史上、そんな記録は皆無だ」

「蛮族の話が本当なら、その連中は今どうしているんでしょう。二万年近くが経っても現れないということは、今も未開のまま野蛮な争いを続けているのか、それとも滅んでしまったのか」

「分からない。我々の文明は間違いなく進歩を続けている。しかし、海を渡る技術に関しては今でも全く駄目だろう。と言うよりも、むしろ退歩している。それを考えると……」

「興味深い話ですね。狩猟民。遊牧民。僕たちの祖先は農耕民だったのでしょうか。そして折り合いが付かずに、『こんな所で農耕なんかやってられるか』となって逃げ出した」

 後ろで話し込むアンとエリク先生に気付かれぬように僕は声を潜めた。

「あの人からは何も聞いていないんですか。先生の所にたまにお茶を飲みにやって来る例のあの人」

「いや」と歴史学博士も声を潜めた。「神話時代については例の記録以上のことは。それどころか、当人によれば古い方から順に記憶が曖昧になってしまっているらしい」

 ふと、歴史学博士が鼻で笑った。

「それにしても、彼は人たらしだ。つい数日前にもナギエスカーラの土産物を持ってきた。やはり、人の頂点に立つ者ともなれば、厳しいだけでなく気配りも相当上手いのだろうな」

 その時、背後からアンが声を掛けてきた。

「フレスコル先生。あの患者さんは『太陽を砕いた』と言いました。つまり、あの患者さんの言う太陽は人工の何か硬い物」

 歴史学博士は歩みを止めずに背後を一瞥した。

「そうだな。魔法工芸の発祥の地はスルイソラ。しかも、起源は全くもって不明なぐらいに古い。当時の技術で大きな照明器でも作ったのだろうか」

「スルイスラの壊滅と関係があるのでしょうか。そんな口振りでしたけど」

「私も確かにスルイスラの壊滅を連想したが……」と歴史学博士は首を傾げた。

「標準的な解釈とは違いますが、どう考えてもあの話は『月になった太陽』です。太陽と月は相対的な力関係を表わす隠喩で、人工の太陽が弾け飛んだ結果、この大地の主導権はスルイスラからフレクラントに移った」

「あの話のその部分は、現時点ではあまり真に受けない方が良いと思う」

「なぜですか」

「そもそも、リエトとレダはとわの愛を誓い合った仲だろう。それならなぜ、『お前のせいだ』などと罵りながら首を絞めるのか。あれはまさしく怨念による転生だ」

「自然精気を利用した人工太陽が爆発して、スルイスラが壊滅した。そのせいで、この大地の主導権は魔法使いの国フレクラントに移ってしまった。そう考えれば説明がつくんです。先史時代の連合国南方域と南西方域に、精気や魔法に対する強い嫌悪があった説明が」

「エペトランジュ君。別の説明も可能かも知れない。そのことを失念すべきではない」

「嫌悪の起源や根源を理解できれば、連合国でも環境改善の意欲を高められるようになると思うんです」

 歴史学博士はエリク先生に目を向けた。

「今回の聞き取り調査はエペトランジュ君の研究のためとのことでしたが、これまでエペトランジュ君には私の仕事も手伝ってもらいましたし、話を聞かせてもらえれば私もお役に立てるかも知れません。もちろん、研究上の秘密は守ります」

「よろしくお願いします」とエリク先生は頭を下げた。

「それでは、こんな所で話し込むのはやめて、さっさと研究室に向かいましょう」

 そのように歴史学博士に促されて、僕たちは歩みを少し速めた。

 

◇◇◇◇◇

 

 調査旅行最終日。今日は午前、研究用植物の種や苗、個人的な土産物などを購入し、昼過ぎにスルイソラ連合国の南都ナギエスカーラへ向けて出立する予定となっていた。

 エリク先生とアンにとっては極めて有意義な調査旅行となった。片や、僕にとっては結局のところ、足代わりを務めて精気視認器を披露して回っただけ。でも、宿代は研究費から出ているし、それなりに楽しかったから、まあいいか。僕はそんな風に割り切っていた。

 宿に荷物を預けて首府メトローナの市場と商店街を回り、購入予定の品は順次揃っていった。ただしその間、僕は街の様子に違和感を覚え続けていた。

 高空高速飛翔をする人の多さ。そのこと自体は珍しいとは言えない。しかしどうやら、大統領府と中地方通商組合に立ち寄る人が多い模様。今は秋に入ったばかりの時期。何らかの手続きの期限が迫っているとも思えない。平日午前にもかかわらず、そこはかとない慌ただしさ。何か突発的な出来事でもあったのだろうか。僕はそんな疑問を抱いた。

 買い物が終わった。あとは宿に戻って荷物をまとめ、軽食を摂っていよいよ出発。僕はエリク先生とアンに、宿へ向かう前に通商組合に立ち寄ってみようと提案した。

 組合事務所では全職員が席を立ち、忙しく動き回っていた。緊急通達の準備。そんな声に僕は驚き、手近な行商人に事情を尋ねた。

 本日早朝、スルイソラ連合国の首都ノヴィエミストでのこと。フレクラントの行商人を頼って、行商人御用達の宿屋にエスタコリン王国中央政庁の職員が運び込まれた。たまたま宿泊していた魔法医術士の資格を持つ行商人が診察したところ、体内の余剰精気の全てと基礎精気の一部が失われていた。

 原因はノヴィエミストの郊外、西の丘の上に建つ施設の内部を覗き込んだこと。改めて複数の行商人が確かめに行くと、その無人の施設の中には巨大な吸収石が設置されていた。巨大吸収石は周囲から膨大な量の自然精気を取り込み続けており、エスタコリンの職員は不用意に近付いて体内の精気を吸われてしまった模様。

 巨大吸収石の影響はその上空、中空帯付近にまで及んでいる。知らずに上空を飛翔して突然大量の精気を吸われたら、最悪の場合には失神して墜落してしまう。現に、確認しに行った行商人たちもそれに近い状態に陥った。

 郊外西側の丘には接近禁止。仮に接近する必要があったとしても、高空帯を高速で素通りするにとどめること。それが通達の内容。首都ノヴィエミストは北限の街ロスクヴァーナに次いでフレクラント人が訪れることの多い街。それが緊急の理由。現在、大統領府常設警邏隊の隊員たちが現地へ向かっている。

 その話を聞き、僕は愕然として確信した。エスタコリンの職員が行なっていたのはおそらく調査。偶然や気まぐれで施設に近付いた訳ではない。そして、その種の調査を行なっていたのはイエシカさん。宿屋に運び込まれたのはイエシカさんに違いない。

 しかし、僕はエリク先生にもアンにも確信を明かさなかった。特にアンに明かす訳にはいかなかった。気が動転したら上手く飛翔できなくなってしまう。そのため、僕は野次馬根性を剥き出しにする振りをして、早くノヴィエミストへ行ってみようと二人を急かした。

 それから約三時間後、首都ノヴィエミストの宿屋に到着した。慌ただしく出入りする人たち。見知らぬ顔。見知った顔。南都ナギエスカーラでも商売をしている行商人を見掛けて尋ねてみると、やはり運び込まれたのはイエシカさん。その報を耳にした瞬間、アンはイエシカさんが休んでいるという部屋へ向かって駆け出した。

 イエシカさんは意外に元気な様子で自嘲交じりに事情を説明してくれた。

 丘の上の施設は二階建て。一階の出入り口の前に立つまでは何の異変も生じなかった。取っ手を握って扉を開け、中の様子を窺おうとした瞬間、体内から精気が吸い出された。慌てて扉を閉めたが、猛烈なめまいと吐き気と虚脱感。その場に倒れ込んでしまった。直後、離れた場所から監視していた同僚がイエシカさんを宿屋に担ぎ込んだ。

 診察によれば、全身の余剰精気を全喪失。両腕前腕の基礎精気もほぼ喪失。頭から胸までの基礎精気を一部喪失。ただし、魂の自己組織化は健全に維持されている。歳も若く、肉体は至って健康。そのため、数週間もすれば元の状態まで自然に回復するだろう。その間、魔法の使用は禁止とのことだった。

 僕たちが精気視認器でイエシカさんの体を確認していると、様子を見に来た宿屋の従業員から話が伝わったらしく、行商人や常設警邏隊の隊員が集まってきた。皆も順次視認器を手に取った後、数人が「視認器で丘の上の施設を見てみよう」と言い出した。

 僕、エリク先生、行商人二人、警邏隊員一人。僕たちは丘の上に降り立った。行商人によれば、丘の裾には敷地を囲うように柵が設けられ、「危険。関係者以外の立ち入りを禁ず。ノヴィエミスト高等学院」との看板が掲げられているとのこと。「空からも見えるようにしておけ」と行商人は吐き捨てた。

 大小二つの立方体を積み重ねたような二階建て。つい最近まで人が手を入れていたらしく、建屋の周囲には背の低い雑草がわずかに生えているだけだった。距離を取って精気視認器で眺めてみると、視認器にもはっきりと映るぐらいに、二階部分周辺の自然精気濃度が高くなっていた。つまり、一階に収められている巨大吸収石は上空からも自然精気を激しく取り込み続けている模様。逆に、一階部分周辺に自然精気の影は無し。エリク先生によれば、一階部分の壁には遮蔽材が使用されているのだろうとのことだった。

 エリク先生をその場に残し、僕たちは一階の出入り口に近付いた。まず、行商人一人が視認器を手に扉の前に立ち、扉を開けて中を一瞥してすぐに閉めた。

 とんでもない。持って行かれた。たまらない。視認器を使う余裕など全く無い。事前に知って身構えていなければ、確かに精気を大きく吸われて大変なことになる。

 それが行商人の感想だった。次いでもう一人の行商人。そして警邏隊員。やはり同様の感想を口にした。最後に僕。僕はこっそりと全身に強制吸入術を掛けて扉の前に立った。

 扉を開けた瞬間、僕はウーンと呻いて力んでしまった。体の前面から余剰精気がどんどん抜けていく。強制吸入術によって体の背面から自然精気がどんどん流れ込む。魂の自己組織化が解けてしまいそうな奔流。体全体が冷えていくような感覚。強制吸入術ではこの事態に対処しきれない。そのことを僕はすぐに理解した。

 建屋の中は薄暗かった。僕は光球を作って送り出した。大人十数人が手を繋いで輪になったぐらいの大きさの球体。そんな巨大な吸収石がはっきりと見えた。僕は光球を消し、精気視認器を通して巨大吸収石を観察した。背後の少し離れた所から「もうやめておけ」と声が聞こえてきた。僕は逆らわずに扉を閉めた。

「サジスフォレ君」と警邏隊員は言った。「君は良く持つな。大丈夫か」

「はい。キーンという甲高い音が聞こえませんでしたか」

「聞こえた。微かに」

「どう見ても、巨大吸収石の中の精気は高密度状態に達しています」

「放っておいたらどうなるんだろう。君は専門家だろう」

「設計図も何もありませんし、構造が分かりませんから、今は何とも……」

 エリク先生の待つ場所に戻ると、警邏隊員は早速先生を背負う素振りを見せた。

「さっさと帰ろう。長居は無用だ」

 僕は皆を呼び止めた。

「多分、高濃度の精気の影響だと思うんですけど、あの吸収石のそばでは魔法が不安定になります。でも今なら、あの吸収石に十分な威力の空爆をぶつけられます」

「待て」と警邏隊員が牽制してきた。

「今なら空爆が効きます。空爆を何発か当てれば、あの吸収石は壊れます」

「待て。勝手なことをするな」

「皆さんはあの吸収石を視認器で見ませんでしたけど、僕は見ました。見てしまいました」

「何が見えたんだ」

 僕はわずかに口ごもった。

「何を見たんだ」

「床下からふっと湧き上がって吸い込まれていきました。霊魂が」

 皆は絶句した。

「あんな不自然な物は直ちに壊すべきです」と僕は強く進言した。

「駄目だ」と警邏隊員が怒鳴った。「そんなことをしたら外交問題になる」

 警邏隊員はエリク先生から離れると、先生を背負うよう行商人二人に依頼し、僕の腕をぐいっと取った。

「帰ろう。君が決めることではない。我々が決めて良いことではないんだ」

 

◇◇◇◇◇

 

 スルイソラ連合国が秋に入り、ナギエスカーラ高等学院の秋学期が始まった。皆に強く促され、僕は大人しく南都ナギエスカーラに戻ってきていた。

 精気視認器があればイエシカさんの状態を目視で確認できる。これは極めて貴重な観察例となるだろう。しかし厳密には、精気視認器は僕の持ち物ではなく学院の所有物。貸し出す訳にはいかず、学院に持ち帰らなければならない。そのため結局、イエシカさんは三週間の傷病休暇を取り、僕たちはイエシカさんをナギエスキーヌの家に連れてきていた。

 三人での賑やかで楽しい家庭生活。さすがに、そういう訳にはいかなかった。借りてきた天幕を庭に張り、中に簀の子をきちんと敷き詰め、僕は独りでそこに寝泊まりする。毎日昼にはイエシカさんに食事を届ける。毎日朝夕一回ずつ、イエシカさんを観察して記録を付ける。そんな手間が増えた上に、何よりも首都ノヴィエミストの様子が気に掛かる。外面はともかく、内心ではそんな重苦しい日々が続いていた。

 秋第一週第二日、巨大吸収石の目撃から四日目の午後。僕とエリク先生で他称いかさま媚薬の製造小屋の改装に取り掛かっていると、そこに学院事務局の職員がやって来た。僕に来客。そのように告げられて、僕は神妙に職員の後を付いて行った。

 学院評議会議長の執務室の二つ隣には、最高級家具を取り揃えた応接室がある。そのことを僕は初めて知った。そして部屋の中には人影が一つ。フレクラント国大統領のジランさんが待っていた。職員が姿を消すと、ジランさんは何の挨拶も無く「座りなさい」と椅子を指さした。僕が会釈して腰を下ろすと、「イエシカの具合は」とジランさんは尋ねてきた。

「気だるい。気力が湧かない。そんな自覚があるそうです。それから基礎精気を吸われた腕ですが、冷たいと感じるそうです。ただし実際には、体温はきちんとあります」

「回復してきているのですか?」

「間違いなく。精気視認器を使えば、素人でもそれが見て取れます」

「きちんと養生するようにと伝えてください」

「はい。口だけは何とか元気です。何もせずに寝てばかりいたら、ぶくぶく、ぶくぶく、完熟してしまうと。完熟イエシカ。ちょっと凄いですよね」

 ジランさんが怪訝そうな表情をした。

「要するに、太ってしまうと」と僕は補足した。

 ジランさんはアアと微かに笑みをこぼした。

 その時、部屋の扉を軽く叩く音が聞こえ、職員が再び姿を現した。職員はジランさんの前に置かれていた杯に飲み物をつぎ足し、僕の前にも杯を置いて飲み物をそそぎ、軽く会釈するとそのまま部屋から出ていった。

「今日は例の巨大吸収石の件ですか」と僕は率直に尋ねた。

「それも用件の一つです」

「大統領が自ら乗り出すほどの状況なんですか」

「笑いも涙も出ませんね」

 強い肯定だった。

「フレクラント人の中では現状、ケイが生命力工学の第一人者です。しかも、実際に現場で現物を見ている。ケイはあの巨大吸収石をどのように評価します」

「直ちに破壊すべきです」

「理由は」

「余剰精気だけでなく、魂を丸ごと吸うからです。あれは禁忌の魔具です」

「霊魂が吸い込まれるのを見たのですね」

「はい。例えば、フレクラントの一万年の累計総人口は大体分かる。すると、人口密度ならぬ霊魂密度も大体分かる。様々な仮定はあってもそれに基づけば、あの巨大吸収石に吸い込まれるフレクラント関係の霊魂はせいぜい一つ。僕が見た霊魂はフレクラント関係ではない可能性が高い」

「そうですか。安堵して良いのかどうかは分かりませんが……。爆発などの可能性は」

 僕は軽くウーンと鼻を鳴らし、首を傾げてしまった。

 僕は転生者や霊魂となった超越派の実在を知っている。ジランさんも少なくとも転生者の存在は知っている。しかし、ジランさんにその観点からの危機感は無い様子。

 僕はジランさんに尋ね返した。

「ノヴィエミスト高等学院はあれで何をしようとしているんです」

「あの施設の基本構造は櫓のようになっているそうです。一階には巨大吸収石。二階には巨大発光石。つまり、全体では巨大照明器」

「地上の太陽……」と僕は呟いた。

「爆発の可能性は」

「細かい話をすることになりますけど……」

「構いません」

 僕は頷いて説明を始めた。

 吸収石は経年劣化する。耐久性は無限ではない。さらには、あの巨大吸収石は高音を発している。つまり、細かく振動している。それが劣化を速めるだろう。

 劣化が進めば、いずれ巨大吸収石は蓄積した精気を保持できなくなる。蓄積された精気は一気に拡散し、それに伴って巨大吸収石も砕け散る可能性がある。

 巨大吸収石が硬くて頑強であればあるほど、どこまでも持ちこたえて最後に激しく砕け散る。逆に頑強でなければ、早々に砕けて崩れ落ちるだけだろう。

「ただし、あの高音が巨大吸収石のどこから出ているのかは不明です。もしかしたら、あの吸収石の内部には穴か空洞かそれに類する構造があるのではないかと思うんですけど」

 ジランさんは大きく息を吐いた。

「さすがですね。その通りです。ノヴィエミスト高等学院の生命力工学専攻から設計図と実験記録の写しを貰ってきました。先ほど、こちらの生命力工学専攻の主任に渡しました」

 やはり、と思いながら僕は頷いた。

「激しく砕け散った場合の威力は」とジランさんは尋ねてきた。

「あの建屋を吹き飛ばして、丘の周囲に破片を撒き散らす。多分、それだけです。あの吸収石は巨大とは言え、物量はその程度のものです。僕の考えがここまでまとまったのは今朝辺りです。当然ですが、今後状況が変われば結論も変わります」

 ジランさんは緊張が解けたように大きく息を吐いた。

「ただし」と僕は付け加えた。「皆さんは物質的な大爆発を心配していますけど、僕が気掛かりなのはそれではないんです。まだ誰も気付いていないようですけど、蓄積された大量の精気はほとんど遮られることなく暴風となって拡散します。人間がそれを浴びたら、魂が吹き飛びます。特に連合国人はまずいでしょうね。魂が弱いので」

「そのことに思い当たったのはいつです」

「つい先ほどです。屋外作業をしている最中に。設計図を確かめてみないことには、これ以上のことは何も言えません」

 ジランさんはウーンと呻いて顔をしかめた。

「なぜ、わざわざ一国の大統領が飛び回っているんですか」

「猛烈な抗議が来たからです。連合国評議会、ノヴィエミスト評議会、ノヴィエミスト高等学院の三者連名で。フレクラントの行商人が大爆発の噂を流布して人心を惑わしていると。今、私と常設警邏隊と各通商組合の幹部とで各地の状況を調べて回っています。私が調べた所では、噂の大本はアンソフィーです。あなたが巨大吸収石を見に行っている間に、スルイスラ壊滅の話をしたようです」

「そんな」と僕は呆れた。「アンのせいだと言うんですか?」

「そこまでは言いません。フレクラント人は精気に敏感なので、ああいう物には本能的に禍々しさを感じてしまう。一方、スルイソラ人は鈍感なので、そこまでの認識には至らない。そこに壊滅の話。だから、両者ともに別の意味で驚きが大きく大騒ぎになった」

「変なことを言わないでください」と僕は不快感をあらわにした。「アンは警告を発しただけ。そもそもアンが話を漏らす前に、すでに大騒ぎになっていた」

「分かっています。状況の推移を述べただけです。アンソフィーの責任を追及する気はありません。今、警邏隊のビエラディエル中隊長が別室でアンソフィーと話をしています」

 ジランさんが飲み物に手を伸ばした。僕も飲んでみると、水やお茶ではなく、口当たりの良い爽やかな混合果汁。さすがに待遇が違うと僕は思った。

「ケイ。あの吸収石はいつまで持つと思います」

「分かりません。設計だけでなく製造技術にもよりますし。でも、今日や明日にもということではないと思います。ただし、遠からず必ず」

「今日や明日ではないとの根拠は」

「何と言えば良いのか……。あの吸収石は澄んだ高音を発していました。つまり、とてもしっかりと作られている。それだけに、逆に怖いと言えば怖いんですけど」

「つまり、緊急ではないが切迫はしている。精気を貯め込めば貯め込むほど、被害は大きくなると……」

「あちらの生命力工学専攻は何と言っているんです。あちらだって専門家でしょう」

 ジランさんはフームと鼻息を漏らした。

「ケイとは全く違う説明をしています」

 既存の照明器では、吸収石内の精気を使い果たすと発光は止まってしまう。つまり、吸収石による精気の吸収よりも発光石による精気の消費の方が速い。新開発の照明器ではその欠点が克服されている。

 吸収石内の精気は高密度状態に達すると、周囲の精気を自ら引き寄せて凝集し始める。この自律凝集によって吸収速度は飛躍的に高まり、発光による消費速度を上回るようになる。それを利用すれば、消えることのない照明器を作ることが可能となる。

 ただし、自律凝集中の精気は極めて危険であり、近傍の人間体内の精気まで吸い込んでしまう。しかし、精気の自律凝集にも吸収石の容量にも限度がある。限度に達すると、精気の自律凝集も吸収石本来の吸収も自動的に停止する。したがって、高密度状態の精気を利用するためには、吸収石が満杯状態になるのを待てば良い。

 吸収石はある程度の大きさになれば、製造途中でも精気の吸収を始めてしまう。製造途中で高密度状態に達するのを防ぐため、新開発の吸収石は従来品よりも低密度状態での吸収が遅くなるよう設計されている。

 仮に吸収石の解体が必要になったら、いったん吸収石を満杯状態にして精気の吸収を停止させ、四方八方から遮蔽材で覆って精気の流入を制限した後に、発光石で吸収石内の精気を消費し尽くせば良い。

「これがあちらの説明です。あなたはどう評価します」

「あちらの説明は従来の生命力方程式に基づくものです。拡張生命力方程式によれば、自律凝集に限度は無く、吸収石の容量を越えても自律凝集は続き、しかも自律凝集は加速する。だから、蓄積し過ぎの状況が発生し、吸収石はいずれ砕けて大変なことになる」

「拡張生命力方程式の方が正しいのですね?」

 僕はわずかに言葉に詰まった。それは速報の審査会でも議論となった部分だった。

「済みません。正確に言います。従来の生命力方程式にせよ、拡張生命力方程式にせよ、高密度状態での有効性は実証されていません」

 僕にとっては初めて目にする光景だった。いつも強気で即断即決のジランさんが頭に手を当ててゆっくりと髪を掻きむしり始めた。

「敢えて訊きますけど、フレクラント国高等学院の生命学専攻の見解は」

 ジランさんは頭から手をのけ、顔をしかめて首を傾げた。

「同じ生命学とは言っても、方向性が違う。それは分かりますけど、こちらに観察にすら来ないんですか?」

「見には来たようです。話は逸れますが、あなたに武闘会への参加を辞退させた者たちは譴責処分としました。調査対象に過誤の説明をして行動を制限した。それが理由です」

 突然の知らせに、僕はエッと声を漏らし失笑した。

「譴責って軽い方ですよね。やはり、その程度で終わりなんですね。あいつらはあれだけ自信と確信を持って僕を罵ったのに、あれはただの手違いだった、勘違いだったと」

「あなたが武闘会で圧倒的な実力を見せ付けたら、不要な魔法開発が始まってしまう。フレクラントの一般人にこれ以上の戦闘力は必要なく、その種の魔法開発は回避しなければならない。その説明にも一定の合理性があると認めざるを得ません」

「連合国評議会議長は僕に言いました。フレクラントにも賞罰の概念はあるのだろうが、実際上は罰しか存在しないと。全く同感です」

 ジランさんの顔に沈痛そうな表情が浮かんだ。

「公的機関の不祥事は官報で公表されます。あなたの魔法技能は当時から平均的な大人の水準をはるかに超えており、競技として成立しなくなるのは明白だった。だから、生命学専攻の調査員たちは無理にでも参加をやめさせようとした。そんな風に官報で告知します。あなたの名誉の件については、それが私に出来る最大限です」

 僕は脱力して溜め息をついた。

「あなたはクレールとマノンに、硬化魔法と強制硬化術は違うと言ったそうですね。やはり、大統領の立場にある者としては知っておきたいのです。どう違うのです」

 その問いはこれで二度目。今はジランさんと二人きり。今回は答えることにした。

「硬化魔法は硬化と強制の二段階からなります。硬化魔法ではその二段階を同時に発動します。一方、強制硬化術では最初に硬化を発動し、あとから強制を加えます。つまり、まずは硬化のみの一段階発動なので、根幹部分の起動と発現が速いんです。かなりの早撃ちが可能になるんです」

 ジランさんは微かに驚く様子を見せた。

「あなたはそれをどこで知ったのです」

「例のカイルの強制硬化術を見て気付きました」

 その時、僕はジランさんの口振りに違和感を覚えた。

「ジランさんは知っていたんですか?」

 ジランさんは答えようとしなかった。つまり暗黙の肯定。

「僕は今、極秘指定の情報を開示しました。ジランさんも答えてください」

 ジランさんはわずかにためらうと、おもむろに口を開いた。

「それは高等学院の極秘指定ですね。大統領府にも独自の極秘指定情報が大量にあります。中には、大統領のみ閲覧可という超極秘文書も存在します。それらの中に同種の話があります。カイルと同じく、エステルも転生を繰り返しています」

 僕は唖然とした。

「あなたなら思念法の気配に気付けるかも知れない。もしエステルを見付けたら、私が話をしたがっていると伝えてください」

「え、ええ」と僕はとにかく了承した。「でも、なぜ急にエステルの話を」

「カイルが現れたから、エステルのことも調べた。エステルはかつて一時期、大統領府の秘密の顧問のような立場にあったらしい。だから大統領の私としては、いるのなら手を貸してほしい。特に今のような時。明かせるのはここまでです」

「この件、他に知っている人はいるんですか」

「私の知る限りでは私だけです。もちろん、あなたは完全に秘匿すること」

 ジランさんは凝りをほぐすかのように肩を動かすと、姿勢を正した。

「次の用件に移ります。法や規則の順守。倫理や道徳の尊重。それらが隅々にまで行き渡った礼儀正しい秩序だった社会。それはどんな社会だと思いますか」

 僕は呆気にとられた。唐突であまりにも大きな話題の転換。こんな時になぜそんな話を。

「平和で穏やかな社会だと思いますけど……」

「理想郷ですか?」

「その一種かも」

「違います。抜け駆けをする少数の者が圧倒的に有利になる社会です」

 僕にとっては全く新しい視点だった。

「でもそれでは、行き渡ったことにはならないのでは」

「行き渡れば行き渡るほど、抜け駆けの効果は高くなる。だから、抜け駆けは決して無くならない。これは数学的にも証明されています」

「ああ。なるほど」と僕は理解した。「極限は超関数。そんな話ですか」

「少なくともフレクラントの専門家の間では常識ですね」

 ジランさんの顔に謎めいた表情が浮かんだ。

「いいですか。ここからは必ず最後まで黙って聞くように」

 僕は頷いた。

「明らかに、あなたは抜け駆けをする人間です」

 僕が反論の声を挙げようとすると、「最後まで黙って聞く」とジランさんは言った。

「白狼の際は指示や合意よりも自分の考えを優先。危険性を指摘されても思念法を追究。蝗退治に使用。あなたは小さな頃から非常に頭が良かったので、教育による無条件の刷り込みが効かなかったのです」

 僕は大きく息を吐いた。その言い方は不愉快。それらは努力や勤勉、創意工夫の一種だろう。だたし、教育による刷り込みなどと意味深長な但し書きを付けられると、一概には否定できないような気もする。

「抜け駆けの例は少数ですが、あなた以外にもあります。例えばあなたへの三級屈辱刑を強要した者たち。誰も怒鳴り返さないのを良いことに、自らは怒鳴り散らす。例えば高等学院の例の生命学博士。誰も言い返さないのを良いことに、自らは皮肉や嫌味を撒き散らす。それをもって他者を圧迫し、心理的に優位に立つ」

 僕は納得して頷いた。それらは間違いなく抜け駆け。

「抜け駆けは逸脱と言い換えても良いでしょう。そして逸脱には二種類あります。自分のための逸脱と、世のため人のための逸脱。あなたは後者の傾向が強い。だから、私たちはあなたを認めているのです」

「要するに」と僕は割り込んだ。「協調的な大勢、趨勢から大きく外れるという意味ですか。でも話の筋が」

「最後まで聞けば分かる」とジランさんは強い口調で言った。「ここからは極秘です。誰にも明かしてはなりません」

 僕は黙って頷いた。

「フレクラント国はこれまで国を挙げてあなたを特別扱いしてきました。ただし、特別扱いを受けた者は、少数ですがあなた以外にもいます。つまり、フレクラント国には一般には知られていないそのような制度があるのです。対象は主に教育による刷り込みが効かない者。あなたの場合は、あの不当な三級屈辱刑によって刷り込みが決定的に壊れてしまいました。あの時に、あなたは国の観察対象に指定されました」

 僕は驚いて、思わず口を挟んでしまった。

「僕はあの時からずっと監視されているんですか」

 その瞬間、ジランさんは溜め息をついた。

「どうしても黙っていられませんか……。まあ、いいでしょう。最後まで聞くのなら。監視ではなく観察です。実は観察という制度以外に、監視という制度もあるのです。例えば、あなたへの三級屈辱刑を強要した者たちは今でも監視対象に指定されています。観察対象は行動を制限されませんが、監視対象は制限されます。観察対象には観察していることを知らせませんが、監視対象には監視していることを知らせます」

「いや。今、知らせているじゃないですか」

「三級屈辱刑の直後に当時のソルフラム大統領があなたを観察対象に指定し、私がそれ引き継ぎ、あなたがスルイソラ連合国に移った時点で指定は解除されました。今回、この件をあなたに明かすよう指示したのはソルフラムさんです」

「何ですか。影の大統領ですか?」

「違います」とジランさんは鼻で笑った。「大統領や副大統領の経験者は、大統領府の公式な相談役であり助言役です」

「でも、国を挙げての特別扱いって……」

「フレクラント人はたった一人で街や村を壊滅させられるほどの魔法力を持っている。だから、一人一人を細かく見ていかなければならない。そういうことの一環です」

「僕はどんな特別扱いを受けていたんですか。冤罪の補償は補償であって特別扱いではないですよね」

 ジランさんは溜め息をついて、呆れたように首を傾げた。

「中地方中等学院にいた間、あなたには無尽蔵に物資を支給しました。例えば筆記具と計算用紙。あなたはたった一人で莫大な量を消費しました。例えば書籍。あなたが興味を示したら、すぐに図書室に揃えました。他には白狼の件。あなたは白狼を看取るために何週間も授業を欠席したでしょう。それでも落第にはならなかった。出欠などは無視して実力自体を評価せよと私が命じたからです。それから、あなたがこの高等学院に提出した推薦書。あなたは中を見ていないはずですが、署名は私と中等学院長が連名で行ないました。一国の長たる大統領がそんな推薦書を書くなんて異例中の異例ですよ」

 僕は呆気にとられた。どれも全く知らなかった。

 ジランさんはそこで言葉を切り、杯に手を伸ばした。僕も混合果汁を一口含み、口と喉の渇きを癒した。確かに大統領は雑用係みたいなもの。決して華やかな地位や職業ではないのだと僕は知った。

「ケイ」とジランさんは穏やかに言った。「実を言えば、私も未成年の間、観察対象に指定されていました。自分で言うのも何ですが、私も頭の回転が速くて、周囲と話が噛み合わずに苛立つことが多かったのです」

 僕は思い出した。確かに、ジランさんは苛立つことが多い。

「ケイの場合は学院の先生に時々注意されるぐらいで、あとは放任だったでしょう。ケイにとっては、標準化された教育など抑圧でしかない。ケイにとっては、躾という教育法など反知性主義以外の何物でもない。そう判断された結果です。それに比べて、私の場合は笑いも涙も出やしません」

 ジランさんは何かを思い出したかのように、ゆっくりと首を振った。

「ケイ。ざまを見ろとでも言ってみなさい」

「ざまを見ろ」

「あとで覚えておきなさい」

 僕は舌打ちした。

「でも、ジランさんは大統領にまでなったじゃないですか」

「法や規則を盲目的に順守する者は中統領以上、特に大統領にはなれないのです。だから、私に椅子が回って来た」

「規則上、そうなっているんですか」

「暗黙の了解です。反知性的形式主義は発展の阻害要因です。そういう者たちが力を持ったら、国は停滞し衰退してしまいます。私の言っていることは分かりますか」

「はい。でも、刷り込みの件とは話が逆になっていませんか」

「安定のためには、まずは盲目的順守が必要なのです。そしてどうしても、多くの者はそこから建設的に脱却できない。建設的に脱却できないのなら、安易に脱却させる訳にはいかない。世を平穏に保つことと発展させること。相反する面があって、両立は本当に難しい。歴史上、その種の社会構造を発展的減衰振動に持ち込むことに成功した指導者は白狼の騎士ぐらいです。今の世にいたら教えを乞うてみたいものです」

 ジランさんは随分と聞き慣れない話をしていた。僕はふと思って尋ねた。

「もしかして、ジランさんも社会学か何かの博士ですか?」

「知らなかったのですか? スルイソラには統治者の資格に関する規定があります。それを押し付けたのはフレクラントですよ」

 僕は肩をすくめた。

「マノンやクレールとは上手くやっていますか。以前の二人は逸脱など到底出来ない善良で平均的な人間でした。だから三級屈辱刑の時、大人しく傍観してしまった」

「もしあの時、僕が両親の立場にあったら、僕は規則や職業倫理なんか無視して、調べて回って、訴えて回ったと思います」

「そうでしょうね。あの後、クレールはソルフラムさんに呼び付けられて散々罵倒されました。お前は実直だけが取り柄の小心兎かと。私もその場にいましたが、あれは怖かった。でも、あれでクレールは変わりました。エスタスラヴァの政変の際は立派でしたね。いかにもソルフラムさんを手本としたことが分かる大活躍でした」

「母は何も変わっていませんけど」

「マノンは高等学院を頂点とする研究教育機関の一員ですから、ソルフラムさんが直接に指導する訳にもいかず、マノンに忠告する者はいなかったのでしょう。それでも、マノンが善良であることは間違いありません」

「正直に言って、僕には親子関係というものが理解できないんです」

 ジランさんは怪訝そうに僕を見詰めてきた。

「僕はもはや両親を中立の第三者と同列にしか認識できないんです。これは客観的な分析であって、怒りや不快感の表明ではありません。そこは勘違いしないでほしいんですけど」

「反知性的ですが、敢えて言います。何も考えずに私の言葉を信じなさい。クレールとマノンは善良な人間です。二人と上手くやりなさい」

「一般論として、その忠告に異存はありません」

「全く、もう」とジランさんは苛立ちをあらわにした。「あなたの頭は糠床ですか。あなたは誰のおかげで結婚できたのです。アンソフィーがエメリーヌに漏らし、エメリーヌがマノンに伝え、マノンがクレールに持ち掛け、クレールがソルフラムさんに相談し、ソルフラムさんが私に頼み、私がエスタコリン側に働き掛けた。全員に感謝しなさい。さっさとひれ伏して回りなさい」

 僕は愕然としてウッと呻いた。

 そして、ジランさんがアルさんに働き掛け、アルさんがアイナ様に勧め、アイナ様がアンに命じた。全員にひれ伏して回るべきはアンだろう。あの狸。やはり狸。薄々感じてはいたけれど、アンのやる事なす事、結局は全てがアンの望み通りに進んでいく。

 そんなことを思いながらも、僕は椅子に座ったまま深々と腰を折り、眼前の長机の上面に額をぶつけた。

 何となくジランさんの言葉に鋭さが無くなってきた。用件は済んだのだろうか。僕は額をさすりながら尋ねた。

「ところで、今の話と巨大吸収石の件には何か関係があるんですか」

「もちろんです。あなたは現在、間違いなく生命力工学の有力な研究者の一人です。それだけに、言動に影響力があるのです。しかし、一言『言動に注意』と言ったところで、あなたには効かない可能性がある。だから、逸脱と観察の件を明かしたのです。今、スルイソラ連合国は揺れています。場合によっては内乱が発生します。あなたが善意の人間であることは知っていますが、独断、抜け駆けは絶対にしないでください。しばらくの間、ナギエスカーラにビエラディエル中隊長以下数名の常設警邏隊員を配置します。何かを思い付いたら、必ず隊員たちと話し合ってください」

 事の重大性は理解できた。僕は素直に了承した。

「さて」とジランさんは言いながら腰を上げた。「私はもう行きます。ノヴィエミストを避けて迂回路を設定するとしたら、どこが良いでしょうね」

 僕も腰を上げた。

「西方域の中心都市クスヴィシュトロームはどうです」

 エッとジランさんは動きを止めた。

「そこまで迂回しないと駄目ですか」

 これが僕の発言の影響力。そう気付いて、すぐに補足した。

「いや。そういう意味ではなく。ついこの間、西方域評議会の議長と通商関連の話をしたんです。議長はとても真剣に言っていました。フレクラントの行商人にはもっとクスヴィシュトロームにも来てほしいと」

 ジランさんは溜め息をつき、「分かりました」と言い残して部屋から出ていった。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第一週第三日、ジランさんの来訪の翌朝。イエシカさんは薄着姿で大の字になり、アンの箪笥にへばりついていた。

 家に持ち帰った精気視認器を用いて、一定の距離から僕が観察そして記録。次いでアンも別個に観察そして記録。巨大吸収石に魂を吸われかけてからちょうど五日。イエシカさんは腕も含めて、それなりに人型に映るようになっていた。

「イエシカさん。順調です。完熟も近い」

 僕がそんな軽口を叩いた時だった。玄関を叩く音が聞こえた。出てみると、エスタコリン王国中央政庁ナギエスカーラ出張所の職員を名乗る男。職員はイエシカさんとの面会を求めてきた。

 僕とアンが朝食の準備をするかたわら、玄関口ではイエシカさんと職員が少々深刻そうに話し込んでいた。そんな中、退避命令という言葉が聞こえてきた。

「あのう」と僕は話に割り込んだ。「中に入ってください。さっきから話は聞こえていたんですけど、イエシカさんは今日付でナギエスカーラ出張所に転属となる。それはノヴィエミストからの退避なんですか。訊いてもいいですよね。巨大吸収石の件については、エスタコリンとフレクラントはお互い様でしょう」

「いいでしょう。サジスフォレ殿」と職員は応えた。「その通りです。本日早朝、本国から緊急に命令が届きまして……」

 スルイソラ連合国中方域に在住するエスタコリン人は全員、二日以内に首都ノヴィエミストを離れ、五日以内に中方域の外へ出ること。退避先としては北東方域もしくは南方域を推奨。そこには中央政庁の出張所がある。その際、エスタコリン王国のために働いているスルイソラ人も希望すれば同道すること。北東方域と南方域の出張所は受け入れの態勢を整えること。

「うちの所長からの伝言ですが、体調に支障が無ければ、ヴェストビーク殿は今日中にノヴィエミストから私物を持ち帰り、明日から出勤してもらいたいとのことです」

「分かりました」とイエシカさんは力強く答えた。

「今日の往復のために、すでにフレクラントの行商人の手配を済ませてあります。ノヴィエミストに着いたら、あちらの状況の確認もお願いします」

「あのう」と僕は声を掛けた。「退避命令を出したのは誰ですか」

「王家のエルランド殿下です。中央政庁と王家を合わせても、生命力工学の専門家は殿下しかおられません。そのため、この件に関しては殿下が全権を握ることとなったようです」

 僕は感嘆した。さすが白狼の騎士。とてつもなく速い権力掌握。とてつもなく速い決断。疑いようもなく統治者としての格が違う。そして、殿下も拡張生命力方程式の方が正しいと認識している。

「サジスフォレ殿。フレクラントの方ではどうなっているのでしょう」

「まだ、巨大吸収石への接近禁止だけです。今は南北の行き来の迂回経路を策定している段階のようです。中央政庁はフレクラントの第一種行商人と専属契約を結んで働いてもらっているでしょう。中央政庁からその人たちへの指示は」

「詳しいことは分かりませんが、エスタコリン本国から南都ナギエスカーラまでは内陸に入らず東海沿いをと指示されているようです。所長から訊いてくるよう言われたのですが、サジスフォレ殿も専門家。どう判断されます。被害は本当にそんなに大きくなるのでしょうか」

「多分、とにかく安全第一。そういう意味だと思います。現状では、仮に巨大吸収石が爆発したとしても、中方域全体が壊滅するとは僕には思えません」

「しかし、少なくともノヴィエミストからは避難した方が良いのですね」

「少なくとも徒歩で一日の圏内からは退避して、しばらく様子見。もちろん、エスタコリンの方々は殿下の指示に従うべきだと思います」

「様子見の期間は」

「正確なことは言えませんが、例えば六週間。その間、随時再検討」

「事態は切迫しているのでしょうか」

「今日や明日にもという状況ではないと思います。昨夜イエシカさんに話しましたから、詳しいことはあとでイエシカさんの方から」

「分かりました。ヴェストビーク殿は準備ができ次第、出張所の方へ。それでは」

 職員はそう言うと、そそくさと去っていった。

 僕はこっそりと舌打ちした。昨日、ジランさんに長々と厳命されてしまった。勝手に動くなと。例えばノヴィエミスト師範学校付属初等中等学院。魔法実技担当のあの先生はエスタコリン人だから退避する。子供たちはどうなるのだろう。寄宿舎の管理人夫妻も。

 午前の講義をすっぽかしたら、勝手に動き始める前兆と疑われて、僕は本格的に行動を制限されてしまうだろう。仕方が無い。午前の講義にはきちんと出て、午後になったら常設警邏隊の中隊長に相談しに行こう。僕はそう思った。

 しかし午後。エリク先生に断りを入れて、フレクラントの行商人御用達の宿屋へ行ってみると、隊員は全員不在。警察隊本部かも知れないと示唆されて行ってみても、一人も見当たらず。ならばナギエスカーラ評議会。やはり同様。全員、忙しく飛び回っているようだった。仕方が無い。いったん学院に戻って、夜になったらもう一度宿屋へ行ってみよう。僕はそう思った。

 そして夜。ようやく会ってみれば、返って来たのは冷静ともつれないとも言える言葉。現時点では学生の僕やアンが動き回る必要は無い。皆だって無能ではないのだから。言われてみれば、それはその通り。仕方が無い。家に帰ろう。僕はそう思った。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第一週第四日、巨大吸収石騒動の勃発から六日目。家の中はイエシカさんが持ち帰って来た荷物で足の踏み場も無い状態になっていた。とは言っても、荷物の半分以上はスルイソラ連合国各地の民芸品。イエシカさんは仕事のかたわら収集に励んできた様子だった。

 イエシカさんによれば、南都ナギエスカーラに避難してくるのは二十人前後。エスタコリン関係者の多くは本国に近い北東方域へ、もしくは民間の伝手を頼って東方域へ向かう見込みとのことだった。この程度であれば、住居の手当ても容易。自分の住処も早急に探してくる。そう言って、イエシカさんは朝早くに出勤していった。

 午前の講義が終わり、環境生命学研究室でアンと待ち合わせ。研究室に荷物を置いて二人で学院の食堂へ向かおうとした時だった。エリク先生が現れ、会議室に集合と声を掛けてきた。

 生命学系の会議室には、生命学専攻、生命力工学専攻、魔法医術専攻の各主任、常設警邏隊のビエラディエル中隊長が待っていた。皆の手元には弁当。僕たち三人の分も用意されていた。

「時間が惜しいので、食べながら話を進めましょう」と中隊長は言った。「皆さんをお呼び立てしたのは精気視認器の件です。誰でも使える改良型が四台完成したと聞いたのですが、一台使わせていただけないでしょうか」

「用途は」と生命力工学専攻の主任が尋ねた。

「例の巨大吸収石を毎日定時に観察し、状態の変化を調べます」

 先生方の顔に困惑の表情が浮かんだ。

「皆さんもノヴィエミストの混乱を聞いておられるはず。対処するためには、とにかくまずは観察。事の重大性は御理解いただけると思いますが」

「それは分かります」と生命力工学専攻の主任が答えた。「ただし、使い物になるかどうかは分かりません。サジスフォレ君は蓄積された精気の噴出を懸念しています。我々も同意見です。となると、観察はかなり離れた場所から行なうしかありません。しかし、そこまでの感度があるかどうか」

「無理なのでしょうか」

「改良型の感度はサジスフォレ君の原型器の約百倍です」

 中隊長は「素晴らしい」と本音ともお世辞ともつかない声を漏らして首を傾げた。

「我々も知恵を出し、サジスフォレ君もさらなる知恵を出し、そこまで感度を上げました。しかし、それはまずは医術での使用を念頭に置いたもの。例の吸収石の観察にはいかにも中途半端。これが感度千倍なら自信をもって役に立つと言えるのですが」

「感度百倍の厳密な定義は」

「原型器に四十歩の距離から映る物は、改良型には四千歩の距離から映る」

「それなら十分に役に立つと思います」と中隊長は意気込んだ。

「中隊長」と僕は口を挟んだ。「精気視認器は感度の限界ぎりぎりの所で使う物ではないんです。だから、実際にはもっと近付かないと」

 中隊長は僕に向き直った。

「そうではないんだ。精気を貯め込めば貯め込むほど、遠くから見えるようになるのではないか? それなら、見える限界の距離を毎日定時に調べれば良い。そうすれば、貯め込めば貯め込むほど、遠くから観察することになる。問題はそれで十分に離れたことになるのかだが、噴出に備えて遮蔽材で盾を作ってもらえないだろうか」

「現在、あの吸収石は遮蔽材で囲われているので、どれだけ貯め込んでいるのかは良く分からないと思います。分かるとしたら、建屋上部からの吸い込みの勢いでしょうね。それを観察するだけでも意味があるとは思いますけど」

 僕がエリク先生に目を遣ると、先生は黙って頷いた。

「分かりました」と生命力工学専攻の主任が了承した。「とすると、魔法医術専攻の方から一台……」

 僕の聞いている所では、一台は生命学専攻と生命力工学専攻で共用、二台は魔法医術専攻で試用し、最後の一台は連合国西方域評議会へ送ることになっていた。

 魔法医術専攻の主任は渋々ながらも頷き、「ところで」と言った。

「ノヴィエミストの様子はどうです。もし被害が出たら、我々が駆け付けることになる」

「それが」と中隊長は顔をしかめた。

 エスタコリン関係者が退避の準備を始めた。それを知った住民たちは動揺している。ノヴィエミスト評議会と高等学院は、心配無用と告げて回っている。突然のことでもあり、住民の多くは半信半疑で街にとどまり続けている。

 ノヴィエミスト高等学院が恒久照明計画を立案したのは約十年前。ここ二十年、ノヴィエミストの生命学系はナギエスカーラに後れを取っている。それを挽回しようと計画を秘密裏に進めてきた。設計と試作を繰り返した後、あの巨大照明器を製作し始めたのは約一年前。巨大吸収石内の精気が高密度状態に達したのは約二週間前。容量の限界に達するのは約三週間後の見込み。実証実験が済んだら、さらに製作して街中に設置する予定となっている。

 ノヴィエミスト評議会はフレクラント国とエスタコリン王国に激怒している。恐れて逃げ出すのは勝手だが、なぜ騒いで人心を惑わすのかと。騒動による経済的損失は莫大なものになるだろう。実証実験の終了後、その賠償をしてもらう。

「我々に言わせれば」と中隊長は舌打ちした。「それは言い掛かりだ。フレクラントの接近禁止令にせよ、エスタコリンの退避命令にせよ、誰にも知られずに出来る訳が無い。それなら、はっきりと理由を説明した方が良いに決まっている。いや。当然そうすべきだ」

 中隊長はそんな風に吐き捨てると、アンに声を掛けた。

「エペトランジュ君。君の所にエスタコリン中央政庁のヴェストビーク殿がいるだろう。昨日ノヴィエミストに行ってきたようだが、何と言っていた」

 急に指名されて、アンは「あっ。はい」と驚く様子を見せ、すぐに説明を始めた。

「評議会や高等学院に関しては確かにそのような話を聞きましたが、街の様子は少し違うようです。今のところ、真剣にとらえている住民はほとんどいないという……」

 皆の間からエエッと驚きとも呆れともつかない声が上がった。皆のそんな様子を窺いながらアンは言葉を続けた。

「イエシカ殿は中央政庁の出張所と民間のトロンギャアンケ商会などが掻き集めた資金をノヴィエミスト在住のエスタコリン人に無償で貸し付けて回ったそうですが、その際、街のあちらこちらで連合国人の住民からそんな印象を受けたようです。ですから、騒動と言うよりは、大きな噂になっていると言う方が正確かと」

 皆、溜め息をついた。

「中隊長」と生命力工学専攻の主任が言った。「連合国内の他の地域の状況はどうなっているのでしょう」

 その瞬間、中隊長は何かに思い当たったかのようにアアと声を漏らした。

「複数の方域が軍の再編の動きを見せています」

「そんな……。どの方域です」

「動きと言っても検討に入っただけ。実際に人を集め始めた訳ではありません。北方域、西方域、南方域、南西方域……」

「ここもですか」

「軍としか言いようが無いので軍と言っただけです。もし大惨事となれば、大量の避難民がやって来る。その受け入れと治安の維持に人手が必要となる。逆に、救援のために中方域へ人を派遣する必要も出てくる。そのため、警察隊の一時的な拡充を検討する。これは北、西、南が我々の警告を真剣に受け止めた結果です。と言っても、各方域ともノヴィエミストからの退避勧告を出すまでには至っていない。その程度の認識ですね」

「南西方域は」

「あそこだけは本気も本気。巨大照明器を破壊するために、ノヴィエミストに侵攻するつもりだったようです。無理だと説得してやめさせましたが」

「二千年振りの軍事か……。あの人は何をやっているんだ……」

「あの人とは」と中隊長は訝しげに尋ねた。

「南西方域評議会議長。私も南西方域の出身で、あの人とは知り合いです。この高等学院では、あの人は私の二学年上でした」

 生命力工学専攻の主任はそう言うと、溜め息をついて大きく首を振った。

「中隊長」と僕は口を挟んだ。「どうやって破壊すると言うんです。参考までに聞かせてください」

「投射機で金属製の砲弾と銛を撃ち込む。しかし、安全な距離からでは到底届かない」

 魔法ではなく、物理的な力による破壊。僕は納得した。

「恒久照明計画か……」と魔法医術専攻の主任が呟いた。「成功すれば歴史に残る偉業。失敗すれば歴史に残る惨事。一種の過失なのだろうが、たちの悪い話になってしまったな」

「お粗末な話だ……」と生命力工学専攻の主任が呟いた。「ああいう物は常に人の制御下に置かなければならない。それを満杯になるまで放置とは」

「あと三週間……」と生命学専攻の主任が呟いた。「従来の生命力方程式による予想が三週間なら、拡張生命力方程式が正しければもっと早くなる。拡張生命力方程式によれば凝集は加速するのだから。早急に加速の有無を調べる必要がある。それではっきりする」

 程なく話はまとまった。精気視認器の使用に慣れているのは僕とアンとエリク先生。しかし、エリク先生は空を飛べない。そのため僕とアンが観察役となり、これから三日間、毎日午前と午後の一回ずつ、ノヴィエミスト方面へ赴いて巨大吸収石を観察する。その間は学業を疎かにすることになるが、状況が状況。先生方が学院評議会に掛け合ってくれることになった。

 環境生命学研究室に戻って第一回目の観察の準備をしていると、部屋まで付いてきた生命学専攻の主任が注意を促してきた。

 巨大照明器の建屋は円筒形ではない。そのため、観察点から建屋への方位が変わると、見え方も変わる可能性がある。観察時刻や建屋との距離については、多少の誤差は問題ない。凝集が指数関数的に加速するようなら、誤差など関係なくそれは明らかになるだろう。

 第一回目の観察隊は、僕、アン、ビエラディエル中隊長の三人。エリク先生に「くれぐれも気を付けるように」と念を押され、僕たちは学院を飛び立った。

 南都ナギエスカーラから首都ノヴィエミストまでは徒歩で二泊三日強の道のり。どこまでも街道が続き、所々に小さな街や村。地上の様子に特に変化は見られなかった。

 地図と方位磁石を頼りに高空帯を飛び続け、ノヴィエミストまで徒歩で数時間の距離となった時、ようやく精気視認器に巨大照明器が映った。ところがやはり、感度の限界での観察は難しかった。映っているのか、いないのか。その境を中々上手く判別できなかった。

 巨大照明器に近付いてみたり離れてみたり。そんなことを繰り返していると突然、僕たちのそばで小さな光爆が起きた。辺りを見回してみると、弱々しい光球が約十個、地上付近を乱雑に飛び回っていた。

 どこかの集団が僕たちを呼んでいる。そう判断して、僕たちは街道に降り立った。

「ケイちゃん」

 そう叫んで、女子が駆け寄ってきた。その背後には、ノヴィエミスト師範学校付属初等中等学院の生徒たち、魔法実技担当の先生とその奥さんと思しき人、さらには寄宿舎の管理人夫妻。皆、体格相応の背嚢を背負っていた。そして、制服から明らかにそれと分かる警察隊員五名。警察隊員は全員、乗用の馬を連れていた。

「良く僕だと分かりましたね」

 そう声を掛けると、先生たちは安堵の様子を見せた。

「衝突防止の警告用光球を飛ばしていただろう。その色で君だと気付いた」

「皆さんはナギエスカーラへ避難ですか」

「生徒たちが君のいる所の方が安心できると言うので」

 その時、警察隊員が横柄な態度で会話に割り込んできた。

「君は何者かね」

「僕はケイ・サジスフォレ。フレクラントの魔法使い。ナギエスカーラ高等学院の学生で、生命学系の研究者です」

「そうか……。君が例の流星の魔法使いか……。この件は君には関係ない。この者たちには誘拐の嫌疑がかかっている」

 僕が「ん?」と首を傾げると、僕の脇に中隊長が立った。

「穏やかならぬ話だが、事情を聞かせてもらえないだろうか」

「君は?」と警察隊員は忌々し気に尋ねた。

「私はブレソル・ビエラディエル。フレクラントの常設警邏隊で中隊長を務めている」

「中隊長……」と警察隊員は呟き、鼻で笑った。

 どうやら階級や年齢差に対する認識が不足している模様。中隊長は自ら説明するだろうか。そう思って顔色を窺ってみたが、その気配は無かった。代わりに僕が告げた。

「大昔、連合国の七方域にはそれぞれ軍があったでしょう。今は規模を縮小して警察隊になっていますが。常設警邏隊の中隊長はそれら方域軍の総司令官に相当。その上の大隊長は連合国全体の総司令官に相当」

 その瞬間、警察隊員たちの顔に驚きの表情が浮かんだ。

「失礼しました。中隊長殿。我々は連合国中方域警察隊ノヴィエミスト本部所属の……」

 警察隊員たちは次々に氏名と階級を申告すると、中隊長に向かって敬礼した。

「私に事情を聞かせてもらえないだろうか」

「承知しました。中隊長殿」

 状況から容易に推測できる通り、先生夫妻の退避に合わせて皆も付いてきた模様。しかし、先生夫妻や管理人夫妻はともかく、生徒たちは付属初等中等学院の保護下にある。そのため形式上、学院は誘拐として警察隊に届け出たとのことだった。

「ちょっと訊きたいんだが」と中隊長は先生に尋ねた。「生徒たちは勝手に付いてきたんだね?」

「いや。そういう言い方は」と先生は気色ばんだ。「私はエスタコリンの貴族の出。その矜持に懸けて、生徒たちを見捨てることなど到底……」

「言い方が悪かった。付いてきたのは当人の意思であり、強要した訳ではないんだね?」

「強要はしていませんが……」

 中隊長は警察隊員たちに向き直った。

「だとしたら、これは誘拐ではなく、家出のたぐいだろう。嫌疑違いだ」

「ですから、中隊長殿。我々としては生徒たちを返してもらえればそれで良いのです」

 生徒たちの間から、「やだ」、「一緒に行く」などと声が上がった。

「誰か」と中隊長は生徒たちに呼びかけた。「今回の家出の理由を説明してくれないか。どんな細かい話でも良いから」

 その問いに応えて、見覚えのある最年長男子が進み出た。

「以前にケイ君がやってみせてくれたんですけど、魔法力を凝縮させるとキーンという甲高い音が出ますよね。それとそっくりな音が西の丘の方から聞こえてくるんです」

 僕はアンや中隊長と顔を見合わせてしまった。

「ケイ君は最後に魔法力の塊が弾け飛ぶ所まで見せてくれたんですけど、同じことが起きたら怖いし……。それに夜はあの音のせいで良く眠れないんです」

 初めて高音が聞こえたのは三日前の夜。その時は風向き次第で聞こえたり聞こえなかったりと、かなり弱い音だった。しかし、日を追うごとに強くなり、昨夜はずっと聞こえ続けていた。

 師範学校は街の西外れにある。その西方、少し離れた所に巨大照明器の丘。そのため、街中ではそれほどでもないが、師範学校や付属学院ではかなりの噂になっている。寄宿生ばかりでなく、外から通っている学生や生徒たちも浮足立っている。

「それで、自宅から通っている同級生たちも何人か、一緒に行きたいと言っていたんですけど……」

「さすがにそれは無理でした」と先生が言った。「他の生徒たちは親の保護下にありますから、それこそ勝手に連れ出す訳にもいかず……。親たちにエスタコリンの退避命令の内容を説明して、とにかく街を離れて少し様子を見たらどうかと勧めるのが精一杯でした」

 中隊長がウーンと唸った。アンが「凝集が進んでいる」と囁いてきた。

「あの……」と管理人の旦那さんが口を開いた。「この子らには事情があって、この子らの保護者は付属学院議長と私ら寄宿舎管理人ということになっているんです。法的に正式に。だから、議長さんは駄目と言いますが、私らが一緒に行くのなら……」

 中隊長は「なるほど」と頷くと、警察隊員たちに向き直った。

「諸君。私に言わせれば、君たちのやっていることは向きが逆だ。子供たちがノヴィエミストから離れたいと思うのは当然だ。生活に支障を来すほどの環境の悪化。それに対する師範学校の無策を問い質すべきだ」

「それは私たちの任務では……」

「もし、この生徒たちの方が先に付属学院からの虐待等を訴えていたら、君たちは今頃付属学院の方を調べていたのではないか? 耐え難い高音を聞かせ続けるなんて虐待だろう」

「仮定の話には答えられません」

「中方域警察隊では、自分で考えて上司に具申してはいけないのか?」

「いえ。そういう訳では……」

「君たちにも家族がいるんだろう? 君たち自身と家族の安全。安全策という考え方もあるはずだ」

「それは我々にも逃げ出せと?」

「警察隊員なら警察隊員らしく逃げ出すのは最後だ。ただし念のため、家族や知り合いには退避を勧めたらどうだ」

「本当にあの地上の灯台は爆発するのでしょうか」

「それを今調べている。しかし、音だけでも大問題だろう」

「爆発するとしたら、いつぐらいに」

 その問いに、中隊長は僕に目を向けてきた。

「正確に言います」と僕は前置きした。「ノヴィエミスト高等学院の見解では、あの巨大照明器は爆発せず、約三週間後には正常に作動するようになる。ナギエスカーラ高等学院の見解では、爆発の可能性があり、もし爆発するのならもっと早くなる。フレクラント国とエスタコリン王国はナギエスカーラ高等学院と同意見。つまり、爆発の可能性あり」

「早くなるとは具体的には」と警察隊員が尋ねてきた。

「それを今調べているんです。いずれにせよ、三週間もすれば結論は出る、もしくは三週間もしない内に結論は出る。様子見は離れた所からお早めに」

「お早めにとはいつまでに」

「数日以内。なるべく早く」

「離れた所とはどの辺り」

「少なくともノヴィエミストから徒歩で一日の距離。状況に応じて、追加の退避が必要になるかも知れない。最高の安全策はエスタコリン王国の退避命令に従うこと」

 警察隊員たちは口を閉ざすと、各々考え込んでしまった。

「諸君」と中隊長は言った。「この一行は逃げも隠れもしない。君たちは街に帰って、直ちに上司と話し合った方が良い」

 警察隊員たちは互いに顔を見合わせた。

「命を賭して弱きを守る。古来、それがスルイソラの男の誇りだったはずだ。良く考えたまえ。君たちは今、何を守るべきなのかを」

 警察隊員たちは中隊長の言葉に頷くと、馬に跨り、街の方へ駆け去っていった。

「さて御一行」と中隊長は言った。「退避すると決めたのならさっさと退避すべし」

 先生夫妻と管理人夫妻が僕たちに向かって頭を下げ、生徒たちを急き立てた。最年少女子が僕に言った。

「ケイちゃん。皆も助けてあげて」

 この子はかつて虐待を受けていた。その結果、師範学校に引き取られることになった。そんな子がこんな風に気を遣う。僕は「分かった」と力強く頷いた。

 

◇◇◇◇◇

 

 そこはかとなく冬の色が見え始めた季節の変わり目。西の地平に陽が沈もうとしていた。周囲の草原には体を休める羊や山羊、そして馬。草を平らげた広場には天幕が点在し、その中央には穏やかな焚火。青き白鳥の一族の大半が集い、先ほどからお婆様の言葉に耳を傾けていた。

「息子たちよ、甥たちよ。その妻たちよ、子供たちよ。昔々、はるかな昔……」

 我が一族に勇者が現れた。

 ある日、勇者は傷付き弱り果てた狼に出くわした。心優しき勇者は狼の飢えと渇きを癒してやり、その精気を蘇らせた。すると、狼は神の使いと名乗り、名無しであった我が一族に青き白鳥の名を授け、いずこへともなく去って行った。

 その後、勇者は近隣の名無しの部族どもを取りまとめ、最後には大平原の全てに秩序と平穏をもたらした。三方を山に囲まれた大平原。人の脚をもって東西には百五十日、南北には五十日。人々は身の危険を感じることなく大平原を行き来できるようになり、物は行き渡り、知識は知れ渡り、血縁は隅々にまで広がった。

 しかし勇者も人の子。老いには勝てず、遂にその時がやって来た。多くの者が見守る中、勇者が最後の息を吐くと、どこからともなく狼が現れた。狼は勇者を背に乗せると、天に駆け上がって姿を消した。皆は勇者が神の元に召されたことを知って安堵した。

「息子たちよ、甥たちよ。その妻たちよ、子供たちよ。それからどれほどの時が経ったのだろう。今や秩序は緩み、もはや平穏とは言えぬ世になってしまった。しかし、我らは青き白鳥の一族。決してその誇りを失ってはならぬ」

 お婆様の戒めに、一族の長たる父が頷いた。

「はい。お母様。我らは決して神より与えられた名を汚しはしません」

 お婆様が大きく頷き、お婆様の独り語りはそこで終わった。

 翌朝、いつも通りの一日が始まった。女たちは母山羊の乳を搾り、男たちは羊やその他の山羊を草原に放つ。そんな中、父と叔父がお婆様と共に馬に跨り、西へ向かって行った。

 夕方、食事の場に父と叔父はいても、お婆様の姿は無かった。誰に尋ねても、皆は僕を無視するばかり。僕は胸騒ぎを覚え、深夜に独りで天幕を抜け出した。

 雲一つ無い大平原の夜。月明りは無くとも、天の川の輝きが大地を照らしていた。目を凝らして中空中速飛翔を続け、灌木が生い茂る丘に差し掛かった時だった。小さな焚火の灯りを眼下に見付けた。頂に近いわずかに開けた場所。僕はその傍らに降り立った。

 大平原の夜は冷える。それに加えて冬の気配。星々の光は寒々としていた。お婆様は毛皮に包まり、独りぽつんと焚火の脇に座り込んでいた。

「お婆様。なぜ一人でこのような所に」

「おや、おや。これでは別れがつらくなってしまうだろう」

 意味が分からず僕が首を傾げると、お婆様は笑みをこぼした。

「せっかく、生まれて初めて独りの時を楽しんでいたというのに」

「お婆様。意味が分かりません」

「人は生まれてから死ぬまで働き続けるもの。私はもうじき六十歳。働けなくなった者を養い続けることなど出来ないのだよ」

 驚愕の返答に僕は身震いした。

「私はこれまでまっとうに生きてきた。きっと遠からず立派なお迎えが来て、神様の元へ連れて行って下さることだろう。それとも、お前さんがお迎えなのかい」

「お婆様。皆と共にあって、天寿を全うすべき。かの勇者がそうだった」

 お婆様は鼻で笑うと、小枝で焚火をつついた。

「私は他所から青き白鳥に嫁いだ身。ましてや、私は勇者様ほど偉くない」

「偉いか偉くないかなど関係ない」

「私は子供を七人産んだけど、残ったのは息子二人と娘一人。他は十五を迎える前に死んでしまい、夫もすでに亡くなった。このように老いを迎えられただけで私は本当に幸せ者」

「そのことと天寿には何の関係も無い」

「お前さんは優しいね。でも、私ももうつらいのだよ。頭が曇って良く考えられないし」

 僕はお婆様に歩み寄り、その頭に手を当てて治癒術を掛けた。

「目も霞んで良く見えないし」

 僕はお婆様の両目に治癒術を掛けた。

「腰も痛むし膝も痛むし」

 僕はお婆様の腰と両膝に治癒術を掛けた。

「それに……」

「ええい。面倒臭い」

 僕はお婆様の全身に治癒術を掛けた。

 その時、少し離れた所から藪を掻き分ける音が聞こえてきた。焚火の灯りに慣れた目に夜の闇はあまりにも暗く、僕は身構えたまま音の正体が姿を現すのを静かに待った。

「おや、おや。キルヌにイリナ。これでは別れがつらくなってしまうだろう」

 僕の弟と妹。弟のキルヌは石斧と背嚢を、妹のイリナは背嚢を背負っていた。

「こんな夜中に馴染みのない原野に分け入って、足をくじいたりはしなかったかい」

「大丈夫です。お婆様」と弟のキルヌ。

「お別れは嫌です。お婆様。帰りましょう」と妹のイリナ。

「夜中に抜け出して、誰かに見咎められなかったかい」

「良く分かりませんけど」とキルヌは首を傾げた。「皆が眠ってからこっそりと抜け出してきましたから……」

「こんな所まで歩いてきたのかい」

「はい」とイリナは頷いた。「東にあった星々も頭の上にまで動いてしまいました」

 お婆様は笑みをこぼして溜め息をついた。

「二人も知っているだろう。これは古くからの仕来り。仕方が無いのだよ」

「お婆様のお世話は私がします」とイリナ。

「僕もお世話しますから、お婆様、さあ帰りましょう」とキルヌ。

 弟のキルヌは石斧で地面を掘ると、焚火に土をかぶせて火を消した。星明りに目が慣れるのを待ち、キルヌは有無を言わさずお婆様を背負った。妹のイリナはお婆様のわずかな荷物を背嚢に押し込み、キルヌの石斧と背嚢も重ねて背負い、その後を追って行った。

 二人は健脚。この場所に心当たりもあったに違いない。それでも、ここまで来るにはかなりの時間が掛かったはず。帰り道、二人の脚は持つのだろうか。夜行の獣も徘徊するこの原野。二人がいなければ、僕が背負って空を飛んでしまう所なのに。僕よりも決断の速い心優しく果敢な二人。仕方が無いと僕は思い、お婆様、キルヌ、イリナ、そして荷物にこっそりと軽く強制浮揚術を掛けた。

 東の空が白み、野営地が見え始めた頃だった。一族の男たちが馬で駆けてきた。

「お前たちは何をしているのだ」と父が大声で詰問してきた。

「お父様」と弟のキルヌは叫び返した。「僕は神の声を聞きました」

 父たちは驚きをあらわにした。

「お父様」と妹のイリナも叫んだ。「お婆様は青き白鳥の一族と共にあり続けるべし。神様はそうおっしゃいました」

「本当か」と父は尋ねた。「本当にお前たちは神から言葉を預かったのか」

 キルヌとイリナは同時に頷いた。僕は呆れると同時に感心した。僕であれば理をもって説得に当たる所。二人で口裏を合わせるなんて、嘘も方便とはまさにこのこと。

 父たちが顔を見合わせた。首を傾げた。溜め息をついた。

「分かった」と父は言った。「夜通し歩き続けて疲れただろう。今日は一日、休むが良い」

 野営地に戻って天幕の中で睡眠を取っていると、しばらくした頃、起きるようにとの声が聞こえてきた。天幕の外へ出てみると、太陽は天頂を越えた頃。母は、夜に眠れなくなってしまうと困るからと言った。

 さすがにお婆様には疲労の色。しかし、弟のキルヌと妹のイリナは十四歳。徹夜の後とは思えないほどに溌剌としていた。四人揃って山羊の乳から作った乾酪を食べ、乳清を飲んでいると、今日はじきに父たちも戻ってくると母は言った。その瞬間、キルヌとイリナから活気が失せた。理由はあまりにも明白。二人は法螺を吹いた。大きく出すぎた。これから神に関する事情を問い質されることになるのだろう。

 午後、まだ陽も高い内に父たちは戻ってきた。

「キルヌ。イリナ。お前たちは神から言葉を預かったと言った。そうであれば、もしかしたら、神の力の欠片も授かったのではないか」

 案の定、神に関すること。父は僕たちを近くの草原へ連れ出した。

 草原に独り立つキルヌ。その背後には、僕とお婆様とイリナ、父と叔父と従伯父や従叔父たち。父に促されて、キルヌは全身に力を込めた。固く握りしめられた拳。ウーンと力む声。しかし、何も起きなかった。

 皆の間から溜め息が漏れ、キルヌは力なく項垂れた。しかし、僕は確かに思念法の気配を感じた。僕はキルヌに歩み寄って真後ろに立ち、左手をキルヌの左肩に置き、右手でキルヌの右手首を握って腕を前に伸ばした。

「もう一度」

 僕がそう声を掛けると、キルヌは力んだ。この気配は間違いなく空爆術。しかし、キルヌは思念の力を体の外へ上手く放てない様子だった。

「もう一度」

 その言葉と同時に、僕はキルヌの手を経由して空爆術を軽く放った。ボンと小さな破裂音。少し離れた地面から微かに土埃が舞い上がった。その瞬間、皆が驚きの声を上げた。僕はキルヌから離れ、「もう一度」と声を掛けた。再び破裂音と土埃。キルヌはこつを掴んだ様子だった。

「キルヌよ」と父は興奮をあらわに言った。「それが神の力の欠片か。人の間にもそのような力を持つ者が稀に現れるとは聞いていたが、私は初めてこの目で見た。かの勇者でさえそのような力は持たなかったと言うのに、遂に我が一族にも現れたか」

 そして、父は天を仰いで叫んだ。

「神よ。偉大なる神よ。心より、心より感謝いたします」

 次いで、父は妹のイリナに向き直った。

「イリナ。お前も試してみよ」

 キルヌに代わり、イリナが皆の前に立った。キルヌとイリナは双子。それならイリナも。僕はそう思い、イリナには最初から肩に手を掛け、手の甲を握った。

 イリナが力んだ。思念法の気配。その瞬間、僕は緊張して身構えた。イリナは得体の知れない術を発動しようとしていた。

 イリナが大きく息を吐いた。やはりキルヌと同様、イリナも思念の力を体の外へ放てなかった。制御不能な事態に至らなかったことに僕も安堵の溜め息をつくと、背後からお婆様が声を掛けてきた。

「イリナ。キルヌがやってみせた通りのことを念じてみてはどうだろう」

 イリナが再び集中し始めた。そして発動。今度は紛れもなく空爆術。僕も力を加えると、少し離れた地面から小さな破裂音と土埃。皆が歓声を上げた。イリナから手を離して「もう一度」と声を掛けると、再び破裂音と土埃。イリナも要領を体得した様子だった。

「皆の者」と父が呼び掛けた。「神への感謝を。捧げものの準備を」

 その時、僕の背中に手が添えられたのを感じた。見ると、僕の脇にはお婆様。

「お前さんは優しいね」

 僕はその場に横たわり、そのまま眠りについた。

 

◇◇◇◇◇

 

 秋第二週第二日、巨大吸収石の観察開始から四日後の午前。僕は独り首都ノヴィエミストへ向けて高空帯を飛んでいた。

 すでに昨日午前をもって三日分六回の観察は終了していた。その結論。自然精気の凝集に特段の加速は見られない。

 ただし、巨大吸収石の発する高音は大きくなり続け、首都ノヴィエミストと近隣の村々の住民は退避を余儀なくされていた。その面からは、実証実験は完全なる失敗。今回の騒動が終息したら、ノヴィエミスト高等学院に計画の放棄を強く求めることとなった。

 昨日午後、ノヴィエミスト師範学校の一行が南都ナギエスカーラに到着した。僕とアンはそれを出迎え、受け入れを表明していたナギエスカーラ師範学校まで同行した。イエシカさんも新居への引っ越しを済ませ、昨夜は久々に僕とアンの二人きり。僕たちは溜まっていた肉体的鬱憤を晴らすことに没頭してしまった。

 しかし、僕にはどうしても納得がいかなかった。何か重大な見落としをしているのではないだろうか。何か基本中の基本で失敗しているのではないだろうか。そんな思いに苛まれていた。とは言え、そんな思いを口にしたら、自尊心の高さゆえに自説を曲げられないと嘲笑され軽蔑されてしまうだろう。そんな思いにさらに悩んでいた。

 そして今朝。やはり念には念を入れるべきと僕は決断した。僕はいったん高等学院に登院し、魔法医術専攻から改良型精気視認器を勝手に持ち出し、午前の講義を欠席して南都ナギエスカーラを飛び立った。

 行程を半分ほど進んだ辺りから、街道沿いには点々と天幕。ノヴィエミストに近付くにつれてその数は増えていった。遠からず大過なく帰還できるだろう。そんな楽観的な判断が働いているか、ノヴィエミストから徒歩で半日程度の辺りにまで天幕は点在していた。

 昨日までと同じ観察をするのでは、結論は変わらない。納得がいかないのなら、もっと近くで観察するしかない。僕はそんな風に腹を括り、そのままノヴィエミストに接近した。

 遂に街外れの上空に到達した。耳障りな高音が空間を満たしていた。うるさい。これはたまらない。こんなことで本当にあの巨大吸収石は持つのだろうか。そう疑った時だった。北東方向、かなり遠方の高空帯で光爆が起きた。こんな時にあんな場所で光爆。何らかの合図に違いなかった。

 エスタコリン貴族の弱々しい光爆ではなかった。とするとフレクラント人。行商人だろうか。しかし行商人は、フレクラント人御用達の旅館関係者を北限の街ロスクヴァーナへ避難させたのを最後に、この辺りにはやって来ていないはずだった。まさかこんな時に物見遊山のフレクラント人。さすがにそれは無いだろう。そんなことを考えながら、僕は光爆の元へ向かった。

 その人は独り高空帯で僕を待っていた。

「ケイ。やはり来たか」

 エルランド殿下の声は弾んでいた。その一方で、殿下の出で立ちはあまりにも物々しかった。白狼の着ぐるみ。片方の手には精気分光器。もう片方には望遠鏡らしき物。背中には体全体を蔽えるほどの大きな板。精気の暴風から身を守るための盾に違いなかった。

「地上に降りて話そう」

 殿下はそう言うと、ノヴィエミストから距離を取るつもりなのか、北東へ向かって飛び始めた。

 殿下が降り立ったのはノヴィエミストから徒歩で一日半ほどの距離。ちょっとした雑木林に囲まれた無人の荒れ地。そこには一張りの天幕が設置されていた。

「ここが殿下の拠点という訳ですか」

「ああ。毎日、ここと王都を行ったり来たりだ」

 殿下は盾を地面に横たえ、天幕からさらにもう一枚の盾を持ち出してくると、「座れ」と言った。

 盾の上に腰を下ろして、殿下と二人で差し向かい。殿下が出してくれた飲み物に口を付けていると、殿下は嬉しそうに笑みをこぼした。

「君は頭がおかしい。普通の服装に普通の背嚢。良くもそんな気楽な格好で来たものだな」

「高等学院からそのまま出て来たもので」

「いよいよだな。今日の深夜か明日の未明。それが私の予想なのだが、君の予想は」

 ギョッとした。まさかと思った。

「日没までにはアルヴィン陛下も到着する予定だ。千年紀、いや、万年紀に一度の出来事だ。さすがに見逃す訳にはいかない」

 殿下の推論は正しいのだろうか。一体、どんな観察をしていたのだろう。

「殿下は精気分光器で観察していたんですよね。性能はどれぐらいあるんですか」

「君の速報を読んで、すぐにフレクラントの職人に君の設計図通りに視認器を作ってもらった。それと比較すると、感度は約千倍、解像度は約三十倍だ」

 僕は感嘆して大きく息を吐いた。殿下の精気分光器は、僕の原型器はもちろん、皆で作った改良型よりもはるかに高性能だった。

「ここ数日、毎日午後に君が飛び回っているのを見掛けた。一緒にいたのはアンソフィー。もう一人は見掛けるたびに異なる者」

「はい。常設警邏隊員です」

「それで、君の予想は」

 僕は答えられなかった。殿下は怪訝そうに尋ねてきた。

「君たちは私よりもかなり遠方から観測していたようだが、何をどう観測していたんだ」

 観察手順。その趣旨。その結論。それらを説明すると、殿下は顔をしかめた。

「愚かだ。愚かすぎる。まるで素人の浅知恵だ……。あの吸収石は主に大地の底から精気を吸い込んでいる。君たちの方法では、その肝心な部分を観測できない」

「あの……」と僕は言葉に詰まった。「言われてみればすぐに分かるんですけど、僕も皆も気が急いていたんだと思います」

 殿下は呆気にとられる様子を見せ、次いで「まあいい」と力を抜いた。

「我々も君たちもやるべきことは全てやった。あとはどんな結果になろうとも、全てはあの者たち、ノヴィエミストとスルイソラの者たちの問題だ」

 僕の体に微かに悪寒が走った。この冷徹な割り切り方。そして気楽に物見遊山。これがこの人の狂気なのだろうか。

「僕にはそんな風に割り切ることは……」

「我々の警告は全ての者に伝わったはずだ。死の危険が迫っていることを、実際に死んでみることによって確かめようとする。そういう者は多いのだ。当然、責任は当人にある」

 僕は顔をしかめて目を固く閉じ、頭に片手を当てて髪を掻きむしった。

「今の私にはエスタコリン人とその関係者に対する責任がある。私はその責任を果たした。私にそれ以上の責任は無い。そしてそもそも、君には何の責任も無い。お人好しのケイ。頭を掻きむしる前に、その厳然たる事実を客観視せよ」

 僕が黙っていると、殿下は「もう一杯飲むか」と尋ねてきた。僕は首を振った。

「それにしても中途半端な避難だな。いつの間にか住民の間に、徒歩で一日程度の距離を取れば十分との話が出回っていたらしい」

 僕はハッとして顔を上げた。僕と同様の判断をした者がいる模様。ただし、あまりにも緻密さに欠けている。一日の距離は最低限。程度という表現も十分という表現も不適切。

「一日程度の距離と具体的に指示している以上、おそらくそれなりに知識のある者が基準として示したのだろう。しかし、十分と言ってしまっては、無謀な者は勝手に判断して一日の距離も取らない。現に、半日程度の所にとどまっている者がかなりいる」

「どこからそんな情報が出たんでしょう。ノヴィエミスト高等学院でしょうか」

「警察隊らしい」

 僕は思わず息を詰めてしまった。

「もしかしたら……、『少なくとも一日の距離』が『一日程度の距離で十分』に変わってしまったとか……」

「情報の伝達過程で? もしそうなら、元々の情報の提示があまりにも稚拙だ。簡潔明瞭でなければ伝わらない」

 僕は頭に両手を当てて髪を掻きむしった。

 僕が中方域警察隊の隊員に聞かせた話。あれが広まったのだろうか。ジラン大統領から言動に注意と厳命されたのに、僕は失敗してしまったのだろうか。もしそうなら、あれが最大かつ致命的な失敗となり得る。

「科学的な判断として、一日の距離では不十分でしょうか」

「科学的な判断としては、おそらく何とかなるだろう」

「半日程度の距離では、拡散による希薄化は不十分ですよね」

「特にスルイソラ人では耐えられないだろうな」

 そうなれば今夜には大惨事。体全体に嫌な汗が滲み出た。

「スルイソラ人の多くはそこまで科学的ではない。精気が物質を通り抜けることも、通り抜けやすさに差があることも知らない。だから、何でも良いから物陰に入れば大丈夫とでも思っているのだろう」

 僕は腰を上げた。

「もう行きます。やはり、今の話を持ち帰らないと」

「飛び回るのか?」

 殿下は眉をひそめて僕を見詰めていた。僕が「はい」と答えると、殿下は鼻で笑った。

「無理だな」

「僕はそこまで冷徹に割り切れません」

「それなら、やり方を教えてやる。無能な責任者を可能な限り残虐に血祭りに上げろ。ノヴィエミスト評議会議長とノヴィエミスト高等学院議長の首を切り落として両手に掲げ、あちらこちらに空爆を撒き散らし、君自身が殺戮の凶魔となって暴れ回れ。そうすれば、住民たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出すだろう」

「そんな……」と僕は唖然とした。

「冗談だ」と殿下は笑った。

 違うと僕は感じた。この人はかつてやったのだ。白狼の騎士として。

「それなら、その盾を持って行け。精気を遮蔽できる。一つ、やる」

「いいんですか?」

「こちらは何とでもなる。君は思念法を使えるのだろう?」

「はい。まだ初心者の段階なんでしょうけど」

「その盾は強制浮揚術を受け切れる。存分に使え」

「ずっと前から一つ疑問に思っていたことがあるんですけど」

「また疑問か。何だ」

「第一の黙示録にありましたけど、リエトを殺した時、なぜもっと直接的に思念法を使わなかったんですか」

「リエトもどきに会ったのか」

「会いました。首を絞められました。両手で、何度も」

 殿下は愉快そうに鼻で笑った。

「荒々しい時代があったのだ。何もかもが荒々しい時代が」

「今の疑問ですけど、無理に訊くつもりはありませんから」

「初めての人殺しとなれば、誰でも上手くはいくまい」

 僕はウッと呻いて大きく息を吐いた。

「一般論として良く覚えておくが良い。魔法には発動にも効果にも不確実性がある。だから、魔法使いは鉈を持ち歩く。発動はともかく効果が確実と言えるのは超越派の破壊性思念法ぐらいのものだ。しかし、それらは失われてしまった」

 体の前面に背嚢、体の背面に盾。僕は礼の言葉を残して飛び立った。

 

◇◇◇◇◇

 

 未だ午前、生命学系の会議室は満員となっていた。生命学系の先生方、高等学院評議会の幹部、常設警邏隊員、フレクラントの行商人、そしてアンソフィー。南都ナギエスカーラの上空から拡声魔術で呼び付けたら、皆全てを放り出して慌てて集まってきた。

 室内前方、司会の席で僕が黙って待ち続けていると、とうとう学院評議会議長が「これは懲戒処分もの」と言い出した。

「分かりました。まだナギエスカーラ評議会と警察隊が来ていませんが、話を始めます」

 僕はそう言って椅子から腰を上げた。

「今朝しばらく前まで、僕はノヴィエミストにいました。そこでたまたまエスタコリン王国の観測隊に出くわしました。僕たちだけでなく、あちらも毎日観測していたようです。あちらの結論は、巨大吸収石では加速度的無限凝集が起きており、本日深夜から明日未明までには爆発する。あちらは今、爆発を観測する準備を進めています」

 皆がどよめいた。

「こちらの観察方法と結論を説明したところ、大いに罵られました。地下から湧き出す自然精気を観察せずしてどうすると」

 先日の会議の出席者たちがウーンと呻いた。

「かなりの住民がノヴィエミストから徒歩で半日程度の距離しか離れていません。彼らは今夜には壊滅します」

「ちょっと待て」と中隊長が怒鳴った。「あちらの話はどこまで信用できるんだ。そもそも、エスタコリンの出張所の連中は何も言っていなかったぞ」

「あちらの観測隊は毎日本国から通っていたとのことです。連合国内の退避作業とは完全に別の作業として続けていたようです」

「話の信憑性は」

「あちらの話を聞いた後、僕は巨大照明器の丘の麓まで行ってみました。キーンという高音が絶叫のように響いています。あれでは、あの巨大吸収石は到底持ちません。さらには丘を中心にかなりの範囲で、環境中の自然精気濃度が上がっています。フレクラント高原の自然精気が希薄と感じられるぐらいに」

「吸収石から漏れ出しているのか?」

「いいえ。吸収石の吸収量をはるかに越える膨大な自然精気が地下から上がってきています。改良型の精気視認器で地下を見てみたら、巨大な火柱のような精気が見えました。それが地上で拡散しているんです」

 絶句する者。首を振る者。呻く者。動揺が止まらなかった。

「サジスフォレ君」と学院評議会議長が口を開いた。「ナギエスカーラまで被害が及ぶ可能性はあるのですか」

「爆発時の最大の問題は、地表近くを水平方向に広がっていく濃密な自然精気の暴風にあります。それに曝されたら、魂が吹き飛びます。しかし、暴風は中心から離れるほど拡散して希薄になっていく。さらには、地表近くの自然精気には空中へ上昇していく性質がある。ですから、ここまでは届かないと思います」

「議長」と生命学専攻の主任が口を挟んだ。「そういう話はあとで我々がして差し上げますから、今は話を先に進めましょう」

 学院評議会議長が口を閉ざすのを見届けると、生命学専攻の主任は話を続けた。

「サジスフォレ君。丘の近辺に地割れや地盤隆起や地盤沈下は無かったか。つまり、地下の物質的構造に変化が生じ、精気の通り道のようなものが出来てしまう可能性は」

「僕が見た限りでは、そういう異変はありませんでした。つまり、過剰な精気が巨大吸収石に呼び寄せられるように地下の土石を通り抜けて上がってきている」

「と言うことは、すでに上がってきている精気はそのまま地上に出てしまうのだろうが、巨大吸収石が壊れれば、その内に事態は収まり状態は元に戻る」

「そう思います。多分精気には、生命力方程式にも拡張生命力方程式にも取り入れられていない未知の性質があるんです。膨大な精気が集まってそれが現れている」

「それではまた別の問題が」

「いえ。拡散してしまえば、また元通りです。未知の性質は隠れてしまう」

「そうか。なるほど」

「そう思わないと、もう対処のしようが無いという話でもあるんですけど」

 溜め息をつく者。首を振る者。項垂れる者。皆が沈黙した。

「今回の件で僕はいくつかの失敗をしました。このまま座視して大量の犠牲者が出たら、あまりにも寝覚めが悪い。いや。これからずっと後悔する。今、そんな気持ちなんです」

 中隊長が「それは私も一緒だ」と応えた。皆も頷いた。

「まだ午前です。退避の時間は十分にあります。これから現地を回って呼び掛けましょう」

「そうだな。人手が必要だ。十分に空を飛べるのはフレクラント人だけだ。フレクラント人でやるしかない。エスタコリン側はすでに何かやっているのか?」

「いいえ。その種の活動は全く」

「なぜ」と中隊長は声を荒げた。

「その点はとても厳しく言われました。エスタコリンの退避命令は皆に伝わっているはずだ。エスタコリンはすでに十分に警告した。エスタコリンにそれ以上の責任は無い。あとは警告を無視した者たちの問題だ。フレクラントもやるべきことは全てやった。それ以上の責任を負う理由は無いと。僕はお人好しと笑われました。それでも、僕が『やる』と言ったら、その盾をくれました」

 僕は部屋の隅に立て掛けておいた盾を指さした。

「ああ。その盾は良く出来ている」とエリク先生が感嘆した。「遮蔽材を軽い金属の板と木板で挟んだ三層構造になっている。金属板で物理的な衝撃も受け止められる」

「先生の盾は出来ましたか」と中隊長が尋ねた。

「三枚。ただし、遮蔽材を木板と木板で挟んだ物。物理的な衝撃には耐えられない」

「十分です」

 学院評議会議長が席から立ち上がり、「皆さん」と声を上げた。

「概要は分かりました。議論を切り上げて、行動に移りましょう。フレクラントの皆さんは呼び掛けを。連合国人は救助活動と後方支援の準備を。フレクラントの皆さん。どうかよろしくお願いします」

 そう声を上げると、議長は深々と頭を下げた。

 そこからはフレクラント人と連合国人に分かれて打ち合わせ。フレクラント人は、僕、アン、常設警邏隊員三人、行商人六人の合計十一名。

 行商人はノヴィエミストから徒歩一日圏外に分散し、住民と避難者たちに説明、出来ればもう少し離れるよう勧告して回る。常設警邏隊員はエリク先生の盾を携帯して徒歩一日圏内に分散して警告。僕は殿下の盾を携帯して徒歩半日圏内で警告と巨大吸収石の観察。

 そのように順次役割が決まっていく中、アンも興奮気味に意気込んでいた。そんな様子をそれとなく窺っていると、ふと行商人の一人と目が合った。以前からの知り合いで、高級文房具の仕入れを引き受けてくれた男性。その隣で話に聞き入っている行商人女性は男性の奥さん。男性はいかにも「分かった」と言いたげに、僕に向かって小さく頷いた。

「それで中隊長。私の受け持ちは」とアンが尋ねた。

「いや、いや」と行商人男性が口を挟んだ。「現場はもう十分だろう。誰かが伝令としてクスヴィシュトロームとロスクヴァーナとフレクラントの大統領府に行かなければ」

「私ですか?」

「我々は住民への警告が済んだら、あとは何とか逃げ出すだけだ。大変なのはその後。それに備えて他の所にも事前に知らせておく必要がある。つまり、君の任務が最重要」

「分かりました」とアンは力強く頷いた。

 僕は密かに落胆した。アンは上手く乗せられてしまった。

 

◇◇◇◇◇

 

 南都ナギエスカーラの北端上空。首都ノヴィエミスト方面へ向かう十人が集まった。時刻はほぼ正午。普段通りなら、昼食の献立が気になり始めている頃合いだった。しかし今日は、高等学院の食堂が急遽用意してくれた弁当。各々適時適所で摂ることになっていた。

 行商人六人は通常の服装と装備、頭に鉢巻き。常設警邏隊の三人は熊の着ぐるみ、体の背面には盾、体の前面には背嚢。僕は猿の着ぐるみ、背中に盾、前面の背嚢には改良型の精気視認器と小型の望遠鏡、弁当、水筒、さらには身元証明書。説得の際に必要になるかも知れないからと、学院事務局が僕たち十人分を急いで作成してくれた。

 スルイソラ大平原の空。僕にとっては久し振りの大規模編隊飛翔だった。眼下にはいつもとさして変わらぬ秋の景色。当然、緊急の報が広がっている気配はまだ無かった。しかし程なく騒ぎとなる。その様子を容易に想像できてしまうのが薄ら寒かった。

 徒歩で一日の距離。朝から日暮れまで大人が普通に歩き続けた距離のこと。そんな俗な表現法など科学的とは到底言えない。しかし、そんな素朴な慣用表現にも合理性があると初めて感じた。今必要なのは最大でも半日の距離の追加退避。そして現在は正午過ぎ。つまり、最長でも日暮れのしばらく後まで歩き続ければ良いだけ。

 爆発は深夜から未明とエルランド殿下は言った。それがいつなのか、正確なことは分からない。殿下自身にも分からないに違いない。でも、深夜ならまだ間に合う。普通に歩き続けるだけで十分に間に合う。

 程なく、ノヴィエミストまで徒歩で一日の距離に到達した。ここで散開。多くの者はそれぞれの担当地区へ向かっていった。僕を含めて残りは三名。中隊長と行商人女性の担当地区はノヴィエミストの北側。僕たちはそのまま北上し、ノヴィエミストの東の街外れに着地した。

 生気の失せた無人の首都。あまりにも耳障りな高音の中、僕たちは余剰精気を補充しながら装備を整えた。中隊長も行商人もしかめ面。僕は耳に鈍い痛みを感じ始めた。

 三人の準備が整い、僕が背嚢から精気視認器を取り出し、僕たちは再度上昇。街の西側、巨大照明器の丘に接近した。

 行商人は精気視認器を通して丘を眺めると、泣き出しそうな表情を浮かべて首を振った。中隊長から離脱の指示。行商人はそのまま担当地区へ向かって行った。

 続いて、中隊長と僕も精気視認器で丘を確認。もし感度がもっと高ければ、丘全体から湯気のように立ち上る自然精気が明瞭に見えていたに違いなかった。その後、丘の周囲を一周、地盤を目視。異変は見当たらなかった。

 中隊長が飛び去った。僕は丘から離れてさらに上昇。大きな空爆を二発。間を開けて大きな光爆を一発。状況に急激な変化は無しの合図。それに呼応して、了解を意味する光爆があちらこちらの空で点々と輝いた。

 次の作業は拡声魔術を用いた呼び掛け。巨大照明器を中心とし、徒歩で二時間の距離を半径とする円の上空を一周。僕は活舌に気を付けながら、円の外側に向かって絶叫した。

「大爆発! 今夜! 間に合う! 歩け! 一日の距離まで!」

 円に沿いながら繰り返し拡声魔術。きちんと聞こえたら光爆一発。上手く聞き取れなかったら光爆二発。呼び掛けの方角にいる常設警邏隊員が知らせてくれることになっていた。しばらく進んだ頃、光爆一発。僕は安堵した。

 しかし、さらに進んだ所で光爆が三発輝いた。あの辺りは中隊長の担当地区。何事だろうと思いながら、僕は作業を中断して駆け付けた。

 他の隊員に伝えてくれと中隊長は言った。

 治安維持のために中方域警察隊の一部が分散して残留している。治安維持の任務を放棄させ、真剣に退避しようとする者のみの支援に当たらせろ。同時に自らも退避するよう強く促せ。住民の中には我々の活動や他人の退避を妨害する輩がいる。そのような輩は硬化魔法を掛けて放置せよ。

 その種の輩の特徴を尋ねると、中隊長の声が怒気を含んだ。初歩的な知識すら持ち合わせていないにもかかわらず、独自の奇説に基づき、爆発しても大丈夫と触れて回って従わせる。つまり、愚昧かつ狂信の精神的指導者。それに盲従する行動的愚者。そんな輩が跋扈している。生死にかかわる緊急時に人心を惑わすとなれば、もはや看過できない、すべきではない。

 硬化魔法は精気の暴風を防ぐものではない。精気の暴風を受けたら魂が吹き飛ぶ。僕がそう指摘すると、中隊長は皮肉めいた笑みを浮かべた。爆発しなければ、硬化魔法はいずれ自然に解けるのだから問題なし。爆発したら、いずれにしても死ぬのだから問題なし。

 中隊長の用件は終了。急げと促されて、僕はすぐに飛び立った。

 常設警邏隊員二人に伝言し、周回を終えた頃には、警告開始から約一時間が経っていた。僕は余剰精気の欠乏による倦怠を感じ、ノヴィエミストの東の街外れに降りて休憩を取ることにした。

 僕にとっては、長時間にわたる魔法の使用は稀なことではない。しかし、全力での連続使用は初めての経験だった。

 例えば北の大森林、華のカプタフラーラまでの片道十時間。あの時は長時間とは言え、適時休憩を取っていた。しかも、そもそも全力ではなかった。全力を出せばもっと速く飛べる。しかし、風圧に対抗するために特別な装備が必要になる。それが無ければ、目が乾き、息が出来なくなってしまう。

 例えば蝗退治。あの時は巨大魔法を立て続けに放ったとは言え、アンの助力もあり、余剰精気には十分な余裕があった。

 一方、ここまでの約一時間は全力で拡声魔術を使用。さらには断続的に、高速飛翔を越える全力飛翔。余剰精気の消耗は著しかった。余剰精気を使い果たすと飛べなくなる。飛べなくなると、逃げ出せなくなる。アンはおらず、僕は独り。僕はやり過ぎを実感した。

 約一時間前と同様、やはり物陰に入っても高音はかしましかった。同時に環境中の自然精気が濃くなりつつあるのを肌で感じた。低音ならともかく高音がこんな所にまで届くなんて。そう思いながら、強制吸入術を使って精気を補充。背嚢から水筒を取り出して水分を補給。弁当に目が留まったが、硬化魔法のおかげで腐りはしない。今はまだ食べようという気にはなれなかった。

 常設警邏隊員二人との会話はそれぞれ数分ずつではあったが、それでも様々な人間模様を耳にした。

 住民の大多数は退避の意思を示している。ただし、老人、子供、傷病者など脚力に難のある者がおり、警察隊は主にそれらの者たちに付き添って退避を急いでいる。一方、退避の意思を示さない者たちの考えは多種多様。

 ノヴィエミストで生まれ育って暮らし続けてきたのだから、街と運命を共にする。そんな風に諦める老人。死ぬのは早いと、警察隊に拘束されて強制退避となった。

 十分に離れているからと高を括り、のんびりしている者。怖いもの見たさや度胸試しのつもりなのか、興奮気味に残留している者。財産を気にして退避を渋る村や集落の有力者。説得は一回限りで、そのまま放置。

 中隊長の言う精神的指導者。さすがにそこまで特殊な者は珍しい模様。ただし、無人となった地区では何らかの陰謀が進んでいるのではないかと疑う者たちがいるらしい。やはり、説得は一回限りで、そのまま放置。

 孤立した避難民を襲う者や、無人となった集落を破壊し略奪して回る者には、警察隊が生死を問わない物理的な攻撃を容赦なく加えている模様。非常事態下でのその種の犯罪には現場で厳罰と規則で決まっているらしく、常設警邏隊にせよ中方域警察隊にせよ、エルランド殿下と同様の極めて冷徹かつ苛烈な姿勢を見せていた。

 休憩開始からしばらくの後、何とか態勢が整った。再び西の丘に接近して観察。状況に急激な変化は無しの合図。そして今度は、徒歩で半日の距離を半径とする円上に移動して警告を開始した。

「音は徐々に大きくなっている! 状態は徐々に悪くなっている! 全部徐々に! まだ間に合う! 歩け! 一日の距離まで!」

 一周目は短文の羅列による単純な警告だったが、今回は文章による情報の提供。上手く伝わっているだろうかと懸念していると、離れた所で光爆が一発輝いた。

 望遠鏡で眺めてみると、眼下遠方には移動する人々の姿。肉眼で確認してみると、僕の直下は閑散としていた。つまり、ほとんどの者は退避を続けている模様。未だに残っているのはどういう者たちだろう。訝しく思って低空帯まで降下してみると、僕よりも幾分年長に見える男たちの小集団がたむろしていた。

 男たちは頭上の僕に向かって罵声を浴びせ掛けてきた。僕が問い掛けても、男たちは奇声を発しながら拳を振り上げるばかり。こいつらは馬鹿なのだ。僕はそう悟って上昇しかけ、ふと思い付いて呼び掛けた。

「おーい。皆はもう逃げちゃったぞ」

 男たちの動きが一瞬止まり、互いに顔を見合わせ、次の瞬間、男たちは脱兎のごとくに駆け出した。

 僕は作業を再開した。遠くに向かって情報を提供。合間に眼下に向かって「皆はすでに逃げてしまった」と呼び掛ける。これが意外に効果的だった。何が殺戮の凶魔だ。暴れ回る必要など全く無いではないか。時代と場所と時と場合が違うのだ。僕はそんな風に安堵し始めた。

 二周目の作業量は一周目に比べて格段に多かった。そのため、半周もしない内に余剰精気の欠乏を感じ始めた。背中の盾に掛けた強制浮揚術は今も有効。僕は空中で上下反転、盾の上で仰向けになり、全身に強制吸入術を掛けて休憩を取り始めた。

 一見普通の秋の空、所々に薄い雲。しかし、鳥も何も見当たらず、生き物の気配は全く無かった。

 知性や知識の不足、想像力の欠如、不合理な猜疑心。それらは否定的な特性とは言え、他者に害を為さない限り、悪とは言えない。例えば、罵声を浴びせてきた男たち。あの男たちの実態は知らないが、連合国には陽気に馬鹿話をする気の好い人が多いのは紛れもない事実。こんな騒動が無ければ、あの男たちも今頃街中で普通に馬鹿話をしながらじゃれ合っていたに違いない。

 この事態の責任はノヴィエミスト高等学院とノヴィエミスト評議会にある。仮に死者が出るのなら、まずは生命力工学関係の幹部たち、高等学院の幹部たち、ノヴィエミスト評議会の幹部たちであるべき。それ以外の者たちにここで死ぬべき理由は全く無い。死んだとしても自業自得なんて、そんな見切りや割り切りなど本来的にあり得ない。

 そんなことを考えている内にも余剰精気は溜まっていき、程なく僕は作業を再開した。

 二周目を終えた頃には、西の空はすでに赤く染まっていた。これ以上の情報提供は無意味だろう。日が暮れたら、地上の退避状況も分からなくなる。それなら、僕は巨大吸収石の監視に専念、頃合いを見計らって離脱するのみ。今から巨大吸収石の状態を確認して合図を送り、その後すぐに弁当を食べよう。僕はそう思い立った。

 首都ノヴィエミストの東隣の小さな集落。もちろん無人。高音は風向き次第でこんな所にまで届くようになっていた。しかしここでは、まだ癇に障るという程度。僕は装備を外し、民家の軒先に腰を下ろした。

 やけに大きな弁当箱だと思っていたが、蓋を開けて驚いた。分量は多分三食分。しかも、学院食堂の品揃えの中でも高級高額な物ばかり。無償提供なのに随分と張り込んでくれたようだった。最後の晩餐。ふとそんな言葉が心に浮かび、僕は鼻で笑って打ち消した。

 美味いと思った。皆はもう食べたのだろうか。退避を実際に指揮、支援しているのは中方域警察隊。住民たちが動き始めれば、常設警邏隊員の仕事は一段落。一日圏外を回っている行商人にはさらに余裕があるに違いない。

 結局、エルランド殿下は姿を現さなかった。爆発観測の準備を進めているのだろうか。それとも、もっと遠い場所から一応は見ていたのだろうか。もしそうなら、今頃苦笑しているに違いない。お人好しのケイが凶魔にならずにやり遂げたと。

 スルイソラ連合国を建てたのもカイル。その推測を殿下は即座に否定した。殿下は自身が建てたエスタコリン王国のためには尽力しても、スルイソラ連合国に対しては冷淡に傍観を続けている。つまり多分、否定は真実なのだろう。

 それなら、殿下が常設警邏隊の内情を探っていた理由は何だろう。もしかしたら前世では、エステルは常設警邏隊にいたのかも知れない。だから現世でもと。当時の大事件と言えばスルイソラ制圧。壮絶な殲滅戦になったと聞く。エステルも太古の思念法使い。エステルが実行したのだろうか。スルイソラ制圧の件、もっと詳しく調べておけば良かった。

 それにしても、魔法の全力使用による疲労は想像を超えていた。大量の自然精気を急速に吸い込み、大量の魔法力を急速に吐き出す。その繰り返しによる倦怠感がここまで厳しいとは。これが僕の精一杯。やり尽くしたと実感した。

 あっという間に半分を食べ終えた。残りの半分はあとでゆっくりと。そんなささやかなことを楽しみに、弁当箱を背嚢に仕舞い込む。集落の井戸へ行って水筒を満たす。再び元の軒先に戻って座り込む。そして、僕は休憩がてら考え込んだ。

 僕も物質的生命学の研究者。今回のノヴィエミスト高等学院生命力工学専攻の失敗は他人事ではない。

 彼らは複数の過ちを犯した。第一。完全に制御できるように巨大照明器を設計製造しなかった。第二。問題が発生したにもかかわらず、大丈夫とだけ言い続け、結局は一度も適切に情報を開示せず、対処も試みなかった。第一の失敗は過失だが、第二の失敗は故意。

 やはり、責任追及を免れないだろう。今後の被害次第では、重罪に問われることもあるだろう。物質的な被害は実質的にノヴィエミストの街の西側だけにとどまるはず。問題は人的被害。盗賊のたぐいは別として、その他から死者が出たら極刑の可能性もある。最悪の場合は私刑としての死刑。そんな状況を想像すると寒気がする。

 ジランさんは、両親と上手くやれと言った。あとでその件も良く考えてみよう。アンは今どこにいるのだろう。北限の街ロスクヴァーナ辺りだろうか。そして、アンも弁当を食べたのだろうか。魂を分け合った僕の半身。こういう時にこそ近くにいてほしかった。でも、人手が足りないのだから仕方が無い。

 こんな騒動はもう御免。血沸き肉躍る冒険には程遠い。抜け駆け、逸脱、お人好し。挙句に僕はそしられる。イエシカさんの趣味は各地の祭りを見て民芸品を集めること。それならば、僕たちは各地の名物料理を食べて回ろうか。あちらへ行って、あれを食べる。そちらへ行って、それを食べる。そういうことを楽しみとする気楽で平凡な日常の方がずっと良い。港町モレポゾールの飯は美味かった。

 両親とも上手くやり、僕がいて、アンがいて、子供たちが大勢いて、皆で楽しく賑やかに。エルランド殿下の指摘の通り、それが僕の本来の願いなのだろう。それなら昨夜、あれだけアンの中にそそぎ込んだのに、自己治癒魔法を使わずにそのまま妊娠してほしいと頼めば良かった。

 しばらくしたら、巨大吸収石の丘へ行って最後の観察。そして、空爆二発、光爆二発。観察を終えて離脱するから、あとは各自で判断せよ。その合図で終わりにしよう。

 西に夕焼け、陽が沈む。年に四回、季節の変わり目。大隊長が特注弁当を手土産に我が家にひょっこり現れる。あなたは観察対象ですから。でも、そんなことはどうでもいいんだけど。大隊長は挨拶代わりにそう言って、ニコニコ、フフンと鼻で笑う。そしていつも、二人で食べて、二人で飲んで、二人で話して、夜は更ける。

 三方を山に囲まれた大平原。性の別を問わず、ある者は魚を捕まえ獣を狩り、ある者は羊を追い山羊を追い、ある者は穀物を育てていた。

 強き男たちが多くの女を占めて子を生すようになった。弱き男たちは徒党を組んでわずかな女を奪い合うようになった。略取の連鎖、暴力、奸計、征服、果てしなき争い。

 不可知の存在への信奉はあらゆる不条理を運命として受忍させる。強き女たちは思念の力を手に入れ、男たちを太陽の座から追い落とし、不可知の存在への信奉を禁忌とした。

 強い思念の力は器に変容をもたらす。未開の蛮族、原始の崇敬。赤き熊の一族は赤き熊の名のゆえに赤い熊に変容した。紫の鷹の一族は紫の鷹の名のゆえに紫の鷹に変容した。

 強い思念の力は魂に転生をもたらす。血の繋がり。魂の繋がり。それら二つが入り乱れ、家族も血族も意味を失った。血の繋がりに重きを置く者。魂の繋がりに重きを置く者。そして、強い思念の力は忌避され抑圧された。

 久方振りの弾き語り。青き白鳥のイリナ。条理と簒奪のアデリナ。魂の庇護者たるレダ。そんなはるかな思い出話も大隊長にとっては大冒険。四百を越える良い歳をして子供のように目を輝かせる大隊長。ちょっとからかってやろうと思って尋ねてみる。例えば、太古から世界の至る所で天然の精気が湧き出し続けている。それはなぜだろう。

 自然精気の根源など誰も知らない、知っている訳が無い、と大隊長は答える。

 何と詰まらない答だろう。大隊長は結局常識人。そんな風に揶揄しながら、厳かに正解を披露する。大地の奥底で巨人が精気の種を石臼で挽き続けているから。何が神話伝説大系か。こういうものを神話と呼ぶのだと。

 それならばと食い下がる大隊長。神話伝説大系の冒頭、神の石柱は神話ではないのか。その問いに、大いに頷き解き示す。石柱の神とは光と石の魔法使い。今や見る影も無い方状列石は合成石。かつては自然精気を導いていた。人々はその周囲に若木を植えて時を待ち、高原を濃密な森に育て上げたのだと。

 大隊長は今どこにいるのだろう。また久し振りに夜を通して語り合いたい。愉快で実直な常識人。その心もあの大殺戮で傷付いた。時折悪夢にうなされるようになったとこぼす大隊長。元気でやっているだろうか。元気だろうか。元気……。元気?

 目が覚めた。ふと我に返った。失神したのか気絶したのか単なる睡眠か、いつの間にか横になり、気付くとすでに日は暮れていた。慌てて空を確認すると、宵の一つ星は地平に沈み、大地を照らし始めた月明り。おそらく、日没から三時間近くは経った頃。

 盾を体の背面に装着する。背嚢を体の前面に回す。盾に対して精密思念法。外側の金属板に強制反射硬化術を掛ける。内側の木板に強制反射浮揚術を掛ける。安物の着ぐるみは脆いので、頭と胴の部分のみに単なる強制硬化術。涙を拭って飛翔を開始した。

 何と愚かなことだろう。事象の全過程を完全に人の制御下に置くべき。そう認識していながら、なぜ巨大吸収石が勝手に爆発するのを待つのだろう。

 何と愚かなことだろう。光球を小さく絞っていくと、光が強くなって高音を発し、最後には制御を離れて弾け飛ぶ。つまり、光球には二回の変化、三つの状態がある。精気と魔法力の類似性。その意味を理解していれば、精気には低密度、高密度、超高密度の三状態があると容易に思い至るはずなのに。

 直ちに巨大吸収石を破壊しなければならない。高密度状態から超高密度状態への臨界点を越えたら、自然精気は器の有無にかかわらずそれ自体で凝集してしまう。そして、いずれ空間自体がゆがみ、自然精気は爆散する。

 臨界点を越えたら全てが終わる。中方域全体が壊滅する。場合によってはその外も。間に合うだろうか。精気はまだ高密度状態にとどまっているだろうか。フレクスランティアの盟友、誇り高きスルイスラン。スルイスランの壊滅を繰り返してはならない。スルイスランは二度と壊滅してはならない。

 臨界点を越えていなければ、警告に従って直ちに退避を始めた者たちは助かるだろう。遅れて退避を始めた者たちも急いでいれば助かるだろう。それ以外の者たちを待ち受けているのは死。でも、それは自業自得だ。愚かさは悪。自分自身に対する悪なのだ。

 願いを叶えるために魂を実像と理想像の二つに割ったというのに、なぜこんなことに関わってしまったのだろう。魂に染み付いた衝動。どうやっても逃れられないのだろうか。どうやっても払拭できないのだろうか。愚かさは悪。自分自身に対する悪なのだ。

 どこかで見ているのだろうか。存在の否定とのそしりは理解する。しかし、ひとたび目覚めて向き合うと、その存在は若さのゆえに軽すぎた。いかに逃げても拭いきれない存在理由。今度こそ見ているのなら、かつて神と呼ばれたこともあるそのありようを、しかとその目に焼き付けるが良い。

 ノヴィエミストの街の西、巨大吸収石の丘に到達した。自然精気の異常な流れ。濁り始めた悲鳴のような高音。状況は着実に悪化していた。

 空爆二発、間を開けて光爆三発。緊急退避の合図。誰からも応答は無かった。この合図に応答は無用ということになっていた。一呼吸おいて身構えた。全身に力を込めた。最強の破壊性思念法、空裂術を放った。

 巨大な閃光。瞬時に背を向けて魂に強制維魄術を掛けた。背後で爆音。背中に轟音。盾が物理的な打撃を浴びた。盾の脇から自然精気の暴風が回りこんできた。体内の精気が千切れて飛んだ。着ぐるみの強制硬化術が呆気なく消えた。意識が一気に遠のいた。

 ふと我に返った。猛烈な目の痛み。眼の奥底に眩い光の残像が残っていた。さらには体の至る所で体感が狂っていた。これはおそらく精気の喪失。残っているのは基礎精気のみ。しかも頭と胸の辺りだけ。

 朦朧、呆然としながら何とか自然精気を取り込み、自己治癒魔法で目の治療。徐々に視力が戻って来た。僕は知らぬ間に地面に横たわっていた。目の前には立派に育つ稲か麦。ここはどこかの農地のようだった。

 邪魔だ。突然、僕はそう感じて盾と背嚢を外した。いつの間に装備を整えたのだろう。一体何が起きたのだろう。その時、異様な気配を感じた。めまいを覚えながら身を起こし、背嚢から精気視認器を取り出して辺りを見回した。

 いくつもの星が夜空をゆっくりと流れていた。流星群だろうか。そう思って、すぐに気付いた。流星はもっと速い。流星が精気視認器に映るはずはない。あれは魂。爆発したのだ。吹き飛ばされたのだ。未だに自然精気が噴出しているのだ。愚かさは悪ではない。自業自得なんてあり得ない。

 僕は天を仰いで絶叫した。

「戻れ! 戻って来い! 戻って来るんだ!」

 僕は地に伏して絶叫した。

「もうやめろ! 頼むから! お願いだから!」

 全身から力が抜けた。僕は大地に突っ伏した。終わりだ。終わった。僕はそう悟った。


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次章予告。背徳の魔女エステルの最期の願いとは。

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