第五章 最期の願い
これは何だろう。高等学院の会堂ほどではないが、かなりの広さの会堂のような部屋。華やかに飾り付けられた室内には、いかにも高級な椅子が所狭しとばかりに整然と並べられ、礼装と思われる装いの人々が身じろぎ一つせずに前を向いて着席していた。
室内最前方には三人の立ち姿。真ん中の男性はこの集会の進行役らしい。こちらを向きながら、何かを話し続けている。進行役と向き合う位置に立つのは多分男女。これは結婚式だろうか。
状況が分からない。記憶が飛んでいるのは間違いない。覚えているのは、経験したことのない疲労の中、ノヴィエミストの郊外で弁当を食べたこと。その後は不明、そして今。
いずれにせよ、この厳粛な場を乱す訳にはいかないだろう。目だけを動かして周囲を確認してみると、おそらく僕の座席は最後列の一番端。なぜか僕だけはしっかりとした肘掛けと背凭れのある一人用の椅子。そして意外すぎることに、僕の隣には西の大公家の家令。
何の冗談。なぜ、僕と家令が並んでいるのか。その時、ふと進行役の言葉が耳に入った。北の辺境伯・イエシカ・何とか。遠目に確かめてみると、女性の方は確かにイエシカさん。続いて聞こえた言葉は、何とか・ブロージュス。男性の顔に見覚えは無かった。
意味が分からない。北の辺境伯という称号など聞いたことがない。イエシカさんの家名も明らかにヴェストビークではなかった。家名から考えて、男性の方は王家の誰かに違いない。でもなぜ、イエシカさんには称号が付いて、男性の方には付かないのだろう。しかもなぜ、イエシカさんの方が先に名前を呼ばれたのだろう。王家の方が格上なのに。そもそもなぜ、こんな時に結婚式。ノヴィエミストはどうなった。
現実感はあるのに現実味が無い。連合国は大混乱のはず。それなのに、突然イエシカさんの結婚式。いつの間にか僕もそれに列席中。あまりにも脈絡が無さすぎる。
その時、一つの可能性に気付いて愕然とした。僕はかつて超越派の霊魂に遭遇した。魂と魂の接触。言葉や心象風景の交換。あの状況に酷似している。そう言えば、超越派の霊魂は僕に警告した。強制吸入は魂を器から解き放つ最後の手順と。
そうなのかと僕は落胆した。あの未知の疲労。僕はやり過ぎた。僕は幽霊になり、今は寝ているイエシカさん辺りに接触中なのかも知れない。どうすれば良いのだろう。いや。もはや、どうするもこうするも無いではないか。僕は終わってしまったのだから。
でもあの時、弁当を食べながら、出来ることは全てやったと大きな満足感に浸った覚えがある。あの時の思い残しと言えば、弁当を半分残したこと。食い意地と貧乏性のゆえに悪霊と化してしまったら、それはもはや喜劇の物の怪。終わるなら終わるで、美学を大切に皆の幸せを祈りながら終わりたい。
盛大かつ重厚な式典。目にも鮮やかな純白の花嫁衣装。これがエスタコリン流の結婚式。思えば、アンはフレクラントで結婚したために料理店での会食で終わってしまった。こんな結婚式を見てしまっては、さすがにあれは可哀想という気がしてならない。しかし、半年足らずで死別したことは、アンにとってはむしろ幸いだったのかも知れない。
良く考えずとも、アンに強い冒険志向があるのはあまりにも明白。そういう者は少数とは言え、珍しくはない。例えば北の大森林の調査隊。この夏も無人の森林地帯を飛び回っていたはず。例えばルクファリエ村の共同浴場の場長さん。場長さん夫妻はかつて東西南北、大地の果てを目指してみたという。一方、僕の願望は賑やかで平穏な大家族。結局、僕はそんな平凡で腰の重い人間。僕には冒険志向のような外向性が足りなかった。
アンは二十歳になったばかり。人生には先がある。新しい夫もすぐに見付かるだろう。いや。引き合わされるのだろう。その時には、アンもあの華麗で鮮烈な花嫁衣装を着るのだろうか。そして、新しい夫とまずは情を育む営みを。それを思うと、やはり悔しい。しかし、幽霊となっては手も足も出ない。死んでしまったのでは仕方が無い。
思えば、初等学院でも中等学院でも高等学院でも、僕は親友どころか友人の一人も作れなかった。せっかく皆さんが総出で結婚させてくれたのに、それも即時に死別で終了。おそらく、僕の根本には何らかの欠陥があるのだろう。いや。あったのだろう。
舞踏会で嬉々として踊り続けるアンの姿に僕は齟齬を覚えた。多分、あれは予兆だったのだ。仮に死別していなかったとしても、僕たちはいずれ僕のせいで離別する。元々、そんな定めにあったのだ。
ふと気付くと、式典はさらに進んでいた。進行役の指示の下、皆は祝福の歌を斉唱し始めた。その瞬間、それは違うだろうと僕は思った。そこは吟遊詩人の中でも特に歌唱に優れた歌姫と呼ばれる女性が独唱する所。しかも、それは再生と愛を主題とする譚歌。そんなに厳粛に歌うものではなく、もっと悲哀と歓喜を込めるもの。
なぜ、僕はそんなことを知っているのだろう。文学芸能史の講義で聞いたのだろうか。そんな疑問を感じた時、僕は理解して脱力した。なぜ参列者による斉唱なのか。それは、吟遊詩人の時代はとうに過ぎ去り、吟遊の歌姫などもはや存在しないから。
斉唱が終わった。進行役に指名されて、最前列の一人が起立した。後ろ姿だけでは良く分からないが、おそらく現国王。かなり古いエスタコリン方言と思しき呪文のような短文を厳かに述べると、そのまま再び着席した。次いで起立したのは、背格好と声から明らかに前国王のアルさん。どうやら、承認と祝福を意味する何らかの決まり文句を口にしているようだった。
見覚えのある姿が次々に同じ短文を述べていった。王位継承順位一位のフェリクス殿下、三位のエルランド殿下、その正室クリスタさん。王家側が済むと、西の大公アイナ様、その旦那様。さらに数人の後、あの女性が絶世の美女と噂される長女カイサ様だろうか。ほとんど後ろ姿しか見えないのがとても残念。次いでフレクラント人の旦那様。そして、僕にとっては最も馴染みのある姿、アンが起立した。
完熟イエシカ、糞イエシカ、と僕は心の中で軽く罵った。イエシカさんが僕を気に掛けてくれているのは理解した。だから、この場に僕の席があるのだろう。でも、最後尾の一番端。せめて夢の中ぐらいでは、僕とアンを並べてくれても良いだろうに。
でも、まあいいや、と僕は心の中で訂正した。夢の中とは言え、あんなに綺麗なアンの姿を見せてくれた。懐かしい人たちの姿も見せてくれた。これが最後なら、やはり穏やかな気持ちで別れたい。
参列者が次々に起立し着席する。途中からは一人ずつではなく複数名が同時に。どうやら、社会的な関係性によって分類された集団の模様。それにしても、何と象徴的なのだろう。誰も彼もが僕に背を向ける。皆が終わったら、試しに僕も祝辞を述べてみよう。エスタコリン流の文言は言えそうにない。それなら、僕はフレクラント流で。
やはり、僕は幽霊と認識されているようだった。いや。存在を認識されていない様子だった。僕以外の全員が祝辞を述べ終えると、進行役は次の式次第に移ろうとした。僕は急いで立ち上がった。その瞬間、進行役だけは気付いたのか、こちらを凝視してきた。
「良きえにし。巡り合えたることを言祝がん」
参列者が一斉に振り返った。初めて皆が僕に気付いてくれた。もうお別れ。そう思って僕は手を振り、幽霊らしく宙を漂いながら部屋を後にした。
立派な扉から外に出て、僕はようやく思い出した。ここは王宮、あの会堂のような部屋は謁見室。その時、背後から「ケイ殿」と聞こえてきた。見ると、西の大公家の家令。
あの家令が「ケイ殿、ケイ殿」と叫びながら追い掛けてくる。何という悪夢。いや。せっかくの幸せな夢を僕が悪夢に変えてしまったのかも知れない。でも、まあいいや。僕は祝辞を述べただけ。悪いことはしていない。僕は速力を上げて王宮内の廊下、天井に近い辺りをどんどん突き進んだ。
建屋を出ると穏やかな日差し。その先には見覚えのある庭園。これがエスタコリン流なのだろうか。庭園の至る所に円形の食卓。宴の準備が進んでいた。
その時になって、僕はふと疑問を感じた。イエシカさんの夢の中にこれほどまでに僕の行動の舞台が用意されているとは信じがたい。これはイエシカさんの夢ではなく、僕の夢なのだろうか。
それならますます、もういいや。僕は食卓の一つに近寄って杯を手に取り、微かに酒の香りの漂う飲み物を勝手に注いだ。家令に見付かると煩わしい。僕は庭園の隅、エルランド殿下と初めて出会った東屋へ向かった。魂が溶けてしまいそうなほどに心地の良い秋の陽気。良く見ると、咲き誇るのは春の花。何とでたらめな夢だろう。
東屋の細長い腰掛けにゆったりと座り、飲み物に口を付けた。思い出の景色。これが見納め。そんな感慨に浸っていると、足音が慌ただしく近付いてきた。見ると、考古学調査の一員、中央衛士隊の隊員。僕の前に立つと「エペトランジュ卿」と声を掛けてきた。
やはり夢。もはや支離滅裂。そう思いながら、僕は尋ねた。
「卿なんて言い方、初めて聞くんですけど。父にならともかく」
「今後、卿が決して侮られることがないよう、王国が爵位を授与したのです」
やはり夢。もはや誇大妄想。現実感はあるのに現実味は全く無い。
「それはどうも」と僕は会釈した。「飲み終わったら、僕はもう行きます。どこに行くのかは分かりませんけど、あなたともこれでお別れです」
いや。分かっている。僕はこれから天に昇り、地に還るのだ。魂の自己組織化が解けてしまう前に、行きたい所に行っておけるだろうか。
その時、再び「ケイ殿」と聞こえてきた。最後に見るのがあの家令なんて、僕はどれほどの悪業を積んでいたのだろう。いや。思い返してみれば、あの人は僕が初めて出会った異国の人。あの人とは衝突するばかりだったとは言え、そこまで悪く言うことはないか。
「ケイ殿。戻られたのですね」
「はい。式典の方はいいんですか。せっかくの結婚式なのに」
「皆様は式典を続けておられますが、私はとにかくケイ殿を追い掛けるようにと指示されまして……」
皆は僕を見送るよりも結婚式。もはや意味不明。これは一体誰の夢。
「追い掛けてくるのなら、アンだろうと思ったのですが」
「さすがにあの装束では、ケイ殿を追い掛けるのは中々に難しいかと。とにかく、女性の装束には色々と厄介な……」
そうか、と僕は思い当たった。最初から僕と一緒にいるのはこの家令。つまり、これはまさかの家令の夢。そして、僕は僕自身の着衣にふと気が付いた。流星の刺繍が入った小綺麗な貫頭衣。ゆるゆる、ひらひら、流れ星。こんな衣類など見たことがない。つまり、これはまさかの家令の趣味。
僕は家令に杯を手渡した。
「それでは、もう行きます。ありがとうございました。さようなら。皆さんには、どうかお幸せにとお伝えください」
「どちらへ行かれるのです。フレクラントですか? 体調を整えてからにされた方が」
「体調?」と僕は呆気にとられた。
「覚えておられませんか。ケイ殿はこの一年半余り、生ける屍のようになっておられたのです。これまでほとんど寝たきりでしたし、今ようやく意識が戻られた所で……」
その言葉に僕は絶句した。めまいがした。これは現実。酔いが回った。何が美学だ。僕は脱力して東屋の長椅子に引っ繰り返った。
◇◇◇◇◇
西の大公家の家令はアンから聞いた話を中心にあの事件の顛末を教えてくれた。
あの日、アンは伝令として連合国を飛び回った。まず、西方域の中心都市クスヴィシュトローム。そこでの説明を終えて北限の街ロスクヴァーナに着いてみると、僕の父がいた。
父は副大統領として、しばらく前からロスクヴァーナで指揮を執っていた。さらには、衣類などの交換のためにちょうど母も到着した所。フレクラント本国への伝令は他の者に任せ、アンは僕の両親と共に一晩ロスクヴァーナで待機することにした。
日没から約三時間が経った頃、突然一報が入った。首都ノヴィエミストの方角で巨大な閃光。急遽、ロスクヴァーナに滞在中のフレクラント人全員で打ち合わせを行なった。
爆発は起きたとしても一回限り。断続的に何度も爆発する訳ではない。したがって、ほんの少し待てば爆風などに巻き込まれる恐れは無くなる。問題は環境中の自然精気の状況。自然精気を取り込み過ぎると、中毒症状が現れる場合がある。
ある程度の時間が経過すれば、凝集していた精気は拡散するだろう。さらには大気中を上昇していくだろう。だから、もう少しロスクヴァーナで待機する。その後、全員で編隊を組み、敢えて中空帯で高速飛翔を行ない、現場へ向かうこととする。
結局、首都ノヴィエミストに到着したのは爆発から約二時間後のことだった。現場では、退避の呼び掛けに当たっていたフレクラント人たちが何かを必死に探し回っていた。
訊くと、緊急退避の合図の直後に爆発。いつまで経っても僕だけが集合場所に現れない。あの時間間隔から考えて、僕は爆発に巻き込まれたに違いない。連合国人に対する救護活動は中方域警察隊に任せ、皆は僕を探している所。ロスクヴァーナから駆け付けた者たちも僕の捜索に加わった。
巨大吸収石の爆発の規模はほぼ予想通りのものだった。建屋を含む巨大照明器全体と丘の一部が爆散。破片や土石の飛散は、丘を中心にノヴィエミストの西半分辺りまで。捜索もその範囲内で行なわれていた。しかし、アンはすぐに気付いて皆に打ち明けた。僕は太古の思念法、強制浮揚術を知っている。それを使っていたのなら、爆風に乗ってもっと遠くへ飛ばされた可能性がある。
僕が発見されたのは翌日未明のことだった。発見者はアンと僕の両親。発見場所は首都ノヴィエミストから東南東へ徒歩で一日半程度の所。僕は麦畑の中で倒れていた。
目立った外傷は顔の擦り傷と両耳の奥から出血した痕跡程度。しかし、思わぬ箇所を負傷しているかも知れないので、直ちに全身に入念な治癒魔法。その場に転がっていた精気視認器で確かめてみると、両腕と腹部から下の精気を全喪失。ただし間違いなく、頭と胸に魂はとどまっていた。
自然精気の拡散の状況も予想通りのものだった。退避の結果、ノヴィエミストから一日圏内の住民の九割八分は無傷で済んだ。残りの二分は全員、退避に消極的もしくは懐疑的だった者。自然精気の暴風を浴びて体内の精気を全喪失し、生ける屍となってしまった。
肉体は正常なのに心が無く、気力も意思も見て取れない。物理的な刺激に対してわずかに機械的に反応するのみ。目覚めていても、言葉を発することもなくひたすら横たわるだけ。食事を与えようとしても、口に含もうともしない。その結果、生ける屍となってしまった者の多くは程なく衰弱して亡くなった。
そんな中、幼い子供たちは例外だった。体内で直ちに精気の自己組織化、魂の再形成が始まった。多分、記憶は肉体と魂の両方に蓄積されていくのだろう。肉体に蓄積されていた記憶が新たな魂に転写されたのか、数十週間後には以前と変わらぬ状態に復帰した。
そして、僕は例外中の例外だった。僕の中には間違いなく魂がある。それにもかかわらず、僕の状態は衰弱死した者たちとほぼ同様。唯一の違いは、アンが流動食を与えた場合にのみ、少しずつでも食べること。アンは僕の両親と話し合い、僕を連れて西の大公家に身を寄せた。
アンは僕のそばから片時も離れずに介護を続けてきた。僕は徐々に外部からの刺激に反応するようになり、鈍重ではあっても動作と呼べる反応をするようにもなった。現在、僕の肉体は衰弱気味。一方、魂は至って健康。あとは意識や意思が戻るのを待つばかりの状態となっていた。
現在、首都ノヴィエミストの修復はすでに完了し、街には人が戻っている。ノヴィエミスト高等学院の生命力工学専攻、生命学系、学院評議会、ノヴィエミスト評議会。それぞれの当時の幹部に対する裁判が行なわれ、大半は無罪となったが、残りに対する公判は未だに継続中。前例の無い事件のため、最終的な判決に至るまでには相当な年数が掛かると見込まれている。
裁判の過程で、僕が太古の思念法を使っていることが公式に明かされた。被告たちはそれに基づき、僕の何らかの行為が爆発を誘発したのではないかと主張している。もしそうであれば、僕が何らかの行為をしていなければ、退避はもっと進んでいたのであろうし、人的被害はもっと抑えられていたはずであると。
王国はその種の責任転嫁に懸念を抱き、それらの動きに抗する一環として、他国人の僕に一代限りの条件付きで最上位級の爵位を授与した。連合国との取り決めにより、その階級の爵位には不逮捕特権が付与されている。これにより、今後連合国内においては、王国の許諾無しに僕が拘束されることはなくなった。その代わり、今後王国が危機に瀕することがあれば、その際には僕は王国に助力しなければならない。
なお、連合国評議会および現在のノヴィエミスト評議会は、爆発当日の退避支援活動を、多数の連合国人を直接的に救ったものとして高く評価している。現地に入ったフレクラント人十名と救援隊派遣を呼び掛けて回ったアンに対する褒賞授与が決定しており、僕以外の十名はすでに受け取っている。
◇◇◇◇◇
突然、エリク先生は僕を指さすと、「禁止だ。禁止」と怒鳴った。春学期の終わりが近付き、先ほどから季節末恒例の研究室内発表会が続いていた。
「今度は」と先生は呆れたように舌打ちした。「君の方がべったりか。環境汚染だ。研究室ではもう少し離れろ」
「いや。これは喜ぶべきことです」と僕は冗談交じりに反論した。「こんなに人数が増えて部屋が満杯なんですから、仕方がありませんよ」
高等学院に復帰してみると、一昨年から大きな研究成果が出続けているおかげで、環境生命学研究室には大勢の学生が集まっていた。従来の連合国南部だけでなく、それ以外からも、フレクラント国からも、エスタコリン王国からも。そして今日は復帰後初の全体会合。以前は先生と僕とアンの三人だけだった部屋がぎゅうぎゅう詰めになっていた。
「まったくもう」と先生は失笑した。「エペトランジュ君の献身振りを見た時から、こんな風になるのだろうとは思っていたんだ。なのに、私がエスタコリンまで見舞いに行ったことは全く覚えていないなんて、本当にけしからん」
僕の記憶には欠落があった。あの日、ノヴィエミストの郊外で弁当を食べたことまでは覚えている。それ以降、先日意識が戻るまでの記憶は皆無。常設警邏隊やナギエスカーラ警察隊に爆発時のことを尋ねられたが、全く答えられなかった。
「誠に申し訳ございません」と僕は大仰に頭を下げた。「先生。話を元に戻しましょう」
先生は鼻で笑った。
「それでは諸君。今度の夏も忙しくなる。まずは毎年恒例の自然精気濃度の測定。今年の対象地域は南方域だ。その作業はナギエスカーラ評議会と合同で行なう。また知っての通り、南方域と西方域は環境改善と自然精気濃度の制御に多大な関心を寄せている。その二方域の環境改善作業を今年も手伝う。逆に中方域の世論は壊滅的だ。そのため、ノヴィエミスト高等学院の生命学系、ノヴィエミスト師範学校の生命学系と共同で啓蒙活動を行なう。空気と同じく、自然精気は多すぎても問題だが、少なすぎても困るのだと。また、これも知っての通り、自然精気の風を浴びた者の中に精気を感知する能力を発現させた者がいる。魔法能力の発現には程遠いが、それらの者に対する追跡調査にも協力する」
先生の話はさらに続いた。僕がアンと身を寄せ合って活気に満ちた空気に浸っていると、先生は最後に「ああ、そう言えば」と言った。
「サジスフォレ君には、まだ無理をさせる訳にはいかないな。君は本部で待機」
「えっ」と僕は驚きの声を上げた。「要するに、研究室に居残りですか?」
「君は夏の間、体育実技系の学生組織に入りたまえ。そこで体を鍛えるように」
「ええっ」と僕は嫌忌の声を漏らした。「むさ苦しい男たちと一緒に運動ですか……」
「大いに汗を流し合いたまえ」
「合うんですか……」
僕が頭を掻きむしると皆の間に笑いが広がり、そこで研究室発表会は終了となった。
夜、学院食堂で夕飯を食べた帰り道。僕とアンは手を繋ぎ、光球魔法で道を照らしながらナギエスキーヌの家に徒歩で向かっていた。以前と変わらぬ街並み、道沿いの景色。借家の大家さんも僕の帰還を信じて、誰にも貸さずに家を空けておいてくれた。それどころか、ぼろ家と言われていた家はきちんと補修されて綺麗になっていた。
「ケイ。一年間は私の言うことを何でも聞くという約束だったよね」
「はい。奥様」と僕は即答した。
一年半の介護役に比べれば、一年間の下僕役なんて何のその。
「夏休みの前半は研究室の活動に参加して、ナギエスカーラの夏祭りを見た後は……」
「見るだけ? 大行進には参加しないの?」
アンはウーンと考え込んだ。
「見るだけでいいかな……」
「分かりました。奥様。前回を凌駕する昼夜を問わぬ蹂躙に御期待ください」
アンはフフンと恥ずかしそうに鼻で笑い、手を強く握ってきた。
「ケイ。その話し方、何だか変」
「お忘れでしょうか。奥様。夫婦生活の技術、奥様と下僕ごっこ、そこに鬼畜ごっこを加味したものでございます」
アンがウーンと呻いた。僕は真意を明かした。
「ここのところ、敬意だけでなく畏怖の目を向けてくる人が多いような気がするんだ。悪評払拭の件はもう十分だから、今度は少し軽く振る舞えるようになってみようと思って」
アンはフーンと鼻を鳴らし、気を取り直したように話し始めた。
「軽くはいいけど、軽薄は駄目。特に寒い言葉遊びはやめた方が良いかも」
「御安心ください。奥様。寒い言葉は夏季限定、お下劣は奥様専用でございます」
「夏休みの後半はイエシカ姉様の所に行って……」
「研究室の活動は?」
「エリク先生が、色々あった後だから私の参加も程々でいいって。私の受け持ちは啓蒙活動。私の研究はまさにそのためのものだからって」
僕は納得して頷いた。
僕の介護の一年半。アンは最初の半年間は僕の介護に専念。続く一年間は介護のかたわら、連合国から取り寄せた古聞大全を分析し続けてきたとのこと。その間、半年に一回の割合でエリク先生とフレクラントの歴史学博士が西の大公家にやって来て、僕の見舞いとアンの指導。そして今や、アンはその分野の先駆者、第一人者。
「了解しました。奥様。奥様の優雅な休日。素晴らしい響きでございます」
「入植地はとても景色が良いらしいよ。北の大森林とは言っても海に近い低地だから、気温はフレクラント高原と同じぐらい。そして何よりも、近くに温泉があるって」
「聞いた。聞いた」と僕は嬉々として答えた。「温泉。話に聞いたことはあるけど、一度も見たことがない」
「連絡してみたら、フレクラントのお母様やお父様やエメリーヌ様も行くって」
「何で一族揃って?」と僕は軽く反発した。
「近々、ジラン大統領や大統領府の方々も視察に行くらしいし」
僕が舌打ちすると、アンはフームと鼻を鳴らした。
「ケイはフレクラントの皆様に頭が上がるの? 介護に色々協力してくださったのに。特にマノン様はそのために教職を辞めようとまでなさった」
僕は一瞬言葉に詰まった。
「はい。奥様。自嘲と感涙が止まりません」
「一番の問題はケイだけが骨折り損になっていること。それは分かるけど」
僕は溜め息をついた。
先日、僕はノヴィエミスト評議会の現議長から手紙を受け取った。ノヴィエミスト評議会としては、僕が最大の功労者であると認識している。だから、僕への褒賞は非常に大きなものになるだろう。それだけに、例の裁判が終わらないと中々出しづらい。裁判に影響を与えかねないからと。そしてそこには、懇願に近い依頼が書き記されていた。不公平。恩知らず。そんな風に騒がないでほしい。どうか、じっくりと待ってほしいと。
「褒賞を出すなら出すで、順番が違うと思う。一番の功労者だからケイには出しづらいなんて。判決が出るのは何十年も先という噂もあるし」
それは僕も耳にしていた。有罪と決まっていない者を何十年も拘束する訳にはいかないので、すでに仮釈放中。そして、いずれ被告たちの寿命が尽きて、責任問題はそのままうやむやになるだろうとの噂。
「ああ」と僕は冷静に同意した。「茶番の気配がある」
その瞬間、アンから微かな緊張を感じた。
「やっぱり……、ケイが低い声でそんな風に言ったら、普通の人は怖がるかも……」
「失礼しました。奥様。私の目標は軽き血潮の道化でございました」
「でも、その話し方は変。普段の話し方に普通の人柄が出れば良いだけだから」
僕はフームと鼻を鳴らした。自分でも何を言っているのか良く分からなくなってきた。
「ケイの言う通り、あの事件は途中までは過失、そこから先は故意。ケイが『一日の距離まで退避』と基準を示したからほとんどの人は助かった。それははっきりしているんだから。人は全知全能ではないのだから、天災や人災のたびに罪に問われたら、統治に携わる者などいなくなってしまう。そんなのは少なくともあの事件に関しては詭弁だと思う。結局は警察隊の呼び掛けに従って、住民と一緒に慌てて逃げ出しただけ。最大限の努力をする義務を全く果たしていない。中隊長さんは『スルイソラの男の誇り』と言った。師範学校の先生は『貴族の矜持』と言った。そういうものが全く無い」
アンにしては珍しい力説だった。あれからすでに二年弱。やはりアンもそれなりに変わったのだと僕は思った。
「いずれにせよ、体力が戻ったらまた行商だな。少しずつでも稼いでいかないと。それが普通と割り切って」
僕の言葉に、アンも溜め息をついた。
「それにしても」と僕は話題を変えた。「辺境伯って凄いよな。本国から離れた場所の統治者で、宰相と同格扱いなんだろう?」
「何でお姉様が」とアンは首を傾げた。「良く分からないんだけど、お姉様ってそこまで評価が高いの?」
僕はフームと鼻を鳴らして考え込んだ。
入植の件、エルランド殿下辺りを頂点とする人脈があり、おそらくその辺りに何らかの思惑があるのだろう。
エスタコリン王国から東海沿いを北上、北の大森林の一角に入植する。街の建設には王家と西の大公家が資金を出す。フレクラント国も協力し、フレクラント式に近い街づくりをする。産業構造もフレクラントを参考にする。
イエシカさんと共に入植するのは、例えば西の大公家の家令。あの家令殿は辺境伯家の家令になると意気込んでいる。また例えば、家令の息子さんたちトロンギャアンケ商会。入植に参加してかの地を本拠地とすれば、息子さんたちには永代の爵位が授与される。さらには当然、イエシカさんの旦那様。エルランド殿下の弟で、イエシカさんとは高等学院時代からの知り合い、イエシカさんの二つ下。
「西の大公家の娘を新しい家の当主にして、そこに他家から婿入り。どこかで似たような話を聞いた覚えがある」
「ケイの遊び相手がいなくなって本当に残念」とアンは鼻で笑った。
「イエシカさんの評価はそれなりに高いんじゃない?」と僕は適当に肯定した。
「それはどうでもいいんだけど」
「どうでもいいんだ……」と僕は拍子抜けした。
「それでね。お姉様の所からなら、ずっと北の風霜の大地や氷結の地にも行けるよね」
そっちか、と僕は呆れた。話はそっちへ行くのか。
「分かりました。奥様。奥様の向かう所、忠犬のごとくにお供いたします」
そう答えて、僕は笑った。
「本当に? その言葉、聞いたからね」
しまった、と僕は軽口を後悔した。その次は逆にずっと南へ。その次は海の向こうへ。アンはどこまで行くつもりだろう。僕はどこまで行くことになるのだろう。
「勘弁して……。程々で頼むよ。アン」
僕がそんな風に泣き言を口にすると、アンは手を離して腕を組んできた。
「私ね……。色々な所へ行って色々なものを見て、そのあと自分の家を建てて、そこで大勢の子供に囲まれて、子供たちに冒険の話をしてあげたいんだ……」
温かみのある口調とその内容に、胸が締め付けられた。
「ずっと一緒。どこまでも一緒。頼りにしているからね。ケイ」
その時、向こうの方に僕たちの住まいが見えてきた。
(完)
流星の魔法使い(改訂版) 種田和孝 @danara163
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