巡楽師ディンクルパロットの行進

灰崎千尋

緑の牡牛

 音楽を愛し、音楽に愛された国、トゼカステ。


 音楽の神の聖域を抱えるこの国で、人々の生活はいつも音に彩られていた。槌を振るうにも牛の乳を絞るのにも歌があるのは勿論、物売りは客引きのために楽器や歌を響かせ、恋や愛を伝える手段もまた音楽だった。

 神は人々に応え、音に特別な力を与えることもあった。特に耳の良い者には聞こえるのだが、この世全ての生き物は、互いに影響しあいながら和声ハーモニーをつくる。その中に生まれた音の濁りを必要に応じて取り除く、その仕事を国王の名のもとに任されているのが、巡楽師という役職である。


 さて、ここに一人の巡楽師がいる。

 彼の名はディンクルパロット。ひと仕事終えて王都へと戻る途中、小さな宿で休んでいるところだった。

 寝床へ横になってうとうとと微睡んでいた寝入りばな、突如として響いてきた轟音。それは美しくも荘厳な和声ハーモニーだった。それに呼応するように、俄かに様々な音が沸き立つ。焦り、畏れを含みながらも寿ぐように明るく温かい騒がしさ。

 最初の強烈な和声を出せるような生き物は、この世界にも多くは無い。おそらくは神格に近い存在。その後の反応を聴くに、悪い者では無さそうだが、人間にどう影響するかはわからない。巡楽師としてはそれを見極める必要があった。

 ディンクルパロットはすっかり目を覚まし、素早く荷物をまとめると、宿の主人を探して尋ねた。


「すまない、急に出なくてはならなくなってね。この辺りに疾風鳥も置いている貸し馬屋はあるかな」

「おやおや、左様でございますか。この通りの西端にございますよ。いってらっしゃいませ」


 そう聞いて、ディンクルパロットはつば広のとんがり帽子をひょいと上げて礼を言い、宿を飛び出した。

 陽は落ちかけ、仕事を終えた人々が往来に出てくる時間である。聞こえない彼らにはまだ混乱は広がっていない。その隙間を踊るような足取りですり抜け、ディンクルパロットは貸し馬屋に滑り込んだ。

 その厩舎は二棟に分かれており、一棟には馬が、もう一棟には疾風鳥が繋がれている。

 陸を最も速く駆ける生き物、疾風鳥。遠くまで見通す大きな目とぴんと立った冠羽が目を引き、筋張った脚の先には大地を掴み蹴りあげるための鋭い爪がある。その体はふかふかとした羽毛に覆われ白や青、黒など一頭ずつ異なる色が鮮やかだった。急ぐ時にはこれほどの味方はいない。


「行き先もまだわからないから、速く長く走れるのを頼む。悪いが期間も不明なんだ」


 そう言いながら、ディンクルパロットは首からわたわたと印を取り出し、腕章と共に馬屋の男に見せた。そのどちらにも入っているのは、トゼカステの国章である竪琴に翼の意匠に、巡楽師の象徴たる銀の横笛をあしらった紋章である。これを見せれば、たいていのトゼカステ人には彼が巡楽師であることが伝わるようになっていたし、国王付きの役人である証明にもなった。

 馬屋は巡楽師の依頼と分かると、すぐさま黒い疾風鳥を用意して引き渡した。前金をいくらか払っておいて、請求書にはディンクルパロットが印を押し、後々代金を役所から出せるようにしておく。


「そいつは賢くて、自分の体力を温存できる走りができる奴です。使ってやってください」

「助かるよ、ありがとう」


 ディンクルパロットはそう言って、すぐさま黒い疾風鳥に跨り走らせた。

 その名の通り、風のように村の外へ駆け抜けていく。揺れは大きく、乗り心地が良いとは言えないが、目的のためには最良の手段である。目指すは音の源。自らの耳を頼りに突き止めるしかないが、辿り着くだけなら容易に思えた。何故ならその和声は鳴り始めたときから音も大きさも変わらずに鳴り続け、一向に収まる気配が無いからである。それもディンクルパロットには気がかりだった。人間や野の生き物であればもっと音に変化がある。やはり何か力のある存在が動き出したということで、場合によってはかなり厄介な仕事になるだろうと思われた。そして夕飯を食いはぐれたのを頭の隅で後悔していた。


 月も高く上る頃。集落を二つ三つ通り過ぎ、音の源はずいぶんと近づいた。圧倒的な音圧がディンクルパロットの脳を揺らすようだった。それでいて和声はその調和を一切崩さない。彼を乗せた疾風鳥も何かを感じ取っているのか、何度か指示無しに立ち止まってしまう。


「よしよし、お前もわかるんだね。怖いだろうが、私がいるから大丈夫。少しゆっくり、遠回りをしよう」


 ディンクルパロットはそう言いながら、疾風鳥の長い首に顔を寄せて撫でてやった。グワゥ、と疾風鳥は小さく鳴き、再び野へ歩みを進めた。

 もはや音の主にいつ出くわしてもおかしくない。疾風鳥を宥める意味だけでなく、正体を見極めるまでは正面から相対するのは避けたかった。ディンクルパロットは強烈な音の周りをぐるりと迂回するように、疾風鳥を操る。

 不思議なほど穏やかな風が、ディンクルパロットと疾風鳥を撫でて流れていく。手に持ったランプがふわりと揺れ、まるでそちらへ導くかのようだった。見渡す限りの草原がさやさやと合唱する。そしてあの、重厚な和声と、低い足音。

 風の向く方へ顔を向けるだけで、は目に入った。草原をゆったりと進む、真っ白い光。それは月の光を受けて輝く長い毛に包まれ、天に向けて伸びた三本の角を持つ、巨大な牡牛だった。ずん、ずん、と大地を揺らしながら、目を静かに閉じたまま歩いていく。その足跡には一瞬で草花が芽吹き、周りをトカゲやネズミ、鳥や虫が飛んだり駆けたりし、その後ろに鹿や馬がかしずくように続く。

 ディンクルパロットはしばしその光景に圧倒されていたが、疾風鳥がグワゥグワッと鳴く声に我に返った。見れば疾風鳥もお辞儀をするように首を低く下げている。動物たちは本能的にか、この牡牛という存在を理解しているのだろう。

 そしてディンクルパロットは牡牛の正体に思い当たり、思わず頭を抱えた。


「まさか私の代で“緑の牡牛”が“渡り”をするとはね」


 古い文献と巡楽師の先達からの話で、ディンクルパロットはこの牡牛に覚えがあった。これは“緑の牡牛”と呼ばれる者で、動物よりも精霊などに近い。水車小屋ほどの大きさもあるこの牡牛は数百年に一度、気まぐれに住処を変えるために移動する。これを“渡り”と言い、牡牛の通った土地は豊作に恵まれるが、その行く手を妨げれば呪われるという。ここ二百年ほどはこの近くの森に眠っていると聞いていたのだが。

 巡楽師としてやるべきことは二つあった。一つは、この牡牛の道中を最後まで見守ること。もう一つは行く手にある街や集落に備えるよう伝えることである。何せ牡牛は大きく、人間の建てた物もそうでない物も、遮るものは破壊しながら進むという話である。誘導することも難しい。だからせめて、人々に警戒を呼びかけておくのである。

 ディンクルパロットは大きく一つ深呼吸をすると、鋭い眼差しで牡牛を見据えた。星と磁石とで方角を測り、地図で現在地とおおよその進行方向を見定める。急に方向を変えない限り、夜明け頃に西の村を通ることになるだろう。まずはそこへ伝えなければならない。


「よし、行こう」


 その声は疾風鳥と、自分にも向けたものだったろうか。ディンクルパロットは一路西の村へと向かった。



 とんがり帽子が飛ばされそうになるのを押さえながら、ディンクルパロットは疾風鳥を駆った。その全速力はやはり凄まじく、金色の長い髪がばさばさと舞い上げられ、姿勢を低くして手綱を握って置かなければ振り落とされそうになる。だがおかげで、月が沈みきらないうちに村が見えてきた。

 ディンクルパロットは懐から短い横笛を取り出し、或る旋律を吹いた。極めて高い音を伸ばし、不安感を煽る音階を上下する。危険を知らせるその音は、夜を走る彼の姿が見えるよりも早く、見張り台の上の耳に届く。やがてディンクルパロットの旋律に応えるように、見張り台からピューイと笛の音が返ってきた。それを聞いて、ディンクルパロットはそのまま村の入り口へ駆け込んだ。


「私は巡楽師のディンクルパロット。夜明け頃にここへ“緑の牡牛”がやってくる。ただ通り抜けるだけのはずだけれど、見たところ少しでも道を逸れると家々を突き抜けることになる。はものを壊すのに躊躇が無いんだ。今すぐ皆を離れたところへ避難させてほしい」


 例によって腕章と印を見せながら、ディンクルパロットは早口に、しかしはっきりと言った。櫓から降りてきた見張り役は目を白黒させながらそれを聞き、ひとまず村長のところへ案内する。同じ説明をしてようやく、避難が進められることになった。


「こんな夜中にいったいどういうわけだ」

「牛が来るんだとよ」

「たかが牛だろ、なんで逃げなきゃいけないんだ」

「家くらいでかいらしい」

「いや、山くらいでかいって」


 なんとも騒がしく、のんびりとした雰囲気ではあるが、とにかく夜明けまでに村人を避難させることには成功した。あとは皆、どんな牛がやってくるのかと物見遊山気分である。


 果たして、夜明けと共に“緑の牡牛”は現れた。眩しい朝日を背負った大きな牡牛は、その太陽よりも白く神々しい光を纏い、ゆっくりと歩いてくる。その姿を見た瞬間、村人たちは呆けたように目と口を開いたまま静かになり、辺りには牡牛の足音と、周りで歌う鳥の声ばかりが響く。ディンクルパロットにはそれに加えて、調和そのものといった和声と、風の精の鼻歌が聞こえていた。牡牛の後ろには獅子や狼がすました顔で続き、彼らの後ろには緑の帯が長く伸びている。

 牡牛の目はやはり閉じられたままで、しかしその足取りは見えない道を辿っているかのようにしっかりとしている。その足取りで、まず手前の家の角を削った。その奥の家は外壁を一つ無くして傾き、その更に奥は真ん中を突っ切られて全壊した。牡牛は特別無理をした様子もなく、牡牛を妨げるものを、体が触れたところから瞬く間にぼろぼろと崩してしまう、そんな力があるようだった。

 家々の裏手には畑があり、そこへ足を踏み入れたときには農夫が悲鳴をあげた。けれども今度は、踏み荒らしたところから蕪やらチシャやらが見事な大きさに育っていくものだから、農夫もただ見守る他は無くなった。これこそが、牡牛のもたらす恵みなのだった。


「巡楽師さま、ありゃあ神様なのかい?」


 震える声で尋ねられたディンクルパロットは、困ったように微笑みながら答える。


「さて、力のある存在を神と呼ぶならそうかもしれない。でもあの牡牛は祈りを聞いてくれるかどうか。彼らみたいなものは、ただそう在るだけなんだ。それだけで周りを変えてしまう。難しい相手だよ」


 ディンクルパロットは村人たちと共に牡牛が通り抜けていくのを見守ると、その被害を国へ報告して援助をもらえる手続きを村長に教え、すぐさま疾風鳥で牡牛の後を追いかけた。



 牡牛は今のところ、急に方向を変えたり、走り出したりする様子はない。それならばこの先で突き当たるのは比較的大きな街だったが、距離はかなり先になる。その前に広い街道を横断する方が差し迫った問題だった。では巡楽師たるディンクルパロットがやるべきことは。


  見よ! 聖なる牡牛が行く

  聖なる緑の牡牛が行く

  妨げてはならぬ、その歩みを

  歌い委ねよ、その歩みへ

  行く手に滅びを 彼方に恵みを

  聖なる緑の牡牛が行く


 ディンクルパロットは牡牛の後ろ、獣たちの最後尾について、疾風鳥の上で歌う。必要になった時のためにと、口伝えに巡楽師に教えられてきた歌である。なるほど、牡牛の発する調和の和声と足音のゆったりとした拍にぴたりと嵌まる旋律である。これが者によって作られた歌だということがディンクルパロットにはよくわかった。

 巡楽師の奏でる音には力が宿る。音に言葉を乗せた歌はそのまま呪文になる。この場合、街道を歩く人々を牡牛の周りから遠ざける力が働いて、いたずらに被害を増やさないよう役に立つ。更に効果を高めるために、大太鼓のように低い足音に対して、裏の拍に鈴を鳴らす。こうしてより広く、多くの人の耳に届けることができるのだ。



 次の街が近づいてきた。

 牡牛の後ろについて歩く生き物たちは、縄張りが変わるごとにか、くるくると交代していった。ここでは肉を食らうものも草を食むものも関係なく、狐と兎も並んで歩く。そしてどういうわけか、牡牛の後ろでは、空腹や疲れというものを覚えないようだった。おかげで三日三晩歩き通しの疾風鳥も、預かった餌が減らないまま足取りは軽い。ディンクルパロットの方も体は同じだったが、心の方はやや擦り減っていた。口寂しさから干した鬼棗の実や干し肉を齧ってみるが、食について一家言ある彼としては、そろそろ何か美味いものが食べたい。次の街では何か調達しようと心に決めて、疾風鳥を走らせた。

 前の村と同じように、警告の笛を吹く。今度は待ち構えていたように、すぐさま笛の音が返ってくる。昼間ということもあって街を囲む砦の門は開かれており、ディンクルパロットはそのまま突っ切った。


「あの、もしかして巡楽師さまですか」


 見張り役と思しき男がにこにこと言う。


「そうだけれど、何故?」


 ディンクルパロットの方はたじろぎながら答える。特殊な仕事ということもあって、こんな風に出迎えられることはそうそう無い。


「やっぱり! 二百年前とおんなじです。それで、“緑の牡牛”がこの街を通るんですか?」

「その通りだよ。噂が回っているのかな」

「ええ、実はそうなんです。早くみんなに知らせたいなぁ。おっとすみません、長老がお待ちかねです、こちらへどうぞ。道沿いの避難は済んでますよ」


 男はうきうきとした口ぶりでディンクルパロットを先導した。確かに彼の言う通り、街の中は一見がらんとしている。代わりに、街をぐるりと囲む砦に人が詰めかけ、浮足立った和声に満ちていた。

 案内されたのは砦の上で、街の全体を見渡せるようになっていた。


「巡楽師さまをお連れしました!」

「ご苦労。ようこそ、巡楽師さま。お待ちしておりましたぞ」


 真っ白な髭を長く伸ばした長老が言った。


「私は巡楽師のディンクルパロット。日が傾きかけた頃、ここを“緑の牡牛”が通ると知らせに来たけれど、避難は済んでいるとか」

「ええ、ええ、わしらはこの時を待っていたのです。本物の“緑の牡牛”が来る時を」

「本物の?」


 長老の言葉にディンクルパロットが首を傾げると、長老は髭を自慢気に撫でながら語る。


「この街を、“緑の牡牛”は二百年前にも通ったのです。当時はひどい飢饉だったようでしてな。牡牛の恵みのおかげでなんとかこの街は生き延びられた。それを祝して、この街では毎年牡牛祭をやっていたのです。そしてこの度の“渡り”でもこの街を通ってくださるとは。いや、長生きはするものですなぁ」


 ハハハ、と長老たちが笑う。


「色々と壊されるかと思うけれど」

「承知しております。前回も巡楽師さまが来てくださったので。祭では街一番の笛吹きが巡楽師さま役を務めるのですよ」

「それは……光栄だな」


 ディンクルパロットは苦笑する。資料が少ないこともあり、牡牛が同じ土地を通ることがあるとは知らなかったが、牡牛の目指す行き先によるのだろう。もしかすると祭に呼ばれたということもあるかもしれないが。


「ところで長老」

「何ですかな」

「腹ごしらえをできるところはあるかな」


 その時、ディンクルパロットの腹の虫が角笛のように鳴り響いた。牡牛の列から離れたせいか、急激に腹が減ってしまったのだ。


「おお、それはいけない。砦の上に屋台を出している者がおりますから何か持って来させましょう」

「いや、あるなら自分で歩くよ。皆の様子も見ておきたい」


 避難が済んでいることで、少し余裕ができた。遠眼鏡で見ても牡牛がこちらへ向かって来ているのは間違いない。長老には国への手続きを教えておいたが、まだ時間がある。

 砦の上は、お祭り騒ぎだった。牡牛の到来を待ち望む人々で埋め尽くされ、長老の言った通り様々な屋台が出ている。ひとまずディンクルパロットは、気になったものを片っ端から食べていった。

 まずは斑猪ブチイノシシの串焼き。香辛料をたっぷり付けてこんがりと焼いた肉は、噛むほどに肉汁が溢れて旨味と甘みを感じさせる。赤銅麦しゃくどうむぎの発泡酒を飲みたいのはやまやまだったが、ここは金陽柑キンヨウカンシロップの水割りにしておく。爽やかな甘酸っぱさが疲れを忘れさせてくれるようだった。そして牡牛の角を模した弧を描く形のパン。岩塩をまぶしたものと砂糖をまぶしたものとがあり、どちらも外はもっちりとして中はふんわり軽い。他に焼菓子や飴細工などもあった。

 屋台では食べ物だけでなく、牡牛を象った人形や帽子、装飾品なども売られており、この地にしっかりと根付いた祭りだということをうかがわせた。ディンクルパロットには期待に跳ね回るような拍子の旋律や和声があちこちから聞こえ、それが少し不安でもあった。砦は古いが頑丈で、一部が壊れたとして総崩れにはならないだろうが、これだけの人数が一気に混乱すれば落ち着かせるのは至難の業である。

 砦の内側には家や工房、商店が並び、畑は外に広がっていた。赤茶色の赤銅麦が波になって揺れているのが遠くに見える。そこへずん、と砦を揺らす足音が響いた。


「見えたぞ!」


 誰かが叫ぶと、一斉に人々が砦の端に押し寄せる。そして彼らは、誰からともなく歌い始めた。


  見よ! 聖なる牡牛が行く

  聖なる緑の牡牛が行く

  妨げてはならぬ、その歩みを

  歌い委ねよ、その歩みへ

  歩みは光 光は恵み

  再び緑にまみえんことを!


 ディンクルパロットは驚いて人々を見渡した。その歌はまさしく、巡楽師に伝わっている歌だが、終わりの詞が違う。本当に彼らが牡牛を歓迎していることが、その歌から伝わってくる。歌は土地や時代で変わっていくものだが、巡楽師の歌がこんな形で残ることもあるのだと、ディンクルパロットは感慨深く思った。

 開け放した砦の門を、真っ直ぐに牡牛が通る。

 そこへ子供らが、籠いっぱいの花びらをふわりと降らせた。牡牛に触れた色とりどりの花びらはさらりと落ちていき、その毛並みは純白に保たれている。それを見た子供らが嬉しそうにはしゃいだ。

 牡牛の敷いた緑と、子供らの降らせた花びらの上を、獣たちが歩く。いつの間にかその列は随分と増えていた。その面々には珍しいものも見られ、黒獅子や一角獣の姿もあり、野生の疾風鳥も加わっている。

 牡牛が早速、商店の軒先を壊した。それを見た人々は悲鳴どころか歓声をあげる。彼らにとってはむしろ縁起の良いことのようだった。

 この様子なら、ひとまず人々は安全だろうと、ディンクルパロットは胸を撫で下ろした。たっぷりと飲み食いもして、ディンクルパロットは万全である。繋いでおいた疾風鳥に跨ると、牡牛の行進に再び加わり、銀の横笛を構えた。

 きらきらと星の瞬くような音色。その輝かしくなめらかな笛が、人々の歌を先導する。合いの手のように一角獣が高くいななく。ただ変わらないのは牡牛の和声。時折建物が崩壊するが、行進も歌も止まりはしない。それは新たな芽吹きと歓声に覆われる。やがてディンクルパロットの後ろにも人々が続きはじめた。


  見よ! 聖なる牡牛が行く

  聖なる緑の牡牛が行く

  妨げてはならぬ、その歩みを

  歌い委ねよ、その歩みへ

  歩みは光 光は恵み

  再び緑にまみえんことを!


 これこそが祝祭だった。音が、歌が、花びらが、色粉が、街を染め上げていく。喜びと興奮で行進が一体となる。その先頭で牡牛だけがひたすらに白い。


 やがて行進は砦の反対の門を半壊させながら外へ出て、畑を踏み荒らした。人々は流石に行進を離れ、砦のそばでそれを見守る。まだ種だった南瓜や青菜がぶわりと育ち、折れた麦がより丈夫に蘇る。それにまた歓声が上がる。

 そうしてそのまま、この街を離れることになった。ディンクルパロットは笛を懐にしまい、街を振り返る。人々が手を降るのに応えて、ディンクルパロットはとんがり帽子を大きく振った。この街の祭りが長く続くことを願いながら。



 牡牛の行進は続く。

 いくつかの集落を通り過ぎ、その度にディンクルパロットは仕事をこなした。今のところ、なんとか怪我人だけは出さずに済んでいる。しかし建物の被害はどうにもならず、国庫のことを考えると大臣には八つ当たりされそうだと、ディンクルパロットは面倒な気持ちになった。


「その分今年の収穫量は上がるはずだし、私に当たらないでほしいよなぁ。君もそう思わないかい」


 ディンクルパロットは疾風鳥にぼやいた。そんな話を聞いているのかいないのか、疾風鳥はグワグワと鳴いた。


 やがて牡牛は、とある森のそばを通り抜けていった。

 それはこんもりとした緑に覆われていたが、よく見れば古い家の壁や朽ちた扉がその下に隠れている。蔦が巻き付き、木の幹が貫いて、そこに人の気配は無い。

 ここはかつて、牡牛を村だった。まだ巡楽師という役職が無かった頃のこと、怯えた人々は未知なる牡牛を追い返そうとした。簡素な衝立や防壁は牡牛にとってはなんの障害でも無かったが、機嫌を損ねる効果はあったのか、突然牡牛は歩みを止めて、その場に眠ってしまったらしい。するとたちまち辺りには木々が生え、蔓が伸び、村は丸ごと森になってしまったのだ。

 その話こそが、歌に“妨げてはならぬ”という言葉が入った理由であり、牡牛についてこの国に残る最古の記録だった。

 ディンクルパロットはその森へそっと祈りを捧げて、再び牡牛の後に続いた。



 ディンクルパロットが牡牛の後を追い始めて、半月ほどが経った。

 牡牛は荒れ果てた山にやってきた。少し前の嵐のせいか中腹から一部が崩れ、山肌が露わになっている。牡牛の足跡から草花が生えようとも、禿頭の慰めにしかならない。ゴロゴロと岩の転がる地面を前にして他の動物たちは散り散りに去っていき、牡牛の後ろにはディンクルパロットを乗せた疾風鳥だけがついていた。その爪は岩がちな地面もしっかりと掴み、崩れた斜面をものともしない。

 牡牛は変わらぬ足取りで、剥がれた山肌の先まで行くと、遂にぴたりと足を止めた。そこには涸れかけた泉があるだけだった。牡牛はそのそばへゆっくりと足を折り、前足の中へ顔を埋めた。

 それでようやく、牡牛の発する和声が止んだ。


 しばしの静寂。


 ディンクルパロットは耳を澄ました。今度は静か過ぎる。これは何かが起きる予兆。

 とその時、目の前の泉から水がどっと溢れだした。慌てて疾風鳥で上へと駆け上がる。

 そこからはあまりにも一瞬だった。眠る牡牛のそばから麓へ向かって木の芽が生え、するすると伸び、葉を繁らせる。その根に草が被り、花が咲き、山は緑に覆われる。

 そして何事もなかったかのように、山は静かに聳えていた。牡牛の姿を探したが、もはやディンクルパロットの目には見えない。

 ディンクルパロットはほうっと息を吐いた。


「本当に、牡牛は眠ってしまったようだね」


 あたりを見渡せば眩しいほどの緑が広がり、青々とした香りが満ちていた。そして泉の水音、小鳥の声。新しい森である。この為に牡牛は歩いてきたのか、はたまたこれも気まぐれなのか。ディンクルパロットにはわからない。わかるのはひとまず、彼の仕事が終わったということだけである。

 くわぁ、とディンクルパロットは大きな大きな欠伸をした。つられるように、疾風鳥も嘴をグワァと開く。


「君もお疲れ様。よく頑張ってくれたね。帰る前にまず、一眠りしようか」


「お誂え向きに柔らかい青草も敷いてもらったことだし」と言い終えるより前に、疾風鳥は草の上にくるりと丸くなっていた。ディンクルパロットは小さく笑って、ふかふかとした黒い羽毛を枕にさせてもらい、横になった。

 やがて彼らの寝息が、穏やかな葉擦れの音に溶けていった。それはまるで子守唄のように。

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巡楽師ディンクルパロットの行進 灰崎千尋 @chat_gris

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