ブラックベリーシンドローム

旗尾 鉄

第1話

 大学での講義を終えて帰宅すると、同居している義姉がダイニングキッチンの床にぶっ倒れていた。


香澄かすみ姉ちゃん! どうしたんだよ!?」

「あ、りょうちゃん」


 抱き起こそうと体に触れると、義姉・香澄はじっとりと汗をかいていた。明らかに身体が熱い。


「体調悪くなって、会社、半休もらったの。キッチンの床、冷たくて気持ちいいなーってしてるうちに、寝ちゃった」

「電話くれればすぐ帰ってきたのに」

「だって、良ちゃんの学校の邪魔したらダメだもん」

「とにかくベッド行こう」


 俺は抱えるようにして義姉を部屋へ連れていき、ベッドに寝かせた。

 水を飲ませ、熱を測ると三十八度二分。

 痛いから嫌だとぐずる姉をなだめすかして、コロナ検査キットの綿棒を鼻に突っ込む。……陰性だ。


「薬、買ってくる。食べたいもの、ある?」

こな薬は、やだ」

「錠剤にするから」

「あと、ブラックベリーが食べたい」

「ブラックベリー?」

「うん。ブラックベリーのジャム。駅前のパン屋さんに売ってるやつ」

「わかった」

「ブルーベリーじゃなくて、ブラックベリーのほうだからね」


 義姉は普段は優しくてしっかり者なのだが、体調を崩すと性格が変わる。

 ちょっとわがままになり、極端に甘えんぼうになってしまうのだ。特に俺に対しては、その傾向が強い。


 十五分も経つのにまだ両手で鼻を押さえて、検査痛かったよアピールをする姉ちゃんを横目に、俺は買い物に出かけた。






 俺と香澄姉ちゃんは、三歳違いだ。

 俺の親父と姉ちゃんの母親、知子さんが再婚したことで、俺たちは義理の姉弟に、知子さんは俺の義母になった。俺が小学校三年生のときだ。


 その後、俺が中学一年のとき、親父が急病で死んだ。

 俺は微妙な立場になった。養子の話もあった。

 でも知子さんが俺のことを、うちの子だから絶対どこへもやらないと言ってくれ、当時いろいろあった周囲からの雑音を抑え込んでくれたのだ。


 俺は義母さんにも、義姉ちゃんにも大いに感謝していて、いつか必ず恩返しがしたいとひそかに思っているのである。






 ドラッグストアで錠剤タイプの風邪薬と解熱剤を、駅前のパン屋でブラックベリージャムを買った俺は、急いで自転車を走らせた。


「ただいま。ジャム買ってきたよ。入っていい?」

「いいよ」


 ドアを開けると、姉ちゃんは布団の中で、もぞもぞと動いていた。

 ゆかには、さっきまで着ていたグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。

 横着おうちゃくをして、寝たまま着替えをしているところらしい。


「着替え中なら、まだだめって言ってよ」

「いいよ。もう終わったもん」


 そう言うと、布団の中から丸めたストッキングをつまみ出して、床に放り投げた。


「ジャム、これでいいの?」


 上品なイラストが描かれたブラックベリージャムの瓶を見せると、姉ちゃんは目を輝かせた。


「そう、それ。ありがとう。すぐ食べたい」

「トースト焼いてくるから、待ってて」

「トーストはいらない。ジャムだけ舐める」


 この状態になると、姉ちゃんは子供と同じになる。逆らっても無駄な抵抗だ。しょうがないので、キッチンからスプーンを持ってくる。


「はいどうぞ」


 ジャムのふたを開け、スプーンを渡そうとすると、姉ちゃんは口を開けた。


「あーん」

「えー、そこまでやるの?」

「お姉ちゃん病気だもん。あーん」

「しょうがないなあ」


 スプーンでジャムをすくい、舌に載せてやる。

 ぱくっとスプーンを咥え、口をもぐもぐさせると、姉ちゃんは満面の笑みを浮かべた。


「えへへへ。おいしー。あーん」

「はいはい」


 二口めを食べたところで、姉ちゃんは言った。


「お姉ちゃん、病気かも」


「ただの風邪でしょ」


「そうじゃなくて、ブラックベリーのこと。子供の頃から、風邪ひくとなにか食べたくてたまらなかったんだ。でもそれがなんなのか、わからなくて。ブルーベリー味のヨーグルトとか食べてたけど、近いけどちょっと違うなっていつも思ってたの」


「そういえば食べてたね」


「大学でこっち来て、ブラックベリーを初めて食べたとき、わかったのよ。食べたかったのはこれだったんだって。だからさ、病気になるとブラックベリーが食べたくなる、ブラックベリーシンドロームとか、なんかそういう病気なのかも」


「そんな病気、聞いたことないよ」


 俺は三口めのジャムをすくった。

 食べさせようと視線を向けると、姉ちゃんはあーんの口をしたまま眠っていた。


 ジャムを瓶に戻して、俺は姉ちゃんの寝顔を眺めた。

 熱で紅潮しているけど、子供の頃から憧れの、大好きな姉ちゃんの顔だった。


 姉じゃなかったら、とっくの昔に告白してた。

 諦めて心の整理つけるの、ものすごくつらかったんだぞ。

 彼女いないのって、あなたに何度も訊かれたけどさ。

 いるわけないじゃないか。あなたがいるんだから。

 あなたが喜ぶなら、ブラックベリージャムなんて何本でも食べさせてやるよ。


 ブラックベリー。甘酸っぱい味。

 食べたいあなたと、食べさせたい俺。


 症状は違えど、ブラックベリーシンドロームは伝染するのかもしれない。

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ブラックベリーシンドローム 旗尾 鉄 @hatao_iron

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