土用の丑の日
増田朋美
土用の丑の日
暑い日であったが、蘭の家に一枚の手紙が届いた。誰だろうと思ったら、蘭が小学生の頃、子ども会で仲が良かった、佐野千秋さんという男性からだった。手紙は、郵便配達員が暑いせいで乱暴においていったらしく、郵便ポストから外れて、地面の上においてあったのを、杉ちゃんが見つけたことで発見した。杉ちゃんになんて書いてあるのか読んでみろと言われて、蘭は、封を切って、手紙を出して読んでみると、こんなことが書いてあった。
「伊能蘭さんへ。ずいぶん暑い日が続いているけれど、お元気でしょうか。ずいぶんあってないけれど、きっと君のことだから毎日を一生懸命やっていることでしょう。久しぶりに、子ども会のメンバーで集まって話をする会を企画しました。今のところ、僕と、橋口みどりさん、小林真子さんの三人が集まっています。蘭さんも一緒に来ませんか?よろしければ、7月24日、富士駅へ来てください。みんなで、10時19分の熱海行に乗って、三嶋大社でも行って、その後お茶屋さんでも行って、お茶でもしようかなと考えています。参加していただけるのなら、こちらのラインに送ってね。それでは、返事を楽しみに待っております。それでは、蘭さんもお元気で。敬白、佐野千秋。」
読み終わって蘭は大きなため息をついた。
「何でため息をつくんだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「だって、旅行に行こうって言われても、電車だって駅員に手伝ってもらわないと、乗れないんだぞ。それでは、みんなに迷惑かかるでしょ。」
と、蘭は言った。
「そもそも、何で僕が呼ばれなければならないんだろう。他にも子ども会のメンバーはいるし。それに、橋口みどりさんや、小林真子さんなんて、30年以上あってないんだよ。顔も覚えてくれてるかな?まあ、佐野千秋さんは、一度、音楽学校の演奏会でお会いしたことあるからなんとなくわかるんだけど。」
「そういうことなら蘭が呼ばれたのは人数調整のためでしょう。奇数だとなにかしら都合が悪いから。だからじゃないの?」
杉ちゃんは単純な答えを出した。
「そういう単純な答えだったら良いけれど、これはなにか魂胆があるような気がしてならないよ。だって、橋口さんや、小林さんは、何をしているのかもわからないんだよ。」
「じゃあ、SNSかなんかで調べてみたら?それなら引っかかるかもしれない。」
蘭の話に杉ちゃんは答えた。
「そうだけど、人の経歴を勝手に探すのなんて、やって良いわけ無いでしょうが。なにか裏がある気がしてならないなあ。僕が呼ばれるなんて。」
蘭はまだそう言っているが、
「少なくともさ、その佐野千秋さんと言う人は、まともに生きているわけでしょ。だったら、その誘いに応じて言ってみればいいじゃないか。きっと、悪気は無いと思うよ。単に人数調整のためだよ。そう思って割り切って行ってきな。」
杉ちゃんに言われて、蘭は、そうだねえとだけ言って、とりあえず、3日後の7月24日、蘭は富士駅へタクシーに乗って行ってみることにした。
蘭がとりあえず富士駅の切符売り場の近くに車椅子で行ってみると、二人の女性が、そこに立っていた。一人は絽のきものを着て、もうひとりは、Tシャツとジーンズというカジュアルな格好をしている。
「こんにちは。蘭ちゃんお久しぶり。あたしを覚えてる?」
ジーンズの女性に声をかけられて蘭はえ、えーとといいかけると、
「小林真子ですよ。ほら、あのチアリーダー部の小林真子です。」
と彼女は答えた。続いて、着物の女性がすぐに、
「あたしは、茶道部の、橋口みどりです。」
と蘭に軽く頭を下げる。
「ああ、そうですか。それで今でも着物を着てらっしゃるんですね。着物は女性には似合いますよね。夏でも意外に涼しいですし。」
蘭がそう言うと、
「遅くなってごめんなさい。皆さん全員いらしてくれてありがとうございます。」
といいながら、佐野千秋さんがやってきた。
「今、車椅子でも乗り降りできるように駅員さんにお願いしました。ちゃんと乗らせてくれるそうです。」
にこやかに笑ってそういう佐野さんは、なんだか白髪が混じっていて、他の人の中で一番老けているような気がした。
「佐野くん老けたわね。いくつになった?」
小林真子さんが、にこやかに言うと、
「みんなと同じだよ。だって同じ子供会でメンバーだから。」
佐野千秋さんはにこやかに答えた。
「じゃあ、もうすぐ電車が来るわ。早く乗せてもらいましょ。」
橋口さんがそう言ったので、蘭たちは、急いで三島駅までの切符を買い、改札口を通って、東海道線のホームへ向かった。小林真子さんは、スイカを持っていたので、切符は買わなかったが、他のメンバーは必ず切符を買っていた。富士駅はすべてのホームにエレベーターが設けられているので、車椅子の人間でも電車に乗ることができる。ホームに行くと駅員が車椅子わたり坂を用意してくれて待っていてくれた。暫く待つと、電車がやってきたので、蘭たちは、駅員に手伝ってもらいながら、電車に乗り込んだ。
「それにしても、橋口さんや、小林さんは何で、佐野さんと集まろうと思ったんですか?なにか集まるきっかけがあったとか?」
蘭は、橋口さんに聞いた。
「ええ。あのね、佐野千秋さんが、この近くで演奏会を開いたときにね、そこで、小林さんとばったり会ったのよ。それで、佐野千秋さんとお話をして、なんか一緒に出かけたいねっていう話になって。それで、お願いしたのよ。」
「ああ、そうなんですか。それで僕が呼ばれたのはやっぱり人数調整のためですか?奇数だと、電車の座席とか、何かしら都合が悪いからそれで呼ばれたとか?」
と、蘭は聞いてみた。
「まあ、そんな事言って。招待されたんだから、もうちょっと喜んでくれないの蘭ちゃん。だから、いつまで経っても、おとなになれないのねえ。」
小林真子さんが、笑いながら言った。
「招待された?」
蘭がそう聞き返すと、
「ええ。本当はもうひとり招待したいって佐野千秋さんが言ってたわよ。だけど、丁重に断られたって。だから人数調整のためってことは、無いわよ。そこはちゃんと理解してよね。」
橋口さんはそういった。
「もう一人招待したい?」
蘭が言い返すと、
「ええ。そう言ってましたよ。だから合計すれば五人になるわけでしょ。そうなれば人数調整のためじゃないって。よくわかるじゃないの蘭ちゃん。だけど、佐野千秋さんはその人物は誰なのか教えてくれないんですよね。」
と、橋口みどりさんは答えた。おしゃべりな女性に比べて、男性は黙っているものだ。佐野千秋さんは、電車の外を眺めながらそっと微笑んでいた。
「間もなく、三島、三島駅に到着いたします。お降りのお客様はお支度をお願いいたします。」
車内アナウンスが聞こえてきた。
「ああ、ここで降りるのか。もう支度しなくちゃ。」
と女性たちは、カバンを取って降りる支度を始めた。数分で、電車は三島駅に止まった。駅員が待っていてくれて、車椅子わたり坂を用意してくれて、蘭はすぐに電車を降りることができた。そして、駅員にエレベーターまで連れて行ってもらい、ホームから降りて、改札口に移動した。三島駅の改札口は、車椅子の人のために、改札機の間隔を広くしてくれる様になっているので、蘭はそこから出ることができた。駅員に丁寧にお礼を言って、蘭たちは、三嶋大社に向かって歩いていった。蘭の車椅子は、みんなでかわりばんこに押してくれた。
三島大社はたくさんの人がいた。屋台もたくさん出ている。女性たちは、家族へのお土産だと言って屋台で食べ物を買っていった。全員で本殿へ向かい、本殿の賽銭箱に賽銭を投入して、ちゃんと二礼二拍手一礼して、お参りを済ませた。せっかくだから写真を撮ってもらおうということになり、近くを通りかかった観光客にお願いして、本殿の前で一枚写真を撮ってもらった。観光客は、四人でいつまでも仲良くされていていいですねと、にこやかに笑っていた。
「それでは、駅前の鰻屋さんでお食事しようか。えーと、駅の前に、ホテルがあるんだけど、そこの二階にうなぎ屋があるんだ。そこへよっていこう。」
と、佐野千秋さんに言われて、蘭は了解した。又みんなでかわりばんこに車椅子を押してもらって、蘭は駅前のホテルにあるうなぎ料理店に向かう。そこもちゃんとエレベーターがあって、しっかり蘭を乗せてくれた。レストランだって、ちゃんと車椅子でも食べられるように配慮してくれてある。そういえば今日は土用の丑の日だったと、皆思い出し、うな重の松を四枚注文して、みんなでうな重を食べた。やはり夏場はうなぎに限る。本当にうなぎは国民的人気食品である。みんな美味しい美味しいと言って、うな重を食べていた。その中で、学校の思い出話とか、子ども会で楽しくやったこととか、そういうことを、楽しく話した。そして現在の話にもなる。今はみんなおじさんおばさんになり、小林真子さんは母親になって、子どもが進路が決まらなくて困っていると話した。一方の橋口みどりさんは、もう46歳になるのに、結婚することができないので、良縁に恵まれなくて困っていると話した。そして佐野千秋さんは、一応オーボエ演奏家としてレッスンなどして生計を立てているが、なんだか一人ぼっちで寂しいなと話した。蘭は、三人の話を聞いてそれぞれ3人共別の道を歩いているけれど、それぞれ悩んだり、困ったりしながら、生きているんだなという気持ちになった。この人たちに、水穂さんの話をしたらどうなるだろう。
一方その頃、製鉄所では。
せっかくの土用の丑の日なので、由紀子は、うな重を特上で注文した。なぜか特上にせずにはいられなかった。配達員が、うな重を持ってきてくれて、由紀子は、それを受け取って、ちゃんと代金を払い、重箱を、水穂さんのいる四畳半へ持っていった。
「さあ水穂さん、今日は土用の丑の日よ。土用の丑の日といえばうなぎを食べるのよ。ほら、食べよう。」
水穂さんはよろよろと布団の上におきた。由紀子は、うな重をサイドテーブルの上に乗せて、割り箸を割った。そして重箱の蓋を開け、うなぎを箸でとり、水穂さんのところに運んで行った。水穂さんはそれを受け取って、口へ持っていって、食べようとしてくれたのであるが、やはり咳き込んで吐き出してしまう。うなぎは、口へ持っていかれるのではなくて、布団に落ちてしまった。水穂さんが咳き込むと同時に、朱肉のような赤い液体が漏れてきた。由紀子は、うなぎを食べさせるよりも、水穂さんが咳き込むのをやめさせる方をなんとかしなければならなかった。それは本当に辛くてもどかしかった。急いで水穂さんの背中を擦って、吐き出しやすくしてやるしか由紀子にはできないのだった。とても、もう一切れ食べろなんて言えるような状態ではなかった。
「ただいまあ。暑いねえ。なんかいいにおいするなあ。ああ、そうか、今日はうなぎの日だったねえって、水穂さんにうなぎなんて食べさせちゃだめだろう。そんな事するんだったら僕が食べちゃうよ。いただきます!」
そんな声といっしょに杉ちゃんが入ってきて、由紀子から箸を取って、残りのうなぎを食べてしまった。由紀子は、それは水穂さんにと言おうとしたが、そんなもの食わしても無駄だぜと杉ちゃんは言った。
「ああ美味かった。やっぱり夏場はうなぎに限るねえ。いいもんごちそうになったぜ。ありがとう。」
杉ちゃんは、そう言って口元をタオルで拭いた。それと同時に水穂さんが激しく咳き込んだ。口元から、真っ赤な液体が流れてきたので、由紀子は急いで、水穂さんに、枕元の吸飲みの中身を飲ませた。
「ほら見ろ。こうなっちまう。」
杉ちゃんはそういった。
「だから水穂さんにうなぎを食べさせちゃだめなんだよ。」
「そうね。あたし、なにか水穂さんに体力つけてもらいたかったんだけど、それもだめだったのね。やっぱり水穂さんは、うなぎは食べれないのか。」
由紀子は、なんてことをやってしまったんだろうと思いながら、そういったのであった。
「まあ、無理なものは無理だから、代理でなんか食べさせよう。とりあえず当たらない食品で、スタミナある食品探すんだ。ほら速く。」
杉ちゃんに言われて由紀子は、小さくうなづいたが、それと同時に薬がきいて咳き込むのが止まってくれた水穂さんが、
「ご迷惑おかけしてすみません。僕にはうなぎなんて逆立ちしても食べれませんよ。」
と細い声で言ったため、それが本当に切ないというか、辛かった。由紀子は、水穂さんを布団に寝かせてやり、掛ふとんをかけてやりながら、思わず涙が出てしまった。
「由紀子さんが泣いちゃだめでしょう。」
と、杉ちゃんに言われて、由紀子はそうですねと考え直して、水穂さんが汚してしまった畳を雑巾で拭き始めた。
その頃蘭は、鰻屋さんで、うなぎを食べていたが、なんだか申し訳ないというか、そんな気持ちでうなぎを食べていた。こんな高級な食材、障害者である自分が食べてもいいのかなという気持ちである。
「ねえ、佐野ちゃん。招待したかったもう一人って誰なの?」
小林真子さんが、佐野千秋さんに聞いた。
「いやあね。」
と、佐野千秋さんは答える。
「右城くん、今は磯野くんだけどね、彼にも来てもらいたかったんだけど、でも、なんか体が思わしくないって、徹底的に断られてしまった。一度、共演をお願いしようと思ってたんだけどね。それも断られたよ。」
「あそう?じゃあ、みんな集まったとき、ここで頼んじゃえばいいじゃない。」
と、橋口さんが言った。
「今は体が思わしくないって言っても、こうして定期的に集まれるんだったら、彼も一緒に食事してもらって、それでここでお願いしてさ。そうすれば、右城くんも、納得してくれると思うけど?」
うなぎを食べながら、小林真子さんが言った。
「そうなんだろうね。だけど、手紙をもらったとき、すごい丁寧な文体で、もう二度と来られないからって、文面には書いてあったよ。一体どういうことなんだろうかと思ったけど、なんだろう。彼は、僕らのことを忘れたいつもりなのかな?僕たちは決して彼のことを憎んでるわけでも無いし、ただ、仲間として、一緒に迎えたいだけなんだけどなあ。」
佐野千秋さんは、感慨深く言った。
「そうなんだね。」
思わず蘭はそう言ってしまう。
「それがもっと早かったら、水穂もここへ来てくれるようになってくれるのではないかなと思うんだけどね。」
「あら、そういう事をいうと、蘭ちゃんなにか知ってるの?」
不意に、橋口さんがそういった。
「まあもちろん、ああいう仕事の人はなかなか難しいって言うかもしれないけどさあ。あたしとしてみれば、一緒に話したり、ピアノのことも聞いてみたいかなあ。一応、うちの子も、高校までピアノ習ってたから。」
蘭は、この人たちに水穂さんのことを話してもいいかどうか迷ってしまった。どうすればいいのだろう?水穂さんが、もう体の動けない状態で有ることをどうして言えるだろう?この人たちは、確かに、それなりに苦労はしているかもしれないけれど、水穂さんのしてきたような苦労は体験していないはずだ。それに、同和問題のことだって果たしてわかってくれるだろうか?どう見ても、答えはノーであった。
「そういえば、右城くんって、すごい上手だったもんね。あたしからしてみれば雲の上の人だったけど、でも、よく覚えているわよ。きれいな人だったし、人気もあったし。」
と、小林真子さんが言った。
「ねえ蘭ちゃん、右城くんのことなにか知ってるんだったら、教えてくれたっていいじゃない。あたしたちから見たら、憧れの存在だったんだし。」
「そうですねえ。」
と、蘭はそう言ってしまう。
「僕も彼のことは、本当にすごいなとしか見ていなかったので、それに、あんな優秀な人の元へは近づけませんよ。だから僕もあんまり詳しく走りませんよ。」
それが蘭の出した答えだった。
きっと、彼女たちに同和問題のことを話しても、学校で習った知識なんて、ほとんど覚えていないだろうし、理解してもらうこともできないだろうなと思って、諦めたのだ。佐野千秋さんが、蘭をそっと見ていた。
「そうなんだねえ。蘭さんもドイツへ留学したりしてるくらいだから、多少知ってることもあるんじゃないかなと思ったんですが、まあ、そういうことですか。世界ってやっぱり広いなあ。」
佐野千秋さんは、蘭にそういった。
「ええ、僕も水穂には、かないませんよ。あんなにすごいことができる人間はそうはいません。そういうわけだから、僕らにはわからない悩みだって色々あるんじゃないですか。それならそっとしておいてやりたいと思うんですよね。」
蘭は、そう自分の本音を話した。きっと自分は駅員に手伝ってもらうことはできたけど、水穂さんであれば、それはできないだろうなと思いながら。
由紀子と杉ちゃんが、水穂さんの吐いたものを片付けていると、水穂さんが横になったまま咳き込んだので、由紀子はびっくりしてしまった。急いで、水穂さんの背中をなでてやった。水穂さんが、ごめんなさいだけ言ったのが、由紀子は辛かった。杉ちゃんにもういい加減にしろと言われるのならうなぎを食べてもらいたいが、それもできないんだと由紀子は思い直した。
外は夕暮れであった。土曜の丑の日はゆっくりと過ぎていく。昼が来れば夜が来る。夜が来れば昼が来る。そういう動きで時間は過ぎていく。
やがて、なんだかギラギラ光りすぎて疲れてしまったような太陽が、西の山の方へ沈んでいった。又、明日になれば、思いっきり光ってくれるのであろうか。夏はそんな季節である。なんだか疲れすぎてしまうけれど、時間というものは必ず過ぎていく。
そんなことを考えた由紀子でも、水穂さんが着ている銘仙の着物を眺めると、同和問題というのは時間では解決できないんだろうなと思った。そうなるように、日本の歴史が、そうしてきたからだ。それは、もうどうしようもないことであった。
土用の丑の日 増田朋美 @masubuchi4996
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