藍町高等学校一年四組の荒井カコについて

F.ニコラス

藍町高等学校一年四組の荒井カコについて

 藍町高等学校には荒井カコという女子生徒がいる。


 私と同じ、一年四組に所属する子だ。

 何なら部活も同じ、将棋部。


 けれども彼女は基本的に部活には来ない。

 いわゆる幽霊部員である。


 ただでさえ部員が少ないのに……と言いたくなるところだが、よくよく考えるとむしろ幽霊部員でいてくれて、部とほとんど無関係でいてくれて助かっている。


 なぜなら彼女は校内一と言っても過言ではないほどの問題児だからだ。


 忘れもしない、あれは入学式の日のことだった。


 式が終わり教室に移動した私たちは、行儀よく座って担任の先生の話を聞いていた。

 私は後ろから二列目の席で、荒井カコは私の左前にして窓際の席。

 つやつやとした綺麗な黒髪と、微笑を湛えた表情をよく覚えている。


「では明日から高校生活が本格的に……」


 担任がそんな感じのことを言って話を締めくくろうとした直後。


 荒井カコはおもむろに立ち上がった。


 一瞬、教室内が水を打ったように静まり返る。

 担任が勝手な行動をたしなめようと口を開くが、そこから声が発されるより早く――荒井カコは、先ほどまで座っていた椅子を持ち、振り上げ、窓に叩き付けた。


 恐ろしくためらいのない、突拍子もない行動に私たちは絶句した。

 あまりのことに悲鳴すら上がらない。


 そして彼女は破壊音の余韻が残る中、何事も無かったかのように椅子を元に戻して着席した。


 これがのちに「暴女あばれおんな」と呼ばれることになる、一年四組荒井カコの最初の暴虐であった。


 その後、当然ながら職員室へと連行されていった彼女だったが、翌日には平然と教室にいた。

 自分が割った窓の横で、物静かに本を読んでいたのだ。


 昨日のことは何か悪い夢だったのではないかと思ってしまうほど、読書をする荒井カコは清純でおしとやかに見えた。


 が、それからも彼女は度々問題を起こし続けた。

 校内外問わない不良相手の暴力沙汰、突発的な器物破損、無断遅刻に無断欠席。

 どこで何をしてきたのか、切り傷まみれで登校してきたこともあった。


 私含めクラスメイトたちは彼女から距離をとり、彼女も自らクラスメイトに近付くことはほぼ無く、私たちと彼女の間に深い溝ができるまでにそう時間はかからなかった。


 だから荒井カコが将棋部の戸を叩いた時、私は猛烈に胃の痛む思いがした。

 初夏の夕陽を背に入部届を差し出す彼女は、もはやそういう妖怪にすら見えた。


 「妖怪、暴女。夕暮れ時に現れ入部を申し入れる。断ると殺される」……なんて冗談を考えられるのも、今だからこそ。

 当時は本当に生きた心地がしなかった。


「こんにちは。入部希望です」


「は、はい……え……?」


「どうぞ、入部届です」


「こ、ここ将棋部ですけど……」


「知っています」


「入るんですか、将棋部に……?」


「入ります」


 たぶんこんな会話をしたと思う。

 荒井カコは終始笑顔で、しかし私の目をじっと見て来るものだから、もうそれはそれは恐ろしかった。


 言ってしまおう、彼女は美人だ。


 少し色っぽく下がった目尻も、長い睫毛も、滑らかな肌も、薄い唇も、バレッタで留められた長い黒髪も、細い指も、長いスカートから覗く足も、全てが美しいと言って良かった。

 そして美しいからこそ、ゾッとするものがあった。


 私はガタガタ震えながら、不在の先輩たちに代わって彼女から入部届を受け取った。

 何人もの人を殴り、物を壊してきた彼女の手が持っていた入部届には、皺ひとつ無かった。


 けれどもそれ以降、荒井カコは将棋部室を一度も訪れていない。

 本当に、全く。

 文字通り顔を見せることすらない。


 先に述べた通り、実質的には「問題児の居る部」にならずに済んでいるので私も先輩たちも安堵しているが、不可解なことである。

 いや、今さら彼女に道理を求めることはナンセンスだが。



***



 夏が終わり、短い秋が過ぎて、冬が訪れていくらか経った。


 冬休み明けの一日目、始業式の朝。

 私はまた学校が始まる憂鬱さと、友人や先輩と会える嬉しさを一緒に抱えて通学路を歩いていた。


 私の家は少々変わった位置にあり、友人はおろか学校のほとんどの生徒と通学路が被らない。

 徒歩二十分のうち、最後の五分に差し掛からないと誰かと顔を合わせることはまず無いのだ。


 だが今日は違った。


 家を出てほんの数分、丘を走る砂利道の最中で、私は前方に佇む人影を見つけた。

 見慣れた黒色のセーラー服……うちの高校の、女子生徒だ。


 顔は見えないけれど、くるぶし近くまで丈のあるスカートで、それが誰だかすぐにわかった。


「荒井、さん……?」


 私は恐る恐る近付いて声をかける。

 彼女はバレッタで留めた長い髪を揺らし、振り向いた。


「どうも、おはようございます」


 その顔を見て、私はぎょっとする。

 荒れのひとつも無いと評判の肌に、赤黒い血がべっとりと付着していた。


「えっと……これから学校?」


 平静を保とうとして、ばかばかしい質問が転がり出る。


 ちらりと改めて彼女の顔を見た。

 血の出所は額と右頬。

 乱雑に拭った跡もある。


「はい。あなたと同じです」


 私の心臓はドクドク言っているのに、荒井カコはいつも通りの笑顔で答えた。

 なんだか少しだけ、腹が立った。


 しかしだからと言って、どうすることもできない。

 私が観念して歩き始めると、彼女もまた歩き始めた。


 ついて来ないで! と叫びたくなる。

 叫べるわけがないけれど。


「その怪我、また、喧嘩とか」


 沈黙が続くのが恐ろしくて、私は口を開く。

 こうして尋ねるのも怖いが、何が起こるかわからないままよりかは、弱々しくとも主導権を握った方が幾分かマシだった。


 そう、この調子だ。

 こうやって当たり障りの無い会話で、学校まで身を守って行こう。


「はい」


 私の問いに、荒井カコは素直に頷く。


 後ろめたさも、己を誇示する様子も無い。

 普通に、普通の返事だ。


 私の腹の中でまた、むくりと苛立ちが鎌首をもたげた。


「あ、荒井さん」


「はい」


 また何でもないような声が返って来る。

 彼女の瞳が私を見つめている。

 何の感慨も無く、荒井カコは私の心を覗き込む。


「良くないよ」


 気付けば私はそう口走っていた。


「良くない、とは」


 すぐさま発言を後悔するが、もう遅い。


 返事が来てしまった。

 当たり障りの無くない、会話になってしまった。


「け、喧嘩とか……物壊したりとか……」


 私は半ばヤケになり、それでも勢いの足りないままで、言葉を紡ぐ。


「せっかくの高校生活だよ、もっと……平和にやろうよ」


 私は猛獣小屋に入って、ライオンに石を投げた時のような心地がした。


 荒井カコという人間は、突然暴挙に走る。

 入学式のあの日のように、何の前触れも無く暴力を手にする。

 言わば最悪の気分屋だ。


 そして私は今、その気分屋の暴女に石を投げたのだ。


 こっくり、と荒井カコは首を傾げる。

 少しだけ目を細め、ゆるりと口を開いた。


「私の日々の行いが平和でないと」


「そ、そうでしょ」


「はい、そうかもしれませんね」


 彼女は首の角度を戻し、今度は頷く。

 その様子があまりに人畜無害な、話の通じる人間みたいで、私の中に安堵のような油断のようなものが生まれた。


「平和に過ごしたくないの」


「こだわりはありません」


 なるほど、と私は留飲を下げる。

 下げた気になった。


 全く共感できない返答だが、理解はできたような感じがした。

 そう思えるほど、彼女の受け答えは素直だった。


 するとそこで、ふ、と荒井カコはおもむろに後ろを向いた。

 そしてそのまま、黙り込んだ。


 まるで……見えない何かを見ているかのように。


「どうしたの?」


 私は怪訝に思いながらも、先ほどよりも気軽に尋ねる。

 返答を期待する。


 今度もまた、彼女のことを理解できると信じるまでもなく信じて。


 荒井カコは私の方に向き直り、変わらぬ笑顔で口を開いた。


「急用ができました。始業式は欠席します」


 は? と、思わず声が出そうになる。


 いったい何を言っているのだろう。

 全くもって意味不明だ。


 急用ができた?

 欠席する?

 ついさっきまで、普通に登校しようとしていたのに?

 どうして?

 なぜ?


 風雨の吹き荒れるがごとく、私の頭の中は次々と浮かぶ疑問で埋め尽くされる。


 身近に感じかけていた荒井カコという人間が、あっという間に遥か遠くへと離れて行ったような気がした。

 同時に、また腹の底でふつふつと沸き立つものがあった。


 耐えられない。


 もう、無理だった。


「……わかんないよ、荒井さん」


 私は言う。


 荒井カコは私を見ていた。


「なんでスカートがそんなに長いの?」


 風が吹いて、彼女の長い長いスカートが揺れる。


 校則では、スカートの丈はちょうど膝が隠れるくらいと決められているはずなのに。


「なんで耳飾りを付けてるの?」


 また風が吹いて、彼女の髪が揺れる。

 露出した左耳にはキラキラと光を反射して光るイヤーカフがある。


 校則では過剰なアクセサリーは禁止されているはずなのに。


「なんで将棋部に入ったの?」


 部活動は、別に入らなくたっていい。

 少なくともうちの高校では強制されないし、入ってからやはりやめるという選択肢もある。


 最初から来る気のない場所に属する必要なんて無いのに。


「なんでそんなに、普通じゃないの?」


 せっかく、美人なのに。


 私なんかより見た目も声もきれいなのに。

 その気になれば、学校一の人気者にだってなれるはずなのに。

 友だちに囲まれて、普通に楽しい青春を謳歌できるはずなのに。


「なのになんで……普通の顔してるの」


 胸が苦しかった。

 荒井カコは人間のようで、しかし化け物のようで、でもやっぱり人間のような気がしていた。


 怖い、でもない。

 嫌い、でもない。


 この感覚は――わからない。


 私は荒井カコのことがわからなかった。


 私から踏み出した一歩が彼女に近付くものなのか、遠ざかるものなのかも定かではない。

 真っ暗闇を前にした時の、あの感覚に似ていた。


 私は彼女にどうしてほしいかもわからぬまま、返される言葉を待つ。

 あるいは行動を。


 ただ……荒井カコに多少なりとも動揺してほしいという淡い希望は、たぶんあったと思う。


 しかし彼女はひとつも表情を変えずに、言った。


「さあ」


「さあって……」


「私はその問いの答えに興味がありません」


 微笑をたたえた荒井カコは、恐ろしく素直な視線を私に向ける。

 何を見ているのだろうか。


 続く言葉に詰まり、けれどもここで会話を終わらせたくはなく、私は辛うじて口を開いた。


「将棋部、来なよ。初心者でもちゃんとルール教えるし……先輩たちもみんな優しいよ」


「ありがとうございます」


 荒井カコは簡素に礼を言って踵を返す。


 どうやら本当に、登校するのをやめるらしい。

 私は恨めしげにその背中を見つめる。


 と、彼女は数歩進んだところでぴたりと立ち止まり、こちらを半身で振り返った。


「私はこれからも学校に通いますよ。卒業まで、籍を置き続けるつもりです」


 ひゅう、とまた風が吹く。荒井カコの髪が生き物のように揺れた。


「それでは。今日のところはさようなら、――さん」


 今度こそ、彼女は去って行った。

 私はしばらく呆然として、動くことができなかった。


 心臓が妙に高鳴っている。


 やはり私は彼女のことが理解できない。


 でも、けれども。


 ――荒井カコが私の名前を覚えていた。


 その取るに足らないはずの事実が、妙に尾を引いた。



***



 同級生と別れた荒井カコは、自宅へと足を進める。

 澄ました顔で、僅かも感慨を表に出さず。


 そんな彼女の近くを歩く者が居た。


 角を生やした四足歩行の、強いて言うなら牛に似ているが、何ともつかない動物のようなものだ。

 それは神秘的な輝きを伴って、荒井カコの後に続く。


「それで、誰と誰が来ているのですか」


 荒井カコが口を開く。


「放浪者、怪香売り、妖術師の小娘だ」


 四足歩行の何者かは答える。


「なるほど。喧嘩になるわけです」


「全く。他人の家で、はた迷惑な連中だ。おかげで掃除を中断して貴様を呼びに出る羽目になった」


「あなたが仲裁してくれれば、わざわざ私が通学途中に引き返さなくても良かったんですけどね」


「…………」


「構いませんよ。あなたには荷が重いでしょうから」


「ふん。……ところで貴様、先ほどの者との会話は、あれで切り上げてよかったのか」


「あなたが早く帰って来いと言ったんでしょう」


「それはそうだが」


「まあ、言いたいことは言いましたから。それに今はどちらかと言えば、家を守る方が大事ですから。いつぞやのように壊されては敵いません」


「あやつら、あのとき貴様から食らった折檻の痛みがいまだに引かぬと言っているぞ」


「場を収めるために、最適な手段を選んだだけです」


「平和的なのだか、暴力的なのだか、わからぬな」


「好きに判断してください」


 何の気負いも無く、荒井カコと四足歩行の者は言葉を交わす。

 彼女らにとって日常会話の域を全く超えない、平々凡々なやり取りだ。


 しかし、おおよその人間は、彼女らの会話を理解できないだろう。

 荒井カコと四足歩行の者の事情を、何も知らないのだから。


 もしこの場に会話を聞いている者がいたとして、聞き馴染みのない固有名詞や、己の知らない情報を前提として繰り広げられる話のせいで、全く目が滑るような心地がするに違いない。

 それは至って普通のことだ。


 日常とは既知であり、非日常とは未知である。


 その意味で、荒井カコは誰かにとっての非日常かもしれないが、彼女自身にとっては紛れもなく日常なのだ。


「しかし意外であったな、先ほどの小娘……。親族以外で、貴様と積極的に会話をする人間が居たとは」


「彼女は友だちですから」


「……とてもそうは見えなかったが」


「少なくとも私はそう思っています。文句がありますか」


 藍町高等学校一年四組、荒井カコ。


 彼女は今日も、おおよその人間にとっては縁遠い日常を生きている。

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