第8話 ヤマびこ響かずとも
ヤマびこ教科書はヤマなんて教えてくれない。
ヤマが一目瞭然でわかるようになっているわけでも、やまびこのように自分の声が響くよくわからない教科書でもない。
その教科書は先生が持つ教科書とつながっていて、教科書を通して個別で指導をしてくれる。
ただそれだけ。けれどヤマびこ教科書にはやっぱり摩訶不思議な力があったのか、あるいは俺の中での先生との距離感が変わったからか、気づけば物理の成績は大きく向上していた。
――まあ、一年生の期末試験では赤点をたたき出して、夏休みに一週間ほど補修を受けることになったわけだが。
人生、何が起こるかわからない。
例えば数学も物理も化学も嫌いな人間が、何を血迷ったか大学で物理学を学ぶことを選んだように。
手元のタブレット、家庭教師先の生徒の解答用紙に記入する手を止めて、窓の外を見る。
カフェの開けた窓の先、雑踏の中には当然ながら恩師の姿はない。
ただ、俺の心の中に確かに彼女がいる。
目を閉じれば、いくつもの痛みに身もだえしそうになる。
それはいわゆる黒歴史。深く心に刻み込まれてしまった失敗の数々。
そして、俺の成長の証。
「まだまだ失敗して見せるさ」
誰へともなくつぶやいて目を開き、ペンを握りなおす。
――よくできました。
間違えた問題の開放のポイント、別解の提示。
いくつもの言葉を重ねた解答用紙のデータを送信する。
これもまた、ある種、ヤマびこ教科書のようなものなのだろうか。だとすれば自分は彼女の教授方法を踏襲していることになるのではないだろうか。
なんて、それを言い出したらこの世の先生とかいう類の人間はみんな同じになってしまう。
同じになんてさせない。あれは特別だった。彼女は特別だった。
あの不思議な教科書があったから、彼女が教科書の先にいたから、俺は今ここにいる。
俺は胸を張って、失敗を抱えながら今日も進んでいける。
この答案用紙の主も、同じように失敗を受け止められるだろうか?
そんなことを思いながら、自室の片隅、本棚で今やホコリをかぶっているだろう教科書のことを思う。
物理基礎の教科書。出番無くたたずむそれが声を届けてくれることを待つ必要はもうない。
ヤマびこ教科書 雨足怜 @Amaashi
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