第7話 学びのために、それを手に

「……江崎さんとはいとこなんだ。でもそういう関係を学校で持ち出すのは不味くて、とはいえ教師を有効に使うのが生徒ってものでしょ? だからひそかに生徒の間で噂になっていたヤマびこ教科書を見つけだして、勉強を教えてもらうのに使っていたんだ」


 北館四階――四階半。

 屋上に続く扉前の小さなスペースには机と椅子の一式とそこに座る男子生徒。


 加瀬は、入れ替えた俺の教科書をぺらぺらとめくりながら語る。


「ヤマを教えてくれる教科書なんてのは眉唾だったよ。やまびこのように、二つで一組の教科書の間で互いの言葉を運んでくれるだけ。しかも会話可能な距離は短くて、学校内くらいじゃないと使えない。糸電話みたいな教科書で、電話の劣化版でしかなかったんだ……どういう仕組みかは知らないけどね」


 親戚。教師の有効利用。

 おかしな噂が立たないように指導を受けていた彼はつまるところ、教科書が消えた時点ですべてを予想していたらしい。


 こうして、犯人が教科書を手に戻ってくるところまで。


「江崎さんは生徒を先導して教え導くタイプじゃない。淡々と、けれどいざという時に生徒を拾い上げる支え、セーフティーネットみたいな在り方をしてる教師なんだ。だから、突っ張った生徒ほど救われる。心の中にいろんなもんを抱えた、失敗した生徒が相手であるほど言葉が届く。例えば、いじめにあって、先生に守ってもらえなかった生徒とか」

「実感がこもってないか?」


 声音ににじむものを覆い隠すように鼻で笑えば、加瀬は苛立つほどに大仰に肩をすくめてみせた。


「まさか。僕はいじめられないよ。いじめは当人がいじめと思った瞬間に定義される。つまり、やられたらやり返すことを主義としている僕は、いじめっていう一方的な関係にはなりえないんだよ」

「そういうのを突っ張ってるっていうんじゃないか?」

「さてね。少なくとも僕は彼女に救われはしない。けれど確かに救われる生徒もいるってだけの話だよ。……いい教師なんだろうね」


 その言葉を紡ぐ口をふさぐように教科書を返そうとして、けれど加瀬は路傍の石でも見るような目を向けるばかりで一向に手を伸ばしてこない。


「何してるんだよ」

「君が持っておけばいい」

「……何を言ってるんだ」


 ただ、相手のものを返すだけ。

 それなのに気づけば押し付け合いのようになっていて、教科書を中心に押し合いへし合いが展開する。


「僕にはさほど価値はないんだよ。言ったでしょ、それは電話の劣化品なんだって。教師の手持ちの教科書とつながっているだけの物でしかないよ」

「そのつながりで教師を有効に使うためにわざわざどっかから見つけ出してきたんじゃないのかよ」


 それに、価値が無いなんて大嘘だ。この教科書には確かな価値がある。それは乾いた土地に降る慈雨であり、都会の夜空にひっそりと輝く星のように見つけにくいものだ。


 ぐい、と思ったよりもずっと強い力で押し付けられる。

 帰宅部だという話だったはずなのに、バスケ部の俺よりも力があるってどういうことなのか。


 鋭い目。そこには怒りはなく、蔑みはなく、哀れみはなく。

 ただ事実だけを見据える冷静な瞳が俺を映していた。


「君が持っておきなよ。……何しろ僕は、失敗なんてしないし、今後するつもりもないからね」

「俺だって失敗する予定なんてねぇよ」

「物理、不味いんでしょ?」


 ぐ。

 それを言われると言い返しにくい。


 ここ二日ほど全くと言っていいほど勉強に身が入っていなくて、おかげで試験勉強が進んでいない。

 そして、この教科書があれば江崎先生から個別指導が受けられる。授業中には眠くて仕方なかった淡々とした声音で、けれどおそらくはもう二度と眠くはならないだろう彼女に特別に教えてもらえる。


 いや、いつだって学ぶのは俺自身で、彼女は補助、自分は支えでしかないと言い張るのだろうけれど。


 強固な姿勢に折れて見せたように肩をすくめながら教科書を片腕に抱く。


 やけに固く抱え込んだ手は、もう二度と離さないと言いたげで。

 何より、そうあるべきとでもいうように、パズルのピースがはまるような感覚があった。


「さっさと勉強に戻ったら? あと一日、まずは頑張ってみなよ」

「言われなくてもやってやるさ……悪かったな」


 背を向けたまま、言い捨てるようにぼそりと告げて階段を下りる。


「やっぱり突っ張ってるなぁ」


 チッ、いけ好かない奴だ。


 呆れた声音が聞こえてきた気がしたけれどぐっと我慢して、勉強スペースを探しに廊下を歩き出す。


 ――あと一日でどこまで足掻けるか。

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