第6話 教科書は語る
校舎の端。倒れるように壁にもたれかかり、ずりずりと座り込んだ。
にじむ汗をぬぐい、呼吸を整える。
そうして少しばかり気持ちが落ち着けば、腕の中のソレの存在感が増していく。
ありふれた物理基礎の教科書。けれどもうそれが普通ではないことを、俺は嫌というほど知っている。
喋る教科書――ヤマびこ教科書。
ヤマを教えてくれるなんていう噂の大元にして本体。
恐る恐る、どこか救いを求めるような手つきで開けば、当たり前のように声が降る。
天啓のように、神託のように。
『勉強の準備は整いましたか?』
どこか機械的な、感情ののっていない声。静かに響くようでいて、淡々としすぎているからか漠とした不安を抱かずにはいられない、空恐ろしさを孕んだ声音。
「……あんたは、なんだ? なんなんだよ」
胸に蟠るいくつもの想い。
不思議への興味、困惑、お前のせいでこんな状況になっているんだという苛立ち、八つ当たりめいた怒り。
すべてを込めて吐き出したどす黒い言葉に、けれど教科書は感情を揺らがせることなく淡々と答えてくる。
何しろ教科書に心は無いのだから。
『自分は生徒の学習の補助者です。それ以上でもそれ以下でもありません』
「そうかよ」
聞きたい言葉ではなかった。そんなどうでもいいことが聞きたいんじゃなかった。
けれどそれ以上に何を聞いたらいいかわからなくて、ただ遠くから響いてくる野球部の掛け声だけをぼんやりと聞いていた。
さっさと定期試験を終えて部活がしたい、体が動かしたい。そう思いながら。
『質問はありますか? 無ければ昨日説明した内容の復習から入りますが』
「……そうかよ」
静かな声が響く。淡々と、ただし、決してわかりにくくはない言葉の羅列が頭に入ってくる。
壁に背中を預け、ずるずると座り込む。
祈るように首を垂れながら、すがるように両手で教科書をつかんだまま。
校舎の隅。誰も来ない暗がりに迷い込んで、俺はただなすがまま授業を受けていた。
ああ、それはまさしく授業と呼ぶべきものだった。ヤマを教えてくれるなんてものじゃない。授業で学んだことをなぞり、あるいは俺の躓きがわかっているようなタイミングで解説を加えてくる。
最初はただ不思議だった。この教科書は、こいつは、何を考えて喋っているのか、疑問だった。
こいつは言った。自分は生徒の学習の補助者だと。それ以上でもそれ以下でもないと。
学習の補助者。
学習の主体たる生徒を支えるもの。
だからそれは語るのだ。俺に向かって語り続ける。
己の使命を果たすために、ただ淡々と情報を投げてくる。
そこに心は無くて、少なくとも感じられなくて、だからこそ救いだった。
気落ちしている時には、無意味な音が聞きたくなるから。
いつだったか、聞きたくもないニュース番組を垂れ流しながら、毛布にくるまって日がなぼんやりと過ごしていたことを思い出した。
癒えた傷はもう膿むことはなく、ただ、その上についた新しい傷が絶えず存在感を主張していた。
『……学びましょう。進む以外にできることなんてありませんよ』
気づけば口ごもっていた教科書の言葉に顔を上げる。わずかに赤みを帯びた光が差し込む校舎の陰、袋小路で膝を抱える俺は、かみしめていた唇をゆっくりと開いた。
だって、こいつはヤマびこ教科書だから。感動とか怒りとか苦しみとか、そういうのを大声で放り出す先、大自然のようなものだから。山々と同じ、心を持たない会話相手だから。
「こんな苦しむなんて思ってなかったんだよ。ただ、おかしなものを見つけて、気になって、つい魔が差した、それだけなんだよ。すぐに返すつもりだった。交換するつもりだった。そりゃあ、できればバレずに返したいと思ったさ」
返事はない。声は聞こえない。
昨日のように無言を貫く教科書は何も答えず、何も語らず、心を持たぬモノとしてそこにある――当たり前だ。
「……何してるんだろうな、俺」
答えを求めぬ自問自答。吐き出したため息は校舎の端のこごった空気の中に混じっていく。誰にも、その音を届かせることなく――
「経験を積んでいるんですよ」
声が降る。静かで、淡々とした声。女のそれ。
顔を上げれば、万華鏡を覗いたように視界が無数の光の散乱できらめいていた。
にじむ涙を慌ててぬぐえば、はっきりした視界の中、俺を見下ろす影が一つ。
「……江崎、先生?」
物理基礎の教科担任。授業が眠くなるトップクラスの教員。
何を考えているかわからない鉄扉面を張り付けた美人に見下ろされるのはひどく怖かった。
「学校は失敗の場です。生徒は失敗という学びを得るために、経験をするために学校に来ているんです」
勉強なんて塾でも家でも学べる。けれど社会的な失敗が許されるのはここだけだ――淡々と語るその言葉は、けれどいつになく熱いものに思えた。
「……何が言いたいんだよ」
「糧にしなさい、ということです。ヤマを張ろうとか、ヤマを教えてもらおうとか、そんな馬鹿なことを考えるくらいなら一つでも多く失敗してみなさい。赤点でもいいんです。夏休みがつぶれても、それもまた一つの失敗という経験ですから」
「いや、夏休みがつぶれるのは御免なんだが」
何を言ってるんだ、この女は。心の中でツッコミを入れて、ふと、嫌に冷静な自分がいることに気づいた。
鬱々とした心、負のスパイラルは鳴りをひそめていた。
いや、江崎先生という爆撃にすべてを吹き飛ばされていた。
冷静なのに頭は回らない。
ただ、淡々としたその語りがやけに耳なじみがあって、同時に苛立ちも感じるなんて、そんなことをぼんやりと考えていた。
「いくらでも失敗すればいいです。その補助が私たちの仕事ですから」
ひょい、と床に落ちていたものを拾い上げ、手渡してくる。
押し付けられるままに手に取ったそれから、頭上から、声が降る。
「『頑張りなさい。物理基礎の試験まで後二日ですよ』」
顔を上げる。そこには、手に持った教科書で口元を隠すような姿をした江崎先生の姿があった。
手元に教科書。目の前にも。
教科書が分裂したわけではなく、二冊。
何の変哲もない教科書をマイクのように操る先生は、そのままくるりと背を向ける。
大きく揺れる髪。力が抜けた俺の手の中で、教科書のページがぱらぱらと進んでいく。
「……あっ」
気づきを問いかけたい、答え合わせをしたい。
そんな俺の思いを知ってか知らずか、江崎先生は静かに廊下を歩き去っていく。
長く揺れる後ろ髪をつかもうとでもするように伸ばした手には、ヤマびこ教科書が収まったままで、そのページがぱらぱらとめくれていった。
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