第5話 逃避

 当然というか、家で勉強できず、一人でも勉強に手がつかないからこそ友人と一緒にわざわざ学校で試験勉強をしているわけで。

 だから俺一人で勉強できるわけもなかった。


 ――何も考えたくなかったというのが、やる気にならなかった最大の理由ではあるだろうが。


 多分、きっと、おそらく、ヤマびこ教科書なんて物が手元にあったら、こんな俺であっても勉強していたかもしれない。だがまあ、そんなものはただの噂に過ぎなかったわけで、俺の手元にある教科書は喋りもしないし、ヤマを教えてくれることもない。


 そういうわけでスマホを片手にゲームのログインボーナスなんかをもらっているうちに友人が登校してきて、自然と昨日俺が合流しなかったことが話題になる。


 そうして、せっかく取りに戻って持ち帰ったシューズを洗いもしていなかったことを思い出して揶揄われた。

 散々だと思いつつ授業を受け、放課後の試験勉強タイムになる。


 ばらばらの場所に掃除をしに行き、戻ってきて集まり、スタート。担任のせいで西館一階の被服室まで大移動する羽目になるのも、苛立ちに拍車をかける。

 もっとも近い教室にしてくれって言うんだ――毎日三階まで上り下りをするこっちの身にもなって欲しい。


 えっちらおっちら教室に戻れば、部屋の中の冷気はすっかり消えていた。

 普段はズボラなくせに、あのクソ担任はきちんと教室の冷房を切っていったらしい。


 掃除の際に開け離れた窓から、野球部だろう掛け声が聞こえてくる。ご苦労なことだ。

 そのまま補講行きになってしまえ、と心の中で八つ当たりして気分をすっきりさせてみる。


 周囲の教室から人けが無くなったところで窓を閉じて冷房をつける。勉強の為なのだからこれくらい許されてしかるべきだ、なんて心の中で言い訳を重ねながら。


 冷房が効き始めればようやく汗が引いていく。

 とはいえペンは少しも進まない。


 英語と国語それぞれ二教科は比較的まし。いや、古文漢文は怪しい。特に、何で古文なんてものを学ばないといけないのか、理解に苦しむ。日本人にとっては常識だからとか頭がおかしいんだよ、古文を知るのは漫画でだってできるしむしろ漫画の方が内容は頭に入る。脚色があるとかそんなのは知ったことか。


 地理と日本史はまあ許せる。

 クソみたいな単語を暗記していく作業でしかない。


 数学と物理基礎と化学基礎、お前らは滅びてしまえ。俺の人生にお前らなんて必要ないんだよ――四十点無ければ赤点で補講、夏休みの一部がつぶれるわけで、つまりは今必要となってるわけだが。


「……はぁ」


 ノートの上、計算式は途中から進まない。シャーペンでぐりぐりした黒丸だけが無駄に大きくなっていく。

 人生で数学が必要になるのはきっと今だけ。だから今くらいは。


 そう自分に言い聞かせても、頭が数学を学ぶということ自体を拒否しているよう。


 遅々として進まない勉強に嫌気がさして、数学の教科書を閉じて次へと手を伸ばす。


 まったく、授業中にさぼってまともにノートを取らなかったのはどこのどいつだ。おかげで穴の多いノートと教科書を照らし合わせながらやっていかないといけなくて、面倒なことこの上ない。


 授業中にうたたねをしていたのは俺なわけだが。


 なんかもう全部が嫌になって、勢いそのまま手に取った教科書を開く――開いたところで手が止まる。


 なぜならそれは、この場で出すべきではないもので。

 そしてあろうことか、教科書を開いた瞬間に声が聞こえてきたのだから。


『前回の復習から――』


 バタン。


 音のすべてを封じ込めるように本を閉ざす。なるべく強く音を立てたつもりで、けれどふいうちで聞こえてきた声は到底すべてをかき消せるはずもなかった。


「……高峰、今なんか聞こえてこなかったか?」

「何が?」

「いや、女の人の声みたいなのがさぁ……みんなも聞こえただろ」


 同意の声が連なる。


 詳細を求める視線が突き刺さる。すべてを白状しろ、と。


 状況はまるで、犯罪者の断罪。そう思ってしまうのはきっと、俺が盗みという罪を犯し、その罪悪感を今も強く胸に抱いているから。

 そんな惨めでかっこ悪い自分なんて見せたくなくて、だから隠すように教科書を腕に抱き、勢いよく席を立った。

 勢い余って後ろに倒れていった椅子がけたたましい音を響かせる。


 それがますます、自分が無様な姿をさらしているということを俺に突き付けてくる。


「悪い、急用を思い出したから帰るわ」

「え、ちょっと結局今の何だったのさ?」

「……腹の音だ」


 言い捨てるように告げて歩き出せば、背後から「やっぱりお腹の調子が悪いんじゃん」と聞こえてくる。やっぱりってなんだ。ああいや、昨日の帰り、シューズを取りに戻る時に腹痛かと聞かれたんだったか。


 いつまでも引きずってくれるな。


 ――それは腹痛のことについてか、あるいは突然響いた女の声に対するものか。


 探るような視線は廊下に出て歩き出したところで感じられなくなる。いや、友人たちの好奇心に満ちたそれとは別種の視線を感じた。


 廊下には誰もいない。前を横切った教室の中、俺たちと同じように勉強会を開いている集団は、もちろん俺に見向きもしない。

 ならば、感じているこの視線は何か。


「……罪の意識の表れ、か」


 かっこ悪くならないように。そう肩肘張っていた自分がずいぶん遠くに行ってしまった。

 今や俺は犯罪者。加えて、仲間にさえ事情を隠す秘密主義者で個人主義者。


 ざまぁみろ、と顔も思い出せない加瀬が頭の中で笑う。

 野球部の坊主たちが、数学担任のいけ好かないジジイが嘲う。


「うるせぇ」


 吐き出した言葉は、ちょうど横を通って階段を上っていこうとする相手に聞かれて、ぎょっとした目を向けられてしまった。


 居心地悪く思いながら駆けるように階段を下り、誰もいない校舎の奥までひた走った。


 クソッ。

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