第4話 閉口

 翌朝、隠れ潜むようにいつもより一時間も早くに家を出た。


 中学からの友人が多く進学するから、何よりも家から近いから。そんな理由で選んだ高校に、こそこそと身を隠すように、足早に滑り込む。


 通用門しか開いていない朝の学校は、意外と喧噪に満ちていた。

 それもそのはず。なぜかグラウンドで野球部が活動をしていた。テスト週間なのに部活があるのはおそらく、木金のテスト明けの土日に大会でもあるから特別の措置がとられているんだろう。だとしたらどうして昨日は部活が無かったのか。

 おそらくは顧問の都合だろうが。


 そんな風に無駄に思考が回るのは現実逃避のためで、あるいは緊張感を和らげるためだった。


 固く握ったこぶしの内側ににじむ汗を感じ、緊張のまま手を握りこんでいたことに気づく。毒づく言葉の代わりに、威勢のいい声が響く方へとにらむ。


 テスト勉強時間がつぶれてそのまま野球部の坊主どもが全員赤点になればいいと、悪意に満ちた念を送る。


 何しろ俺は野球が、ついでにサッカーが嫌いだ。男なら野球かサッカーだという風潮や押しつけが嫌だからだ。

 男ならバスケだろ。


 ――バスケのためにも、赤点を取るのはごめんだ。


「……行くか」


 グラウンドを眺めながら余計なことを考えている場合じゃない。確実に加瀬が居ないタイミングであのスペースに行かないといけない。


 そう思いつつこそこそと土間に入る。

 なんとは無しに視線を向けた先、二組の靴箱にはただの一つも土足はおかれていなかった。


 加瀬はまだ来ていない。安堵しつつ、けれど万が一誰かに見られて加瀬に俺のことが知られるのは御免で、だから平静を装いつつ、そっと人目を確認して四階に向かった。


 朝と夕方。

 時間の違いは、ほんの少しだけそのスペースの雰囲気を変えていた。


 北東を向いている窓から、朝方には多くの光が入り込む。薄暗かった夕方とは異なり、そこはやや解放感に満ちた場所になっていた。ぽつねんと置かれた机一式も、心なしか明るい。


「……やっぱり無いか」


 突然教科書から声が聞こえなくなって、加瀬はどう行動したか。朝から色々と考えたが答えは出ず、とはいえ少なくともこの場所に俺の教科書が無いだろうことは予想していた。


 荷物の一つもそこには無くて、だから俺はひとまず目的の一つを果たすべく鞄を開いた。


 うんともすんとも言わなくなった教科書を眺める。


 物理基礎と大きく書かれたそれは、俺の私物と見分けがつかない。特別なところなんて何一つありはしない。

 せいぜい、加瀬が持ち歩いているだろうから、俺のそれよりもややくたびれて見えるくらいだろうか――まだ一年の七月なのに勤勉なことだ。


「よう、ここなら話せるのか?」


 開いた教科書に声を投げかける。教科書に話しかける俺は、傍から見ると奇妙で間抜けで、あるいは木が狂ったように見えるかもしれないとどこか他人事のように考えながら。


 かすかな期待は――期待、していたのだろう。


 あっさりと裏切られた時の心の落差は、俺の期待の表れ。立ちはだかる試験、閉塞感から逃れるべくSF的な要素に求めた救いは否定された。


 きっと昨日のあれは全部見間違い聞き間違い。白昼夢でも見ていたんだろう。


 そう言い聞かせながら、けれどひとまず鞄に教科書を戻し、俺は教室に向かった。



 授業までまだ一時間くらい。この暇な時間をどう潰すべきか――試験勉強をするべきではあるんだろうが、俺の心は思考活動のすべてを放棄していた。

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