第3話 魔が差す、心が刺される

 ――後悔の時は、割とあっさりと訪れた。


「……喋んねぇじゃん」


 友人たちへの合流さえ忘れて、俺は最短ルートをひた走って自宅に駆け込んだ。

 手洗いもおざなりに、隠れるように自室に入って扉を閉ざす。


 鍵をかけたところでようやく深いため息が漏れ出て、蒸し風呂状態になっていた部屋のせいでますます汗が噴き出す。


 冷房が効き始めるよりも早く、怖いもの見たさのような気持ちを抱えながら教科書を開いた。


「よう、聞いてるか?」


 一秒、二秒。

 返事はなく、急激に気持ちが冷えていくのを感じた。

 手の中にある教科書は、ただの教科書。その質感も、重さも、汗ばんだ手で触れているせいで、心なしか表紙がふやけ始めているところまで、すべてが何の変哲もない教科書に過ぎない。


「何か言ってみろよ」


 声は聞こえない。返事は帰って来ない。

 ――当たり前だ。


 何しろ俺の手の中にあるのはただの教科書なのだから。


「……なんだよ」


 別に、喋る教科書なんてものが手元にあったからと言って勉強をするわけじゃない。

 教科書を持ち帰ろうと思ったのだって気まぐれ、気の迷い。どうせ家で勉強する気になんてなれやしない。だからこそ友人たちと放課後の教室に残って勉強会を開いていたのだから。


 だったら、他人のものをひったくって逃げるように帰ってきた意味は何だったのか。


 罪悪感とか後悔とか、友人への八つ当たりとか、加瀬への罵倒とか、いろいろなものが胸の内を駆け巡る。


「……やってらんねー」


 冷房が効き始めた部屋の中、うんともすんとも言わなくなった教科書を鞄の中に押し込み、汗だくの制服を脱ぎ捨てベッドに身を投げ出した。


 試験まで残り時間は少ないというのに、余計な出来事のせいでますます成績が落ちそうな予感しかしない――なんて、罪悪感をごまかすためのただの言い訳だ。


「じゃあ、さっきのは何だったんだ?」


 冷房で体が冷えて余裕ができ始めると、先ほどの光景が、声が思い出される。

 もう考える必要なんてないと思うものの、確かに鞄の中に入っている俺の物じゃない教科書の存在だとか、加瀬と教科書の会話、そして俺との会話が思い浮かぶ。


 屋上前の小スペースでは会話ができて、ここでは、俺の家ではできない。


「……あの場所が特別、なのか?」


 もしそうなのであれば、明日、同じようにあの場所に行けば教科書との会話が成立するのだろうか。


「だからどうしたって言うんだよ」


 そんなことに何の意味があるのか。対照実験を重ねて使用方法を見出す必要なんてない。さっさと俺の教科書とすり替えなおして、友人と進まない勉強会を開けばいい。

 そうして赤点ぎりぎりながらも試験を乗り越えれば夏休みだ。


「……クソ」


 きっと、胸の内に燻る罪悪感のせいだ。劣等感のせいだ。


 加瀬に見つかりたくはない。けれど見つからずに、盗みのことをバレることなく加瀬から俺の教科書を回収するのは困難を極める。

 ただ、さっさとこんなモノは投げ出したい。放り出したい。

 それだけなんだ。


 ぐちゃぐちゃな心を放り出し、俺はすべてから逃避するように目を閉じた。

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