Day.31『またね』

「できた」


 シンプルなデザインのグラスに注がれたアイスティーは、下の方から細かな泡がぷくぷくと上に登っていく。

 明日から八月が始まる。更に上がっていく気温と湿度に、愛衣の提案で今日の紅茶はティーソーダにしようとなったのだ。 


「ん~、とっても美味しいですね」


 一口味見をすると、途端に口の中でぱちぱちと炭酸がはじけ、上品な花のような香りが鼻を抜けた。


「ほんとですね。ちゃんと紅茶の香りもする」


 同じように一口飲んだ来夢も、満足そうに頬を緩めた。


「シロップの代わりに蜂蜜を入れたのは正解でしたね」


 その提案をしたのは来夢だった。


「花に似た香りがするので、蜂蜜の方が合うと思っただけですよ」

「そうかもですね。でもきっと、この紅茶が美味しいからですよ」


 それを聞いた来夢は、ふふんと得意そうに胸を張った。


「それは保証します。なんだってキャッスルトンの最上級紅茶ですから!」


 これまで続いた紅茶のリレーを締めくくるのは『キャッスルトン・ムーンライト』。


 来夢が言うには、最良のクローナル種の茶樹から、新芽しんめ若葉わかばだけを選りすぐり、丁寧に手摘てづみして、ごく少量のみ生産される貴重な茶葉とのこと。なおかつ、発酵はっこうさせた茶葉は光の加減で銀色に見えるものは更に少ないという。それこそ『月光ムーンライト』の名をかんした最上品なのだと教えてくれた。 


「それにしても……ずいぶんと高級な紅茶を最後に出してきましたね」

「愛衣ちゃんが気に入ったのなら、いつでも飲めるように常備させていただきますよ」

「そこまでしなくてもいいかな。また今度、機会があった時にでも、ね」


 その少量さ故に『ムーンライト』はそれなりの値段がするという。庶民の愛衣からしてみれば、高級品は本当にごくまれに飲めるから高級品なのだ。いつでも飲めるようになってしまったら、その味に慣れてしまいそうだ。


(このお金に糸目いとめを付けないところが、来夢くんらしいと言うか、なんというか……)


 どうやら未来でも、彼の金銭感覚は今のままらしい。これは奥さんも苦労するだろうなと、思わずふふっと笑いが零れた。


「どうしました?」

「いいえ、なんでも。それにしても『ムーンライト』って、とっても素敵な名前ですね。なにかのお話に出てきそう」

「お話ですか。それなら、」


 考えるように口元に指をやりながら、来夢はソファーから立ち上がり、窓辺の本棚に歩み寄る。えーっと、と文庫本の背表紙を指でなぞり、その中の一冊を取り出して手渡してくれた。


「ドビュッシーの『月光』でしたら、中山七里なかやま しちりの『さよならドビュッシー』に出てきますよ」


「あ、この本まだ読んでないです。ミステリーでしたっけ」

「えぇ。高校生が主人公なんですけれど、最後のどんでん返しがすごいんです。それと、このお話の舞台、名古屋の伏見ふしみなんですよ」

「え? 伏見ですか?!」


 地元、それもよく知っている場所が作中に出てくると興味がそそられる。


「ゆっくり読んでみてはいかがでしょう」

「ありがとうございます。ちょうど読書感想文の本を決めかねていたところだったんです」


「それと『ひゃくの月』ですかね。副題が『ムーンライト・エクスブレス』といって。こちらは児童文芸です。記憶を失った者たちが集まる学園が舞台で、分類で言ったら現代ファンタジーです。それと、もう一冊あるんですけれど……」


 いつもより楽しそうに本棚から本を探していく。どんどん来夢が手に取っていく本の数に、思わず笑みがこぼれた。この調子だと、あと十冊くらいの候補を出されそうだ。

 来夢に本の紹介をしてもらうと、それだけで一日経ってしまう。

 もしもこの先、彼と一緒にいることを選ぶのだとしたら。


 ――この世を去るその直前まで、楽しめそうだ。


 ふと、来夢が本を選ぶ手を止めた。少し考えるように首を傾げたあと、さっき手渡したもの以外を全部本棚に戻していく。

 どうしたんだろうと思っていると、腕が触れ合うくらいに近くに静かに座った。いつもなら、隣に座るにしても少し間を開けるのに。珍しいな、とちょっとドキドキしていると「今は、その一冊に留めておきます」と言って、ティーソーダに口をつけた。


「いえ、その……これからずっと一緒にいるのなら、今いっぺんにすすめなくてもいいかな、と思いまして」


 その言葉にトクンと胸が高鳴った。

 同時に、この前出会った紳士の姿を思い出す。

 一歩、彼のいる未来に近づいたような感覚に、だんだんと頬が熱を持ちはじめた。


「じゃあ、ずっと傍にいさせてくださいね」


 すると、来夢の頬の赤みが少し広がったように見えた。彼は泣きそうに目元を細めると、表情を隠すように愛衣の肩に顔を埋めてきた。まるで家の猫たちが、イタズラがバレて誤魔化ごまかす時のような仕草に、愛おしさも込み上げてくる。

 そっと手を重ねると、さっきの言葉に答えるように、ぎゅっと握り返してくれた。



 ――この時間がずっと続いてくれれば。

 でも永遠なんてないから、それはきっと叶わない。

 それでも、そう思える時間が少しでも多くなるように。

 飲んだ紅茶の味を、香りを、忘れないように。

 いつかまた、未来の彼か私が、時間を超えて過去にやって来られるように。

 そうした想いが、ずっと紡がれていくように。


 ――今、この時を、この人を、大事にしよう。


 大好きな、月夜の湖色の目を見つめ返して、そっと笑いあった。



 本日の紅茶【キャッスルトン・ムーンライト】

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想い詠み解くティータイム 青居月祈 @BlueMoonlapislazri

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