Day.30『色相』

「なーぁ、彩愛さいあの姉貴」

「どうしたんだい留宇るう

「来夢の様子がちょーっと……いや、かなーりおかしいんやけど」

「うん、奇遇きぐうだね。愛衣ちゃんの方も心ここに在らずって感じなんだよ」

「来夢は本を逆さまにしとるし」

「愛衣ちゃんも上の空で、シリーズ本のナンバーをばらばらに並べていてね」

「なんかあったな」

「なんかあったねぇ」

「今日は、僕たちで頑張りますか」

「そうだな。愛衣ちゃんたちには、休んでもらおうか」

「忙しくなったら、ラゼも呼べば大丈夫やろう」


 ◆


 来夢の部屋に入った途端、ふっと肩の力が抜ける。


「あ~……やっちゃった……」


 まさか自分が『ぼくらの七日間なのかかん戦争』シリーズの順番を間違えるなんて。色相環しきそうか?みたいじゃないけれど、表紙はタイトルごとに色分けされているから、間違えようがないはずなのに。

 他にもいくつか並べる順番を間違えていたようで、見かねた彩愛が「休んできていいよ」と声をかけてくれたのだった。


 カチャリ、と音がした。

 ひとり分のティーセットを持った来夢が、ソファーに座る愛衣を見て「あ」と声を上げた。


「……愛衣ちゃんもですか」


 後ろ手でドアを閉めながら、困ったように来夢は微笑んだ。彼もまた、留宇に言われたのだろうと容易よういに想像できた。


「うん、勝手に部屋に入ってすみません」

「なに言ってるんですか。大歓迎ですよ」


 来夢はすぐに愛衣の分のティーカップを持ってきて、白いティーポットから紅茶を注いでくれた。

 手渡されたティーカップからは紅茶の甘さではなく、複雑なスパイスの香りが漂った。既にミルクが入った淡いラテ色をしていて、深い香りを肺いっぱいに満たす。


「これ、ミルクティー……ですか?」

「えぇ。スパイスを入れたシナモンチャイです」


 一口飲んで、今までに飲んだことのない味に驚いた。手軽に飲めるインスタントのチャイなら飲んだことはあったけれど、全然甘くない。手が込んでいるのが分かる。

 さらりとした紅茶の味の後に、シナモンの上品な香りが漂う。その後にすっとした爽やかさと、ドライな香りと、ぴりっとしたジンジャーの刺激が合わさって、不思議な味が口の中に広がる。


「チャイって、もっと甘いものだと思ってました」

「インド原産のスパイスティーですからね。クセがある分飲みにくいので、甘さを足して飲みやすくしているのでしょう」

「これは、なんのスパイスを使ってるんですか?」

「シナモンとカルダモンとクローブ、それとジンジャーでした。でも、地域や家庭によって入れるスパイスや配量も様々なようですよ。黒こしょうを入れたり、ナツメグを入れたり」


 家庭によってちょっと味が変わるなんて、カレーみたいだなと思った。お隣のおばあちゃんがお裾分けしてくれるカレーがそうだ。


 おばあちゃんから連想したわけではないけれど、ふと、昨日会った人物のことを思い出した。

 優雅にティーカップを持ち、丁寧な言葉選びで思い出を語り、愛おしさを眼差しに含ませて、私たちふたりを眺めていた、未来から来たという男性……。


「愛衣ちゃん? どうしました?」


 急に静かになったから不思議に思ったのだろう。顔を覗くように、来夢は隣で首を傾げていた。


「なにか、考え事ですか?」

「えっと……未来の来夢くんのこと考えてて」


 そう答えると、来夢の表情が少し寂しそうに陰った。


 今飲んでいるチャイも、未来の彼からいただいたものだ。このチャイにも、なにかしらの思い入れでもあったのだろうか。急に飲み干してしまうのが惜しくなって、カップの底に残ったチャイを、くるくると回して言葉を探す。


「奥さんが亡くなったのに、すごく幸せそうな顔してたなぁって、思い出して」

「それだけ、奥さんのこと愛していたんでしょうね。思い出すと顔に出てしまうくらいに」 

「でも私、来夢くんのこと、置いていってしまうんですね」


 すると、そんなことないと思いますよ、と優しい声で来夢は言い、続けてこう言いきった。


「未来は不確定です。未来のことを今から考えるのは、鬼に笑われてしまいますよ」


 言われてはっと口を引き結ぶ。

 今現在の行動一つで未来が変わりかねない。カップに入ったチャイのように、いろんな事象が混ざって未来を形作る。蝶のちいさな羽ばたきが、巡り巡って嵐を起こすことだってあるように。


 でも、それで慎重になりすぎて“今”を楽しめないのは、ちょっともったいない。子ども……中学生のうちにしかできないことだってたくさんある。高校生や大人になってから後悔するのは嫌だった。早く大人になりたいと思うこともあるけれど、そう思えるのは子どもの間だけなのだ。


「そうかもしれませんね。私たちがいるのは“今この時”ですから」


 ふんわりとした柔らかい笑い声が静かな部屋に響いた。視線を向けると、はにかんだような笑みを浮かべていた。


「もしかしたら、今度は愛衣ちゃんが時を越えてやってくるのかもしれませんよ」

「えぇっ?! 私、能力持ってない一般人ですよ?」

「でも愛衣ちゃんって、いつも無理だと思ってたことも軽く飛び越えてきますよね」

「そうですか? え、いつも?」


 そんな自覚はないのだけれど、と言えば、来夢はくすぐったそうにくすくすと小さく笑った。


「そうですよ。ほら、初めて会った頃なんか特に。覚えてますか?」

「えぇ。あの時はほんと、どうやったら心開いてもらえるか必死だったなぁって」

「ふふっ、僕は何度それに助けられたことか」

「いやいや、それを言うなら来夢くんだって」


 思い出話に花を咲かせているうちに、スパイスの香りが薄れるのと共に、時間は過ぎていった。



 本日の紅茶【シナモンチャイ】

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