終ノ始 散惨苦奴
ぎゃああああああ……!
と悲鳴を上げた時、とうとう社が目に入った。
しめた……!!
彼処に辿り着きさえすれば、この悪夢も、きっと覚めるに違いない……!!
滲む液で汚れるのも構わず、片腕で麻袋を抱きながら、ドタバタと三つ足で石段を駆け登り、石の鳥居をくぐり抜けると、森から聴こえた女共の歌声がピタリと、息を呑むほど静かになった。
カナカナカナカナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナカナカナカナカナ
代わりに響くヒグラシの聲。
郷愁を誘う物悲しい響き。
帰ったぞ……!
そう言って開けた引き戸の奥には、美しい家内が待っている。
帰らねば……!
家内と子ども達の元へ……!
取って付けたような、いかにも白々しい台詞が口をついて出た。
摂社や末社はない。
草臥れて、灰色がかった本社だけ。
屋根瓦から萱が生え、庇の端は崩れかかっている所さえある。
目に付く色は破れた旗の朱一色。
他は草臥れ、色褪せている。
私は帰る……!
御兄様御兄様御兄様。
私は家に帰る……!
逝けません……逝けません……
障子に手を掛けた。
ガラガラと音を立てて障子を開くと、狩衣を纏った神主が、背中を向けて座っていた。
暗くて肩から上は見えない。
頼む……!
助けてくれ……!
此処から出たいんだ……!
そう言うと、男にしては厭に甲高い聲が、答えて言った。
「頸ヲ。御奉納クダサイ。艮様ノ御前二……」
指差す先には、桐の台。
米、酒、魚、と神饌が並ぶが、真ん中は意図的に空けられている。
ちょうど手には麻袋……。
助かった……。
薄々分かっていた……。
この中には……、
首が入っている……!
ごくりと唾を呑み、麻袋を凝と見つめる。
「御兄様……なぜそのような眼をなさるのですか……? なぜそのような血走った眼で、ワタクシヲ御覧二ナルノデスカ……?」
震える聲が言った。
黙れ。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!!!!
私は家に帰るのだ……!!
貴様のような首だけの化け物など知らん!
私は叫ぶと、桐の台に麻袋を置いた。
滲んだ血が、白い桐に、どす黒いシミを作る。
「そちらの頸で宜しいのですね?」
そうだ……!
早く帰してくれ……!!
麻袋が小さく震えた。
ククククククくククク……
嗤いを噛み殺す声がする。
「御兄様……言ったではありませんか……」
何やら雲行きが怪しくなったのを感じた。
な、何の話だ!?
「ですから、頸の無いモノの言う事を信じてはなりませんと、言ったではありませんか?」
首が、な、い…?
振り返ると、其処には頸の無い神主が立っている。
開け放たれた障子の前には、二本の首、牛頸と獣の頸を携えた異形。
「やっと……これで、ようやっと、わたくしは帰れます。何度も何度も初めに還って、気が触れるかと思いました。いえ。とっくに気は触れていたのかも知れません。御兄様が来てくださらなかったら、わたくしは正気に還ることはなかったでしょう」
お前は誰だ?
何の話だ……?
「お忘れなのですか? ならばその眼でご覧になってください。貴方が売った、妹の顔を、ご覧になってください……」
恐る恐る、麻袋の口を縛る縄を解いた。
朱い朱い血の海に、黒黒とした髪が浮かんでいる。
震える手でそれを掴んで持ち上げると、小さな顔が無数に寄り集まって出来た、得体の知れないナニカが現れた。
ぎぃやぁぁあああああ……!?
ばしゃ……と音を立てて、ナニカは桐の台に落ちた。
その拍子に、小さな顔が幾らか潰れた。
知らない顔ばかりだった。
しかしそれらが寄り集まった全体像は、紛れもなく妹の顔をしていた。
そうだ……
私は……
妹を売ったのだ……
軍部の後ろ盾欲しさに、無垢な妹を騙して売ったのだ……。
相手は優しい旦那様だ。お前を好いて下さったのだと。
しかし私は知っていた。
あの男は、女を痛ぶるのが趣味の外道だと……。
それでも、売ったのだ。
石油の利権と引き換えに、売ったのだ。
「思い出されましたか? それはそれは辛い日々でした。焼き鏝で乳房を焼かれ、尻を焼かれ、無数の針で刺され、糞尿を食わされ。手足を奪われ、獣と交わらされ、全ての孔を塞がれました」
「此処に堕ちてからも、何度も何度も……何度も何度も何度も何度も…何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……」
「同じ責苦を味わい尽くしたのでございます。それでも御兄様を怨みはしませんでした。お国の為だと、自分で自分に言い聞かせました」
「それなのに……それなのに……お前は私を知らないと言った……忘れていた……思い出しもしなかった……赦さない。決して赦さない。赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない……」
「思い出せるまで、何度でも繰り返して下さいまし? 百でも弐百でも、千度萬度、幾らでも……地獄の責苦をお受けになって下さいまし……? そちらにおわします、丑寅様は、それはそれは手練れであらせられます」
「この世の全ての禍事罪穢を御存知の御方です」
「わたくしたちは、此処を出ます。頸の在るものは、此処にはもう、御兄様唯一人……」
待て……!!
待ってくれ……!!
「蓋を閉じれば、誰の往来もありません。しっかりと閉ざしておきましょう」
置いていくな……!!
私を置いていくなぁぁああ……!!
空に昇る異形の頸に縋ったが、触れる事が出来なかった。
背後に立つものの気配で、身体が強張る。
ぼき……と音がして、私の頸は艮様のモノになった。
捧げる頸が無くなった。
捧げる頸を失くしたまま、気が付くと私は、苔生した石段に突っ伏していた。
頬に刺さる小石と苔の感触はしない。
頸ノ刻、御百度参リ。
環決
頸ノ刻、御百度参リ 深川我無 @mumusha
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