待て、お手、バイバイ。
谷口みのり
掌編
私は貴方の犬なのだ。
世間では都合がいい女とも言う。本命の彼女には言えない秘密も、綺麗なあの子には見せられない黒い部分も、全て受け入れるためだけに私は居る。私は貴方の犬だから、貴方がきまぐれに投げる愛と言う名のボールを私は必死に追いかける。それが偽物だと気づかずに私はいつも追いかける。いや、本当は気づいてるのだけど気づいていない振りをして追いかける。だって私は貴方の忠犬だから。離れることの方がつらいから。
犬の言葉なんて飼い主には伝わらないし、伝えられる術もないのに、いつか私のこの想いに気づいてくれるんじゃないかって勝手に期待して、今日も六畳一間のこの部屋でいい子にしている。
二十六時、何だか眠れずに、インスタグラムのリールを垂れ流していた。待っていたのは眠気じゃなくて貴方からのLINEだと分かっていたのに、自分から連絡する勇気はなかった。幸せな家族のホームビデオも、売れないバンドのライブ映像も、おしゃれな一人旅プランだって。今の私にはすべて眩しかった。私の灯りはあなただけになってしまったから、私の部屋にはもう何もなかった。
とうとうリールにも飽きてきて部屋の電気を消した。今夜も私を夢に誘ったのは、貴方じゃなくて眠気だったか。そんなことを考えながら、目を瞑ったとき、突然の貴方からの着信。悪夢への誘い。私は、急いで電話に出た。
「今から、うちに来れない?」
あぁ、お決まりのセリフ。貴方に頼りにされる嬉しさの裏に、都合良い女であることの悔しさを隠しながら、私は夜の散歩に出かける準備をした。貴方と会うときにだけ使うと決めている香水を手首と首筋に振りかけてから、スマホと家の鍵をポケットに入れ、うちから徒歩二十分くらいのところにある、貴方の家に向かう。
どんなに灯りがあるとは言え、日付を超えた東京は少しこわい。若い女がひとりで歩くには物騒で危険すぎた。少し前までは私もそうだったのに、今ではそれが平気になってしまった。
だってこの道にはあなたの匂いがあるから。私には目印があるから。あの角にある焼鳥屋の香ばしい炭の匂いも、まるで貴方のように淀んだ川の生臭さも、二番目だと分かっていても家に行ってしまう馬鹿な女の甘ったるい香水の匂いだって。
もう全部、貴方の匂いなのだ。
あぁ、捨てるなら早く捨ててよ。
貴方に懐いてしまう前に。貴方を愛してしまう前に。
貴方の匂いを辿って貴方のところへ帰ることができないくらい、遠い街に。
待て、お手、バイバイ。 谷口みのり @necoz
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