あるCでの騒動

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「蜂の子狂い」は今年の初夏に独り立ちした若い雄熊である。彼の名の由来は、母親が気まぐれに与えた蜜蜂の巣にいた蜂の子を兄弟と分け合わずに一人で食べてしまったことに由来する。彼の母親は彼を生んだ時点で冬を3つしか越していないほどに母親としては若く、息子の行動にどう対応して良いのかわからなかったのだが、兄弟熊の爪と牙による抗議によって多少の社会性が彼に育まれたことは喜ばしいことであった。もっとも、その兄弟熊にしても「山葡萄狂い」と呼ばれるあたり、「山菜採り」と呼ばれた母熊の貪欲な血は強固に受け継がれたものであると言えるだろう。


 さて、母親が新しい恋の季節を迎えるに当たって住み慣れた縄張りを追い出された蜂の子狂いと山葡萄狂いは、縄張りの縁までは共に歩いたが母親の匂いも薄くなったあたりで反対方向へと分かれた。山葡萄狂いは日当たりが良く果樹の多い山頂方向へ、蜂の子狂いは草花が多く蜂の巣の発見が見込める麓方向へ、自然と分かれたのである。ここで未来のことを話しておくと、山葡萄狂いと蜂の子狂いが生きて言葉をかわすことはその生涯を通じてこの時が最後であったのだが、縄張りの被らないことに文句もなかったため二頭の別れの挨拶は実にあっさりしたものであり、文字にして書くならば


『じゃあな』


『おう』


 という具合のものであった。


 このようにして山の麓を縄張りと定めた蜂の子狂いであったが、彼には気がかりなことがあった。それは彼の縄張りの近くに奇妙な獣が住み着いていることである。その獣は体色は様々で毛も長いもの、短いもの、禿げ上がったものと多種多様であったが、常に何かを威嚇するように二本脚で立ち、子育てをする鹿のように群れて行動することが多い。一方で彼らの群れは鹿のように決まったグループというものがなく、流動的に自らの所属する群れを選び取る不思議な生態をしていた。彼らに初めて会った時は蜂の子狂いも驚いてとっさに威嚇したが、彼らの匂いと「リンリン」という警戒音を覚えてからは滅多に鉢合わせることは無くなったのである。


 しかしそうすると今度は好奇心が湧き上がり、彼らの警戒音が聞こえると遠巻きに彼らを観察するのが彼の暇つぶしの一つになっていた。その過程で彼が理解したことはその奇妙な生物、仮にヒトと名前をつけておくが、が奇妙な生物であるということだけである。例えばヒトの群れが彼の領土を通行するにあたって、ある群れが団結して弱った個体を支えながら進んだかと思えば、弱った個体を無視して先に進む群れもあり、ある群れなどは弱った個体を支える者達とそれ以外の個体達で突然に分裂することもあった。こののような生態を持つ生き物は蜂の子狂い自身が知る熊は言うに及ばず、古い友人だった翡翠カワセミの「流れる葦の葉」や野兎の古老「息をする小石」から聞いた話にもないものであり、その奇妙さに蜂の子狂いはたちまち虜となったのであった。


 とは言えヒトの体躯は若い蜂の子狂いから見ても貧弱で、彼の半分にも満たない。さらにヒトは臆病な生物のようで、蜂の子狂いの姿を認めるとそそくさと自分たちの縄張りへと引き返してしまうのである。幸いにしてヒトの聴覚や嗅覚はあまり優れていないようだったが、複雑な声を駆使して群れの個体間は強く結びついており、一頭のヒトが蜂の子狂いを認めてると群れ全体が去ってしまうため、ヒトの観察は極めて困難だったのである。その話を息をする小石にしてみたところ、古老がヒトに会ったときは逆に近づいてきて大変であったと聞かされ、臆病だが好奇心の強いその生態に蜂の子狂いは親近感を覚えたものである。


 そのようにヒトを影から盗み見る生活を続けながら、冬が二度ほど過ぎたころである。流れの雌熊だった「白い額」と情を交わしてから冬が一度終わってからの夏、蜂の子狂いの運命を決定付ける出来ことがあった。


 いつものようにヒトの群れを観察していると、ある個体が何かを落としていったのである。その落とし物は奇妙な形をしていて、色鮮やかで複雑な見た目であった。その表面は形容し難く、強いて言うならば沢で磨かれた石の表面が乾いたような滑らかさであったが、落し文のゆりかごのような形、それを化け物のように大きくしたような寸法で彼の手のひらほどもある。ヒトがこれを落としていった理由もわからずしばらくは警戒していた蜂の子狂いであったが、やがて好奇心に負けて落とし物へと近付く。そして匂いを嗅いでみるとヒトの匂いとは別になんとも甘い、蜂の巣を啜ったときのような匂いが混じっていた。


 これは食料かとも思った蜂の子狂いであったが、何分見慣れないもので鼻は近付けても口に含んでみようとまでは思えない。扱いあぐねて手で転がしていると、爪先が引っかかったのか蜂の子狂いの鼻先でその落とし物は裂けて中身をぶちまけた。蜂の子狂いがしまったと思う間もなく強烈な匂いが彼の脳髄を焼き、気がつくと落とし物の中身は消え失せ、蜂の子狂いは自分の爪を丹念にしゃぶっていることに気がついた。そして自分の爪と掌、口の中にこれまで食べたどのような食料よりも芳醇かつ複雑で、彼の脳髄を痺れさせる怪奇な味が残っていたのである。


 彼の名付けの元ともなった蜂の子を初めて口に入れたときのようなその光景に、蜂の子狂いは半ば呆然としながらも夢見心地で寝床についた。しかし蜂の子の時とは異なりその記憶は一晩が過ぎても忘れられず、むしろ強い飢えとなって彼の思考を縛っている。その飢えは筍や苺、果ては蜂の子を食べてすら満たされることはなく、苦悩の末蜂の子狂いはヒトの縄張りへと足を踏み入れることにした。そのことを古馴染みだった野兎の古老、息をする小石に告げると、古老は呆れたように考え直すようにと忠告をしたが、蜂の子狂いは若さゆえの傲慢もあって耳を貸さない。その頑なな態度に、ほうぼうを飛び回っていた流れる葦の葉ならばより身の籠もった説得をするだろうに、と息をする小石は嘆いたが、彼は寿命で二年も前に土へと還っていた。そのために止めるものも無く、蜂の子狂いは三日月が西の空に輝く頃、ヒトの縄張りへと足を踏み入れた。


 幸か不幸か、ヒトの縄張りは彼の縄張りである麓の森のすぐ外にあったため、さほど移動に気を使う必要はなかったのだが、そこで蜂の子狂いが驚いたのはヒトの住環境の複雑さである。遠目にヒトの縄張りを見て入り組んでいた場所であることは解っていたが、あまりにも高低差の激しい岩壁に蜂の巣のごとく規則正しい穴が空いており、足元は砂利がそのまま岩になったかのような奇妙な様子である。


 しかしその光景よりも注意を引かれたのは、匂いの奇っ怪さであった。ヒトの縄張りには淀り腐った水と全く未知の匂いが混ざった清流の水がほとんど同じ場所からしており、他にも例えようのない匂いの様々が四方から蜂の子狂いを襲う。例えばそこかしこから漂う匂いは、強いて言うならば獣の血や肝臓の匂いに似ていたが、その香りよりももっと鼻を突く匂いであり間違っても口に入れようとは思えない。もしくはほとんどが岩で覆われた大地の中でかろうじて土が表出しているような部分からは、不自然なほどに獣や落ち葉の腐ったような匂いが強くして、そこにはさらに未知の匂いも混ざっている。


 自らの住んでいた山と何もかもが異なる世界に、蜂の子狂いは好奇心が萎びていく思いだったが、その複雑な匂いの中に今も口の中に残るあの匂いがあることを感じると不安のほうが萎び折れ、好奇心と飢えが彼を支配した。その香りと欲望を頼りに未知の国を歩き続け、蜂の子狂いはついにその匂いの下、黒い包みへとたどり着いたのである。


 黒い包みはかつて見た落とし物のように滑らかな見た目だったが、蜂の子狂いはそれが脆い物であると知っていたため、躊躇なくその爪で包みを切り裂く。包みが裂けると包が放っていた香りがいっそう強くなったが、蜂の子狂いは迷いなく目当ての香りの元を探し出し、まずはそれを躊躇なく口に含む。途端に脳髄へと駆け巡るしびれるような快楽、初めのように理性こそ失わなかったが、その歓喜のあまりよだれが垂れるのを抑えることもできない自分を、蜂の子狂いはどこか冷静に見つめていた。


 そうして一時の悦楽を享受した蜂の子狂いだったが、幾分か冷静になってみれば黒い包みから飛び出てきた他のものもまるで食べてくださいと言わんばかりに主張をしていることに気がついた。少し日は経っているが十分に食用に耐えうる魚の一部であるとか、多少水は含んでいるもののまとまって転がっている草の実、何の肉とも知れぬが腐敗する寸前の最も美味しい時期の肉すらも転がっていたのである。これが母熊の山菜採りが寝物語に聞かせた桃源郷というものかと蜂の子狂いは驚愕したが、その驚きもすぐに食欲に上書きされて彼を一匹の卑しい獣へと変貌させた。


 夢中で貪り続けてようやく理性を取り戻した蜂の子狂いは正気に戻ると、自らの浅ましさが恥ずかしくなり、自分の縄張りへと逃げて戻る。しかし、それからも飢えは彼を蝕み続け、快楽の記憶が蜂の子狂いの理性を徐々に溶かしてはヒトの縄張りへと足を運ぶことを続けた次の春のことである。蜂の子狂いは情を交わした相手である白い額と再び顔を合わせた。


 子熊はどうなったかと尋ねた蜂の子狂いに、白い額は悲しげに目を伏せると、育たなかったことを告げる。それは、飢えが子熊を殺したためであった。白い額の悲しげな様子に自らの心も痛んだ蜂の子狂いであったが、そこでふと一計が思い浮かぶ。それは、人の縄張りにある豊富な食料ならば、自分と白い額、そしてその子熊を含めても十分に養えるのではないか、というものであった。これを名案と思った蜂の子狂いは白い額にそのことを告げるが、白い額は難色を示す。というのも、白い額はかつてヒトの群れと出くわして恐怖のあまり逃げ出した記憶があったからである。


 しかしそれを聞いた蜂の子狂いは一笑に付し、ヒトがいかに奇妙でひ弱かを語って聞かせる。長年ヒトを観察してきた蜂の子狂いの弁は説得力があり、白い額もそれに恐怖を忘れ、ヒトの縄張りへと侵入することを決めてしまったのであった。


 そうして二頭で連れ立ち何度かヒトの縄張りを歩き回り、情を交わした白い額と分かれてからしばらくして。発作のように吹き出してくる飢えへと従って、朝も早くにヒトの縄張りへと降りた蜂の子狂いだったが、様子のおかしいことに気がついた。普段はヒトの現れない頃であったのだが、どうもヒトが住処であろう穴から顔を出してはすぐに引っ込むのを繰り返すのである。いつもとは違う様子に戸惑いながらも歩みを進めると、嫌な匂いが鼻についた。それは嗅ぎ慣れた血の匂いであったが、その匂いに混じって同族の、それも白い額の香りがしたような気がしたのである。


 不安にかられた蜂の子狂いがその香りのする方向へと歩みを進めると、同時にヒトの匂いが強くなる。まさかとは思いつつたどり着いた先には、血を流して倒れ込む白い額を、何頭かのヒトが取り囲む光景があった。それを倒木5つ分の距離から眺めたとき、蜂の子狂いの心中では、それまで興味の対象でしかなかったヒトが途端に恐ろしい怪物、寝物語に聞いた子喰いの若熊であるかのように、忌避すべき対象へと変貌したのである。


「見ろ、まだもう一頭いるぞ!」


「さんざ荒らすと思ったら、もう一頭おったか。おい、撃て、撃て!」


 ヒトがこちらを見てなにか言い合った途端、彼らの前脚あたりから胡桃が弾ける音を何百倍にも大きくしたような音が鳴り響き、それとほぼ時を同じくして蜂の子狂いの脇の木肌が弾けた。その耳慣れぬ異音と奇妙な現象に、彼はたまらず自分の縄張りへと逃げて帰った。そして一晩中、白い額の力が抜けて倒れ込んだ姿を脳裏に浮かべては恐怖のあまり震えていたのであった。しかし怪物へと変じたヒトは、蜂の子狂いが考えるよりも遥かに恐ろしい行動を取った。その所属するグループを一つに定めない性質を発揮し、巨大な集団となって蜂の子狂いを追いかけてきたのである。


「いたか?」


「いんや、だが足跡はあった。近いぞ」


「前々から獣害に悩まされとったんだ。ついに駆除してやるわ」


 風に乗って流れてくるヒトの鳴き声に、その意味はわからずとも殺気を感じ取った蜂の子狂いは、その声から遠ざかるように移動を続けるが、ヒトは執拗に追跡をやめない。その様子を見ていた息をする小石はため息を吐いたが、それ以上何をするでもなく自分の巣穴へと戻り、これから行われることからその長い耳を隠したのであった。


 そしてついに追い詰められた蜂の子狂いは山の中腹にある開けた野の端、崖の上へにいる。息を切らせた彼を、ヒトの無機質ないくつもの目が見つめていた。その目つきに昆虫の顔を思い出しながら、蜂の子狂いは自分の愚かさを今になって思い知っていた。考えてみれば、群れる生き物は恐ろしい。蜂の子や蜜を生み出す蜂、あの小さな生き物ですらその針が柔らかい部分に刺されば痛むし、ましてやそれが集団ともなればわずかとは言い難い鬱陶しさを覚えるものである。それが自らの半分「ほども」あるヒトならばどれほどの恐ろしさがあるだろうか。あの奇妙な食べ物を口にするべきではなかったのだ。


 ヒトの群れが放つ殺気が針のように彼を刺し、無意識に後ずさる蜂の子狂い。そしてついに足を滑らせ、崖下へとその身を引かれる。とっさに前脚で大地を掴んだが、黒い包みを容易く切り裂いた爪はその鋭利さ故に土をも切り裂き、彼の身体を崖の上へと留める役には立たない。


 幼いころ、木から飛び降りたときのような浮遊感の中、蜂の子狂いはふとあれほど好きだった蜂の子の味を久方ぶりに思い出し、涙がこぼれた。しかし、その味もすぐに彼を虜にしたヒトの食べ物の味に取って代わり、その味がなにかを想起させる前に彼の意識は永遠に黒い闇へと沈んだのである。


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 一言:餌付けダメ、絶対。

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