あるBの名の魚を見る話

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 眼の前を分厚いガラス越しに巨大なナポレオンフィッシュが悠々と泳いでいった。頭部の大きなこの魚も幼魚のころは他のベラとさして変わりはしないが、そこから数年もすれば立派に軍帽を被る。沖縄の方では死者の国が海の沖に有ると言うが、そこにかのフランス皇帝の名を冠する魚がいるというのはなんとも皮肉であった。かつてナポレオンフィッシュを見た際の個体は頭のコブも育っていなかったから、相当の若者、人の方で例えて言うならば軍人になりたての頃だったのだろう。あの頃の私は若かったとは言えないが、まだまだ老いてもいない油の乗り始めた頃だった。


 仕事にかまけて40を超える辺りになっても独り身だったのを、親戚の世話焼きが心配して女性を紹介してくれたのだったか。今の御時世に格式張ってお見合いというのも何だからと言うことで、互いの写真だけを頼りに水族館近くの駅前で待ち合わせをしたのを覚えている。今思っても無謀なことだったと思うし当時の私もそれは承知していたのだが、もともとノリ気でもなかったので一応その場に行って曖昧にしたまま会えませんでした、と逃げてしまえば良いかと考えていたのである。


 ところがその目論見は外れ、私が待ち合わせ場所に予定の少し前についた頃にはその女性が不安げに立っていたのである。その日は梅雨も明けてすぐの暑くなり始める時期で、海風すらも生温いげっそりするような天気だった。そんな中白いワンピースを着て立っていた彼女は、写真よりはいくらかマシではあったがやはり生気のないと言うか、表情のいまいち伺い知れぬ不気味な顔である。今日一日を彼女と過ごすのかと思うと憂鬱になったが、互いの姿を認めてしまった以上は今更逃げるわけにもいかぬと声をかけた。


「夜久さんですか」


 問われた彼女は顔を知っていただろうに肩を跳ねさせ、おずおずと訊ね返す。


「あなたが下地さんですか」


 朧げな雰囲気よろしく控えめな声量のそれにますます気が滅入るが、努めてそれを腹の底に押し殺して首を振り肯定した。すると彼女は胸をなでおろす。


「ナンパでもされたのかと思いました」


 みちゃりと笑いながら言う彼女。見てくれは不美人とは言わないが、美人かと言えば首を縦に振るのは難しい。とはいえナンパ師共にとってしてみればこのような様相のほうが落としやすく見えるのやもしれぬと考えつつ、如何にしてその侮辱的な感想を漏らさずに場を和ませようかと曖昧に笑って見せた。しかしそれ以上の事もできずに、互いに言葉が止まる。


 楽しくもない睨めっこはしばらく続いたが、ホームに電車の入っていく音が聞こえて我に返り、どちらともなく水族館に行きましょうかと言い出した。この場所をして来たのは彼女であったことを思い出し、場の空気を和らげんとする話の種にすることにする。しかし、その後のやり取りときたら。


「魚が好きなんですか」


「え?」


「水族館を回りましょうという話だったので、お好きなのかなと」


「ええと、私はカレイの煮付けが好きです」


 思わず素の口調で訪ね返しそうになったが、グッとこらえて笑顔を作る。


「煮付け、ブリカマなんかも美味しいですよね」


「はい。あ、ああ、違う。違くて、違うんです。魚を食べるのは好きですけど、別にそれで水族館という訳ではなくて、見るのは別に好きではないと言いますか」


 これには、はあ、としか返せないだろう。なんとも要領の悪い女であった。緊張していた、と眼の前で言い訳をする彼女を呆れた目で見る。怪我の功名というか、頬が赤く火照ったおかげで幾らか生身らしくはなったものの、印象で言えばさらに悪くなった。


「その、ペンギンが好きで」


「ああ、それで水族館に」


 態度には出さないが、もはや眼の前の女は見合い相手というよりも珍獣のごとき観と見る。自然、返す言葉も投げやりになり、彼女も失敗を悟ったか萎縮して黙ってしまった。もはや顔合わせの段でお流れかとも思ったが、このまま来ただけで帰るというのも癪だったので、彼女を促して水族館へと向かう。道中会話もなく白けた空気だったが、正しく歩けば正しい場所につくもので。水族館に到着する頃にはせめて海水魚の姿を目一杯楽しんでやろうと、隣の彼女のことは影か何かと思うことにして魚のことをぼんやりと思い浮かべていた。その時の私は魚の泳ぐ姿を考えていたので気が付かなかったのだが、あとから聞いた話では彼女はヘマをしたことに落ち込みげっそりとした顔でいたようである。


 ともあれ連れ立って水族館に入ったは良いが、チケットを受け渡すような事務的なやりとり以外に話の一つもなく、順路に並べられた水槽を私が満足するまで見ては次へ行くのを後ろから彼女が追いかけるばかりであった。


 そんな風にして水槽を5つ回った次に有ったのが南洋の水槽である。南洋の魚は色鮮やかな物も多く、大きい魚は大きいと見ごたえがあり、私の目を楽しませた。しかし水槽とその下の解説板を見比べてふと気がついたのは見当たらない種類が 1つあること。それはメガネモチノウオ、またの名をナポレオンフィッシュである。ナポレオンフィッシュといえば巨大な魚影で見ごたえもあるだろうと水槽の前を探して何度か行き来してみたが、どうも見当たらない。


 生来の負けん気が顔を出して唸りながら行き来していると、後ろから声をかけられた。


「あの、どうかしましたか」


 それは後ろを影のように歩いてきた彼女である。魚を見つけられない事に苛立っていたとは気恥ずかしくて言えなかったが、モチノウオに気を取られてつい口が滑ってしまった。


「ナポレオンフィッシュがどこにも」


 と、そこまで言ってはっと口をつぐんだのだが、彼女はそれで察したのか水槽を眺めだす。気恥ずかしさによっぽど、もう良いから次にいきましょう、と言おうと思ったが、あまりにも彼女が真剣に探すので気を抜かれてしまった。それで私もナポレオンフィッシュを探しに戻ったのだが見つけられずにいると、横から彼女が私の腕をつついた。何事かとそちらを見れば、彼女はこちらに顔を向けずに水槽の隅を指して言う。


「あの魚じゃないでしょうか」


 見れば、そこには小ぶりの魚が何を考えている宇野かわからない目でぼぅっと泳いでいた。


「いやあ、ナポレオンフィッシュと言えば大きい魚ですから。あれは違うでしょう」


 と言ってみたが、彼女はけれど、と続ける。


「説明書きの写真とよく似ていますし」


 そう言われてよく見てみれば、確かにその姿は説明書きの写真そっくりである。思わず水槽によってじっくりと見比べてみれば、確かに鱗の傷まで解説板と同じ。なんのことはない。私がナポレオンフィッシュは大きいものと思い込んでいただけで、この水槽にいる個体は若いも若い、コブすら育っていない個体だったのであった。自分の思い込みで恥をさらして頬が火照るのを感じてそっぽを向いたが、後ろから忍び笑いが聞こえて振り返る。


 そこにいたのは、生き生きとした表情で可笑しさを噛み殺す、普通の女であった。顔色の悪いのも消えて失せて、血色の良い顔とすくめられた肩が小刻みに揺れている。思わず文句を言おうかとも思ったが、気恥ずかしさが口をふさいでうまく言葉にならない。そうしていると、笑いの波も引いたのか落ち着いた彼女が目元を緩めてまた弁明を始めた。


「いえ、まるで男の子みたいだったので。ずっと怖い空気だったのにこんな一面があるんだなと思うと」


 笑い涙を拭いながら言う彼女を見て唐突に、「ああ、この人と結婚するのだろうな」と思ったが、首を振ってその考えを追い払った。しかし、結婚については否定的な感情が失せたこともまた事実だったのである。


 一方、私の仕草を見た彼女はまた私の気に障ったのかと縮こまってしまったが、その眦は楽しげに歪んでいた。


 その後はあの魚が優美だの、この魚は食べても美味いだのと、益体もないことを話しながら水族館を二人で周り、最後にペンギンのショーを見て変えることにしたのである。


 あの時のペンギンは何匹いただろうか。記憶の底から掘り出すべく思案していると、横から腕を突かれた。そちらを見てみれば、妻がこちらを心配そうな顔で覗き込んでいる。


「どうしたんですか、立ち止まって」


「ん、始めにここに来たときのことを思い出そうとしていてな」


「ああ、ナポレオンフィッシュ」


 妻はあのとき初めて見せたのと同じ笑顔で忍び笑いを見せ、その仕草にあの頃の気恥ずかしさまで掘り起こされた気がしてそっぽを向いた。


「今はペンギンのことを思い出していたんだ」


「ああ、あの大失敗だったペンギンショー」


「ペンギンに無視された飼育員は可愛そうだったが、あれは観客としては良いコメディだった」


 懐かしさと共に顔を戻してみれば、あの頃からはずいぶんと皺の増えた横顔と白髪の混じった髪が目に入る。妻の目線を追ってみれば、先ほど通り過ぎたナポレオンフィッシュがその先にいた。ナポレオンフィッシュは相変わらず、何を考えているのかわからない顔でぼぉっと泳いでいる。その姿に人のナポレオンとはずいぶんと違うのだなあと頓狂な感想を抱くが、そもそもを言えば相変わらずも何もこのナポレオンフィッシュがあのときの個体ということもないだろう。


 気恥ずかしさを隠したくてそんなことを妻に話すと、彼女は口元を隠して柔らかく笑って言った。


「あら、この魚は30年も生きる長命ということですもの。そういうこともあるかもしれませんよ」


 そうして言われてみれば、眼の前の2 mはありそうなナポレオンフィッシュがかつての私の醜態をさらしたあの個体に見えてくる。その感慨に思わず心が若くなり渋面を作ると、また横から笑い声。妻がよく笑う女と気がついたのは、何度かの逢瀬を重ねてからのことだったように思う。


 私は妻のこの胸の底そのままというような笑い声が好きである。故に、懐に忍ばせた私の余命に関する所見を、私はここまで切り出せずにいるのであった。最初に会ったこの場所でなら言えるかとも思ったが、話はそう上手くいかないようである。身を翻すナポレオンフィッシュを見ながら、私も死ねばああして海を漂うのか。と、益体もないことをふと考えた。


 夜は間もなくの頃である。


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 一言:ニライカナイには行けなさそうな人です。

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