薄氷を踏むプライベートゾーン

甲池 幸

薄氷を踏むプライベートゾーン

 時々、全部が無理になってしまう夜がある。


 社員寮の玄関で、由月ゆづきは真紅のパンプスを脱ぐことも出来ずに座り込んでいた。扉を開ける前、たまたまエレベーターで一緒になった同期に「おやすみ」と声をかけるところまでは、どうにかいつも通りを繕えていたのに、扉が閉まった瞬間、全身から力が抜けてしまった。

 何も出来ない。

 何もしたくない。

 全身が鉛のように重たくて、息を吐くたびに泣き出しそうで。ぎゅっと、伸縮性の強いジャケット越しに自分の肩を抱く。

『お、電池切れゆづちゃんだ』

 記憶の中から声がする。幸せになるのが怖いと言って、幸福を感じていい理由が自分にはないと語って、そんな身勝手な理由で由月を振った男の声がする。

『よく頑張ったな。今日はお風呂もご飯も髪のお手入れも、全部俺にやらしてよ。全身くまなくピカピカのほかほかにしてやるよ? どう?』

 彼はいつだって、そんなになるまで頑張るなよとは言わなかった。

 一人で立てなくなるくらいなら頼れよとは言わなかった。

 ただ、いつも子供みたいな顔で笑うくせに、由月を甘やかす時だけは、まるで大人みたいな顔をしていた。そういうところが好きだった。

 もうこれ以上、好きになれる人はいないだろうと思えるくらい、ただ好きだった。

 ブー、と短くスマホが震える。

 仕事の要件ならばバイブレーションではなく、通知の音が鳴るように設定しているから、個人的なチャットか、アプリの通知だろう。のそのそと顔をあげて、スマホと連携している腕時計型の端末で詳細を確認する。

「あー……」

 気の抜けた声が落ちた。表示されていたのは次の誕生日でついに三十になってしまうからと、覚悟を決めて申し込んだ結婚相談所からの連絡で、小さく、吐息が落ちる。ため息をついてしまってから、彼からの連絡を待っていた自分に気がついて、由月は奥歯を噛み締めた。閉じた瞼の奥から溢れた雫が、そっとまつ毛を濡らす。

「……拭いに来なさいよ、ばか」

 社員寮は全館一括で空調を管理しているから、いつだって快適な温度であるはずなのに、指先が震えるくらい寒かった。

 雫が、頬を伝う。直前。

 ガチャリ、とドアノブが回った。

(え、鍵)

 閉め忘れた?

 考えている間に、細くドアが開いて、猫のように誰かが滑り込んでくる。呆気に取られて大きく目を見開く由月の前で、不躾な侵入者はふ、と口元を緩めた。

「やっぱお疲れモードでしたね、麗さん」

 入ってきたのは、記憶の中の彼とは、似ても似つかない、冷たい顔の部下だった。

 秋月あきづき終夜しゅうや

 前回の移動で、由月の直属の部下として移動してきた若手の出世頭だ。笑なわない、怒らない、ふざけないの三拍子が揃った真面目な男で、間違っても、こんな時間に上司の部屋を突撃するような人間ではない。はずだ。

「な、に、してるの」

 こんなところで。

 こんな時間に。

 どちらを言うべきか迷って、結局どちらも声にならない。

「今日、会社で最後に見たあなたが特に理由なくご機嫌のようだったので。これは限界を誤魔化すために無理をしているやつかなと思いまして」

 言いながら、先日二十五歳になったばかりだと言う秋月は由月の足元に跪いた。そうして、流れるような仕草で足に触れる。

「え」

 突然触れた体温に驚いている暇もなく、右足の靴をそっと脱がされた。まるで、お話の中の騎士か、王子様がするような自然な動作だ。違うのは秋月の顔には微笑も緊張も浮かんでいないところだろうか。

(愛想笑いはできるみたいだけど、同僚にしようって感じはしないのよね。前に後輩が、鉄面皮の王子様って言ってたから、私が特別嫌われているわけじゃないだろうし)

「終わりましたよ。とりあえず、中には入れますか」

「え」

 表情筋が硬いのかしら、と考えている間に、どうやら左の靴も脱がされていたらしく、それだけで足が随分と開放的だった。少し、気持ちが上向く。

「風呂、溜めてきますね」

「え」

 すくっと立ち上がって、なんの迷いもなく自分も靴を脱ごうとするものだから、由月は慌てて、彼の足の前に腕を差し出した。

 流石に、ただの部下にこれ以上面倒をかけるわけにはいかない。そもそも、こんなふうに玄関で屍と化しているところを見られただけでも、後日ご飯を奢ろうかなと考えるくらいの失態なのだ。

「ちょっと、疲れてて、休憩していただけだから。もう、大丈夫。ありがとう」

 笑って、部下を見上げる。うまく、取り繕えているだろうか。うまく、笑えているだろうか。この状態で他人に会うのが初めてで、自信が持てない。秋月の顔を見ていられなくて俯くと、影が濃くなって、ふわりと柑橘系の香水が空気に混ざる。

「俺の仕事はあなたの補佐です。あなたが取りこぼした1%を拾い上げて、100%にするのが俺のやるべきことです」

「それは仕事の話でしょう。ここはプライベートの空間だし、そもそも就業時間はとっくに過ぎてるわ」

 しゃがみ込んだ秋月にそう言葉を返して、由月は口元の笑みを浮かべ直す。

「……じゃあ、今社用携帯に電話あったら、どうします? 切ります?」

「どう、って、それは、でる、けど」

 歯切れ悪く答えて、由月はそろりと視線を上げた。

「ふはっ」

(あ、笑った)

 存外、幼い顔で笑うのだと、初めて知る。

 笑った顔のまま、秋月の薄い茶色の瞳が由月を捉えた。

「じゃあ仕事中じゃねーか」

 そんな風に、砕けた言葉遣いもするのかと、驚いている間に秋月は立ち上がって、今度こそ由月の部屋に上がり込んだ。

「あ、わ、ちょ、待って」

 廊下に倒れ込みながら手を伸ばすと、大きな手にそっと頭を支えられる。

「危ないですよ。何やってるんですか」

 脱いだ上着を枕にして由月の頭を乗せると、秋月は膝に頬杖をつきながら由月を覗き込む。何をやっているの、は正直自分のセリフだと思いながら、由月はじっと秋月を睨んだ。横になった途端、眠気が襲ってきて、口を開く気力がない。

「そんな顔で見ても、俺は仕事するだけですよ。あなたを軽んじてるわけでも、弱みに漬け込もうとしてるわけでもないです。…………まあ、下心は、ありますけど」

 したごころ。

「ははっ、いつも以上になんもわかってなさそー」

 仕事だと、繰り返す割に、彼は仕事中には決して見られない顔ばかりする。笑っている顔は子供みたいなところ。本当は口調が荒っぽいところ。おでこにかかった髪をはらう指先が存外太いこと。半年一緒に働いて得られた情報と、この数分の間に知った新情報の比率がおかしい。どう考えても。

「きみ、ほんとにあきづきくん?」

「本当に秋月くんですよ。俺、二人もいないので」

「あ、ほんものだ」

「これも本物だっての」

「それは、しらないほうの、あきづきくん」

 もうほとんど空いていない視界を大きな手が遮って、そっと瞼を閉じられる。「寝てていいですよ。風呂、溜まったら起こします」ストン、と眠りに落ちる前、ゆりかごが揺れるように優しい声が意識の端に届いた。



「寝てる顔、赤ちゃんみてー」

 普段はまなじりを釣り上げて、年上の幹部たちと鎬を削り、獰猛な部下を一声で従えている強いひとなのに。終夜は穏やかな笑みを浮かべて、麗砂れいさの丸い額を指先でそっと撫でる。触れた感じ、熱があるわけではなさそうだから、本当に、単純な電池切れだろう。

 さてと、と気合を入れ直して、終夜はとりあえず、床で寝息を立てる麗砂の体を抱き上げる。普段、一体どうやってあれだけ重い責任を背負っているのかと思うほど、その体は細くて、軽い。揺れで起こしてしまわないように、丁寧に運んで、廊下を抜けてすぐの部屋にあったソファに横たえる。

「二人がけのソファって……誰と座るつもりで買ったんだよ」

 間違いなく、自分ではないのだろうという確信。

 きっと、あのゆるい雰囲気の男だろうという予感。

「未練たらたらですかぁー?」

 眠る彼女の頬をぷにぷにと突けば、誰の夢を見ているのか、口角が上がって、むにゃむにゃと単語未満の寝言が落ちる。その中で確かに呼ばれた知らない男の名前に、終夜はぐっと奥歯を噛んだ。願っても仕方のないことだし、祈ってもどうにもならないことだけれど、そいつに向けた好きな気持ちを魔法のように消し去りたい。

(幸せだったことだけ残して、未練とか、振られた痛みとか、全部消せればいーのに)

 彼女が、理不尽な痛みに喘ぐことがないように。

 こんなに素敵な人を捨てて、どこぞで笑っているだろう男のことを思って涙することがないように。

「そんでさっさと、俺のこと好きになっちゃえばいーのに」

 なんて。

 それこそ、願っても祈っても、仕方のないことだけれど。

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