この学園で心休まる時はこない。

李紅影珠(いくえいじゅ)

第1話

「この問題はこの公式を応用して……」


 自慢じゃないが、私、安元一樹やすもとかずきは、昔からそこそこモテた。スカウトされたのは一度や二度じゃない。その道を本気で考えたこともあったが、それをしなかったのは可愛い可愛い私の天使である妹の為だ。

 体を動かすこと全般において秀でた妹の梨華りかは、その代償とでもいうのか極端に頭が弱い。基本的に右から左へ流れてしまうし、一つ一つ丁寧に丁寧に教えたことがやっと頭に入ったかと思えば別の何かが抜けている。幼い頃からそんな出来の悪い妹の相手をしていたおかげで人に勉強を教える技術が鍛えられてきた私に、教師という職業は案外面白く自分に合った天職だったようだ。


 キーンコーンカーンコーン


 授業終了のチャイムが鳴り、生徒たちがざわめきだす。


「ここは次のテストに出るから覚えておいてください」


 ……もう聞いちゃいないか。教材をまとめ、教室を出て足早に職員室へ戻る。この学校で男性職員が寄り道をすることは許されない。購買で何か買うとか、気分転換に中庭に向かうことももちろんアウトだ。どこで何を目撃してしまうか分からないからな。もし修羅場に遭遇しても、息を殺し空気になって一刻も早くその場を離れる。と、いうのは私の中で決めているルールでしかないのだが、おそらく他の男性職員も似たような考えで動いているはずだ。


 私立星花女子学園。私が働いていて、かつ妹が在籍している中高一貫校。

 この学校で生徒にとっての男は、嫌い、怖い、興味ないのどれかで、ほぼ例外はない。極力彼女らの視界に入らないように─いや、そう意識しなくても見えていないのだろうが─行動するのが、平穏な学校生活を送るうえで大事な心構えだ。緊張感が抜けない学園生活ではあるが、生徒にまとわりつかれる心配がないのはありがたいことでもある。


「安元せんせー」


 椅子に座ったまま振り返ると、英語科の担当教師がこめかみをぐりぐりと指で押しながら困ったように何かを差し出してきた。


「妹さん、どーにかなりませんかねえ? 授業態度も提出物も全く問題ないんですがいかんせん点数が……また補習ですよ」


 差し出されたのは小テストのようだ。右上には赤ペンで20の文字。その少し下には/100とある。残念ながら50点満点ではない。


「話は聞いていたので、これでも昨夜つきっきりで課題をやらせたんですがね。20点とれたならまずまずでしょうか」

「せんせーって英語もできるんですか?」

「梨華の場合どの教科もボロボロですから、私も勉強して課題は教えてますよ」

「先生すごいですね! でもそれで、これですか……」

「これです」


 がっくりと項垂れる彼女にかけられる言葉は思いつかない。私はいくら努力が実らずとも、可愛い妹相手に教える分には全く苦にならない。が、こんな生徒が他にいたら確かに気が滅入ってしまうだろう。


「私は、教師としての自信がなくなりそうです」

「皆そうです。けど、梨華の頭が悪いだけなので落ち込まなくて大丈夫ですよ」

「ていうか、本人があまり気にしてないのも問題なんですよねぇ」


 その通りだ。難しいことは分からないと諦めているというか、向上心もない。


「ここの受験だって、他所と比べて結構レベルが高いはずですけど、どうやって入学したんです?」

「どうしてもここに入りたかったようです。頑張ってましたよ。かなり付き合わされました。あの時必死に教えた全てがあの子の頭には全てぼんやりとしか残ってないようですが」

「理由があればもっと頑張れるってことです? ていうか、そこまでここに入りたかった理由って……?」

「強い人がいっぱいいるから、だそうです」


 梨華は体力的な意味で強い。小柄だからそうは見えにくいが、反射神経が良く身のこなしや力の使い方が上手い。自分の体をよく理解している分、男にも負けることは早々無い。

 変な虫がつかないよう小学生の頃に『男は狼だから不用意に近づくな』と言って聞かせたことがある。どういう意味かと問う梨華に、『男は力が強くて危ない。取って食われるぞ』と返すと、次の日近所の男子をボコボコにして、「兄さんの嘘つき。皆びっくりするほど弱いじゃないですか」と至極がっかりした様子で訴えてきた。

 この時忙しかった両親に代わって学校からの呼び出しに応じたのは私だ。一応別の女の子にちょっかいをかけていたという理由があったのだがかなりの厳重注意を食らったし、本人はなぜそこまで怒られるのか理解していなかった。かわいそうなくらいシュンとした顔でその場をやり過ごしていたが。


「強い人……例えばどんな人でしょう」

「お嬢様であることもそうですし、部活の成績とかどんな人がいるとか、いろんなとこから情報が入ってきたそうです」

「体力的な意味とは限らないんですね」

「それが一番ではありますが、強ければなんでもいいんですよ、梨華は」

「変な子ですね」


 正直、ここの生徒を見てれば梨華は普通の部類に入ると思うがな。

 タレントだったり、変な部活動してたりするわけでもない。顔はとんでもなく可愛いが、それだけだ。目立つほどの何かがあるわけじゃない。そう、


「梨華はただの可愛い天使です」

「……ここの男性職員って、やっぱ変な人しかいないですよね。先生は、次の授業どこです?」


 少なくとも私を変な人に入れるのは目の前の彼女だけだろう。そう思いながら中等部3年2組だと答える。あー、とニヤニヤしながら何か思い出した様子の先生が、


「今日は絶好調でしたよ、美剣さん。当てるといいです」


 美剣さんというのは、そのクラスに所属する美剣理加みつるぎさとか。現役女優をしている生徒だ。芸能一家の長女で、両親の血を受け継いだ綺麗な顔立ちではある。私自身テレビはあまり観ないが、それでも両親もともに名前をよく聞く。とはいえ生徒としてみれば、成績、授業態度や提出物も特筆すべきことはない普通の生徒だ。そう認識していたが、絶好調とはどういう意味だろうか。


「おっと、そろそろ時間ですね。行きますかー」


 んじゃ、と特にそれ以上説明してくれるわけでもなく彼女は去ってしまう。私はといえば、少しでも人目につかぬようチャイムが鳴ってから急いで教室へ向かった。


「じゃあこの問題を……美剣さん、やってみなさい」


 ぐるりと教室を見渡してから彼女の名前を呼ぶ。

 あんなことを言われたら気になるじゃないか。

 すっと立ち上がった美剣さんは、やや大股でこちらへと堂々と歩いてくる。黒板の前に立つと、手を止めることなく綺麗な文字で式を解ききった。


「正解。少し難しい応用問題ですが、ちゃんと理解できているようですね」


 そう褒めると、彼女が纏う空気が一変したような感覚に襲われた。


「当たり前じゃない! このくらい当然よ」


 聞いたこともないよく通る声でそう言いながら、真っ黒な髪をかきあげた。こちらを睨むようなその目は自信に満ちている。かと思えば、そっと目を伏せた。


「……このくらい解けないとママに殴られちゃうもの」


 私にだけ聞こえるくらいの小さな声でぼそりと零して、その言葉に気を取られている間に、また堂々とした足取りで席に戻っていった。

 え、殴られる? なんだそれ、上への報告案件か?

 と焦りかけて、平然としている他のクラスメイトの姿を見て冷静になる。さっき先生が言っていた絶好調はこれのことなんだろう。

 つまり……役に入り込んでた、とか?

 そうだよな、母親はあのベテラン女優だ。虐待なんてゴシップのいいネタになるようなことをするわけがないだろう。とはいえ、少々不安が残ったので、授業のあと適当な生徒を捕まえて一応確認する。


「すみませんね、一応念のための確認ですけど、美剣さんが虐待を受けてるわけではないですよね?」

「あーだいじょぶだいじょぶ、なんか次のドラマがそーいう役なんだってさ。しかもお母さんと共演らしくって。いつも以上に熱が入ってるだけっスよ」

「良かった。ありがとうございます」


 ホッと一息つく。いや、教室を出遅れてしまったな。急いで職員室に戻らなければ。

 それにしてもなんだかどっと疲れたような気がする。女優を舐めていたようだな。あんなに引き込まれるものなのか。ああ、早く帰って梨華を補給したい。




 昼間の出来事は関係なしに、帰る頃には体がぐったりと重くなっている。

 首を傾けるとパキパキと音が鳴った。コンビニで買ったビール2本が入った袋をぶらさげて、家の扉を開ける。


「ただいまー」

「兄さん、おかえりなさい」


 ああ、天使だ!

 梨華がポニーテールを揺らしながら何やらご機嫌で駆け寄ってきた。

 思わず手を伸ばし、ポンポンと頭を撫でる。


「どうした? 何か良いことでもあったのか?」

「これ、見てください!」


 目の前に現れたのは、昼間見た英語の小テストだ。


「20点もとれました!」


 褒めて褒めて、という圧がすごい。

 流石にこの点数で褒めるのは甘やかしすぎだろう。せめて補習を回避できる40点は超えないと……


「これとこれ、兄さんとやった問題がまるっと出てきたので書けました!」


 むふー、と鼻息を荒くして自慢げな梨華は、とても可愛い。こんなん褒めるしかないでしょ。


「よく頑張ったな。次は補習から逃げれるともっといいんじゃないか?」

「そうですかね?」

「補習がなければ体を動かす時間をもっととれるだろ」

「兄さんはやっぱりすごいです! とっても頭がいいです! 次はもっと頑張ります!今日は歴史を教えてください」


 そう、こうして可愛い可愛い妹に頼られるため、私は教師になったのだ。

 今日はなんて幸せな日だろう。

 いや、今日も、なんて幸せな日だ!!


「ああ、分かったよ」


 興奮をなんとか抑えながら答えると、久しぶりに帰省していたらしい姉が冷ややかな目で、「キモっ」と身震いするのが目の端に映った。



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この学園で心休まる時はこない。 李紅影珠(いくえいじゅ) @eijunewwriter

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