「今日はいつもより太陽が近いね」

相川ヒゲ

「今日はいつもより太陽が近いね」

 照りつける太陽がジリジリと肌を焦がす。陽炎で先の景色がゆらゆら揺れて見えた。今日はなんだか、朝起きたときからいつにもまして暑い気がする。こめかみをつたう汗が顎を通って滴り落ちて、鼻や鼻の下、目の下にもプツプツと汗が噴き出しているのを感じるけど、拭っても拭っても噴き出してくるから垂れ流しのまま。Tシャツが汗で張り付いて気持ち悪い。うえーっ。

 時々擦れ違う若い女の人が涼しい顔をしていることに内心驚きながら、両手で持ったピザの箱をなるべく揺らさないように、走る。私も一応若い女性に分類される年齢だけど、周りを歩く人は皆同じように汗を垂れ流して歩いている人の方が多い。だから人目は気にならなかった。

 マンションのエントランスに到着すれば日陰に入って太陽から逃れられるけど、エレベーターを待つためにじっとしているとやたら汗が噴き出してくる。走ってる時より止まった時の方が汗がぶわっと噴き出してくるの、これはどうしてなんだろう?

 エレベーターの中はクーラーが効いていて比較的涼しかった。四階の自室に着いて、ピザの箱をテーブルに置いたらその足でシャワールームへ。汗を流したら新しいTシャツと短パンに着替えて、やっと冷たい麦茶にありつけた。ゴクゴクと喉を鳴らして飲む方が美味しい気がする。

 濡れた髪はそのうち乾くから、タオルを適当に頭に巻いておく。はぁ、と一息ついて、ふと部屋の温度がぬるいことに気づく。エアコンの効きが悪いのかな、とリモコンの温度を見れば冷房の設定は38℃。ちょっと高いな、36℃くらいにしておこう。

 冷房が効き始める前に、ピンポン、とチャイムが鳴った音がした。

「入っていいよー」

 玄関に向かってそう声をかければ、ガチャリとドアの開く音。「あっちー」と声が聞こえて、リビングへ向かってくる足音は今日家に来る約束していたタカシだった。

「今日、いつもより暑いな」

「暑い」

 暑い、って言うか熱い。

 頭から汗を流すタカシに「シャワー使っていいよ」と言えば、私が言い終わる前にシャワールームへ向かっていた。

 リビングの窓を開けてベランダへ出る。ムワッと肌に感じる空気そのものが熱い。いや、空気は熱いって言わないんだっけ? でも屋根で日陰になっているおかげで、肌を刺すような熱さは感じなかった。視界には向かいにも立ち並ぶここと同じようなマンションと、青空と白い雲。道路を挟んでいて距離があるのに、白い雲の下だと築年数の古いマンションは壁のクリーム色が濃く見えるような気がする。涼しい色とは言えない。壁を空よりちょっと濃いくらいの青に塗っちゃえば、視覚的にもっと涼しくなるかな。

 風に揺られて、吊るしてある風鈴がチリリンと涼しい音を立てる。私はあまりそう感じたことがないけど、風鈴が鳴ると涼しく感じる人が多いらしい。手のひらより少し大きい風鈴には、小さな魚の群れが描かれている。タカシには「金魚とか朝顔とか描いてある、もっと小さいやつにした方がいいんじゃねーの」と言われたけど、私はこれが気に入ってる。涼しく感じないけど、なんか大きい器に小さい魚のほうが、広く泳ぎ回れている気がして気持ちよく感じるから。

「あーっ、すっきりした」

 上半身裸のまま出てきたタカシが、ガシガシと頭をタオルで拭く。タカシのタオルを受け取って、自分の頭に巻いていたタオルもまとめて洗濯機の籠に投げ入れた。

「ピザ食べよ!」

 買ってきたのは、サーモンとトウモロコシのピザ。

 ベランダの小さなテーブルは、ピザと2人分の飲み物を置いたらそれでいっぱいになってしまう。手は後で洗えばいいやと、一切れ取って口に運ぶ。どこにでも売ってるピザだけど、この店のピザが他の店よりトウモロコシがたっぷり入っていて美味しい。

「おいしー」

「うめー」

 顔を見合わせて笑う。190mlの瓶に入った炭酸が、シュワシュワと喉の奥で弾ける。せっかくシャワーを浴びて汗を流したのに、またジワジワと汗をかく。でも休日のお昼はこれでいい。

 向かいのマンションのほうへ視線を向ければ、同じようにベランダで食事をする家族やカップル。1人でぼんやりと下の道路を眺める人もいた。

 日本は100年ほど前から徐々に、冬は暖かくなり夏の暑さがきつくなって、はっきりとした四季という存在がなくなってしまったらしい。何年か前に学校でそう習った。教科書に小難しい説明と見方の分からない図が乗っていて、先生が何やらしゃべっていたけど何言ってるのかさっぱり理解できなかった。だからどうしてそうなってしまったのか、詳しい理屈は分からないけど、今の日本は年中暖かく寒さを感じることはほとんどない。12月から2月にかけては少しだけ肌寒いような気がするけど、気温は大体28度くらい。これは50年以上前だと夏の温度だったらしい。クリスマスも太陽が輝き、お正月も陽気な気温の中迎える。私が生まれる前は雪と言う白い氷が降り積もっていたとか。想像できないね。

「あ、きたよ」

「え?」

「ほら、あっち」

 タカシの言う方に視線を向ければ、ベランダの下に見える道路の向こうから人の塊が歩いてくるのが見えた。先頭の何人かが大きな布を下げていて、プラカードやポスターのようなものを掲げている。時々こぶしを突き上げる彼らの声は、近づいてくると何を言っているのか分かるようになった。

「政府の言うことを信じるなー!」

「信じるなー!」

 国民は騙されている! この暑さは政府の実験のせいだ! 白い布に黒でそう書かれている。街中を行進する彼らは陰謀論というものを信じる人たちらしい。よく見ると老人から子供連れの主婦まで老若男女が太陽の下、汗をかきながら歩いている。私たちと同じくベランダで食事する人たちは彼らに視線を向けたり、スマホで撮ったり、気にせず食事を続けたり。応援したり手を振って答える人はいないみたいだ。

 一か月に一回くらい、あの人たちが行進してるのを見かける。私服に白い布や、黄色いポスター。叫ぶのは同じ言葉ばかり。パレードにしては地味だよね、と前にタカシに言ったらあれはああいうものだと言っていた。

「本当に政府が日本を熱くしてるのかな」

「んなわけねーじゃん」

「でもあの人たち、ああ言ってるよ」

「そう信じたいんだよ。誰かのせいにしたいから」

「ふーん?」

 タカシは政府の施設で働いている。この暑さの原因を究明するための研究所。だからタカシにも学校で習う内容を説明してもらったことがあったけど、やっぱり難しくて私には理解できなかった。

 あのプラカードを持った人たちには、タカシの説明や学校の先生が授業で言うことより、信じたくなるような何かがあるのかなと思っていたけど、タカシが言うには説明の中身はそれほど重要じゃないそうだ。自然現象ではなくて、責任を取れる人や組織のせいにしたいと思ってしまう。そんな人間もいるらしい。

 たしかにこれがもし政府のせいだったとしたら。いつか責任を取って、季節や気温を元に戻してくれるのかな。その辺のことは私にはよく分からないけど、でももし見たことのない雪が見れるなら、ちょっとだけ応援してもいいかもしれない。

 遠ざかっていく彼らの行進を眺めながら、190mlの瓶に手を伸ばす。水滴だらけの瓶に入っている炭酸はすっかりぬるくなってしまったけれど、炭酸はまだ効いてる。ピザにはこれ以外に合う飲み物はないと思う。

「今日はいつもより太陽が近いね」

 見上げた太陽は、眩しすぎて直視出来ない。白く光って輪郭が分からない。でもなんだかいつもより大きい気がした。

 タカシも空を見上げた。

「近いな」

 そばかすだらけの顔の細い目をさらに細くして、タカシは「眩しい」と唸って、太陽から隠れるように家の方を向く。そして手を伸ばして室外機の上に置いていたラジオのスイッチを入れた。

 ミーンミーン、ミーンミーン。

 セミサウンドチャンネル。ラジオからはセミという虫の音が聞こえてくる。昔の日本には、セミという名前の夏だけ生きる虫がいたらしい。何年か長い間は土の中で過ごして、出てきたら一週間だけしか生きられない。余命何日、ってドラマや映画のタイトルみたいでとてもエモい生き物だと思ったけど、すごく大きい鳴き声を聞いてエモいは取り消した。このチャンネルではそのセミの鳴き声を流してる。おばあちゃんやおじいちゃん世代の人は懐かしい音らしいけど、私は嫌い。なんかジャリジャリ頭に響くような、余計暑く感じる音だ。

「ねぇ、チャンネル変えてよ」

「んー?」

 聞こえないふりをするな。タカシはこの変な音が好きらしくて、チャンネルを変える気がないみたいだ。「懐かしく感じる音だ」って言うけど、自分だってセミなんて実際に見たことないくせに。

 おじいちゃんやおばあちゃんが生きている友達は、スマホに録音してあった映像でセミを見せてもらったことがあるって言ってた。テレビのニュースでも、昔の日本の夏だって映像を流しているのを見たことがある。木に止まってる羽の生えた楕円形の黒っぽい虫。私はそれを可愛いともかっこいいとも、まして懐かしいとも思わないけど。

 おじいちゃんやおばあちゃんと言えば、私のおじいちゃんたちは一体どういう人だったんだろう。四季が無くなると同時に、平均寿命は昔より短くなったらしい。私が生まれた頃にはもう二人は死んじゃってて、お母さんがお墓参りに行くたびに二人の話をしてくれる。ニンジンってオレンジ色の野菜を育ててたらしいけど、暑さで育たなくて辞めてしまい、今その畑にはソーラーパネルが敷いてある。私は食べたことがないけどお母さんはニンジンが嫌いだったから、辞めることになって嬉しかったって。お母さんが嫌いだったオレンジ色の野菜、ちょっとだけ食べてみたかったな。

 サーモンもオレンジ色してる。ピザに視線を落として、そういえばいつもより食べる速度が遅いことに気づいた。

 今日は本当にいつもより暑い。茹だるような熱さ。だから食欲がだんだん無くなっていく。

「ねぇ、チャンネル変えて」

「はいはい」

 セミの音もいつも以上にうるさく感じる。イライラしている口調になっちゃったせいか、タカシが渋々チャンネルを回す。

 中古で買ったラジオはちょっとボタンの感度が悪い。でもこのレトロなところ込みで気に入っている。カチカチと回して、セミサウンドチャンネルから滝の音サウンドチャンネル、インフルエンサーチャンネル、ニュースチャンネル。ニュースチャンネルから、興奮したアナウンサーの声が聞こえてきた。

『皆さん、落ち着いて聞いてください! 大変です! 政府がこの暑さの原因である――について認めました! また同時に制御装置に不具合が生じたことも発表しました! 昨夜から急激に気温が上がっているのは、このためだったようです。繰り返します、このままだと数日で日本は――』

 ブツッと音が切れる。タカシがラジオを消してしまった。

「何で消したの?」

「いや……うるさかったから」

「そっか」

 うるさいと余計暑く感じるもんね。でもさっき、アナウンサーが何か言っていた気がする。タカシに聞けば、あれも陰謀論というものらしい。アナウンサーの暴走だから、気にしなくていいんだって。

「タカシってけっこう物知りだよね」

「お前が物知らなすぎるだけだよ」

 タカシが「そろそろ中に入るか」と言うから、室内へ入るためテーブルの上を片づける。結局食欲がわかなくて残したピザは、冷蔵庫に入れて今日の夜も食べることにした。今度は部屋の中で、涼しいところで食べよう。ふと外を見れば、向かいのベランダで食事をしていた人たちもバタバタと慌ただしく中へ入っていく。皆、暑さに耐えきれなくなったのかもしれない。

「またシャワー浴びようかな」

「俺も」

 暑すぎるのはちょっと疲れるけど。次の休日もまた、タカシとこうやって過ごせたらいいな。

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「今日はいつもより太陽が近いね」 相川ヒゲ @hige_135_ge

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