第8話

***



 やがて冬が訪れ、大学オーケストラの定期演奏会が開催された。

 開演直前のホール、涼香はギリギリ一番後ろの席に滑りこんだ。



 照明が落とされるほんの数秒前、目を通したパンフレット。団員名簿の一番上には「大和田春」の名前。その文字列を見ただけで鼓動が速くなる。嫉妬だと思っていた感情は、いつの間にか憧れさえも通り越していた。


 本当は最初に堕ちたのも、絶望の海なんかじゃなかったのかもしれない。




 客席の照明が落ちる、ステージ上が明るく照らされる。続々と入場してくる団員たち。最後に登場した春に、たくさんの拍手が沸き起こる。春が会場を見回して、遠くの涼香を見るように一瞬、その視線を動かした。涼香の心臓がどくりと脈打ち、慌てて顔を伏せる。


 涼香は今日、自分が来ることを春に知らせていなかった。更には涼香が同じ大学だということも、彼はまだ知らないはずだ。



 チューニングが終わり、指揮者が現れる。

 盛大な拍手が会場を満たし、そして静かになり、ついに一曲目が始まった。




 ああ、春さんの音だ。



 スローテンポから始まった壮大な序曲。たくさんの音の中からでも、真っ直ぐに涼香の席まで届いてくるのは春の音色。初めて聴いた時から彼の音だと確信していた、春風のように暖かくて爽やかな響き。身体全体に染み渡って、あっという間に柔らかな温度に包まれる。



 春さんと、また一緒に弾きたい。



 その時ふと湧き起こった小さな希望。舞台上にいる春は長い腕を器用に扱い、音符を操っている。

 私もいつかあんな風に弾いてみたい。一緒に、同じ舞台で同じものを目指してみたい。

 最初の頃の嫉妬心、劣等感が嘘のように明るく見えるスポットライト。それに照らされる自分をもう一度想像してみる。春のすぐ近くで、楽器を大きく鳴らす自分。

 そうなりたい、また現実にしたい。



 私は、春さんを追いかけたい。





 あっという間にアンコールまで終わってしまった演奏会。

 涼香は一番後ろの席で、これでもかと両手を必死に打ちつけ合う。頬を伝うのはいつもと少し違う温度の涙。やがて終演のアナウンスが聞こえ、ロビーで出演者による見送りがあることを知る。途端に涼香の全身を駆け巡る熱い衝動。


 春さんに会わなきゃ。



 次の瞬間にはもう、ホールを飛び出していた涼香。小さな鞄を引っ掴み、ロビーへとエスカレーターを駆け降りる。

 伝えたいことがある。今すぐに、どうしても今すぐに。



「春さん!」



 ロビーの一角、たくさんの観客に囲まれていた春の姿を見つけ、いてもたってもいられずにその名前を呼んだ。

 人混みの隙間から、春の視線が涼香を捉える。ゆっくりと一度、瞬きをする。



 私、オーケストラに入ります。

 あなたの側で、音楽をさせてください。



 新しい希望を胸に一歩一歩近付いてくる涼香を見て、なぜか春は全てわかっていたかのように。この瞬間を待っていたかのように、そっと微笑み、涼香に手招きをした。

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この夜に欠けたまま 汐野ちより @treasurestories

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