第7話

「じゃあ、まず俺が上弾くね」

「わかりました、」



 ふたりで分け合った譜面台。楽譜に頭を突き合わせ、すぐ隣には春の横顔。涼香は突然の展開と緊張を招くたくさんの要素に、手が震えるのを感じた。

 すると、それに気がついたのか春がささやかに笑う。



「大丈夫、ありのままで」

「でも私、本当に下手だから」

「音楽を楽しむのに上手も下手もないって、知ってるよね」



 楽しむ、音楽を。

 目の前に転がり落ちてきたその言葉があまりに懐かしくて、思わず目頭が熱くなる。春にはすべてお見通しなのだろうか。涼香が小さく鼻を啜ると、彼は静かに楽器を構え直した。


 もう、後には引けない。涼香と春の目が合う。

 はっきりと出された合図の後、ふたつのヴァイオリンが同時に歌い出した。




 最初は、恐る恐る。


 右腕がうまく動かず、涼香の弦が小さく耳障りな音を立てる。それにまたどうしようもなく泣きたくなって、今度は左手が固まりそうな嫌な予感。やだ、この感じ。小さく唇を噛んで演奏をやめそうになったその時。



「聴いて、俺が一緒に弾いてるから」



 すぐ横から被さってきた春の声。そして、伸び伸びとしつつも意志の固い真っ直ぐな春の音。その少しの狂いもないビブラートが、涼香の鼓膜を潤す。そして同時に、背中を頼もしく押してくる。



 きっと、導かれている。

 春さんが私を連れていってくれる。



 そう気がついた先には、形容し難い夢のような世界が広がっていた。




 ぴったりと合わさるふたり分の呼吸。促されるように、旋律の中を泳ぐように動き始めた腕と指先。弦と弓が擦れあう枯れた音でさえ、春が包み込んでくれる。休符の度に重なる視線、キュッと結ばれた春の口角。

 背筋がゾクゾクするほどに、まるでひとつになってしまったみたいに、春の奏でる音が涼香を抱きしめて離さない。涼香もそれに答えようと、一心不乱に音符の中の春を見つめ続ける。



 初めてだった。こんなにも誰かと弾き合えたのは。




「……春さん、私、」


 最後の一音が空気に溶けていく。ふたり同時に弓を下ろし、涼香はたまらず春の名前を呼んだ。視線を上げれば、吸い込まれるように目と目が合う。

 春が柔らかく、また笑う。



「……涼香ちゃんは本当に、音楽が好きなんだね」



 春が楽器を肩から下ろす。指先が弦に触れ、奏で損ねた音の粒が落ちた。



「すごく伝わったよ。音楽が大好きで、目一杯楽しみたいんだって、叫んでた」



 涼香の頬を、耐えきれず涙が濡らす。


 そうだった、私はずっとそうだった。自分と音楽さえそこにあればよかった。ただ委ねて、楽器とひたすらに会話することが何よりも楽しかった。周りの評価なんてどうでもよかった。

 きっと大人に近付き、自分の世界が広がった途端、その大切な気持ちをうっかり取りこぼしてしまったに過ぎなかった。



「……弾いてくれて嬉しかった。俺はずっと好きだよ、涼香ちゃんの音」



 春が不意に涼香の涙を拭う。熱すぎるその温度に、また余計に込み上げる。

 自分の音楽を真っ直ぐ見つめてくれる人に、久しぶりに出会えた夜。

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