第6話
ふたりで歩くようになって数週間。その日の夜は、春がいつもと違った。
「こんばんは、春さん」
「あ、涼香ちゃんこんばんは。レッスンお疲れ様、ちょっと来てほしいとこがあるんだけど」
「……来てほしいとこ?」
会った瞬間から、「じゃあ行こ」とだけ呟き、さっさと歩き出してしまった春。
唐突だし、どこに行くのかわからない。しかし涼香は春についていくことを選んだ。春のことをもうそのくらいまでには信用していた。
やがて春が足を止めて振り返る。そこに現れた小さなマンションの前で手招きをした春は、あっという間に中に入っていってしまった。涼香も戸惑いながらあたふたと続く。
「春さんのお家ですか、」
「ううん、ただのレンタルスペース。一番近かったからここにしただけ。入って?」
辿り着いたのは一階の小さな一室。
春に促され部屋の中に入ると、そこはピアノだけが置いてある簡易的なスタジオだった。そしてその部屋の片隅に、紺色のヴァイオリンケース。まさか。
「俺やりたい曲があるんだけど、それヴァイオリン二本の楽譜なんだよね。ちょっと練習付き合ってくれない?」
「……私が、ですか」
「そうだよ。だって聴かせてくれるんでしょ、機会があれば」
涼香が恐れていたことが現実になった。
「機会があれば」という回避の言葉を「機会を作る」という強引さで見事に潰されてしまった。その場に立ち尽くす涼香に構わず、楽器を取り出し始めた春。
あれよあれよという間に譜面台も楽譜も、どんどんセッティングされていく。
「……あの、春さん、やっぱり私はちょっと、」
「涼香ちゃん」
怖気付き、断って逃げてしまおうと口を開いた途端、春が真剣な顔で振り向いた。思わず発しかけた言葉を飲み込む。
ゆっくりと息を吸う春。ふたりの視線が交わる。
「……誰でもいいんじゃなくて、涼香ちゃんに弾いてほしいんだよ、本気で」
春の真っ直ぐな声が、涼香の心に突き刺さる。
本当はずっと、そんな言葉を聴きたかったのかもしれない。
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