【短編】欠けたヴィーナス

お茶の間ぽんこ

欠けたヴィーナス

 深夜二時、大学に訪れた。日中の喧騒とは相反してとても静かで、アスファルトの地を蹴る音だけが辺りを響かせた。きっと警備員に見つかれば詰問されるだろう。閑散な夜も相まって何とも言えない不安を感じた。


 しかし今は美樹と一緒だ。何も怖いものはない。


 僕はトートバッグを肩に掛けなおして歩みを進める。横にいる美樹が不安そうにこちらを見つめていた。


 どうして大学に来たの?


「僕にとっては、君との思い出のほとんどがここに詰まっているんだ。それに夜だったら自由に歩き回っても誰も変な目で見てこないだろう。だって誰もいないんだから」


 なるほどね、と美樹が安心した顔をみせた気がしたけど、暗くて彼女の顔を伺うことはできなかった。



 僕たちは思い出のセミナールームに入った。僕と美樹が初めて知り合った場所。ロマンチックな出会いとは呼べないけれど、今でも脳裏に焼き付いている。


 僕は電気もつけずに席に座り、膝の上に彼女を座らせた。こんな恥ずかしい体勢になれるのも人目がないからだ。


 僕はじっと正面のテーブルに焦点を置いた。すると記憶が周りの世界に投影される。


 少人数で講義を行う必修科目があって僕と美樹は同じクラスだった。肩までおろした艶めいた黒髪、大きな濃褐色の眼と卵のように滑らかな輪郭、そしてカジュアルな服装に覆われた女性らしい体つき、ヴィーナスのように完璧な女性だというのが第一印象であった。それでいて気さくなタイプのようだったから、僕みたいな人種とは無縁だろうと割り切っていた。そんな彼女とはグループワークで初めて言葉を交わした。僕が内気で愛想笑いしかできなくて、他の人に意見を求められても気の利いたことは言えなかった。それで皆は蔑んだ眼で見てきて、僕を無視して課題に取り組んでいた。僕は居たたまれない気持ちでいっぱいになって消えてしまいたいって心の中で唱えていた。


 でも、美樹は違った。


「河野くん、どうしたの?」


 話を遮って声をかけてきた。不意に話しかけられたものだから、しどろもどろで答えると「河野くん、かわいい。癒しキャラだね」と、こんなどうしようもない僕を構ってくれた。絶対的な美樹さんの一言によって場は一変し、皆の態度が冷ややかな態度から柔和な態度へとなり、僕を癒しキャラとして受け入れてくれるようになった。美樹の鶴の声が僕を救った。それからの講義がとても楽しかったし、目が合うたびにクスッと微笑む美樹の笑顔が何より愛おしかった。


「懐かしいな、一年前だっけ。君にとってどうってことない思い出だろうけど、僕からするととても大事なことだよ。だから連れてきたんだ」


 目の前にある美樹の髪を撫でおろしながら、素敵な思い出を反芻する。


 彼女の顔を覗いてみると難しそうな形相で目の前のテーブルを見ていた。忘れかけた記憶を掘り起こそうとしているのだろう。


 こうやって河野くんと一緒にいれて嬉しいよ。でももし同じクラスじゃなかったらあなたと私は今この瞬間を過ごすことができなかったんだよね。神様がいたら感謝したいわ。


 僕は運命について考えた。運命というものは偶然の連続性の上に成り立っていて、僕と美樹が出会えたのもその偶然にすぎないのだろう。ただ、僕を受け入れてくれて、また僕が夢中になれるのはきっとどう転んでも美樹しかあり得ないし、自己存在の関係性において必然的であったといえるに違いない。そうすれば半信半疑だった神は存在し、ヴィーナスが僕に救済の手を差し伸べてくれたとも考えられるかもしれない。


 そういえば美樹は僕のことを、初めどう思っていたのだろう。


「覚えてないかもしれないけど、僕への第一印象ってどうだった?」


 僕は何気なく聞いてみた。


「ただ陰気で、ありふれた一人にすぎないね。あなたが可哀相だったから気まぐれに助け船をだしてあげただけだよ」


 セミナールームは静寂に包まれていた。



 深夜の食堂には僕たち二人しかいなくて、その広さがいっそう僕の心に空白感を与えた。


 僕と美樹は向かい合わせに座って、暗闇に溶け込むように黙ってじっとしていた。


 僕は過去の情景を思い浮かべる。


 美樹は一人でご飯を食べることが多かった。人当たりがよくて人気者な美樹でも輪から外れたいという気持ちがあったのだろう。僕がどこもかしこも埋まっている食堂を徘徊していて途方に暮れていたとき、たまたま美樹と目が合って「こっち詰めたら座れるよ」と言って手招きして誘ってくれた。その日から昼休憩のたびに美樹の姿がないかを探して、彼女がいたら一緒にご飯を食べるようになった。僕は他の人とは違って寡黙なタイプだったので、ゆっくり食べたい美樹にとっては好都合だったようだ。二人で何も言わずに黙々とご飯を食べる時間は至福のひと時のように思えた。


 私、河野くんと一緒に食べるのが好き。


「僕もだよ」


 正面にいる美樹は少し口角を緩ませた気がした。


 二人して横に並んで食事をしているとき、美樹は何を考えているのだろうか。僕は彼女の口へと運ばれて同化していく食べ物が少し羨ましかった。人間は交際や結婚によって相手との関係性を繋ぎとめようとするが、本当の意味で一心同体になるには形式的な契りではなく、もっと物理的で直接的な繋がりが必要なのではないかと思う。美樹と一緒に受けた人文学の講義でカニバリズムという概念を習った。飢餓や宗教的理由で人肉を喰らっていた地域があったらしい。だけどもしかしたら本質は違って、生物の本能として相手を求めていて同一化したい欲望が僕たち人間に備わっているのかもしれない。僕はそんな小難しいことを食べながら考えていたが、美樹は一体何を考えていたのだろう。


「美樹は黙って食べている間、何を考えていたの?」


「どうすればあなたが離れてくれるか、かな」


 食堂は静寂に包まれていた。



 誰もいないテニスコートは真っ暗だった。


 僕たちはフェンス越しのベンチに座った。


 美樹はテニス部に入っていて、放課後になると必ずここで部活動をしていた。


 彼女は運動神経もよく、持ち前の動体視力でボールの軌道を把握し鮮やかなサーブで相手を翻弄していた。短めな丈のテニスウェアによって露出した手足はとても艶美で、肌から滴る汗すら清らかな滴のように見えた。僕は彼女の一ファンとしてその試合風景を眺めてエールを送っていた。僕に気づくと、美樹はこちらを見ながら他の女子部員と話し始める。きっと友達から彼氏なのかと問い質されているのだろう。まだそんな関係じゃなかったけど、僕はまんざらでもなかった。


「君のプレイはとても可憐で、誰よりも輝いていた」


 横にいる美樹にそう言った。


 彼女は黙ったままだった。何だか楽しくなさそうな顔をしている。もうテニスができないことを悲しんでいるのだろうか。


 僕は頭を撫でて慰めてあげようとした。


「触らないで」


 突然、開くはずもない口が開いた。


「美樹どうしたの」


「もう私に付きまとわないでって言ったよね」


——もう私に付きまとわないで


 はっきりと言ったセリフと悪夢が蘇る。


 女子部員と美樹が僕の前に立つ。


——美樹があんたのこと嫌がってるの、分かんないの


——いやらしい目でジロジロ見んな


——二度と美樹に近づかないで


 そして美樹から言われた言葉。


——お前、キモいよ


「違う。美樹はそんなこと言わない」


 今このときと過去が重なり始める。


「鬱陶しいのよ。もう大人なんだから、自分の物差しばかりで物を見るんじゃなくて客観的に見てみたら?」


「違う」


「お前のせいで全て滅茶苦茶だ」


「違う違う違う」


「お前のせいで友達から変な目で見られるようになったお前のせいでまともに授業が受けれなかったお前のせいでご飯が喉に通らなくなったお前のせいで部活動に行けなくなったお前のせいで好きな人に拒絶されたお前のせいで夜眠れなくなったお前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいで」


「やめろ!」


 美樹を突き飛ばした。


 美樹は勢いよくフェンスまで転げ落ちた。


 胃が逆流して凄まじい吐き気に襲われた。


 顔を宙に向け、手で口を塞ぎ込んだ。


 胃液が手に染みこんで吐瀉物の匂いがする。


 僕はその口で彼女の顔を持ち上げて接吻した。


 美樹の唇を涎塗れにして味わう。血と異物の味が溶け込んで喉を通っていった。


 僕は彼女を抱きしめてしばらくじっとした。


 もう美樹は何も発さなかった。


 テニスコートは静寂に包まれていた。



 夜のテニス部の女子更衣室に入った。誰もいないとは言え、異性の更衣室に入るというだけでやましさを感じてしまい、鼓動が高鳴った。


 美樹は何も言わずついてきてくれた。もしかしたら既に気づいていたのかもしれない。


 僕は美樹のロッカーを開けて、隅に置いてある盗聴器を回収した。


 一般的にみたら僕は心配性なのかもしれない。僕がいないところで美樹が何を話しているだろうか、他の男の話でもしていないかが不安で仕方がなかったのだ。でもその心配は杞憂だった。更衣室では他の女子部員に僕のことを話していて、「サプライズプレゼントを貰った」だとか「ずっと部活が終わるのを待ってくれる」だとか自慢していた。それに、もう彼女は更衣室に訪れるのはこれっきりになるだろうし、ずっと一緒にいられるのだから、盗聴器を置いておく必要がなくなった。


 僕は彼女のロッカーを嗅いだ。


 少し汗臭さが残っているけれど、女子特有の香りで幸せな気持ちになれた。


 美樹は何も言わなかった。


 女子更衣室は静寂に包まれていた。



 大学を後にし、家路を歩いていると空は薄っすらと明るさを取り戻しつつあった。


 東の空には一つの星が場違いに輝いていた。あれは金星だ。金星はヴィーナスと呼ばれている。僕と美樹を引き合わせてくれたヴィーナス。彼女についていった美術館では、レプリカのミロのヴィーナスが公開されていた。美樹は少しだけ見てからすぐ離れたけど、僕はその裸体の石像が気になった。手は欠けていて不完全ではあるが、とてもエロスを感じた。ヴィーナスに美樹を重ね合わせて想像した。美樹の身体はもっと肉感があってその石像よりもエロティックなのだろう。そして昨日、美樹の裸体を拝んでみるとその想像を遥かに上回り、見ただけで射精してしまった。


 昨日美樹と会った電柱までやってきた。美樹は僕を見るなり恥ずかしがって去ろうとしたけど、今ではこんなにも落ち着いて横についてきてくれる。照れ恥ずかしい気持ちは僕にもあったけど、男としてリードしなければいけないと強く決心して彼女の手を握ったっけ。



 家に帰り、僕は眠そうだった美樹をベッドに寝かしてあげた。気だるそう顔とは裏腹に身体の方は一晩中安静にしていたから、すっかり元気そうだった。


 僕は冷蔵庫から細かく刻んだウデ肉を取り出した。そして仕込んでいた出汁の入った寸胴に放り込み、煮込むのを待つことにした。


 ベッドに寝ている彼女の前に行く。首と身体の間には少しの余白があり本来のヴィーナス像から欠けた形にはなるが、それでも僕にとっては美樹の美しさが至高だ。


 僕も美樹と同じように裸になって美樹に身体をくっつける。そうして彼女の形を輪郭にそって舌でなぞる。


 そのまま美樹の目を閉じてあげた。

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