叔父の畑

楠 夏目

トマト


「おーい、かいと、茶ァくれ」


少年の名を呼んだのは、ダミ声の男だった。短く整えられた黒髪頭くろかみあたまには白いタオルが巻かれており、口の周りには濃い髭が生えている。男が纏う白い半袖は、すっかり土に汚されていた。

一体何をしてきた後なのか。汗だくの状態で現れた男は、まるで屋台の出店を請け負った焼きそば屋のオヤジのようだった。

その人物は倒れ込む勢いで玄関に座り込んだ末、訳の分からぬ叫びを上げている。


「うるさいよ叔父さん。近所迷惑」


そんな男の前に現れたのは、短髪の少年であった。ニキビひとつない綺麗な額に、日焼けした身体。凛とした眉からは、好青年感が漂っている。黒いタンクトップ姿のまま、溜息混じりにお茶を差し出す右腕は、かなり引き締まっていた。


「そんな事言うなよ。俺はいま! 至極! 非常に! ハチャメチャに疲れてんだ」

「疲れてる人はそんな大声出せないよ」


男は少年からお茶の入ったコップを受け取るなり、それを一気に喉へと流し込んだ。上下する喉仏の様子から察するに、喉がカラカラだったのだろうと少年は想像する。


「叔父さん。ひと段落ついたなら、少し休憩したらどう? ここより居間の方が涼しいよ。クーラー効いてるし」


時はまさに、灼熱の真夏。

玄関越しでも伝わる蝉声が、風鈴の音を掻き消し、少年の鼓膜を執拗に揺らす。冷房のお陰で比較的過ごしやすい居間とは裏腹に、玄関の温度はサウナ同様の熱を持っていた。


「いいや大丈夫。俺はまだまだ全然! 余裕だ」

「はあ……そんなこと言って、先週熱中症になりかけたのはどこの叔父さんだよ」

「さあ! どこのイケメンだったのやら!」


男は空になったコップを少年に渡すと、その場から勢いよく立ち上がった。


「もう戻るの? 畑」

「ああ、戻る。今日までにやっとかなきゃならん仕事もあるしな」


男は頭に巻かれた白いタオルを取り外すと、まるでお風呂上がりの濡髪を拭く勢いで、自分の頭を拭き始めた。因みに。それから少年が明白あからさまに眉を顰めたのは、男の汗が頬に飛んできてすぐのことだった。


「かいと、受験勉強は順調か?」

「うん、まあ。叔父さんの家は集中出来るし、助かってるよ。あっちだと煩いから」

「それにしても、お前から電話が来た時はさすがに驚いたぜ? なんせ、都会に生きる男子高校生がこんな田舎に『夏休みの間だけ叔父さんの家に住まさせて〜』って泣きべそかいてきたんだからな」

「泣いてない」

「照れんなってェ、似たような感じだったぞ」


男はそう言って豪快に笑うと、汗ばんだタオルを再び頭に巻き直した。広くて大きな背中が、少年の視界を埋める。この時。男の横顔はもう、さっき迄のふざけ半分なヘンテコ顔とは違って──仕事に励む、職人のような顔付きになっていた。


「よし、行ってくる」

「……オレも手伝おうか?」

「ばかやろう。子供の本分は勉強だろうが。あと、たくさん食って、たくさん寝て……かくたくさん睡眠をとることだ」

「それ寝すぎじゃない?」

「とにかく! お前はお前のやるべきことをしろよ。じゃあな」


玄関を出る時。男の大きな掌が、少年の頭を軽く撫でた。土色で分厚いその手は、紛れもなく農業に励む男の手だった。


「…………」


男が玄関から出て行くのを見届けた末。少年はくるりときびすを返すと、クーラーの効いた居間へと向かった。


* * *


少年が叔父の家にやって来たのは、夏休み初日のことだった。


高校三年生にとって夏は戦いそのもので──受験勉強に忙しいため──いかに勉学に励むかが勝敗の鍵となっていた。

だが、少年の住む街は昼も夜も明るい。密集した店は時間を問わず燦々と輝き、どんちゃん騒ぎが繰り広げられている。

学校に行くべく電車に乗れば、毎回必ず、満員電車に身体を押し潰された。

店も病院も常に混んでいるし、道端で揉める輩を目にする事だってそう多くはない。


息苦しい。少年は常日頃からそう感じてならなかった。もちろん街には良いところだって数え切れない程ある。受験勉強の憂さ晴らしに街を悪く言っている部分もあったかもしれない。

それでも、少しの間でいいから、賑やかな街に背を向けたいと思ったのは──間違いなく少年の本心だった。


両親と話し合い、農業を営む叔父に電話をかけた時、少年はかなり緊張していた。彼らが叔父の家を訪問するのは、決まってお盆のような行事時くらいで──家から距離も離れているため、会う機会が少なかったのだ。

数年前に叔母が亡くなり、ひとりで農業を営むことになった叔父は、その寂しさをまるで見せないよう、常にエネルギーに満ち溢れていた。少年が夏休み間の泊まりを頼めば快く受け入れてくれ──夏休み中盤に差し掛かった現在でも、変わらず優しく接してくれている。


(農業って、大変なんだろうな)


クーラーの効いた涼しい居間内で、少年はふと考える。右手にペンを持ってはいるものの、彼の視線はノートではなく、奥の畳縁たたみべりに向けられていた。


(オレは将来、どうやって生きるんだろ)


瞬きも忘れて考える。勉強に励む態度はあるものの、少年には夢がなかった。勉強する事自体は嫌いじゃない。学べば学ぶほど知識が増えていく感覚は面白いし、楽しかった。


大学を決めるにあたって、最も参考になったのは自分の意思ではなく学力の具合だった。少年の希望する進学先は、家から近い都会の大学で──志望する理由は、交通の便が良いという点が頭の大半を占めていた。そんな少年の漠然とした理由とは裏腹に、友人たちは夢に向かってどんどん突き進んで行ってしまう。置いて行かれているような感覚が、妙に少年を焦らせた。


努力する周りを見ていたら、自分も頑張らなければと思うことが、ただただ苦しかった。だから少年はいま、ここに居る。


そう。少年が叔父の家に来てまで頑張る理由は──もちろん志望校合格もひとつだが──本当は、目まぐるしく変化する毎日から、少しでも目を逸らす為でもあったのだ。


緩やかな蝉声が頭に響く。

クーラーの動作音が響く。

風鈴の音が緩やかに響く。


嫌な雑音が聞こえない、豊かなこの場所は、酷く心地が良い。


(叔父さん、喉乾いたかな)


手中のペンを机に置いて、少年はふと思った。なんだかジっとしていられなくて、無性に身体を動かしたくなった。


(休憩がてら、外に行こう)


少年は徐ろにその場から立ち上がると、冷蔵庫から麦茶を取り出し、外に出る口実を作ることにした。


コップ越しに伝わる麦茶の温度は、キンキンに冷えている。


* * *


外へ通ずる、引き戸式の扉を開けてすぐ、怒涛の熱風が少年の顔を覆った。先までの涼しい居間とは打って変わって、外はまるで砂漠地獄。灼熱の太陽が地面を焦がし、鳴り止まぬ蝉声が必死に呻く。


玄関を出た少し先にあるのは、一面土色の畑であった。何十列にも渡って連なるふかふかの土から、無数の植物が生えている。とある茎を辿って見えるのは、垂れ下がる緑葉と真赤な粒だった。ミニトマトだ。

それだけじゃあない。叔父が営む畑には、ビニールハウスに覆われた場所もあり、更にはナスやピーマン、胡瓜や獅子唐、枝豆やレタスにキャベツまで──数え出したらキリがない程、多くの野菜が栽培されているらしい。


(叔父さんは……)


辺りを見渡す。あまりの暑さに、手中のコップからは水滴が零れ始めていた。黒いタンクトップをぱたつかせ、少年は歩き出す。

それから彼が叔父を見つけたのは──畑の端にやって来て──植物の中で一際を目立つ、真白な頭を見つけた時だった。


「叔父さん、お茶。熱中症になるといけないから」

「おう、悪いな。ちょうど喉が乾いてたんだ」


叔父は少年の差し出す麦茶入りのコップに気付くなり、間を置かずにそれを受け取った。額に浮かんだ脂汗あぶらあせが、蟀谷こめかみを伝って頬に落ちる。地獄のような暑さにも拘わらず、お茶を飲む叔父の姿は逞しく見えた。


「……休まなくていいの?」


外に出て数分。疑問符を投げる少年の背からは、既に汗がふき出していた。タンクトップに張り付くこの妙なベタつき感が嫌で、少年は再び服をぱたつかせる。


「心配すんな、後もうちょっとだから。ああそれと、茶ァありがとな」


叔父は少年に目を向けることなく、作業しながらそう呟いた。「お陰で生き返った」


「……叔父さんって、こんなに広い土地をひとりで管理してるの? 大変じゃない?」


蟀谷に垂れ落ちる汗を拭って、少年は尋ねる。家の面積より広大な土地を、叔父ひとりで管理することなんて可能なのだろうか、そんな疑問を感じてならなかった。


「まあ一応はそうだが、手伝ってくれる奴らも居るからな」


叔父はどこからか取り出したハサミで、トマトの茎を摘芯てきしんしながら呟いた。「それに、俺が作った野菜を喜んで食ってくれる人が居る。農業やってて、それ以上に嬉しいことなんてねえだろ」


叔父が少年を振り返った。頭に巻かれたタオルから、怒涛の汗が流れ出ている。それでも、白い歯を見せて笑う叔父の姿は──無邪気な子供のようにみえて──とてもとても、格好良かった。


「叔父さんは、農業が好きなんだね」

「ああっ! メチャクチャにな!」


豪快に笑う叔父を見ていたら、先まで抱いていた、将来への不安感も、周囲に対する疎外感も、どうでも良くなっていた。

落ち着くことが出来る叔父の畑が、心地よくて仕方がない。


「見ろかいと! これ! 採れたてのトマト!」

「ふっ……叔父さん、そんなに大声出さなくても、見れば分かるって」

「こんなに大きくて瑞々みずみずしいトマトを作れる人間なんて、世界中探しても俺しかいないぞ! 俺はここにある全ての作物に愛情を注いで育ててるからな!」

「分かった分かった、本当に綺麗なトマトだね」


採れたてのトマトを空に掲げて、叔父が豪快に笑う。太陽の光に照らされても尚、そのトマトは凛々しく逞しい状態で輝きを放っていた。叔父の、農家としての腕前はかなりのものなのだろうと、少年は想像する。


「叔父さん、あんまり燥ぎすぎると、トマト落としちゃうよ」

「このトマトは国宝級だ! 見ろこれ! 黄金に輝いて見えるぞ!」

「叔父さん?」

「かいと! 写真撮ってくれ写真! トマトと俺のツーショット! な?」


あまりの出来の良さに興奮しているのだろう。トマトを掲げて大騒ぎする叔父の姿は、小さい子供と大差がなかった。


「この先は道路だってあるんだから、気を付けないと」


叔父の畑は確かに広大だが、現在少年たちがいるのは畑の端。ここを出るとすぐに道路が広がっており、車は通りにくいものの、自転車や通行人はよく通るのだ。


「かいとかいと! 写真撮ってくれェ!」


まだカメラを構えてすらいないというのに、叔父は無邪気にトマトを顔の横に掲げると、少年に向かってピースをして待っている。どうやら今の彼に、少年の忠告を聞き入れる余裕はないらしい。


「分かったから、ちょっと待って……」


するとその時。

足に何やら重みと違和感を感じ、少年は咄嗟に視線を下ろす。彼の視界が捉えたのは──真緑色のカエルだった。「うわっ……!」


少年の住む地域に、広大な畑はそう滅多に存在しない。勿論、人で密集する街中で、カエルを見かけるようなこともそう経験してこなかった。そのせいだろう。冷静に見てみれば、大して怖くない動物にも拘わらず、この時少年は──足をばたつかせカエルを引き離した末、勢い余って叔父の身体へ倒れ込んでしまったのだ。


「おっと」


叔父が素早く少年の身体を支える。農業で鍛え上げられた身体は、部活動などで鍛えられてきた少年の身体とは、雲泥の差があった。「大丈夫か?」


「ごめん叔父さん、ありが──」

「あッ……!」


叔父が突然叫び声をあげる。そのあまりの声の大きさに、少年は思わずびくりと身体を震わせて、顔を上げた。すると、まるでこの世の終わりのような顔で頭を抱える叔父の姿が目に入った。


「俺の! 俺のトマトがない!!!」

「えっ……?」

「どっかに落としちまったんだ……!」


真夏の暑さとは裏腹に、少年の顔がみるみる青ざめていく。恐らく叔父は、先程少年を支えた時に、誤ってトマトを手放してしまったのだろう。「どこ行ったんだァ」と半泣き状態でトマトを探す叔父の横で、少年も必死にトマトを探した。自分のせいで迷惑をかけてしまったと思うと、やるせなかった。

土色の地面を眺め、周囲の葉をかき分ける。背後で響く蝉声が、妙に心を焦らせた。しかしいくら辺りを見渡そうとも、真赤なトマトは見当たらない。燦々と輝く太陽が、少年の背中を照り付ける。その時だった。



「ええッ!? なんでこんなところにトマ……うわあッ!」



畑を出てすぐの道路から、甲高い少女の声が聞こえた。咄嗟に声のする方へ視線を向けると、何かが地面に倒れ込むような、すごまじい音が聞こえた。


(まさか……)


身体に張り付く汗など、最早もはやどうでも良くなっていた。少年は大きく目を見開くと、半ば反射的に声のする方へ走り出した。

彼の現在地は畑の端。その場所から道路まではさほど距離がなく──少年のふらつきによって──叔父の手を逃れたトマトが、道路に転がり落ちた可能性も十分に考えられた。


(まずい……!)


叔父の畑を飛び越えて、道路に出る。すると、辺りを見渡す間もなく、真赤なトマトが視界に入った。地面に転がり落ちても尚、凛々しく逞しい輝きを放つそれは、間違いなく叔父のトマトであった。幸いにも、傷や汚れは付いていないらしい。


「いてて……」


だが、束の間の安心もそこまで。

傍で響いた少女の声に気付くなり、少年はまるで我に返ったように顔を上げると、間を置かずに視線を向けた。するとどうだろう。そこには、地面に尻もちをついた状態で座り込む少女の姿があった。彼女のすぐ側には真新しい自転車が置かれており──突然現れたトマトによってこの事態が引き起こされたことは、一目瞭然であった。状況を理解した少年の表情は、再び青ざめていく。

「あの!」少年は慌てて地面に膝をつけると、少女に目線を合わせて言った。


「すみません、そのトマト、オレが不注意で道路に出してしまって。本当にすみません」


少年が頭を下げる。すると少女は一瞬驚いた様子で目を丸くしたあと、ぶんぶんとちぎれるような勢いで首を振って答えた。


「い、いえいえっ! 本当に全然、気にしないでください! 私もよく周りを見ずに自転車漕いでたし、その、すみません……」


肩下まで伸びた栗色の髪が、動作に合わせて緩やかに揺れる。申し訳なさそうに少年を見つめる大きな瞳は澄んでいて、温かい。今まで同じ時間を過ごしてきた友人たちとはまた違う──感じたことの無い感覚が、この時、少年の心中を緩やかに動き始めていた。


「いえ、完全にオレの不注意です。すみませんでした」

「いえいえ、私の方こそ……」

「怪我してる」


少女の腕に、小さな擦り傷が出来ていた。少年は無意識的に少女の手を取ると、腕の傷を凝視した。傷自体は浅いものの、汚れを落として、いち早く手当をする必要がある。血は出ていなかった。だが細白い肌から見える真赤な傷が、痛々しく見えて仕方がない。


「…………」


口を閉ざして、眉を顰める。叔父だけでなく、見知らぬ人にまで迷惑をかけてしまった未熟な自分に、心底しんそこ辟易へきえきしてならなかった。


「手当させて下さい」

「え! いえいえ、これくらい大丈夫ですよ」

「オレの気が済まないんです。……あ、いや」


真剣な表情で少女を見上げてすぐ。少年は突然、バツが悪そうに下を向いた。


少年は昔から真面目な性格で、何かと苦労してきた過去があった。どんな物事にも全力で取り組むことが彼のモットーであったが為、クラスメイトと衝突することもしばしばあった。

都会の生活に疲れ、叔父に頼み込んでこの場所へやって来た時。叔父は温かく少年を迎え入れてくれたが、その理由を深く追求しようとはしなかった。いいや。いつも楽観的に見えて、実は周囲を誰よりも理解している叔父のことだ。もしかしたら、己の真意にも多少なりとも気付いていたのかもしれない、と少年は思考する。


閑話休題。少年は少女から視線を逸らし、暫し考えた。


(また、面倒臭いって、うざがられるかな)


過去の記憶が蘇る。太陽のせいだろうか、嫌な汗が止まらなかった。なんだか呼吸も、平生より苦しく感じられ、遂には目眩までしてきた。怖くて、恐ろしくて、少女の顔を見上げることが出来なかった。

ミンミンミンミンミンミン──鳴り止まぬ蝉声に精神を掻き乱されながら、少年は必死に言葉を探した。その時だった。


「いやァ、すみませんお嬢さん。そのトマト、俺が作ったやつなんだけどね、もう全く! 全然! 言うこと聞いてくれなくてェ」


少年の心中などまるで掻き消してしまうような、豪快な声が背後から響く。振り返ると、そこには白いタオルを頭に巻いた、叔父の姿があった。「……って、怪我ァ! 怪我してる!」


「叔父さん、ちょっと声大きいよ」


少年は漸く冷静さを取り戻すと、いつものように叔父へツッコミを入れた。さり気なく少年を助けてくれた、叔父なりの気遣いを──もちろん理解した上で。


「すみませんお嬢さん、俺がトマトを手放したばっかりに」


叔父が頭を下げる。その横で、少年は首を振って呟いた。


「叔父さんは悪くない。オレのせいなんです」

「いいや俺の不注意だ。すみませんお嬢さん」

「違う、叔父さんは本当に何も悪くない。悪いのはオレで──」

「何言ってんだっ! あれはどう考えても俺が悪いだろが!」

「いやだから……」


その時。突然、ふっと吹き出すような笑声が聞こえ、少年と叔父は忽ち顔を上げた。

そこには二人のやり取りに耐えきれず、思わず笑みを零す少女の姿があった。大きな瞳を横に伸ばし、細白い指先で口元を抑え吹き出した少女の姿は──この世の者とは思えないほど、儚く美しかった。


「あっ、すみません。その、おふたりの仲の良さがあまりに微笑ましかったから」

「なかのよさ……?」

「ふたりとも、互いをとても大切に思ってるってんだって、凄く分かります!」


堪らず少年が疑問符を投げると、少女は明るい声でそう呟いた。光に照らされた栗色の髪が、黄金の輝きを放っている。


「さすがお嬢さん、お目が高いなァ。そう! 俺とかいとは物凄く! メチャクチャ! 仲良しなんだ! お嬢さん、きっと将来探偵になれるぜ」

「ありがとうございます!」


叔父の太い腕が少年の肩を抱く。有無を言わせぬ力強さに、少年はされるがまま左右へ揺れ動いていた。


「もうやめてよ叔父さん、恥ずかしいから」

「照れんなってェ、嬉しいくせに」

「……」


そんな会話も束の間。少年の顔が赤くなったところで三人は一度、家の中へ向かう事になった。少女は初めこそ「手当なんて大袈裟です」と遠慮していたものの、叔父の底無しの明るさに負けたのか、やがて「じゃあ、お言葉に甘えて」と申し訳なさそうにだが、家へと足を踏み入れてくれた。


灼熱の太陽が彼ら彼女らの背を照らす。それから、クーラーの効いた居間についてすぐ。三人の表情が溶ける勢いでゆるゆると緩んでいったのは、言うまでもない話である。


* * *


「良かったらこれ使って下さい」


ふかふかの座布団を少女に差し出し、少年は押し入れの扉に手を伸ばす。冷えた居間に到着してすぐ、叔父は「顔洗ってくらァ」と言い残し、洗面所へと消えてしまった。


「すみません……態々わざわざありがとうございます」

「いえ、元はと言えばオレのせいなので」


押し入れから救急箱を取りだし、少年は少女に向かい合う。どこからか響く風鈴の音が、二人の間を穏やかに流れた。「腕、失礼しますね」


昔。紆余曲折あり、クラスメイトと言い争いをした事があった。互いの主張を通すべく、両者一歩も譲らぬ睨み合いを続けた末──先生の介入を待たずして、それは殴り合いへと発展した。怪我もしたし、涙も出た。その騒動後、クラス内の雰囲気は最悪極まりなかったし、喧嘩をしたクラスメイトとは、和解することなく絶縁状態となってしまった。

それを機に、自分を自制する生き方を学べたならまだ良かっただろう。しかし少年は、その後も自分の心中に根付く仁義を、信じて疑わなかった。喧嘩で血を流す度に先生からは怒られたし、勿論、両親までもが彼をこっぴどく叱りつけた。それでもそれは収まらなかった。やがて傷の処置を覚え、おざなりだが重症化しない程度の手立てを覚えた。


閑話休題。そうして身に付けた知識が今、少女の傷を手当することに役立っているというのだから皮肉な話だ。少年はそっと少女の手を取ると、流水で汚れを軽く流した後、殺菌消毒液で傷口を消毒し、救急箱からガーゼを取り出した。そのあまりの手際の良さに、少女は暫くその様子を瞬きも忘れて見入っていた。


「終わりました」


少年が少女の手を離す。

しかし、少女の腕は重力に従うことなく未だに宙に浮いたままだった。傷の処置に誤りがあったのだろうか。不安になった少年は、無意識的に唇を舐めると、首を傾げて疑問符を投げた。「あの──?」


「すごい……」

「え?」

「こんなに手際よく手当出来るなんて、凄い……! ありがとうございます!」


濁りのない大きな瞳が、少年を捉える。少女は身を前へ乗り出すと、鼻先がくっつく勢いで少年を見つめた。そのあまりの勢いの良さに、少年は思わず身を仰け反らせると、混乱しながら少女を見やる。急に身体から熱が流れ出し、妙な緊張が背筋をなぞった。


これまで、切っても切り離せぬ性分のせいで苦労することは多々あったものの──己の意思を突き通したことで、誰かに感謝されたことなどなかった。それも、嘘偽りのない、純粋な瞳を向けられるなんて。

だからだろうか。急激に身体が熱くなり、鼓が早まっていくのは。妙な嬉しさが心中をうごめき、狂騒きょうそうせんとしているのは。


「あっ、すみません!」


漸く状況に気付いたのだろう。少女は素早く手を引っこめると共に、早々にその場から距離をとった。真白な頬が突然ぽっと赤く染まったのが不思議であったが──どうやら傷の処置に問題はないらしい。


「ちゃんと処置出来てたなら良かったです」


鼓動する心臓に目を背け、冷静さを取り戻す。少年は安堵の溜息を吐くと、救急箱を押し入れの中に戻すべく立ち上がった。手際よく動作を進める中で、少年は真面目にも──今回のような急場が二度と起こることがないよう、内心で自身を戒めていた。


風鈴の音が居間内に響く。たった数秒の沈黙が、酷くもどかしく思えた。これまで叔父としか会話を交えてこなかったからか、冷静を装う少年の心中は、妙に落ち着かなかった。するとその時。そんな少年の心中を知らない少女が「もしかして」と声を震わせた。


「間違ってたら申し訳ないんですけど、もしかして高校三年生……私と同い歳ですか?」


テーブルに置かれた勉強道具を見て察したのだろう。驚き混じりに少年を見上げる大きな瞳は、とても無邪気で可愛らしかった。


「はい、高校三年生です、けど」

「やっぱり! じゃあ私たち同い歳ですよ!」


私も高三なんです! と嬉しそうに微笑む少女。そのあまりに元気な姿が、少しばかり叔父と重なって見えるのがおかしい。少年は、気付けば自然と頬を緩ませてしまっていた。


「ふっ、そんなに大声で言わなくても」

「だ……だって本当に嬉しかったから! 私、この近くの高校に通ってるんですけど、同い歳の子が兎に角少ないんです! だから、つい」


また、少女の頬が赤く染まった。

出会って数分にも拘わらず、目まぐるしく変化する彼女の表情が面白くて──気が付けば、少年も自然と笑みを零していた。


* * *


その出会いをきっかけに、やがて二人は、毎日のように会話をする仲へと発展した。


ある時は二人で叔父の畑を手伝ったり、勉強会を開いたりすることもあった。またある時は、叔父の作った料理を一緒に食べたり、ホラー映画を鑑賞したことも。更には、叔父が何処どこからか持ってきた水鉄砲で、どんちゃん騒ぎをしたことも──数えだしたらきりが無い程、少年は様々な思い出を、叔父と少女とで作ってきた。

高頻度で遊ぶようになった現状には理由がある。少女は現在、受験のため夏期講習に通っているらしく──家から塾までの道中に、叔父の家を通りかかる為──時間がある日は、必ず家に遊びに来るようになったのだ。


少女の名はみさき。

真白な肌と栗色の髪が特徴的で、心優しい女性だった。彼女が見せる無邪気な笑顔は花のよう美しく、それはやがて、少年の目を釘付けにするようになった。


「かいと! おじさん! 見てスイカ! 一緒に食べよう!」

「うおお! みさきちゃん! ありがとう!」

「叔父さんもみさきも、声がデカいよ」

「何言ってんだかいと! スイカだぞ! スイカ!」

「そうだよかいと! 甘くて美味しいスイカだよ!」

「ふっ、分かった、分かったから」


夏休みも終盤に差し掛かり、受験勉強も本格化してきた。一日の殆どを勉強に費やしている少年にとって、叔父とみさきと話す時間だけが、唯一の心休まる時間であった。

三人で居間へ向かい、中玉のスイカを三角形型に切り分ける。赤く瑞々しいスイカの身を見ていたら、自然と喉が鳴った。


「みさきちゃん、かいと! 塩いるかァ?」

「いります!」

「え? ……なんで塩?」

「ばっかお前! スイカに塩は鉄則だぞ!」

「甘くて美味しくなるんだよ!」


叔父とみさきに教わることもしばしば。二人と話すようになってから、少年の生活は至極しごく煌びやかに変化していった。


みさきと話すようになって分かった事だが、彼女はどうやら、都会に強い憧れを抱いているようだった。少年の出身地を知るなり、まるで宝石を見つけた子供のように目を輝かせて「私、都会で暮らすのが夢なの! だがら苦手な勉強も頑張ってる!」と無邪気に語ってくれたのが懐かしい。

都会での生活に辟易し、逃げるように叔父の家へやって来た少年とは、対象的な考えを持つみさき。彼女は度々、少年に都会での暮らしの様子を尋ねてくるのだが──その質問内容が、光熱費や物価のこと。更には通勤通学の様子から、家賃や交通渋滞、空気のことなど、ヤケに高校生らしくない質問が多かったことが妙に印象に残った。それでも、少年の返答にひとつひとつ反応の色を示して笑う彼女の姿に、頬を緩めずにはいられなかった。


さて。二人と過ごす毎日が、少年にとって忘れ難い思い出であることは、まず間違い無い。だが少年は気付いていた。この夢のように楽しい生活が──永遠では無いことを。


「かいと、スイカ美味しいね!」


みさきが笑う。その横で、叔父は早くも二つ目のスイカに手を付けていた。


「……ああ、美味い。すごく」


楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。無邪気に笑うみさきの姿に頬を緩ませ、少年は答えた。

風鈴の音が響く。塩をかけて食べたスイカは──案外、いいや、とても美味かった。


* * *


「お邪魔しました! かいと! おじさん! また明日!」

「ああ。また」

「またなァ! みさきちゃーん!」


夕暮れの空を背景に、みさきがぶんぶんと腕を振る。それに答えるよう、少年と叔父も玄関から彼女を見送った。また明日、その一言で自然と心が温かくなるのが不思議だ。彼女の姿が見えなくなるその時まで、少年は真面目にも手を振り続けた。

みさきは毎回、塾での勉強を終えてから叔父の家にやって来る。しかし夕日が出始める頃には帰ってしまうので、話す時間はそう多くはない。少年は彼女の後姿が完全に見えなくなったところで、小さく落胆の溜息を吐いた。


「スイカ美味かったな! なあ、かいと」


膨れた腹を擦りながら、叔父が豪快に笑う。中玉とは言え大きなスイカを三人だけで間食した時は、流石の少年も驚きが隠せなかった。真赤なスイカに塩を振りかけ、三人で談笑しながら食べるだけで、こんなに食が進むのだから不思議だ。

「さァて、今日の晩飯は何にすっかな!」叔父は少年の横に立ったまま、態とらしく声を震わせる。明るく振る舞うその態度からして──叔父は既に、少年の薄暗な真意に気が付いているようだった。


少年は、都会から遥々この地へやって来た。それも夏休みの間だけ、という限定的な条件を付けて。だからこそ憂鬱だったのだ。夏休みは永遠ではないし、この楽しい生活には必ず終わりが来てしまう。そう。少年がここに滞在するのは──明後日で、最後なのだ。


「飯、カレーにするか? 好きだろ」


叔父が疑問符を投げた。しかし、少年はその問いにかぶりを振った。


「……もうお腹いっぱいだから、オレはいい」


もうすぐ、この楽しい生活は終わる。


「本当に食わないのか? カレー」

「うん」


明後日の今頃は家に到着していると思うと、どうも気分が薄暗くなった。あの場所には、少年の行動を豪快な笑みで見守ってくれるヒトも居なければ──少年の性格を理解し、受け入れ、温かい笑顔を向けてくれるヒトも居ない。


「夏野菜たっぷりで作るのに?」

「うん」


元々家で勉強に明け暮れるつもりだった所を、無理を言ってここへ来たのだ。これ以上叔父に迷惑をかけ、尚且なおかつ帰省の約束を破る訳にもいかなかった。少年は脳内で天秤をかけた末、潔く消える道を選択する。


「この俺が、愛情込めて作るのに?」


それでも、やはり。どれだけ冷静に取りつくろおうと大人ぶっても、少年の心中に隠れる未熟な心は、声を抑えることができなかった。「本当にいらないのか?」


「だからいらないってば……!」


いつも通りの叔父とは裏腹に、少年の声色には確かな苛立ちが現れていた。怒鳴るように声を張り上げてすぐ、少年は思わず息を呑んだ。薄暗な気持ちを隠すよう、叔父に八つ当たりしてしまった自分が、心底醜く見えて唇を噛む。「ごめん、叔父さん」


少年はその場で俯くと、気まずそうに眉を顰めた。引き締まった二本の腕は強ばり、気付けば無意識的に拳を強く握り締めていた。

ここで過ごした毎日は、どれもかけがえのないものばかりだった。自分が住んでいた世界とはまるで違う景色が、息苦しさを感じていた少年の心を、いとも簡単に穏やかにしてくれた。だが、そんな思い出深い場所だからこそ──ここを退くことは、心苦しいことだったのだ。


「本当にごめん。オレ、明後日の準備があるから」


叔父の顔を見上げることなく、少年はその場を去ろうとした。一度頭を冷やして、冷静さを取り戻す必要があったから。


「…………」


立ち去る少年を目前にしても尚、叔父は何も言わなかった。逃げるようにその場を話せる少年の背中から、叔父の視線が伝わってくる。それがどうしようもなく苦しくて、少年は振り返ることが出来なかった。


やがて。辺りが暗くなっていくにつれて、蝉の狂騒は理性を取り戻していく。しかし少年は、その夜──なかなか寝付けなかった。


* * *


翌朝の空は、薄暗な少年の心中とは対照的に、雲ひとつない青空が広がっていた。何処からか風鈴の音が聞こえるあたり、風は多少なりとも拭いているのだろう──少年は徐ろに身体を起こすと、まだ覚めない頭でそう思考する。


昨日の出来事と、ひしひしと迫る憂鬱が相まって、叔父と顔を合わせるのが気まずかった。無理もない、昨日は一方的に八つ当たりした末、逃げるように去ってしまったのだから。くだんの件で叔父を傷付けていたらと思うと、やるせなさのあまり正気を失いそうになった。それと同時に、事ある毎に脳裏へ浮かぶ帰宅の迫りが、少年の不安を躊躇なく煽った。


(叔父さん、きっと呆れただろうな)


昨日の自分の行動を振り返ってみて、そのあまりの幼稚さに反吐が出そうになる。これ以上迷惑をかける訳には行かない、少年は心中でそう強く決心すると、叔父が朝食を用意して待っているであろう、居間へと足を運ぶことにする。


──だがそんな思考も束の間。早々に居間へやって来た少年は、ラップに包まれた朝食に目をやるなり、思わず目をいた。それもその筈。いつもなら豪快な笑みと共に少年を迎え入れるであろう叔父の姿が、今日は、何処にもなかったのだ。


「……叔父さん?」


一抹の不安がよぎる。かつてこの時間は、決まって賑やかな空気に包まれていた。それが叔父の不在ひとつでここまで変わってしまうのだから恐ろしい。畳の上をすり足で進む少年の足音だけが響き渡る。動揺のあまり冷静な判断を失った少年は、無意識的に唇を噛むと、タンスの中やゴミ箱の中に目をやっていた。そんなところに居る筈ないと分かっていながら、考えもせずに辺りを見渡す。その瞳には不安の色が浮かんでいた。


それから少年が動きを止めたのは、彼が机上に目を向けた時だった。ごくりと生唾を飲みこみ、朝食の置かれたテーブルに手を伸ばす。少年の指先が捉えたのは、四角く切り取られた一枚の紙であった。そこには、以下の内容が示されている。


『かいとへ

悪い! 急に仕事が入っちまったから、ちょっと出掛けてくるな! 朝飯置いといたから、電子レンジでチンして食べろよ! 心配しなくても終わり次第すぐに帰ってくるぞ! もちろんお土産付きでな!』


ゆっくりと、しかし、恐る恐る視線を下へ流していく。口頭であろうとも、文面であろうとも、叔父の底無しに明るい性格はやはり一向にその効果を失わない。手紙の様子からしても十分元気そうに見える叔父の手前、一抹の不安が己の勘違いであったことに、少年は安堵の溜息を零した。


『それから──』


手紙にはまだ続きがあった。少年は静かに、叔父の置き手紙に記された、最後の一文を見やる。するとどうだろう。それは、先までの元気な文章とは打って変わって、至極真面目なものだった。



『ちゃんと、みさきちゃんにも言っとけよ』



文章の最後に名を残し、叔父の手紙は終了した。以降、幾ら文字を求めようとも、少年の視界を埋めるのは白紙だけであった。


覚悟を決めろ、そう言われている気がした。

負けるな、と背中を押されている気がした。


前に進みたいのなら、今が、絶好の機会である。


「……」


少年は叔父からの手紙を綺麗に折り畳んだ末、それを自身のポケットへしまった。手紙に再度目を通さずとも、その内容は全て理解しきっているようだった。

少年は深く呼吸しながら、徐ろに目を瞑る。その顔立ちはまるで、居心地の良いこの場所から離れたくない──と駄々を捏ねる幼稚な精神を一網打尽いちもうだじんに取り払うべく精神統一を図る、武士のようだった。


叔父の家で夏休みを過ごして以来、ひとりで朝食を食べるのは初めてのことだった。静まり返った無言の部屋で、少年は箸を持ち上げる。今思い返してみれば──当たり前のように叔父と向かい合って食事していた生活は、全て、叔父の気遣いによって成り立っていたものなのかもしれない。少年がここへ来たその時から、叔父は自分なりに、少年をとても大切にしてくれた。そう思うと、なんだか無性に、心が締め付けられた気がした。


「……っ、いただきます」


叔父の優しさを噛み締めながら、合掌する。そうして少年は、熱心に朝食を食べ進めていった。


* * *


朝食を食べ終え、数時間が経過した。明後日にはこの場所を離れているにも拘わらず、いいや──だからこそ少年は、居間で勉強に明け暮れていた。夏休みの総まとめである。叔父はまだ、依然として姿を見せていない。クーラーから放出される、涼しい風が肌に張り付く。ノートを滑るペンの音だけが、周囲に小さく鳴り響いていた。その時だった。


ピンポーン、と呼び鈴が木霊する。


突如とつじょ聞こえたその音に、少年はびくりと肩を震わせた。それからハッと顔を上げ、早々にその場から立ち上がると、駆け足で居間を抜け出さんと進む。涼しい居間から灼熱の廊下に出ることを、躊躇ためらっている余裕などなかった。居間から玄関へ向かう、たった数秒の間が惜しい。


叔父が帰って来たのだと、少年は思った。彼の頭には、昨日の出来事を謝罪することでいっぱいだった。心臓の鼓動が早まり、汗が流れた。


玄関に辿り着く。少年は裸足のまま引き戸式の扉に近付くと、呼吸も整えることなく、勢いよく戸を開けて言った。


「おかえり、叔父さんッ、昨日は──」

「え? おじさん?」


しかしどうだろう。玄関扉の前に居たのは、叔父とは似ても似つかない、華奢な少女の姿だった。その人物は少年の言葉に首を傾げると、つぶらな瞳でこちらを見つめる。思い返して気付いた話、叔父が鍵を持っていない訳などなかったのだ。

そう、現れたのは──少年がこの夏、最も会話を重ねた同い歳であった。


「……みさきか。いらっしゃい」

「ちょっと! 何でがっかりするの!」

「ごめん。叔父さんが帰って来たと思って」

「えっ、おじさん出掛けてるの?」


蝉が、瀕死の呻きをあげている。

叔父でなかったことに落胆しつつ、みさきが来たことに喜びを感じた。少年は、乱れる呼吸を整えながらも彼女の疑問符に頷いた。


「もう少しで帰ってくると思う、多分」

「本当? 良かった! 二人と食べようと思ってシュークリーム持ってきたの!」


太陽の日差しを背景に、みさきがパッと明るく微笑む。澄んだ瞳でこちらを見つめる彼女の姿は、相も変わらず儚く可愛らしい。みさきはシュークリームの入った箱を掲げると、「このシュークリーム本当に美味しいんだよ」と明るく笑った。少年は、そんな無邪気な彼女に頬を緩ませ、「そうなんだ」と優しく返す。すると、みさきの真白な頬が、またぽっと赤く染ったのが分かった。その表情は、少年と会話をしている時に限って、彼女が見せる素顔である。それがなんだか可愛らしくて、身体が熱くなる。

叔父の帰りを今か今かと待ち侘びていた鋭い心も、みさきを前にしていたら、自然と角が丸くなっていくのだから不思議だ。


だが少年の心が平穏を取り戻しつつあったのもそこ迄。明るく笑う少女を他所に、少年の脳裏にふと──叔父からの手紙が蘇ってきた。


『ちゃんと、みさきちゃんにも言っとけよ』


少年は明日、この場所を去る。己の存在が消えてなくなってしまう前に、彼はその事実を──みさきに伝えねばならなかったのだ。


長時間日差しに晒されていた訳でもないのに、無性に喉が渇いた。変な汗が額に滲み、瞬きの回数が多くなる。鳴り止まぬ蝉声が不安を掻き立て、不調なリズムが精神を乱す。しかし少年は逃げなかった。彼の中には、強い決心が込められているようだった。


「みさき」


声が震えないよう、注意しながら言葉を発する。生唾を飲み込み、乾いた舌を湿らせた。


「どうしたの?」


少年の声に気が付くや否や、みさきはすぐにこちらを見上げた。栗色の髪が風に揺蕩い、真白な肌が光を吸い込む。彼女と過ごしたこれまでの記憶が、鮮明に脳内に流れる。


少年は大きく呼吸すると、心中に潜む苦しさを隠すよう、しかし不器用に口角をあげて、一息で言ったのだった。



「実はオレ、明日ここを出るんだ」



二人の会話を遮るように、燦々の太陽が玄関を照り付ける。はっきりと声を震わせた少年の表情は、平然を装っているように見えて、至極悲しそうだった。夏の終わりは、もうすぐ傍までやって来ている。


「えっ……あした……?」


みさきは大きく眼を剥いたまま、動揺混じりに声を震わせる。突然の言葉に混乱し、戸惑っているように見えた。

やがて彼女は少年から視線を外すと、俯きながら言った。「そ、そっかそうだよね! もう……もうそんな時期なんだ」


明るく振舞おうと口角を上げるみさきの表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。まるで自身に言い聞かせるよう、頷き笑うその姿に心苦しさを覚えてならない。俯く彼女を見ていたら、一層帰りたくないと思ってしまった。

誰かとの別れを惜しく思ったことなど、初めてだった。だからこそ少年は、こんな時──どう声をかけたら良いのか、分からなかった。


しかし、少年の脳内で蠢くちっぽけな悩みもそこまで。かける言葉を探していた彼の脳内は──目前に映る、彼女の涙を見た瞬間に、その全てを忘れてしまった。

みさきは、泣いていたのだ。


「みさき……!?」


少年は我知らず驚きの声を漏らすと、慌ててみさきに駆け寄る。始めてみる彼女の姿に、戸惑いを隠せなかった。華奢な肩にそっと触れ、涙で濡れる顔を心配そうに覗き込む。すると彼女は、大粒の涙を流しながら言った。


「さ、ざびじいぃ……」


眉を下げ、みさきが大口を開けて泣き出す。

止まらぬ涙は、彼女の頬をみるみる濡らし、遂には鼻水も垂れ始めていた。まるで宝物を取られてしまった子供のように泣きじゃくる姿が、痛いのに愛おしい。少年との別れを惜しむ彼女は──その小さい身体には見合わないほど、大きな声で泣き続けた。


「みさき、泣かないで」


少年は彼女に優しく向き合うと、目元の涙をそっと手で拭う。二人揃って眉を下げ、互いを見つめ合うその間を、暖かな風が通り過ぎていく。


「だってせっかくなかよくなれたのに……もうお別れなの……?」


みさきが上目遣いで少年を見つめ、呟く。涙で滲んだその瞳は、宝石のように輝いて見えた。


「また会えるよ」


少年はみさきの涙を拭うと、頬を緩ませ、優しい声でそう言った。


「ほんとに……?」

「ああ、本当に」


少年の言葉に、明確な根拠は無い。

しかし彼女を見つめるその瞳はやけに真剣で──まるで確固たる未来を予言しているようにさえ見えた。少年の言葉を聞くや否や。みさきは安心したように目元を緩ませると、少年の前へ小指を出して言った。


「約束だよ」


乾ききっていない涙が、みさきの頬を照らす。漸く見れた彼女の無邪気な笑顔を前に、少年は優しく微笑んで頷いた。


「ああ、約束だ」


細白い小指に、骨張った男の指が絡まる。二人は顔を見合わせ、笑った。きゅっと結ばれた小指は、暫く離れることは無かった。

そう──


「ただいまァ! ケーキ買ってきたぞ! 勿論みさきちゃんの分も……って! 何だ! どうした二人共! こんな暑い所で!」


引き戸式の扉を開けるなり、大口を上げて驚きの声を漏らす、叔父の姿を目にするまでは。


* * *


叔父の介入により、二人の小指はもどかしげに離れてしまった。

間の悪い登場に、少年は気まずそうに目を逸らす。しかし叔父は、二人の顔をじーっと覗き込んだ末、「暑い! 居間行こうぜ!」と、何とも元気な主張を述べた。


身体が妙に火照り、熱を帯びていく。少年は服の襟元をぱたつかせると、叔父の言葉に頷き、歩き出すことにした。隣に並ぶ、みさきの顔が見れなかった。額に滲む汗が、蟀谷を伝って垂れ落ちる。時間を置いて、今頃。途端に赤く染まった少年の頬に、叔父は意外にも──気付かないフリをしてやった。


* * *


「ああー涼しいなァ、最高だ」


流れ出る汗をタオルで拭き取り、叔父は笑った。机上には、みさきが持ってきたシュークリームと、叔父が買ってきたケーキの箱がそれぞれ並べられている。


「折角だし、どっちも食おうぜ! かいと、茶ァ淹れるの手伝ってくれ」

「分かった」

「私も手伝うよ」

「ありがとみさきちゃん! でも! 暑い中立ってて疲れたろ! 大丈夫、すぐ戻るから。みさきちゃんはここで待っててくれ」


立ち上がらんとするみさきを、叔父が優しく制する。彼女はその言葉を受け、再度座り直したが──少年は気付いていた。叔父が敢えて、この選択をとった理由を。


* * *


いつも元気な叔父が、これ程口数が少ない時が未だ嘗てあっただろうか。台所で茶を淹れる間、叔父は一度も声を震わせなかった。しかし彼には、言わなければならないことがあった。恐らく叔父も、それを分かった上で二人きりになるよう仕向けた筈。少年は三つの湯のみに茶を注ぎ終えた後、皿にケーキを盛り付ける叔父の後ろから、頭を下げて呟いた。


「叔父さん、昨日はごめん。八つ当たりして、傷つけて」


しかしどうだろう。顔をあげずに停止するも、叔父からの返事は返ってこない。呆れられても可笑しくはない幼稚な出来事だっただけあって、少年の心中は再び不安に襲われた。


「ごめんなさい、本当に」


より深く頭を下げる。


──だが、叔父からの返事は帰って来なかった。どうやら少年の謝罪を受け入れるつもりはないらしい。

ふと、急に喉の辺りが痛くなった。許して貰えると思い込んでいた浅はかな自分が情けなくて、逃げ出したくなった。


平生なら既に会話の主導権を握り、豪快な笑みと共に会話しているであろう叔父の姿が、今はどこにも見当たらない。苦しくて、怖くて──少年は三つの湯のみを手に取ると、その息苦しさから解放されるべく、台所から逃げ出そうとさえ考えた。

まさに、その時だった。


「かいと」


叔父は、少年を呼び止める。平生の元気溌剌な声色とは違う──やけに大人びた、真剣な声で。「謝るな。おまえが謝る必要なんてない」


「……え?」

「お前は真面目で、心の優しい男だ。どっかの誰かさんとは似ても似つかねえ。最近の世の中じゃあ、特別珍しいタイプのな」


叔父は後ろを振り返ると、短く整えられた少年の頭に手を乗せ、優しく続けた。


「級友と衝突して、生き辛く感じることもあるだろう。周りに上手く考えを伝えられないせいで、怒られたり、逆に自分が損をすることだってあるだろうよ」


叔父の大きな掌が、少年の頭をするりと滑り、右肩へやって来た。突然伸し掛るその重みからは、嫌な感じなど一切しなかった。

少年の視界が捉えたのは──平生とは比べ物にならない程──真剣な表情でこちらを見下ろす叔父の素顔だった。


「なあ、かいと。知ってるか? 世界ってのは物凄く広いんだぜ。お前の考えを否定したり、嘲るやつも居るだろう。熱苦しいと呆れたり、目を逸らすやつも居るかもしれねえ。でもな。それはあくまで一部の声でしかないってことを忘れるな。深呼吸して、もっと周りを見渡してみろ。一部の声に囚われるな。自分の考えの是非を問うのは、周りを見渡して、少し考えてみてからでも遅くねえだろ」

「周りを……見渡して──」

「ああそうだ。でももし、万が一。それでもどうしようもない時があるかもしれねえ。その時は絶対! 必ず! 俺を! 呼べ! 俺の激強パワーが、お前の不安をひとつ残らず吹き飛ばしてやる。だから、お前はお前のままでいい」


叔父はそう言うと、白い歯を見せてニッと笑った。その無邪気で底無しに明るい笑みからは、何故だかとてつもない安心感を感じられ、少年は目元を緩ませた。気が付けば自然と、身体の力が抜けていた。


「おっと……話してたら腹減ってきたな。さァて、話は終わりだ! みさきちゃんも待ってることだし、早く戻って食おうぜェ。かいと」


叔父はいつも楽観的に見えて、実は周囲を誰よりも理解していることがある。少年が夏休みを利用してこの場所へやって来た時点で──叔父はもしかしたら、少年の真意を理解していたのかもしれない。

叔父の強くて温かい言葉を、自身の胸に刻み込む。滲む視界に抵抗するよう、手で目を擦って顔を上げると──心做しか少しだけ、平生より周りがよく見える気がした。


「叔父さん、ありがとう」


少年が声を震わせる。叔父はその声に気が付くと、一瞬驚いたように目を丸くさせた後、満面の笑みと共にこう答えたのだった。


「いいってことよ」


そうして。少年の夏休みは──静かに、そして穏やかに、終わりを迎えることとなる。


* * *


翌朝。荷物をまとめた少年は、駅まで叔父に送ってもらうべく、外へ出た。


「かいと!」


すると目前から、聞き慣れた少女の声が響いたのが分かった。顔を上げ、少年は笑う。


「みさき、来てくれたのか」

「渡したい物があるの」


彼女は徐ろに少年へ近付くと、彼の手に、銀色の物体を置いた。ネックレスだ。ペンダントヘッドには、可愛らしいトマトの模様が見える。


「どうしたんだ? これ」

「トマトのネックレス! お揃いの! かわいいやつ!」


みさきは自分の首元から、同じネックレスを指さして笑う。真白な鎖骨から浮かぶトマトは、光に反射して黄金色に輝いて見えた。ソレは二人を引き合わせた、運命の証でもあった。


「ありがとう、大切にする」


少年はふっと優しく微笑むと、まるで宝物を扱うかのように、とても大事そうに、ネックレスに触れると──実際にそれを首に付けてみた。


「似合ってる!」

「みさきも、すごく似合ってるよ」


顔を見合せて、ふっと笑う。

青空に浮かぶ太陽は、二人の未来を激励するよう、燦々と光を放ち続けた。


「かいとっ、またね!」


別れの際。

みさきはもう、泣いてはいなかった。


「ああ、またな。みさき」


別れを告げ、少年は叔父の車に乗り込む。姿が見えなくなるその瞬間まで、みさきはこちらに手を振り続けた。首にぶらさがるネックレスが、星同様の輝きを見せる。揺れ動く車内で、少年はこの夏の思い出を呼び起こす。

そして改めて思うのだ。


その出会いは、運命だった──と。


* * *


「また、会えるよね」


少年が呟く。その疑問符には、根拠のない自信が含まれているようだった。


「みさきちゃんに、ってことか?」

「みさきにも、叔父さんにも」


やがて信号が赤に変わる。

車が停車しているのを良いことに。叔父はふと少年を見ると、口の端を釣り上げ、笑い飛ばすように言った。


「俺はずっとあの畑にいる、いつでも来い。待ってるからな。……でも、そうだな。お前がココでみさきちゃんに会った場合、それは──」

「それは……?」

「みさきちゃんの運が悪かったってことになる」


信号が青に変わる。「どういうこと?」

少年は首を傾げ、叔父に尋ねた。しかしどうだろう。叔父は前を向いたまま──


ただ笑っているだけだった。


* * *


数ヶ月後。

桜並木の下を、少年は歩いていた。彼は見事に、志望大学へ合格したのだ。

入学してまだ間もないが、何とか上手くやっている。首に垂れかかるネックレスと、叔父から貰った熱い言葉が、彼の勇気の源であった。

この先も上手くやっていける気がする──少年の思考は誰かに似て、とても前向きになっていた。


さて。

授業を受けるべく中庭を歩くその途中、少年の肩が──すれ違い様に誰かとぶつかった。


「すみませ……」


急いで謝罪すべく、相手を見る。それから少年は驚きのあまり言葉を失った。


春の風が二人の間を緩やかに流れる。

少年の目前に現れたのは、トマトのネックレスを身につけた──


愛しい愛しい、彼女の姿だった。







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叔父の畑 楠 夏目 @_00

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