ひまり

Kurosawa Satsuki

短編集

プロローグ:ケダモノだって生きている

人気のない路上に、奇妙なデザインの看板を下げた一軒の建物を見つけた。

入口の重たい扉には、“一回百円、なんでも答えます”と書かれた貼り紙がしてあった。

私はその貼り紙を一瞥し、迷いなく建物の中へと足を踏み入れた。

中へ入ると、小ぢんまりした空間の中に、

この建物の主であろう女性がいた。

その女性は、ブロンドヘアで黒いドレスに身を包み、フカフカのソファに腰を下ろしている。

「今日は、何を占いましょうか?」

代金を前払いしてから要件を端的に伝えると、

黒服の女性は、後ろにある引き出しからタロットカードを取り出し、無言のままカードを切り始めた。

やはりこの人も、都合のいい言葉を並べるだけなのだろうか?

「出ました」

女性がカードを切り終え、ランダムに引かれたタロットカード五枚が左から順に机に並べられる。

大アルカナは、自由を表す愚者のカード、

憂鬱や不安を表す月のカード、

小アルカナは、対立や葛藤を表すワンドの五、

束縛や逃避を表すソードの八、選択や決断を表すソードの二が出た。

「決断の時が来たようですね」

「ようやく、自分を許せる事ができた。

もう、思い残すことは無い」

「本当に、そうでしょうか?」

女性がニヤリと笑う。

まるで、分かっていないのはアナタの方だとでも言いたげな顔だ。

「ラッキーアイテムは、ラピスラズリの宝石」

ラピスラズリの石言葉は、真実と成功の保証。

ラピスラズリは、九月と十二月の誕生石で、

ウルトラマリンの絵具原料にも使用されている。

「もう少しだけ、生きてみませんか?」

女性は、目を細めながらコチラをジッと見つめながら、私の返事を待っている。

私は少しづつ、心の奥深くに眠っていた記憶を呼び戻す。

今度は、痛みや後悔ではなく、心から満たされていた時の記憶を丁寧にすくい上げる。

「そうか、私は…」

真実を理解した瞬間、瞳から涙が溢れ出た。

今まで何度も自分を見失って来たが、

私にとっての答えは、いつも私の傍にあったのだ。

家族や友人達に貰った沢山の愛。

それは、何にも代えがたい私だけの宝物だった。

「また、物語を書いてみようか」

ほら見て、可哀想だろ?って、

薄汚れた不幸をひけらかすのも辞めよう。

人を恨んでも何一つ良い事ないし、

自分の殻に閉じこもってクヨクヨしていても、

人生が好転する訳でもないし、

嫌な事なんて早い内に忘れる方がいい。

だから今度は、独り善がりの言葉じゃなくて、

誰かの心に寄り添える作品を書きたい。

まだ、この酔いが醒めないうちに。


本編



第一話:深夜零時に月は咲く

面接官が私に尋ねる。

貴女の長所はなんですか?

そんなもの、今まで考えた事すらなかった。

だから、面接中は在り来りな嘘を吐いた。

徹夜で暗記した私らしくない台詞を、

大人の前で堂々と口にした。

誠実、人柄、人望、実績、賢さ、行動力、

言葉にすればするほど、それらが自分とはかけ離れた未知のなにかに思えてくる。

私には何も無い。

それは、過去の私が作り上げた結果でもある。

子供の頃は何も知らなくてよかった。

知らなくても笑って過ごせていた。

誰のお陰か?

私を育ててくれた人達のお陰だ。

けど、これからは全て一人で背負わなくてはならない。

悲しみも、苦しみも、後悔も、

私自身で受け止めなければならないのだ。

いつの間にか桜が咲いて、

私の同級生達も、かけっこのように走り出す季節。

私の足取りは重くなり、

そして、彼らの背中が遠のいていく。

変化を恐れて、息苦しい感覚に襲われる。

その場で崩れ落ちて涙を流した。

涙目になりながら前を向いた時、

私はまた独りになっていた。

………………………

私は、言ノ葉 陽葵(ことのは ひまり)は、

四年制の文系大学を卒業し、

今年の四月から新社会人になった。

採用されたのは、

旅人書房という出版社の編集部。

私たち編集者の仕事をざっくり言うと、

書籍化する予定の本を企画し、

作り上げていくというもの。

そして、制作に関わる人達との連携も重要で、

私の場合は、雑用メインではあるが、

単にパソコンと睨めっこしていればいいという訳でもないのだ。

入社して早々、目の下にクマができている同僚もチラホラいて、情けない話だが、一週間くらいで辞めたくなった。

そういや、大学に入る時も全く同じ事思っていたっけ?

だから春は嫌いなんだ。

はっきり言って、それでも私は恵まれている方だ。

いつも自分を気にかけてくれる家族がいて、

辛い時には心配してくれる友人がいて、

子供の頃は苦労を知らなくて、

今まで何不自由なく生きてこれた。

ここに居ることはすごい幸運で、

私自身も、それを自覚しているのだけど、

何故か息苦しいと感じてしまう。

どうしても足りないと思ってしまうし、

疲れたって投げ出したくなる。

そういう思考になるのは、私がまだ弱いからなのか?

無謀だと知りつつも、繰り返し自問自答してみるが、一向に答えは出せていない。

多分、死んでも本当の答えは見つからない。

だから、自分にとっての、自分が納得できる正解を探すしかないのだろう。

「私ね、もう書きたくないんだ。

けど、気づけばまた続きを書いている。

なんでかな?私って変だよね?」

ふと、高校時代の友人、倉野叶(くらの かなう)の言葉が頭を過ぎる。

暗い過去を背負い、暗い物語ばかり書く彼女は、

今どこで何をしているのだろうか?

話を聞いたり、一緒に遊ぶ事はあったけれど、

叶が苦しいと本音を漏らしても、何とかなるなんて在り来りな綺麗事を吐くだけで、結局私は、本当の意味で彼女を助けることができなかった。

私の十七歳の誕生日に叶がくれた深紅のハート型のネックレスは、今も机の引き出しの中にある。

二人で交わした約束を最後まで守れなかったという罪悪感が、そのネックレスにこびり付いていて触れるのが怖い。

だから私は、それを“リグレット(後悔)の証”と呼んでいる。

「ダメだ、繋がらない…」

まさかと思い、叶に電話をかけてみるが、

一向に繋がらない。

嫌われたかな?

忘れているなら、それでもいいや。

私は、スマホを鞄に閉まって歩き出した。

今日やる仕事は終わったし、明日の予定も決まっている。

この後は、家に帰って、ご飯食べて、

シャワーを浴びて、これからの事を整理して…

私の瞳から、大粒の涙が零れる。

こんなところで何やってんだろう…私は。

こんな筈じゃなかった。

こんな筈じゃなかったんだよ。

やっぱり私は、変われない。

………………………

「言ノ葉さん、大丈夫かい?」

職場のデスクで目が覚めた。

上司の草木田さんが、不安そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。

今のは夢だったのか?

そもそも、何処までが夢で何処からが現実なのかさえ曖昧だ。

「最近、寝てないんじゃない?

あまり、無理しない方がいいよ」

同期の司堂さんも心配してくれて、

甘い苺入の菓子パンと缶コーヒーをくれた。

「全部一人で抱え込まないで。

私が手伝うからさ」

「ありがとう、司堂さん」

やっぱり、みんな優しいな。

私も、みんなのような優しい人になりたかった。

そんな、卑屈な台詞を頭の中で呟きながら、

目の前にあるデスクトップを立ち上げた。

デスクトップ画面で昨日の私が残したタスクメモを確認すると、今日の午後から担当の著者と打ち合わせがあるらしい。

それを終えたら、来月刊行されるファッション雑誌の編集と企画書の作成に取り掛かる。

一秒でも早く終わらせて休みたいところだが、

今日も、帰れるのは終電ギリギリになるだろう。

自分で選んだ道とはいえ、食事が喉を通らなかったり、自宅のトイレで嘔吐する回数も増えて、体にまで不調が出始めているので、

司堂さんが言うように、本当に気をつけなければ…。

「言ノ葉さん、企画書の作成は終わった?」

「いえっ、まだです」

作業中にウトウトしていたら、

よりにもよって、社内一怖いと噂の金山に話しかけられてしまった。

この会社に入ってから二ヶ月後に、この人の怒声に耐えられなくなった同期の三人が退職している。

私も苦手なタイプなので、

出来れば、この人とは極力関わりたくない。

が、一応この人は編集デスクといわれる私たちを取り仕切る責任者なので、関わらない訳にはいかない。

ちなみに、同期の三人が辞めて九ヶ月経った。

そして、明後日にはクリスマスがある。

草木田さんが言っていたが、

今年は、例年よりも大掛かりな企画を執り行うので、忘年会のような社内のイベントはやらないそうだ。

「あまりこういう事は言いたくないけど、

期限は明日までだから、なるべく急いでね」

背筋が凍るような野太い声でそう言われ、

まだ手をつけるつもりがなかったのに、慌てて企画書のファイルを開いてしまった。

まるで、学校の鬼教師と、その鬼教師にサボっているところを見られてしまった生徒みたいだ。

それから、二時半まで作業を続け、

ようやく昼休憩に入ろうとした矢先に、

今度は常務の笠田さんに呼ばれ、訳も分からないまま社長室まで案内された。

「失礼します!」

社長室の扉を三回ノックしてから開けると、

私服姿の柳(やなぎ)社長が、

黒い革製の椅子に深々と腰掛けていた。

「やぁ、言ノ葉 陽葵くんだね?

君の事は君の上司から聞いているよ。

例えば、“金山くん”とかね」

「は、はいっ。

その、本日はどのような要件でよばれたのでしょうか?」

「君、少し休んだ方がいいよ。

自分の顔を鏡で見てみなよ」

最悪の結末を想像し、額から嫌な汗が滲む。

「はっきり言って、君はこの仕事向いてないよ。

そんなに無理されて、倒れたりなんかしたらウチらも困るんだよ」

一見、気遣ってくれているように思えるが、

その口調からして、自主退職させようという魂胆が透けて見える。

原因を問うことはできるだろうが、

何れにせよ、この様な事態になってしまった以上、解雇は避けられない。

けど、何れこうなる事は分かっていた。

入社して早々、私には無理だと気づいてしまった。

私自身も限界を感じていて、

社長の意見に反論できる状態じゃなかった。

社長に突きつけられた手鏡には、

目尻にシワがあり、目袋に濃いめのクマができていて、まだ二十代なのに、中年女性と間違えられても不思議ではないくらい酷い自分の姿があった。

「それは、どういう事でしょうか?」

「体調管理も自分でできなくてどうするのさ?

とにかく、君には暫くの間休んで貰うよ」

「そっ、それは…」

「ん?なにかあるのかい?」

「いえ、ありません…」

お父さん、お母さん、ごめんなさい。

やっぱり私、もうダメかもしれません。

貴方たちが望む娘にはなりきれなかった。

歯を食いしばり、涙を堪え、

私は、なるべく平然を装いながら社長室を後にした。



第二話:リグレットを許して

私こと、倉野 叶(くらの かなう)は、

数年ぶりに故郷に帰ってきた。

帰ってからもそれなりに忙しい日々を送っていた。

今日の分の作業が終わったと思いきや、

次から次へと面倒事が増えていく。

人前で失敗を繰り返し、周りから嫌われ、

状況は変わっても、自分自身が変わるという事は無かった。

帰ってきても相変わらず独りだった。

環境が変わっても嫌な奴はいるし、

一応話せる人はいるものの、

所詮はその時だけの関係で、

帰宅した途端に虚しさが込み上げてくる。

結局私は、なんの為にここまで来たのか?

どうしてまだ生きているのか?

これからどうしていけばいいのか?

最近も、そんな事ばかり考えている。

早朝の満員電車に揺られながら、

くだらない妄想を延々としている。

孤独に耐えられず、道端で涙を流した。

公園で遊んでいた子供に見られたが、

お構い無しに大人気なく泣いた。

また選択を間違えてしまった。

そう思うのと同時に、

頭の中で過去の出来事がフラッシュバックした。

今の自分は幸せなのに、嬉しい事なのに、

毎日のように、満たされないと嘆いている。

私はたまに、自分が何者なのか分からなくなる時がある。

私の書いた物語は、どれもつまらないものだった。

話の軸が曖昧で、どれも似たような内容で、

自分語りが多く、場面の描写は適当だし、

登場人物の台詞に深みがある訳でもない。

本当に、ただ自分の為だけに書いた作品たち。

可哀想な子供たち。

自分の殻に閉じこもりながら、

自分を救う為に狭い部屋で書いた言葉も、

自分すら救えないまま塵となる。

生まれてきた事も、これまでの生き方も、

選んできた道も、選ばされた道も、

その全てが間違いだった。

それに気づいた時、私の中にある大事なモノが壊れる音がした。

目を閉じると、見渡す限りの荒地が見えた。

悪魔に敗けた獣たちの亡骸があった。

きっと、あれが私の成れの果てだ。

私が信じた光は嘘だったんだ。

昔はよく笑う子供だった。

周りからどんな言葉をかけられても平気だった。

けど、今では泣いてばかりで、

あの頃みたいに心から笑えない。

そして、嫌われる事が怖くなった。

嫌われないように、迷惑かけないようにと、

自分なりに頑張ってはみるが、

結局、最後の最後で墓穴を掘って、

みんな、私の前からいなくなる。

それの繰り返し。

そして私も、家族から、社会から、現実から、

何よりも自分自身から逃げ続けた。

その結果が今の私なんだ。

普通じゃない事は前から分かっていたけど、

全部疲れたよ。

もう、これ以上生きたくない。

今も尚、世界中で蔓延っている悲劇。

いい加減早く終わってよ。

時には痛みも必要だけど、

悲しみが余りにも多すぎるんだよ。

私だって、苦しいんだよ…。

助けて、陽葵…。

高校生の夏に陽葵とお揃いで買ったハート型のネックレスを握りしめながら、

私は静かに叫んだ。

………………………………

「こんな所にいた!けっこう探したんだよ〜」

「ひま…り?」

実家近くの河川敷で感傷に浸りながら佇んでると、突然、私の前に陽葵が現れた。

高校の時とは随分と容姿が変わっていて、

最初は誰なのか分からなかったけど、

彼女が鞄から取り出したハート型のネックレスで、

陽葵だと直ぐに分かった。

「どうして、ここに?」

「多分、叶と同じ理由でここにいる」

「帰ってきてたんだ」

「何回も電話したのに出なかったから、

本当に心配したんだよ?」

「ごめん、去年の秋に電話番号変えたんだ」

「そっか」

「怒らないの?」

「怒らないよ。また会えたんだし」

お互いに話すこと自体久しぶりなので、

暫く、ぎこちない会話が続く。

会話が途切れたらまた別の話題へ、

互いの近況や、

今まで誰にも言えなかった心中を明かし、

話題が尽きそうになったら、

睨めっことかで場を持たせる。

だいたいそんな感じ。

「ねぇ、二人きりで何処かにいかない?」

「何処かって?」

「ここじゃない場所に行こうよ。

遠くじゃなくてもいいからさ、

人生最後の思い出作りをしようよ」

そう提案したのは、私の方だった。

「人生最後…いいと思う。

私も、これ以上生きるつもりはないし…」

陽葵は先月末に、新卒で入った会社を辞めたそうだ。

経緯からして明らかに不当解雇だが、

陽葵自身も、これ以上続けられないと言っていた。

それは仕方の無いことだし、

陽葵の全てを解って上げることは難しいけど、

例え、彼女を責める者がいたとしても、

少なからず、社会から逃げ続けてきた私よりも懸命に生きてきたんだ。

それなのに私は…。

「どうしたの?」

「なんでもない。

なんでもないけど、本当に陽葵に会いたかった。

前からずっと想い続けてきた。

だから、今日会えて凄く嬉しかった。

それが言いたかっただけ」

「何それ?私に恋してる?」

「ちっ、違うよぉ…」

現状が最悪であればあるほど、

そして、孤独感が増すほど、

過去の栄光や幸せだった思い出が眩しく見える。

そして、その光に手を伸ばすんだ。

絶対に届かないと知りつつも、

それに縋りたいと願うんだ。

陽葵にそれを伝えたかったんだけど、

急に恥ずかしくなって言うのを止めた。

「あ、もうこんな時間」

右腕に着けた腕時計を確認すると、短針がギリシャ数字の五(Ⅴ)を指していて、

気づけば、空が橙色の夕焼けに染まっていた。

夕焼けは幻想的で綺麗だが、今いる場所は街灯が少なく、

道に迷いやすいので、急いで駅に向かった方が良さそうだ。

「さて、そろそろ行こっか!」

「はーい」

目的地はだいたい決まっている。

二人でよく行った場所や、まだ行ったことがない場所、

今までよりも沢山の思い出を、

私たちにとって一番の思い出を作るんだ。

それが終わったら、この世界と私たちにサヨナラをしよう。

私たちは顔を合わせ、手を繋ぎながら夕陽を背に歩き出した。




第三話:もういいかい?

今年の春に高校生になった私、“言ノ 陽葵”は、

吹奏楽部の活動を終えて、真っ直ぐ家へ向かっていた。

すると、橋の上で縮こまりながら独り言を呟く制服姿の女学生を見かけた。

年齢は、私と同じくらいだろうか?

彼女は、涙を流していた。

悔し涙なのかもしれないと、私は思った。

「みんな、私に気づいてよ!」

突然、女学生が叫んだ。

私は、彼女の声に驚いて肩を震わせた。

「ねぇ、どうしたの?」

私は、思わず声をかけてしまった。

ふと、私の存在に気づいた女学生が振り返る。

「私が、見えるの?」

カッと目を見開き、ありえないモノを見た時のような表情をする女学生。

その表情があまりにも可笑しくて、

私は思わず吹き出しそうになる。

「うん、見えるよ。

君は、地縛霊でしょ?」

「どうして分かったの?」

「足元に影がないから、そう思った」

西日に照らされた女学生の地面には、

言葉通りに影が無かった。

物理法則に反する現象を目の当たりにし、

流石の私も恐怖を感じた。

幽霊にしても、普通は透けているように見えるはずだ。

それでも私は、女学生に歩み寄り、

積極的に対話を試みた。

「私は、陽葵。君の名前は?」

「私は、片倉 真理。

実は私、十年前に交通事故で死んだんだ」

「え?そんなに前!?」

私はてっきり、同い年くらいかと思っていた。

だとすると、とっくに成人しているだろうし、

いきなり馴れ馴れしい態度を取ってしまったのが申し訳ない。

「そんなに驚く?

でもまぁ、ちょうどいいから、

私の話を聞いて行ってよ」

少女は、一度深呼吸してから、

年の離れた妹に思い出を話すように、

ゆっくりと語り始めた。

………

片倉 真理は、不慮の事故で亡くなった。

その日は、彼女が通う学校で卒業式があった。

彼女不在の中、予定通りに卒業式が行われた。

友人にメールを送り、母親に急かされながら家を出て、通学路の横断歩道で信号待ちをしていた時、コントロールを失ったトラックが横転し、

真理はトラックの下敷きになってしまった。

体が思うように動かせず、耳鳴りが止まらない。

視界も段々ぼやけていく。

遠くから、救急車のサイレンが聞こえる。

やがて、パトカーや救急車が事故現場に到着し、

救助された真理は、担架で救急車に担ぎ込まれた。

しかし、病院に着いて僅か三十分で少女の死亡が確認された。

だが、この時の彼女は自分が事故に巻き込まれた事に気づいていなかった。

彼女が目を覚ましたのは、救急車が現場から去り、警察が現場検証を行っている時だった。

真理は、訳も分からず周囲を見回す。

中には、真理に対してスマホを向ける者も沢山いた。

不思議な事に、真理は痛みを感じなかった。

「まずい!もう卒業式始まってる!」

真理は起き上がると、事故現場から卒業式の会場へ向かった。

そして、会場へ着いてからいつも通りにクラスメイトへ話しかけようとした。

しかし、どんなに話しかけようと無視されるだけだった。

真理は、ここでようやく自分が置かれている状況を理解した。

みんな、悪意を持って無視しているのではなく、

本当に彼女の存在を認識できていないのだ。

それでも、最初は彼女も楽観的に考えていた。

そのうち誰かが自分の存在に気づいて、

声をかけてくれるのではないかと期待した。

「え?ちょ、嘘でしょ!?」

「どういうことだよ…」

「まさか、あいつが…」

卒業式が終わり、卒業生たちが会場から出る頃、

真理も参加していたクラスLINEで、少女の訃報が流れた。

その情報は、同級生の間で瞬く間に拡散され、

真理を知るクラスメイトは皆涙を流した。

それでも、寂しさは残ったままだが、

みんながちゃんと、自分のことを想ってくれていることに真理は安堵した。

それから直ぐに、学校近くの葬儀場で自分の葬式が執り行われたが、真理は最後まで行かなかった。

家族や友人の涙を見たくなかった。

そういう思いがあったからだ。

彼女は、まだ諦めていなかった。

「すみませーん!」

と、道行く人に声をかけてみた。

日が暮れるまで、何度も、何度も…。

結局、彼女の言葉は誰にも届かなかった。

真理の死から、十年経った。

嘗ての同級生たちは、彼女の死を忘れ、

意中の人と結婚したり、名の知れた企業に就職したり、一人前の社会人として、たとえ心が抉られるくらい辛い事があっても、自分の人生と向き合っていた。

真理だけが、大人になれなかった。

真理の心は限界だった。

誰とも話せず、長い間この世界を彷徨い続けていたが、これ以上、孤独でいることに耐えられなかった。

「みんな、私に気づいてよ!

私を、置いて行かないでよ…」

誰もいない橋の上で、真理は叫んだ。

それは、心からの願いだった。

悔しくて、苦しくて、声を出して沢山泣いた。

零れた涙は、地面に到達する事なく全て消えてしまった。

……………

「それで、偶然橋を通りかかった私と出会った」

「そういうこと」

真理は話し終えると、今までの後悔の念が吹っ切れたらしく、語る前よりも声色が明るくなった。

そして、いつの間にか涙も枯れていた。

「私ね、あの日から、幸せの数を数えていたの」

「十年も?」

「そう。そしたら、沢山出てきた」

「幸せだったんだね」

「ほら、幸せは失って初めて気づくって言うじゃない?

今まで当たり前と思っていた事は、

自分にとって何にも代えがたい宝物だったんだって、ようやく気づけたの」

「それはいい事だ」

「貴女にも、きっとある」

真理の冷たい手が、私の右手に触れる。

真理は、私の手をゆっくりと胸の高さまで持ち上げ、両手で私の手を包み込む。

「あのさ」

一瞬、満面の笑みを見せる真理と目が合った。

真理の体が徐々に薄れていく。

もう、思い残す事が無いのだろう。

それに対して、私も笑顔で返した。

「見つけてくれて、ありがとう」

その言葉を聞いた瞬間、真理は跡形もなく消えてしまった。

「幸せは、失って初めて気づく…か」

気づけば、日も暮れていて、

辺りはすっかり暗くなっていた。

私は、何事もなかったかのように静まり返った橋の上で、遠くを見つめながらしばらくの間佇んでいた。




第四話:旅は気まぐれ、たまには休め

ここは、神奈川県のとある町。

私は、お盆シーズンを利用して、

父方の祖父母の家を訪れている。

長閑で美しい大自然に囲まれたこの土地は、

刺激が多く、迫力のある建物が所狭しと並んでいる都会とはまた違った魅力がある。

私は今、祖父母の家の近所にある、“こまきヘア”という名の美容院でカットしてもらい、

軽い足取りで、次の目的地まで向かうところだ。

なぜ、私の機嫌がいいのかというと、

こまきヘアの小牧(こまき)店長さんや店員さんに優しくして貰えたからだ。

一年に一回しか来れないのに、

みんな、私の事を覚えてくれていただけでなく、

「陽葵ちゃん、大きくなったね!」

「綺麗になったね!」

「しっかり者の陽葵ちゃんなら、きっと良いお嫁さんになれるよ!」

と、暖かい言葉をかけてくれた。

傍から見れば些細な事かもしれないが、

私は、それが嬉しかった。

美容院を出て五分歩いたところで、白黒の地味な看板が見えてきた。

そこには、旅人書房という古本屋と表記されている。

旅人書房といえば、大手出版社の方を思い浮かべる人が多いが、そこは、街の一角で店主の三井さんがひっそりと経営しているお店だ。

古本屋に来た理由は、店主の と本に纏わる色んな話をしたいのもあるが、もう一つの目的は、

母親の“言ノ葉 恵美”が書いた小説を探す為だ。

母は、私を産む前から小説を書いていて、

私が産まれる頃には、作品を幾つか書籍化したという話を聞いたのだが、

私が知る各地の書店を回っても、

母が書いたと思われる本は、一向に見つからなかった。

そんな時、旅人書房にならあるかもしれないと、

母から聞いたので、行ってみることにした。

「おや?久しぶりだね、陽葵ちゃん」

カウンターに腰掛けているのは、

店長の“三井明(みつい あきら)”さん。

白髪混じりの長髪を後ろで結び、

黒縁のメガネをかけていて、

まるで老舗喫茶店のマスターのようだと思った。

歳は四十を超えていて、私の両親よりも大人なのだが、未だに結婚せず、ずっと独り身なのだという。

最近、アルバイトのお姉さんを雇ったそうだが、

今日はいないようだ。

「恵美?あぁ、青葉さんね。

ちょうど預かってるよ。

今持ってくる」

私が、要件を端的に伝えると、

すぐに察してくれた三井さんが、

カウンターの奥に引っ込んでいった。

今では珍しいことなのだが、

“青葉”という名前は、母の旧姓で、

父と結婚してから名義を“言ノ葉”に変えたらしい。

それでも、昔馴染みの知り合いからは青葉さんと呼ばれる事が多い。

「ウチにはこれくらいしか無かったけど、

よかったらどうぞ」

暇つぶしに児童文学の本を読んでいると、

十分程で三井さんが書庫から戻ってきた。

落ち着いた口調の三井さんに渡されたのは、

厚さが一センチにも満たない文庫本が二冊。

二つとも表紙が黒く、手をモチーフにした独特なイラストが印刷されていた。

タイトルは、“不死身のワルツと月夜の魔女”と、“不死身のワルツと合言葉”。

母の作品の多くは自費出版なのだが、

その殆どが絶版になってしまった。

表紙のイラストは、

母方の祖父が若かった頃に描いたものだと三井さんが丁寧に説明してくれた。

「ところで、三井さんは恋人いないの?」

私は、二冊をお気に入りのショルダーバッグに仕舞いながら、ふと気になった事を三井さんに聞いてみた。

「いないよ、どうしてだい?」

三井さんは、優しい人なのに、

どうして誰ともくっつかないのだろうか?

それとも、優しいからこそ、

大切な人を傷つけたくないと思って、

行動に移せないのか?

それは、臆病者だからと本人は言うが、

少なくとも私は、三井さんを臆病者とは思わない。

「大人になれば、好きな人が出来て、

その人と結婚して、子供を産んで、

幸せな家庭を築くんだって、パパが言ってた」

「誰もが必ずしも、そうなるとは限らない。

ここは、小説とは違う。

孤独なまま人生を終える奴もいる。

俺も、きっとそうなる」

「寂しくないの?」

「寂しいけど仕方がない。

俺が選んだ道なのだから」

三井さんは、悲しい表情で苦笑した。

恋愛話はあまりしたくないのだろうか?

だとしたら、申し訳ない。

「幸せの形は人それぞれなんだし、

無理に付き合う必要はないさ。

いつか、自分のことを見てくれる人が現れる。

それまでに、今できることを精一杯頑張ればいいんじゃない?

俺は、そう思いながら生きてるよ」

「人は脆いから、縋るものは多くあった方がいいって、お爺ちゃんが言ってた。

私も、頼れる人が沢山いた方がいいと思う」

「別に、孤独は悪いことじゃないさ。

けど、社会がそれを許さない時があるってだけ。

世の中には、必要最低限の人間関係以外は苦痛に思う人だっているんだ」

「三井さんも、独りがいいの?」

「俺の場合、ただの開き直りだよ」

三井さんは、天井を見上げながらため息をついた。

きっと、他人には言いづらい事情があるのだろう。

「私、そろそろ戻らなくちゃ!」

店内にある掛け時計を見ると、

短い針が三の数字を指していた。

母との約束の時間を過ぎていることに気づき、

慌てながら扉の方へ向かう。

「また、いつでも遊びに来ていいからね」

「三井さん、今日はありがとう!」

私は、三井さんにお礼を言いながら、

旅人書房を飛び出した。

今日は、私が生まれた特別な日。

両親や祖父母だけでなく、遠方から来ている親戚の人たちも一緒にお祝いしてくれるというので、

一刻も早く戻らなくてはならない。

本当は、旅人書房に寄ってから商店街を回ろうと思っていたのだが、それは諦めて、私は真っ直ぐ祖父母の家まで走り続けた。



第五話:線香花火が散る頃に

六歳の誕生日を迎える前夜、

母親に仕立ててもらった花柄の白い浴衣を着て、

父親に、地元で有名な神社のお祭りに連れて行ってもらった。

長い石階段を登り、大きな鳥居を潜ると、

左右縦方向に連なる屋台と、沢山吊り下げられている大小様々な提灯が目に入ってきた。

「陽葵、パパからはぐれちゃダメだよ」

父の腕をしっかり掴みながら、人混みの中を進んでいく。

りんご飴、わたあめ、金魚すくい、

屋台で出されている物は、どれも私の心をくすぐった。

最初は、父と離れないようにと気を配っていたのだが、屋台を回るのがあまりにも楽しくて、

回っている最中に父とはぐれてしまった。

「こんばんは、お一人かしら?」

父を探し回りながら、神社の裏手の方へ行くと、

何処からか、女の人の声が聞こえてきた。

声のした方向へ視線を向けると、

綺麗な空色の瞳をした白猫がいる。

「お困りのようね」

人語を話す白猫は、空色の目を細めながら言う。

彼女の名前は、シェリーというらしい。

なんだか、おとぎ話に出てくるような名前だなと思った。

「私、パパとはぐれちゃった」

「じゃ、一緒に探してあげる。

私に、着いてきて」

ほんの少し恐怖もあったけれど、

まだ人を疑うことを知らなかった私は、

素直にシェリーの後ろに着いて歩いた。

早く父に会いたい気持ちもあったけど、

自分の中にある好奇心に勝てなかった。

シェリーに案内されるまま、石畳の一本道を進んで行くと、大木に立てかけられている楕円形の大きな鏡を見つけた。

シェリーが、なんの迷いもなく鏡の中へ入る。

私も、シェリーの後を追うように、

続いて鏡の中へと足を踏み入れた。

鏡の中は、緑の葉が生い茂った木々のアーチが左右に規則正しく立ち並んでいた。

木漏れ日が、木々の間から差し込んでいて、

幼い私の口からでは言い表せない程とても幻想的だった。

しばらくの間、一人と一匹でアーチの中を進んでいると、目の前に大きな鳥居が現れた。

鳥居の柱から苔がびっしりとこびりついていて、

ひび割れていて、人の手から離れて長い間放置されているようだった。

石で出来た鳥居に扁額はなく、

左右の柱に、“あの頃に戻りたい方へ”と、薄く彫られていた。

鳥居を潜り、先ほどまでいた神社よりも長い石階段を登り続け、古びた木造のお社がある場所に辿り着いた。

お社の下には、父がいた。

「パパ!」

私が叫ぶようにして呼ぶと、

私の声に気づいた父がゆっくりと振り返った。

口ヒゲがないせいか、目の前にいる父は、

普段の姿よりも若々しく見えた。

私に対して何も言わない父は、

その場から一歩も動かず、静かに涙を流していた。

「また来てしまったのね、薫」

「僕だって忘れたいさ」

「戻ったところで変わらないわよ?

今を生きるんじゃなかっの?」

「もう分からなくなったんだ」

「そのセリフ、これで何回目?

いつまでも自分に酔ってないで、

いい加減、目を覚ましなさいよ」

「それよりも、その子は?」

父が、ようやく私の方に視線を向ける。

私を見る父の目は、いつもの優しい目をしていた。

父の言う、“忘れたいこと”がなんの事なのかは気になったけど、私の中にある罪悪感が邪魔をして聞けなかった。

「いずれ分かるわ。

答えは、今ある課題を片付けたあと。

けど、これだけは言える。

貴方はもう、独りじゃない」

「そうかい…」

父は、深いため息をついた。

人生を諦めた人と同じ表情をする父を、

私はこの時初めて見た。

「君は今、幸せかい?」

私は、父の質問に黙って頷く。

父が、僅かに微笑んだ。

涙はもう、枯れていた。

「分かったよ。あともう少しだけ」

そのセリフを聞いた瞬間、

耳鳴りとともに目の前が真っ暗になった。

そして、再び目を開けると、

隣に父の姿があり、私を心配そうに見下ろしていた。

ふと気になって辺りを見回すも、シェリーの姿は何処にもなかった。

「陽葵、どうした?」

「ううん、なんでもない」

私はまた、父の日焼けした細い腕を引っ張りながら、人混みの中を歩き出した。




最終話:痛いの、辛いの、飛んでいけ

ここまでが、今の私が語れる私自身の話。

私は今まで、色んな人達と関わりながら、

自分なりの生き方を知った。

自分の嫌な部分と向き合いながら、少しづつ自分を許せるようになり、最近は、不器用だったあの頃の自分を愛おしいと思えるようになった。

気づけば、私も歳をとった。

周りからは、お婆さんと呼ばれるようになった。

六十をすぎた辺りから膵臓癌になり、

かかりつけの総合病院で治療を続けている。

痛みはあるが、恐怖はない。

最近の楽しみは、時々会いに来てくれる孫娘の葵と話をすることだ。

自分の孫に過去の自分を重ねながら、学校の先生になったつもりで話をする。

“痛いの、辛いの、飛んでいけ”

葵が、自ら悩みや苦しみを打ち明けてくれる時、

私は、決まってこの言葉を使う。

一見、なんでもない台詞のように思えるが、

苦しい時や、自分を見失いそうになった時、

私は、この言葉に何度も助けられてきた。

「いいかい、人と人は決して分かり合えないけど、

手を取り合う事はできるんだ。

だからね、葵ちゃんも、困っている人や悲しんでいる人がいたら、そっと手を差し伸べてあげてね」

「はーい!」

私は、葵の頭を優しく撫でる。

純粋なままで、大人になれる人は少ないけど、

この子ならきっと、どんな困難が立ちはだかっても、真っ直ぐ前を向いて、自分の意思で乗り越えられる。

私は、そう信じている。

病室の壁に掛けてある掛け時計を見ると、短針が七を指したまま止まっている。

看護師に言って、電池を取り替えれば済む話だが、あえてそうしないのは、今の私には必要ないからだ。

担当の看護師にも、その事を伝えてある。

窓の外は、茜色の夕焼けに染まった空と、

夕陽に照らされた高層ビル群が織り成す、

幻想的な風景が広がっている。

そろそろ、看護師の新垣さんが夕食を持って来る頃合いだ。

名残り惜しいが、葵も家に帰らないといけない。

「おばあちゃん!」

「なんだい?」

「おばあちゃんは、いま幸せ?」

「うん、とても幸せだよ」

私はもう、十分生きた。

酸いも甘いも沢山経験してきたし、

その過程で、多くのものを失った。

けれど、私が過ごしてきた日々は、

苦悩は、出会いは、間違いなく本物だった。

私に関わった全ての人たちへ、

心から、ありがとう。

この身が朽ちる前に、それを伝えたいと思った。

……………

もういいかい?

もういいよ。


エピローグ:また会いましょう

拝啓、自己嫌悪と残酷な現実に苛まれている人へ。


周りは、過去にばかり執着しないで今を生きろと言うけれど、他人の言葉を鵜呑みにせずに、

どうか、過去の自分も大事にしてください。

悔しかったこと、悲しかったこと、

それらを、絵や言葉にしてみてください。

過去の自分を肯定できた時、

アナタはきっと、本当の意味で自分を救うことができる。

例え、その思い出が歪な形をしていたとしても、アナタの宝物になっているはずです。

それは、アナタにしかできないこと。

だから、どうかアナタの為に生きてください。

私は、アナタの幸福を心から願っています。


黒澤咲月より。


END



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ひまり Kurosawa Satsuki @Kurosawa45030

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