暗黒という孵卵器

 男は肺病かなにかを患って長期間引き籠もっていた。

なかなか裕福な家の若い息子であったから働かなくても餓えることはない。


 しかし数年に渡る闘病の中で家財は徐々に失われていた。

のみならず彼の身体もより蝕まれていった。

最初は出来た食事が出来なくなるといった具合で弱っていったのである。


 さてそんなじりじりとした闘病生活が終焉おわりに差し掛かった頃のことだ。

折り悪くその年はたいへんな酷暑で不作だった。


 家を経営している長兄はいよいよ業を煮やし、

真っ先に穀潰しの病んだ弟を蔵の中に閉じ込めてしまった。

弟は寝転んでいたところをいきなり数人の若者に抱き上げられ驚愕した。


 さてそれからは暗い蔵の中である。

蔵の中は昼でも薄暗く、何が置かれているやら明かりを持たずしては判断つかないほどだった。

彼は暗黒のなかでたしかに息だけをしていた。

呼吸のたびに自分の喉などが音をたてる。

その音だけが彼に己の生命と人間らしさを実感させた。


 蔵の中の男は何日も何日も転がっていた。

何も食べなかった。

何も飲まなかった。

むしがいくら寄ってきても平気だった。

しまいには蟲と共生しはじめた。

というよりは服の中などのスペースを蟲に明け渡した。

何かが顔に張り付いていても気にしなかった。


 さて数ヶ月が経った。

家の経営不振の問題も一応はかたがついた。

いくら悩んだとしても金が湧いてくるものではないから、

ひとまずは財産や土地などを売り払うのである。

そうした整理の手始めに弟の処理も含まれていたのだ。


 ある時、家に仕えていた者の一人が

「あの弟の死体を引き取らないと蔵の床が腐っちまう」

と言いはじめたのが発端である。


 そこで数人の奉公人が火燭かしょくを持ち蔵へ入った。

そこで見つかった男はまだ生きていた。

しかし全身に蟲が集った男は救出され、何日も看病されたところで人の言葉を話さなかった。


 ある日蝶々が近くに止まったのを見て、

「ああ蝶々よ。人を呪う歌を歌おう」

と言った。

それから人には理解できない喃語なんごのごとき発声を繰り返し、日々にようになった。


 それとは全く違う話だが――大災害が起きる前日、蝶が歌うのを聴いた者がいたという。


 ノートパソコンに外付けのモニター、外付けのキーボード、外付けのスピーカーを接続した。

これでノートパソコンは一切開かれずに駆動することになる。


 

それはサディスティックな行為だった。


 携帯オーディオプレーヤーをアンプとして利用する。

ポケットメモライターを無線キーボードとして利用する。

アンプ内臓のスピーカーにイヤホンを挿してみたこともある。音が増幅されて聴こえる。

勿体ない話だが、役立てないというのとは違う。

価格相応の機能とまでは言わないがそれなりに良いアンプ、キーボードとして活用できる。

眠らせておくよりは遥かに有効活用しているということになるだろう。


 私は〈縫い師〉だ。

麻酔をかけた心を縫うのが仕事である。


 一般的な手術と違って高度な専門性が認められる「心を縫う」ワザは〈縫い師〉という仕事を生み出した。

ただの医者では手の届かない技術をがカバーするという構えだ。

言うなれば病院の様々な機械を操る為に常駐する〈技師〉達と似たようなポジションということになるだろう。


 心を縫う技は専門学校や大学などでは習得できない。

私は師匠から直接習った。


 その希少性は技術そのものの特徴からきているのだろう。

技術そのものが非常にに依存している。

また、複雑怪奇な〈縫い〉の技術は学校で一律に教えるメソードが確立されていない。

結果「師匠が弟子を取り、必要なら何年でもかけて技術を与える」という古臭いやり方で生まれるのが〈縫い師〉の基本だ。


 手術室に横たわる患者は全身麻酔だけを受けている。

眠る患者の胸あたりに腕を入れて心を抜き取る。


〈縫い師〉は施術前に患者の心理状態をできるだけ深くリサーチする。

直接話を聞き、「心」のカタチを想像する。

傷はどこにあるのか、ヴィジュアルで捉えられるようになるまで情報を集める。


 それにかなりの時間がかかるから「心を縫う」技術は役に立ちにくいかもしれない。

しかし効果はテキメンだ。

なにしろ脳手術や投薬より安全で、そうした直接的な医療と同等の確実性を持って患者を変えるのだ。

熟練の〈縫い師〉がミスをすることはない。

術後すぐに患者は健康になり副作用的な症状は一切訴えない。


 患者の心を抜き取った〈縫い師〉はその「心」のカタチが自分の想像したモデルと寸分変わらないことに満足しつつ、施術する。

麻酔で「心」は動かないから〈縫い師〉にとって縫うのは簡単だ。


 本来「心」は外部の刺激に反応してはピクピク動く。

時にはカタチすら変える。生き物のような臓器のような存在である。

酷い心的ダメージを受けた患者の「心」は大抵動きが鈍い。

衝撃的な出来事があった何年も前からカタチを一切変えない「心」もある。


 傷を適切に縫った〈縫い師〉は以降二度と再会することはない患者の記憶をできるだけ早く忘却しようとする。

〈縫い〉の技は確実なのだから患者が再発する可能性はゼロだ。

しかし患者達の心と向き合った記憶をいちいち〈縫い師〉が保持しているとその亡霊じみた重圧に苦しめられる。

具体的には悪夢を見ることが多い。

それも〈縫い師〉が患者に成り代わってその苦しみを体験する悪夢だ。


〈縫い師〉は忘れる技術も一流でなければならない。

さもなければ数人の患者を治したあと引退することになるだろう。


 私は君という患者を縫った。

しかし君は奇妙な患者だった。

最初から奇妙な患者だった。


 君の四肢は透き通り青白く光った。

夜の見回りに病室を訪れた私は君が月を見ているところに居合わせた。


 それから私は君に魅入られ、毎日君のことばかり考えるようになった。

しかし「心」のカタチだけが掴めない。

私がほとんど自己を犠牲にして君のことばかり考えているというのに「心」が読めない。


 ある日、君がどこからか持ち込んだ詩集を私が盗み見たことがある。

君が節をつけて朗読したあの美しい詩の作者を私は見たかった。

しかしその書物には表紙がなかった。

慌てて隠そうとする君から詩集を奪い取り、中身をあらためた。


 するとページは全て真っ白だった。

特殊な装丁の自由帳や日記帳のごとき物だったのだろう。

それを「読んで」見せたのはいたずらか?

それとも本当にそうした詩が見えていたのか。


 君は日を送るごとに歌うようになった。

歌には必ず言葉が付いた。

それは美しい詩だった。

そして手には例の真っ白な本が握られた。


 ああ、思い出した。

君は確か三年前に大災害で家族をうしなっている。

その心的ショックで狂乱し、ここで入院させられている。

症状はほとんど無い。しかし一点だけ極めて重大な症状があった。

それは「失語」だったはずだ。


――失語の君がどうして詩を朗読できる?

君は歌い、朗読し、また歌った。

私は君に何度も話しかけたことがある。

しかし決まって答えは無いのだった。

だから「心」のカタチも見えないのだろうか。


 私は君を愛した。

愛する故にその「心」が見てみたくなった。

だから私は施術のスケジュールを入れ、医師に麻酔を施してもらい、君の心を取り出した。


 それは青く光る鉱物のような「心」だった。

傷はどこにも見当たらない。

私は傷を探す。探す。探す――。

しかしどうしても見つからない。


 しまいに私は君の心を手に取り、思うようなカタチへと縫い始めた。

そうだ。傷などなくても良い。

ただ綺麗なカタチにすれば治るはずだ。

私は全生涯で最も良く縫った。

あの「心」ほど私が力を込めて縫った「心」は無いはずだ。

私の最高傑作だ。


〈縫い〉の作業が終わった。


 それ以来私は君の姿を見ない。

退院したのだと知らされた。

症状も失語を含め全て治ったと聞かされた。


 しかし私はこうして君の記憶を時折取り出してみる。

そのうちに私の姿は夢の中で君へと変わるだろう。

そうして何度も悪夢の中で君に成れば、最後は現実においても君に成れるかもしれない。


 私は自分の最高傑作とした「心」のカタチを丁寧に思い描き、微笑んだ。



 はこ入りの全集本は棺桶に似て不吉だった。

のみならずその凝りすぎた装飾が私を不愉快にさせた。


 著述家をしている友人が生前に出した全集が献本で送られてきた。

友人とはしばらくの間会っていなかった。

献本と同梱で近況報告と挨拶を兼ねたハガキが入っていた。


 生前に出すのに「全集」とは。

「これから物を書きません」という宣言にも似ている。

これが引退宣言だとしたら友人は趣味の旅行でもしながらノンビリ過ごすのだろう。


 この「全集」はまだ第一巻だ。

全十巻の刊行予定だからまだ二年ほどかけてゆっくりとカタチになるはずだ。

その間友人は何をするつもりなのだろうか。


 こんなことを一人でクネクネ考えていてもしかたがない。

気が向いた私は電子メールを使って友人とコンタクトを取った。

友人は週末に会食しようと誘ってくれた。


 その日たしかに友人は現れた。

エスカルゴ等が出てくるようなフランス料理店で友人はよく喋った。


「あの全集で俺の仕事は一段落だ。

これからもっと書くにしても、引退するにしてもとにかく一段落ついたというつもりだ。

今後は趣味的な文章なら書いてやってもいいかな」


 それが友人の無責任な発言だった。

思うに「全集」が商業出版されるほど需要が見込まれる友人はそれなりの重鎮なのだろう。


 後日、友人が私と出会った日に亡くなっていたことを知った。

丁度私と会食をする最中の時刻に自宅で息をひきとったそうだ。

私は幽霊と食事をしたことになる。


 幸いにして友人の葬式は盛大になされたから私のような「晩年ばんねん疎遠そえんになった友達」にまで声がかかった。


 葬式のついでにこっそりと知り合い達に「例の会食」のエピソードを披露した。

場の空気に合うよういつでも「いかにも悼んでいる語り」へと転じられるよう気を使った。

それに周囲に聞かれて大事になったら厄介だ。

私はヒソヒソと喋った。


 すると私の話を聞いて顔を青くした知り合いが数名いた。

話を訊けばその人達も同じ時刻に友人と出会ったのだという。


 もう一点共通する要素があった。

それは「全集」の献本を受けたという点だ。


「全集」として友人の生涯は複製され取引されている。

私はそう思うようになった。


 無事に「全集」が十巻刊行された時、友人は喜ぶだろうか。

案外喜ぶのではないかと私は考える。

イタズラ好きな彼だから笑って

「俺の命は全部売っぱらっちまった。タダでくれてやったのもある」

とでも言いそうだ。



 文章を書くのは薄氷を踏むのに似ている。

そう感じるほど自信を喪失している。


 私はある事故の後遺症として

「頭が動かず、集中が数分で途切れる上に記憶まで頻繁にしまう」という厄介な症状を抱えている。

要は「ただでさえ頭が動かないのに思考が頻繁にリセットされる」といったところだ。


 一文一文が綺麗に成立していて、なおかつ連綿と続いていなければ長文は書けないのだ。

最初の「一文一文が綺麗に成立」する段階で相当の苦労を強いられる。

この言葉は人に通じるのだろうかと不安になる。

何か重大な情報を書き漏らしていないかと必死になって頭の中を整理する。


 小説なんぞよく書けるものだ。

私は世の小説家達にいちいち讃嘆せずにはいられない。

あれは健康な人間でなければ無理だろう。

それとも仕事として何十年も小説ばかり書いていれば意識せずに「伝わる文章」が書けるのだろうか。


 私は自分の文章を見直しても〈正しい文章なのか/誤った文章なのか〉判断できない。

だから校正を雇いでもしなければ「綺麗な文章を書いた」などと胸を張ることはできない。


 読者が存在するのかわからない。

PVの数字を見ると連続で「0」だから読者は存在しないのかもしれない。

するとこの文章は誰のために書いているのか?


 こんな苦労をしながら私は、私自身のために文章を書いている?

まるで修行のようだ。

いや、リハビリか。

「書かなければもっと書けなくなるかもしれない」という不安が私を焦らせるのだろうか。



 ボーカルが死んだバンドの音源がまだ定価で取引されている。

死人の声に値段がついて取引されている。

死人の声が装置を通して何度もされる。


 死んだ作家の文章もコピーされて売られている。

活版印刷がオフセット印刷になっても電子書籍になっても、

つまり情報媒体メディアが変わってもコピーされていることには変わりない。


 死んだ動画投稿者の動画だって何度も再生されるうちに没後十年が経過し、二十年、三十年と時を越えてコピーされるのかもしれない。

動画サイトが消滅しても何かの媒体で公開される。あるいは売られる。

合法または非合法的に死者の動画が取引される。


 幸運にして私は死後にされずに済むタイプの「需要がない」人間だが、

死後に自分の一部が流通し続ける人間というのはどんな感じなのだろう。

お化けの気持ちを考えても仕方がない。

しかし何度も何度も「自分にそっくりな自分の一部」が求められ、

されるのを眺めるのは面白いのだろうか。


 気持ち悪さと面白さの間で死者はケラケラ笑っている?

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ショートショート集「モドキ」――擬―― 妄想機械零零號 @rerego

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