ニートを観察する話
*
日本語、という言葉がある。
私と君は日本語を話す。
日本という国単位で一応ある程度均された水準の義務教育がある。
そして日本の多くの書店で販売されている共通の国語辞典がある。
しかし、この事自体が私と君の関係における躓きのきっかけになりはしないだろうか。
例えば私と君の使っている言葉は本当に同じなのだろうか。
多分――経験上ではあるが――違う。
私と君の言葉はこんなに、あんなに違っている。
私の言葉は君には届かない。
君の言葉は私には届かない。
暗号表というやつがあれば――
あの
我々の会話は成立したに違いない。
しかし君の言葉のいくつもの意味を私は取りこぼす。
言葉は専有される。
政治学に明るい者は政治学の言葉を持ち、哲学に明るい者は哲学の言葉を持つ。
哲学の言葉と文学研究の言葉はある程度似ているだろう。
具体的には「差異化」や「モダニズム」といった単語を共有しているはずだ。
しかし無論両者は全く同じではない。
こうした分野による言葉の違いは学問に限らない。
サッカーに詳しい者はサッカーの言葉を持ち、ラグビーに詳しい者はラグビーの言葉を持つ。
「言葉を持つ」という表現では見えにくくなってしまうが、
分野ごとに「この言葉を使うことは考えられない」「こうした言葉はおそらく使わない」
という性質もある。
サッカーに詳しい者が物理学の言葉をどこまで使っている(と考えられる)か。
「分野外の言葉は全く知らない」と考えるべきではない。
やはり日常言語に溶け込んでいる(学術等の)
また、義務教育による均質化された常識も考慮に入れなければならない。
言葉は分野のみならず、地域によっても年代によっても違う。
同じ国なのに私と君では持っている言葉が違う。
地域、年代、(己の関わっている)分野、教育環境、家族構成……多くの要素が私と君を隔てる。
こうした要素が近ければ近い程、両者の言葉は近付く。
しかし完璧に合致させるのはほとんど不可能だ。
言葉のみならず常識においても同じことがある。
私と君の常識は異なっている。
同じ日本人で、同じ日本語で意思疎通し、同じ義務教育を受けているというのに。
どちらか片方が犯罪者のように常識外の存在として社会的に阻害されているわけでもないというのに。
ここで二つの原則を比べる。
第一の原則
「同じ日本人である限り言葉は通じて当然だ。常識も通じて当然だ。
それらが通じないのは相手がおかしな人(犯罪者や精神障害者、知的障害者などに準ずる)だからだ。
そして(犯罪者や障害者のように)国家が隔離あるいは保護していないおかしな人は攻撃しても良い」
第二の原則
「同じ日本人であっても言葉は人により違っていて当然だ。
常識など通じなくて当然だ。
したがって会話は通じないという前提から出発させなければならない。
会話不能の状態を前提として繊細に気使いしながら、
ゆっくりと両者の確かな意思疎通目指す。
できるだけ公平に、できるだけ客観的に自他を扱うよう自制する必要がある。
それは外国人との会話に似ているだろう」
さて、第一の原則に従う限り君と私は戦わなければならない。
最初の数語の挨拶に齟齬があるだけでお互いを異常者と
日本は小さな村で、皆が同じ言葉で同じ常識を持ち同じ信仰をしている。
その代わり皆が家族だ。
暖かく馴れ合い、激しく交流する。
それが出来ない人間は排除される。
第二の原則に従えば
――もしかしたら、そして長い長い時を経て――
私と君はいつか交流できるかもしれない。
とはいえ、それも恐ろしい程の距離と不信感に私と君がそれぞれ耐えられればの話だ。
長い間私と君は孤独を感じるだろう。
第一の原則の方が
実際、私は常識や日本語の通じない人間とは必ず縁遠くなってしまった。
そうした人間が落穂拾いを試みる気になるのは当然の成り行きではないだろうか。
君がその試みに乗ってくれれば幸いである。
*
私のニートがいる。
その人を私は数ヶ月にわたって観察してきた。
コンタクトを取ったことはない。
ただ一方的にそのニートの書いた文章(エッセイのようだった)を読んできただけの話だ。
自分がニートになるのは怖い。
私は怖がりでなおかつ変わり者だから自分がニートになる前にニートの
まず、話はとことんまで我が観察するニート氏に絞って展開する。
ニートにはかなりの個人差があり、
寝たきりの者もいれば社会復帰のためのインターバルとしてニートなりに活動的な者もいる。
また親の資産、国からの援助(失業手当から障害者年金まで様々)など、環境面も多様だ。
ニートを就職と就職の間のインターバルとして考える(あるいはそう考えなければ経済上許されない)人も
一生働かなくても良しされ本人も納得した人もいる。
私のニート氏(とまで言っておこう)は親の遺産や働いていた頃の貯金、
さらには障害者年金で働かなくても生きていける経済的地盤が充分に整っているらしい。
そしてその地盤はなかなかに強固であるから、
言ってみれば(革命でも起きて大きく社会構造が変化しない限り)死ぬまでニートで良い人といったところだ。
本人の意思次第では就労も可能だが、それは必要に駆られての労働と比べて緊迫感が無い。
そういう意味では完成されたニートが労働する様は
興味深いのは彼が非常に社会的な影響力を持っている。
そして生産性すら持っているという点だ。
彼の書く文章はエッセイにしては実に馬鹿にならない程の人気と影響力を持っているのである。
彼は広告収入を得られないサイトで文章を書いているから、
その収益は全て掲載サイトの運営会社が手にすることになる。
しかし「自分の収入になっていれば生産だが、
自分の収入にならない作文は生産とは言わない」
などという決まりはない。
彼は何かを産んでいる。のみならずそれを消費する人が出てくる。
最後はその生産と消費の裏で掲載サイトの運営会社が儲ける。
これは立派な生産性、さらには経済参加あるいは社会参加ではないか。
彼の文章には政治や社会のことなど書かれていない。
今のところ働く気は無いようだ。
ただ金のかからない趣味の話と体調の変化についてメモのように書いている。
たしかにそれなら書くネタが尽きることはないのだろう。
毎日天気や気温について書くようなもので、案外ネタは豊富である。
社会人とニートとは一見対立する概念のように見える。
しかし彼は社会人(と言って良い程社会参加している)のニートなのである。
彼を否定してしまえばもはや社会人とは
「労働して給料を貰っている人。労働者」
をちょっとオシャレに言っているだけということになる。
たしかに「労働者」と言われてしまえば汗みずくになって働いているような必死感とダサさ、被害者感(主体性の無さ)が出てしまう。
こうした言葉のイメージに対し(大抵は文章のプロなんぞより)そのへんの人々は敏感だ。
「社会人とは労働者のことである」
とまで言うのであれば我がニート氏は社会人ではない。ただのニートである。
しかしアレだけのPV数を稼いだニート氏が「文章で小銭を稼ぐ」気になってカクヨム等のインセンティブ機能を利用した時、実際にどれくら儲かるのかは気になるところである。
彼は「なんとなく恥ずかしくなって」サイトを変えたり名前を変えたりするリセット癖があるらしい。
しかしその度に固定読者達が駆け付けてすぐさま彼を囲んでしまう。
恐ろしい読者の質と量である。
これは「インターネット歴」というべき長期にわたるあらゆるサイトでの活動が誘蛾灯的に作用した結果らしい。
文章の質
実際におそらく彼より上手にエッセイを書く人はいるだろう。
なんであれば、彼より無名かつ低評価な文章の名手はゴロゴロいる。
彼の文章ビジネスが成功するか否かはどこまでも(本人のやる気が無い限り)机上の空論だ。
しかし彼のビジネスを想像してみると面白い。
その最大の武器は前述の「とにかく長いインターネット歴による固定読者の多さ」ということになるのだ。
もちろん彼は文章が上手である。
あの路線ならダラダラ読める「読みやすさ」さえあれば十分だろう。
その水準に彼は達している。
また〈彼と趣味の合う人間〉や〈彼と似たような経緯を持つ人間〉は特にエッセイを楽しめるはずだ。
それ以外の人間に支持されているからこその異様な人気ではあるが、
とにかく「趣味」、「健康事情」、「ニートの自分語り」という〈内容〉があることは大切だ。
その三点の内容を全面に出した宣伝をすればもっと人気になれるかもしれない。
しかしあまりに真っ当すぎる戦略を並べ過ぎたようだ。
彼の凄さはむしろ「内容はあるが内容で売らない」「宣伝しない」のに数字的な人気はあるという異常性にある。
その異常性はビジネスとしての発展性があるか?
難しいところだ。
彼の〈誘蛾灯性〉をフルに発揮させるプロデュースとはどのようなものだろうか。
いやいや、話が脇道へ
細かく彼について書くと面白くはなっても謎ばかりで結論が出ない。
あえて一般論を並べてもっともらしい文章に寄せる。
〈社会性・経済性・政治性〉とは細かい網の目のようなものである。
(前述のニート氏の場合に顕著だが)基本的に「ニート」とされる人々もまた何らかの形で社会に
我がニート氏の経済性について生産の面では詳しく前述した。
消費の面ではもっとわかりやすく身近である。
生活用品の消費からは(生活者である限り)誰一人逃れられない。
そして消費することは生産と同様に政治性を持つ。
外食の際、どの店を選ぶかという判断は「その店の政治性に参加する(金を払って賛同する)」ことと変わりない。
高級店に限らず、いかに安チェーン店の間で葛藤していようとやはり「消費は政治的」なのである。
それ以上にわかりやすく「消費は政治的」となるのが嗜好品を〈消費・購入〉する場合だ。
例えば我がニート氏はロックのファンで、あるバンドを熱烈に応援している。
もちろんアルバムを購入し、ライブに参加している。
ロック・バンドは基本的に〈反体制〉が一種の(古臭い)型だが、
もちろん右翼のロック・バンドもあれば左翼のロック・バンドやリベラルのロック・バンドもある。
どのような音楽を聴くか、という選択は「消費」と「政治」の関連をわかりやすく示してくれる。
身近な話をすると芸術だとか表現だとか言われるものの創り手は「政治的な表明」をしがちである。
「作品テーマ」として提示されることもあればSNS等で「表明」される場合もある。
〈お気に入りの創作者が自分と違った政治的立場を持っていて失望した〉という体験は今どき多くの人がするのではないだろうか。
また政治的な表明はどんどん身近になっている。
というより政治の身近さが多くの人に認識されるようになっている。
それこそフェミニズムなどの思想や運動を通して
〈ジェンダー(社会的な性)〉〈セクシュアリティ(性的嗜好)〉〈セックス(身体的な性)〉について考える場合、
多くの人は何かしらの形で「性」の当事者になる。
「自分の体験」や自分の「当事者性」といかに関わるかは問題だが、
多くの場合は「性」という身近なモチーフを通し何かしらの形で政治に参与することになるだろう。
政治への入口は「性」に限らず無数にある。
そしてその無数の「入口」の中には「性」のように極めて身近で多くの人が無視できないものが含まれる。
我がニート氏はこれといって政治的な立場を表明していないが、
場合によっては極めて政治的な運動等と関わりを持つ可能性がある。
非常に運動が身近になっているのだから可能性としてはバカにならない。
選挙も身近かつ平等なのがタテマエであるから、
ニート氏が(誰にも言わずに)投票している可能性は大いにある。
ニートの社会性についてあえて触れなかったが、これは経済性や政治性が支えてくれる概念だ。
というのは社会を分解してみれば、その中に経済なり政治なりの分野があるというだけのことだからだ。
なんのことはない。
経済性、政治性を持ったニートである彼は社会性がある。社会に参加している。
したがって彼は社会人のニートなのである。
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