誰も知らぬ、わたしの心の色。誰にも理解されない、はずのもの

丸毛鈴

画家は黒を一閃、塗った

いつか、どこかの国で。


***


 腹が鳴る。 


 もうすぐあいつらが来るだろうか。それは今夜か、明日か、明後日か。残された時間を思い、ぐっと目を閉じ、ペインティングナイフを握る。


今夜こそは、なんとかしなければならない。目の前には、三つの絵画。それぞれイーゼルに立てかけてある。


 若い頃、パトロンからの依頼で描いた裸婦。「お前の描いたものには、理想がない」と言われたもの。陰影をたっぷりつけて描いた女の体にはふくよかさはないが、わたしの理想だった。これをきっかけに、パトロンは去った。


 二枚目は、静物画。キュビズム風に見えるが、奇をてらったつもりはない。物に当たる「光」のみに注目し、金属、ガラス片、木片、そしてりんごに当たる光を、自分なりにキャンバスに表現したものだった。展覧会では、「キュビズムの真似事をした駄作」と酷評された。


 三枚目は、風景画だった。戦争で破壊された、もう帰れぬ故郷を描いたもの。これを描き上げたのはごく最近だ。油絵具が少なくなるなか、子どものころ、兄弟で魚を釣った小川とその岸辺、木々から差し込む柔らかい光を取りつかれたように描いた。我ながら、よく描けているのではないかと思う。しかし、この作品が日の目を見ることはない。


 今までの人生では、日々、作品を売り込み、ときには美術教師の真似事をし、細々と生計を立ててきた。世間から見えれば鳴かず飛ばずの画家の、売れずに手元に残った三枚。しかし、どれもわたしにとっては特別なものだった。


 特別だからこそ、そして、この絵に価値を見出せるのはわたしだけだからこそ――。この絵が、いま、街を包囲している敵軍の手に渡るのは耐えがたいことだった。それならいっそと、何度も燃やそうとした。燃やせば暖だって取れる。でも、できなかった。


 作業台には、街を去った画家たちからかき集めた油絵具がある。また腹が鳴る。最後に口にしたのは土壁のかけらだった。どちらにせよ、わたしにはもう時間はない。


 遠くで銃撃の音が聞こえる。わたしはパレットに油絵具を絞り出し、まずは裸婦画の上に黒を一閃、塗った。


 描いた絵の上から、まったく違う絵を描く。それは、油彩をやっていればままあることだ。キャンバス代の節約のため、若い頃からさんざんやってきた。本来は、絵の上から下地材を塗って凸凹をなくし、乾くのを待って新しい絵を描いていくものだが、今はそんなことをしていられない。凹凸があって塗りにくいが、それでも黒を、黒だけに飽きたらその隣に藍をめちゃくちゃに塗りたくる。ついに、裸婦は見えなくなった。


 キュビズム風の絵も、同じように黒く塗ろうとしたとき……わたしは手を止めた。この絵で描きたかったのは、光だった。光源からの直接の光や、輪郭を浮かび上がらせる反射光。どうせなら、光を。わたしは最初に白を、また絵筆に持ちかえて淡い黄色を乗せた。大きな大きな超新星を描くように。わたしが魅せられた光。それを、キャンバスいっぱいに描いた。


 絵筆を動かしながらよみがえったのは、自分なりの美を追い求めた日々。それが報われなかった日々。画材に事欠く戦火の日々。街に降る爆弾が画家の習作を焼き、美術商や富豪の家から、有名画家の絵が敵国に接収されていく。


 外では太陽が昇り、また沈みを繰り返している。いま、ここにはわたしと、絵だけがある。


 三枚目となる故郷の絵の上には、わたしはただただ明るい色を重ねた。小川の水を跳ね上げたときの冷たい感触。水しぶき。たまたま街で一泊した画商が、いたずらに見せてくれたさまざまな技法の油絵。繊細に色を塗り重ねて表現された女のやわらかな体、草の上で談笑する人々、荒々しく塗り込められた夜。「こんなふうに世界を描けたら」と、心に灯った大きな希望。それらを思い出しながら、音楽を奏でるように、一心に筆を動かしつづけた。


 誰も知らぬ、わたしの心の色。わたしの作品であって、誰にも理解されないもの。これなら遺してもよいだろう。わたしは安堵を覚えた。


 最初に黒と藍で塗り込めた裸婦の絵を見る。ふと乾き具合を確かめようとキャンバスに指を近づけたとき――ドォンと大きな音とともに、衝撃が走った。窓を見ると、中心街から炎が上がっている。奴らが攻め入って来たのか。


 わたしは指先を見る。わずかに油絵の具がついているだけだ。絵は乾き始めている。わたしは口を引き結び、ふらつく足を踏ん張って、黒と藍の上から、あらゆる赤を乗せていく。街を燃やすどす黒い炎を、人々が流す血を、悲しみの血涙を描いた。


 足音、たどたどしい発音の「テヲアゲロ」、弾丸が放たれる音、衝撃、熱、わたしからほとばしる血。それがキャンバスへと飛んでいく。そうだ、そう。この赤があれば、この絵はもっと――。


***


「~~~は、戦前はほぼ知られることがなく、不遇な時代が長かった……いえ、不遇なままこの世を去った画家です」


 美術館に、学芸員の声が響く。スタディツアーに参加中の老若男女がメモを取りながら、それを聞いている。


「はっきりとこの画家のものだとわかっている作品はこの三点のほか、わずか数点のみ。それも国内外に散逸しています」


そこで学芸員は大きく息を吸った。


「この絵は、画家がその人生の最期、銃撃に斃れるまで描き続けたもの。この一枚『黒と血の時代』には、画家の血痕も付着していると言われます。包囲され、飢餓と疫病がはびこる街で、彼はこれを描き上げたのです」


目尻をそっとぬぐい、学芸員は晴れやかに続けた。


「しかし、そのようなドラマを抜きにしても、我が国の光と悲しみを描いたこの絵は素晴らしいものです。外国に接収されていましたが、長い長い年月を経て我が国に返還され、この展示会で、晴れてお披露目を迎えることとなりました」


 学芸員は、手にした指示棒をキャンバスに向け、絵に触れない絶妙な距離で止めた。


「見てください、これらの絵の表面。どれも凹凸が激しいですよね。この下には、別の絵が隠されているのでは、と言われているんです」


一同が絵を食い入るように見る。


「もう少し技術が発達したら、X線を利用して、この下に描かれた絵を見られる日も来るかもしれません」


 学芸員は、愛おし気に三枚の絵を見た。


「彼には、この三枚を描くまでの道のりがあった。彼が何を描いてきたのか、それを知ることができるんです! それはとても……心躍ることだと思いませんか」


 学芸員はそう結んで、スタディツアーを終えた。湿度、温度ともに絵画のために調節された空間の中、三枚の絵はただ黙して佇んでいた。



***


作品執筆にあたっては、分散型SNSのひとつ、Misskey.designの方々に油絵についての知識を教えていただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございました。

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誰も知らぬ、わたしの心の色。誰にも理解されない、はずのもの 丸毛鈴 @suzu_maruke

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