第10話 遊びの話

 いつまで、同じことを繰り返せば良いのだろう?


 答えのない答えを求めて、堂々巡りをしている気分だ。


 しかし、確実に時は過ぎていく。このまま、時をただただ、消費するのはもったいないと、罪悪感にさいなまれる。


 同じような周期で、同じような景色が見える。


 私はこの状態を、良く、終わりのない螺旋階段に例える。


 真横を見れば、同じような景色だが、後ろを振り返ってみると、自分が歩んできた道のりが高さとして確かにあって、その積み上げてきた経験が、今の自分を形作っているのだと認識はできる。


 認識はできるが、無駄な時間を過ごしているような、そんな罪悪感と孤独の中で、それでも一歩ずつ時と共に歩んでいるのは事実で、言葉にできない感情の中にいる。


 経験上、時間と共に、充電がなされ、また、仕事をすることもできるのだが、それまでの道のりが遠い。


 上を見れば真っ暗で、しかし、かすかかに、おぼろげに光が差している。そこへ向かって何もしない(自らは死を選ばない)という己に課したミッションをこなしながら、それでもできることをしようと右往左往しているのだ。


 全く以て、ままならない。


「なぜ、仕事はできないのに、遊ぶことはできるのか?」


 つい、最近、妻に言われてちょっとショックだった言葉。


「違うよ。遊べるようになったんだよ。仕事だってしたいのに、んだよ」


 って、言ったら、


「ごめん」


 って、言ってくれたけど。


 この現象を、敢えて、論理付けるとするならば、屁理屈と取られかねないかもしれないが、仕事をするより、遊ぶ方がハードルが低いからだと推測できる。


 やりたくないことよりやりたいことの方が早く行動に移せるのは、誰しもがそうだろう。(仕事をやりたくないというのは語弊があるが……)


 また、状態の悪い私にとって、時間とは、早く消費されて欲しいものだ。


 仕事をすれば時間はあっという間に消費できることを知っているが、その仕事をしていて状態が悪くなっていくのだから、これはそもそも選択肢に入れられない。


 しっかりと休む。


 それがこの病気の唯一の対処療法なのだから。


 という言い訳を携えて、自分自身、サボっている感覚から抜け出せないのだけれど、仕事を思うと動悸が早くなったり、冷や汗が出たりする。


 そんな状態だから、仕事をすることは選択肢として除外せざるを得ない。


 では、何をするか?


 できることをする。


 病人なら、大人しく寝とけ!


 という、お叱りも尤もだろう。


 この病気に限っては、寝ることで回復するのはある程度までなのだ。


 皆さんは、休みの日に何をするだろう。


 普段できない家事をする人もいれば、ただひたすらに寝る人もいるだろう。趣味に没頭する人もいるだろうし、誰かと出掛ける人だっているだろう。


 そうなのだ。


 何も、体を休めることだけが、『休む』ということではない。


 仕事をしているときにはできないことをして、心のリフレッシュを図ることも休むことと言えるのだ。


 そうして、休んでいる内に、ハードルが低い遊ぶことなら。そうして遊び、楽しむことが、苦しみを緩和させてくれる。


 休みすぎて失った体力を遊ぶことでリハビリしてもいる。


 健康な人が2日でリカバリーできることが、私の場合は、数か月を要する。


 休まざるを得ない周期を段々と短くしていくことが、私の至上命題だということは重々理解した上で、今は未だ、試行錯誤の毎日を過ごしている。

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鬱と生きる~優しい世界で自然体で生きていくために~ サトノハズキ @satonoha

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