第9話 受容の話
障害福祉分野でもしばしば使われる言葉、受容。
受容とは、受け入れて取り込むこと。
何を?
障害を。
良く例に出される事例は、事故に遭い、足を失った人。
足を失うなんて、想像するだけで受け入れ
当然、事故直後は受け入れるどころではない。ショック。
足を失っていないと思い込む。否認。
次に沸き上がってくるのが悲しみと怒りの感情だと呼ばれている。
様々なプロセス経て、人は徐々に適応し、受容していくと言われている。
また、このプロセスは、決して一方向だけでなく、行ったり来たりを繰り返しながら徐々に、徐々に受容へと向かっていくとされている。
しかし、受け入れようが受け入れまいが、足がない現実は変わらない。
今後、その人は、足がない生活を余儀なくされるのに変わりはない。
足がないことを受け入れ、懸命にリハビリをし、義足をはめるのか、車いすに乗るのか、それはその人の自由だし、受け入れられずに一生をベッドで過ごす選択だってあるだろう。しかし、現代医療では、最もその人が望むだろう、足を再生させることは、叶わない。
だったら、現実を受け入れて、少しでも明るい未来を描いて欲しいと、そういう論理だ。
私の経験上、受容には、痛みが伴う。
誰もが、直視したくない現実(自分)を直視せざるを得ないからだ。
では、なぜ、受容する方が良いのか?
その方が、自立しやすく、周りの人間の負担が減る。
これに尽きる。
誰もが、受け入れ難い現実に直面した時に究極の救いを求める。
この究極の救いとは、すなわち、死。
再び登場、キシさんだ。
こんなことになるのなら、「生まれて来なければ良かった」
何度も思う。何度も。何度も。何度でも。
昨日まで、つい、数分前まで、光の当たる場所を歩いていたはずの自分が、暗闇のどん底でのたうち回るのだ。
死にたい。
消えたい。
終わりにしたい。
そんな、負のスパイラルの中で、自我を保っていられる人はどれだけいるのだろうか。少なくとも私は、それに一人では耐えられない。
部屋に籠りがちな私を心配し、日に何度も顔を見に来る妻や子どもたちの存在に、どれだけ救われているだろう。
そう。
死、以外で救いを得られ、それに気付けた私は、脆いが、強い。
それを得られなかった、気付こうとしなかった兄は、呆気なく逝ってしまったが、それで救われたのだと信じたい。
話しを戻そう。
受容。
別に受容したからといって、生活のし難さが易しくなるわけではない。
抱える障害に変わりはないのだから、当然だろう。
しかし、受容することで、精神の安定度は遥かに増し、前を向く力は獲得できる。
斯く言う私も、全てを受け入れられてはいないが、ある程度は自分と対話をし、考えを整理させてくれる周囲に恵まれ、飲み込んだと自負している。だから、こうして、恥も外聞も捨て、己の考えを記すなどといった自己満足を満たせるのだ。
周囲の人の負担について、受容できていない人は、否認も相まって、他者を攻撃しがちだし、良くも悪くも、他者の一言二言に影響を受けやすい。
言い換えれば、己の浮き沈みを何かのせいにしてしまう。
そして、その反応(リアクション)は、周囲の人に影響を与える。
良い反応だけが返ってくる場合は、お互いに楽に日々を過ごせる。
しかし、一度、悪くなると、歯止めが利かず、より悪い方向へと向かってしまう。
これが、受容できている人の場合、己の浮き沈みを他者に依存し難くなる。
受容とは、無責(何のせいでもない)の状態に心を持って行くことだと考える。
言葉にするのは、簡単だが、これが難しい。
どこかで何かのせいにしなければ、心の置き所が不安定で怖いのだ。
行ったり来たりを繰り返し、繰り返すことで、徐々に、徐々にだがそれに近付けたら良いなと思う。
気付けたことは、大きなアドバンテージとなることを願って。
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