傷跡
尾八原ジュージ
傷跡
もう三十年以上も前のことだという。
当時彼は既婚者で、幼い子どもの父親でもあったが、連絡も入れずに朝まで飲み歩いたり、一日中パチンコ屋にしけこんでは万単位で生活費を使い込むような暮らしをしていた。
ある日妻が仕事に出かけ、家には三歳の息子と自分が二人きりで残された。
幼い息子は母親がいなくて寂しいのか、やたらと甘えてまとわりついてくる。それがうっとうしくなった彼は、手元の雑誌に視線を落としたまま、寄ってきた息子を乱暴に押し返した。
ゴン、という音がした。顔を上げると、座卓のそばに息子が倒れている。
さすがに慌てて抱き起した。額に小指ほどの長さの傷ができて、そこから血が流れている。息子はかっと目を見開いたまま、泣き声ひとつあげない。小さな顔が見る見るうちに青ざめていく。大変なことになった、と思った瞬間、息子の体が激しく痙攣し、そしてぴたりと動かなくなった。
呼吸が止まっている。心臓も動いていない。とんでもないことをしたと悟った。
アパートの部屋から逃げ出し、昼間からやっている居酒屋に飛び込んでさんざん酒をあおった。が、どうしても息子の笑顔や泣き顔、動かなくなった姿が頭から離れない。そうしているうちに時間は過ぎ、ふと時計を見ると妻が帰宅しているはずの時刻になっている。
帰らなければ。妻に詫び、警察に行こう。
ふらふらと立ち上がり、家路についた。
「あら、おかえり」
ドアを開けると、妻のそっけない声が出迎えた。
それを追いかけるように「おかえいー」という舌足らずの声が聞こえてきた。
「えっ!?」
慌てて茶の間に向かうと、さっき動かなくなったはずの息子が、座卓の前に座ってなにやら遊んでいる。
思わず膝から崩れ落ちた。死んでしまったと思ったが、さてはあの後蘇生したのか。よかった――
「ちょっと何泣いてんの? うわ、酒くさ」
呆れたような妻の声がした。なんでもない、と言いながら顔を上げた彼の視界に、茶の間の隅が映った。
額から血を流した息子が、部屋の隅に立って自分のことを睨みつけていた。
妻にはそれが見えないらしい。座卓に向かっている息子も何も言わない。結局その日は隅からの視線に耐えながら無言で食事をし、同じ部屋で川の字になって眠った。
それからというもの、彼は生活態度を改め、家族のために働くようになった。そうしないと、もっともっと怖ろしいことが起こる気がして仕方がなかった。
部屋の隅の息子は七日ほど同じ場所に立っていたが、そのうちふと消えた。
そういう話を、余命いくばくもない父親から聞かされた。
私の額には、小指ほどの長さの傷跡が残っている。
傷跡 尾八原ジュージ @zi-yon
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