母ちゃん

鳥尾巻

プカプカ

 あれから、二年が経過した。

「好きな人が出来た」と、母ちゃんが家を出て行ったのは、俺が十三歳の時。それまでも数ヶ月に一度はふらりといなくなることがあったので、俺も父ちゃんもあまり気にしていなかった。

 時々絵ハガキと一緒に送られてくる、玉ねぎやら饂飩の詰め合わせやら鳴門金時やらを見た父ちゃんが「今兵庫か」「へえ、香川に」「徳島ねえ」などと呟くのを、俺はなんとも言えない気持ちで眺めていた。何事もなかったように「ただいま」と帰ってくる母ちゃんも理解できないが、黙って迎え入れる父ちゃんの心情もまったく分からない。まるでいなくなった猫が戻って来たみたいな気軽さだ。いやいや、猫がいなくなったってもう少し大騒ぎするだろうよ。

 母ちゃんは子供みたいな人で、同じ家で暮らしている時は俺と同じくらい、むしろ俺以上に無邪気な言動が多くて、子供の俺ですら困惑させられたものだ。美人と言うより愛嬌のあるタイプで、だいたい咥えタバコで家の中をさまよい、昼間から飲んだくれてはだらしない恰好で寝ていたりする。家事もまったくできないし、たまに頑張って料理をしようとして家を燃やしかけたこともある。変な唄を唄いながら踊ってみたり、突然ギターを弾いてみたり、絵を描いてみたり、そうかと思えば難しい数式を何日もかけて解いたり、哲学書を読み漁ったりする。ある夏はロケット花火を大量に買ってきて、河原で一斉に火を点けて大音量を響かせゲラゲラ笑っていた。

 それに対して父ちゃんは困ったように笑いながら「あいつはこの世の理とは関係なく生きてる妖怪みたいなもんだ」と言っていた。じゃあ俺は妖怪と人間のハーフってこと? 意味が分からない。それに母ちゃんが妖怪な訳ない。怪我をすれば血が出るし、病気にだってなるし、年だって取る。

 でも父ちゃんがあまりにも落ち着いていて、母ちゃんのやることなすこと全部受け入れるので、子供の頃の俺は、両親というのはそういうものだと思っていた。違うと気付いたのは、学校の友達に話して「お前の家族おかしい」と言われたからだ。それからはなんとなく人に自分の家族のことを話すのが憚られて、そういう話題にはなるべく触れないようにしながら過ごしてきた。

 いつだったか、珍しく酒に酔って帰って来た父ちゃんが、母ちゃんの昔のことを話してくれたことがある。

「昔のあいつは厳しい家に育って雁字搦めだったんだ。思い詰めてビルの上から飛び降りようとしてたところを俺が拾ってきた」

 拾ってきたって捨て猫じゃあるまいし、と思いながら水を飲ませ、布団を敷いてやった。父ちゃんは母ちゃんがよく唄っていた「プカプカ」って古い唄を、寝言みたいに唄いながら、布団まで這いずって行ってそのまま寝てしまった。聞いてると歌詞の内容は母ちゃんみたいな女のことだ。自由で気まぐれでだらしなくて、いつだって遠くにある夢を見ているような。

「……あいつは家族だからなあ。帰ってくるところはここしかないんだよ」

 父ちゃんはむにゃむにゃ言いながら、枕を抱いて夢の中。それでいいのか。まあ、俺も父ちゃんがいれば特に母ちゃんが恋しいってこともないから、冷たいのかもしれんが。帰ってきたらきたで、嬉しいことは嬉しい。


 そんな母ちゃんが二年ぶりに帰ってきたのは、日差しがきつくなり始めたある夏の日のことだった。スーツケースを片手に、もう一つの手には小さな男の子を抱いて、家の玄関の引き戸を開けた母ちゃんは、いつものように「ただいま」と言って入って来た。

「あんたの弟」と渡されたその子を抱いて、俺は困惑した。まだミルクの匂いも抜けきっていないような一歳くらいの子だ。母ちゃんに似た大きな目を俺に向けて、小さい親指を一所懸命しゃぶっている。

「同棲してた彼女が生んだんだけど、あたし捨てられちゃってさあ。一人じゃ育てらんないし」

「そうか」

 いや、そうかって、父ちゃんも何言ってんの。さすがに色々理解が追い付かないんだが。母ちゃん同性もいけたってこと? 妊娠してた女性と付き合ってたってこと?

 腕に抱いた弟 (仮)に、よだれまみれの手でTシャツの胸元をグシャグシャにされながら、俺は母ちゃんを見つめる。相変わらずだらしなくシャツワンピースを着崩して、長い髪も無造作にまとめて襟足に幾筋もの後れ毛が流れている。

 母ちゃんは暑い暑いと言いながら、ボタンも外さずに頭からシャツを抜いて床に放り投げた。いくら身内でも、いや、身内だからこそ裸なんて見たくない。でもその時俺は視界の端に母ちゃんの肌色を捉えてしまった。あれ、と思って顔を向けると、そこには当然ついているはずの女性としての膨らみが全くなかった。今まで全く意識してこなかったが――意識するほど一緒に過ごしてなかった――よく見ると喉仏もうっすらある。

「……母ちゃん、男だったの?」

「そうだよ。あれ? 言ってなかった? ねえ、父ちゃん」

「ああ、大きくなったら言おうと思って忘れてた」

「あはははは」

「笑ってる場合か!」

 俺が思わず大声を上げると、抱っこしていた弟がビクッとして泣き出した。いかん、驚かせてしまった。慌ててあやしていると、母ちゃんが寄って来て、赤ん坊を抱き上げた。

「よしよし。びっくりしたね。お兄ちゃん、大きなお声ですねえ」

 誰のせいだ。俺だってびっくりして混乱してる。今まで母ちゃんを名乗っていた人が女装した男で、いきなり弟が出来て、それからなんだ? 父ちゃんは父ちゃんだろうな? まさか女だったとか言うなよ?

「え? 俺、父ちゃんと血の繋がりないの? 男同士で子供ってできるの?」

「できないな。でも血は繋がってる」

「そそ。母ちゃんの従兄弟だよ」

「意味わからん」

 混乱のままに呟くと、父ちゃん、もとい従伯父いとこおじが事情を話してくれた。ややこしいから今まで通り父ちゃんと呼ぶが。

 父ちゃんが言うには、自分は若い頃の病気で子供が作れない上、女性にもあまり興味がなく、生涯独身でいようと思っていたらしい。母ちゃん改め俺の実の父は、堅苦しい家に育ち、自分のへきを認められず、自殺を考えるほど苦しんでいたところを父ちゃんに同居を提案され、家を捨てて今の生活を選んだそうだ。

「お互い家族と縁を切った身だからな。でも何かあった時、最期を看取れる人間がいた方がいいだろ」

「いや、それにしたってさあ」

「お前にはいずれ話すつもりだった。今まで黙っていてすまなかった」

「なんか父ちゃんばっかり苦労してない?」

「そんなことないだろ。俺は持てると思ってなかった家族が持てたし、お前という息子を育てることができて幸せだよ」

「そうそう、家族ってこんな形があってもいいと思うんだよ」

「あんたが言うな」

 途中からヘラヘラ笑って口を挟んでくる元・母ちゃんを黙らせる。自分は好きな女装をしてあちこちの女に手を出し、生ませた子供を従兄弟に育てさせていただけじゃないか。

 俺は荒れ狂う感情のままその場を逃げ出し、自分の部屋に閉じこもった。父だと思っていた人が従伯父で、母だと思っていた人が父で、いきなり弟が出来た俺の気持ちを想像できる人がいたらこの状況を説明してほしい。ベッドに突っ伏して枕を叩いてみたが、気が晴れる訳ではない。驚きが去った後、怒りと悲しみが同時に込み上げて、もう頭の中がこれ以上ないほど混乱していた。


 それからどうなったかと言うと。

 どれだけ俺が怒って喚こうが時間は怠惰に流れていった。日常に紛れ、最初に受けた衝撃も薄れていく。母ちゃんは相変わらず母ちゃんで、父ちゃんはずっと父ちゃんだった。新しくできた弟は日に日に可愛らしく育ち、家族を和ませてくれる。別に流された訳ではないけど、幼い子供の前で怒鳴ったり喧嘩したりするのはよくない。それに親? が二人とも平然としているので、俺もどうツッコんだらいいのか分からないままだ。

 今日も母ちゃんが庭で弟を抱っこして、へたくそな鼻唄を唄っている。歌詞のように「遠い空から幸せが降って来る」というなら、母ちゃんが幸せを感じるのはいつになることやら。

 俺が眠そうな弟を受け取って布団に寝かしつけて戻ると、母ちゃんは縁側に腰かけて、火の点いていないタバコを咥え、遠くの空をぼんやりと見上げていた。




◇◇◇



参考曲

「プカプカ」作詞/作曲/西岡恭蔵

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