薫香リグレット

暁明夕

 

あぁ、これだよ。これ。

私の鼻を突き刺すようなにおい。

それでいて、何処となく優しさを感じさせるにおい。

私は今日も、貴方のにおいを嗅いでいる。

周りからしたら、気持ちが悪いと思われるかもしれないけど、それでも、私は貴方のにおいを嗅いでいたい。

いつか来る、その日まで。

そして、その日が来ても、忘れないように。

あなたのことを、忘れないように。



あぁ、あの日から幾らの月日が流れただろう。


彼女は僕に会うまで金木犀の匂いを良く好んでいたらしい。

僕はあまり好きじゃなかった。その匂いは強すぎて、僕の嗅覚をそれだけで満たしてしまうから。

この世界は色んな色で満たされているのだから、僕はその一色で塗り潰されてしまうのを極端に嫌ってしまうんだ。


だから。

別に僕以外を愛したって良いのに。

僕以外に惚れてしまったって良いのに。

僕以外で、いいと言うのに。

何故君は僕だけを選んでくれたんだろう。


彼女があの日、儀式の直前に手渡してくれた手紙。

少し色のついた四角いムエット封筒。

それは今でも玄関の古びた下駄箱の上に写真と共に開いて置いてある。

君はずっと、自分を僕のにおいで満たそうとしていたよね。

この世界には色んなものがあって、それぞれ匂いを発して、果実の様な甘い匂いも、檸檬の様な、すっきりとした匂いも、スパイスの様な、鼻を刺激する匂いだって、この世界にはあると言うのに。


その中で、僕の匂いだけを選んでくれたのは何故なんだろう。


そんなことを問うても写真の中にしかいない君はもう答えてくれはしない。

本当はね、あの日まで、僕を満たしていたのは君だけじゃなかったんだよ。

僕は最初から君を裏切っていたんだ。

生まれたとき、いや、生まれる前から運命が決まっていた君に、僕は心の底から酔うことはできなかったんだ。

だからこそ、手紙をもらったあの日から決めたんだ。

これからは、僕の中を、君一色にするんだって。

昨日も、今日も、明日もずっと。


今日もいつも通り、カーテンから差す光に当てられ、起き上がる。

この家には本当は、色んな匂いが自分に纏わろうとしているのだろう。

だけど、そんな、朝食のウインナーの匂いも、飲み慣れたインスタントコーヒーの匂いも、投函された新聞紙の匂いも、外から入り込む雨の日の匂いも、今の僕には意識できない。

意識できないまま、今日も会社に出掛けるんだ。

この家を包み込む君のにおい。

別に僕は、気持ち悪くなんて無いんだよね。

君は今の僕と同じ様に、そうしていたのだから。


今日も僕は、君のにおいに限りなく近いアールグレイの香水を振り撒く。

少しつけすぎたかな、いや、そんなことはないか。

一昨日も、昨日も、そして今日もそうした。

僕を満たす匂いが、君だけでなくなるその日まで。

心の中で何かを整理させる。



……いや、本当は違うだろう?

故意に乱雑にさせて、それを【整理した】という真逆の言葉で真理を隠したいだけだ。



……ちがう、ちがうちがうちがう。

あぁ、いつもこうだ。

頭の中で、ここを通る度に、金木犀の匂いに乗ってきた嫌な感情が渦巻くんだ。

僕は何も考えずに、今日を生きたら良いだけ。

そう言い聞かせて一歩を踏み出す。

今日は君のにおいを上書きする何かは現れるのかな。


【わたしをわすれて】と書かれた便箋が視界に入り、開けた扉から今日も少しだけ、この家から君のにおいが出ていってしまった。

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薫香リグレット 暁明夕 @akatsuki_minseki2585

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