第二部 味知との遭遇

第8話 与えられるもの、奪われるもの

 場所:多摩川河川敷 ホームレスたちの集落『河原サロン』

 状況:ホームレスたちが瓦礫と化したサロンの発掘作業にあたるなか、騎士団長とマルコは中庭パティオで一斗缶に腰かけて話している。確かめなくてはならないことが、あまりにもたくさんある。


 マルコは全裸だったので、本屋の煤けたロングコートを借りて羽織っている。


団長「つまり、お前のの原因は、お前の加護にある、ということか」

補給兵「まあ、たぶん、おそらく……」

団長「なんだその煮え切らない返事は。お前の加護だろう」

補給兵「そうなんですけど、ぼく、ぼくの加護のことをまだよくわかってなくて」


 ……そんなことがあり得るのか? 加護と言えば、アル=カザンサの人間にとってほとんど自分の肉体同然のものであるし、生き方を決める指針そのものだ。私が日々鍛錬に明け暮れ、戦いに身を投じ、美食を忌避し、すべては軍神の加護のためだ。加護のために生きていると言っても過言ではない。それをこの男は『よくわからない』だと……?


団長「詳しく話せ」

補給兵「えーと、あのー、ぼくの生まれはカランという小さな村です。中央市街からは大体650ウドゥ(奇しくも約650㎞)北西にあって、雪の多い土地です。人よりもヨーム(長毛の羊のような家畜)の方が多いくらいで、静かな村です。あ、村の外れに一軒、小さな教会がありました。魔物の襲撃を受けて焼け落ちてしまうまでは、ロパシュさまという神学の先生がいて、村の人たちは皆そこで洗礼を受けました。ロパシュさまは偉い先生でありながら、全然威張ったりしなくて、優しくて、冗談が好きな方でした。あ、そうだ。ぼくが小さい頃は、母がリゴル(カタツムリに似た陸生の巻貝)のパイを焼くと、決まってぼくと、3つ上の姉がそれをロパシュさまのところへ届けるのが習慣になっていて、母はパイ焼きの名人でしたから、ロパシュさまはいつもそれを美味いと言って」

団長「もう少しかいつまんで話してくれ。日が暮れる」

補給兵「ええと……」


 マルコは頭を抱えて、うんうんと唸りながら話した。どうやら話が得意な方ではないらしい。マルコの生家には祖父祖母、両親と7人も兄弟がいるものだから、家族の話が出るたびに果てしなく時間を食うし、その大体が不出来な笑い話チステで、誰かがおかしな失敗をして、その時誰が怒っただの怒られただの、大笑いしただのいうしょうもないエピソードばかりで、まったく話の核心が見えてこない。その上ちょくちょく料理の話になるものだから、空腹の限界を気合で封じ込めている身としては、正直聞くのが辛かった。


団長「大事なところだけ教えてくれ。はっきり言って、すべてを聞いている余裕はないのだ」

補給兵「そう言われても……えーと」

団長「いいかマルコ。話と言うのはこうやってするのだ」


 遅かれ早かれ、マルコにはすべて話すつもりでいた。この異国の地にあっては、誰が味方で誰が敵か、なにがタブーでなにが奨励されているのか、なにもかもが不明確だ。たった二人きり、言葉の通じる我々の間に、隠し事はもはや不要だ。有害ですらある。


団長「知っての通り、私は『軍神の加護』を受けている」


 アル=カザンサは多神教の国だ。この教えは『ミュタル神々教しんじんきょう』と呼ばれている。教えと言っても、神々が人々になにかを教え導いたりはしない。神々にはあくまで神々の暮らしがあり、そこには戦争も、愛も、裏切りもある。人間となんら変わらない。ただ神々は私たち以上に感情的で、逆鱗に触れようものなら、その超常的な力で山や海を消し飛ばしたりもする。もちろんそれは神話上の出来事だが。

 中には破壊や闘争を好まない神もいる。歌や動物を愛する神々だ。我々アル=カザンサの民はただ、子供の頃からそのストーリーを信じている。神々のドラマを信じているのだ。


団長「ここまではお前も知っての通りだな」

補給兵「ええ、さすがにそれは知ってます」


 この国がどうだかは知らないが、唯一神を信仰する国や宗教もある。ムダル大陸でも、少数民族の間ではそういった信仰もある。例えばカンツミのような獣人族は獣神を信仰している。彼らにとっての唯一神だ。だからカンツミはアル=カザンサの帝国騎士団の兵士でありながら、教会で洗礼を受けていない。加護を受けていないのだ。もし仮にカンツミが教会で洗礼を受けようとすれば……そういう話は聞いたことはないが、おそらくは、なんらかの加護を授かることになるだろう。アル=カザンサの神々は寛大なのだ。


補給兵「団長、話が逸れてませんか」

団長「少し逸れたがお前に言われると腹が立つな」


 神々の数は4000とも8000とも言われている。一般にはほとんど知られていないような神々もいる。ごく限られた地域にしか伝承が残っていない神々や、忘れ去られてしまった神々だ。ミュタル神々教の物語は膨大過ぎて、その全貌を知る者は、おそらく一人もいないだろう。そしてそれらの物語を一つに編纂しようと、日夜研究しているのが教会の神学者たち、というわけだ。


補給兵「なるほど。だとすると、ぼくの神様もそういう……」

団長「忘れ去られてしまった神の類かもしれない」


 アル=カザンサの民は成人(17歳)を迎えると教会で洗礼を受ける。洗礼によって、無数の神のうちの一柱ひとはしらが加護を授けてくれるのだ。以後死ぬか、神に見放されるかするまで、加護は消えることはない。加護は様々な形で我々を助けてくれる。我々はその対価として、神にをするわけだ。捧げものの多寡が、そのまま加護の強さになる。なにを捧げるか、それは神によりけりだが、多くの場合我々は「生き方そのもの」を捧げている。それがその神に対する忠誠の証となるのだ。


 そういう意味では、ミュタル神々教は多神教でありながら、それぞれの人々がそれぞれ一柱の神に忠誠を捧げるのだから、唯一神教的な側面も持っていると言えるだろう。


 他の神に対して、どれだけ捧げものをしようが、忠誠を示そうが、それは自らの神に対する背信行為に他ならない。そんなことを続けてしまえば、場合によっては神に見放されるか、神罰を受けるかもしれない。あえてそんなリスクを冒す者など、普通いはしまいが。


補給兵「どの神様に加護を授けてもらうかは、選べないんですよね?」

団長「その通りだ。だがことはできる」

補給兵「?」

団長「あくまで仮説に過ぎないが、その神の寵愛を受けるにふさわしい人間性を、17歳の誕生日までに形成することができれば、その神を招くことができると言われている」

補給兵「そんなことが……」

団長「実際、私は軍神の加護をそうやって勝ち取った。そう信じている」


 『軍神ゲラ』はミュタル神々教の最も有名な神々の一柱で、民からの人気も高い。しかし軍神の加護を授かった者は、記録に残っている限りでは私と、私の祖母しかいない。


補給兵「たった二人ですか? へえぇ……すごいや」

団長「私の母も剣士だった。母は軍神の加護を希求したが叶わず、そのため大いに苦しんだ。『剣聖』と畏れられるほどの実力を持っていたのにも関わらず、だ」

補給兵「……なんの加護だったんですか?」

団長「『殲滅の加護』だ」

補給兵「それでもすごいじゃないですか」

団長「凄いさ。しかし殲滅の神フォトスは、神話で軍神に敗れているのだ」

補給兵「ああ……」


 母は自分の娘、つまり私に、なんとしてでも軍神の加護を授からせるために、幼い頃から戦闘訓練を受けさせた。私が5つの頃からだ。と感じるほどの壮絶な訓練だった。何度死にかけたか、途中で数えるのを辞めてしまったほどだ。


 そして母は私をあらゆる快楽から遠ざけ、特に食に関しては「食物に味があること」を忘れさせるために、黒パンと干し肉しか与えなかった。それでも狙い通りの神の加護を受けられるかどうかはわからない。文字通り神のみぞ知る、というわけだ。


 私は幸運にも軍神の加護を授かることができた。そしてその加護の力を最大限発揮するために、私は私の生き方のすべてを、軍神への供物としているのだ。


補給兵「なんていうか、大変だけど、良かったですね……」

団長「ああ、本当に良かった。軍神の加護を受けられなかったら、母は私を殺していたかもしれない」

補給兵「本当に良かった……」


 軍神ゲラは最も強大な神の一柱で、神話に疎い少数民族たちでさえ、その逸話は知っている。その剣は空を裂き、その声は雷鳴を呼び、その足は大陸を踏み砕き、ひと固まりだった大陸を大小の陸地と島々に分けたという。


 鎧と一体化した肉体を持ち、握った剣は手の一部である。食事と言えば岩石しか口にせず、鍛錬のために山を担いで眠りにつき、夢の中でも戦いに明け暮れ、神々の戦争ではどの陣営にも与せず、数千の神々とたった一柱で戦い、全ての神の父であり「神々の神」と畏れられる全能神ミュタルとも対等に渡り合ったと言う。そして生涯風呂に入らず、誰を愛すことも、誰に愛されることもなかった。


 私は、軍神の名に恥じぬ人間であるために、一日も欠かすことなく鍛錬に励み、親元を離れた今でも、口にするのは黒パンと干し肉だけと決めている。あらゆる娯楽を遠ざけ、快楽を拒み、固い石の上で眠り、やむを得ない場合を除いて、決して鎧を脱がず、風呂に入らないことを神に誓っている。


補給兵「うわぁ、どおりで……」

団長「どおりで、なんだ?」

補給兵「あ、いや、どおりで強いわけだなって……」


 マルコは内心引いていた。衛生的に最悪だし、歩く公害と言っても過言ではない団長の体臭の所以ゆえんを知ったところで、一切共感できなかった。


補給兵「あのー、例えば鍛錬をサボったり、お風呂に入ったり、美味しいものを食べるとどうなるんですか?」

団長「わからん、試したことがないからな」

補給兵「案外何ともなかったりするんじゃないですか?」

団長「だが、死ぬこともあるかもしれん」


 マルコの目下緊急の課題としては、騎士団長が餓死しないように、なにかしらの食事を摂らせることだが、この異国の地で黒パンや干し肉がそう都合よく手に入るとも思えない。今から材料を調達して作り始めるとなれば、それこそ餓死は避けられない。それよりなにより……


補給兵「死ぬってほどのことはないんじゃないですか……? アル=カザンサの神様は寛大だって団長も言ってたじゃないですか」

団長「軍神ゲラは気性が荒いことで知られている。激情に駆られて山脈を平らにならした逸話は知っているだろう」

補給兵「おとぎ話ですよそんなの……」


 マルコはどうにかして騎士団長に食事を……いや、風呂に入ってもらいたくてたまらなかった。こうして顔を突き合わせて話している今も、鼻が曲がりそうで、しばらく口で呼吸をしていた。


団長「神に見放された人間は、加護を失うどころか『まつろわぬ民』として、その加護にまつわる自前の能力すら喪失すると言われている。駿馬の加護を受けたものが神に見放されると、一生馬に嫌われてしまうとか、剛力の加護を受けた者が加護を失った時には、痩せた老人ほどの力も出せなくなってしまったと聞く」

補給兵「でもそれって噂とか、都市伝説ですよね」

団長「確かなことはわからん。しかし検証するにはあまりにもリスクが高い」

補給兵「じゃあこのまま餓死するつもりですか?」

団長「……死ぬつもりはない。私はアル=カザンサに帰らねばならぬ」

補給兵「なら生きてください。ごはんを食べて、お風呂に入って」

団長「……あるいは、不味い物なら口にしてもいいかもしれんが」

補給兵「ハァ……ちょっとくらい大丈夫ですって」


 マルコは面倒くさくなって無責任なことを言い出していた。


補給兵「小さい頃からこれだけ忠誠を捧げて来たんだから……ちょっとご飯食べるくらいのことじゃ軍神も怒んないですよ」

団長「しかしそれを知るすべはない」

補給兵「食べてみればわかるじゃないですか!」

団長「しかしリスクが……」

補給兵「もし団長が戦えなくなっても、ぼくが守りますから!」

団長「!」

補給兵「戦えなくなってもいいから、生きてください」


 お前が……? 私を、守る? そう言いかけて、団長は言葉を飲み込んだ。お前は補給兵だろう。非力な非戦闘員だ。しかし、先ほどの……巨人化したマルコからは、見た目のおぞましさだけでなく、強者特有ののようなものが感じられた。間抜けな顔をしていても、うっかり手を出せば返り討ちに遭わされてしまいそうな、隙だらけなようで、一切隙が無いような……。


補給兵「だから食べてください。お風呂に入ってください」


 「食べろ」はわかるが、なぜ執拗に風呂を勧めてくるのかがわからない。


団長「食べろと言ったって、ここにはもう食えるものは……」

三ちゃん「よー臭い姉ちゃん、いいもん見つけたぜ」


 騎士団長が振り返ると、三ちゃんが両手に何かを持って、焼け落ちたハウスの方からこちらへ歩いてくるところだった。右手に持っているのは焼け焦げた三角形の何か、左手に持っているのは、コンビニで売られているおにぎりだった。


三ちゃん「どっちもおにぎりなんだけど……こっちは焼けちゃった。こっちは無事だったから、ほら、食いなよ。腹減って死にそうなんだろ?」


 差し出されたおにぎりを訝し気に見つめる団長。またこの黒い三角か……


補給兵「美味しいやつだ」

団長「美味しいと困るんだが……」


 マルコは羨ましそうにおにぎりを見つめている。しかしマルコの両手はしっかりと膝を掴んで置かれていて、このおにぎりを奪うまいと体に言い聞かせているようだった。


団長「食うか? マルコ……」

補給兵「団長が! 食べてください!」

団長「右手の焦げたやつなら食べられるかもしれない。どうみても焦げてるし、とても美味そうには見えないしな……」


 騎士団長とマルコがそんなやりとりをしている間に、ノムさんが自分のハウスからやってきて、三ちゃんに話しかけた。


ノムさん「三ちゃん、そっちの焦げ焦げの方、貸してみてよ」

三ちゃん「ん? ノムさん食うのか? ビニールが溶けて海苔にくっついちゃってさ、ひどいよ」

ノムさん「海苔ごと剝がしちゃえばさ、食えるんじゃねえかな。あれだったら網で焼いてさ、焼きおにぎりにしてやろうと思って」

三ちゃん「おー。でも大丈夫かい、腕」

ノムさん「そんぐらい片手でもできるって! 俺はプロだぜ」

三ちゃん「じゃあ、任せるよ」


 ノムさんは三ちゃんの右手から焼け焦げたおにぎりを受け取って、自分のハウスの方へ帰っていった。


団長「持って行ってしまった……」

補給兵「ほら、団長」

団長「食うしか、ないのか……」


 気合もそろそろ限界だ。実はマルコが二人に見え始めている。赤い帽子の男が黒い三角の包みを器用に剥がしている。男も二人に見えている。


三ちゃん「ほれ」


 騎士団長はついに三ちゃんからおにぎりを受け取った。団長はおにぎりを見つめている。様々な想いが、団長の頭の中を巡っていた。


団長「……思えば何年ぶりだろうな。黒パンと干し肉以外の物を食うのは」

補給兵「不可抗力ですよ。さ、いっちゃってください」

団長「私が死んだら、あとのことは頼んだぞ」

補給兵「大丈夫だと思いますけど、はい」

団長「故郷の妹に、私は勇敢だったと伝えてくれ!」

補給兵「妹さんが誰だかは知らないですけど、はい」

団長「皇帝陛下には、任務を遂行できず申し訳ないと……!」

補給兵「いいからはやく食えよ」

団長「ムゴッ」


 マルコは痺れを切らし、おにぎりを騎士団長の口に突っ込んだ。騎士団長は口一杯に詰め込まれたおにぎりを恐る恐る、ゆっくりと咀嚼した。


 パリ……と静かに、海苔が割れる音がした。


 ほのかな海の香りが、口から鼻に抜けていく。そういえば昔、一度だけ海に行ったことがあった。白い砂浜に、真っ青な海。寄せては返す波の立てるざぶんという重く低い音が、静かな心音のようで心地よかった。海鳥たちが鳴いている。姉と妹と、父と、母。私は確か、8つだった。なんて平和なんだろう。日々の鍛錬に疲れ切った私にとってそこは、まさに楽園だった。姉と妹の遊ぶ声がする。父は波打ち際で、心配そうにそれを見つめている。母は砂浜に寝転がって、日光浴をしているようだ。しかし今に訓練が始まるだろう。今日はわざわざ海まで来て、足に金属の重りでも着けて遠泳をさせられるかもしれない。海中で1時間でも息を止めていろと言われるかもしれない。巨大な海竜と殺しあえと言われるかもしれない。それまでの一秒か二秒か、わからないが、この一瞬をできるだけ長く噛み締めよう。そう思った。


 訓練はいつまで経っても始まらなかった。しばらく今か今かと怯えていたが、母が訓練を始める気配がない。……母は眠ってしまっていた。目を閉じて、静かに寝息を立てて、深く眠り込んでしまっていた。それでも私は姉と妹に交じって遊ぶことはできなかった。砂の城を作ることも、泳ぐことも、無邪気に駆け回ることもできなかった。母がいつ起きてくるともわからない。それを恐れていたつもりだったが、本当は、遊び方がわからなかったのだ。物心ついた時から、遊んだ記憶など、ひとつもないのだから。


 父がやってきて、ただ小さくなって座っていた私に、声をかけた。


「これをおあがり」


 父はそう言って、木で編んだカゴの中一杯に詰め込まれた料理を見せてきた。黒パンでも干し肉でもない、柔らかいパンに、柔らかい肉や、色とりどりの野菜や、乾酪かんらくを挟み込んだものだった。


「今日は君も、ぼくたちと同じものを食べるんだ」


 父は微笑んでそう言った。


「でも、それは私の食べていいものではありません」

「誰も見ちゃいないさ」

「神様が見ておいでです」

「今日一日くらい、神様もきっとお許しになるだろう」

「母様が起きたら……」

「起きやしないさ」


 父は笑った。母に頭が上がらず、いつも困ったような顔をしていた父の、こんなに無邪気な笑顔を見たのは初めてだった。この父の笑顔をと思った。


「父さんがね、朝早くに起きて作ったんだよ」


 厨房に立つ父を想像した。不器用な人だ。きっと何度も失敗して、女中に呆れられながら作ったに違いない。よく見るとパンの形は不揃いで、野菜もところどころ潰れてしまっている。しかし……


「君が食べてくれるとぼくも嬉しい」


 目の前に差し出されたそれは、普段、色のない食事を摂っている私にはあまりにも刺激的だった。不出来な形でも、父の愛情が注ぎ込まれたそれを、私はどうしても食べてみたくなってしまっていた。どんな味がするのだろう。一度、二度、三度、母の様子を伺う。母がまだ眠っていることを確認して、視線を戻すたびにその料理の魅力は増していくようだった。ああ、もう我慢できない!


 私は大急ぎでそれを一つ掴んで、口の中に押し込んだ。……口いっぱいに野菜の甘酸っぱい汁が溢れ出して、柔らかい肉と絡み合って、野菜が肉の旨味を、肉が野菜の甘みを引き立てた。乾酪の濃厚な香りが鼻腔をくすぐり、パンが喉を通るたびに胃が歓声を上げた。一つを飲み込むと、二つ、三つ、我を忘れて口に詰め込んだ。私はいつの間にか泣いていた。あまりにも美味しくて、父の優しさが痛いくらいで。私は涙をぼたぼた零し、しゃくりあげながらカゴの中の料理を全て平らげてしまった。


「良かった」


 父が言った。その表情は優しさより、安心に似ていた。そしてどこか、寂しそうな、憐れむような顔だった。きっと、両親や姉たちには、こんな料理は珍しくもなんともないんだろう。それをこんなに、泣きながら頬張り、明日にはまた地獄に放り込まれる私がよほど不憫だったのだろう。


補給兵「だ、団長……?」

三ちゃん「おいおい! 姉ちゃんも泣くのかよ! カァーッ!」


 マルコと赤い帽子の男の声が聞こえて、ハッと我に帰った。


 私はいつの間に泣いていた。遠き日の思い出を浮かべながら。


 私はどうして、あの日のことを思い出していたのだろう。あの美しい海の一日を。あの忘れがたい味を。私が最も忘れるべき、あの甘い記憶を!


補給兵「美味しいですか、団長」

団長「ああ……」

補給兵「体に異常はありませんか」

団長「涙が……止まらない」

補給兵「それはきっと正常ですね」


 海へ行ったあの日、結局母は日が暮れるまで起きなかった。目を覚ました母は「しまった」という顔をしていたが、私が砂浜で走り込みをしている姿を見て安心したようだった。姉と妹は走る私を見て、「速い速い」とか言って、楽しそうにはしゃいでいた。父が母になにかを言っているのが見えた。きっと、「あの子はずっと走っていたよ」とか、そんなことを言って私を庇ってくれたんだろう。その後も、あの日の食事のことを母に咎められることはなかったし、母は気付いてもいないようだった。


団長「お父様……」


 あの日以来、私は一層鍛錬に打ち込んだ。母の厳しい指導を苦とも思わず、自らを追い込んだ。これで私が17歳の誕生日を迎えて、その日、万に一つも軍神の加護を受け損なうことがないように。それを父の所為にしないために。あの日の父の優しさに応えるために。


団長「申し訳ありません、お父様……食べてしまいました」

補給兵「なんか謝ってる」

団長「申し訳ありません、お父様……」

補給兵「なにを謝っているんですか団長。なにも謝ることないじゃないですか」

団長「だって、だって……!」


 あの日の父の手料理よりも、ずっと美味いんだ。この得体の知れない、異国の、真っ黒い三角形のなにかが!


団長「うわーーん!」

補給兵「うわぁ」


 私は泣いた。子供のようにわんわん泣いた。腹が満たされていく安心と、喜びと、後悔と、不安と、懐かしさと、申し訳なさと、全部がぐちゃぐちゃに混ざり合って、訳も分からず泣いた。泣いても、もはや咀嚼は止まらない。意思に関係なく、口がこの食物を求めてしまう。黒い紙の微かな海の香り、白い穀物の柔らかな甘み、魚の卵の塩漬けのような物のツブツブした食感と塩味が混ざり合って、何度噛んでも新鮮な感動がある。体中に力が戻っていく。


三ちゃん「明太子だよ。食べるのは初めてかい」

団長「ちょっと辛い……美味い……」

補給兵「辛い? ぼくが食べたのと多分違う種類だ……」


 マルコは唾を飲んだ。物欲しそうな目で団長の顔を見つめるが、おにぎりは既にすべて団長の口の中にある。無理やり吸い出すわけにもいくまい。マルコは悔しそうに右手で膝を打って、衝動を押し殺した。


ノムさん「そ~らできたぞ~」


 ノムさんが大きな葉っぱの上になにかを乗せてやってきた。はホカホカと湯気を上げて、得も言われぬ香ばしい匂いを立てている。


三ちゃん「やーさすがノムさんだ、美味そうだなぁ!」


 マルコは飛び上がるように立って、ノムさんが手に持ったそれをしげしげと見つめた。鼻息を荒くして、目の前に骨ガムを差し出された大型犬のように。


三ちゃん「こーらぁ! これは姉ちゃんの分だってーの」

ノムさん「中身は無事だったからよ、網に乗せて、ちょろっと醤油垂らして焼いてみたんだ。シンプルだけど美味そうだろ?」

三ちゃん「ひゃー! 涎が出ちまうなぁ」

ノムさん「ほら姉ちゃん。熱いから気をつけろよ」


 マルコも三ちゃんもぴょんぴょんと跳ねている。マルコは本能から、三ちゃんはおそらくマルコの真似をして。体をぶつけ合いながら飛び跳ねる二人は、本当に楽しそうで、まるで大昔からの友人同士がふざけ合っているように見えた。


 ノムさんはそれを見て得意げに笑ったあと、団長の前にうやうやしく焼きおにぎりを置いた。高級レストランのウェイターが客に料理を供するように、そっと葉っぱの皿を置いて、大げさに腰を折って、頭を下げてこう言った。


ノムさん「ボナペティ」


 普段のノムさんの声よりも一段低い、心地の良い声だった。その様子からは彼が間違いなく料理の、そしてもてなしのプロフェッショナルであったことが伺える。


補給兵「団長、早く、早く食べてください。ぼくが我慢できなくなる前に」

団長「……い、いや、これ以上はリスクが」

補給兵「ここまできたら一緒でしょ。食べちゃいましょうって」

団長「あんなに美味い物を食ったばかりで、その、まだこれから何が起きるかもわからないし……」

補給兵「もしかしてもうお腹いっぱいなんですか!?」

団長「いや……」

補給兵「ぼくが食べちゃいますよ!!」


 湯気を上げる焼きおにぎりと対峙して、団長の頭の中では様々な憶測が高速回転していた。これは先ほどの三角形を焼いたものだろうか。しかしただ焼いただけではなさそうだ。この耐えがたい香ばしさ! 今のところ体に異常はない。加護にも変化はなさそうだ。しかし、時間を置いてみないことにはとは言い切れない。


 うう、唾液が溢れ出してくる。しかしリスクが。軍神に試されている、私の意志の強さと、忠誠心を。しかし、しかし……目の前のは、リスクと呼ぶにはあまりにも蠱惑的!


団長「頭がどうにかなりそうだ……」

補給兵「なんっって美味しそうなんだ……! 次から次へと、この国は天国か!?」

三ちゃん「ほ~ら冷めちゃうぜ~」

ノムさん「熱いうちに食った方が美味いぞぉ」

三ちゃん「ノムさんいつも言ってるもんな。『料理は完成した瞬間から……』」


三ちゃん・ノムさん「『一秒ごとに不味くなる』」


 格言だ。三ちゃんとノムさんはきれいに声が揃ったことがおかしくて、嬉しくて、ウフフと笑いながら、お互いの背中を軽く手で叩いた。友情が炸裂している。


補給兵「もう限界だ! 食うねッ!」


 マルコが焼きおにぎりに飛び掛かる。それに気づいた団長は、すかさず焼きおにぎりを右手で掴む。はやさでマルコに後れを取るはずはない。熱い。マルコが頭から葉っぱの皿に突っ込む。土埃が立つ。団長は焼きおにぎりにかぶりつく。



 ――。団長は真っ白な世界にいた。



団長「……ここは、どこだ」


 果ての見えない純白の世界に団長は立っていた。地平線も、空の終わりもない、ただただ真っ白な世界だ。そこにマルコや三ちゃんたちの姿はない。



補給兵「……」

三ちゃん「おいおい大丈夫かよあんちゃん! まるで犬だな」

ノムさん「さ、三ちゃん大変だ!」

三ちゃん「どうしたノムさん!」

ノムさん「姉ちゃん白目剝いてるぞ!」

三ちゃん「なにィ!?」


 彼らから見れば、騎士団長は、まるで時でも止まったみたいに静止している。口の中に焼きおにぎりを頬張ったまま、わずかに口を開けて、白目を剥いて。右手にかじりかけの焼きおにぎりを持ったまま、空間に無数の釘で固定されてしまったかのように。


三ちゃん「喉に詰まったのか……?」

ノムさん「ア、アレルギーとかじゃないよな」

三ちゃん「さっきのと同じ明太子のおにぎりのはずだぜ……?」

ノムさん「じゃ、じゃあなんだってんだ」


 実際のところ、喉に詰まったわけでもアレルギーでもなかった。醤油を焼いた香ばしい風味、外側のカリッとした食感、内側の温かくフワフワとした食感、火が通って焼きたらこになった明太子の粒感、そしてそれらが混然一体となった旨味の塊が、騎士団長の脳の中に、かつて分泌されたことのない快楽汁をぶちまけた。団長は20余年に及ぶその人生の中で、これまでに経験したことのない暴力的なまでの『美味』に耐えきれず、一時的に処理落ちのような状態に陥っていた。要は美味すぎて失神しているわけだが、しかしそれは当然、現代の日本に暮らす三ちゃんたちの理解を超えた現象だった。


団長「……」


 団長の口の端から米が零れかけている。あまりにもだらしない顔だ。

 一方、真っ白な世界の中にいる団長は口を開いた。


団長「私は死んだのか……? あの食物が美味すぎて? まさか……」


 あるいは、早くも軍神の怒りを買ってしまったのかもしれない。なんて段階をすっ飛ばして、軍神は私を滅ぼしたのだ。禁欲と破壊の権化である軍神なら、それも不思議ではない。


「食ったな。一度ならず、二度までも」


 女の声が聞こえた。洞窟の奥から吹いてくる風のような、妙に響く声だ。音を反射する壁も天井もありはしないのに、不思議と響く、そしておよそ人間の肉体から発せられた声とは思えない、無機質な声だ。


 振り返ると、長剣を携えた人型の鎧が立っていた。いや、立っているような姿勢を取ってはいるが、その足はわずかに宙に浮かんでいる。鎧兜の奥には黒い霧のようなものが蠢いていて、その相貌を確かめることはできない。頭の後ろからは長い銀色の髪が垂れ、その先がわずかに地面に触れてたわんでいる。


団長「軍神様……?」

「お前には罰を与えねばならないね」

団長「女だったのですか」

「神に男も女もないよ」


 無機質な声だが、少し笑っているような気配がある。騎士団長は両膝を折り、地面に手をついて、まっすぐにその鎧を見上げ、敬虔な態度で申し上げた。


団長「私は、私は罪を犯しました。みっともなく飯を食い、涙まで零しました。私は処刑されるのでしょうか」

ゲラ「いや、食わねばお前は死んでいた。食べたことは責めないよ。殺しはしない。お前は私のお気に入りでもあるからね」


 団長は驚き、額を地面に擦りつけてこう言った。


団長「恐れ多くも……御慈悲、まことに痛み入ります」

ゲラ「だけどあまり続くようだと感心しないね。だからこれは警告として」

団長「なんなりと罰をお与えください。忠義を尽くし、必ずや信頼を取り戻してご覧に入れます」

ゲラ「本当に可愛い子だね。こんな目に遭わせるのは、胸が痛むのだけれど。まあ決まりだから」


 決まり、決まりとはなんだろうか。命までは取らないと神はおっしゃった。私はどんな目に遭うのだろうか。覚悟はしている。しているが、なにが起こるか想像もつかないというのはやはり、恐ろしいものだ。


ゲラ「まあ、せいぜいまた鍛錬に励みなさい」


 そう言うと、鎧は内側から黒いもやを吐き出して、鎧全体を覆ってしまった。それからどこからともなく、びゅうと強く短い風が吹き、黒い靄は一瞬でかき消えた。


団長「行ってしまわれた……」


 そして間もなく白転、ならぬ暗転。団長の内面世界の意識は途絶えた。


補給兵「イテテ……」


 地面に強か頭を打ち付けて気を失っていたマルコが目を覚ますと、三ちゃんとノムさんが抱き合っているところだった。


補給兵「本当に仲がいいなこの人たち」


 マルコは心が温まるのを感じた。しかし三ちゃんとノムさんは、決して愛や友情を確かめ合うために抱き合っていたのではなかった。彼らは目の前で起きたに驚き、まるで大きなゴキブリに遭遇した生娘のように、咄嗟に抱き合ったに過ぎなかった。


三ちゃん「あ……あ……」

ノムさん「なにが起きてんの、もーー! さっきからぁ!」

補給兵「あれ、団長はどこに……」


 さっきまでそこに座っていたはずの団長の姿はそこにはなく、代わりに、抜け殻のように脱ぎ捨てられた団長の紫曜メジェナ鋼の鎧と……その傍らに、一糸纏わぬ姿で、恥ずかしそうに顔を赤らめ、胸と股間を手で隠した小さな女の子が立っていた。


補給兵「ダークエルフの子どもだ。かわいい~」

三ちゃん「おい、あんちゃん! 一体どうなってんだよ!」

ノムさん「びっくり人間だぁ……びっくり人間博覧会だぁ……」

補給兵「この国にもエルフがいたんだなぁ。団長に教えてあげなくちゃ」


 ところで団長はどこへ行ってしまったのだろう。ごはんを食べて、歩けるようになったから、どこかへ行ってしまったのだろうか。鎧を脱いで、代わりに子どもを置いて……?


補給兵「ん〜……?」

女の子「おい、ボーッとしてないでなにか着る物をよこせ!」


 彼女はそう言ってぼくの外套を引っ張った。子どもらしい甲高い声だ。長い銀髪に、赤い瞳、尖った耳に、褐色の肌。なんだか団長にそっくりなんだよなあ。スナムル語を話しているしね。なぜか裸だけど。ダークエルフの乳首ってに薄いピンク色なんだね。ためになったね。


女の子「マルコ! お前のこの外套でいい! はやくよこせ!」

補給兵「おやおや……?」


 この外套を渡してしまうと、ぼくが裸になってしまうんだけどな……。それはそれとして、今、ぼくのことをマルコって呼んだね。ぼくの知り合いに、こんな小さな女の子はいなかったと思うんだけどな。それもこんな異国の地で。


 もしかして、うーん。万が一ってこともあるんで、一応聞いておきますか。一応ね。まさかそんなことはないと思うんだけど。


補給兵「団長……?」

女の子「さっきからそう言ってるだろ、バカ!」


 言ってないけどね。



 困ったなぁ。またよくわからないことが増えてしまった。



 アル=カザンサには、しばらく帰れそうにない。




●tips 『ダークエルフ』

 エルフの種族の一つ。概ね褐色の肌を持ち、体格が大きく、戦いを好み、長剣や長槍の扱いに長けている。一般的なエルフが弓や短刀などを好んで扱うのに対して、ダークエルフにはそういった手先の器用さはあまり見られず、むしろ全身を大きく躍動させるような運動が得意な傾向にある。バスケットボールとか。

 長命のエルフに比べると短命だが、一般的なヒトに比べると長命。それでも戦いの中で若くして命を落とすダークエルフが後を絶たず、平均寿命はヒトよりずっと短い。

 マルコは騎士団長をダークエルフと呼んだが、騎士団長の母は雪のように白い肌を持つエルフで、父は地黒なヒトだ。つまり騎士団長は実際にはただの地黒のエルフなのだ。風呂に入らず、薄汚れているため、肌が浅黒く見えているだけで、ダークエルフではないのだ(衝撃)。

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くっ……! 女騎士団長である私がこんな美味しそうなごはんに屈するわけがない! 山本コーリン @yamamotocalling

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