3


 ある日の午後、川橋が居ない時にリビングに行くと、長方形の輪郭を残したビニール袋がテーブル台の側に置かれていた。その中身を取り出すと、やけに清潔感のある表紙の本とレシートが出てきた。そこにはかなり薄い文字で「ミニマリストに必要な12の習慣」というタイトル書かれていた。僕は、埃を薄く被ってカーテンの下に追いやられた雑学の本を見やる。良く見ると、その本の背の下部に、何か貼り付けてあるものを見つけた。見覚えのあるそれは、あの図書館の本のラベルだった。

 川橋は、あの図書館に行ったらしかった。

 僕は、彼が図書館に行く理由というよりは、その衝動を悟ったような気がした。しかし自分と違って彼は本を辛うじて借りたのだ、という変えようの無い事実は少し複雑な気持ちになった。この部屋も、雑然としながら何処か空疎になっているように思った。

 僕はミニマリストの本を手に取りページを開く。恐らく一、二回しか読まれていないこれは普段思い浮かべる「白」よりも澄んだ純白で、僕があの時取った名作古典の紙の色とは似ても似つかなかった。雑学の本も同じくらい一切の手垢も無い綺麗な頁なのだろうと思うと、物凄く息が浅くなっていきそうだった。

 その日の夜だった。

 川橋が帰って来てから、僕はいつの間にか台所の隅に目立たないよう置かれていた料理の地球儀を見て、そこから魚のトマト煮込みを作った。川橋は若干良くなったのかもしれない顔色のまま、若干こちらが気後れする程ぎらついた目で煮込みを食べていた。

 僕は食べ終わって、食器をキッチンに戻しに行った。すると、その付近にあったゴミ箱の中に自然と目がいった。光沢が無ければ気付かなかったかもしれないその丸く黒い球体には明らかに見覚えがあった。それにひびが入るように伸びた白線、僅かに見えるコード。

 標準時地球儀が、ゴミ箱の中にある。

 僕は食器を持ったまま足を止めて、その弱々しく健気な光源の反射に吸い込まれる。

 部屋で抱いた空疎な雰囲気、カーテンの下に放られた雑学の本、そして、ミニマリストの本の存在__。

 僕は無心に魚に齧り付く川橋の方をゆっくり振り返る。その脂身の光沢は、天井しか映していない。

「おい」

 川橋に掛ける声は酷く弱々しかった。淡々と魚を咀嚼する音が頭を蝕んでいく。

「おい、地球儀…」

 僕は少し口調を強める。川橋は口を止めて、こちらに目を向ける。いや、こちらの胸元辺りを見ているのだ。その目の光の全てが僕に向けられているとは思えない。

「ああ…あれ、まだ使ってたんすね、ごめんなさい」

 まるでティッシュでも捨てたかのように無味乾燥な台詞で、かえって僕は次に何を言うべきか迷い、頭が真っ白になった。

「先輩、ずっとこれ何も使ってなかったみたいだし、部屋も満杯だろうから、捨てとこうと思って」

 詰問や罵声が無い筈なのに異常に張り詰めた空間の中で、僕は必死に思考しようとする。違う。何かが違う。彼は、何処かに進もうとしている。明らかに意思めいたものは有りはする。でもその方向というのは明らかに僕から見ることは出来ない。弱々しく地球儀に反射した照明の光さえ届かない、黒塗りされた穴のような所に__。

 胸の奥をきりきりと縛るような心拍を認識した。なんで、と口にしようとするが、酷く不快な酸味が喉の奥に込み上げて来て言葉にならなかった。

「先輩、ごめんなさい。ことの釈明にはならないかもしれないですが、僕は浮気性だったんです。あのミニマリストの本、読んだと思うんですけど。雑学の本なんか、もってのほかだったんです、それこそ頭の中で色んなモノの整理がつかず発散してしまうから。だからどんなことだろうが見識が浅かったんです、なので決めました。極限まで、捨てるんです。自分を取り巻くモノを。日常に根差す問いではあるけど、いやかえってそうであるから、極限まで一つのものに集中するために」

 川橋の目には艶はあったが、それを構成する筈のハイライトがあるようには見えなかった。

「待って」

 僕は咄嗟にそう口にしていた。川橋は少し目を見開く。まだハイライトは見えない。

「待ってよ。確かに使ってなかったかもしれないけど一応俺が兄から貰ったものだろ。勝手に捨てることが許されるのかよ」

「だからこそ確認のためにわざわざ割と目立つ所の、他に何も入っていない清潔なゴミ箱に捨てたんです」

「じゃあ直接確認を取るのが普通だろ。あれでも、一応ユーモラスな贈り物だから俺は大切にしたいとは思ってたよ」

「それについては僕、思ったんですよ。先輩も、僕とかどうか検証したくて」

?」

「その地球儀を真に大切に出来ているなら、なんで今更気付いたんですか?今日の午前から既にそのゴミ箱の中に有ったのに」

 え、と間の抜けた声が出た。川橋は揶揄っているのではなく、本気で怪訝そうな表情をしている。あの空疎な部屋の感覚を思い出す。僕は、嘘つけ、と呟いた。そう信じれる根拠なんか何処にも無かったのに。

「最近の先輩の細かい仕草の感じ、何となく最近の僕に似てきてるなと思ったんですよ」

 川橋は冷や汗を垂らす僕をじっと見る。

「もし捨てた所で今回先輩が気付かなかったら、お互いにwin_winの関係になると思って。でももし直接話したら、いざとなればその地球儀の背景を思い出すかもしれないし、それはwin_winの関係を壊すかもしれない。確かに、今回先輩が気付いて非倫理的になってしまったのは詫びます。ただ、やっぱりそのゴミ箱の中にあるのは、ガラクタ地球儀じゃないですか。何ならあの料理地球儀だって、目立たない隅っこに追いやられちゃって。いっそあれも捨てていれば、あるいは」

 僕は、彼がここ最近で、初めて笑うのを見た。頬の肉が月の表面のように仄白く陰影を残す、端正に見えるが下卑た笑みだった。

「何だよそれ…非常識な。早く出てけよ」

 そんな言葉が口を吐いていた。反射的に出た言葉だった。僕は川橋を、恐らく睨んでいた。視界がまるで眩しく無かったから、自分の目にもハイライトは無いのだろう、と思った。

「出てけよ!」

 立ち呆けていた川橋に、今まで掛けたことがないくらい大きな声を出した。一瞬複雑そうな面持ちをして、天を仰いだ。灰白色に濁る肌の照りが、魚にそっくりだった。僕は僕を正しいと思っていて、川橋を突き放さなければならないような気がしていた。

 川橋は笑ったような泣いたような歪んだ口元のままひっそりとリビングを出た。僕は皿を持ったまま元の椅子にぐったりと凭れ、川橋が残した魚の煮物を見つめた。トマトペーストの香りが少しだけ気持ち悪かった。僕はゴミ箱の中の地球儀を取り、そのまま二階に向かった。プラスチックの据えた匂いが、階段の香りと混じって吐き気がした。

 ドアを開くと、相変わらずいつもと変わらない風景が僕を迎えた。色も大きさも違う、兄から貰った地球儀は僕の部屋の色彩の大半だな、と思った所で、あ、と声が出た。胃が収縮して、口の中のトマトの風味が疎ましくなった。

 この部屋での僕のアイデンティティは、そういえば何処に在ったのだろうか?

 僕は頭を使う気力も無く、プラグごと地球儀を机の上に放る。酒など飲んでいないのに、悪酔いに近い感覚を覚える。僕が兄の部屋にいつしか抱いた疑問が、途端に僕の首を絞める。僕の部屋は、その白い壁も、地球儀も、何もかも他人の借り物…。

 携帯電話が鳴る。その振動でベッドの裾からスマホが落ちて、ごとっと乾いた音を立てた。

僕はそれを拾って、相手を確認することも無く電話に出た。

「はい」

「あ、大地?今度実家の街で久々にお祭りあるみたいでさ、僕実家に帰るんだけどさ、大地も来る?」

「あぁ、…今仕事が忙しいからなぁ。行けたら参加ってことで」

「10年ぶりぐらいの開催なんだってさ。大分でかい規模になるみたいだから是非行くことをお勧めするよ」

「ああそう…それは良かった…ねぇ」

「ん?」

「僕思ったんだけどさ、なんで兄ちゃんって地球儀送ってくるの?」

 僕は、この気分、この状況の文脈、この瞬間でないともう二度と直接訊けないようなきがしていた。

「僕、ずっとそれを思ってた。子供の頃最初に地球儀を貰った時は、僕が楽しんで使ったのを見てくれたからだと無邪気に思ってたけど、なんで兄ちゃんってそんなに地球儀に拘るの?」

「なんで、…」

 兄はその言葉を反芻しているようだった。僕は今、実は凄く酷いことを言っているのかもしれないと心の隅で感じたが、歯止めが効かなかった。

「もう僕は27だよ。兄ちゃんは善意で送ってくれてるのかもしれないけど、自室が嵩張ってるんだよ。兄ちゃんのものだけでパンクしそうになってるんだよ。兄ちゃんのアイデンティティに部屋が侵食されてるんだよ」

 僕の声が震えているのが分かった。それを兄に言うこと自体、あまりに酷な話だとは頭では分かっていた。

「僕は出来れば、部屋に意味のあるものを置きたいんだよ。室温計とか加湿器とか、多機能なものにしたい。仕事でも同じだよ。意味のあるものを作らないといけないんだよ。意味の無いものを除かないといけないんだよ」

「大地、」

 兄の声は低く落ち着いていたが、30歳が出すとは思えないほど、か細く詰まった声だった。

「ごめんな、そこまで切羽詰まってること、兄ちゃん全く知らなかった」

 あまりに弱々しい口調に、僕は我に帰ってしまった。僕の部屋のことなど何も伝えていなかった兄に、そんなことを話したところで分かった訳もないのだ。

「ごめん、急に」

 兄に謝ると彼は笑いながら、こっちが悪いから、と少し寂しげに呟いた。

「それでその、俺がなんで地球儀を持ってるかって話なんだけどさ…うーん、話しても難しいかな」

「いや大丈夫だよ無理はしなくて」

「ああ…ただの身の上話なんだけどさ、僕、昔は中学受験を控えてたんだけど」

「うん」

「その時凄く勉強のことばっかりに囚われてたんだよ」

「ああね」

「それで、ずっとストレスというか、何かしなきゃいけないって言う観念の塊が出来てて、それがしんどくなっちゃってさ」

 兄の口調は変わっていた。ステップで吹く風のような穏やかさを孕んでいた。しかし僕は対照的に、確かに以前暗い顔が続いていた小学生の頃の兄の様子を明確に思い出していた。今思えば生気を感じられず、一見病み上がりのような顔をしていた。

「そういう時に、テレビで地球儀の製造過程の特集が有ったんだよ。その丸くて鮮やかな感じというか…地球をそのまま小さくしたって言う、分かるかな。そのあどけなさに気付いちゃってさ、それを見ているうちに何だか心のしこりが取れていたんだよ」

「あどけなさ?」

「そう、あどけなさ」

 あどけなさ。兄の独特の言い回しに困惑しつつ、何となくどこか沁みるものがある。

「それから、僕は百貨店とか百均で、地球儀を買って貰ったりして、部屋に飾り出した。それが、僕を唯一意味に囚われないゆとりを持たせてくれたと今でも思っている。大地も見たことはあるでしょ」

「うん…ところで、どうしていつからかユニークな地球儀ばかりを?」

「ユニーク?」

 兄は不思議そうな声を出した。何かの当て擦りに似てもない、澄んだ声だった。

「いつも、手の届く所で一番僕があどけなくあれるものを取ってるだけだよ」

「…兄ちゃん」

「ん?」

「同居してる人で、今凄く文筆業がしんどそうな人が居るんだけど、どうすればいいかな」

 えー、と兄は困りげな笑いを繰り出した。

「専門的なことまでは分からないけど」

「あ、まあそうか、ごめんごめん」

「意味ありげなことを考えることで安らぎを得る人もいるけど、無理にそれを書こうとすると疲れる人もいるんじゃないかな。どっちが悪いとかじゃ決してなくて。創作は創作でも」

 机の上の地球儀に、月光が滑らかに溶け出して、日本列島の紋様が浮かぶ。

 電話を終えて、僕は部屋の窓を開けて息を吸った。春の末の微かに湿った空気が肺で膨れた。一瞬、背後にあの日図書館で会った司書がいるような感覚になって振り返った。そこにはただ、兄が掻き集めてきたあどけなさの集積が散らばっているだけだった。

 僕は標準時地球儀をデスクの下のプラグに繋ぎ、時刻を見た。もう午後の7時で、図書館はまだ閉まるのに少し余裕があるようだった。


 都市は自然よりも乾いているものが多いのに、空気はやけに湿っぽい。小走りで僕は横断歩道を通過して、目の先のウッドテイストが際立つその建築物に向かう。肩が街灯の光に濡れては乾き、視界が明滅する。その中でも滑らかなカーブを描く屋根だけは軸のように捉えている。

 僕は図書館の目の前のドアに立つ。ガラスのドア越しに、川橋がかつて溺れたのだろう大量の情報が内包された本棚が見える。その圧力は、今では思い出せない。

 図書館の中に入ると、前と同じようなコーヒーの匂いがした。日中よりも人は少なく、本棚の隙間にあの時の司書を見つけるのは容易かった。あ、と声を漏らすと、司書はこちらに気付き、そして笑って頷いた。僕は益々、何処かに穏やかながら確かに活力と呼べるものが湧いてくるのを感じながら、色んな番号が振られた本の中を掻き分ける。

 文芸誌のコーナーに到達した時、僕は目を丸くした。川橋が紹介した文芸誌が、新しくコーナーに追加されていた。僕は飛び付いてそれを読む。川橋の名前は無かったが、僕はその目次を、穏やかな活力に満たされたまま見つめていた。時間があれば、あの名作古典も、これもいくらでも読めるような心地がした。次に川橋がエッセイを書く時、それさえもきっと読んでみせると決心した。

 自然のコーナーに来た時、僕は、表紙が見えるように置かれた、自然を撮影した写真集が目に付いた。そこには、植物の葉の先端から落ちた直後の丸く透き通った雫が載っている。

 僕は兄の送った工芸教室の動画を思い出す。透き通ったガラス玉、地球儀の模様。さらに、会社でふと考えたことまで引き摺り出される。兄が地球儀模様を照明に描く光景、子供部屋、機能性、標準時地球儀__。

「あ」

 僕は、一瞬目の前に現物の幻覚が見える程、はっきりとその中で結実したアイデアに驚いた。図書館の中は嘘のように静まり返っていて、その中で僕は誰にも知られず自分にほくそ笑む。僕はこのあまりに奇妙な光源のアイデアをあの会議に提出したら、馬鹿げてると笑われるだろうか。もしくは嘘みたいに絶賛の嵐だろうか。遠藤や川橋でさえ、再び笑ってくれるだろうか。ある意味、この奇想天外な発想は、子供部屋に必要な全ての機能的な要素を満たしている。しかも、兄の言うあどけなさは益々そうだろう。子供でさえ、あまりのユーモアに吹き出すかもしれない。

 兄に今度、このアイデアを話してみよう。

 無意味にそう思ったが、そうする方が、今の僕はここに居続けることが出来るような気がした。

 僕は奇妙だけど、確かに尊いその想像をして満たされながら、暫く、その表紙を吸い込まれるように眺めていた。

 どれぐらい時間が経ったのか、その水滴の仄白い艶は、こちらの世界の光を反射しているものだと気付いた。僕は振り返って、図書館の高い天井を仰ぐ。

 天窓からは、月光が差している。

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ガラクタ地球儀 古賀大翔 @H-K-

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