番外編・後日譚

『チビ女侯爵』


 そんな文字が、ちらちら見えていた。

 部屋の隅と隅に離れた、王子殿下の手にした紙の片面に。

 ひらひらこれ見よがしに紙片を揺らし、にやにやと秘肉げな口元の笑いで横目の視線を流してくる。

 はっきり言って。


――ウザイ。


 ちらり持ち上げた目を手元に落とし、書類仕事に集中を戻す。

 宰相の執務室、与えられた机に、私は向かっている。

 フラヴィニー侯爵位継承の儀から、二ヶ月ほどが経っていた。

 先代先々代と同様に、私にも王宮での職位が与えられた。ただし当然成人したばかりということもあって、ほとんど見習い文官と変わらない扱いだ。

 それでも『ブンカン』加護の能力を見込まれ将来を期待されて、宰相直属の見習いとして当分この執務室に通うことになった。

 書写の美しさ、写本の速さ、計算、文書まとめの能力など、試された上ですっかり宰相に気に入られた格好だ。

 今では宰相子飼いの文官と二人で、遺漏なく宰相助手を務めている。

 そこまではいいんだけど。


――あの派手でウザイあんちゃん、何とかしてほしい。


 他の貴族たちよりひときわ目立つ豪奢な衣装の第一王子殿下が、しょっちゅうこの部屋を訪れるようになっているんだ。

 同僚の文官の話では、少し前まではこんなこともなかったらしい。とすれば、目的は明らかだ。

 表面上は宰相と打ち合わせることがあるという口実だけれど、その目はいちいちにやにやとこちらの机に向けられている。

 最初通い始めた頃は、手にした紙片をあからさまに広げて見せてきた。


「読めるか」

「読めません」


 部屋の端と端でそんなやりとりを交わす。

 隣の文官は意味が分からないようで首を傾げているけれど。王子は宰相と苦笑いを見交わしていた。


「この距離で読めるのだとしたら、面白いんだけどな」

「はあ、そうですな」


 ふつうより広い執務室で端から端に離れて、本来文字の存在さえ辛うじて分かるかどうかという状況だ。

 通常の視力で、読みとれようはずもない。

 王子は意味ありげににやにやを続け、宰相も十分意図を理解している顔で悪戯につき合うという態度だ。


――今さらそんな尻尾を掴んだとして、意味もないと思うんだけど。


 私の侯爵位継承はさまざまな手続きを終了して、正式に認められている。

 今さら『書類書き換えが可能だった』ということを証明したとしても、実際それが行われたという証拠がない限り覆りようもないはずだ。

 剣で人を殺す能力を持つ、というだけで人を牢に入れることはできない。当たり前の話だ。

 本気なのか遊び半分なのか、この王子殿下は儀式の直後、いろいろ探りを入れて回ったらしい。

 まず第一に、国王や宰相をはじめ事前に侯爵位継承先の承認に携わった人々は、誰も前侯爵長女の名前を特に頭に入れていなかった。ただ、「長女が継承して問題なし」と確認しただけだという。

 おそらくのところ実際に名前をはっきり認識したのは、出生届けをもとに継承承認書を筆記した文官一人だけだったのではないか。

 その文官を呼びつけてくだんの承認書を見せ、王子は「これはお前が書いた通りのものか」と確認までしたらしい。

 文官は驚き冷や汗の様子ながら、「まちがいないと思います」と答えたとか。

 最初の驚きの様子は何処か疑わしく見えたにせよ、返答自体に迷いは感じられなかった。

 もしかして自分が書いた記憶の名前と違ったかもしれないという困惑はあったとしても、筆跡にまちがいがない以上、他の返答のしようがない。

 もっと違う問い詰め方をするべきだったか、と王子は苦々しい顔でぼやいていた。

 いや、そんな話を私の前に持ってくるというのも、この人何を考えているんだとしか思えないわけだけど。

 とにかくもそうして、新侯爵の公文書偽造の証明は頓挫したことになるようだ。

 それにもかかわらずこの殿下、週に一度程度欠かさず現れて、こちらを試す仕草を見せてくる。

 はっきり言って。


――ウザイ。


 とは言え「迷惑です」と口にするわけにもいかず。

 本心はどうあれ、宰相にもこの王子の執務室出入りを拒絶することはできないようだ。

 じっと我慢、するしかない。


 私の侯爵としての立場自体はかなり落ち着いたけど、周囲に関してはまだまだだ。

 叔父と母の処遇はまだオリヴェタン公爵家預りの形が続いていて、これまでの所行の捜査が引き続き行われている。

 この二人が行ってきた行為は儀式の場で騒乱を起こしたことを除けば、次女を長女と偽装して周囲に広報していたこと、家庭内で長女を冷遇してきたこと、という程度のものになり、それだけでは大罪という印象を受けないかもしれない。おそらくこれが貴族家の話でなければ、へたをすると笑って済まされてしまうくらいのものだろう。

 しかしこれが貴族家ということになると、まるで話が変わってしまう。

 爵位継承に伴うトラブルは、古来掃いて捨てるほどある。放っておくとその爵家だけでなく周囲の家まで巻き込み、どうかすると国家全体を揺るがすものに発展しても、不思議はない。

 このような悶着は言ってみれば古今東西、継承に絡んでつきものともいえる。しかし国として、それを完全放置するわけにもいかない。

 そのため我が国ではすでに知られたような、「継承は直系優先」「成人まで暫定爵位」などという基準が定められている。それほどガチガチの決まりという印象を受けないけど、逆に言うと最低限これは尊重されるべく、王室から目が光らされている。

 もちろん例外がまったく認められないというわけではないけど、例えば長女ではなく次女を後継とするというなら、これは現当主からの届け出があって政権内でその妥当性を十分審査されることになる。この届け出は、暫定爵位の者や夫人からのものは認められない。

 当然と言えば当然すぎる話だ。

 ここをないがしろにしては国家の存続に関わることだってあり得る、重要事だ。

 想像だけれど、叔父も母もこの辺をかなり適当に捉えていたんじゃないか。

 二人とも、まともに貴族当主に必要な教育を受けていない。叔父はもちろん父のスペア要員だったのだからそれなりに教育されていたはずだけれど、どうもその辺どれだけ真剣に取り組んでいたものか、疑問が残る。

 おそらくのところ、現暫定当主と前当主夫人の意思だ、出生届けも正式な様式で提出した、ということで何処からも後ろ指をさされることはないと安心していたのだろう。

 実を言うとこの出生届けというものが、いろいろと頭痛の種になっていた。

 これがある限り、爵位継承者がミュリエルであるとされる現実を崩せない、というだけではない。

 私が10歳の頃だったと思う。オレールが説明してくれた。


「実を申しますと、かの出生届けをひっくり返す手段がないわけではありません」

「どうするの」

「マリリーズ様の名前で、王室に異議を申し立てることができます。長女次女の真実を知る者の証言を集めて、かの届けは虚偽のものであると」

「へええ」

「真剣に捜し回れば、真実を知る者は複数見つかるはずです。解雇された使用人だけでは物足りないと思われますが、貴族の方としてすぐ思いつくだけで、以前マリリーズ様の家庭教師をしていた先代のキュヴィリエ伯爵夫人がいらっしゃいます」

「ああ」

「そういう証言を集めれば、おそらく異議申立ての受理だけはされると思われます。ただそれでも、見通しが明るいとは申せません。どうしても中央は事なかれ主義ですので、よほどの大きな証拠でもない限り虚偽と認められない可能性もございます。それと、もし異議申立てが認められたとして――」

「大スキャンダル、だよね。上位貴族である侯爵家にあるまじき」

「そういうことになりましょう」

「認められたとしても、侯爵家が無事で済むとは思えない?」

「はい。何にしましても爵家制度維持のための根本の手続きである、出生届けの偽造ということになりますと」

「お家お取り潰し?」

「そこまでいかずとも、お家存続に関わりかねない額の罰金、降爵や領地召し上げまで考えられると存じます」

「そこまでかあ」

「はい」


 はああ、と。

 二人顔を見合わせて、溜息をついてしまう。


「でもそれってさ、私が異議申立てをしなくても、何かの機会に虚偽が知られたら同じことだよね」

「そうなりますな」

「その辺あの人たち、どう考えているんだろう」

「そこは何とも――おそらく想像さえしていない可能性もあるかと」

「わあ」


 首を振って、長椅子の背に深く凭れてしまっていた。

 何とも複雑な顔で、ヴェロニクが紅茶を淹れ直してくれる。


「降爵、領地召し上げ――なんてことになったら、お父様やご先祖様に申し訳なさ過ぎるよねえ」

「そうですな」


 そういう話し合いで、異議申立ては断念したという経緯があった。

 オレールたちには話していないけど、その時点で私には最後の手段が頭に浮かんでいた、という事情もある。

 まあ、とにかくも。

 出生届け偽造というとんでもない罪は加わらなかったにせよ、叔父と母の一連の所行は貴族社会でとても認めるわけにはいかない、という判断になっている。

 おそらくこのまま、生涯蟄居の沙汰が下ってもおかしくないらしい。

 こうした場合当事者のフラヴィニー侯爵家が預かるという形になっても不思議はないらしいけど、当主の私との血縁関係や年齢などを考慮すると困難が伴うだろうということから別の形が検討されそうだ、と宰相が話していた。

 今のままオリヴェタン公爵家に預けるか、母の実家であるジェデオン子爵家に任せるか、という辺りで検討されそうだとのこと。どちらの場合でも、フラヴィニー侯爵家に生活費などの負担が回ってくるだろう、という。

 その辺に落ち着いてくれれば、こちらでも助かると思う。


 一方で、ミュリエルはまだ入牢が続いている。

 何度か司法庁の人が話を聞いたけど、言うことに脈絡がなく、反省の様子は見られないという。

 入牢にされた直接の罪状は王宮内での攻撃魔法の使用なのだから、そこだけでも反省して謝罪すればいいと思うのだけど。とにかく「私は候爵だ」「悪いのはマリリーズだ」という主張をくり返すばかりだとか。

 行為は魔法を使ったということだけなのだけれど。これ、実は重罰に値する。

 とにかく、国王や王族の面前だったんだ、魔法の能力によっては、あの位置どりで国王を攻撃することも可能だった。

 過去の例を見ても、王宮内での魔法の使用は貴族の身分剥奪になってもおかしくない大罪だ。

 同室だった場合、たとえそれが国王に向けられたものでなかったとしても、そのまま処刑に到った例も複数ある。

 ミュリエルが現実には成人前だったこと、明らかに王族を狙った行為でないこと、という辺りが何処まで考慮されるか。

 これも宰相の予想では、最低で見積もって、僻地の修道院に生涯入れられる、ということになりそうだという。


「君の前で言うのも何だが、幼少からの教育をまちがったというか、事実上教育と言えるものがなされていなかったのではないかと判断されている」

「はあ。申し訳ありません」

「いや、君が謝るような状況でないことは承知しているがね」


 司法庁からの報告を話題にして、宰相は苦い笑いの顔になっていた。

 確かに私がどうできたという話ではないのだけど、今となっては当主なのだから、責任を蒙る覚悟を持つしかない。

 しかし。


――確かに、教育がなされた状況じゃなかっただろうな。


 いちばんの理由は、叔父と母の中にミュリエルが成人したら侯爵位を継ぐという決定事項が揺るぎなくあったことだろう。

 本来なら、だからこそしっかり教育すべき、という考えになりそうなものだろうけど。

 彼らは徹底的に、ミュリエルを甘やかすことだけに努めた。

 爵位継承後、娘からよろしく厚遇されたい、というその目的だけが頭にあったのだろう。

 発端の責任を言えば、もしかすると父にあったのかもしれない。もちろんそんなこと、責められるべきものでもないだろうけど。おそらく、父が候爵としてしっかりし過ぎていたんだ。

 叔父は生まれてからずっと父の陰にあって、その能力差を常にあげつらわれていたらしい。差が歴然だったものだからそれを克服する努力をする気も起きず、何とか楽をして生きるすべを求めたということのようだ。

 母は子爵家から侯爵家に嫁いで、最初は舞い上がっていたらしい。しかしすぐに、家の中のことを含めすべて父の管理下にあることに不満を持つ。ヴェロニクの評によると母にそのような能力は皆無のようだけど、とにかく候爵夫人としての実権を求めた。

 二人とも思いがけず希望通り、暫定候爵位としてその地位を得た。しかしこれは、十年少しという期限つきのものだ。そんな短い期間でこれを手放したくないと思えば、ミュリエルの機嫌をとってその後ろ楯の地位を確保するしかなかったのだろう。


――理由としては、分からないでもないけど。


 それにしても三人とも、何処か捻れ欠けているとしか思えない。

 しかるべき地位を得たいなら、それに必要な素養を身につけるべきなのは当然だろうに。

 そう思うにつけ、私の側にオレールとヴェロニクの夫妻がいたことに、心から感謝するしかない。

 8歳のときに彼らに手を差し伸べてもらって、いろいろ助けられてきたわけだけど。最も大きかったのは、オレールから教育を受けることができた点だと思う。

 あれがなければ、今このようにして侯爵位を得ても、途方に暮れるしかなかっただろう。

 オレールの教えを受け、領地のことを考えるようになり、王宮内での執務経験を持ったことで、多少なりともすべきことができるようになっている。


――感謝、しかないね。あの二人には。


 そんなことに思いを馳せながら、宰相から回された事務処理を進める。

 しばらく続いていた宰相との会話がみ、王子は「じゃあ、また」ときびすを返した。

 暑い季節がまだ続いているので、手にした紙片で顔を扇ぎながらこちらの机横を過ぎようとする。

 別にどうということでもないのだけれど、ひと声かけたい気が募って、呼び止めてしまった。


「恐れ入ります、殿下」

「何だ」

「『チビ女侯爵』に何か御用でもおありでしょうか」


 足を止め、手にした紙を見直して。

 派手衣装の男はぎろりと横目を向けてきた。


「読めたのか?」

「今、近くにいらしたので目に入りました」

「いや、こうしてずっと動かしていたのだが」

「近くでありさえすれば、多少動いていても読みとれます」

「何と」


 面白くねえ、とでも言いたげに、端正な顔がしかめられる。

 奥の机で、宰相が口元を押さえた。


「殿下、貴族当主への侮辱は、王族でも罪に問われた例がありますよ」

「ぬかせ」

「『チビ女』は明らかに侮蔑と思われますが」

「単なる、親愛の情だ」


 言って、またじろりとこちらに横目を流す。

 直接は目を向けず、机に向かったまま頭を下げた。


「それは、光栄なことでございます」

「くそ」


 ふん、と鼻を鳴らして。

 そのまま大股で、王子殿下は部屋を出ていった。

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妹に長女の座を奪われた侯爵令嬢、『文官』加護で領地を立て直す eggy @shkei

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