あなたの一時間をください(2)

それから幾ばくかの時間が過ぎた。あの自動販売機の噂は瞬く間に広がり、多くの人が幸せな時間の虜になった。どうやらあの自動販売機はあの路地裏だけでなく、世界中にあるらしかった。最近は会社でも街中でも、皆があのカプセルの話ばかりしている。


男は変わらずあの自動販売機の虜だった。そろそろ買い貯めていたカプセルがなくなる頃だ。今日は自動販売機に寄って帰ろう。そう思いながら男が会社から帰っていると、階段を踏み外し転んでしまった。激痛が走り、動けずにいると、人のよい通行人によって助けられ、救急車で運ばれた。


「階段を踏み外して腕の骨を折るなんて情けないなぁ。」


男がそう呟くと、医者は慰めるように言った。


「仕方ないですよ。あなたぐらいの年齢になったら、みんな転びやすくなったり、骨を折りやすくなりますから。」


「あなたぐらいの年齢?俺はそんな風に言われるほど年老いてないぞ!」


失礼な医者だ、と男は医者の言葉に苛立ちながら、用を足しに洗面所に向かった。腕一本折れただけで、トイレをするのも一苦労だ。四苦八苦しながら用を足し終え、男が手を洗っていると、洗面所にかかっている鏡が視界の端に映った。


鏡の奥から、知らない男がこちらを見つめている!


男はびっくりして、鏡をのぞき込んだ。それは他でもない自分の姿だった。もっと若いつもりでいたが、その実、気づかぬ間に歳衰えていた。男がカプセルに夢中になっている間に、もう何年もの時間が流れていた。一時的な快楽に夢中になっていて、男はそんなことにも気づいていなかった。


「俺は何をしていたのだ。なぜ俺は、あの若く貴重な時間を、ああも無自覚に浪費し続けていたのか……。」


気づくと男は病院の支払いも忘れ、街を彷徨っていた。歩き続けた男はいつの間にか、あの路地裏にたどり着いていた。なぜここに来たのかは男にも分からなかった。自分の時間を奪っていった自動販売機への憎しみからか、それとも現実逃避のためにカプセルを求めていたのか。


自動販売機の前には人だかりができている。誰もがあのカプセルを求めて来ていた。遠くから群衆を眺めていると、あることに気づいた。皆、アンバランスな老け方をしている。顔つきと服装がちぐはぐなのだ。それはまるでこの瞬間に10年の時が流れたかのようだった。


「昨日まで俺もあの中にいたのだな……。」


男は家に帰ると、ごみ袋を広げ、買い貯めていたカプセルを捨て始めた。昨日まではあれほど夢中になり、価値あるものと信じていたのに、今ではごみとしか思えなかった。最後のカプセルを袋の中に投げ入れようとして、そのカプセルの名前が目に入った。


『未来を視る1時間』


男は何度かこのカプセルを試したことがある。以前に開けたときは、近未来都市で夢のようなテクノロジーを体験した。詳細に覚えていないが、普段得られない体験して、子供のように興奮したのを覚えている。


このカプセルを開けなければならない。何故かは分からないが、男はそう思った。誰がこのカプセルを開発したのかは知らないし、興味もない。だが、テクノロジーの進歩によって、人々は簡単に即時的な快楽を獲得する術を身に付けた。我々はただ彼らに与えられるがまま、猿のように快楽を貪っている。そんな世界の行く末が俺は視てみたい。


男がカプセルを開けると同時に、意識は未来に飛ばされた。男の向かった世界は、以前のような未来への希望を思わせる世界とは根本から異なっている。


男が街を散策していると、すれ違うのは皆くたびれた老人ばかりで、子供はどこにもいなかった。彼らは歳衰え、身体が不自由になっても、日銭を稼ぐために働いていた。そして仕事を終えると家に帰り、ただボーッとモニターを眺め続けている。無意味なノイズが流れ続けるモニター。老人たちはそれを見て、ニヤニヤと笑い続けていた。男には老人たちが夢中になる理由が分からなかった。


男はもっとこの世界を知りたいと思った。その瞬間、意識は宙に浮き、空から街を見下ろしていた。天に立って世界を眺めていると、老人たちが働いている廃れた街とは別に、煌びやかで裕福な街を見つけた。その街には若者や子供がいて、彼らはゆったりとした時間の流れを謳歌していた。


男は彼らのもとに行き、尋ねた。


「なぜ隣の廃れた街では、人々は働き続けてもなお貧困と孤独にあえいでいるのに、この煌びやかな街で君たちは家族で楽しく裕福な生活を送ることができているんだ。君と彼らにどんな違いがあるんだ?」


「僕らには恋人や友人と遊んだり、裕福になれるだけの時間があり、彼らにはない。それだけさ。」


そう言う若者の横では、あの白いノイズがモニターから流れていた。男があのノイズが気になり見つめていると、若者が答えた。


「その映像が気になるかい?あれは僕が作ったものだけど、深い意味はないさ。ただ多くの人はあのノイズに夢中になって時間を使い果たし、僕らはその分だけ豊かになるんだ。」


男にはその若者の言うことを真に理解することはできなかった。しかしあの老人たちの、二束三文で働き、それが終わればモニターを眺めるというあの行為が、大きなシステムの一部であることは違いなかった。彼らは気づかないままにそれに組み込まれ、きっと永遠に歯車として回り続ける。そして、そのシステムから抽出された時間を誰かが優雅に味わっている。


気が付くと男は現実に戻っていた。男は家にあった木製のバットを携えて、あの路地裏に向かった。そうして、力任せに自動販売機をバットで殴り付けた。何度か殴るとようやく少しだけ傷が入ったようだが、自動販売機が壊れるよりも先にバットが折れてしまった。男は壊れない自動販売機の前に立ち尽くしかなかった。


もはや誰にも止めることはできない。限界が来るその日まで、そのシステムは動き続けるのだった。

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