第5話

 その連絡が来たのは、中学校で授業を受けているときだった。


 突然、学年主任に職員室に呼ばれ、電話を渡された。相手は警察だった。


『実は、悠くんのお父様が事故に遭い、病院に搬送されたのですが、残念ながら……』


『……は?』


 聞こえる言葉が理解出来なくて、ただ呆然とする。だが、すぐに病院に行くと、顔に白い布をかけられた父親がいた。話しかけても、返事が帰ってくることは無い。


『うわああああああああ……!!!』


 静かな部屋に、悠の慟哭だけが響いた。


 後で知ったことだったが、父親が事故に遭ったのは不動産屋からの帰り道だったらしい。離婚後の住まいを探しに行った帰りに、居眠り運転の車が突っ込んできたそうだ。



 逆恨みなのはわかっている。それどころか、見当違いの恨みなのかもしれない。それでも、父親と母親が離婚することにならなければ、あの事故に父親が巻き込まれることはなかったのだ。そう思うと、母親が憎くて憎くて仕方なかった。それでも今まで我慢してきた。だが、もう――限界だ。


「あ、あんた……」


 ようやく状況を理解した母親の顔に恐怖の色が浮かび、椅子に座ったままの身を軽く引く。だが、もう遅い。悠は既に拳を振りかぶっていた。


 拳を振り下ろそうとした、その瞬間。


『……――♪』


「……え?」


 ピタリと、母親の顔から数センチの場所で拳を止める。何かが聞こえる。聞き覚えのある、透明に澄んだ女の歌声。


「……セナ……?」


 そうだ。セナになら、助けを求められる。悠の心の拠り所になってくれる。悠の全てを受け止めてくれる。


「っ!」


 悠は踵を返し、家を飛び出した。


 最寄りの駅まで走り、ポケットに入っていた財布から小銭を取りだして切符を買い、止まっていた電車に飛び乗る。財布の中にはもう帰り分のお金すらなかったが、そんなことはどうでもよかった。


(早く……早く……!)


 一刻も早く、セナに会いたい。悠が心を許せる相手は、もうこの世にはセナしかいないのだ。


 そこそこのスピードを出しているはずの電車が、やけにのろく感じる。


 十分ほどで、無人駅に着く。切符を改札に差し込み、走り出した。月に雲がかかっていて、道は暗い。当然、街灯もない。足元がよく見えず、つまづきながらも浜辺を目指す。


「――――……♪」


 数分ほど走ると、あの歌声が、傷だらけの心に優しく染み込む。


 セナは、浅瀬に立ち、海に向かって歌っていた。


「セナ……!」


 悠の声に振り向いたセナは何かを察したような顔になった。


「……何かあったの? ユウ、ひどい顔してる」


 歩み寄ってきたセナが、息をきらした悠の頬にそっと触れる。


「実は……」


 悠は、望遠鏡を売られ、家を飛び出してきたことを話した。


「そんな……」


「もう僕は、あの家に帰れない……僕の居場所はどこにもないんだ……もう――」


 ――消えたい……


「……そっか」


 砂浜に座って話を聞いていたセナは立ち上がった。


「じゃあ、一緒に行かない?」


「え?」


 うつむいていた悠が驚いて顔を上げる。


「わたしと一緒に、どこか遠いところ。誰にも見つからないところに……行かない?」


「――行きたい」


 思わず、そう答えていた。


 自分をあの場所に引き止めていた望遠鏡ものはもうない。もうどうなったっていい。自分がここにいる理由は、ないのだ。


「わかった」


 悠はセナが差し出した手を取り、立ち上がった。


「行こう、ユウ」


 その時、雲に隠れていた三日月が顔を出した。月光に照らされ、セナの表情がはっきり見えるようになる。


 その瞬間、悠の背筋に冷たいものが走った。


 セナは微笑んでいた。いつものように。だが、いつもの微笑みではない。その目には光がない。悪魔のような、ゾッとする微笑みだった。


「セ――」


「ずっと待ってたの。ユウが、そう言ってくれるの」


 悠の手を握るセナの手に、力がこもる。


「ねえ、セナ――っ!?」


 冷たいものを感じた悠は息を飲んだ。いつの間にか、足首まで海水に浸かっている。満潮の時間ではないはずなのに。


 セナの顔にはまだ、あの笑みが張り付いている。


 と、セナが空いている片手を上げた。瞬間、轟音と共にセナの背後の波が高くなった。あっという間に三メートルほどの高さになり、二人を飲み込む。


「――――っ!」


 息ができない。もがく悠に対し、セナは笑ったまま悠を海底に引っ張っていく。美しい黒髪が海中でなびくその姿は、精霊そのものだ。


『一緒に行こう』


 その言葉が頭に響いたのを最後に、悠は意識を手放した。



 三日後。浜辺に打ち上げられた少年の遺体が見つかった。


 少年のバイト先の青年が、連絡が取れないと警察に通報したためだ。


 その浜辺では、十年前、十七歳の少女が溺死する事故があった。それ以来、少女の霊が出ると言う噂がまことしやかに囁かれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月下の歌 瑠奈 @ruma0621

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ