首塚たたりの宮参り

 例えるならば、そう。鹿威ししおどし。

 口を斜めに切った竹の中に、少しずつ水が溜まっていって、やがて傾き、かこぉんと小気味好い音を響かせる。

 かっこぉん、かっこぉん、かっこぉおん。

 夜の帳の奥深く、豪快且つ大胆に奏でられる渇いたサウンドは、思わず諸行無常でも感得してしまいそうになる。それはまぁ、全く心にもない感想なのだけれど、根深い情念が込められているのはきっと確かな事であろう。

 真夜中でもくっきり目立つ、真っ赤な鳥居を潜ったぼくは、一寸先に広がる山中の闇を眺めながら、呟くのだった。

「今日もやってんねぃ」

 空を見上げれば、よい、見事な満月だ。弧を描く細い輪郭の端を、わた雲が通り過ぎるさまなどは、まるで貴婦人が扇子せんすで口元を覆うかの如し、まこと妖艶である。これは心にある感想だ。

 目を閉じて、白面の君に想いを馳せればなんともはや、優美なイギリス式庭園が脳裏に浮かんでくるではありませんか。

 小鳥のさえずる青空の下。穏やかな風に揺れるみどりを背景に、静謐なる湖畔のふちでガーデンパラソルを広げ、アンティークチェアでお紅茶を嗜む。

 かっこぉん、かっこぉん、かっこぉおん。

「……」

 そして隣に鹿威し。

「はぁーあ」

 嘆息一つ。妄想から帰還を果たしたぼくは、無粋な音の鳴る方へ歩き始めた。

 足元の雑草がざくざくと、踏まれた文句なり悲鳴なりを上げている。構うものか。延々と続く獣道に生い茂る、樹々の幹をひょいとかわしつつ、次第に音源へ近付いていく。やがて真っ暗な視界の中心に、白く仄かな点が浮かび上がった。

「おー、いたいた」

 かっこぉおん、かっっこぉおん。かんかかんこぉん。

 だんだん悪ふざけしてきやがったな。こうなると風情も何もあったものではない。

 むやみやたらとリズミカルに揺れる鬼火が、歩を進めるごとに大きく、確かな人の形を表す。其が女の人であると認識出来た頃、木槌で杭を打つ音の合間に、か細い呟きが割り込んできた。

 曰く。

「うらめしやー、うらめしやー」

「……」

 どうしよう。凄く突っ込みづらい。

 ただでさえこんな真夜中の、こんな藪の中で、白装束で、頭に蝋燭ろうそく括り付けてるファンキースタイルのお姉さんなんて、国内屈指の話しかけづらさを誇る人種なのに。

 それが超古典的な幽霊の常套句をぽつぽつと呟きつつ、クヌギの幹に藁人形を打ち付けながら、野性味溢れるヘッドバンキングをキメているのだ。控えめに言って、ちょっと引く。

 タチが悪い事にその台詞は、意味用法として間違っているとも言い難かった。

 間違ってはいないのだけれど、正しいとも言えないような……絶妙なラインの言葉選びだ。

 どうする、ぼく? ここはスルーが最善か?

「うらめし……あっ」

「あ」

 逡巡しゅんじゅんの果てに、目が合った。

「……」

 振りかぶった態勢で、顔だけをこちらに向けて固まるお姉さん。

「……」

 棒立ちで固まるぼく。

「……」

「……」

 固まる時間。あ、遠くで鳥が鳴いてる。

「……き」

「き?」

 反芻し、首を傾げたその刹那。

「キィイヤァアアア!!」

 沈黙を引き裂く金切り声が、鼓膜を震わせた。

 夜の澄み切った空気は、遮る事なく喚声を一帯に轟かせる。次の瞬間、ばさばさと黒い影が、一斉に上空へと飛び立った。その影が月を覆い隠し、地表に真なる闇をもたらす。一陣の風。揺れる灯火がふつと消え、眠っていた草木が咆哮を上げるようにザァ、と騒ぐ。

 そんな嵐の中心で、文字通り血眼となって、白い夜叉が駆けた。

 其は驚くほどに疾く、鋭く、そして一目散にこちらへ向かってやってくる。

「おお」

 固まるぼく。

「やぁあいひゃああらぁあああっっっ!!」

 もはや人の声というのもはばかられる、怪奇な音。

 夜叉は手に持つ木槌を一切の躊躇ちゅうちょなく、ぼくの脳天を叩き潰さんとして振り上げた——


——なので。

「せいやぁ」

 ぼくは身体を捻りながら、お姉さんの懐へと踏み込んだ。

「えぃひ?」

 腰を落とし、下方から斜め上方へと向かうイメージで、背中をお姉さんの胴に軽くぶつける。振り上げた腕を両手でしっかりと掴み、一本背負いの要領で、丹田へ向かって一気に引き込んだ。

 先程とは打って変わって間抜けな声を出したお姉さんは、僕の背中で半円を描く形で身体を回し、そのまま地面に不時着する。

 地面に衝突する間際、腕を上方に引いて、頭部から落ちないようにしたのは恩情のよしではない。

 素早くマウントを取り、得物を押さえ、もものホルスターに収めてあったコンバットナイフを首筋に添えた時、キチンと状況を理解してもらうためだ。変に気絶なんかして、目覚めたら第二ラウンド開始……なんて、面倒だし。

 それに、まぁ。 

「序列を決めるのって、嫌いじゃないんだよね」

 つまりは野良猫同士の喧嘩のようなものだ。

 何が起きたか分からない、と書いてある顔を見下ろし、厚さ六ミリ直径十三センチのステンレス刃を瞳孔へ突き付け、理解を促す。

「逆らったら殺すよ」

 あと、気に障ったら殺す。

「気息を荒げたら殺す。気丈にしなきゃ殺す。気負いを感じたら殺す。気魄きはくを見せたら殺す。気が向いたら殺す。気になったら殺す」

 気侭きままに殺す。

「理解できてようがなかろうが、取り敢えず「ハイ分かりました」て言わなきゃ、殺す。どぅーゆーあんだすたん?」

 そんなわけと言えばそんなわけで。

「……ハイ、ワカリマシタ」

 満天に華やいだ星々ご照覧の下、年上のお姉さんを尻に敷く貴重な体験を経たぼくは、犬歯をいて彼女に微笑むのだった。

「愉しい夜になりそうだぜ」




———




 さてさてと。

日向ひなたさん、ていうんだ」

「あ、はぃ」

 鳥居に背を預け、強奪した蝋燭の明かりで運転免許証をあらためながら確かめる。

 白い夜叉こと日向さんは、今にも消え入りそうな声で返事をした。可愛らしいピンクの化粧ポーチを胸に抱え、固い地面に正座する姿は、すっかり萎れている。

 狐森きつねもり日向ひなた

 良い名前だ。苗字に身体部位の名称が入っていない辺りが、凄く良い。あと丑の刻参り……呪いの藁人形なんていうステレオタイプな呪術に精根を費やしておきながら、実に陽の気が込められた名前なのも面白い。

「すみませんすみませんこんな陰気くさい女が陽の気全開の名前ですみません」

 自覚アリだったらしい。口に出してもいないのに、何故だか申し訳ない気分になった。

「ごめんなさいホント、今すぐ改名してくるんで許してください何でもしますから……嗚呼でも気丈にふるまわないと殺すって。それだけはホント全く出来る気がしなくてそこだけお目こぼし頂けたらと思ったりしてしまってごめんなさいごめんなさい」

 捲し立てるように謝罪の言葉を口にしながら、何度も何度も地面に額を擦り付ける日向さん。額を、というか顔を地面に叩きつけているといった方が正しい。

 土下座だ。成人女性の土下座だ。幽霊のコスプレみたいな恰好をした成人女性の土下座である。見ているだけでもまぁまぁキツい。出てる出てる、鼻血出てるって。

「別に改名なんてしなくていいし、さっきのは冗談だから」

「冗談も分からないコミュ障陰キャで申し開きようも御座いません本当に」

「……」

 ……やり辛いなぁ。

 これはもう逆に、一度気絶させて記憶なりなんなりをリセットした方がいいのではなかろうか。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ」

「しゃらっぷ!」

 怪盗が予告状を投擲するが如く免許証を投げると、ちょうど顔を上げた日向さんの鼻にぱしん、と命中する。「ひゃんっ」という悲鳴がちょっと可愛い。それはそれとして、ようやく土下座が止まった。

 涙と鼻血と泥土まみれの顔を俯かせ、この世の終わりみたいに肩を落とす日向さん。この人、よくこれまで自殺とかせずに生きてこられたな。

「警察だけは勘弁してください……」

 何故か、言い慣れているような流暢さを感じた。気のせいだと思い込もう、そうしよう。

 そんなことよりも、だ。

「勘違いしてるかもしれないけどさ」

「へぅえ?」

 ここからが本題だ。

「ぼくは別に日向さんを殺そうだとか、警察に突き出そうとか、そんな事を考えて会いに来たわけじゃあないんだぜ?」

「……え? あ、会いに?」

 うむ。まぁそこからですよね。

 こほん、と咳払いを一つ。ぼくは鳥居から離れ、彼女の目の前に立った。

 見下ろす先の日向さんは、実際のサイズよりも一回り小さく感じられる。五体を縮こまらせ、怖気おじけまみれた様子でこちらを窺っているからだ。

「今日で七日目でしょ」

「え」

「だから、呪いだよ」

 僕の言葉が思いもよらないものだったのか、唖然と口を開き声を失う日向さん。

「今日は日向さんの怨みが、満願成就と相成る記念日だ。だから、ぼくがきたんだよ」

「……あっ」

 そこまで言って、やっと日向さんはぼくが何者かを察したようだった。

「そ、それじゃあやっぱり、あの……貴女が?」

 そうそう。ぼくが。

「たたりです」

 当間あてまの地に這う怨恨と情念そのものにして、支配と管理を一手に担う荒魂あらたま

 首塚たたり。それがぼくの名前であり、与えられた役割である。

「ひかえおろーう、かしこみたまえー、ほめそやせー」

「は、ははーっ」

 再び土下座の体勢を取る日向さん。おう、結構ノリ良いね。 

「さ、さっきはスミマセンでした……まさか本当に来るとは思ってなくて」

「いーよいーよ。普通そうだし」

 そう、それが普通だ。

 一体、どこの誰が呪いの儀式によって、祟りを自称する人間がやってくると本気で思うのか。

 そもそも本来の丑の刻参りは、召喚や降霊の術ではないし、間違ってもヒットマンに仕事を依頼する礼儀作法ではない。当間市内に限っても、七夜の祈念でぼくが必ず応じるというわけでもないのである。

 ぼくが今ここにやってきたのは、簡単に言うと「なんかそーゆー気分だったから」だ。

「そーゆー気分、ですか……」

「うん。そーゆー気分」

 たまには仕事しようかな、みたいな。そんな次第である。

 日向さんは何か腑に落ちないような、釈然としないような、複雑な心境を顔に浮かべている。構わず、ぼくは「そんなワケだから」と言葉を続けた。

「そんなワケだから、さっそく向かうとしようじゃないか」

 言われ、またもぽかんと口を開く。

「向かう? て、どこへ?」

「決まってるじゃない」

 貴女は何の為にこんな所であんな事をしていたのさ。

「怨みの相手を、呪い殺しにね」

 笑い、きびすを返して下山の道を辿る。

 首だけ振り返り、ほらはやく、と促せば、日向さんは慌てて立ち上がり、小走りに後をついてくるのだった。




———



 山を下りて、住宅街を往く。

 日向さんの言によれば、怨みの相手は「青空そらさん」というお名前で、駅前のマンションに住んでいるらしい。

 日向に青空。なんともまぁ、素晴らしい組み合わせだこと。ともあれ、日の入りまでさほど時間はないけれど、このペースなら今晩の内にカタを付けられるだろう。

 別段、日中にコトを成し遂げてもいいし、日を跨いではいけない決まりがあるワケでもないのだけれど。こういうのは雰囲気が大事だ。

「お、たたりちゃんだ」

「よーっす、たたりちゃん」

「おう」

 二首のカーブミラーが見下ろす十字路。背中に髑髏どくろのエンブレムを刻んだお揃いのジャケットを羽織った、金髪サングラスと角刈りマスクが気安い。

 まさに田舎のヤンキーといった出で立ちの二人組は、遠目にこちらを認めるなり条件反射でメンチを切ったものの、ぼくと気付くや否や、立ち上がって片手を挙げる。ハイタッチを求められているのかと、サービス精神旺盛のぼくは、全身全霊のダッシュと跳躍によってそれを為した。ぱっしぃん。

「元気やね、たたりちゃん」

 はっはと笑う金髪。ふと気付いたのか、ぼくの背中で小さくなっている白装束をじろじろと見つめ、興味を失くしてぼくへと視線を戻す。ところでそのサングラスは一体、何から何を守っているんだろうか。

「お姉さんの調子はどう?」

「ん、まぁ変わりねぇよ」

 がしがしと後頭部を掻きながら、至極面倒そうにぼやく。兄弟というヤツは多かれ少なかれ、互いに貯め込む物があるのだ、と聞いた事がある。そういうものなのだろう。単なる世間話の延長で、家庭の事情に首を突っ込むつもりはない。

 あちらはあちらで、同じつもりのようだから、ぼくも「そっか」と適当に流した。角刈りの方を見やり、その手に持った黒檀の木刀を指差す。

「それ貸して」

 言うと、角刈りは不躾に乙女の太ももへと目をやり、不可解と言わんばかり眉根に皺を寄せる。

「見てんじゃねーよすけべが」

「普通見るべ」

 さもありなん。黒革のホルスターを撫でつつ、それはそれとして。

「使うん?」

「使うか分からないから、貸して欲しいんじゃん」

 必要の確信があれば、レンタルといわず購入して用意する。

「ん」

 ぶっきらぼうに差し出された木刀を受け取る。

「ありがとぉ」

 きゃるんとお礼を言うサービス精神旺盛なぼく。

「えなにそれ。こわ」

 喜べや。

「怨霊に微笑まれたら怖がるべ、普通」

 むべなるかな。それはそれとして。

 手を振るペアルックに別れを告げて、本筋に足を戻す。さっきまで借りてきた猫のようにだんまりを決め込んでいた日向さんが「あの」と、申し訳なさそうに声を発した。

「なに?」

「さっきのお二人はいったい?」

「あー」 

 何と言うべきか。かいつまんで説明するなら、あの二人はかつてぼくの祟りの対象だった馬鹿野郎共であり、使い走りになる事で特別の恩赦を与えている、という話になる。そういった関係を表す適切な記号といえば。

「式神?」

「えぇ……」

 日向さんは全く釈然としていない反応を示しつつ、それ以上深くは詮索してこなかった。遠慮深い人だ。最近、彼女のように気後れの強いタイプの女の子と深く知り合ったのだが、その子は振り切れて、激情を剥き出しにするようになった。対ぼく限定の変化ではあるけれど。

「日向さんはさ」

「はい」

 今度はこちらから訊ねる。

 日向さんには、感情を吐き出せる相手が居なかったのか。

 陽の気であろうが陰の気であろうが、内に貯め込んだ念を開けひろげに吐き出せる他人が居ると、精神が安定するものだ。

 大抵の人は、全てとはいかずとも半分くらいは、打ち明けられる相手ないし空間を見つけて腰を据える。昨今ではSNSに、そんな蜘蛛の糸を見つける人が多いらしい。

 日向さんは、見つけられなかったのかな。

 今の彼女の服装を見れば、推して知れる問ではあるものの。

 たとえば怨みの対象は、どうしても直接に恨み言をぶつけてやる事の出来ない相手だったのだろうか。

「無理ですね」

「……おおう」

 意外といえば意外なほどに、淀みのない断言だった。

「あ、違うんですよ。違うっていうのはなんていうか、その。自分でもよく分からないんです」

「何が?」

「私はあの人を、恨んでるんでしょうか」

 それをぼくに訊かれても、困る。

 少なくとも、眉唾の呪術に頼るくらいなのだから、何らかの想念はあるのだろうけれど。

「それは、た、確かにそうなんですけど」

「うん」

「わ、私、自分から何かをしようってするのが苦手で」

「うん」

「そもそも、何かしようって思えないって、いうか。だから本当のところ、恨むっていうのも……だ、だから、悪いのは私なんだろうなって」

 雲行きが怪しくなってきたな。

 後ろの日向さんには見えないように、ぼくは顔をしかめた。

「だ、だって考えてみてくださいよ」

「うん」

 やらずに後悔するよりも、やって後悔した方が良い。

 世間はそれを良しとする。

 思い悩み、停滞する事を悪しざまに語り、失敗を恐れる事を臆病と揶揄する。

 無謀を挑戦と言い換え、妥当な結果から目を逸らし、成長がどうの努力がどうの、経験がどうのともやを掛ける。

 其が世間だ。世間というものに蔓延る暗黙のルールだ。

 だというのに。

「私みたいな、なんにもしない人間が、今日の今日まで何のお咎めも無く生きていけてるのって、ふ、不自然です。滅茶苦茶です。それじゃあ無法だ、と思いません?」

「うん」

 別にそうは思わない。

 そもそもぼくは、日向さんみたいな人間を日向さん以外に知らないし、日向さんの事をそこまで深く知らない。故に「そう思わない」というよりも、正しくは「分からない」としか言いようがない。

「そんな無法な世界なんだから、無法な方が正しいんです。たぶん。私みたいに、どうでもいいような事をずぅっと、うじうじ考えてるヤツはやっぱりおかしいっていうか。だから」

「うん」

 その日向さんの言う『世界』とやらも曖昧で、はてさて何の事を指しているのか分からないから、やはり言いようがない。

 まぁ、強いて言える事があるとすれば社会、集団が咎めるのはマイノリティや、声高な誤謬と詭弁だ。前者は一概に語れない。後者は論ずるまでもない。

「だから」

 そういった区分の中で、事実として、日向さんの心臓が動いているのは確かなのだけれど。その拍動が、何の痛みも苦しみも刻まなかったという風には考え難い。仮にそうだとしたら。

「だからおかしいのは私なんです。おかしい私を、誰か受け止めてぇ、なんて。そんなのおかしいです。変です。言えるわけがなくて、ばかみたいで、恥ずかしくて」

 斯様に、そこそこ強めの思想で雁字搦めになる事もなければ、迷信的オカルトに頼って行動に移すほどの鬱屈を抱える道理も無い。

「あの人もわ、私と同じだったんですよね。何かをするっていうのが苦手で……だ、だから分かり合えたっていうか」

「うん」

「だからきっとあの人は悪くなくて。だから……あ、でも、そうじゃなくて」

「うん」

「う、恨んでます。だけど、そんな、直接ぶつけるなんて、出来なくて」

「うん」

「……たたりさん?」

「うん?」

 唐突に、不安げな……いや、常に不安げな声ではあるけれど、とにかく名前を呼ばれ、振り返る。

「も、もしかして私、話しすぎちゃってます? き、興味ないですか」

「あー」

 興味がない、といいますか。

 ハッキリ言って、知らない個人の事情や生き死になんていうのは、昨日の天気程度の些末事だ。ぼくに限らず、多くの人にとってそうだろう。

 勿論、日向さんに限った話でもない。むしろ日向さんの場合、自己というものを高く見積もり過ぎているきらいがある。

 謙虚を通り越して卑屈に思える素振りが、その考えは間違いだと指摘を受けたがっているような気さえする。自責に見せかけた他責の念。きっと、そうではないのだろうけれど。

「変な相槌打ったら、話の腰を折っちゃうかな、て思ってただけ」

「そう、ですか」

「そうです」

 明らかな誤魔化しを、無法に断言してみたら日向さんは「あ、はい」とすんなり受け入れた。ちょろいぜ。本当に大丈夫じゃないなこの人。

 ともあれ、ぼくが思うのは、日向さんは日向さんなりに、色々考えたという事だ。

 その果ての結論だ。彼女の答えに、ぼくの意見は不要だ。否定も肯定も必要ない。

 問いかけたのも、単なる好奇心。求められてもいない助言をわざわざするのは、お節介というものである。

 人生につまづいて、いじけてるだけだよね、とか。

 いじけて意固地になって、負のスパイラルに嵌まっているだけだよね、とか。

 恥ずかしいのは今のオマエの格好だよ、とか。

 思う所をそのまま伝えてもいいのだけれど、そうするだけの理由をぼくは持っていない。

 逆に、そこまで言ったら可哀想かな、だとか。正直どうでもいいし、だとか。言わないでおく理由が沢山ある。

 つまり、世迷言だ。

「あの人を好きになった私が悪いんです。本当は分かってるから、直接なんて、言えません」

 色恋の話とあらば、尚更。ぼくの語る所ではないし、言葉足らずを指摘するのは野暮というものだ。

 だから、というわけではないのだけれど。

「日向さん。未必の故意、て知ってる?」

「ミヒツ?」

 知らないなら知らないで、別に構わない。ぼくは祟りだ。

「んーん。なんでもない」

 今は一夜に降りた一介の呪詛、言うなれば言霊に過ぎない。術者の動機を事細かに尋ね、その真価を問うなどは西洋、悪魔の作法である。

「日向さん。それはそれとして、なんだけど」

 そんな事をする必要はない。

「日向さんはその人に、どうして欲しい?」

「……」

 釘を打ったという事実があれば、それでよい。



———




 言ってしまえばありがちな、小洒落たマンションだった。

 一休みにと路上へ座り、見上げたレンガ風の外壁は、周囲の建物から頭一つ抜けている。六階建ての最上階は、日当たりも良いだろう。もう少し早ければ、背景に月があって、風流だったかもしれない。

 月が好きかと問われれば、別に、と答える。毎夜まいよいろどりを変えて有頂天に昇る在り方へ、尊敬の念を覚える事もあれば、一抹のはしたなさを感じる事もある。

 そもそも貴女、発していらっしゃるその後光は、噂によれば太陽の光だという話じゃあありませんか。まるで虎の威を借る狐。もしくは、ぼくだ。

 遥か彼方の大昔、五体を千千ちぢに引き裂いて、神霊へと至ったのだとかいう何処ぞの誰か。その誰かさんの威光から生じ、現代のアスファルトにまで陰影を落とし続けるこの身としては、シンパシーを感じる部分が大いにある。それ故に抱く、同族嫌悪の感も又、認めざるを得ない。きっと日向さんも似たようなものだ。

 振り向けば、日向さんはぽっかりと口を開けて、青褪めた空を見つめていた。とうとう行き着いてしまったのだ、という、後には退けぬ悔恨が瞳に浮かんでいて、肩をゆすってみても動かない。死後硬直かな、やれやれ。

「そんじゃまぁ」

 行きますか、と。

 立ち上がり、微動だにしない日向さんを引き摺って、自動ドアを抜ける。エントランスは思ったより広い。入口から真正面、何やら掲示物の張られた太い円柱の脇、厚い防護ガラスの向こうから、監視カメラがこちらを睥睨している。

 ひらひら手を振ってしばらく、フロアタイルを蹴る忙しない靴音。自動ドアが開き、壮年の警備員が声を上げた。

「おやまぁ。どうしたんだい、たたりちゃん」

「うぃっす」

 ちょいと祟りに。ぼくがそう言うと、警備員は「はぁ、そうかい」と頷いて、考える風に腕を組む。

「何処だい?」

「五〇五号室。袖付そでつき青空そらさん、だったかな」

「ん。ちょお待っとって」

 旧世代の携帯電話を取り出し、何処かへ連絡を取る警備員。

「あぁうん、私だけど。祟りだわ。そうそう、来てんのよ」

 言いつつ、ぼくの方を見て、空いた片手の人差し指を立てて、くるくる回す。問題なし、のジェスチャー。

 ぼくは小さな会釈を返し、エレベータへ向かった。

 背後から再び声が掛かる。

「手伝おうか?」

 日向さんを指差す警備員。

「だいじょぶっす、行けます」

 言って、サムズアップ。六階のボタンを押すと、機械的なアナウンスが閉鎖の注意を促す。徐々にしまるドアの先、苦虫を噛み潰したような顔が呟いた。

「掃除が大変だな、こりゃあ」

 それはまぁ……うん。ごめんなさい。

 胸中で頭を下げつつ、大きな姿見の鏡へ背中を預ける。目を閉じれば、静かな駆動音がぼくの身を包んだ。普段は関知しない重力、引力の存在が、これみよがしに主張を始める。

 苦手だ。昇っているのに、奈落へと沈んでいるかのような独特の浮遊感。嗚呼、ぼくは生きているんだな、と改めて自覚をさせられる。

 されども重力がなければ、ぼくは数秒後、天井に頭をぶつけて頸椎損傷故に即死と相成るわけでありまして。感謝こそすれど不満は無い。然しながら、不快なのである。黒子くろこが舞台で大見得を切り始めたら、誰だって眉を潜めるだろう。

「きっと、そういうワケなんだよ」

 キン、とベルの音。

 目を開く。

 折れた黒檀の木刀。じんじんと手の平に残響する感触。

 新鮮な思い出の淵から帰還を果たしたぼくは、割れた窓ガラスが散らばる部屋の隅に倒れ伏す、彼女を眺めた。

 ハァ、ハァと息を切らし、蠕動する姿は血塗ちまみれだ。ベランダから押し入りを果たした侵入者に対しても温和な笑みを浮かべていた、気丈な態度の面影もない。

 もしも昼間の交差点で、通りすがりに友人と談笑をしながら歩く彼女の横顔を見たならば、ぼくでも刹那に見つめたかもしれない。そんな、ありもしない可能性を脳裏に浮かべてしまうくらいには整った顔立ちも、こうなってしまっては意味が無かった。

 彼女、袖付そでつき青空そらの腕には、赤く染まった白無垢が抱かれている。

 日向さん——否、かつ狐森きつねもり日向ひなたと記号の振られていた肉塊の成れの果て。

 密着した二人の身体、その境界は赤く曖昧で、どこからがどちらで、どこまでが誰なのか、よく分からない。まるでキメラの失敗作だ。

「のぼせたのかい、袖付そでつき

 問いつつ、木刀を捨てる。ホルスターからナイフを引き抜けば、拭き残した夜叉の血が、妖しく光を反射した。

「部外者を使う。そのアイデアは悪くなかったと思うけどね」

 本当にそう思う。如何いかんせん、血族の監視とネットワークは優れていても、その他への認識が甘いのが首塚の伝統ともいえる悪癖だ。

 事実、狐森日向の狂言に、ぼくはまんまとおびき出された。事前に式神のリークが無ければ、物言わぬ土くれと化していたのはぼくだったかもしれない。

 曰く、我が姉に叛意あり、と。

 普段はサングラスで隠した鋭い眼差しが、哀愁を伴って語った言葉を思い出す。

『女を使うつもりかもしれねぇ』

 馬鹿が付くほど正直な女を騙し、夜叉へ、鉄砲玉へと仕立て上げた。

 何と言って唆したのだろう。想像すれば——二人が一緒になるには、それしかない……といったところだろうか。

 外道に落ちたとて宿痾しゅくあに抗い、脱却せんと策略を張り巡らすその意気やよし。

 けれど、杜撰ずさんだ。

 首塚たたりを滅ぼす事を、根絶を切に望むならば、今回の手はあまりにも確実性に欠けている。ぼくの気が向かなければ、山中深くに一体の人形が飾られるだけだったのだから。

 何も起こらなければ当然。上手くいけば僥倖ぎょうこう。これではまるで、未必の故意だ。

「そんなんじゃ、ありませんよ」

 虫の息を溢しながら、彼女は言う。

「ただ少し、身の回りの世間に、嫌気が差した。それ、だけの事」

 芋虫のように身体をよじり、壁を頼りに上体を起こす。虚ろな瞳を腕に抱く女に向けて、さも愛おしげにその髪を撫でる。

「上手くいこうが、失敗しようが、どちらでもよかった」

 だって、と。

「こうして私達は、一緒になれたんだから」

「……」

 笑顔。

 実に満足といった風の、屈託のない笑顔。

 苦痛に歪み、朦朧とした意識で尚も笑う彼女の綺麗は、ぼくの目にも明らかであり、故にぼくは思うのだった。

 本当に、まったく。

「たかが末端の、色情恋慕の一つや二つに、目くじらを立てるぼくだと思うてか」

「え」

 予想の範疇にない言葉だったらしく、彼女は唖然と口を開けた。眠りに就いた誰かにそっくりな表情は、どちらかに似たのか、最初から似ていたのか。分からないけれど。

「青空さん。君はきっと、思っていたんだよね」

「ぁ……」

「くだらない、て」

 その見開いた琥珀に映る、因習の鎖に辟易としていたのだろう。

 くだらない。首塚たたりの怨念などと、くだらないものである、と——それならば、そのようにくだらないものを、重く見るべきではなかった。もっと軽く見てもよかったのだ。

「それならば、そうだと、言ってしまえばよかったのにさ」

 たとえば宗家の小娘に一言、自由になりたい、自由になって一緒になりたい人がいる、と。

 最初は利用するつもりでも、縁が続けば情も湧く。

 駄目で元々その旨を、言ってみればよかった。

「どっちでもよかった、て言うくらいなら、どうして自分が試そうとしなかったのさ?」

「……あァ」

 気に障った者を殺す。それが祟りだ。

 逆に言えば、気に入った者にはそれなりの恩情を与える。それがぼくだ。

 完全に解き放つ事は出来ずとも、それでも、やりようは幾らかあった。事が起きる前に言ってくれれば……嗚呼、これは又、別の話でもあるのだけれど。

 彼女よりも、誰よりも、こんな事はくだらないと思っているのが誰なのか。

 その事に、今の今、ぼくの目を見るまで思い至らなかったのは、きっと彼女が愚直過ぎたからなのであろう。

 血族の咎、血族の使命。くだらないものを、誰よりも重く見てしまったのは彼女自身の盲目が故だ。

 だから、ぼくは思うのだ。

 本当に、まったく、と。

「どいつもこいつも、どうしてこうも」

 どうして間違いを、間違いであると心のうちで知っておきながら、正しいとしてしまうのか。

 例えばぼくに漏らしていれば。

 例えば兄弟に、語っていれば。

 例えば愛しい人に、真実を語っていれば。

 何かが変わっていた筈なのに。

 昔、或る男が親友に言いかけたらしい。

 世間とは君じゃないか、と。言いかけ、口を噤んだらしい。

 さも然り。世間とは、結局のところ、個人である。その話を思い出す度、ぼくはしきりに思うのだ。

 たった一人の一言で、社会は変えられずとも、個人ならば変えられもしよう。変え難いのは、いつだって己に他ならない。

 無論、世間は非情である。いつだって報われるとは限らないし、墓場まで定められた道筋を、黙して歩かねばならない人もあるだろう。

 ——でもそれってさ、本当に君なのかい?

 その問に気付ければよかった。けれど彼女は、気付けなかった。だから、こんな所まで来てしまった。

 然様さように己の勘違いに気付き、今さら恋人の亡骸に詫びて、泣き喚いたところで。ぼくにはもう、刃を振りかざす事しか出来ないというのに。




———






「愉しい夜にならなかったぜ」

 欠伸あくびを一つ、背伸びを一つ。

 薄明の空をぼんやりと眺めながら、ぼくは悪態を吐いた。

 未だ街は静かだ。朝霜で濡れた路上を、鳩の集団が我が物顔で闊歩している。

 そういえば、鳩は巣作りが壊滅的に下手なのだと、聞いた事がある。酷いヤツだと枝を二、三本、土の上に並べただけの物もあるのだとか。

 それはもう巣じゃない。『枝を重ねたヤツ』だ。

「たたりちゃん」

 どうでもいい事を考えていると、彼方から声が掛かる。振り向けば、金髪が居た。

 サングラスはしておらず、琥珀色の目付きがそこにある。日が出たら外すんですか。もうサングラスじゃないじゃん、それ。ムーングラスじゃん。ちょっとかっこいいな、ムーングラス。

「終わったん?」

 ポップな調子で問いながら、先刻と同じように手を挙げる金髪。もうダッシュする気力は残っていなかったので、ぼくも軽めに片手を挙げて応じる。少し遠く、マンションの入り口で、角刈りと警備員が何やら話し込んでいた。

「うん。終わった」

「そか」

「そです」

 不自然な沈黙。言葉に迷っているのか、金髪の顔色はぎこちない。こういう雰囲気は、エレベータよりも苦手なぼくである。

「あのさ」

「謝っといて」

 意を決したかのように切り出された言葉を遮り、刀を振り回す仕草で台詞を続ける。

「借りてたやつ、壊しちゃったから」

「あ、あぁ。了解」

 頷く金髪。見届け、ぼくは二度目の欠伸と共に、その場へ背を向けた。仕事が終わったら即時撤収。残業手当も付かないし、長居は無用である。

「な、なぁ」

「ん」

 呼び止められた。

 なんだよなんだよ。ちょっとクールな感じで去らせてちょうだいよ。

 思いつつ、不満と眠気で重くなったまぶたに力を入れる。天を仰ぐように頭をもたげ、逆さまの視界に彼奴きゃつを今一度、捉える。

「あの人も、やったんか?」

「あの人……あぁ」

 たぶん、日向さんの事だろうけれど、どうして気になるのだろう。気になるものなのかな。

 お家の呪縛を逃れんとした姉の、恋人たる女性。弟からしてみれば、姉に騙された哀れな被害者、同情の余地もあるという事なのか。

 けれど不思議だ。姉と、狐森日向について調べ上げ、その事をぼくに報告していた時の此奴こやつは、眉一つ動かさなかった筈である。

 袖付青空がぼくを殺そうと目論んでいる事。

 その為の駒として、当時付き合っていた男の浮気相手を手籠めにし、恋人関係を結んだ事。

 二人暮らしをしていた事。

 女が、妊娠していたらしい事。

 元恋人の男が、現在は失踪して捜索願が出されている事。

 流産したのだとの事。

 心中自殺の名所にて、二人の姿が目撃された事。

 けれどもしかし、生きて何やら画策している事。

 よくもまぁ、必要以上に調べ尽くしたものだと呆れていたけれど、それも又、何らかの思念の表れだったのだろうか。

「うん。やったよ」

 混濁したファーストコンタクトとは違い、背を見せる標的ぼくへと決死の奇襲を図った彼女には正真正銘、鬼気迫るものがあった。

 けれど、いずれ来るとさえ分かっていれば造作もない。対処にはそれほど困らなかった。木槌と木刀とでは、リーチの差があり過ぎる。

 一刀のもとに終わらせられれば格好良かったのだけれど。明日から剣術の練習を増やしてみようかな……面倒くさいから別にいいか。

「お姉さんと一緒に置いてあるから、適当にしといて」

 素っ気なく答えると、金髪はまた「そっか」とだけ呟き、黙り込んだ。

 あーあ、もう。だから苦手なんだってば、こういう空気。

「ありがとな、たたりちゃん」

 お礼を言われた。何故なにゆえ

「え、なに。こわい」

 思ったままの感想を吐き出すと、金髪は「いや、いいんだ」と首を振った。

「おやすみ、たたりちゃん」

 ムーングラスを掛け直し、ニカッと笑う金髪。

「なんかムカつく」

「なんでよ」

 分からない。

 分からないけれど、自分でもどうかと思うくらい力がみなぎってきたぼくは、わざとらしい顔面へと飛び膝蹴りを喰らわせた。

 倒れ伏す金髪。遠くからぎょっとした風にこちらを見ている警備員。

 うずくまる金髪。大声を出して駆け寄ってくる角刈り。

 泣く金髪。飛び立つ鳩の群れ。後には残るものだけが残っている。

 清々としたぼくは息を吐き、青空の晴れ渡る日向の帰路を歩くのだった。

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首塚たたりの世迷言 @yonakahikari

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