西晉統治下の交州④
陸機の「贈顧交阯公真」はどう解すべきであるのか。これにはいくつかの可能性が考えられる。
先ず、作者が陸機(陸士衡)ではない可能性である。これは文体などから考察する他なく、検証し難いが、陸機の從祖兄陸曄(字士光)やその弟陸玩(字士瑤)などが作者であれば永嘉以降も存命である。しかし、陸曄・陸玩の文は『文選』に収録されておらず、可能性は低い。
次に、「顧交阯公真」が「交州刺史顧祕」ではないという可能性である。そもそも、「交阯」であって「交州」ではない。交阯は交州の旧称で、その改称の時期には諸説あるが、『晉書』地理志では「建安八年、張津爲(交阯)刺史、士燮爲交阯太守、共表立爲州、乃拜津爲交州牧。」と見え、建安八年(203)以降に「交阯刺史」が「交州牧」に改められている。これ以降、吳・晉を通じて「交州」とされている。
從って、一種の雅称・略称として、交州刺史を「交阯」と呼んでいるのであって、「交阯」顧公真が『晉百官名』に見える「交州刺史顧祕、字公真」とする事に無理はない。
ただ、交阯は地理志に「士燮爲交阯太守」ともある様に、郡でもあり、「交阯太守」も「交阯」と略称されるであろう。顧氏では泰始五年(268)に鬱林を攻めた「吳將顧容」(荊州刺史)や、交州に徙され、その地(交阯)で死去した顧譚・顧承兄弟(顧雍孫)など、交州に関わりのある人物を確認できる。
その何れかが「顧公真」であるとも考えられる。しかし、『晉百官名』の「字公真」に從えば、顧祕が「顧公真」であり、一方、顧祕の前歴は不明であるので、交阯太守となった可能性も否定できない。
当然ながら、顧祕が交阯太守と為ったとすれば、交州刺史以前であり、太安二年(303)の(前)吳興內史以前である可能性が高い。從って、陸機の生前に「顧交阯(太守)公真」に詩文を贈る事が可能となる。但し、これは顧祕の前歴が不明である以上、確証は得られない。
次いで、「顧交阯公真」は「交州刺史顧祕」であるが、「贈顧交阯公真」は交州刺史たる顧祕に対して贈られたものではないという可能性がある。と言うのも、『文選』で直後に載録されている「贈從兄車騎」は注で「集云:陸士光」とあり、陸曄(字士光)に対して贈られたものとされている。確かに陸機の「從兄」で「車騎」と呼べる人物は、正確には從祖兄で、且つ同年生まれだが、陸曄しか該当しない。
しかし、陸曄が「車騎」となったのは、咸和九年(334)九月のその死後に、「追贈侍中・車騎大將軍(陸曄傳)」とされた時点であり、当然ながら陸機の死後である。從って、この「贈從兄車騎」という題辞は陸機自身が付けたのではなく、『文選』載録時、或いはその原資料の段階で付けられたものである。
「贈顧交阯公真」も同様であれば、(後に)交州刺史で終わった顧公真(顧祕)に贈ったという意味しかない事になる。但し、「贈顧交阯公真」はその本文として、「發跡翼藩后、改授撫南裔。」とあり、その注には「藩后、吳王也。顧氏譜曰:祕爲吳王郎中令。南裔、謂交阯也。」とある。
更に続けて、「伐鼓五嶺表、揚旌萬里外。」ともあり、「五嶺」は荊州と廣州(交州北)を隔てる境界であるから、顧祕が廣州以南、つまり交阯に向かったのは間違いない。從って、「贈顧交阯公真」は現に「交阯」となった顧公真(顧祕)に贈られたという事になる。
以上を考え合わせれば、顧祕は太安二年(303)以前に「交阯」(交州刺史)となっている蓋然性が高いが、「交阯」が交阯太守である可能性も否定はできないという結論になる。後者であれば、『華陽國志』の記事との矛盾は解消されるが、前者であれば、『華陽國志』に誤りがあるという事になる。
そこで、『華陽國志』南中志の誤りの可能性を検証する。
李毅卒後の寧州の情勢については、王遜傳にも「惠帝末、西南夷叛、寧州刺史李毅卒、城中百餘人奉毅女固守經年。」とあり、永嘉四年(310)と続くように、『晉書』が『華陽國志』に依拠した可能性はあるが、記年に誤りは考え難い。
また、太安二年(303)以前では、同年の荊州における「張昌之亂」、永康元年(300)末以来の益州における趙廞・李特・李流と続く寇乱があるが、寧州への道が途絶する程の事態にはまだ至っておらず、李毅卒後の情勢とは一致しない。
そもそも、「寧州」は泰始七年(271)に益州から分立されているが、太康三年(282)に廃され、益州に戻されている。以来、南夷校尉の管轄とされていた同地域が再度、「寧州」として再置されたのが、太安二年(303)である。
『華陽國志』では、この時(同年十一月)、(南夷)校尉李毅が刺史とされたとある。但し、原文では「毅」字は脱落している。ともあれ、李毅卒後の寧州に関する南中志の記事が、永嘉初頭のものである事は間違いない。
しかし、「交州刺史吾彥、遣子威遠將軍咨以援之。」という文が、誤った位置に竄入しているという可能性が考えられる。
南中志に依れば、寧州では、太安元年(302)秋に建寧太守杜俊・朱提太守雍約の非法により、鐵官令毛詵・中郎李叡、及びこれに応じた太中大夫李猛等が叛し、李毅はこれを討伐している。その間に寧州の再置が入るが、乱の余波は太安二年(303)に及び、最終的には、それが光熙元年(306)の李毅の死まで続く。
吾彥が子の威遠將軍吾咨を派遣したのが、この太安元年(302)の毛詵・李叡の叛の際の援軍としてであり、それと前後して、「自ら表して代わるを求」めていれば、同年中に顧祕が任じられ、陸機が「贈顧交阯公真」を作る事が可能となる。
この場合、吾彥の卒年は太安元年或いは翌太安二年頃となり、「在鎮二十餘年」は「十餘年」或いは太康初からの「在(諸)鎮」という事になる。結局のところ、陶璜傳・吾彥傳双方に誤記を想定する事にはなる。
現時点では史料の関係上、これ以上の考察は不可能であるが、一応の結論としては、太康年間(280~289)は陶璜、元康年間(291~299)は吾彥が刺史であり、太安年間(302~304)又は永嘉(307~312)初に顧祕が代わる。永嘉末の顧祕の卒後に、顧參・顧壽が相次いで州事を領した後、陶威が迎立され、建興(313~317)末に王機が刺史を求め、太興年間(318~321)に刺史と為った王諒が太寧元年(323)に殺害された。
以上が、西晉(一部東晉含む)時期の交州刺史という事になる。
なお、『梁書』諸夷傳林邑國条に「穆帝永和三年、臺遣夏侯覽爲太守、侵刻尤甚。林邑先無田土、貪日南地肥沃、常欲略有之、至是、因民之怨、遂舉兵襲日南、殺覽、以其屍祭天。留日南三年、乃還林邑。交州刺史朱藩後遣督護劉雄戍日南、文復屠滅之。進寇九德郡、殘害吏民。遣使告藩、願以日南北境橫山爲界、藩不許、又遣督護陶緩・李衢討之。文歸林邑、尋復屯日南。五年、文死、子佛立、猶屯日南。」と、永和三年(347)の交州刺史朱藩の下に「督護陶緩」なる人物が見える。
この陶緩について、校勘記では「緩」は「綏」の誤りで、陶綏であろうとする。この時点で督護という事は、交州刺史と為るのは、更に後年という事になる。陶璜の死から約六十年後という事で、孫が交州刺史となるのは、一応妥当と言うべきだろうか。
「六朝」四方山話 灰人 @Hainto
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