西晉統治下の交州③

 陶璜傳の検討から、陶璜が「在南三十年」であると、吾彥以下の在任期間が殆ど無い事になる。そこで、吾彥傳の記述を確認すると、その末尾に以下の如くある。


 初、陶璜之死也、九真戍兵作亂、逐其太守、九真賊帥趙祉圍郡城、彥悉討平之。、威恩宣著、南州寧靖。


 「在鎮二十餘年」で自ら代わる事を求め、大長秋として召還され、卒した。「卒於官」を大長秋で卒したととると、陶璜傳の「彥卒、又以員外散騎常侍顧祕代彥。」と符合しないかに見えるが、「徵」されても、「拜」する以前に現地で死去していれば、矛盾とは言えない。

 問題は、「在鎮二十餘年」である。陶璜の卒年と推定される永寧元年(301)頃から「二十餘年」では、太興四年(321)以降となり、王諒任命の時期となってしまう。逆に、太安二年(303)から「二十餘年」遡ると「餘」の期間にもよるが、「伐吳」の太康元年(280)に至ってしまう。


 吾彥はその傳(卷五十七)に依れば、「吳亡」後に金城太守と為り、更に敦煌太守、雁門太守、順陽內史、員外散騎常侍と転任している。仮に一年ずつの任期であったとしても、員外散騎常侍から交州刺史となるのは太康五年(284)であり、「在鎮二十餘年」では太安三年(304)以降となってしまう。

 また、金城は雍州(秦州)の西端、敦煌は更に西の涼州の西端であり、雁門も并州の北端である。敦煌太守としては「威恩甚著」と、実際に赴任しており、移動に要する期間も考慮すれば任期が一年とは考え難い。

 また、順陽內史は順陽(王)國の長だが、「時順陽王暢驕縱、前後內史皆誣之以罪。及彥爲順陽內史、彥清身率下、威刑嚴肅、眾皆畏懼。暢不能誣、乃更薦之、冀其去職。」とある様に、当時の順陽王は司馬暢であり、扶風王駿の子である。

 彼が順陽王であるのは、武帝紀の太康十年(289)十一月条に「徙扶風王暢爲順陽王」とあり、太康十年(289)十一月以降である。つまり、吾彥が順陽內史と為ったのはこれ以降である。しかも、「前後內史 皆な之を誣して以て罪とす」とある様に、吾彥以前に数人の內史が存在しているので、早くとも元康(291~299)初年と推定される。

 「前後內史」を順陽王に徙される以前の扶風王時代からとすれば、吾彥の順陽內史就任を太康十年とする事もできるが、その場合でも、吾彥が員外散騎常侍を経て、交州刺史と為るのは、元康元年(291)以降となるだろう。


 仮に吾彥の交州刺史就任を元康元年(291)とすると、「在鎮二十餘年」では、永嘉五年(311)以降となり、太安二年(303)を越え、顧祕の死亡時期に近接してしまう。「二十餘年」が「十餘年」の誤りであったとすれば、永寧元年(301)以降となり、太安二年までに顧祕が吾彥に代わる事が可能ではある。

 但し、陶璜と同様、「十」が「二十(廿)」となる誤記はやや想定し難い。また、「在鎮」が交州のみではなく、それ以前の金城以下の太守を含んだ、前後「鎮に在ること二十餘年」とすれば、員外散騎常侍が挟まるとは言え、一応、太康初から「二十餘年」で太安二年以前となる。


 以上のように、数年の誤差はあるが、陶璜の卒年が永寧元年(301)頃とされる一方で、吾彥の就任は元康元年(291)頃では、明らかに両立できない。これは陶璜の「在南三十年」が「二十年」の誤記であれば、卒年が元康元年頃に繰り上がり、一応矛盾は解消される。

 また、「三十年」が倒置しており「十三年」であれば、太康元年(280)から「十三年」で元康三年(293)となり、やや繰り下がるが、吾彥の就任想定時期としては妥当になる。

 但し、この場合、陶璜傳に「三十年」、吾彥傳に「二十年」の誤記という二つの誤りを想定する事になる。なお、陶璜の父陶基も交州刺史であり、陶璜が父に從って交州にあれば、その時点から「在南」として、吳の永安四年(261)頃から「三十年」で元康元年頃と見做す事も可能ではある。

 何れにしても、基本的に陶璜傳・吾彥傳双方に誤記を想定しなければ、矛盾は解消されない。吾彥の交州刺史補任は同傳の記述から元康以前に繰り上げ難いので、陶璜傳については誤記、或いは、吳の建衡年間(269~271)以前からの「在南」とする他ないと思われる。


 一方、吾彥の「在鎮二十餘年」については『華陽國志』南中志に以下の如き記述がある。


 。子釗任洛、還赴。到牂柯、路塞。停住交州。文武以毅女秀明達有父才、遂奉領州事。秀初適漢嘉太守廣漢王載。載將家避地在南、故共推之、又以載領南夷龍驤參軍。……。丁喪、文武復逼釗領州府事。毅故吏毛孟等詣洛求救、至欲自刎、懷帝乃下交州、使救助之。以釗爲平寇將軍、領南夷護軍。遣御史趙濤、贈毅少府、諡曰威侯。


 惠帝末の寧州(益州南部;雲南)の情勢を述べた部分で、「毅」とあるのは南夷校尉李毅(廣漢人)である。光熙元年(306)三月に李毅が死去し、子の李釗は上洛していたが、各地の戦乱により路を塞がれ、交州から寧州に入る事ができず、州の「文武(官)」は李毅の女李秀を奉じて「領州事」と為す。

 「首尾三年」で李釗が帰還を果たすと、「文武(官)」は李釗に逼り「領州府事」とすると倶に、洛陽に使者を送り、救助を求める。懷帝は李釗を平寇將軍・領南夷護軍とし、更に御史趙濤を派遣して、李毅に追贈・追諡を行う。

 この際、交州刺史吾彥が子の吾咨を派遣してこれを援けたと云う。また、朝廷は後任の南夷校尉・寧州刺史として王遜を任じ、王遜は永嘉元年(307)に除せられ、四年(310)に至って漸く寧州に赴任している。


 事がやや錯綜しているが、光熙元年(306)の李毅死去を受けて、翌永嘉元年(307)に王遜を後任とするが、戦乱で赴任できず、州は李秀、次いで李釗に州事を領させている。

 李釗の帰還は「三年」と云うので、永嘉二年(308)以降であり、当然、それ以下の記事もそれ以降となる。從って、吾咨が援けたのは趙濤のみではなく、王遜の入寧州も含んでいるのだろう。

 王遜傳(卷八十一)には、「永嘉四年、治中毛孟詣京師求刺史、不見省。……遜與孟倶行、道遇寇賊、踰年乃至。」とあり、永嘉四年(310)に毛孟が上洛し、「踰年」して至るとあるので、五年(311)に赴任した事になる。一年のずれはあるものの、永嘉四年(310)前後に「交州刺史吾彥」が存命である事が確認できる。

 この記事は明らかに、陸機の「贈顧交阯公真」と矛盾する。一方で、永嘉四年(310)前後まで吾彥が存命であれば、元康初年から「二十餘年」であり、吾彥傳の誤記はない事になる。永嘉末という顧祕の想定卒年に近接してしまうが、顧祕は刺史としての事績に乏しく、赴任後程無く死去したとしても、一応、問題は無い。

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