西晉統治下の交州②

 陶璜傳の記述の下限が建興三年(315)前後と推定した上で、再び帝紀に戻ると、陶璜傳の八名中、平吳以降で帝紀に名が見えるのは、顧祕のみである。


 惠帝紀太安二年(303)十二月条に「丙寅、揚州秀才周玘・前南平內史王矩・前吳興內史顧祕起義軍以討石冰。」とあり、これは翌三年正月である可能性もあるのだが、少なくとも、太安二年末の時点で顧祕が「前吳興內史」(周玘傳・賀循傳・葛洪傳:無「前」)として、揚州に在った事が確認できる。

 從って、顧祕が員外散騎常侍から交州刺史として、「(吾)彥に代」わったのは同年以降となる。当然ながら、顧祕の死後、その子である顧參・顧壽を経て、陶威が迎立されるのも、それ以降で、推定との矛盾はない。


 顧祕の子である顧眾の傳には、「、命爲參軍。、封東鄉侯、辟丞相掾。。眾往交州迎喪、。祕曾蒞吳興、吳興義故以眾經離寇難、共遺錢二百萬、一無所受。、徵拜駙馬都尉・奉朝請、轉尚書郎。」とある。


 元帝(司馬睿)が鎮東(大)將軍と為ったのは、永嘉五年(311)五月であり、建興元年(313)五月に「侍中・左丞相・大都督陝東諸軍事」と為るまでその地位にある。「討華軼」は懷帝紀に期日が見えず、時期が確定できないが、顧眾が「丞相掾」とされたのは、司馬睿が左丞相となった建興元年(313)五月以降の筈である。

 「杜弢之亂」は永嘉元年(307)正月の「湘州流人杜弢據長沙反」から、建興三年(315)八月の「荊州刺史陶侃攻杜弢、弢敗走、道死、湘州平。」までであり、「(元)帝踐阼」の建武二年(318)三月までの期間に当たる。「迎喪」の為に交州に向かった顧眾が「崎嶇六年乃ち還」るというのであるから、その出発は建興元年(313)となる。

 從って、顧眾は丞相掾と為って程無く、交州へ向かった事になる。但し、「徵されて駙馬都尉・奉朝請を拜」したのが践阼と同時とは限らない。

 しかし、彼はこの後、「大將軍王敦請爲從事中郎、上補南康太守。會詔除鄱陽太守、加廣武將軍。」と、王敦の從事中郎と為っているが、これは永昌元年(322)正月の「(王)敦構逆」以前であるから、時期に大きなずれはない。

 從って、顧祕の死は建興元年(313)頃、伝達の期間を考慮すれば、その前年永嘉六年(312)以前という可能性もあるが、概ね永嘉末である。


 顧祕の死が建興元年以前であれば、陶威の迎立が建興元年から三年年頃という推定と矛盾しない。永嘉末に顧祕が卒し、建興元年から三年までの間に、「州人 祕が子 參に逼りて州事を領せしめ、參 ついで卒し、參が弟 壽 州を領すを求め、州人 聽さずも、固く之を求め、遂に州を領す」という事態が生じていた事になる。

 更に、梁碩が「兵を起して壽を討ち、之を禽へ、壽が母に付し、之を鴆殺せむ」も、ほぼ同時に起こっているだろう。從って、顧祕が卒して一年餘の間に、顧參も卒し、顧壽は殺害され、顧眾は父だけではなく、兄弟二人の葬列も伴う事になったのではないか。

 なお、「壽母」が顧眾の生母であるかは不明だが、顧眾は「咸康末」以降、建元二年(344)九月の穆帝即位以前に「以母憂去職」とあるので、顧眾の母は咸康年間(335~342)の末に死去している。

 また、顧眾が父に随行していないのは、伯父の繼嗣となっていた故であろう。彼の字は「長始」であり、長子を思わせるが、伯父の繼嗣となっているが故に、そうした字になっているのかもしれない。

 その彼が実父の「迎喪」に向かったのは、顧參・顧壽が既に死去していたから、という可能性もある。


 以上から、顧祕の卒年は永嘉末(312)以前と推定されるが、その赴任の時期は不明で、『晉書』中にそれを確定できる記事は見えない。そこで他書にそれを求めれば、『文選』卷第二十四(贈答二)に陸機の「贈顧交阯公真」が収録されている。

 その注に『晉百官名』を引いて「交州刺史顧祕、字公真。」とあり、「顧交阯公真」は「交州刺史顧祕」、そして、その就任はこの文が作成された時点以前という事になる。しかし、この文自体に時期を特定する材料はない。

 ただ、当然ながら、この文が作成されたのは作者(陸機)の生前であり、陸機は太安二年(303)、「八王の乱」の過程で殺害されている。從って、「顧交阯公真」は太安二年以前にその地位に就いていなければならない。仮に太安二年の任命とすると、永嘉末まで十年近くに亘って、その任にあった事になる。


 顧祕の交州刺史就任を太安年間(302~304)以前とする事に問題は無いかに見えるが、ここで、そもそもの陶璜傳の記述に戻る。

 同傳には、陶璜は「在南三十年」の後に卒したとある。この「在南」が「平吳」以後に陶璜が「其の本職に復」せられた時点、太康年間(280~289)以降であるとすると、「三十年」後は永嘉四年(310)以降となり、顧祕の想定卒年に近接する。

 その場合、吾彥・顧祕が交州刺史に就任する余地が無い、或いは、これまでの推定が全て誤っている事になる。

 これは「三十」が「二十」或いは「十」の誤記とすれば、永康元年(300)又は永熙元年(290)となり、永嘉末までに十年乃至二十年余の隔たりができ、その間に吾彥・顧祕の統治が入る事ができる。

 但し、「二」が「三」となる誤りは兎も角、「十」が「二十(廿)」・「三十(卅)」となるのはやや想定し難い。有り得るのは、前者「二十年」の誤りであろう。ただ、陶璜は吳においても交州刺史であり、「在南三十年」の起点はその時点からとも考えられる。そこで、陶璜と交州の関わりをその傳から確認すれば、以下の如くである。


 、交阯太守孫諝貪暴、爲百姓所患。會察戰鄧荀至、擅調孔雀三千頭、遣送秣陵、既苦遠役、咸思爲亂。。武帝拜興安南將軍・交阯太守。、帝更以建寧爨谷爲交阯太守。西、與將軍毛炅、九真太守董元、牙門孟幹・孟通・李松・王業・爨能等、自蜀出交阯、破吳軍於古城、、戰于分水。璜敗、退保合浦、亡其二將。……璜夜以數百兵襲董元、獲其寶物、船載而歸、珝乃謝之、、爲前部督。璜從海道出於不意、徑至交阯、元距之。……、大破元等。……。(陶璜傳)


 冒頭に「孫晧時」とあるが、孫晧の即位は永安七年(264)七月であり、呂興が孫諝を殺した事は吳志(孫休)の永安六年(263)五月に「交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。」として見え、厳密には「孫休時」である。ただ、以下は「孫晧時」となる。

 呂興が功曹李統に殺され、武帝(晉)によって派遣された交阯太守爨谷が死し、馬融がこれに代わったのは、『華陽國志』南中志に「泰始元年、谷等逕至郡、撫和初附。無幾、谷卒。晉更用馬忠子融代谷。」とあり、泰始元年(265)頃の事である。

 続く馬融卒後に楊稷が代わり、將軍毛炅等と共に「(吳の)大都督脩則・交州刺史劉俊を斬」ったのは王諒に関連して見たように、泰始五年(268)十月の「吳將顧容寇鬱林、太守毛炅大破之、斬其交州刺史劉俊・將軍修則。」に当たる。


 これに対して、吳が虞汜を監軍、薛珝を威南將軍・大都督とし、陶璜が蒼梧太守として楊稷と戦ったのが、吳志(孫晧)の建衡元年(269)十一月「遣監軍虞汜・威南將軍薛珝・蒼梧太守陶璜由荊州、監軍李勖・督軍徐存從建安海道、皆就合浦擊交阯。」である。ここで「分水」に敗れた陶璜が「數百兵を以て董元を襲」い帰還した事で「領交州」とされている。

 その後を武帝紀に見れば、泰始七年(271)四月に「九真太守董元爲吳將虞氾所攻、軍敗、死之。」、同年七月に「吳將陶璜等圍交趾、太守楊稷與鬱林太守毛炅及日南等三郡降於吳。」とあり、これが「(薛)珝・(陶)璜遂に交阯を陷」すに当たる。吳志にも建衡三年(271)に「是歲、汜・璜破交阯、禽殺晉所置守將、九真・日南皆還屬。」とあり、これに因り、陶璜は交州刺史に任じられている。

 後に交州牧とされるが、この泰始七年(271)、吳の建衡三年が陶璜の「在南」の起点となる。或いはそれ以前の「領交州」時点、更には蒼梧太守と為った時点という可能性もあるが、これは建衡元年(269)であり、誤差の範囲と言える。


 泰始七年(271)から「三十年」であれば、陶璜の卒年は永寧元年(301)頃となる。しかし、永寧元年では陸機卒の太安二年(303)まで二年しかなく、起点が建衡元年(269)であっても四年であり、吾彥・顧祕の任命が数年の間に連続する事になる。

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