下 連続性の無い思考と回想、もしくは夢

 目覚めた時、起きる理由は見つからなかった。コウノトリの鳥葬は、私でキビヤックの真似事をしようとしていた。腹をさすり、その大きさを確認する。腫瘍は日に日に肥大化していた。

 気怠い体を起こし、個室に付けられた時計は六時過ぎを指していた。恐らく、私は半日以上寝ていたのだろう。そう思うと、なんだか一日を無駄に消費したみたいな気持ちになってしまった。もっとも、今の私の人生そのものが時間を浪費しているのだが。

 会計を済ませ、外に出る。夕日は向こうに暮れ、ビルの奥から橙の残光を覗かせていた。振り向けば、闇がそこまで迫っていた。

 夢の再演を求めて来た町で、現実の再演を夢の中でするとは、なんとも皮肉なことだなと思いながら歩く。深呼吸をする。夜が肺を満たすことは無く、混ざった昼の残り香が私に不快感を与えた。

 昼は好きじゃない。昼は煩い。嫌なことをたくさん叫ぶから。

 夜は好き。夜は静か。何も言わず、何もせず、ただ私に寄り添ってくれるから。

 感傷に浸っていると、強い空腹を感じた。最後に食べたのは何だったか。ハンバーガーだろうか————いや、あれは吐いてしまった。ならその前、家で食べた昼ご飯、何気ない日常の一コマ、そんなありふれたご飯、それすら私は思い出すことが出来なかった。あれが最後の母の手料理になるだなんて、当時の私は思う由も無かっただろう。

 何か食べたい。腹が減ったから。何も食べたくない。きっと吐いてしまうから。そんな二律背反のような考えが頭を巡る。近くにある店は、ハンバーガーを始めとするファストフードか、マドレーヌのようなお洒落なお菓子だけだった。どれを選んでも、嫌なことを思い出すのは明白だった。

 繁華街は昨日と同じ様子だった。群生する立ちんぼの華は、どれだけ抜こうとまた生えてくる。根からしっかり抜かないと————そう言っても、根が腐っているんじゃ抜けやしないのだが。やっぱりツル植物は良くないものだ。そう思いながら通り過ぎる。でも、心のどこかでは、なんか、どうでも良かった。

 繁華街の中心へ歩みを向ける。そこに理由もなく、ただ走光性の赴くままに飛ぶ虫のように進んだ。

 奥に行けば行くほど光が強まり、建物が高くなり、空が狭くなっていく。星の光を街燈が掻き消して、燦燦と照らす。私の影は暗く、大きく伸びて、でも他の光に掻き消されて。

 通り過ぎる人の関心はスマホか異性にしかなくて、私に目を向けることはない。私はそこに居て、そこに居ない。そんな状況だった。

 なんとなく家のことを考えた。所持金は僅かだが、電車に乗って県境を越えることは出来そうだなと思った。でも、県境の川を越えるなら、そこに沈んで、三途の川を越えた方がいいんじゃないかと思った。

 死か、そんなことが頭に浮かぶ。初めてというわけではない。毎日ぽっと浮かんで、消えて、無意識に入り込む。日常と隣り合わせの影の手招き。その影は私だった。

 幼い私————顔が隠れてどんな表情か分からないそれは、私をどこかへ連れて行こうとしていた。

 それが幻影であるのは自明だった。しかし、私はその幻影に縋った。私には、先導者が必要だった。

 私の今までの人生は、親に導かれ、男に騙され、自分の意思や意見が反映されることはなかった。私は常に流されてきた。それは今もそうだった。

 私の前を跳ねる少女は、快活そのもので、年相応の元気さを見せていた。私に、あんな時代があっただろうか。いや、きっと無いだろう。あれは幻影、私の願望、非現実の結晶、そんなものだ。

 私は幻影を追った。その黒い体は、街灯の眼を焼く程の光に照らされても、姿を現すことも、光に掻き消されることも無かった。それは異質な存在であった。まるでブラックホール、光を吸い寄せて離さない、そんな感じのもの。

 それを追いながら、あれは何だろうという考察を始めた。あれは何だ。誰が作ったんだ。何のために。私が望んだのか。あの影を。そもそも、本当にあれは私そのものの生き写しなのか。

 私より少し小さいあの影は一直線に進まず、街路の全てに興味を向けているようだった。ある時、影は街でも随一のネオンライトの装飾が付いた建物に消えていった。建物の前に行く。何処かで見たことのあるような外見、周囲を見渡すと知った顔があった。

 なぎ————と思わず呟いた。彼の名だ。街灯の下で、スマホと戯れている。影が導いた先は、あの日行ったネバーランドだった。好奇心から、なぎさんの方へ向かった。「こんばんは」と声を掛ける。両耳にワイヤレスイヤホンを挿し込み、自分の世界に浸っていたなぎさんが、現実に引き戻されるまでには少々の時間がかかった。

 なぎさんがふと目線をスマホから外し、私の方を見た時、なぎさんは驚いたように短い声を出し、そして私の名前を小声で呟いた。

 イヤホンを外し、スマホと一緒にポケットにしまい、なぎさんは言った。「どちらですか」と。「どちら」とは私のことだろう。予測していた答えではあったが、いざ言われてみると、言葉にし難い負の感情が湧いてきた。でも、自分がこれから何をするかを考えれば、全てはどうでも良くなった。

 一度目を閉じ、呼吸をする。なぎさんが私を汚し、私の人生を今の状態にしたことは、まぎれもない事実であった。しかし、なぎさんが私の心を救っていた時期があったのも事実だった。感情の起伏をニュートラルに戻し、口を開く。

「貴方は私のことを忘れてしまったかも知れないけど、私は貴方のことを永遠に忘れないから。————ありがとう、そしてさよなら」

 そう言い残して、私はなぎさんの元から去った。私が伝えられる最後の言葉は彼に届いただろうか? 彼は呆けたまま、左手にイヤホンを握ったままだった。振り返れば、街灯の後ろに隠れた影が手を振っている気がした。その方へ向かい、再び影を追い始める。

 流石に深夜も三時になれば人は減ってきた。家に帰るか、漫画喫茶で時間を潰すか、またはカラオケで歌い倒れるか、ホテルで愛を囁くか。私はそのどれでもなかった。ただ影を追うだけ。生産性が無く、意味を成さない行為。しかし、私も、過去に生きていた人類も、無意味な行為をし、それに縋ってきた。理由なんてものは特に無く、強いて言えば、この影を追った先に何があるのかが知りたかった。それだけだった。

 影は何処までも駆けていった。追い始めてから何時間経ったか分からないが、少なくとも駅を五つほどは移動しているのだと思った。繁華街の大通りから、横に逸れた薄暗い小道まで。色々な道を通った。そして遂に、影が建物に入っていった。その時の私は疲れていて、追うので精一杯だった。それは大きな建物だった。その建物を外から見上げてみる。それは駅だった。

 不夜城ふやじょうの喧騒と打って変わって、駅構内には誰も居なかった。伽藍堂がらんどうの駅に、ICカードが触れる音がよく響いた。

 足を進める。キーンコーンといった駅特有の音が、場を支配する。電光掲示板によると、この時間の殆どの電車は回送で、他の電車が来るまでは四半時しはんとき程の時間があった。

 私はエスカレーターに向かった。止まっていたが、私がタラップを踏むと同時に動き出した。ウィーンという無機質な音を常に立てながら、エレベーターは私を上へ運んだ。

 早朝のホームに人は居なかった。始発までの二十分間、回送電車を見送って時間を潰すことになった。

「二番線、回送電車ガ参リマス。黄色イ線ノ内側デオ待チクダサイ」

 私は黄色い線を踏んで歩いた。目線は足元に、電車には目もくれず。十両、十五両、十両、十五両、十両、十五両、十五両、十五両、十五両。ホームドア代わりのマークを数える。横では貨物列車がシュンシュン音を立てながら走っていた。気が付けば、黄色い線はL字に折れ曲がり、それはプラットホームの終わりを表していた。

 黄色い線の外から駅の外を覗く。冬の朝はまだ暗く、空を見れば星が見えそうであった。

 プラットホームの中ほどまで戻り、ベンチに腰掛ける。私は今から死ぬ。死ぬべきである。それは決定事項であり、変えられない事実であった。

 遠くから電車が来る。指で摘める程の大きさのそれは、段々と大きくなって、ホームへ迫ってくる。



 もし、あの鉄塊とキスをしたら、私は楽になれるのだろうか。



 それは雑念、よこしまな考え。でも、唯一の救い。暖かい人肌よりも、冷たい土のベッドを、と。

 結論は既に在った。前から燻っていた気持ちのブレーキが壊れる。

 ベンチから立ち上がる。前方二メートルの楽園へ向かう。後一歩といったところで止まる。後一歩で、だ。

 電車が近づく。行け。行け。前に行け。

 行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け行け

 足が震える。呼吸が荒くなる。死が迫る。電車はホームの端に着こうとしていた。

 その時、ゆったりと体が傾いた。重力に身を任せ、落下を始める。ゆっくり、ゆっくりと動いているようだが、私にはあまり分からなかった。ただ、私がホームから出てしまったことだけが確かだった。何に押されたのか、引かれたのか、それは分からなかった。電車がさらに迫ってくる。その鋼鉄はゆっくりと近付くが、私に触れる気配は無かった。風が吹く。そよ風のような優しい風。冷たい朝の厳しい風。髪を撫で、そのまま向こうへ飛んで行く。消えてゆく。無くなってしまう。それは人間関係、思い出、物、命、何もかもの全て、私を構成するもの全て、この鋼鉄の塊に触れ、そして霧散むさんしてしまう。私は何かを残したのだろうか。お腹の子を勝手に巻き込んで、身勝手に死んでゆく。それは大罪。中絶の徒過とか。殺人。罪の無い子を堕ろすこと。どうして一人で死ねないのか。どうして他者を巻き込んでしまうのか。どうしようもない思考の反芻はんすうは熱を帯び、そして循環する。鋼鉄が触れる。冷たい。熱異常を起こした私の頭を冷やす。正面向かいのホームに居る影がわらっている。ああ、あの子が私を。そう納得した。手を振っている。手を振り返そうとしたが、右手は動かなかった。既に私の手は電車にくっついてしまっていた。そんなことを考えている内に、あの子は消えてしまった。思えば、私の人生は何のためにあったんだろう。何も成し得ないくせに、ただ浪費して、無駄にして。そうして残ったものは何だろう。私は何を得たのだろう。私の手は、何を握っているのだろう。私の手は、黒鉛の希望で汚れてしまった。それが今、赤い血に染まろうとしている。血で滑って、何も掴むことが出来ない。ああ、罪だ。それは罪だ。二度と消えない罪に罪を上書きして、最初の罪を忘れようとして、忘れられなくて、忘れるためにまた罪を重ねて、バカみたいな循環。輪廻。どうしようもない、償えない罪。お腹の子には何も罪なんてないのに、ここで死んでもらうことになってしまう。私との心中、私の我儘。あの子は消えてしまった。死んでしまった。そっか、あの子は私の子なんだ。そう確信した。あの影は、あの子のあり得た未来を表していて、それを見ていた私は、そんな未来を望んでいたんだった。本当は、私も、あの子も死にたくなかった。死んでほしくなかった。あの子となら、たとえその関係が「二人二脚」だったとしても、私は良かった。そう、私は頭が悪く、誰の期待に応えることも出来ない人だ。そんな私は死ぬべきだ。そう思っていた。贖罪しょくざいには、私の全てが必要だと思っていた。でも、もし生きてていいとしたら。誰かに許されるとしたら。私が許すことが出来たら。私は叫ぶ。私は生き





 シュン



              シュン



      シュン



                          シュン



                                   シュン




 -fin-

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二人二脚 氷雨ハレ @hisamehare

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