首無し恭子さん

@hashi5845

首無し恭子さん

 今日はたまたまいつもより早く起きて、仕事の都合で母さんも父さんもいつもより一時間も早く家を出て、だからどうせなら僕も同じ時間に出て、いつもより三十分も早い電車に乗って、ただでさえ早い方なのにいつもよりずっと早く学校に着いた。

 普段はまばらだけど人がいて、教室の中で本のページをめくる音や、ペンがワークの上を走る音、スリッパと床とが擦れるような足音とか、誰に遠慮するでもなくなんとなく潜められた話し声とか、そういうものが控えめに廊下に響いたりするのだけど、それすらもなかった。なんだか知らないところに来たような、にも関わらずひどく落ち着くような、妙な心持ちになった。

 廊下の端に位置する自分の教室に着いて、少し動きの鈍い引き戸を開ける。いつもどおり背負った鞄がクラスメイトの机をずらさないよう注意して前から二列目の自分の席に行き鞄をおろし、そのまま前を向く。自分の左斜め前の席に顔のない人間が座っていた。


 えっ。


 一度下ろした顔をもう一度上げ凝視する。いや、顔がないというのには語弊がある。顔だけでなく、首から上がすっぽりそのままなくなっているのだ。体が硬直してしまって動けない。指先ががたがたと震える。口が酸素を求めるようにはくはくと開閉する。そのままで数秒固まっていると、その首の上の方が半分捻られた。一拍遅れてその人間がこちらを振り向いたことに気づく。喉に変に息が通った感覚がした。そこでまた気づく。そいつはうちの制服を着ていた。女子のものだった。目の前のそれがくるりと半身を曲げてこちらを向いた。

「あれ〜、昴じゃん。珍しいねこんな早い時間に。おはよ〜。」

「えっ、あっ、きょ、恭子?」

 おそらくそれが発した声は、間違いなく中原恭子のものだった。恭子は僕の小学校からの同級生で、明るく少々能天気なただのクラスメイトだ。少々変わったところがあるが、無論顔がないだなんて妙な特徴はなかった。顔はあったはずだ。僕の目がおかしくなってしまったのだろうか。僕が固まったままでいると恭子は肩を落とし首を前に僅かに傾けた。ため息をつく仕草をしたのだろうと察せられる。

「なーに?そんな朝から化け物でも見たような顔して……あっ。」

 恭子は腰掛けている椅子の背に肘を乗せ、手のひらを上に向け、首をそこの少し奥に置こうとした。がくりと体が傾く。頬杖をつこうとしたのだろうか。顔は本当にそこにないらしかった。

「そうだ!忘れてた。私今化け物なんじゃん。いや〜ごめんそれはびっくりするよ。」

 ぐっと体をのけぞらせる。今彼女に顔があったら、そのアーモンドみたいな形の目をつぶって肩までくらいの結ばれた髪を揺らして笑っていることだろう。顔がないのにどんな表情かわかって、なんだか妙な気分になった。恭子は胸の前で手を合わせて首をこちらにひねった。どこか愉快そうな声音で言った。

「私ね、顔なくしたの。」

「顔……」

「うん。顔ってか頭?気がついたらこうだったの。まあ不思議と日常生活に支障はないし。なんともないし。だからそのまま学校来ちゃった。」

「ど、どこでなくしたんだよ。」

「それわかってたらなくしたって言わないね。」

 それもそうか。顔をなくしても尚なんの変化もない恭子に何と言葉をかけるべきか迷っていると、恭子が首をぐっと伸ばして僕の後ろに向かって手を降った。

「あ!みっちゃんおはよ〜。今日は三番だよ。昴が早く来たから。」

「へえー珍しい……はぁっ!?」

 みっちゃん、こと春川美沙希は教室に入るや否や驚愕の声をあげた。あはは、と恭子は声をあげて笑った。


***


 恭子はその後教室に入ってきて驚愕の表情を浮かべるクラスメイト全員に同じ説明をして、一限目の初めに教卓の右横で先生と生徒全員に向けて改めて説明をして、そこから普段どおりの一日が始まった。誰かがもっと彼女の首がない状況を気にしてくれていれば、僕ももっと気兼ねなく気にすることができたのに。まるで普段と何ら変わらないかのように授業はなんの滞りもなく進んでいく。首を上げたり下げたりする首だけの恭子が視界に入るたびノートを取る僕の手が止まり、それに何故かひどく焦燥を感じた。


「恭子、それどうなってんの?」

 休み時間になった瞬間、恭子と僕と同じ小学校の美沙希が恭子の席まで行って彼女に声をかけた。

「それ?って何が?」

「や、首よ首。本来乗ってるべき頭が無くなったその断面。喉に肺や胃に続く管でも空いてたりすんの?」

 美沙希は悪びれもせず恭子の首について好奇心の赴くまま問いただした。デリカシーが足りていないんじゃないかと思う反面、僕がなんとなく恭子に気を使って踏み込めない部分をズケズケと聞けるところは羨ましいと思ったし、ありがたいとも思った。二人の方にちらりと目を向ける。何も気にしていないような態度の美沙希の目には確かに心配が浮かんでいた。そんな美沙希の様子に気付いているのか気付いていないのかはわからないが、恭子は普段となんの変わりもないように答えた。

「あ、気になる?見てみて。ちょっと不思議なことになってるから。」

恭子は首を山折りにするように前に倒した。下を向いたのだろう。美沙希の後ろではたくさんのクラスメイトがさり気なく恭子の首の断面に視線を向けている。自分もこっそり見えるところに移動してちらりと覗き込んだ。

 穴が開いていたりそこから喉の内側の様子が見えたりすることはなく、ただの腕やただの足のように、恭子の首の断面はなんの変哲もない肌に覆われるのみであった。正直僕はこれに少し、いやかなりホッとした。覗き込んでおいてなんだが、異性の友人である恭子の、いや例え恭子と僕が同性の友人であっても、普段ただ親しいだけの友人の口内というか体内だなんて、そうそう覗くのが許されていいような空間とは思えなかったからだ。恭子ががぱっと首をもとに戻して、ちょっとだけ肩を跳ねさせた。美沙希一人に見せているつもりでいたのに、後ろに大勢の野次馬がいたから驚いたんだろう。悪いことをしたなとひとり頬をかく。

「ふーん……妙なつくりになったもんだ。」

「そうなの。皮膚が新しいからかな、ちょっとここの皮膚、他のところと比べてすべすべしてんの。」

「喉か気管だか開いてたら百均かなんかで造花でも買って、それ突っ込んで花頭にしてやろうと思ってたのに……」

「この一時間でなんて恐ろしい発想に行き着くんだ。死ぬよ私それたぶん。むせて死ぬよ。」

「バラとか華があっていいじゃない。花だけに。」

「喉穴だらけになって死ぬよ……」

恭子の首を撫でなから悪びれもせず続ける美沙希の様子に、恭子は軽く首を前に曲げた。わざとらしくため息でもついたんだろう。恭子の首の断面は本当にただの肌だった。繋目も凹凸もなく。まるで昔からそうであったかのような、あれが自然の状態であるような、元々あの上に何かが乗っていただなんて不自然にも思えるような。

 恭子はこちらを見ていないのに、僕が恭子を見ていただけなのに、なんだかいたたまれなくなってたまらず目を逸らした。体の奥の芯が冷えて、肋骨の間を隙間風が通り抜けるような心地がした。


***


 二限目になって、三限目になって、四限目になって、昼休みになって……二日目になって、それから三日目の今日になっても、恭子の頭は依然としてそのままだった。もう恭子の首のことは校内全体で共有されているようで、恭子がわざわざあの説明をすることは早くもなくなっていた(恭子と廊下ですれ違って二度見する生徒は絶えないけど)。

 今日も僕は少し早めに学校に向かった。いつも乗っていない時間のバスなので美沙希がいるんじゃないかと思ったけどいなかった。いつもどおり登校していつも通り階段を上る。教室の扉を開けると、恭子の机のそばに立つ美沙希と、その机の影にかくれるようにしゃがみこんでいる恭子がいた。頭は今日もなかった。

「……おはよ。なにしてんの二人共」

「あ、昴。あんたここんとこ来るの早くない?美術部の集まりかなんかでもあるの?」

「昴おはよ〜!今日暑くない?冷房つけちゃだめかな。」

 僕が聞いたことをガン無視して各々喋りだしてくる。仕返しがてら二人の言ったことは軽く流して、もう一度同じことを聞いた。

「なにしてんの?特に恭子。そんな隠れるみたいにして。」

「隠れてんのよ。」

 美沙希がこちらを横目で見てから返事する。恭子がそれに続けた。

「今日ね、電気か蛍光灯かの点検があるらしくてね。なんか管理会社の人とか来てくれてるらしくて。全然私のこと知らないわけじゃん?教室に顔なし人間がいて腰抜かしちゃったら嫌だよねぇ。」

 それで久しぶりに恭子のこの状況が異質であったことを思い出した。何を返していいかわからなくなって、そっか、とだけ返して鞄を自分の机のそばに置いた。二人はそのままくだらない会話を続けている。道にかたつむりがいたとか古典の教科書忘れたとか今日のお弁当は何だとか社会系の科目全部家に置いてきたとか。いくらなんでも教科書忘れすぎだろ美沙希。学校に何しに来たんだ。

 教科書を机に入れ授業の準備を進めながら、僕は密かにある覚悟を決めていた。唇を舐めて濡らして唾を飲み込む。二人の会話が途切れた瞬間に口を開いた。

「恭子さ、それ、目とか見えてるの?」

美沙希がこちらを振り返った。確かに、目が雄弁にそう語っている。これは僕にとって、教室で首のない恭子をひと目見てずっと気になっていたことだった。目がないのに恭子はしっかりとこっちを見据え、きちんと周りの言葉に耳を傾ける。それがどうにも僕には気になって仕方がなかった。新しく買った本棚を組んで、組み終わったところで予備とは違うネジが転がっていたときのような。

 これは僕個人がただ気になっているだけの、完全に自分本位で好奇心だけの問題だ。だからこれを恭子に聞くのをだいぶ躊躇ったし、聞くと決めて覚悟を固めたのは昨日の夜からだった。何かに祈るような思いでうつむけた顔をわずかに上げて薄目で恭子を見た。

 恭子は首を少しこちらにひねった。

「見えてないよ。」

 っはぁ?僕と美沙希の言葉がハモる。僕を見ていた美沙希は直ぐ様恭子の方を見た。恭子は何でもないかのように続ける。

「いやいや、頭もなければ目もないし耳もないんだしさ、見えないし聞こえないよ〜。」

 絶句。その一言に尽きた。じゃあなんでそんな会話ができて普段となんら変わらず過ごせているんだよ。声も出せずに間抜けに口を開けて恭子を見ていると、恭子は腕を組んで首を下に曲げた。悩んでいるらしかった。言葉を手探りで探している最中のような歯切れの悪さで話し始めた。

「なん、……かね。見えないし聞こえないし匂いもわかってないんだけど、今どんな具合かはなんとなく察せられるというか。どんな景色で、昴やみっちゃんがどんな表情でどんなことを言ってるのかが情報としてそのまま入ってきて、そのまま普通に情報として処理される、というか……なんていえばいいんだろ〜!」

 恭子は後ろに手を伸ばして伸びをした。手が横の机に当たってガンと音をたてる。いった!恭子はそう言ってぶつけた手の甲を擦りながらまた話しだした。

「うん、うまく言えないけど、本当にそうなんだ。視神経や鼓膜を通じて伝えられてた情報が、そのまま脳に直接来てるの。だから、顔があって目を使ってたら見えてなかったであろう角度の情報とかも見えたりして、ちょっと焦る。」

「な、なるほど……?じゃあどうやって喋ってるの?」

「これも本当は喋ってるんじゃなくて……言おうとしたことがそのまま伝わるというか……だから周りがうるさくても聞こえるし、逆に周りに音がなくても伝わらないようにすることができるの。まあこれはここ数日の実験での推測だから、全然正しくないかもしれないけど。」

「因みになんでそんなことできるの?」

「それは今私が一番知りたい情報だよみっちゃん。」

「そりゃそうか。」

 しゃがんでいた恭子は組んだ腕をそのまま自分の机において、突っ伏す要領で腕に首を乗せた。

「そう……案外ね、今のところ頭が無くなったことによって生きていけない、なんてのないんだよね。ご飯も水も、そもそも食べたいって思わなくなったし。髪をアイロンする時間もなくなって、おかげで朝随分早く支度が終わっちゃう。」

そういえば恭子は髪が長かった。ロングというほどでもないけど長くて、たしかしょっちゅう縛っていたような気がする。

「飲食が体に不必要になったってこと?」

「うん。まあまだ不必要なのかどうかはわからないけどね。本当は必要なのに接種する術も欲求もなくて、気がついたらとっくにエネルギーが枯渇してて手遅れ〜とか逆に笑え……ごめんよ二人共そんな怖い顔しないで。」

「今日点滴受けに行くわよ。決めた。いま決めた。」

「ごめん!もうこんな冗談言わないから〜。」

 しばらく二人はじゃれ合っていたが、満足したのか自然にさっきの立ち位置に戻った。恭子がポツリと呟く。

「まあでも本当に……緊急性を感じないんだよね、顔を戻すことに。流石に遠足と身体測定までには戻したいけどね。」

「優先事項よりにもよってその二つなのかよ。」

「や、考えても見てよ。文字通り頭一つ分身長が減っちゃうんだよ!なかなか切ないでしょ。」

「頭の重さって五キロくらいらしいわよ。」

「えっ……」

「何ちょっと揺らいでるんだよ。」

 美沙希と二人で顔を見合わせて、同時にため息をついた。こんな状況で、当人にこれだけ危機感がないってあるかよ。恭子は廊下の方に一瞬首を捻った後、ゆっくり立ち上がりながら言った。

「まあさ〜……どこにあるのかはわかんないけど、消えたんじゃなくてなくしただけだからさ、どこかにはあるわけだから。もし道とかにぽつんと丸いものが落ちてたりしたら教えてよ。もしかしたら私の首かもしれないから。」

「認識軽すぎじゃない?ヘアピン落としたときとは違うのよ。」

「えへへ……カラスやイタチのおもちゃになってたりしてね。」

 またも二人でため息をつく僕と美沙希を見て、恭子は笑った。確かに笑っているとわかった。


***


「恭子ってどんな顔してた?」

 恭子の首がなくなって一週間。二、三限目の休み時間に美沙希に呼び止められた。美沙希には変わらず頭も顔もついていたが、表情から今彼女がどんな感情なのかは読み取ることができなかった。僕が首をかしげると、美沙希は踵を返して彼女の席に戻っていく。後ろをついていくと、美沙希は机の中からスマホを取り出して、近づく僕の目線上に画面を掲げた。美沙希や、恭子や、その他数人の女子が楽しそうに笑っている写真だった。同じ高校に行かなかった子も写っていて、服装や背景の様子からして秋頃に撮影されたものらしかった。不思議に思いながら一人ひとりの顔を見ていくと、途中で明らかな違和感に気づいた。

「……これ。」

「昨日なんとなくスマホの写真の整理してて。それでよく見たらこれだよ。良かった。別にわたしがおかしくなったわけじゃなかったんだ。」

 画面中央下に、薄手のマフラーを巻いた恭子が写っていた。手をピースさせて楽しそうにはしゃいでいるのが伝わってきた。が、問題は顔にあった。確かに顔は写っている。でも、はっきり見えない。認識できない。恭子の顔部分だけにうすいモザイクがかかっているようだった。もちろん美沙希はそんな悪趣味な加工はしない。見えるはずなのに認識できない。これじゃ恭子がものを見てる仕組みと逆だななんてつまらない現実逃避が頭をよぎった。

 美沙希はスマホを僕に見せるのをやめて画面をスクロールし始めた。

「昨日の夜、数学の課題放り出して写真アプリ見てたらこうなってて。嘘だろと思って覚えてる限りの写真見たけど、全部こんなだった。小学校のクラス写真でもこんなだった。」

「そうか……。課題はしろよ」

「山センゆるいから後三日は粘れる。」

「ひでえ経験則だ。」

「だからわたし昨日思い出してたの。恭子の顔。……どんなだったっけ。どんな顔してたっけ。」

「どんなって、そりゃあ」

 ……どんな、どんな?不味い。恭子がどんな顔をしていたのか、全く浮かばない。どんな目だったか、どんな髪だったか、どんな輪郭だったか、どんな口でどんな鼻でどんな眉だったのか。記憶を辿ろうとしても、まるで彼女の頭だけにモザイクがかかったかのように、全く思い出せない。

「わ、なつかし〜。おととい……間違えた一昨年のやつじゃんそれ。」

「うわああああ!」

「ぎゃあっっ!」

 恭子が首を傾けて美沙希の肩越しにスマホを見る。びっくりした。シンプルにびっくりした。未だ収まらない動悸に心臓の当たりをおさえていると、恭子は納得したように「ああ。」と呟いた。

「そっか。見えないんだ私の写真。そういえばそうだったなぁって。」

「顔、なくしたから……?」

「うん。こういうことかって納得したよね、写真見たとき。なくなったから写真がこんなになっちゃったのか、それともこんなになっちゃったからなくしたのか、わかんないんだけどさ。」

 恭子の声はいつにもまして平坦だった。何を言おうか迷っていると、美沙希が叫ぶように声をあげた。

「……じゃあ、じゃあ!恭子の顔を正しく写せたら、恭子の顔はもとに戻るってこと?」

「えっ?いや、そうとは限んないけど……」

「昴!」

「はいっ。」

「似顔絵描いて!恭子の!」

「えっあ、はいっ。……え?」

返事をした瞬間に三限目の開始を告げるチャイムがなった。


***


 僕は美術部に所属している。得意なのは風景画で、絵は自分で言うのもあれだけどうまい。かといって、いやそんな自負があるからこそ、クラス全員に見守られながら描くのには流石に緊張する。

 美沙希が言うにはこうだった。きっと写真がこんなふうになったり、わたしたちが恭子の顔を忘れているのは、恭子が顔をなくしたことに引っ張られたからだと。だから逆にわたしたちが恭子の顔を思い出したり、恭子のちゃんとした顔を認識しさえすれば、恭子の顔も戻ってくるのではないかと。筋は通らないでもない説だと思った。試す価値は十二分にあるとも思った。だからクラスでも学年でもダントツで絵がうまい(美沙希談)(正直とても嬉しかった)僕が似顔絵を描くこととなった。指名手配犯の似顔絵のように、特徴を言ってもらって、それを元に描いていくという計画だ。で、それを昼休みに教室でやってみようとなって、それで席の前の方で向かい合う僕と恭子に、各々昼食を食べているクラスメイトの視線が自然と集まった。ちょっと恥ずかしい。こういうとき自分はつくづく小心者だと思う。みんなも思い出して恭子の顔のこと言ってよ、と美沙希が言っていた。

「ええっと……じゃあ、どんな顔してたかの特徴教えてほしい。なんでもいいから。」

 さっきまでざわついていた教室が一瞬のうちに静まり返った。えっ。教室の様子を横目で伺う。みんな斜め上を見たりじっと手元の弁当を見つめたりしていた。恭子の顔を本気で思い出そうとしていた。途端に、なんだかものすごく大きくて重いものが自分の肩に乗っかっているような気がしてきた。

 自分も記憶の箪笥をひっくり返すが、どうにも浮かばない。鉛筆を握る手に力がこもったのがわかった。時間が止まったんじゃないかというくらい静まり返った教室に音を持ち出したのは他でもない恭子だった。恭子のこれは音ではないらしいが。

「あのね、目はよくアーモンドみたいな形って言われた。だから私自分の目もアーモンドもすごく好きなんだよね。」

アーモンドみたいな目。鉛筆を動かすと恭子が更に続ける。

「鼻はあんま高くなかった。平べったくてさ、今はそんなことないんだけど昔はコンプレックスだったな。あ、輪郭。丸いってよく言われた。丸顔ってわけじゃないのになんか丸いんだって。意味分かんないよねこれ。あと唇はー」

 結局、その後も何か言ったのは恭子だけだった。全員が、何も言えないから何も言わないようにも、恭子の説明に聞き入って恭子の顔をなんとか思い出そうとしているようにも見えた。肩のものはより重くなったけど、鉛筆は今までよりずっとスムーズに動いた。


***


「できた……けど、これ。」

紙の上には言われた通りの、アーモンド型の目に高くない鼻に丸めの輪郭の、なんてことのない少女が描かれていた。僕は何も言わなかった。数人が席を立って完成品を見に来た。彼らも何も言わなかった。描けた。言われた通りのものは。でもよく考えたら当たり前のことなのだが、僕らは誰も恭子の顔を覚えていないから、これが正解かどうかなんてわからないのだ。恭子が席を立って覗きに来た。

「うわ〜!随分別嬪さんに描いてくれたね!え〜これが私か。いいな〜素敵。」

 まるで新しい好みの洋服を買い与えられた幼児がはしゃぐような声音で言った。悪い気はしなかった。でもそんな満足感に浸っている暇はない。意を決して恭子に聞いた。

「どう?それ。」

「え?めっちゃいいと思う」

「そうじゃなくて、恭子の顔なのかどうか。」

「わかんない。」

「ん?……ん?」

恭子はそういった。聞き間違いかもしれないと思ったが、振り返ったらクラスメイトがみんな似たような顔してこっちをみていたから、聞き間違いではなかったらしいとわかった。思わず大きな声が出る。

「わかんないのか?」

「わ、わかんないよ?確かに私は当事者だしみんなより覚えているものも多いとは思うけど、私も顔なくしてるのは変わらないからね!」

 この試みはどうやら失敗に終わったらしかった。自然と体が椅子の背もたれにもたれかかる。そうか、失敗か。目線を斜め上の天井にして、唇を噛んだ。ちょっと、いやここでちょっとなんて使うのもズルいか。かなり悔しかった。正しく描けなかったのもそうだし、恭子の顔を戻せなかったのもそうだった。恭子の顔が戻ってくるのを自分に期待していたのは、クラスメイトだけではなかったらしい。

「ねえ、昴。よかったらこれ私にくれない?」

 恭子が手から紙を抜き取った。

「もちろんいいよ。それは恭子のだし。」

「やった! ありがとう。」

 僕は恭子の方を見て、そして息を飲んだ。

「ふふ、本当にありがとう。とっても嬉しい。大事にするね!」

 満面の笑みの恭子が一瞬いた。少なくとも僕の目にはそう映った。どんな顔かは分からなかった。矛盾している。それでも、とびきりキャンバスに映える幸せそうないい笑顔ということだけは、僕の中で確かだった。


***


 恭子の顔がなくなって十日目。恭子の顔だけを残して、僕たちの日常は完全に戻っていた。

 今の時刻は午後四時二十二分。大概の人は帰っているか部活に行っているか学習室に行っているかをしている時間だ。美術室に着いてから筆箱を教室に忘れたのを思い出して、急いで教室に向かっていた。

 教室につくと、あの日の朝みたいに恭子はじっと前を向いて静かに座っていた。僕が来たのに気がついて、あの朝みたいにゆっくり振り向いた。

「あれ?昴じゃん。どうしたの。」

「筆箱忘れて取りに来た。恭子は?」

「みっちゃんが山田先生に数学のわかんないとこ聞きに行ってるからそれ待ちー。」

「あいつ提出物出さねえくせにそういうとこ真面目だよな。」

「ねー。昴は今何やってんの?美術部で。やっぱ風景画?」

「あー、うん。今は複雑な建物の練習がてら、エッフェル塔とかビッグ・ベンとかの名所をスケッチしてる感じ。」

 あれ以来密かに似顔絵の練習もしている、とは言わなかった。

「えー!いいね!完成したら見せてよ。」

「いいよ。……恭子は暇じゃないの?今。スマホも触らず座ってるだけじゃん。」

「今は暇つぶしにこの夏休みどうしよっかなって考えてたの。年中影になってるトンネルとか、危ないって言われてる雑木林の入り口とかに佇んで、入って遊ぼうとする悪ガキを脅かして懲らしめつつ夏の怪談として名を馳せるのもありかなって。」

「そんな、化け物でもあるまいし。」

「へ?」

 恭子の首がこちらに改めて向けられる。

「私、人間?」


 思わず息を呑んだ。首ないのに生きてるよ。私。恭子はそう続けた。時間が止まった気がした。まさか恭子にそんなことを言われるとは思ってもいなかった。

 恭子の声からはなんの感情も読み取れなかった。恭子が言ったのにはそこまで深い意味はなかったのかもしれないけれど、僕はそう言ったことを軽く後悔すらした。

 ああ、そうだ。あのときに似ている。何も考えずに好きに落書きをしていたら、誰かに「なんでここはこう描いたの?」みたいに聞かれたときのような。責められているなんてことは断じてないのに、意味のない行為が意味のないままなのがどうにも後ろめたく感じてしまい、なんて言っていいか悩むまま結局当たり障りのない返事しかできないような。僕は気がついたら俯いてしまっていた。

 でも、この問いにはそんな微妙な答えで返してはいけない気がした。数分にも感じられた一秒の熟考の末、なんとか口を開けた。

「恭子は人間だよ、そりゃあ。」

「ほんと?」

「首がなくたって僕には恭子がどんな表情してるかわかるもの。」

 今この瞬間に限ってはわからないけど。心のなかで付け足してから続けた。

「どう思ってるとか、どんな表情してるとかを表すのなんて、案外顔だけじゃないもんだよ。身振り手振りとか、首だけの動きでもよくわかる。」

 恭子は何も言わない。

「顔が無くなったって、恭子は恭子ってわかるよ。動きの癖とか、立ち姿って、思ったよりその人間や人となりに則ってるもんなんだって恭子見てて気づいたし。だから、顔なんてその人間がどんな人間なのかが現れる要素の一つにすぎなくて、だから……」

 言いたいことがこんがらがってきた。言いたいことは確かにあるのに喉につっかえて出てこない。半ば混乱してきた僕を見て恭子が小さく笑い声を漏らした。

「なにそれ〜、頭がないのに生きてるんだよ私。生物学的に流石に頭はあったほうがいいでしょ。」

「いや、そう、いや〜それはそうなんだけど……」

「まあ昴が言ってくれてることもなんとなく伝わるよ。ありがとね。」

 恭子はそう言って立ち上がる。振り返ると数学のワークをもった美沙希が走ってきていた。

「じゃあ昴、また明日ね〜。」

 恭子は手を振って帰っていった。


***


 美術室に戻って、昨日描いたエッフェル塔のスケッチを完成させて、今は似顔絵の練習も兼ねて石像の顔をデッサンしながらさっきの会話を思い出していた。不意に4Bの鉛筆が右手から滑り落ちる。慌てて拾いに行くと、見覚えのない新聞紙に包まれた丸い何かが転がっていた。鉛筆をポケットに入れてからそれを拾い上げる。そこそこ小さくない。かさ、と新聞紙が音をたてる。不意に恭子の言葉がよぎった。


「まあさ〜……どこにあるのかはわかんないけど、消えたんじゃなくてなくしただけだからどこかにはあるわけだから。もし道とかにぽつんと丸いものが落ちてたりしたら教えてよ。もしかしたら私の首かもしれないから。」


 ……まさか。まさかね。そうは思いつつも新聞紙を剥く手は止まらない。新聞紙を貼ってあるセロテープを剥がし、剥がした新聞紙を床に落とし、夢中で包みを暴いていく。手が白いものにあたる。最後の新聞紙を少々乱暴に剥ぎ取って床に落とした。

 そこにあったのは、ただの顔だけの石膏だった。過去の先輩にはこんなふうに石膏を使って作品を作っていた人もいたと聞いたことがある。ふうと息を漏らした。知らず知らずにうちに息を止めてしまっていたらしい。安心して、今度はゆっくり丁寧に包みを戻す。ふと見上げると棚の上に不自然なスペースがあった。ここから落ちたのだろう。背伸びをしてそこに戻す。

 安心して椅子に戻って、続きを描くために石像に向き直る。ーーそこで、僕が恭子の顔を忘れていて、正しくても正しくなくても僕にはわからないことを思い出した。

 棚の方をみた。ここからは角度的にあの石膏は見えなかった。目をよく確認しなかったから、アーモンドのような目をしていたかは分からなかった。

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