鈴木さんの宿題が終わらなかった。世界は滅んだ。

青のり磯辺

鈴木さんが世界を滅ぼした。

「早瀬くんなら、どうやって世界を滅ぼす?」


 意外だった。鈴木さんがこういった戯れを嗜むとは、と。

 授業に関係ないものはみんな遠くから見ているだけ、そんな人だった。


「隕石一択」

「なんで?」

「最後に人類総出でギャーギャー言うのって、なんか、思い出って感じで良くない?みんな一緒なら怖くないし」


 高嶺の花が世俗に興味を示している。応えなければ。

 俺は、この茶番に全力で乗ることを決めた。


「私なら、朝起きたら誰もいないって風にするかな。朝を迎えられないの。眠ってる間に滅びる感じ」

「……苦しくなさそうでいいね?」

「何でちょっと疑問系なの」


 鈴木さんはむくれた。感情を表に出してる様すら新鮮だった。


「俺はそうなってないし」

「そうだね。みんなまだ夢の中だけど、私とあなただけは起きてる」


 時刻は八時四十分。チャイムは鳴った。

 先生は入ってこなかった。


「世界は滅んだけど、私とあなただけは生きてる」


 教室に二人、世界にも二人。

 鈴木さんが世界を滅ぼしたのは、多分確かだ。そこそこ田舎とはいえ、電車が動かないのも、車一つ走ってないのも、何もかもが変な朝だった。


「ちなみにさぁ、何で世界滅ぼしたの?」

「宿題が終わらなかったから」

「そっか」

「うん」


 夏休み明け。こんな異常事態でも変わらず太陽は登った。エアコンも扇風機も沈黙するこの教室で、得体の知れないクラスメイトと熱を孕む風だけが涼を感じられる。

 全開の窓、そして青空と入道雲を背に鈴木さんは続けた。


「だから、教えて。あなたは何を描いたの?」


 宿題一覧。チェックボックスに並ぶまるでスタンプみたいなそれらが、ただ一つ埋めていないもの。

 __美術。「美しいと感じるもの」一作。


「美しいって。あなたは何に思ったの?」


 夏休みの最初の日に戻れるなら。俺は今日この時の鈴木さんを描いただろう。この悍ましい、火傷しそうなほど冷たい化け物を。

 蛍光灯一つ点かない薄暗い教室では差し込む太陽が眩しく思えて、その落差にくらくらした。


「……俺は、誰もいない廊下を描いた。学校の」

「へぇ、どうして?」

「それが美しいと思ったから」


 鈴木さんは黙って俺を見た。どうしようもなく喉が乾く。

 それでも喋り出せたのは、意地だったように思う。


「まず。俺は、設計には意図があると思ってて。学校って学び舎でしょ?じゃあ、先生も生徒もいない学び舎に意味ってある?それって死んでない?」

「……面白い考えだね」

「でさ。音のしない校舎に、息のない建物に、命が宿る瞬間ってあるんだ」


 彼女の目が、続きを問う。


「人が生活を営むとき。それは役目を全うさせて、血液を巡らせて、体温になる。学校って面白いよ。毎晩死んで毎朝蘇る。何百って命を飲み込んで、喧騒を鼓動にしてる。朝一に登校するとさ、なんて言うの、音のグラデーション?がさ、分かる。朝のチャイム前が一番うるさくて、その前に騒がしくなる予兆みたいなのがあって。生き返るときの、何度目かの産声が聞こえる。本来不可逆のはずのそれを何度も繰り返してる。……多分、それが美しいと思う。建物と人の関係ってやつ」


 長々と話したから、鈴木さんは何と言えば良いのか分からなくなったらしい。


「早瀬くん、いつも一番乗りしてるよね」

「全部このため。俺の趣味。学生生活で最も力を入れたことです」

「面接でそう言うんだ?」


 そう、話に関係があるようなことを返された。俺が変であることはよく理解しているので、ちょっと悪く思っておちゃらけて返した。それに、鈴木さんが笑いを含ませて揶揄うように零す。

 世界が滅んで二人きりになったからか、不思議なもので何も取り繕うことなく、本心を言えた。


「言うよ。胸を張って言う。良い表現はまだ見つかってないけど、この衝動が俺を作ってる一部だって思うから」


 そこで、ようやっと彼女の目が外れる。俺は肺いっぱいに空気を取り込んで、細く細く吐き出した。

 緊張感から解放された安堵。俺なりの答えは出せた気がする、そんな達成感。

 一気に話したからかどっと疲れに襲われて、机に突っ伏した。


「いいな」


 耳に入ったそれは、伝って心臓の裏側を引っ掻いた。変な音を立てて。

 俺は、顔を上げられなくなってしまった。

 鈴木さんのその声は迷子になった小さい子を彷彿とさせる。泣きたくなるのをぐっと我慢しているような。


「私本当は、宿題も全部終わらせられるんだ。けど、できなかった」


 何を、返せばいいか分からなくなった。机の木目しか目に入らないことが、酷く、心細く思えて顔を上げた。

 鈴木さんは窓の外を見ている。


「できなかったの?」


 だからそう。聞いたことをそのまま返した。

 天使が通る、なんてどこかの国では言うらしい沈黙。空気が肌に棘を刺すような感覚。

 コン。教室の時計が鳴る。あの時計が意外とうるさいことは、俺くらいしか知らなかったろうに。

 今、一人増えた。


「美しいものが千差万別であることなんて自明でしょ。自然なんて最たるもの。古今東西、どれだけそれをモチーフにした作品に溢れてるか」

「そうだね」

「だから。適当に、海か空か、花でも描けばよかったのにね」


 こういうとき、相手が俺に何を求めているかを考え出してしまうのは、きっと、俺の悪い癖なのだと思う。傷付けたくないからと言えば聞こえはいいだろうが、結局、自分のことしか考えられていないような気がしてならない。


「……ね」


 チャイムが鳴る。八時五十分。先生はまた入ってこなかった。


「早瀬くんさ。将来の夢、何?」

「建築士か、建物に関わってたいかな。それか食品サンプル作る人」

「食品サンプル?なんで?」

「お店の入り口で並んでる模型を眺めるのが好きだから。お米とか鰹節とか衣の隙間に埃があると最高に興奮する」


 うわ、と鈴木さんに距離を取られた。

 間違えたとは俺も思った。しかし仕方ない。言い知れぬ感情に昂ってしまうのは本当だから。


「私、将来何になりたいんだろう」


 投げやりに、背伸びしながら、極めて明るく。そうやって、鈴木さんは宛先のない言葉を漏らした。

 取り繕ってるのなんて見え見えだったけど、見なかったことにした。俺がこのとき思いついて実行できた、精一杯の気遣いだった。


「好きなこととできることで考えろってよく言われるけど」

「世界を滅ぼす人になっちゃうよ」


 世界を滅ぼす能力は、進路決定においてなんの有利にもならない。

 夢のないことだった。

 鈴木さんは俺が羨ましいらしい。好きなことが分かってること、進路決定が円滑に行きそうなこと。そんなことないと思う、とは言えなかった。俺はその言葉を飲み込んでしまった。

 鈴木さんは続ける。


「マラソンもシャトルランも、できなかった宿題も全部、なかったことにはならない」

「そう、なんだ」

「そうだよ。最後にはやる羽目になるんだ。そう分かってても、もしかしたらって思うから考えるのをやめられないんだよね」


 人間は、と。主語にそう付けられていたら、彼女への印象は最後まで、黒幕で元凶で、どうしようもない化け物だっただろう。

 でもそこには、進路に悩む、世界滅亡を望む、たわいない話に興じすらする、高校生が一人いるだけだった。


「さて、そろそろ終わりにしようかな」

「この世界を?」

「現実逃避をだよ。昨日の夜ぐらいに戻して、来るはずだった今日にする。……何か言い残したことは?」

「黒幕っぽい」

「それでいいんだね」

「待って待って待って」


 鈴木さんはちゃんと待ってくれた。だから俺も、ちゃんと応えたかった。


「俺さ、鈴木さんの能力羨ましいと思う」

「水泳の授業も体育祭も、文化祭でダンスするのも変わらないけど。いいとこなんてないよ」

「それでも。いいとこがなくても」

「本当に?」

「嘘なんてつかない」


 登校しただけなのに、とんだ我が儘に付き合わされてしまった。まあ、だが、しかし。楽しかった。

 俺も高校生だから。中身のない話が面白かった。


「きっと、死んだ世界に命が宿る瞬間って、美しいと思うんだ。それを感じ放題なのは、羨ましい」

「……多分、巻き戻るだけだから。生き返るって風にはならないと思うけど」

「それでも」

「そう」


 時刻は九時。チャイムが鳴った。

 一時間目は始まらない。


 あーあ。

 クラスメイトが秘密を明かした、夏休み明け最初の登校日。教室には二人きり。

 世界は滅んだ。__彼女の宿題が終わらなかったから。

 美しいものってなんだろう、なんて会話。


「めっちゃ青春っぽかったな」


 始まらないまま終わったけど。



 世界は、これで一度終わった。

 一人が知るばかりの八月三十一日はこれでおしまい。



 ふと思い立って、アラームを一時間早めて寝た。いつもより何本か早い電車に乗って、いつもより空いてる道路を歩いて登校した。

 エアコンはまだだった。暑い教室には、三台ある扇風機を全て独占する早瀬くんがいた。今日も一番乗りらしい。


「なんでこんな早いの?」

「朝一の教室が好きだから。……珍しく二番目だね、鈴木さん」


 世界に二人だけ。そんな特殊な状況でしか、長々と話したことがない人だった。

 早瀬くんはなんというか、掴みどころのない飄々とした感じのイメージがある。教室の隅でボケーっとしているような。なのに友達は多い、不思議な人だ。


「ねえ、早瀬くん」

「うん?」

「世界滅ぼすなら何推し?」


 早瀬くんは変人だ、と思う。

 静かな校舎が好きで、騒がしい校舎も好きで。食品サンプルを眺めるのが好きで。


「隕石一択」

「いいね。賑やかになりそうで」


 鞄を開けて、中身を取り出して、机にしまっていく。それだけを、できるだけなんでもないように。

 できていただろうか。


「世界滅ぼすなら動機も重要じゃない?」


 意外にも、彼はこういったおふざけに乗るタイプで。


「じゃあ、宿題が終わらなかったから。どう思う?」

「青春の匂いがする」


 やっぱりちょっと変な人。


 彼の目から見た世界は多分、私の見る世界と違っている。色か、音か、温度か、何かが。


 それできっと、美しいのだろう。


 だから。

 明日も早起きしてみようと思った。

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鈴木さんの宿題が終わらなかった。世界は滅んだ。 青のり磯辺 @t1kuwa_1sobe

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